◎正当な理由による書き込みの削除について:
管理人の生島英之(福岡市西区)です、宜しくお願いします。

邪馬台国畿内説 Part414 ->画像>22枚


動画、画像抽出 || この掲示板へ 類似スレ 掲示板一覧 人気スレ 動画人気順

このスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/history/1546683723/
ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。

1◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:22:03.94
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1546483540/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:23:14.99
韓国人。

3日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:23:38.73
1は韓国人、、、

4◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:23:47.44
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

5◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:24:05.55
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

6日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:24:14.74
>>1ひゃっはぁぁぁ

7◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:24:22.61
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

8◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:24:41.28
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

9日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:24:54.59
>>1ひゃっはぁぁぁあ

10◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:25:03.19
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

11日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:25:23.81
>>1は韓国人、、、

12◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:25:26.79
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

13日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:26:06.40
>>1は韓国人、、、

14◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:26:17.09
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

15日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:26:39.29
>>1は韓国人、、、

16◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:26:47.10
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

17◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:27:10.63
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

18◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:27:32.91
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

19◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:27:53.16
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」

20◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:28:16.08
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III   ●箸墓、権現山51号、ホケノ山
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

21日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:28:34.20
412の>>958
大和説に証拠なし
なぜならもはや邪馬台国は存在せず
結論先にありきで、大和にならなくてはいけない、
という事になってしまっているから

22◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:28:37.57
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

23◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:29:17.78
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。

24◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:29:43.56
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)

25日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:29:44.94
韓国人

26日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:29:59.51
412の>>965
一番頭が悪いし、「南→東」などの嘘つき騙しなのは、
お前ら大和説者らだら。

27◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:30:07.19
◆FAQ 3−2
(承前)
◆FAQ
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

28日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:30:11.27
は韓国人、、、

29◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:30:31.55
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

30日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:30:49.80
>>1は韓国人、、、

31◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:31:01.44
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

32日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:31:16.81
>>1は韓国人、、

33日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:31:20.93
412の>>966
谷本計算の意味や正しさや、大和説者らのインチキ振りを、
大和説が宣伝してくれているから、
ラクだな。

34◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:31:26.95
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

35日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:31:34.53
>>1は韓国人、、

36◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:32:34.93
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

37日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:32:37.38
412の>>968
証拠根拠の一切ないの大和説は、
説というより分裂幻覚の妄想。
儒教思想というよりは、
「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」と、
「人種差別殺戮戦争狂の・・・・キョクウ」から生まれた狂気た。

怖い怖い。日本はまた殺し合い戦争をする国になっていく。

38◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:33:03.86
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

39◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:33:29.42
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

40日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:33:41.27
>>1は韓国人、、

41◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:33:56.35
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

42◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:34:17.08
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。

43日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:34:34.57
>>1は韓国人、

44日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:34:36.44
>>979
キョクウ戦争狂の安部自民や、
文部省や右翼マスコミや学会教育界らの思いつきの、
日本の歴史を書き換えてやれという妄執 。
それに取り付かれて気が変になったとしか思えない書き込みをし続ける大和説者。
一度大戦で破滅して肉体は滅んでも、唯我独尊殺人狂の魂は生き続けるとは、
まさにこのこと。
邪霊と化した明治天皇やヒトラーらの魂は、いまだに辺りをさ迷い歩いている。

45◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:34:41.43
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。


◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。

46◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:35:09.17
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

47◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:35:33.53
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

48日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:35:40.43

49◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:35:54.69
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等

50◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:36:17.21
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。


◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。

51◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:36:52.54
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。

 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

52日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:37:12.39
邪馬台国畿内説は破綻した、、、

53◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:37:13.84
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。

54◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:37:43.20
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。

 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。

55◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:38:05.85
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

56◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:38:29.23
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

57日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:38:57.59
邪馬台国畿内説は破綻した、、、

58◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:39:04.32
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

59◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:39:28.39
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

60◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:39:49.07
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

61◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:40:09.11
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。

62日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:40:16.26
邪馬台国畿内説は破綻した、、、

63◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:40:31.91
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

64◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:40:54.11
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

65◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:41:17.81
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。

66◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:42:03.14
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。

※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

67◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:42:25.34
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

68日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:42:40.38
アワビ美味い

69◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:42:47.00
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

70◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:43:09.93
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

71日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:43:09.85
412の>>1000
大和説そのものに何の史料根拠もねークセに・・・。
妄想→言い訳→妄想→言い訳→大和節。

72◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:43:33.15
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

73◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:44:07.72
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

74◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:44:30.99
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

75◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:44:51.28
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

76日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:45:12.09
詭弁ばかり数十レス続きます。

77◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:45:15.95
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

78◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:45:39.17
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

79◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:46:02.65
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

80◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:46:25.70
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

81◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:46:47.62
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

82◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:47:11.45
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)

83◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:47:34.81
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

84日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:48:09.36
クソスレ

85◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:48:12.56
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地で

86◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:48:38.53
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

87◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:49:21.82
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

88◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:49:45.04
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

89◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:50:08.38
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

90日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:50:26.98
>>77
亥年でも
大和説は
馬と鹿

91◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:50:33.85
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

92◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:51:08.06
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) 邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。

93◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:51:34.06
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

94◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:52:22.31
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

95◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:52:50.85
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。

96◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:53:11.61
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

97◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:53:37.53
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

98◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:54:02.76
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。

99◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:54:33.45
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

 古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。

100◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:55:04.64
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

101日本@名無史さん2019/01/05(土) 19:55:27.24
>>83
“長里”論はお遊びだから、相手にする必要はない。
長里論者は、対馬の間の千余里と末盧國〜女王之所都だけしか議論の対象にしないアホどもだ。
相手にしないのがいい。

102◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:55:32.47
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

103◆UiepmfCeDJqf 2019/01/05(土) 19:56:14.84
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし

104日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:01:29.01
413の>>98
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説はいろいろ主張するが、
理由は決して言わない。
主張の根拠は聞かれても答えない。
もちろん証拠は絶対ださない。
そして聞く人を罵倒して黙らせようとおいう努力だけをする。

それが大和説だ。

105日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:05:08.54
413の>>99
掲示板や5chに、大和説者が、
「南→東」などの嘘つき騙しを、山ほど書き込みするのも良くわからん。
しかもとっくに論証済みの古い話ばかり。

106日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:07:44.09
>>104
>>105

という証拠は?

107日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:13:53.81
>>961
そもそも、大和をヤマトと読むのはどういうわけなのかね。

108日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:18:14.11
>>58
では、千余里の距離は1里434mで計算するのがよいと思うが、どうか。

109日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:22:21.39
413の>>101
>周髀算経が周初の書物だと主張するなら、
お前らのいう短里は66.8メートルになるんだよ<

この「類スレ主」の大和説男は、
まだ自分の論の欠陥が判っていないような、アホだな。
谷本計算は、地面と太陽光線とが作る角度とから、地球表面でのその角度の為す距離を求めて、
それから一寸差を発生する地上距離を計算して、千里≒76.5kmを算出したんだから、
地上での「8尺棒と地面とが作る直角三角形」の寸法など、
全く関係なく計算しているもの。
つまり、一尺=10寸であろうと、1尺=8寸であろうと、何の関係もない。
という事。
つまり、類スレ主は、「アホ踊り」を独演しているだけ。

>周尺は1尺=10寸=約20センチだ 1尺=8寸ではない <

周髀算経では、1尺=10寸での計算がされていた。
これは、どうやらスレ主も判っていなかったようだ。
漢文も読めずに、適当解釈でデタラメを書き続けるのが、、スレ主ら大和説のデフォルト。

110日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:26:44.21
413の>>102
>そして聞く人を罵倒して黙らせようとおいう努力だけをする <

これ、
事の真偽と関係なく、大声で相手を圧倒した方が勝ちとかいう、科学とは無縁の、
とある「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観人種差別殺戮戦争狂」の大和説主義者の、
伝統的なやり方らしいよ。

111日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:27:35.27
>>109
数学も弱いんだね
16/80と14/64でタンジェントが同じだと思うかい?

孫に教えてもらいなよ

112日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:29:12.51
周髀算経では1尺=10寸での計算がされていたということはつまり後代に作られた偽書
九州説風に表記すれば×書という事か

113日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:29:27.62
>>110
「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観人種差別殺戮戦争狂」の大和説主義者
とか大声で叫んでばっかりいる人は、誰?

114日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:30:31.08
>>29
臺は、中国中古音でドイと発音したとする学者がいる。
濁音のド音と清音のト音ではまったく異なる。
邪馬臺(ヤマドイ)が、ヤマトの音写とは考えられない。
山門は、現在、ヤマト、ヤマド、ヤマカドの読みがあるが、邪馬臺(ヤマドイ)はヤマドの音写の確率が高い。

115日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:34:30.84
>>112
周悲惨経ってさー、秦代に書かれた書物の題名とかシッカリ書いちゃってるからね
周代の書物じゃないことは昔から確定してんのよ

116日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:37:52.38
>>114
山門のトは甲類

117日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:38:25.33
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

118日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:45:29.68
だから一万二千里は陳寿の筆法だよ
おまえら春秋の筆法から勉強しろ

119日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:53:13.18
413の>>104
>庄内式期を3世紀前半とすれば、
土器の凸部の特徴が3世紀後半直後には失われていたとしても問題は生じない。<

無意味な話。
同じ筑紫での「土器の凸部の特徴」の、3世紀前半か後半か?なんて、
筑紫内の大和各部族での差異、という事で幾らでも説明が付いてしまい、
問題にする価値がない。

>それを3世紀後半後葉の古墳から出土し始める三角縁神獣鏡と合わせようとすると、
祇園山の築造時期を3世紀末とすることになる。<

これも、根本的に、
「冢と前方後円墳とでは、冢の方が古い形態だ」という事を失念した話。
また、△は、筑紫では「志登」の△が最も古形であった筈。
そして、墓に副葬される、という事は、その△の製造は、その墓よりも古かった、という事を示す。
だから、那珂八幡は卑弥呼の墓の冢よりは後であり、
志登や祇園山の△は、3世紀前半頃の製作であったんだろう、という事になる。

120日本@名無史さん2019/01/05(土) 20:56:12.51
>>119
>これも、根本的に、
>「冢と前方後円墳とでは、冢の方が古い形態だ」という事を失念した話。

失念じゃなくて、アナタの珍説を誰も認めないだけ

121日本@名無史さん2019/01/05(土) 21:04:26.30
筆法なんてのは恣意的解釈と同義だわ

122日本@名無史さん2019/01/05(土) 21:09:04.33
墓や土器に形式があって年代が分かるように
古鏡にも形式があるからそこをすっ飛ばして議論しちゃいかんよね

123日本@名無史さん2019/01/05(土) 21:09:33.84
>>121
>筆法なんてのは恣意的解釈と同義だわ

はっきりしてるのは
会稽東冶の東には日本列島がない
ってことだよ

124日本@名無史さん2019/01/05(土) 21:13:32.45
413の>>113
違うな。
「大体」を付けたり「有効数字1ケタ」とするのは、
あくまで史料事実や史料実態に沿った説明をするため。

勿論そのような説明を、極論断定したり、曖昧に曲解するのを好む、
「類スレ主」のような人もいる。

125日本@名無史さん2019/01/05(土) 21:21:45.72
>>124
そんなこと、誰が決めたの?
また、ザラコクの理由ナシ独断決定?

126日本@名無史さん2019/01/05(土) 21:26:31.10
>>114
>臺は、中国中古音でドイと発音したとする学者がいる。
>濁音のド音と清音のト音ではまったく異なる。

上古音は推定しかないのは仕方がないけれど、邪馬臺の上古音は
(g)ia[v]g-mar-d(e)g、または、(g)ia[v]g-mar-t`(e)g、または、(g)ia[v]g-mar-di(e)g

(e)は曖昧母音だから、雑に片仮名に直すと
ヤマドゥ、または、ヤマトゥ、または、ヤマディゥ

濁音もありくらいだよ

127日本@名無史さん2019/01/05(土) 21:45:54.31
>>126
倭人伝掲載の情報が魏本国に報告されたのは3世紀前半。
ほとんど中古音が始まる直前にあたる。
上古音ではなく、中古音を用いるのがよいと思われる。
臺はドイの発音がよい。
ヤマトのトは、臺(ドイ)に当たらない。

128日本@名無史さん2019/01/05(土) 21:49:33.15
臺(ドイ)って誰の説?

129日本@名無史さん2019/01/05(土) 21:57:29.01
413の>>125
>(「余」の有無問題)架空であれば、全てドンピシャ数値を記載する筈なのに、<

>このように 自分の思想や信条で決めつけるばっかりで 絶対に証拠を出さないのが
九州説だな <

このように、何が問題点であるのか?の都合の悪い論点を伏せて隠して、
「余」が付いている里記載と「余」が付いていない里記載の混在や、
「余」という文字は、計測データからの近似的表現になっていて、
形容詞的な使用や引用断定では殆ど使わない、
という人類の常識が判らず、
自分の思想や信条で決めつけるばっかりで 絶対に証拠を出さないのが
大和説者であり、類スレ主らだな。

130日本@名無史さん2019/01/05(土) 21:58:34.69
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

131日本@名無史さん2019/01/05(土) 22:19:35.20
自分が人類代表と思い込んでて滑稽だな

132日本@名無史さん2019/01/05(土) 22:34:10.70
>>127
臺がtaiと発音されるのは、中古音の後半になってから。(学研漢和大字典)
ト→臺(tai)が成立するのは、3世紀よりずっとあとになってから。
3世紀前半頃の臺はdai、あるいはdoiなので、邪馬臺はヤマダイ、あるいはヤマドイが妥当。
邪馬臺→ヤマトとするのは、3世紀前半では妥当でない。

133日本@名無史さん2019/01/05(土) 22:35:48.50
413の>>132
>短里なしで説明できるし<


史料実態は、周髀算経などや魏志などは、短里での記載。

>短里なしの説明の方が合理的<

6倍位も違う距離説明の長里は、不合理。

134日本@名無史さん2019/01/05(土) 22:42:29.50
413の>>133
>魏志倭人伝の帯方より南1万2千里が指すのは
会稽東治の東で沖縄台湾あたり<

会稽東治は、
257年に会稽郡から分郡された臨海郡を指すから、揚子江周辺から江蘇省の海岸付近であり、
その「之東」は九州島付近を指す。

>という事は1万2千里は邪馬台国を示してる数字じゃなくて
短里で書いてるわけでもなくて 特に九州北部を指してないと<

だから、陳寿は短里を使っており、この類スレ主男の長里説は、×。

135日本@名無史さん2019/01/05(土) 22:49:36.34
>>136
>こういう主張のはずなのに、奴国の比恵那珂遺跡群が邪馬壹國の首都圏だとか言い出すから
矛盾だらけのカルト説なんだよな 自爆しすぎww <

奴國は、伊都国の東南百里の近距離(日向峠西麓〜早良平野)にあるのに、
それを比恵那珂付近に4〜5倍の遠いところに比定するから、
類スレ主は、自爆し過ぎであり、・・・・と呼ばれる。

136日本@名無史さん2019/01/05(土) 22:56:15.99
>>137
>>日数記載は、萬二千余里の里数記載関係がないから、×。<

>こういう自己都合の文献無視をしないと論立てすらできないのが九州説ww<

勿論、不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わっているんだから、
その後に書かれた日数記載は、里数とは関係がなくなるんだし、
伊都国と邪馬壹國への「至」の前に途中移動の説明文言がない事でも、
至の後に書かれた日数記載は、里数とは関係がなくなる。

137日本@名無史さん2019/01/05(土) 23:07:05.58
>>148の追記
>それだと會稽東冶の東くらいに倭地がある <

会稽東治は、257年に会稽郡から分郡された臨海郡の海岸付近になるから、
江蘇省海岸付近になり、その之東は、ほぼ九州島になり、
陳寿の位置推定が合っており、
大和説者らの「沖縄台湾説」は×になった。

138陳寿90度回転さん2019/01/05(土) 23:12:01.16
長里だろうと短里だろうと、帆柱のある大型の中国船で30日(投馬国20日+邪馬台国10日)も航海したら、
九州をグルッと一周して末盧国まで戻って来ちゃうよ。少なくとも鹿児島は通り過ぎちゃうでしょ。
鹿児島を通り過ぎてその先どこに行くんだ?と。放射読みで投馬国の方が遠いと言うのも無理あり過ぎ。

いずれにせよ行程については、陳寿90度回転で無事奈良盆地に着くと言うことで解決ですよ。

139日本@名無史さん2019/01/05(土) 23:13:33.52
>>154
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
邪推、忖度、イタコ芸 すべてコレだな

大和説に証拠なし

140日本@名無史さん2019/01/05(土) 23:16:50.85
後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな?

141日本@名無史さん2019/01/05(土) 23:18:21.00
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日(一万里余)
帯方郡から投馬国(宮崎県)まで水行20日(郡使は行ったことがないから距離は不明)

142日本@名無史さん2019/01/05(土) 23:20:29.92
>>158
>ほら、また証拠が出せない九州 いっさい説明も出来ない九州説
だれが信用してくれるの、そんな説<

ほら、また、自分からは「相手の指示」には絶対従わず、
相手を紹介を知らん振りして「証拠が出せない」とヘイトスピーチ宣伝をして、
いっさい説明も出来ない大和説 .

だれが信用してくれるの、そんな説

143日本@名無史さん2019/01/05(土) 23:23:27.39
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

144日本@名無史さん2019/01/05(土) 23:24:34.05
>>161
何があっても、全て「証拠の提示転写」を要求し続けて、
自分からは絶対確認に動かず、
一切証拠は出さない、出してはならない

それが大和説

145日本@名無史さん2019/01/05(土) 23:31:18.09
>>141
>帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日(一万里余)
>帯方郡から投馬国(宮崎県)まで水行20日(郡使は行ったことがないから距離は不明)

帯方郡起点の水行はないと何度言えばw

前スレの最後でも話題になっていたけれど、投馬国は道里戸数略載の女王国以北の国
邪馬台国福岡、投馬国宮崎では投馬国が南になる

連続読みで投馬国から南(実際には東)に水行しないと、陳寿の認識に合わない
帯方郡起点の水行二十日は「九州説のご都合」読み

146日本@名無史さん2019/01/05(土) 23:32:14.15
>>165
>祇園山の多数の墓穴って墳丘の外だろ<

いや、墳裾だ、と言って来たよ。

>箸墓の墳丘のすぐ外はすべて田んぼに耕されたり民家が立ってたりして未調査<
つまり、比較できないものを比較したあんたは方法論間違い 残念だったな<

箸墓のような「急傾斜の墳裾」であれば、そりゃ、土砂が崩れたり流されたりしたら、
墳裾の殉葬であれば、すぐに露出して発見されるだろうねえ。

147日本@名無史さん2019/01/05(土) 23:38:38.91
>>168
>「余」という「計測値からの近似」を示す文言があるから、<

>べつに「計測値からの近似」を示す文言でも何でもない
ザラコクの個人的イメージだろ <

いや、「余」を付けている里数記載もあれば、付けていない里数記載もあるから、
魏使らや陳寿は、何らかの区別や判断をしていることになる。
そのように考えるのが人類の常識。

148日本@名無史さん2019/01/05(土) 23:46:59.05
>>178
>祇園山集団墓地は4世紀初からだよ<

ダメだ。
明確な冢であり、高級女官を含む62人以上の殉葬があり、百余歩が一致し、
土師器古い方(=庄内)が出土し、筑紫の△が出土ししているんだから、
最低、卑弥呼の頃であり、3世紀中ごろだ。

149日本@名無史さん2019/01/05(土) 23:57:38.98
>>179
>いちばん古いであろうK1が四世紀初頭だからな<

甕棺のK1の成人女性は、「鏡片」を付けていたから、
卑弥呼(か壹與?)からの下賜の鏡片であり、
その女性が殉葬しているんだから、3世紀中ごろであり、
甕棺の年代比定の突然の断絶比定からしても、
発掘報告者の詐術的な詐欺性は明らかだ。

150日本@名無史さん2019/01/06(日) 00:10:03.32
>>148
>百余歩が一致し、

一致しない
短歩などない
歩は複歩
実際の大陸の度量衡でもすべて複歩の長さ

長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ
(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺

周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更)

ザラコクはよく「止」が二つだから歩いてないとかいうが
元はこういう字だぞ
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
下側は「止」じゃないだろ?
足跡の象形を整理するときにこの形のなっただけで止まるという意味はない

151日本@名無史さん2019/01/06(日) 00:14:30.39
スレ立てを待てないザラコクがいかに自己中であるかよくわかる

スレ立てを妨害する連続句読点がいかに悪意の塊であるかよくわかる

152日本@名無史さん2019/01/06(日) 00:29:23.25
それこそ儒教精神に溢れた鮮人気質の九州説

153日本@名無史さん2019/01/06(日) 00:45:28.08
朝鮮式儒教は悪意と狂気の塊に他ならない

154日本@名無史さん2019/01/06(日) 01:32:23.53
>>128
郭錫良

155日本@名無史さん2019/01/06(日) 02:02:02.82
>>923
>>904
>>ダメとか言って、おまえ何様なんだよ。

>>904と違って自分に都合のいい文章だけ読んでる情弱じゃないってだけだよw

>>「至」と「到」が同じ箇所で同文か同区で使われた文章で、
>>全く同じ意味に使われている例は一例もないよ。出せるもんなら出してみろよ。

>はいよ
>旧唐書 巻41 地理志嶺南道
>至京師陸路一萬二千四百五十二里,水路一萬七千里,至東都一萬一千五百九十五里,
>水路一萬六千二百二十里。東至大海一百五十里,南至林州一百五十里,西至環王國界八百里,
>北至愛州界六百三里,南至盡當郡界四百里,西北到靈跋江四百七十里,東北至辯州五百二里。
>九コ 州所治。古越裳氏國,秦開百越,此為象郡。漢武元鼎六年,開交趾已南,置日南郡,
>治於朱吾,領比景、盧容、西捲、象林五縣。

>全く同じ用法の中で、一か所だけ到が使用されており、使い分けはないと言える

>出したよ?
>これで文句ないなww

おかしいな。調べてみたら「嶺南道」は全然違う文章だけど。
どこにそんな文章あるんだ?
舊唐書/卷41 志第二十一地理四
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%88%8A%E5%94%90%E6%9B%B8/%E5%8D%B741

156日本@名無史さん2019/01/06(日) 02:07:12.28
>>154
中国人がカタカナで「ドイ」って言うわけないよな

157日本@名無史さん2019/01/06(日) 02:17:51.39
>>156
アルファベットでdoiと、いうたんか。

158日本@名無史さん2019/01/06(日) 02:30:00.29
当時のピンイン調べろよ

159日本@名無史さん2019/01/06(日) 02:34:19.96
>>145
>連続読みで投馬国から南(実際には東)に水行しないと、陳寿の認識に合わない

畿内説の都合に合わない、だろ

160日本@名無史さん2019/01/06(日) 04:38:09.93
>>155
>おかしいな。調べてみたら「嶺南道」は全然違う文章だけど。
>どこにそんな文章あるんだ?

嶺南道安南府の驩州だよ
漢文読めないなら無理するなよ

161日本@名無史さん2019/01/06(日) 04:45:10.70
>>159

九州各説でも帯方郡から水行は読んでないね
郡から末盧國まで水行10日なら、「南至」は途中で東に進んでるので
投馬国は半島西岸を南下した後どっちに進むのかまったくわからない
わからない投馬国を邪馬台国よりも前に書いている
水行二十日と水行十日陸行一月がじゃまでしょうがない
邪馬台国を福岡県にするためだけの読み方

162日本@名無史さん2019/01/06(日) 06:00:43.96
>>161
そらま、九州説の珍読が行き詰まった果ての涯てに最近発明された超苦し紛れ珍読だからな

163日本@名無史さん2019/01/06(日) 06:25:53.63
>>180
>>殉葬墓とされる墓穴が多数ある祇園山が、今のところ卑弥呼の墓の最有力候補なのは確かだ。<

>祇園山のは殉葬墓とされてない <

通説大和説の学会教育界に思考支配されて脳が虚弱になっている、
「南→東」などの嘘吐き詐欺師の発掘報告者の報告は、
信頼性が全くなく、根拠にならない。

>須恵器も出てる <

筑紫の遺跡からは、内倉報告に拠っても、
弥生時代から、灰白色の陶器と土器が混在出土している。
大和説学者は、信用性が全くない。

164日本@名無史さん2019/01/06(日) 06:29:56.52
>>182
>どうして? どこに埋めたとか書かれてないのに 埋めたかすら書かれてないのに<

張政らは、「余」をつけているから、実際に「見た」から、記録出来た。

165日本@名無史さん2019/01/06(日) 06:36:28.59
>>183
>須恵器は5世紀前半から。
その須恵器が出た墓は、後代のものととらえるのが良いと思う。<

後進地の大和では遅かったかも知れんが、
先進地で中国とのコンタクトがあった九州では、
当然中国の黒陶や灰陶を知っており、瓦式土器の製法も知っており、
吉武高木ですでに陶器が出土している。

166日本@名無史さん2019/01/06(日) 06:47:28.08
>>184
>つまり、殉葬墓というのがネックなんだな
現実には、ただの村の集団墓地だから <

祇園山の墳裾の62個の複数埋葬を含む小墓群は、
ほぼ同時期での、墳頂の主体に側面配置された一斉埋葬であり、
冢の建築時に既に上面カットが入った主体も存在しているから、
50年以上かけた集団埋葬ではない。
それに、100m位の地に「祇園山集団墓地」が存在しており、
だから、それを「50年以上かかった集団墓」だとした発掘報告者は、
詐欺師そのもの。

167日本@名無史さん2019/01/06(日) 06:50:07.17
>>187
>>今のところ、祇園山が卑弥呼の墓の最有力候補なのは確かだ。<

>3世紀の倭国女王墓である平原遺跡はどうするんだよ。<

おそらく、壹與の墓。

168日本@名無史さん2019/01/06(日) 06:52:43.19
>>188
ほらまたヘイトスピーチに逃げる、
「南→東」などのウソつき詐欺師の大和説者。
みっともないね
すごく

169日本@名無史さん2019/01/06(日) 06:57:04.19
>>192
>>普通、人が死んだら埋めることになる。
野ざらしにはしない。↔

>それ、誰が決めた?<

故人を悼む人類の常識が決めた。
大地や海などに返す。

170日本@名無史さん2019/01/06(日) 07:01:32.91
>>202
>村の共同墓地はよくある<

100m位離れた場所に、
祇園山古墳群という共同墓地が、別にある。

171日本@名無史さん2019/01/06(日) 08:00:01.55
>>124
何が類スレ主じゃ
類人猿のくせして

172日本@名無史さん2019/01/06(日) 08:10:57.34
>>134
臨海郡(りんかい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から唐代にかけて、
現在の浙江省南部に設置されたらしくて
場所的には台湾のちょっと上くらいでその東はやっぱり沖縄ぐらい
九州北部は指さないが

173日本@名無史さん2019/01/06(日) 08:17:10.05
>>159
行程がどこ指してたって別に構わない
たどり着く先は確実に邪馬台国ではないから

174日本@名無史さん2019/01/06(日) 08:22:19.80
この時期は州の方が一般的ではないのかね
三国志の表記では州の方が多いでしょ
郡なんて楽浪郡とか郡治のところしか使わんのでは

175日本@名無史さん2019/01/06(日) 08:33:08.49
>>174
なにが言いたいのか意味不明

176日本@名無史さん2019/01/06(日) 08:34:04.79
>>173
なにが言いたいのか意味不明

177日本@名無史さん2019/01/06(日) 08:34:32.64
>>165
>吉武高木ですでに陶器が出土している。

あんた、笑い者だよ

178日本@名無史さん2019/01/06(日) 08:41:43.58
>行程がどこ指してたって別に構わない
>たどり着く先は確実に邪馬台国ではないから

あんた、笑い者だよ

179日本@名無史さん2019/01/06(日) 08:41:44.59
>>176
なにが意味不明なのか
意味不明

180日本@名無史さん2019/01/06(日) 08:46:02.67
地理的範囲を示すのに郡は不適切ではないかってこと
三国志では行政単位で頻出するのは州や県で郡なんて出てくるのはあまり無いでしょ

181日本@名無史さん2019/01/06(日) 08:46:37.22
>>178
九州説の笑いのツボはわからん

182日本@名無史さん2019/01/06(日) 08:48:07.26
どうだろな
>>172はウィキを丸写ししただけだから

183日本@名無史さん2019/01/06(日) 09:14:05.64
>>180
そんなことないだろ
指すべき地理的範囲が広いか狭いかによる
例えば「会稽東冶五県賊」とかあるし

184日本@名無史さん2019/01/06(日) 09:35:24.71
>>160
>>155
>>おかしいな。調べてみたら「嶺南道」は全然違う文章だけど。
>>どこにそんな文章あるんだ?

>嶺南道安南府の驩州だよ
>漢文読めないなら無理するなよ

リンク先全部見たら「唐林」ってとこにあった。
一箇所使われてる「到」は「靈跋江」っていう川にぶつかってその先に進めないことを示しているから、その他の「至」とは意味が違ってる。
反例にはならないな。

唐林
長州土俗與九真同。唐置長州,失起置年月。
天寶元年,改為文陽郡。
乾元元年,復為長州。領縣四,戶六百四十八,無口及兩京道里、四至州府也。
文陽銅蔡長山其常皆與州同置。
驩州陳日南郡。武コ五年,置南コ州總管府,領コ、明、智、驩、林、源、景、海八州。
南コ州領六縣。八年,改為コ州。貞觀初,改為驩州,以舊驩州為演州。
二年,置驩州都督府,領驩、演、明、智、林、源、景、海八州。十二年,廢明、源、海三州。
天寶元年,改為日南郡。乾元元年,復為驩州也。
舊領縣六,戶六千五百七十九,口一萬六千六百八十九。天寶領縣四,戶九千六百一十九,口五萬八百一十八。
至京師陸路一萬二千四百五十二里,水路一萬七千里,至東都一萬一千五百九十五里,水路一萬六千二百二十里。東至大海一百五十里,南至林州一百五十里,西至環王國界八百里,北至愛州界六百三里,南至盡當郡界四百里,西北到靈跋江四百七十里,東北至辯州五百二里。

舊唐書/卷41 志第二十一地理四
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%88%8A%E5%94%90%E6%9B%B8/%E5%8D%B741

185日本@名無史さん2019/01/06(日) 09:41:37.33
>>183
狭い方が正確じゃないか?
それに魏志倭人伝も州ではなく郡で書かれているし。

186日本@名無史さん2019/01/06(日) 09:41:44.93
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

187日本@名無史さん2019/01/06(日) 09:58:31.59
会稽って超有名な山があるからそこは取り違えがない
いわば山と郡のダブルミーニングと思うけれど
徐州の緯度を示したいなら徐州って表記するんじゃね

188日本@名無史さん2019/01/06(日) 09:59:46.25
そもそもザラコクが臨海郡が会稽東治の事で
その東は九州を指すっつーデタラメが事の始まり
臨海郡の東も台湾の上辺りだからその東は九州の特に北部は指さない

189日本@名無史さん2019/01/06(日) 10:04:06.90
やっぱり九州を指しているのか。
畿内説が大崩壊だな。

190日本@名無史さん2019/01/06(日) 10:04:19.95
しかし九州説は何で邪馬台国を北部に想定しちゃったんだ
南部に想定した方がまだ頑張れる気がする

191日本@名無史さん2019/01/06(日) 10:06:02.21
>>189
臨海郡の東も指すのは台湾とか沖縄の辺り

192日本@名無史さん2019/01/06(日) 10:13:05.91
よし今日は九州説消沈
工作員が休み貰ったのかな

193日本@名無史さん2019/01/06(日) 10:17:56.88
>>184
>一箇所使われてる「到」は「靈跋江」っていう川にぶつかってその先に進めないことを示しているから、その他の「至」とは意味が違ってる。
>反例にはならないな。

それも単純な間違いだ
唐林は隣の福禄州
ここは驩州の四至を書いている

「東至大海一百五十里」
海にぶつかってその先に進めない

「西北到靈跋江四百七十里」
川にぶつかってその先に進めない
同じだ


漢文読めないなら無理するなよ

194日本@名無史さん2019/01/06(日) 10:19:24.18
九州南部だと埋葬品とか集落とかの根拠が崩壊するからな
考古学では九州北部を文献史学では九州南部を主張するのが九州説

195日本@名無史さん2019/01/06(日) 10:30:33.59
>>194
要するにチェリーピッキングでその場しのぎを続けているだけの状態なんだよ、九州説はw
そして苦し紛れのその場しのぎだから、九州説の中で矛盾しまくりww

196日本@名無史さん2019/01/06(日) 10:33:42.12
新しい発見も科学調査の結果も何も吸収せんのに
畿内説の方がよっぽど吸収説だよ

197日本@名無史さん2019/01/06(日) 10:33:57.74
帯方郡からの水行はないってことでいいな?
同時に北部九州説で、投馬国が宮崎都万・妻もない

これで九州説の流派が一つ潰えた訳だ

198日本@名無史さん2019/01/06(日) 10:40:47.58
まあザラコク辺りは絶対主張は変えないだろうけど

199日本@名無史さん2019/01/06(日) 10:41:21.55
>>193
>>184
>>一箇所使われてる「到」は「靈跋江」っていう川にぶつかってその先に進めないことを示しているから、その他の「至」とは意味が違ってる。
>>反例にはならないな。

>それも単純な間違いだ
>唐林は隣の福禄州
>ここは驩州の四至を書いている

>「東至大海一百五十里」
>海にぶつかってその先に進めない

>「西北到靈跋江四百七十里」
>川にぶつかってその先に進めない
>同じだ


>漢文読めないなら無理するなよ
至京師陸路一萬二千四百五十二里,水路一萬七千里,至東都一萬一千五百九十五里,水路一萬六千二百二十里。

海は
「至京師陸路一萬二千四百五十二里,水路一萬七千里,至東都一萬一千五百九十五里,水路一萬六千二百二十里。」
とある水路に含まれるから先に進めるんだよ。
川は渡河した先に目的地がないからそこでおしまい。
漢文は読めても頭は悪いみたいだな。

200日本@名無史さん2019/01/06(日) 10:41:28.23
文献でも筑紫の日向が伊都の周辺だとわかれば問題ない。
日中双方の史書が伊都を倭の王都としていることになる。

201日本@名無史さん2019/01/06(日) 10:41:49.72
まぁ会稽東冶の誤字をいいことに限界まで北へ移動させて、あまつさえ会稽郡の外の上海や蘇州に仕立てる計画も水泡に帰したしなぁ

もう九州説の生き残る道は無いでしょね

202日本@名無史さん2019/01/06(日) 10:49:15.54
>>200
そうだよね
かなりパズルのピースが埋まる

203日本@名無史さん2019/01/06(日) 10:56:02.04
伊都は1千戸
女王の都する邪馬台国は7万戸

204日本@名無史さん2019/01/06(日) 11:00:11.69
伊都の1千戸も魏略の方は1万戸になってるから
12世紀の紹熙本の間違いなんだろな

205日本@名無史さん2019/01/06(日) 11:14:09.73
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

206日本@名無史さん2019/01/06(日) 11:16:08.36
>>199
海を船で進めて川を船で渡れないと思うのか?
異常に頭が悪いのではないのか

207日本@名無史さん2019/01/06(日) 11:44:30.37
>>206
>>199
>海を船で進めて川を船で渡れないと思うのか?
>異常に頭が悪いのではないのか

物理的に進めるかどうかじゃなくてルート説明としては川でおしまいという意味だ。
海は先に京師あるいは東都までの水路があることが示されてる。

いずれにしてもこれを「至」と「到」が同じ意味に使われているという例とは認められないな。
他を見つけてくるんだな。

208陳寿90度回転さん2019/01/06(日) 11:57:58.94
投馬国から水行10日で船から降りて陸行1月に移るんだけど、この短い一文で興味深いのは、
投馬国から水行10日したところは別の国じゃないってこと。多分まだ投馬国。
そして投馬国に行く水行20日の間にも別の国はなく、投馬国の領域。
つまり投馬国は実に水行30日分、海岸沿いに広がっているということ。
そして投馬国は邪馬台国に対して友好関係にあるか、支配下にあると言うこと。
この投馬国が吉備王国か出雲王国かと言えば、領域の広さやその後の陸行の長さから考えて、出雲ではないかなと思っている。

209日本@名無史さん2019/01/06(日) 11:58:01.40
>>206
>海は先に京師あるいは東都までの水路があることが示されてる。

おいおい
東にあるのは「大海」だぞ
まさか「大海」渡って洛陽や長安に行くと思ってないだろうな

210日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:04:34.34
>>207
>物理的に進めるかどうかじゃなくてルート説明としては川でおしまいという意味だ。
>海は先に京師あるいは東都までの水路があることが示されてる。

そんな雑な理由でいいなら
南至盡當郡界四百里,西北到靈跋江四百七十里,
の前半は「南、当郡の境界尽きるところに至る四百里」でその先はないぞww
これと後半はまったく同じ意味だな?

つまり至と到には「意味の上での使い分けはない」訳だ
漢文が読めないと、自分の主張に合理性があるかどうかまったく分からないんだなww

僕ちんは認めないんだーって言い張る情弱で漢文の読めない人が一人いたところで、
至と到に「意味の上での使い分けはない」のは変わらないw

211日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:05:51.74
>>207
・・・ってか

北至愛州「界」六百三里
南至尽当郡「界」四百里
西北到霊跋跋江四百七十里
ですからね
「ルート説明」じゃないこと理解してね

212日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:09:16.94
日本のテレビなどがあるでしょ、
なぜ家の話ばかりしているのか?なんだよな・・・。

213日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:14:59.35
『松傾』こういう名前の家なんだけど、
歌舞伎が〜という話でしょ

あと探偵eyeというドラマ?
主人公がいるでしょ「りん、りん」と言っていたり、
妹の子供の名前と同じ


家の先祖の写真があるんだけど、
キュウリのようなものが写っていて、
河童?

数年前に信オンというゲーム内に作成したキャラ名と同じ、
「ラブリン」

214日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:17:22.16
『河童の三平』『げげげ』??探偵eyeという作品〜『ボーボボ』?

215日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:21:33.01
芸能の世界?
チンピラか何かだろうと言ってる人がいたり


なぜか人の家の話ばかり

216日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:21:52.79
>>53
カハチは河内であり、意味の分かる地名。
一方、ヤマトは意味が不明。
そのヤマト地方名の存在をたどれるのは、万葉仮名まで。
7世紀〜8世紀。
また、ヤマトが奈良の一地名に由来するという証拠はなく、奈良の一地名から発祥したというのは想像にすぎない。
さらに、カワチとヤマトが対概念の呼称であるとするのは根拠がなく、ヤマトが奈良オリジナルの古地名であるとするのは単なる想像にすぎない。

217日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:22:51.98
到其北岸狗邪韓國から先に進めなかったら、
倭人伝はそこで終ってしまう

218日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:26:06.49
7世紀〜8世紀以前にたどれる地名が書いてる文献って何?

219日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:27:06.04
>>216
カワチもヤマトも倭国(阿波)。  「忌部はん」 が畿内へ持ち込んだもの。  @阿波

220日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:29:10.91
311なども人工地震だと言ってるのに、

『ドラクエ』・・・
『サイバーパンクspecial』その他、ほとんど家の話

川崎区に住んでいると知ってる人がいたり

221日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:36:12.68
数年前の、とあるスレ


いつからストーカーのような事をしているんだ?
という書き込みをしている人がいたり

222日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:44:48.82
役を演じている人物、芸能人のことはしらないけど、
家は寺院に通っていたりしていたという話


本当の話でしょ
『松傾』?

223日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:47:22.20
九州説はボコられると途端に荒らしまくってスレ流そうとするね

224日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:49:38.71
>>218
そんな文献はない。
だから、カワチとヤマトが対概念の呼称だとする根拠はなく、またヤマトが奈良の一地名から発祥したという根拠もない、ということ。
ヤマトの呼称の意味が不明なのは、すでに学者たちが証明済み。
そのヤマトの意味が分かれば、あるいはカワチと対概念の呼称であるとすることも可能かもしれない。
とにかく、ヤマトの意味が分からんのだから、奈良発祥と断定するには根拠に欠けるというこだな。
九州の山門は、ちゃんと意味が分かる。
それにひきかえ、奈良のヤマトは…。

225日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:55:39.69
大阪平野の何処からでも生駒葛城山系はよく見えるんだな
奈良は正に山の向こう側というのがリアルに体験できる

簡単なこと
ヤマトは山外、山の向こう側という意味

山背は山の後ろ側

地形からつけられた単純な地名

226日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:56:04.75
うらしまマリン、
ウラシマン・・・その他、ほとんど同じ

いつからストーカーのような事をしているんだ?
と言ってる人がいたような


わかりやすく言うと家のストーカーでしょ、
漫画やアニメ、ゲーム・・・その他

227日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:57:19.69
>>224

無いならどの地名もだどれない
アイヌ語起源(地形)の地名は調べないとだいたい意味がわからない
仏教伝来(漢字)以降の地名なら現代でも意味がわかるだろう

228日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:59:17.98
>>208
投馬国は、薩摩。

229日本@名無史さん2019/01/06(日) 12:59:19.58
>>210
>>207
>>物理的に進めるかどうかじゃなくてルート説明としては川でおしまいという意味だ。
>>海は先に京師あるいは東都までの水路があることが示されてる。

>そんな雑な理由でいいなら
>南至盡當郡界四百里,西北到靈跋江四百七十里,
>の前半は「南、当郡の境界尽きるところに至る四百里」でその先はないぞww
>これと後半はまったく同じ意味だな?

>つまり至と到には「意味の上での使い分けはない」訳だ
>漢文が読めないと、自分の主張に合理性があるかどうかまったく分からないんだなww

>僕ちんは認めないんだーって言い張る情弱で漢文の読めない人が一人いたところで、
>至と到に「意味の上での使い分けはない」のは変わらないw

境界線もその先があるわけだから川で遮られているのとは違うな。
川はそこで終わり。

230日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:04:53.65
>>216
>また、ヤマトが奈良の一地名に由来するという証拠はなく、
>奈良の一地名から発祥したというのは想像にすぎない。

『和名類聚抄』に記される式下郡内の郷に
大和(於保夜末止)があり、これが大和の原地名

筑紫が筑紫野市大字筑紫
出雲が出雲郡出雲郷という小地名が発祥なのと同じ

231日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:04:58.89
記紀神話でも大国主とスクナヒコナが国作りを行なった際に、色々名付けたと書かれているだろ
言葉の統一を行なったんだろうな

232日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:07:27.65
>>224
>ヤマトの呼称の意味が不明なのは、すでに学者たちが証明済み。

それ簡単に紹介できるかい?
言えばいいってもんじゃないww

意味不明なことを証明するって、いわゆる悪魔の証明だから
原理的に不可能だぞ?ww

233日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:08:37.93
>>228
>投馬国は、薩摩。

それ、女王国以北に合わないんだけど?

234日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:13:38.03
九州北部は女王国じゃないんだろ
九州北部の国々は、一大卒支配下の女王国に服属する地や国というだけ

235日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:14:15.88
>>229
>境界線もその先があるわけだから川で遮られているのとは違うな。
>川はそこで終わり。

遮られているかどうかっていうのは>>229が持ち出しただけのイミフな勝手ルールww

郡の境界の外はないし、誰もその先へ行かないよ?

>>209>>211には反論しないのかい?
>>217には?

いずれにしても、九州説に主張する「至」と「到」の違い、
「到」は到着地を指すというのは完全に破綻している

「至」と「到」に意味上の違いはないんだよ

236日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:15:43.29
女王国に抗ったが武力の前に屈服したんだろう
仕方がないが立派なことだと思うよ
武力による支配に正義はないからね

237日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:17:18.98
調べてみた?
明治時代頃に作られた話(神話)があるんだよw
と言ってる人がいたり

テキトーに決めたのかな?
この人物が天孫〜とか

238日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:18:35.00
本当の話


家は畿内、九州の出身でもないと言っているし、

239日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:18:57.39
>>234
>九州北部は女王国じゃないんだろ
>九州北部の国々は、一大卒支配下の女王国に服属する地や国というだけ

これは>>233への返答だと思うけれど、投馬国を薩摩にしたらその南の女王国はどこになるんだ?

240日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:21:08.86
>>227
仏教伝来以降でも、ヤマトの呼称の意味は不明。
ヤマトが奈良の一地名から発祥したとするテンプレ主の主張は何の根拠もなく、単なる想像にすぎんということ。

241日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:23:18.96
>>239
当然、沖縄あたりだ。

242日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:26:25.63
>>236
>女王国に抗ったが武力の前に屈服したんだろう

九州説は支配とか征服とか屈服とか、強権的な言葉が大好き

畿内説の想定する倭国は葬送祭祀を統一する祭祀連合で、卑弥呼は共立祭祀王
征服王じゃないww

243日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:26:54.74
>>241
個人的には、そのほうが良い(あと、むかーしの北海道のほうとか)
だから応援してあげたほうが良いと言っているんだよ

244日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:28:11.53
>>232
ウィキの「大和」をみてみたまへ。

245日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:32:09.36
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

246日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:35:20.01
>>240

だから、古い地形を表したような地名は漢字じゃ意味はわからないと言っている

247日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:35:37.41
>>241
>当然、沖縄あたりだ。

それだと、陸行一月が不可能だな
沖縄辺りにでかい陸地がないから、沖縄説は唱える人がほぼいない

248日本@名無史さん2019/01/06(日) 13:40:20.22
>>244
>ウィキの「大和」をみてみたまへ。

ウィキペディアの記載は
『「やまと」の語源は諸説ある。』
なんだが?

>>224
>ヤマトの呼称の意味が不明なのは、すでに学者たちが証明済み。

とは、まったく違うなww

249日本@名無史さん2019/01/06(日) 14:09:10.63
いろいろ調べ、読んでみるといい、
なぜ詳しい人がいるんだろう

『天孫神話 明治時代』

250日本@名無史さん2019/01/06(日) 14:13:33.79
>>208
畿内説の考えることはまったく理解不能だな。
そんな詭弁では誰も納得しない。

251日本@名無史さん2019/01/06(日) 14:14:36.46
>>225
根拠のない妄想

252日本@名無史さん2019/01/06(日) 14:15:38.04
>>227
>アイヌ語起源(地形)の地名は調べないとだいたい意味がわからない

アイヌ語起源だとわかれば調べれば大体意味は通じるよ?

253日本@名無史さん2019/01/06(日) 14:17:01.23
>>230
和名抄にそう書かれていることは、承知している。
その「於保夜末止」の意味が不明だ、というてるわけ。
和名抄は平安時代に編纂された地誌。
8世紀の日本書紀などでは、すでにヤマトは奈良地方全体の呼称として用いられている。

城下郡のオホヤマト郷については、普通の郷名がオホヤマトで、そこから発祥した国名が単にヤマトというのは極めて不自然。
このオホヤマトの郷名は大和神社(おおやまとじんじゃ)にちなむものだろう。
天理市の大和神社は、元々は桜井市穴師にあったから、この大和神社が管掌した郷域がオホヤマトと呼ばれるようになった。
神社形式ができるのは仏教伝来以降なので、大和神社が建立されるのは7世紀以降になる。
その大和神社(おおやまとじんじゃ)の名をとって、その地域をオオヤマトと称するようになったのが和名称城下郡の於保夜末止郷だと思われる。
元々地名としてオオヤマト郷があって、そこに大和神社(おおやまとじんじゃ)が建てられたということはないだろう。
逆だろうな。

254日本@名無史さん2019/01/06(日) 14:17:13.15
>>237
>明治時代頃に作られた話(神話)があるんだよw

そうだね。
現代において「伝統」とか思われているものはほとんどが近世以降のものだ。

255日本@名無史さん2019/01/06(日) 14:18:26.13
>>240
>ヤマトが奈良の一地名から発祥したとするテンプレ主の主張は何の根拠もなく、単なる想像にすぎんということ。

同意。
テンプレは決めつけや妄想がひどい。

256日本@名無史さん2019/01/06(日) 14:20:05.45
>>242
>畿内説の想定する倭国は葬送祭祀を統一する祭祀連合で、卑弥呼は共立祭祀王

「まつりごと」って知っているかい?
統一した祭祀には統一した政治体制が必要なんだ。
古代は祭政一致が原則だよ。

257日本@名無史さん2019/01/06(日) 14:22:21.18
畿内の銅鐸祭祀はかわいそうなことをしちゃったな

258日本@名無史さん2019/01/06(日) 14:26:07.87
>>253
何の根拠もない憶測だけしかない

259日本@名無史さん2019/01/06(日) 14:26:46.26
畿内は独自の祭祀を捨て、九州北部の銅鏡文化に塗りつぶされるもんな。
それは祭祀も政治も筑紫の勢力の一部に組み込まれていったと言うことだ。

260日本@名無史さん2019/01/06(日) 14:29:06.63
>>253
追加
大和陣゛社の主祭神は倭大国魂神。
これはヤマトノオオクニタマ、あるいはオオヤマトノオオクニタマと読む。
つまり、神社名は祭神の神名にちなんでいることになる。
したがって、城下郡のオオヤマト郷は、神社名かその祭神の神名に由来すると考えるのが妥当。
地名からこの神の名が生まれたとは考えにくい。

261日本@名無史さん2019/01/06(日) 14:37:23.43
>>256
>「まつりごと」って知っているかい?
>統一した祭祀には統一した政治体制が必要なんだ。
>古代は祭政一致が原則だよ。

それを前方後円墳体制って一般に読んでるんだけど知らないのかい?
ただ、その体制は武力討伐で屈服させて作られたものではなく、
卑弥呼の共立によって談合で作られた体制だ

その祭政一致の体制に北部九州も参画している
九州のみの九州倭国など絵空事だとすぐに分かる

262日本@名無史さん2019/01/06(日) 14:40:42.13
前方後円墳体制は祭祀じゃないなあ。
なぜならほんの数百年で終了したから。

ずっと続いているのは銅鏡祭祀(三種の神器)だけだのう。

263日本@名無史さん2019/01/06(日) 14:43:02.34
なんもない湿地に絵空事

264日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:01:25.88
その前方後円墳に筑紫から来た銅鏡が大切に安置されていたのだから、その文化の主が筑紫の勢力であったことは明白だな。

265日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:01:53.72
後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな?

266日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:14:50.64
>>260
追加
ヤマトは奈良の一地名から発祥したという接は、根拠がない。
しかも、そのヤマトの言葉の意味が不明。
一方、九州の山門は、地名由来であることは間違いなく、その意味も明確だ。
なんで、奈良のヤマトの語義が不明なんだ?

267日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:19:24.75
>>260
土地神が土地の名前で呼ばれるのはごく普通のことなんだが何を言ってるんだ?
出雲大社の大国主神も、出雲大神と呼ばれているぞ?

268日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:21:09.08
>>248
だからよ、定説がないというとるの。
定説がなく、諸説紛々ということは、ヤマトの語義が不明ということ。
やまとはまほろば…のヤマトの意味を明確に現代語訳してみたまへ。

269日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:23:04.92
>>264
>その前方後円墳に筑紫から来た銅鏡が大切に安置されていたのだから

これが大嘘
3世紀には筑紫は銅鏡を新たに入手できなくなっている

平原1号墓出土鏡が、40枚中38枚が仿世鏡だっていうのをもっと深刻に考えた方がいいよww

270日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:25:50.85
>>225
君らのおかぶをとれば、外(ト)は甲類。
ヤマトに用いられているトの漢字はすべて乙類。
発音が違うから、山外はだめ。

271日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:25:57.14
>>269
悔しかったら銅鐸を副葬しておけ。

272日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:30:09.22
>>268
>だからよ、定説がないというとるの。

強弁であり詭弁だな

いろんな説があるというのは、いろんな由来が考えられるということで、
意味が不明と言うことにはならない

ウィキペディアさんの「倭」には
「また『日本書紀』では夜摩苔つまりʎia mwɑ də もしくはjia mo tʰaiと表記されていた。」
なんてことも書かれてるよ

邪馬臺は、ヤマドゥだって言ってる人がいるけど、日本書紀の万葉仮名がそのままヤマドゥだな

273日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:33:42.46
>>269
>3世紀には筑紫は銅鏡を新たに入手できなくなっている

漢がもう滅びているからね。
逆にいうと、平原遺跡が後漢が後漢存在していた2世紀ではなく、3世紀の卑弥呼の治世の王墓であることを証明しているな。

274日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:36:06.04
>>267

だから何だ?
大国ということは出雲からの分祀かもね。
畿内の文化の源泉は全て出雲か筑紫だろ。

275日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:37:36.80
>>247
薩摩から開聞岳まで舟で行って、そこから一気に屋久島まで漕ぎ渡る。
屋久島が倭人伝の上陸地点。
倭人伝の倭国の想定は、唐津から沖縄あたりまで続く巨大島があって、卑弥呼の都はその沖縄本島あたりにあり、狗奴国はその南にあるというもの。
これは、古代中国人の強固な観念。
そこに仙人の住む理想郷があった。
邪馬台国はその理想国にあったわけ。
一方、実際の倭国はどのあたりにあったかと、倭人伝のデータをよく見てみると、筑後の八女、筑後、柳川、瀬高、大牟田の範囲だろう。

276日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:38:28.72
>>271
短里なんてないんだよ?ww
奴国も伊都国も邪馬台国とは別の国

奴国と伊都国を除いたら北部九州に七萬餘戸の邪馬台国を置く余地はない
投馬国は戸数道里が略載された女王国以北の国だが、九州説では投馬国を置く場所がない

土器も前方後円墳祭祀も、畿内発祥のものをただ受け入れているだけの場所が
3世紀の北部九州

277日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:39:22.54
>>273
>逆にいうと、平原遺跡が後漢が後漢存在していた2世紀ではなく、3世紀の卑弥呼の治世の王墓であることを証明しているな。

なら、卑弥呼の家来の墓だね
しかも卑弥呼の生前に死んでるわけだな
もちろん魏に朝貢する前にね

278日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:39:57.05
そもそも記紀でさえ、倭国の王権は出雲から筑紫に移ったことを明記しているからね。
考古学的にもそれが確認できるだけのこと。
それなのに畿内畿内と叫ぶのは、どこぞの半島起源説とかわりばい無知厚顔で浅はかな発想だ。

279日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:41:08.47
>>277
三種の神器が出土した事実を無視しているね。

280日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:41:47.48
>>273
>漢がもう滅びているからね。

漢鏡とは言ってないw
銅鏡(舶載鏡)が入手できてないんだよww

>逆にいうと、平原遺跡が後漢が後漢存在していた2世紀ではなく、
>3世紀の卑弥呼の治世の王墓であることを証明しているな。

卑弥呼がもらった銅鏡100枚はガン無視かい?
史書の記述をご都合によって無視しないと何一つ書けないのがオワコン九州説

281日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:43:33.72
>>280
>卑弥呼がもらった銅鏡100枚はガン無視かい?

魏が押し付けただけだよ。

282日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:45:50.80
どう足掻いても銅鐸祭祀は消滅w

283日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:49:22.26
>>274
>大国ということは出雲からの分祀かもね。

残念はずれ。  倭国(阿波)の「倭大國魂神社」「倭大國敷神社」からの分祀だよ。


>畿内の文化の源泉は全て出雲か筑紫だろ。

畿内の文化の源泉は全て倭国(阿波)。  出雲や筑紫の文化の源泉も、全て倭国(阿波) と、何度言えばw  @阿波   

284日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:49:35.38
>>240
>ヤマトが奈良の一地名から発祥したとするテンプレ主の主張は何の根拠もなく、単なる想像にすぎんということ。

「ヤマトが奈良の一地名から発祥した」とか
テンプレに書いてないがな

一体なにに反論してるつもりなんだ

285日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:52:54.68
>>284

じゃあテンプレはのらりくらりと何十レスも何を主張しているんだ?
全く何を言いたいのか伝わらない、邪魔者だ。

286日本@名無史さん2019/01/06(日) 15:54:46.68
無意味にスレを埋めるクズを見ると情けなくなる。
筆頭がスレ主、その次がキナイコシ。
どっちもグダグダ言うだけで中身がなく不誠実。

287日本@名無史さん2019/01/06(日) 16:00:17.50
スレの趣旨から逸脱してるのは九州説論者全員だけど

288日本@名無史さん2019/01/06(日) 16:02:22.13
>>267
大国という一地名があって、そこの神として大国主神の名が生まれたということはないだろう。
倭大国魂は、天照とともにセットで祀られる神。
日本書紀や古事記にオオヤマトと呼ばれる地名は出てこない。
平安時代になって和名抄に現れる。
一方、大和神社(おおやまとじんじゃ)は692年にはすでにあるのだから、その大和神社のあるあたり一帯をオオヤマト郷としてくくったのが和名抄の於保夜麻止郷だろう。
大字・小字名でオオヤマトの地名があるのなら別だが、郷名ならあとからいくらでも名づけられるからな。
大和神社にちなんだ郷名と考えるのが合理的。

九州には、山門の地名はいくらでもあるぞ。
3世紀頃は、ヤマドと発音されただろう。
邪馬臺はヤマドイの発音だから、そのヤマドの音写だろう。
奈良のヤマトからヤマドイと音写されることはないしな。

289日本@名無史さん2019/01/06(日) 16:06:14.12
413の>>210の訂正
大和説者は、
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
史料事実の否定曲解という非常に悪質で狂気性の強い人種であり、
しかも、国民の7割もの反対にも拘わらず、
国家組織やマスコミや学会教育界も支配して国民、を騙そうとしているから、
黙過し難く、
それに対して、九州説者は、
きちんと史料事実からの帰納的確率的な推論をしており、
私との差異は、史料事実の解釈の微細な差異でしかなく、
十分許容の範囲内である。

290日本@名無史さん2019/01/06(日) 16:11:06.15
>>284
FAQは、テンプレ主が書いてるんだろ。
FAQ27をみてるとよい。
ヤマトは「オリジナルの古地名と考えるべき」と書いとるわ。

291日本@名無史さん2019/01/06(日) 16:18:06.87
主ももうなにがなんだか理解不能なんだろうw

292日本@名無史さん2019/01/06(日) 16:18:42.87
「ヤマトが奈良の一地名から発祥した」とか書いてないな

293日本@名無史さん2019/01/06(日) 16:21:31.56
すごく国語力不足の>>291
日本語の文章を理解不能なだけでは?

294日本@名無史さん2019/01/06(日) 16:27:22.32
>>272
いろいろ説があるということは、決定打がなく、みなそれぞれの想像で意味づけしてるということ。
残念だが、万葉集はみな乙類ト音。
日本書紀の苔もト音。
これまで、言語学者らは万葉仮名や記紀のヤマトはトとしており、ド、あるいはダとする学者はおらん。
臺もトの発音としている。
で、中国史書の邪馬臺はヤマトだとして、それは奈良のヤマトだと主張してきたもの。
ところが、ここにてきて、臺は上古音でダー、中古音でドイだという中国の学者が現れてきた。
では、邪馬臺がヤマダー、ヤマドイなら、ヤマトにはつながらんだろうというのが現在。
奈良のヤマトは邪馬臺とは別のものだ、ということになってきているのだよ。
お分かりか。

295日本@名無史さん2019/01/06(日) 16:35:21.72
>>292
ヤマトは「オリジナルの古地名と考えるべき」ということは、ヤマトは一地名から発祥したという意味だ。
遊びで書き込みしてるのならまた別だが、テンプレ主は真面目な論者だから、真面目にヤマトの言葉は一地名から生まれたものだと考えているわけ。
お主みたいに、遊びで書き込んどるのとは違うわ。

296日本@名無史さん2019/01/06(日) 16:40:51.46
べつに、なってきてないだろ?
「臺」の子音は古代中国語が濁音で後世に清音になってるというのがほぼ定説ってだけ
時代とともに中国語が変わって日本語が変わらないと決めつける人は少ない

297日本@名無史さん2019/01/06(日) 16:42:09.11
6000年前にはまだ沼地や盆地湖が残っていたことからすると

ヤン 陸へ上がる
マク 後、山手
ト  湖、沼、池、川、海

こんな感じだろう

298日本@名無史さん2019/01/06(日) 16:43:57.61
>>295
「一地名」と言ってない以上決めつけはいかん
九州説は「正しく引用する」という学問の基本から学んで人生やり直すのがいいと思うよ

299日本@名無史さん2019/01/06(日) 16:44:55.33
>>288
>一方、大和神社(おおやまとじんじゃ)は692年にはすでにあるのだから、その大和神社のあるあたり一帯をオオヤマト郷としてくくったのが和名抄の於保夜麻止郷だろう。

しかも白村江より前に遡れないといういつものパターンw

300日本@名無史さん2019/01/06(日) 16:57:19.95
>>286
>無意味にスレを埋めるクズを見ると情けなくなる。

畿内説のスレでクダ巻いてないで、
九州説のスレで思う存分好きなことを書いてくればいいじゃないか?ww

九州説のスレには、意味のある反論一つできない「大嫌いな畿内説のテンプレ」も
ないんだからさw

301日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:03:26.94
>>294
>日本書紀の苔もト音。

それ、現在の読みに引きずられているだけで、中古音で読めば
də もしくは tʰai だよ

万葉仮名をどの音で読むかというのは、いろいろな説があるけれど、
魏志倭人伝の倭地名、倭人名は、万葉仮名で読めばよいと個人的に思っている

「比売」は上代の読みでは「pime」なのだけれど、それが現代の姫の意味なのだから、
現代人は「ひめ」と読めば十分だと思う

302日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:05:11.90
>>288
>日本書紀や古事記にオオヤマトと呼ばれる地名は出てこない。

だから、大和郷も昔はヤマトの読みだったのが、倭が大倭、大和と変遷するのに
付き合っただけでしょ?

303日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:07:59.42
>>281
>魏が押し付けただけだよ。

九州説は、魏をありがたがるのか軽視するのか、統一してくれんかね?ww
とにかく、3世紀の舶載鏡が1枚もない時点で平原1号墓は卑弥呼の墓の候補からは脱落だよ
同じことは、祇園山古墳でも言えるけどねw
伝祇園山古墳出土鏡が、三角縁神獣鏡なんだからw

304日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:14:34.92
なんだそのルールは?w

銅鐸が無いんだから卑弥呼の墓だろw

305日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:15:27.72
>>298
>「一地名」と言ってない以上決めつけはいかん

詐欺師の論法ここに極まれり

306日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:17:28.35
>>303
>とにかく、3世紀の舶載鏡が1枚もない時点で平原1号墓は卑弥呼の墓の候補からは脱落だよ

漢の滅亡により、冊封ではなく自前で王権の象徴である八咫の鏡を製作したんでしょ。

307日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:20:35.30
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

308日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:20:58.91
>>303
>伝祇園山古墳出土鏡が、三角縁神獣鏡なんだからw

三角縁神獣鏡は卑弥呼より後の記念品みたいなもの。
邪馬台国を探すためには使えない。
明らかに平原遺跡の方が祇園山より古い。
しかし平原遺跡は漢の滅亡後、倭国大乱後の王墓であり、しかも被葬者は女性であり、八咫の鏡を含む三種の神器を持つ倭国女王。
卑弥呼以外の誰が該当するだろうか。
祇園山は壹與か誰かでいいよ。

309日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:22:02.66
>>295
>遊びで書き込みしてるのならまた別だが、テンプレ主は真面目な論者だから、真面目にヤマトの言葉は一地名から生まれたものだと考えているわけ。

何が真面目だ。
口先だけ達者で中身がない詐欺師だろうが。

310日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:27:12.89
>>305
出たよ罵倒屋九州説の常套技
理由も言わずに詐欺呼ばわりって
それが詐欺だろ

311日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:28:52.52
平原の勾玉はガラス製
自慢のガラス製耳璫のほうが大切な神器だったんじゃないかな
錆色塗装鏡含む鏡類は全部棺の外だから

312日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:34:32.17
413の>>241
>>Wikiで検索して探した記載だ。<

>まだウソついてる 「臨海郡とは、揚州を中心として、江蘇省から揚子江河口地域を含む地域であり」
なんて、まったくの作り話でしょ 臨海郡とは会稽郡より南がわ・・・<

Wiki 臨海郡 
臨海郡は、中国にかつて存在した郡。三国時代から唐代にかけて、現在の浙江省南部に設置された。
概要 257年(太平2年)、三国の呉により会稽郡東部を分割して、臨海郡が立てられた。
臨海郡は揚州に属した。
Wiki 会稽郡
呉の首都は孫権時代に揚州丹陽郡の建業に移ったが、会稽郡は丹陽郡や呉郡と共に三国時代での呉朝の中心的な地域となっていった。・・・
三国時代には会稽郡に始寧県、永康県が新設された。
257年(太平2年)には東部臨海地域に臨海郡を、260年(永安3年)には郡南部に建安郡を、
266年(宝鼎元年)には諸曁、剡両県以南に東陽郡を設置した。
Wiki 揚州
揚州 (古代) - 中国古代の九州のひとつ。淮河南岸から南シナ海沿岸までの地方が想定されている。
揚州 (江蘇省) - 中国の隋代以降にかつて存在した州。現在の江蘇省揚州市に相当する。

以上、確かに臨海郡は、会稽の南にあった。
しかし臨海郡は、孫権の本拠の南京の揚州丹陽郡に属し、揚州は現在の江蘇州付近の事であるから、
陳寿の会稽東治は、江蘇省を中心とする地域である、という事には変わりがない。

313日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:37:14.35
>>311

いやいや、どう見ても身につける装飾品でしょ。
卑弥呼本人は神器より舶来のアクセサリーの方がお気に入りだったのでしょう。

314日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:40:19.61
413の>>242
>九州説唱える人は平気で嘘つく人多いなあ<

大和説者は、一部の「言葉尻」にイチャモンを付けて、議論全体に「勝った」、
とヘイトスピーチ宣伝をする詐欺師が多いなあ。

315日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:47:13.80
>>312
どんなに事実を突きつけられても
作り話をやめない九州説

316日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:47:17.04
>>314
あんた、日本語をよく知らないね
言葉尻で文章の意味が変わるんだよ

317日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:49:20.14
>>289
>それに対して、九州説者は、
>きちんと史料事実からの帰納的確率的な推論をしており、

した証拠が一切なくて藁

ww

318日本@名無史さん2019/01/06(日) 17:56:27.02
>>312
>以上、確かに臨海郡は、会稽の南にあった。
>しかし臨海郡は、孫権の本拠の南京の揚州丹陽郡に属し、揚州は現在の江蘇州付近の事であるから、
>陳寿の会稽東治は、江蘇省を中心とする地域である、という事には変わりがない。

さwすwがwに、これはヒドいな

この理屈だと
”日本の首都が東京なので鹿児島は関東を中心にする地域である”
になるよ

あまりにも頭部の狂いすぎた論理

319日本@名無史さん2019/01/06(日) 18:04:55.00
>>318
>揚州は現在の江蘇州付近の事であるから、

ここが新しいウソのポイント

320日本@名無史さん2019/01/06(日) 18:07:24.37
>>306
>漢の滅亡により、冊封ではなく自前で王権の象徴である八咫の鏡を製作したんでしょ。

だったら、魏に朝貢する必要ないだろ?

魏の後ろ盾をありがたがるのか軽視するのか、九州説で統一してくれって!ww

ちなみに、平原1号墓出土の大鏡は、割ることが目的で大きくするだけが目的の
内行花文鏡の作図原理から外れたガラパゴス鏡で、王権のシンボルでもなんでもないし、
八咫鏡ではないぞww

321日本@名無史さん2019/01/06(日) 18:08:05.86
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

322日本@名無史さん2019/01/06(日) 18:10:07.48
>>304
>銅鐸が無いんだから卑弥呼の墓だろw

銅鐸が副葬された墓はたぶん一つもなかったはずだぞ
つまり>>304の論理だと、倭国の墓は全て「銅鐸がないんだから卑弥呼の墓」だなww

バカの極みww

323日本@名無史さん2019/01/06(日) 18:13:15.84
>>308
>三角縁神獣鏡は卑弥呼より後の記念品みたいなもの。

魏との交流の記念品だよな? 魏の年号をわざわざ入れてるんだから?
魏との交流を記念すべき人がどこにいるかと言えば、
魏との交流の当事者及びその後継者だ
つまり、三角縁神獣鏡を作って配布した勢力が、魏と交流した邪馬台国そのものってことだ

>邪馬台国を探すためには使えない。

ピンポイントでは決められないけれど、分布の中心は明らかだよな?
1枚の三角縁神獣鏡をありがたがって副葬品の中心としている地方も
あるようだけれどw

324日本@名無史さん2019/01/06(日) 18:17:30.98
>>311
>錆色塗装鏡含む鏡類は全部棺の外だから

そうなんだよな、平原1号墓の鏡の出土状況は、
大事な王権のシンボルの副葬にはとてもじゃないが見えない
割った後、適当にばら撒いてある
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚

325日本@名無史さん2019/01/06(日) 18:32:03.21
素環頭大刀は棺の上から喉元のあたりに封印するように置かれている
平原の偽物屋親父は元の筑紫首狩族から首を刎ねられたのだろう

326日本@名無史さん2019/01/06(日) 18:35:55.03
413の>>263
>だから史書の記述では北から南に直進してるはずが、
実はぐるっと回って同じ場所に戻ってるなんてことすらあり得るはず<

魏使らは、「倭人在帶方東南大海之中」と考えているんだから、
大体東南へ向かおうとしているのであり、
「ぐるっと回って同じ場所に戻ってる」なんて事はない。

327日本@名無史さん2019/01/06(日) 18:55:03.46
413の>>276
>魏志倭人伝の伊都国から奴国も東なのに東南
という事は魏使は方向オンチの集団だった事の証明じゃ・・・?<

奴國は、海岸付近の伊都国の東南百里であり、魏使らが移動した記載がなく、
百里はそれまでの里記載に拠って短里で7.65km位であるかから、
奴國の入り口は、日向峠西麓付近であり、中心部は早良平野部。

だから、伊都国の次は「東、行、至不彌國百里」になり、
伊都国の外縁部からの東百里は、姪浜付近であり、
だから不彌國は、おそらく博多湾岸で藤崎西新町付近。
そして、その南に邪馬壹國が(移動距離殆どなしに)あるから、
弥生銀座付近は邪馬壹國。

328日本@名無史さん2019/01/06(日) 18:58:15.32
>>327
つまり会稽東治之東どうしてもにならない破綻説だな九州説は

329日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:08:59.06
>>320
>だったら、魏に朝貢する必要ないだろ?

攻めて来られると困るから朝貢はしておかないと。
でも国内的には冊封に頼らない権威を確立できたのでしょう。
国内外で違う顔を持っていたのですよ。

330日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:10:12.42
>>323
>つまり、三角縁神獣鏡を作って配布した勢力が、魏と交流した邪馬台国そのものってことだ

筑紫が大和の原住民を教化するために配ったのでしょう。

331日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:11:18.49
>>327
やっぱ方向オンチの集団だ
じゃ不彌国から水行する時も一旦ちょっと南に向かってから東に進んだから
魏志倭人伝には東が南と書かれてるんだ

332日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:15:22.84
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

333日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:15:49.66
>>330
みんな配って自分が貧乏になる幸福の王子

334日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:16:13.40
413の>>292
>その場で方角を間違わないこととそれを記録して、海を渡って記録を持ち帰って、報告して、
それを参照して史書が編纂されるまで間違いがないこととは同値ではないんだよ <

99.9%以上、同値だ。人類は「南と東」の方向や文字を間違えない。

>実際、末盧国から伊都国の方角は明らかに間違っているし、<

「東南」は、末盧國の出発時点の移動の、出発方向説明だ。

>狗奴国の方角も魏志倭人伝では南だが、後漢書では東だ<

後代の「自己解釈による書き換えよる」の多い後漢書の「拘奴國」は、」証拠に使えない。

>福岡から出雲、出雲から丹波の方角の記録が紛失していて丹波からヤマトの「陸行南」だけ残っていれば、
福岡からヤマトの全行程が簡単に南向きに変化する<

始めに「倭人在帶方東南大海之中」と書いているから、「福岡→出雲」という東北が長距離方向が起きない。

>方角の錯誤は比較的簡単に生じる
先に書いておくけれど、方角の記録の紛失というのは単に一つの例示だから、
これを否定すること自体には意味がないぞ<

一か所の紛失があっても、全体の「東南」は動かせない。

335日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:17:12.00
邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用している、韓国人の3寸男という、頭の悪い者に対して、韓国人の3寸男の頭の悪さがバレてしまった理由を教えてあげることは、韓国人の3寸男の頭が悪いので出来ないので、教えてあげても仕方がないのではないのかな。。。

336日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:19:26.58
>>329
>でも国内的には冊封に頼らない権威を確立できたのでしょう。

配布できてないから権威にならないな

337日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:20:18.74
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

338日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:21:17.80
>>334
>一か所の紛失があっても、全体の「東南」は動かせない。

つまり九州説は無理なんだね
東南じゃなくて南に偏りすぎてるから

339日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:25:49.34
413の>>296
>あとおもしろいのが、九州説の人に限って三国史記を史料として使いたがるww
12世紀にやっと成立した史書で3世紀とか4世紀を語ろうとする
その一方で、記紀は8世紀だからと記紀の記載は認めないww <

資料は全て、史料批判をして信頼性を推定して、確率的に受け止める。

大和説がチェリーピッカー体質であることと、
大和説の人が後代史書や記紀は正しいと思いがちであり、
国家権力と親和性が高いことの 両方が如実に表れてるよね!。

340日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:26:51.87
>>337
魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達は、今、何者達なのだろうか、、、

341日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:27:44.54
邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用している、韓国人の3寸男という、頭の悪い者に対して、韓国人の3寸男の頭の悪さがバレてしまった理由を教えてあげることは、韓国人の3寸男の頭が悪いので出来ないので、教えてあげても仕方がないのではないのかな。。。

342日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:28:29.69
魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達は、今、何者達なのだろうか、、、

343日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:33:09.61
>>339
>大和説がチェリーピッカー体質であることと、
>大和説の人が後代史書や記紀は正しいと思いがちであり、
>国家権力と親和性が高いことの 両方が如実に表れてるよね!。

また九州説が何の証拠も出さずに
罵倒と中傷を繰り返してるな

344日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:33:12.22
まー南と東を取り違えないとか言ってるけど後漢書では変わってるからこの意見は客観的事実から×だわな

345日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:34:36.17
当時の倭人の航海技術を考えれば、方向錯誤は起こり得ない。

当時の東アジアの移民、交易ネットワークを考えても、日本列島の形は倭人、朝鮮人、帯方郡の中国官吏にとって常識であった。

東→南の錯誤は、絶対に起こり得なかった。

346日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:40:49.25
地図だって無いのに方角なんてそんなに意識してないよ
目印を覚えてれば辿り着くのだから

347日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:43:07.00
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

348日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:43:20.98
邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用している、韓国人の3寸男という、頭の悪い者に対して、韓国人の3寸男の頭の悪さがバレてしまった理由を教えてあげることは、韓国人の3寸男の頭が悪いので出来ないので、教えてあげても仕方がないのではないのかな。。。


346 名前:日本@名無史さん 2019/01/06(日) 19:40:49.25
地図だって無いのに方角なんてそんなに意識してないよ
目印を覚えてれば辿り着くのだから

349日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:44:27.51
魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達は、今、何者達なのだろうか、、、

350日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:47:28.57
>>329
>攻めて来られると困るから朝貢はしておかないと。

また苦し紛れに適当な思い付きを書いてるなww
海を渡るのに慣れてる倭人だって、持衰頼みの航海なのに
大陸王朝が海を渡って攻めてくる訳ないだろ?wwwww

じっさい、12世紀まで、大陸から倭国や日本への侵攻はなかった
詭弁にすらならないよww

351日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:48:11.00
413の>>301
>見える島を目指す、以外の航海は無理だよ<

「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」だから、
倭人らは、太平洋を渡っているね。
島が見えなければ、日の出や日の入りや北極星で方向確認をして、
風や海流に乗っての航行だったんだろうねえ。

352日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:50:03.17
>>330
>筑紫が大和の原住民を教化するために配ったのでしょう。

だが、実際の三角縁神獣鏡の出土分布は、畿内中心で
北部九州では1枚の神獣鏡をありがたがってる状態なんだが?
配布を受けていたのがどちらか、というのは同笵鏡の分布からも
めっちゃはっきりしているんだが?ww

353日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:54:09.70
>>345
>当時の倭人の航海技術を考えれば、方向錯誤は起こり得ない。
>東→南の錯誤は、絶対に起こり得なかった。

壊れたレコードみたいに、その一点に頼りきってるけどさ、
何度も言うように、その場で間違わないことと、それが史書に
記録されるまで間違わないことは、全然レベルが違うんだってば!

実際、末蘆国から伊都国だって方角が間違ってるだろ?
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
でたらめ九州説の末蘆国比定地をとっても、どうやっても東南にはならない
あきらめろww

354日本@名無史さん2019/01/06(日) 19:58:51.88
>>345
>東→南の錯誤は、絶対に起こり得なかった。

間違いはどこにでも忍び込むんだよ
絶対にナイナイーとか、そういう非現実なこと
ムキになって言い張るから
九州説は信用されなくなったんだよ

355日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:00:41.30
413の>>303
>>「好きな方角」には行けないの。 案内や明らかな道なりに行くの。<

>その、「案内や明らかな道なり」が東だっただけだろ?<

いや、東とは限らないねえ。

>「好きな方角」に行った訳ではない <

案内人や道なりや道標で進む。

>はい、論破ww<

はい、「東だけ」説は、論破。

>「出発方向が正しければいい」というザラコク理論では、
「南⇒東」を正当化するしかないよ「南≠東」だから×、は使えなくなったwwwww <

魏志での「南≠東」も正しいままだし、
「南→東」が嘘つき騙しである事も変わっていないよ。

356日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:01:15.11
>>351
>「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
>又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」だから、
>倭人らは、太平洋を渡っているね。

なんで倭人が里数をかぞえられるの?

357日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:02:00.15
>>336
八咫の鏡は配るものではありませんよ。
鏡の使い方そのものが変化したのに、魏の皇帝は時代錯誤だったんです。

358日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:02:37.53
>>355
>はい、「東だけ」説は、論破。


どうやって?

359日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:03:13.11
>>350
>大陸王朝が海を渡って攻めてくる訳ないだろ?wwwww

杞憂に終わればいいですね。

360日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:03:28.23
>>357
>八咫の鏡は配るものではありませんよ。
>鏡の使い方そのものが変化したのに、

それ、誰が決めたの?

361日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:04:39.26
>>359
あなた、「道日」くん?


ww

362日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:05:00.04
413の>>307
>日本人がもっと天体を意識して航海してたらアメリカ大陸も発見できたかも知れんけど実際は沿岸航法のみ<

倭人は(縄文人も)「又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」していた。

363日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:05:29.42
>>360
王位の象徴たる八咫の鏡を分配できるわけないだろ。
不埒者め。

364日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:06:19.10
>>357
平原から八咫の鏡が出てるって、誰が決めたの?

365日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:07:09.16
方角の話が出たから、久しぶりにザラコクでもからかうかねw
旧唐書
皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,
東至安南如至成都,通水陸行

この陽苴棟驍ゥら、成都が東北、安南が東という地理記事、明確に方角が間違っている
成都行きの東北は正しい
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
安南行きの東は、東南の間違い
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚

地図を見れば一目瞭然だなww

これをザラコクは、安南行きは出発方向が東だから正しいというが、
その場合、成都行きも直接成都方向へ行くには間に大涼山脈があって行けないので、
途中までは安南行きと同じ昆明方向へ向かうことになる

つまり、出発方向が書かれているという説明なら、今度は成都行きの方角が
間違っていることになる

いずれにしても、旧唐書の方角記載が間違っていることは確実ww
方角が間違うはずがないと言い張る九州説の人は、味噌汁で顔を洗うべきだなww

しかも、ザラコク九州説は、倭国と日本国が別種という旧唐書の記述は正しいと
言い張らないといけないので旧唐書を半分×書にすることもできないww

366日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:09:16.70
>>363
>王位の象徴たる八咫の鏡を分配できるわけないだろ。

八咫の鏡が王位の象徴だって証拠は?

367日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:10:38.81
>>355
>いや、東とは限らないねえ。

東に限るといった覚えはないが、日本海の海岸沿い道なりなら当然東になるな

>案内人や道なりや道標で進む。

そうだよ?
案内人に従って日本海の海岸沿いの道なり水行で東に行くんだよ

>はい、「東だけ」説は、論破。

「東だけ」説なんて唱えてないよww
方角は、道なりでいいんだろ?って言ってるだけ
それだけで「東≠南だから×」は言えなくなるww

368日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:11:42.42
>>361
「道日」君というより、nn氏だと思うよww

369日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:13:13.27
>>363
>王位の象徴たる八咫の鏡を分配できるわけないだろ。

そうだよな?
6枚も同笵鏡を作って割ってばら撒くなんて、皇位の象徴たる八咫鏡でできるはずがないww

平原1号墓出土鏡は、八咫鏡ではない!

370日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:14:35.01
>>369
さもなきゃ
伊都国の王権が崩壊したってこと

371日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:15:38.69
>>359
>杞憂に終わればいいですね。

根拠の一切ない思い付きを苦し紛れの言い逃れとして書きましたって、
素直に謝ればいいのにww

どこかの火器管制レーダー照射のいい訳みたいww

372日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:20:05.51
413の>>317
>>ダメだ。比恵那珂遺跡群や弥生銀座は邪馬壹國の首都圏だ。<

>これはザラコクの書いたことww でも、「邪馬壹國は不彌國のすぐ南」論で、
比恵那珂遺跡群も弥生銀座も邪馬壹國の外なんだが?<

ならんよ。前から、
不彌國は博多湾岸で、
邪馬壹國は「福岡平野中央部〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地」
と言って来てある。

>それから、古田武彦氏は、邪馬壹國は奴国のすぐ南って言ってるぞww<

これも、嘘つき騙しね。
古田論では、奴國は、
広大な邪馬壹國の西〜西北の境界に接するように書かれていたから、
私の「日向峠西麓〜早良平野部」という説明と大体同じ。

373日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:26:52.81
>>372
>不彌國は博多湾岸で、
>邪馬壹國は「福岡平野中央部〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地」
>と言って来てある。

つまり会稽東治之東にするのは完全に無理で
九州説死亡っスね

374日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:28:42.03
伊都クズはイメージでしか語れない

375日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:30:59.56
413の>>338
余程九州説が脅威なのか。
本年も大和説者や類スレ主は、
中身の無い誹謗中傷を繰り返してるな。

376日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:33:52.67
413の>>341
「畿内」なんて、存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。

377日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:34:21.69
>>375
中身がないって証拠は

378日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:35:59.93
413の>>342
「畿内」も「倭国大乱」も、
存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。

379日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:37:03.38
>>376
「畿内」が存在しないって証拠は?

言い張るだけ証拠出さずは嘘つき騙し男の証拠

だから、×。

380日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:37:23.68
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

381日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:38:38.34
水先案内の倭人も、通訳の百済人も、帯方郡の漢人も、方角は間違わない。


北九州で若干の方角錯誤があっても、その後の行路全てで方角錯誤が発生すると言うのは統計学的にも極めて考え難い。

382日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:43:07.67
特に、魏船に乗り込んだであろう水先案内人の倭人は、当時最高の人材がアサインされたに違いない。

そんな者が沿岸航海をしつつも、基本的な方角錯誤をするなどあり得ないのだよ。

383日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:46:33.23
>>381
百済人は馬韓人に訂正。

384日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:52:29.87
>>309
うむ。

385日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:54:05.28
沿岸航法なのだから目印を覚えていただけで方角はさして気にしてないな

386日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:55:01.57
方角錯誤がなければ、短里・長里、連続読み・放射読みの全ては自ずから九州に帰着するように決着する。

387日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:57:07.32
>>385
魏使や馬韓人から方角を問われて、正しく答えられる人材が水先案内人に任命された。

388日本@名無史さん2019/01/06(日) 20:59:35.18
するなら証明してから言え
そ  れ  だ  け

389日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:03:56.28
結論しか言わない九州説
けっして論証はしない

390日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:04:52.46
九州説は日常的に妄想に基づいて論を組み立ててるからな

391日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:05:13.22
魏代の魏の役人が方向も分からないとかあり得ないからなw

392日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:08:23.89
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

393日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:18:01.03
>>366
>八咫の鏡が王位の象徴だって証拠は?

4月頃になるとあちこちのテレビ番組で解説されるんじゃないの?

394日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:18:40.45
413の>>345
>そうだよ! 周髀算経の蓋天説では、 「冬至でも秋分でも千里離れたところの影の長さは一寸の差になる」
さらに言えば、 「南中時ではなくても、朝7時でも午後4時でも千里離れたところの影の長さは一寸の差になる」<

いや、夏至以外は、正午の影長が半影部分の拡大などに拠って、
一寸千里には若干誤差が発生する可能性がある。

>そういう前提で机上の計算をしただけの書なんだよ
ちょっと測れば間違っていることがすぐに分かる
けれど、間違っていると書いてない時点で、影の長さを実測していないことはバレバレ
おそらく、ある一点で、夏至と冬至の影の長さを1回だけ測ったのだろう<

いや、「測影」した結果が書かれており、それからの推論。

>そして、それでも冬至の長さが狂っているというすばらしい書物だww<

測影誤差の範囲内。

>周髀算経が、短里の根拠というだけで、そもそも間違っていることになるし、
周髀算経自身が、一里=300歩、一歩=六尺で書いてあるから、
短里がないことの証拠にもなってるww <

周代の周髀算経は、「1歩=6尺」で書かないし、書く筈がない。
「1歩=6尺」を使った注釈を書いたのは、前漢始めの「周髀算経の収集注釈」した学者。

395日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:19:07.18
>>379
>「畿内」が存在しないって証拠は?

畿内が制度になったのはいつだ?

396日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:20:12.71
>>302
今の桜井市穴師あたりにヤマトという大字名、あるいは小字名があったのであれば、テンプレ主の主張のように話は簡単に済むが、その肝心要の大字ヤマトがあったとする証拠がない。
先にも言ったように、FAQでテンプレ主が「それはあった」として挙げたのが、平安時代の和名抄に掲載されている大和郷(於保夜麻止=オホヤマト)。
その読みは大和神社(おおやまとじんじゃ)にちなむものとみられ、その郷内に地名としてオホヤマトがあったのかどうかは分からない。
また、郷内にオホヤマトではなく、単にヤマトと呼ばれる地名があったのであればよいが、しかし、そのヤマトと呼ばれる地名があったという証拠はどこにもないのはオホヤマトと同じ。
つまり、ヤマトの地名が「あった」とする主張も、単に根拠のない推測にすぎんということになるわけ。

九州には、山門はあちこにちにあるのだがなあ。
なんで、奈良にはヤマトの地名がないの?

397日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:21:41.45
>>369
>6枚も同笵鏡を作って割ってばら撒くなんて、皇位の象徴たる八咫鏡でできるはずがないww

卑弥呼が生きている間は同笵鏡があっても問題ないけれど、卑弥呼が亡くなった後に複数の八咫の鏡があると皇位継承で混乱が起きるから、卑弥呼に殉じて割ったのかもしれませんね。

398日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:24:16.61
それでも、皇室が管理する八咫の鏡は宮中賢所と伊勢神宮と二ヶ所にありますね。
古代においては八咫の鏡が複数存在することは史書に記事がなくても認識されていたかもしれませんね。

399日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:24:53.45
誰も方角を気にしない目標物頼りの沿岸航法であれば、倭人伝記事もそう言う風に記録される。

「◯◯津から××津まで△里」とか、
「◯◯津から××山を望むまで水行△日」

などのように。そして実際に倭人伝はそうではないのだから、いちいち方角を記録していたことは明らかだ。

400日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:27:55.17
413の>>346
論理的な批判が出来ず、「理解が浅いなー 」というヘイトスピーチ宣伝だけか。
さすが「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者。
天皇家の心を否定して、日本をまた戦争にする国にさせようとする、
「皇国史観戦争国家主義」の安部自民の使徒の大和説者。

401日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:33:37.64
413の>>347
>実際、末盧国から伊都国の方角は明らかに間違っているし<

「東南」は、末盧國からの出発時点での出発方向説明だし。

>狗奴国の方角も魏志倭人伝では南だが、後漢書では東だ<

後漢書は「拘奴國」だし、
後代の「自己解釈に拠る書き換え」の多い後漢書の記載は根拠にならないし。

402日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:40:22.59
413の>>350
>◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。<

「万単位」という事の根拠がない。

>卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。<

「南≠東」などに拠って、×。

403日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:45:53.32
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

404日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:54:59.17
>>397
皇位の象徴たる八咫鏡とやらが
どうして 卑弥呼が生きている間なら
同笵鏡が何枚あっても問題ないんだ?

理由があるのか?


・・・まさかね

405日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:58:06.80
413の>>356
>末盧国から伊都国、伊都国から奴国の方角が既におかしいからなあ<

どちらも、「南→東」などの史料実態を否定曲解する嘘つき騙しの、
(再軍備戦争狂の)大和説者の「曲解捏造」だからなあ。

>末盧国から東南東南に行って奴国に行くか?そこから東の港町不彌國もよく分からんし
魏志倭人伝の方向はあんまりアテにならないんじゃないの<

天皇家の「戦争反対」のお気持ちを無視して否定して、
日本をまた殺し合い戦争させようとするタカ派の唯我独尊の安部自民を応援する・・・・アホ大和説者じゃ、
何を言ってもmアテにならないからなあ。

怖い怖い。
最近は、大和説男らだけではなく、
安部夫人や、稲田や高市などの自民女性議員や、曽野や桜井などの戦争・・・・女までもが、
狂ったように、天皇家の意向に反して、再軍備賛成や靖国参拝をしているからなあ。

406日本@名無史さん2019/01/06(日) 22:00:17.34
>>394
>いや、夏至以外は、正午の影長が半影部分の拡大などに拠って、
>一寸千里には若干誤差が発生する可能性がある。

計ってないんだよ
千里離れたところで冬至に影の長さを計ったら
蓋天説が間違ってるってその瞬間に分かる

誤差なんてもんじゃないぞww

まあその前に夏至に8尺棒の影長が一尺六寸になるのは北緯34.7度の地点だけど
その場所での冬至の影長は正しくは一丈二尺八寸五分なのに、
周髀算経では一丈三尺五寸になってる
冬至の影長が一丈三尺五寸になるのは北緯35.95度の地点

夏至に影を計ったとみられる北緯34.7度の地点とは緯度が1.25度違う
これは距離にすると139キロになる
九州説の言う短里は76キロだっけ?
それより誤差の方が大きいじゃんww

冬至の影の長さ一丈三尺五寸基準で、そこから九州説の言う短里で千里北に行ったとすると
冬至の影長は一丈三尺八寸七分で三寸七分の差になる
「短里の蓋天説」の理論値の三倍だ

周髀算経は大間違いなんだよ
こんなのが短里の根拠と言ってる時点で、破綻してるよ
周髀算経は蓋天説から間違ってるし実測もしてないから
掘れば掘るほどデタラメが分かるww

407日本@名無史さん2019/01/06(日) 22:03:00.98
>>397
>卑弥呼が生きている間は同笵鏡があっても問題ないけれど、

おいおい、皇室の皇位の象徴の八咫鏡は、一枚だけに唯一無二のものだぞw
卑弥呼が生きている間、その6枚のうちのどれが本物だったんだい?ww

408日本@名無史さん2019/01/06(日) 22:05:12.66
>>398
>それでも、皇室が管理する八咫の鏡は宮中賢所と伊勢神宮と二ヶ所にありますね。

宮中賢所のは伊勢の鏡の形代だよ
あくまで本物は伊勢の八咫鏡が唯一無二だ

409日本@名無史さん2019/01/06(日) 22:08:51.73
>>399
>などのように。そして実際に倭人伝はそうではないのだから、
>いちいち方角を記録していたことは明らかだ。

それはね、大陸史書の地理・旅程記事の様式が、方角と距離で示すことになってるからだよ
実際、「いちいち方角を記してなかったから、魏志倭人伝の方角が間違ってる」まで
可能性としてはある

410日本@名無史さん2019/01/06(日) 22:17:34.72
>>409
魏使が倭人の水先案内人に尋ねたり、自分で測ったりした故に、行程記事の全てに方角が記録されている。

そして倭国到着後、その全てがことごとく誤っていることなどあり得ない。

411日本@名無史さん2019/01/06(日) 22:19:51.44
>>409
測ってないのに、適当な当てずっぽうを書くはずがないだろ。正月が終わってもまだボケてるのか?

412日本@名無史さん2019/01/06(日) 22:22:40.70
>>301
日本書紀では、「夜摩苔波区珥能摩倍邏摩…」の歌を載せていて、これは歌の調子からして「ヤマダは国のまほらま」あるいは「ヤマタイは国のまほらま」とは読みにくい。
やはり、万葉仮名乙類の苔(ト)の読み方でしょう。

倭人伝の地名や人名は、慣用的に読む場合は万葉仮名的に読むのがいいでしょう。
ただ、地名比定の場合などには、現地発音を音写したものとして、上古音あるいは中古音を適用して理解するのがいいと思いますね。
比売は上代ではpimeということですが、さて3世紀前半の和語の発音がpimeだったかどうか、pimeだったという確証はないでしょうね。

413日本@名無史さん2019/01/06(日) 22:39:39.92
主として通訳を挟んで倭人と会話してるだろうから
倭人の発音と少し違うこともあるだろうな

414日本@名無史さん2019/01/06(日) 22:43:03.07
>>411
>適当な当てずっぽうを書くはずがないだろ。

適当なあてずっぽじゃなくて、倭国は会稽東治の東の南国という陳寿を
含めた大陸中華の知識人層の常識に合うように調整してあるんだよ

それに行く先々で方角を記録したとして、それが混乱なくすべて持ち帰れたとする方が
現実に合わないんだよ
紙が貴重品の時代に海の向こうの異国まで大量のメモ紙を持って来られるはずもないし
おそらくは木簡や竹簡を使っただろう
その木簡が一度バラバラになったら、南という方角が書いてあったとして、
それがどの行程の方角かは分からなくなる

方角が間違うはずがないと言い張るのはむしろ幼稚な考え方

何度でも貼ってあげるから、現実に魏志倭人伝の方角表記が
間違っているのを噛みしめなさい

実際、末蘆国から伊都国だって方角が間違ってるだろ?
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
でたらめ九州説の末蘆国比定地をとっても、どうやっても東南にはならない

415日本@名無史さん2019/01/06(日) 22:55:18.06
413の>>361
>奴国二万戸  その隣にある不彌國から船で20日 投馬国五万戸
投馬国から船で10日歩いて1ヶ月 邪馬台国七万戸
全部九州内の話しなん?<

違うね。
萬二千余里は、当然行程記載里数の合計であり、
日数記載は、里数記載にならないものであり、
この投稿子の漢文の読み方が間違い。

416日本@名無史さん2019/01/06(日) 22:56:43.21
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

417日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:04:48.79
413の>>368
>陳寿の判断で90度、東から南に、クルッと回転させちゃったんでしょ。
北部九州の経由地から経由地の方角に若干の間違いが生じてるのも、その影響。
陳寿が筆をナメナメしながら、えいやで方角を書き換えたからだ。<

陳寿の三国志が、西晋朝で高い評価を受けたのは、
陳寿の記載が、魏の記録と殆ど同じ内容であったから。

418日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:14:06.55
んな訳あるか
後漢書だって評価高かったから正史として残ったんだぞ

419「会稽東治之東」2019/01/06(日) 23:20:07.20
「當在會稽東治之東」
當にを、真東とするかおおよそにするか?

真東とした場合、九州南部(鹿児島)にある
しかるに、陳寿いな当時 正確に真東と測量できたのだろうか?
陳寿の言う「當在會稽東治之東」は真東だが
現実的には「おおよそ東」でいいであろう
「会稽東治之東」
つまり、現実的には九州を含めた西日本までの範囲
「後漢書」の治⇒冶の解釈では沖縄になるのだが、倭人伝に従ってよいであろう

420日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:20:33.14
>>414
木間と竹簡の記録で、工程記事のうち何故か不思議なことに方角の部分だけ無くして散逸して、記憶で補ったら何故か不思議なことに全てことごとく間違っていたと。

そんな訳あるか!

畿内説は非論理的で感情的に過ぎるね。

421日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:34:37.59
>>419

「おおよそ東」が会稽の北側にだけ許容範囲ってのはおかしい

422日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:38:00.83
評価は後漢書のほうが高かったね
史記・漢書・後漢書が三史

423日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:40:51.62
>>418
後漢書は正史ですが、倭国の部分は三国志の引用では?
「後漢書」は5世紀に書かれたものです

424日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:44:41.16
同じ資料を元にはしたでしょう。
倭国大乱は後漢代のことなのに後漢書には記載がないので、後漢書は魏志を参照してはいないと思います。

425日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:45:17.28
>>420
>木間と竹簡の記録で、工程記事のうち何故か不思議なことに方角の部分だけ無くして散逸して、記憶で補ったら何故か不思議なことに全てことごとく間違っていたと。

こっちはことごとく間違ってたなんて言ってない
捏造乙

方角が間違うはずがないと言い張るのは幼稚だと言っているだけ

実際間違ってるだろ?
何度でも貼ってあげるよ

末盧国から伊都国だって方角が間違ってるだろ?
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
でたらめ九州説の末盧国比定地をとっても、どうやっても東南にはならない

426日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:49:12.08
>>412
>日本書紀では、「夜摩苔波区珥能摩倍邏摩…」の歌を載せていて、これは歌の調子からして「ヤマダは国のまほらま」あるいは「ヤマタイは国のまほらま」とは読みにくい。

ちょっとお待ち下さい。
「やまとは くにのまほらま」では4音7音ですね。
「やまたいは くにのまほらま」なら5音7音です。
苔を2音に割り当てるのかという問題はあるものの、和歌は5-7-5-7の繰り返しが基本なので、歌の調子からは「やまたいは」の方が正しい可能性もなくはない。

427日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:49:41.93
>>424
>倭国大乱は後漢代のことなのに後漢書には記載がないので、
>後漢書は魏志を参照してはいないと思います。

倭国大乱はあっても倭国乱じゃないから魏志倭人伝は参照してないって言うつもりかい?ww

これが後漢書の該当部分だよ
桓・靈閨@倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 
有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼~道 能以妖惑衆 於是共立爲王 
侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食 傳辭語 
居處宮室・樓觀・城柵 皆持兵守衞 法俗嚴峻

428日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:50:09.61
>>409
>実際、「いちいち方角を記してなかったから、魏志倭人伝の方角が間違ってる」まで

方角を記録しないことはあり得ないし、記録がないから捏造することはもっとあり得ない。

429日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:51:13.85
>>408
>宮中賢所のは伊勢の鏡の形代だよ

現代においてそう解釈しているだけでしょう。
銅鏡なんだから、踏み返しか同笵鏡のどちらかですよ。

430日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:54:22.87
>>427
おおすまん、ちょっと思い違いをしておった。

431日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:56:31.79
三国志は曹魏を正統としているが、
東晋のころから蜀漢正統論が起こったので評価は低かった

432日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:56:33.03
>>430キャラがブレてるぞww

433日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:58:37.01
>>421
ご指摘通りです
範囲を奄美大島まで広めてよいでしょう
邪馬台国 奄美大島説があれば良いのですが

434日本@名無史さん2019/01/06(日) 23:59:39.01
>>428
>方角を記録しないことはあり得ないし、記録がないから捏造することはもっとあり得ない。

そんなことを言ってるんじゃなくて、方角が間違うはずがない、と
言い張るのは幼稚だと言ってるんだが?

実際間違ってるだろ?
現実から目をそらすなよ
何度でも貼ってるからさ

末盧国から伊都国の行程は方角が間違ってる
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
でたらめ九州説の末盧国比定地をとっても、どうやっても東南にはならない

435日本@名無史さん2019/01/07(月) 00:01:11.11
>>433
>邪馬台国 奄美大島説があれば良いのですが

あったところで、陸行一月ができないから即座に破綻だ
無駄なことを書くなよ

436日本@名無史さん2019/01/07(月) 00:02:07.35
>>433
あるよメジャーでは無いが邪馬台国奄美大島説
しかし、お勧めしないから
無視でいいよ

437日本@名無史さん2019/01/07(月) 00:09:14.28
>>433

会稽(30.0)の北の許容範囲が博多(33.59)なら
南は那覇(26.23)くらいになる
「会稽東治之東」 の「おおよそ東」と書く意味がほぼない

438日本@名無史さん2019/01/07(月) 00:10:18.66
魏志倭人伝当時存在した伊都国はどうなったんだろうな?

紀ノ川沿いに伊都の地名が残る
何か関係あるのか?

439「末盧国から伊都国」の方位は間違っていたと仮定した場合2019/01/07(月) 00:22:42.39
>>434
あなたの論でいけば
「末盧国から伊都国の行程は方角が間違ってる 」
からの論法なら
すべての方位は間違っているという事になります

九州説の方には申し訳ありませんが
「末盧国から伊都国」の方位は間違っていたと仮定した場合
〇 歴韓国 「乍南乍東」 到其北岸狗邪韓國
〇「南」渡一海 千餘里 名日瀚海
✖「東南」陸行 五百里 到伊都國 
〇「東南」至奴国
〇「東」行至不彌國
ーーーーーーー投馬国、邪馬台国は南⇒東と畿内説が主張するから省きます

確率的に間違う可能性はいがめないですが、それを盾に倭人伝の方位は間違っているというのは荒っぽすぎます

440「末盧国から伊都国」の方位は間違っていたと仮定した場合2019/01/07(月) 00:26:01.04
追記
「末盧国から伊都国の行程は方角が間違ってる 」
と主張する方は
「それ以外の不弥国までの方位は正しい」

という事にならないだろうか?????

441日本@名無史さん2019/01/07(月) 00:28:41.34
紀ノ川沿いは渡来人が住んだところだな

442日本@名無史さん2019/01/07(月) 00:28:48.24
畿内説に有るのは金 無いのは知恵

443日本@名無史さん2019/01/07(月) 00:32:00.70
スマン
畿内説は金を儲ける知恵だけはあった
スマン

444日本@名無史さん2019/01/07(月) 00:34:21.79
>>395
>畿内が制度になったのはいつだ?

いまは近畿説に変身 伊勢志摩、近江まで畿内説になった

445日本@名無史さん2019/01/07(月) 00:35:41.43
>>440
それがどうした!

446日本@名無史さん2019/01/07(月) 00:38:46.07
>>439
そだね
>>1
申し訳ないが テンプレに邪馬台国の国々の比定地を書いてくれないか
投馬国はわかったから

447日本@名無史さん2019/01/07(月) 00:39:56.52
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

448日本@名無史さん2019/01/07(月) 00:40:19.20
>>1
申し訳ないが テンプレに「倭国の国々」の比定地を書いてくれないか
邪馬台国まででいい投馬国はわかったから

449日本@名無史さん2019/01/07(月) 00:41:23.13
>>1
申し訳ないが テンプレに「倭国の国々」の比定地を書いてくれないか
邪馬台国まででいい投馬国はわかったから

450日本@名無史さん2019/01/07(月) 00:41:42.06
ん・・九州説がおかしくなったぞ

451日本@名無史さん2019/01/07(月) 01:01:34.90
九州説が・・・いがんじゃったな

452日本@名無史さん2019/01/07(月) 01:04:46.79
無暗に回答するな
彼奴は先の先まで読んでるだろうから
無暗に回答するな・・北部九州あたりで回答しておくがよし

>>448日本@名無史さん2019/01/07(月) 00:40:19.20
>>1
申し訳ないが テンプレに「倭国の国々」の比定地を書いてくれないか
邪馬台国まででいい投馬国はわかったから

453日本@名無史さん2019/01/07(月) 01:17:54.50
それはいがんな

454日本@名無史さん2019/01/07(月) 01:21:27.40
>>434
>でたらめ九州説の末盧国比定地をとっても、どうやっても東南にはならない


>>434が考える末盧国、伊都國、奴国、不彌國の比定地をカキコムべきじゃないのかな
 

455日本@名無史さん2019/01/07(月) 01:38:14.88
>>439
言ってることはわかるが日本語が変だよ

456日本@名無史さん2019/01/07(月) 01:40:21.71
>>452
畿内説警戒警報だな
了解

457日本@名無史さん2019/01/07(月) 01:41:46.98
むしろキウス出現警報

458日本@名無史さん2019/01/07(月) 01:49:11.03
今 ブラタモリ見てるが 大宰府はすごいね

459日本@名無史さん2019/01/07(月) 01:53:05.21
張り付けたろ
>>1
申し訳ないが テンプレに「倭国の国々」の比定地を書いてくれないか
邪馬台国まででいい投馬国はわかったから

460日本@名無史さん2019/01/07(月) 01:58:25.38
90度回転寿司は何処へいった
三国志 魏志韓伝 読んだかな

461日本@名無史さん2019/01/07(月) 03:07:05.38
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

462日本@名無史さん2019/01/07(月) 03:52:21.04
キウス

463日本@名無史さん2019/01/07(月) 04:32:32.38
>>434
>「末盧国から伊都国」の方位は間違っていたと仮定した場合

「仮定した場合」じゃなくて、間違っているだろうが!

何度でも貼ってやるよ
末盧国から伊都国の行程は方角が間違ってる
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
でたらめ九州説の末盧国比定地をとっても、どうやっても東南にはならない

464日本@名無史さん2019/01/07(月) 05:14:06.63
>>459
つFAQ20

465日本@名無史さん2019/01/07(月) 06:05:18.89
>>464
FAQ20のAでは
末路国から伊都国 以外の方位は倭人伝どおりじゃんww

466日本@名無史さん2019/01/07(月) 06:13:18.34
「當在會稽東治之東」はどうも九州説に有利に働いたようだ
後漢書を持ち出すしか能が無かった畿内説

467日本@名無史さん2019/01/07(月) 06:34:51.04
>>463
直線かい
間違ってるな
その他の国々もやってみたら

468日本@名無史さん2019/01/07(月) 06:40:20.15
>>1
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

この根拠は前方後円墳と三角縁神獣鏡と土器とその他 なんだったっけ?
****
テンプレ読みづらくなるから、テンプレの途中での>>1以外のカキコミは止めて欲しい

469日本@名無史さん2019/01/07(月) 06:55:44.58
>>1
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

この根拠は前方後円墳と三角縁神獣鏡と土器とその他 なんだったっけ?
****
テンプレ読みづらくなるから、テンプレの途中での>>1以外のカキコミは止めて欲しい

470日本@名無史さん2019/01/07(月) 06:57:43.82
キウス

471日本@名無史さん2019/01/07(月) 07:04:56.74
>>466
優位に立ったフリで自分を慰める九州説

472日本@名無史さん2019/01/07(月) 07:07:19.36
>>469
それだけ証拠があれば邪馬台国は九州とくに北部にあったという説は粉砕される

473日本@名無史さん2019/01/07(月) 07:08:17.68
論より証拠と申しましてな

474日本@名無史さん2019/01/07(月) 07:11:49.79
>>473
九州説には両方ないが

475日本@名無史さん2019/01/07(月) 07:16:11.91
じゃあ邪馬台国は九州にはなかたってこったな

476日本@名無史さん2019/01/07(月) 07:28:58.46
在ったのはここら辺り
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/1003awa00.htm   @阿波

477日本@名無史さん2019/01/07(月) 07:36:22.19
実際問題として、今だに九州説を説いてるのは
70代、80代の古田にかぶれた爺さんだけだろ

478日本@名無史さん2019/01/07(月) 07:36:33.68
413の>>372
>魏使「ほんとに、私らは東に東に行ったんですって」・・・
たぶんまあ、こんな感じだったんじゃないの?<

魏使らは東南へいったんだし、
魏使らと陳寿が会う筈もないし、
会稽東冶なんて書かれていないなど、
この男も、分裂幻覚の・・・・妄想の詐欺師だろうねえ。
おそらく、オレオレ詐欺をして、麻原のように、首をはねられるタイプの人間。

479日本@名無史さん2019/01/07(月) 07:43:22.10
413の>>375
「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
決してキチンとした論理的な説明にならない、
嘘つき騙しの説明をするのが
大和説の特徴 。

480日本@名無史さん2019/01/07(月) 07:46:40.83
413の>>376
長里絶対視の大和説は、
赤道説で統一したらいいんじゃないの?。

481日本@名無史さん2019/01/07(月) 07:51:02.57
>>477
古田本を読んだこと無いが九州説が優位だな
アンケートやり直す必要があるが、以降 目新しい物が無いから結果は九州に傾くだろうな

482日本@名無史さん2019/01/07(月) 07:52:12.03
>>477
しかも既にボケている

483日本@名無史さん2019/01/07(月) 07:56:01.23
ザラコク、キウス、@阿波、謎の優れた論者数人 この人達がいる限りこのスレではヤマト説は陽の目をみない
優秀な畿内説論者を連れてくるしかないのが現状ではないかな

484日本@名無史さん2019/01/07(月) 08:00:42.31
413の>>383
陳寿の行程説明の原則は、人類の常識通りに、
「出発説明+途中移動説明+到着説明」の原則通りであり、
これが間違っているというのは、
並みの神経や顔貌の持ち主ではない大和説者や、
稲田や明恵や高市や麻原やヒトラーやトランプら以外にはいない、という事は、
誰もが認めることだ。

485日本@名無史さん2019/01/07(月) 08:02:35.45
>>481
このように

九州説は決して理由を言わない

486日本@名無史さん2019/01/07(月) 08:03:31.42
>>484
そんな常識この世にないから

487日本@名無史さん2019/01/07(月) 08:20:39.70
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

488日本@名無史さん2019/01/07(月) 08:27:04.14
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

489日本@名無史さん2019/01/07(月) 08:31:39.58
阿波の国の概説
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf

他説を凌駕する、倭国(阿波)の圧倒的考古資料   @阿波

490日本@名無史さん2019/01/07(月) 08:39:51.53
413の>>387
>「方角が間違うはずがない」というのは、九州説の頼みの綱なのだが、
既に否定されているものなんだよ <

このように、
「東西南北などのような非常に確率の高い、人類の常識的な」史料事実を、
大和説にとっては都合が悪い、というだけで、
「100%絶対断定論里」に拠って否定抹殺してしまおう、とする詐欺師であるのが、
大和説学者や学会教育界や安部自民文部省やキョクウマスコミら、なんだよ。

491日本@名無史さん2019/01/07(月) 08:44:53.07
413の>>388
>その古墳築造が、祭祀連合のスタンダードを作る国家事業なんだから、
そこに連合の中心があったのは明白だろ? <

その「連合の中心」が、九州倭国であり、
大和の「古墳築造」や「祭祀」は、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」内の連合に拠って形成された、
と言っているんだよ。

492日本@名無史さん2019/01/07(月) 08:50:05.89
>>491
言ったって本当にはならないよ

493日本@名無史さん2019/01/07(月) 08:57:09.60
413の>>389
そのテンプレと、このスレの議論とを並べて読めば、
「テンプレ」には笑いどころがたくさんある、
という事が分かるよ。

494日本@名無史さん2019/01/07(月) 08:57:34.43
>>465
>末路国から伊都国 以外の方位は倭人伝どおりじゃんww

ウソを吐け、ウソをw
伊都国から奴国の東南至奴國百里も、実際には東だぞww

495日本@名無史さん2019/01/07(月) 08:59:04.94
>>467
>間違ってるな

具体的な反論が書けなきゃ、意味ないって
おっしゃるとおり何一つ反論できませんの意訳にしかならないw

496日本@名無史さん2019/01/07(月) 09:11:08.67
413の>>391
何度教えてもこのごまかしを書き続けるなぁ、大和説詐欺師の卑怯者が。
人類の常識や陳寿の「行程記載の原則」は、
「出発説明+途中の説明+到着の説明」の順の説明でしかないんだから、
東南は、末盧国からの出発時点での出発方向説明であり、
陸行五百里は、途中移動の説明であり、
到伊都国で到着の説明であるから、
末盧國→伊都国の方向は書かれていない!。

497日本@名無史さん2019/01/07(月) 09:11:13.15
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

498日本@名無史さん2019/01/07(月) 09:22:15.49
>>465
>末路国から伊都国 以外の方位は倭人伝どおりじゃんww

間違ってるぞww

>>467
>その他の国々もやってみたら

伊都国→奴国も東南じゃない
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚

不彌国は、比定地の定説がないので、九州上陸後で確認できるのは
>>463と合わせてこれで全部

これらがすべてで方角が間違っているww

499日本@名無史さん2019/01/07(月) 09:42:17.69
413の>>393
>「至」と「到」に意味上の違いはない<

いや、若干違いがある。
「至」は、何度も言うように、
「実際に移動して到着する」という意味の場合と、
四至表現の「行けば至る」というような、位置説明の意味の場合があるが、
「到」の方は、その文字の構造からは「至って立つ」であるから、
「実際に移動があって、ようやく立派に到着した」という意味が非常に強い。

500日本@名無史さん2019/01/07(月) 09:54:27.96
413の>>401
>正史だと皇帝陛下にも奏上しなきゃいけないし、他の大勢の知識人(宮廷でのライバル)たちが、
何か間違いや不敬なことが書いてないか、揚げ足を取るように隅々まで粗探しをする。
そういう中で、報告は報告としても、陳寿の立場では当時の中国人の世界観や、
知識人たちの常識に合わせて、ある程度筆をナメナメして書き換えたり、ぼやかしたり、妥協しなきゃいけない。
そういう結果が、東⇒南の『誤認』ではなく『意図的な書き換え』になったんだよ。<

陳寿は、三国志を「魏朝の正史」として書いたものではなく、
三国時代の正確な学問的な実態の記録を残そう、として書いたものであり、
それで、逆に、西晋皇帝らの評価を受けて、正史として採用されたもの。
だから「南≠東」や「短里での記載」なども、西晋朝の承認認識でもあった。

501日本@名無史さん2019/01/07(月) 09:59:42.53
邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用している、韓国人の3寸男という、頭の悪い者に対して、韓国人の3寸男の頭の悪さがバレてしまった理由を教えてあげることは、韓国人の3寸男の頭が悪いので出来ないので、教えてあげても仕方がないのではないのかな。。。

502日本@名無史さん2019/01/07(月) 10:02:19.15
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

503日本@名無史さん2019/01/07(月) 10:12:20.38
>>499
>「到」の方は、その文字の構造からは「至って立つ」であるから、

「到」のどこに「立つ」があるんだ?

504日本@名無史さん2019/01/07(月) 10:25:06.25
>>530
ザラコクのことだから、部首の「刂」が「りっとう」と読むことだけ知ってて
勝手に「立とう」だと思ったんだろww
まあ「立刀」だから、立の字自体は間違いじゃないんだが、
到の場合は「刂」はただの声譜で、「トウ」という読みを示すだけなんだがな

505日本@名無史さん2019/01/07(月) 10:44:28.79
「到」と「至」でごねてたやつも沈黙したし、意味上の差はないってことが改めて確認されたってことでw

絵に描いたような九州説だったなw
まず具体論なしで「根拠は?」と難癖をつけて(Part413>467)
次に典拠を示されてもよく読まずに反論し、さらに典拠を求め(Part413>904)
具体的な原文を示されても(実は最初の典拠の中になる)原文が見つからないといい(Part414>155)
原文の場所を再度示されると、今度は意味のない反論をし(Part414>184)
さらにごねたけれど(Part414>207)
フルボッコにされて、反論したふりをして(Part414>229)
それで沈黙、逃亡で終了ww

506日本@名無史さん2019/01/07(月) 10:52:22.10
413の>>412
>正常な人間が書く投稿とは誰も思わないよ 自省するんだね <

オームや暴力団やナチスや戦前日本のような、
唯我独尊の人種差別的なタカ派の殺戮戦争狂で、
「南→東」などのような嘘つき騙しのサギをする大和説説者の投稿は、
正常な人間が書く投稿とは、誰も思わないよ。
自省するんだね。

507日本@名無史さん2019/01/07(月) 10:56:44.38
まだ続いているの?

これは数日前の話になるんだけど熊本地震?
本当にあったの?

508日本@名無史さん2019/01/07(月) 10:58:21.04
413の>>415
>倭国があんまり東に長く伸びていると、洛陽が世界の中心からズレちゃうじゃないの。
倭国はそれなりに人口もあってデカい国で、親魏倭王にも命じているから小さく書く訳にも行かず、
けど東に長すぎるとやっぱり困るので、末廬國から先の行程記事は時計回りに90度回転させた。<


始めから、「倭国は東にあんまり長く伸びて」いない。

>なので末廬國から先の行程記事は、
読むときに反時計回りに90度回転させると、面白いほど全部合って来る。<

なので、この男も、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの大和説詐欺師グループであった、
という事がよく判る。

509日本@名無史さん2019/01/07(月) 10:59:20.38
wikiなどを調べてみるとわかる、
西遊記?演じている人物、役者など

510日本@名無史さん2019/01/07(月) 11:05:14.19
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

511日本@名無史さん2019/01/07(月) 11:07:30.40
413の>>418
>魏略と魏志と後漢書の3書とも、淮南子から同じ情報を採る、
という同じインチキをする訳がない。<

>インチキなんて人聞きの悪い
古臭い儒教的世界観(=当時の常識)に妥協しただけだよ
親の喪中に病気になって薬を飲んだら失職するような時代だったんだぜ
現代のMy常識を押し付けて考えるなよ<

淮南子は、既知の「萬二千里」情報を形容詞的に書いたものだから、
概数的な記載や「余」を付けた記載になっておらず、
それに対して魏志の「萬二千余里」には、
「余」が付いているから、
きちんと魏使らの計測合計値からの「近似値」的値記載になっていて、
淮南子の「萬二千里」を引用したものではない、
という事が分かる。

512日本@名無史さん2019/01/07(月) 11:07:45.07
探偵eyeというドラマもあったでしょ、
カブキ役者みたいな名前の主人公

偶然なのか何なのか知らないけど
「りん、りん」と言っていたり、妹の子供の名前と同じ

513日本@名無史さん2019/01/07(月) 11:12:42.99
家は『松傾』?
こういう名前の家なんだけど、キュウリのような葉、葱の華の写真・・・。

とあるゲームがあって、
そのなかで作成したキャラ名があるんだけど・・・。

これは老婆談・・・『広瀬座』というのがあったとか。

514日本@名無史さん2019/01/07(月) 11:17:23.95
家は『松傾』?
「す」のほうの読み方だったと言っていたような・・・、
数十年ほど前に読み方を変えたんだよと言っていたり

515日本@名無史さん2019/01/07(月) 11:23:20.27
『何者にもなれない お前たち』

これも家の写真のような気がするし

516日本@名無史さん2019/01/07(月) 11:29:40.67
413の>>419
>(祇園山)そんな平べったくて低くて上が平らなのも、冢って言うの?
根拠あるの?<

それまでの墳丘墓よりは明らかに高い「錐体台」状だから。

517日本@名無史さん2019/01/07(月) 11:37:02.07
『デスラー』?

このようなキャラもいたはず

518日本@名無史さん2019/01/07(月) 11:47:01.19
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

519日本@名無史さん2019/01/07(月) 11:48:21.36
>>507
熊本震源地近くの親戚の話だが20秒ほど結構揺れたみたいだよ

あのあたりは遺跡が多くあるが、江田船山古墳の石棺が割れてしまったみたいだね

520日本@名無史さん2019/01/07(月) 12:02:34.65
偶然なのかな

末裔かどうかはどうでも良いとして、
島津(島津氏の遠い親戚?)というのもいたり、同じ幼稚園〜。

521日本@名無史さん2019/01/07(月) 12:04:05.87
日本列島の下には巨大なナマズが住んでいるからね

522日本@名無史さん2019/01/07(月) 12:06:31.55
413の>>425
>いやいや 臨海郡が「江蘇省」だとかの悪質単純な作り話で 必死インチキ騙しをしてるのが
九州説だから<

Wiki: 臨海郡
「257年(太平2年)、三国の呉により会稽郡東部を分割して、臨海郡が立てられた。
臨海郡は揚州に属した」
であるから、分割されたのは「会稽郡の東部」であり、会稽郡の南部ではなく、
その地域は、呉の孫権の揚州丹陽郡に属したのであり、
揚州はほぼ現在の江蘇省の領域だ。
だから、会稽東治は、「会稽郡東部〜江蘇省」付近を示す文言だ。

523日本@名無史さん2019/01/07(月) 12:09:36.83
>>516
要するにまたzarakokuが我流で定義したんだな

意味ねえ

524日本@名無史さん2019/01/07(月) 12:24:18.68
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

525日本@名無史さん2019/01/07(月) 12:35:56.82
江蘇省の長江以北は魏に属した徐州
九州は徐州之東

526日本@名無史さん2019/01/07(月) 12:46:32.12
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

527日本@名無史さん2019/01/07(月) 12:59:29.68
>>522
>その地域は、呉の孫権の揚州丹陽郡に属したのであり、

これが真っ赤なウソ
誰でも考えればわかる

郡は州に属する
別の郡には属さない


>揚州はほぼ現在の江蘇省の領域だ。

これも真っ赤なウソ
調べれば誰にでもわかる
揚州は江蘇省・安徽省・浙江省・福建省・江西省に及ぶ広大な州だ
そもそも魏晋の会稽郡は江蘇省ではない
その何処を分割したところで会稽郡の一部が江蘇省に移動したりしない

すぐバレるような真っ赤のウソを並べてニセの歴史を作ろうとする九州説が
世間から相手にされなくなったのは当然の帰結だ

528日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:00:35.22
>>426
やまとはくにのまほらまたたなずくあおかきやまこもれるやまとしうるはし

この歌では、やまと(やまたい)は二度出てくる。
後半は「やまとしうるはし」で終わる。
この「やまと(やまたい)」には強調の「し」が付いているので、ここを「やまたいしうるはし」とはどうも読みにくい。
ここは「やまとし」が読みやすい。
で、ひとつの歌で、「やまと」の読みが「やまたい」と「やまと」と異なることはないから、後半の「やまと」に合わして、前半の「やまと(やまたい)」も「やまと」がよい。

529日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:00:58.23
413の>>428
苦し紛れに「南→東」などのウソつき始めちゃった時点で、
大和説が死んだんだよね。
まあ昭和から平成の頃だけど。

530日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:04:18.17
264年、魏の領域(青)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8%89%E5%9B%BD)#/media/File:%E4%B8%89%E5%9C%8B264.jpg

531日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:05:33.71
413の>>429
>5000里×1里434m=2170km 対馬から沖縄往復の距離にほぼ等しい。
会稽東治(冶)の東の想定とぴったり重なる。<

「東冶」ではなかったから、嘘吐き騙しであり、×。

>倭人伝の推定倭國はこの巨大島。<

沖縄は、15万戸位の巨大島ではないから、×。

532日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:11:42.81
ザラコク嘘つきすぎ

533日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:16:00.29
413の>>437
>当時の倭人や魏使は正しい方角を認識してたと思うが、陳寿が三国志を編纂する際に、
日本が大洋の上で東に向かってあんまり長く伸びすぎていると『天円地方』説と矛盾が生じ、
当時の中国の知識階級から見て、
(んな訳あるかよ)(それはねーって!)(倭国ってどんだけ東に伸びてんだよ。長すぎだろw)
(倭国がこんなに東に伸びてたら、方形の地の上で中華が真ん中じゃなくなるだろ。不敬すぎワロタ)<

礼記が、東は短里で書き、西は長里で書いたような位だから、
始めから、関係がなかった。

534日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:17:40.57
九州説はこんなウソに頼らにゃならないくらい会稽東冶問題で追い詰められてんだよ

535日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:18:33.87
福岡県と佐賀県の合計面積で韓国の40分の1くらいかな

536日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:21:06.74
>>533
>礼記が、

中国人は誰も短里なんて使ってません

537日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:24:26.45
418の>>438
>>倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り。
或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。<

>倭の国土は、複数の島が2000kmほど連なってると書いているんだが<

短里だから、380q位ほどの繋がりだ、と言っている。

538日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:31:35.78
九州説は全く証拠を出さない

539日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:36:23.27
>>531
会稽から東冶(福州市)の間の距離に邪馬台国があるだろう、という意味。
会稽の東は屋久島あたり。
東冶の東は沖縄本島あたり。
唐津からずっと巨大島が続く。
この巨大島に邪馬台国があるから、戸数7万戸というような人口規模になる。
巨大島を想定すれば、邪馬台国の戸数の謎は解ける。

540日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:36:33.49
413の>>441
>>(西晋以後)ある程度(大和の墓のような)巨大な墳墓を作る事は控えたようだ。<

>そういう九州でも、畿内と比べれば見劣りするが、
100メートル級の古墳はいくつも作ってるんだがな?ww <

筑紫では、西晋代になったら、那珂八幡や一貴山銚子塚などのように、
100m位までの前方後円墳が造られたが、
大和の巨大古墳は、4世紀以後。

>那珂八幡古墳でも墳長75m以上ある 後漢の皇帝墓よりも大きいぞw<

後漢の皇帝墓では、薄葬令がかからんではないか。

541日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:40:43.66
沖縄諸島は倭人在帶方東南大海之中とは言えないな

542日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:42:48.63
413の>>442
>張政らは、黙々と「墓の状態を記録して、魏帝らに報告」した結果から
倭人が王の死に際して「径百歩の墓を大いに作った」ことが明確で、
「文帝の薄葬命令」をまったく気にしていないのが丸分かりなんだが? <

それまでには無かった5mの高冢墓を造り、
殉葬奴婢百余人の葬儀だけでも、十分「大乍冢」であり、
楽浪太守らの墓と同じ大きさくらいだから、薄葬令に十分に従っている。

543日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:46:11.82
金銀銅鉄を副葬している墓は、文帝の薄葬の詔に反している

544日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:48:54.80
>>444
>実際に、末盧国(松浦市)に上陸した後の北九州の行程記事は、
実際の地理と見比べて、ものの見事に90度反時計回りに回転させられている。<

実際には、
末盧國からの出発方向を「東南」と書いたのであり、
「東北」なんて文言は書かれていない。

545日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:53:05.50
曹丕の薄葬の詔の主旨は、
古来より滅ばなかった国はなく暴かれなかった墓はない
亡骸は辱められ、死んでなお重ねて死ぬことになるのは不忠不孝である

1600年代の徳川時代に、本多政勝が大和郡山の領主として赴任した時、里人が 誤って石棺を開いた
石棺から太刀、短刀、鏡などが出土したが、これらの宝物は結局もとの石棺に戻した

これが不盗竊少諍訟の倭人文化

546日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:57:00.85
>>544
>末盧國からの出発方向を「東南」と書いたのであり、

そんな人類の非常識を連呼してもダメだろう

547日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:57:15.04
>>540
>大和の巨大古墳は、4世紀以後。

理由もなく言い張っても
歴史家改ざん出来ないよ

548日本@名無史さん2019/01/07(月) 13:58:26.44
413の>>449
の>現代地図でそれを探すと福津市か宗像市の辺りになるが、そこは博多湾から見て『北』となり、
『東』に対して丁度90度回転させた方位となる。<

不彌國は、伊都国の東に行く事百里である事になり、
銘浜付近に入口があった事になり、宗像などは始めから×。

549日本@名無史さん2019/01/07(月) 14:02:20.17
413の>>451
>すなわち『陳寿90度回転説』で考えれば、<

陳寿は、普通の脳の人間であり、
「90度回転」のような・・・・説は唱えないので、
この大和説男の説も、×。

550日本@名無史さん2019/01/07(月) 14:22:00.47
キウス

551日本@名無史さん2019/01/07(月) 15:04:45.38
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

552日本@名無史さん2019/01/07(月) 15:11:59.00
会稽郡の位置は、ウィキペディアさんによると
陳寿が三国志を撰述した西晋時代には
「晋代になると会稽郡の管轄県は山陰、上虞、余姚、句章、鄞、鄮、始寧、剡、永興(266年に余曁県より改称)、
 諸曁の10県となり、現在の紹興市、寧波市の大部分および杭州市蕭山区一帯となった。」
ということなので、『現在の紹興市、寧波市の大部分および杭州市蕭山区一帯』を図示したよ

これが一番正しいだろう
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚
どうやってもこの「会稽の東」は九州にはかからない

553日本@名無史さん2019/01/07(月) 15:16:37.76
>>552の補足
有名な会稽山は>>552の図の「紹興市」という文字のすぐ下の辺りにある

554日本@名無史さん2019/01/07(月) 15:19:53.93
毎日プロレスご苦労
よく飽きないな
仕事でしているのか?

555日本@名無史さん2019/01/07(月) 15:45:34.88
413の>>453
「南≠東」などに拠って、×。

556日本@名無史さん2019/01/07(月) 15:48:51.28
413の>>454
陳寿90度回転説も×だし、
大和説自体が「南≠東」などに拠って、始めから×。

557日本@名無史さん2019/01/07(月) 15:51:14.66
>>555
その「南≠東」など、もうとっくに「会稽東治之東」に拠って、×。

558日本@名無史さん2019/01/07(月) 15:54:26.13
>>541
容行程通りに進めば、沖縄あたりになる。

559日本@名無史さん2019/01/07(月) 15:57:44.87
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国人のキナイコシと韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

560日本@名無史さん2019/01/07(月) 16:08:08.00
413の>>477
>>尺の寸法が変わっても、太陽への仰角は同じだから、
南北千里での太陽への仰角から計算した千里のkm数には何ら関係がなく、
変わらない。<

>1尺が10寸か8寸かで角度は変わるんだよ <

尺寸系内での尺と寸との関係が変わっても太陽仰角は変わらず、
その太陽様仰角だけから得られた里歩系での「千里は何kmか?」の谷本計算にも、
里歩系の寸法にも、関係がなかった尺寸系の寸法表記は、何の影響も受けない。

561日本@名無史さん2019/01/07(月) 16:08:36.31
>>552
紹興市から東南と東に線を伸ばしてごらん
九州がすっぽり入るから

562日本@名無史さん2019/01/07(月) 16:12:12.59
>>552
紹興市から東南と東に線を伸ばしてごらん
九州がすっぽり入るから

563日本@名無史さん2019/01/07(月) 16:12:39.97
>>561

MAPの軸がズレてるんだろう

564日本@名無史さん2019/01/07(月) 16:26:43.97
413の>>496
>>ならんよ。 尺の寸法が変わっても、太陽への仰角は同じだから、
南北千里での太陽への仰角から計算した千里のkm数には何ら関係がなく、 変わらない。<

>なるんだよ 本当に思考力がないな
太陽への仰角が同じでも、影の長さの差分が小さくなれば、
比例して千里の距離も短くなるんだよ
単純に、魏尺の23センチで計算していたものが、周尺の20センチになれば
一寸の長さも、23ミリから20ミリに短くなって、
対応する千里の距離も20/23の比率で短くなるんだよ
結果として、周書の書物だと主張するなら、当然周尺の20センチの尺で
一寸の長さが3ミリ短くなる分、千里の距離は10.2キロ短くなって
66.8キロになるんだよ<

だから、尺寸系内の「尺と寸の換算則」が(例えば1尺=8寸の5分の4に)変わっても、
太陽仰角から計算された里歩系の里の長さとは全く関係がないから、
1寸であった影長差が0.8寸になるだけだから、
「一寸千里の法」も「0.8寸千里の法」という表記に変わるだけだ、
と言ってんだよ。

565日本@名無史さん2019/01/07(月) 16:31:20.26
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

566日本@名無史さん2019/01/07(月) 16:48:46.46
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

567日本@名無史さん2019/01/07(月) 16:50:28.79
413の>>555
>実際は九州説の方が仮定が多いけれどね <

実際は、大和説は、「南→東」などのように、
史料事実の否定曲解のウソ付き騙しばっかりだけれどもね。

568日本@名無史さん2019/01/07(月) 16:56:09.03
413の>>506
>根拠なく否定するのは??
現に奄美と九州は縄文時代でさえ黒潮を挟んで行き来してたのだから<

実際には、「安全最短の原則」という人類の常識が根拠。
現に、倭国へ来たのは、
明帝の下賜の詔書や金印や大量のお宝を持った、
海を殆ど経験のない大陸の魏使らの一行なんだからね。

569日本@名無史さん2019/01/07(月) 17:27:01.84
413の>>512
>そもそも周牌算経がでたらめな蓋天説なんだから、計算自体、意味がないんだけどね
周牌算経の夏至の影の長さにあたる地点を計算で出すと、その地点での冬至の影の長さが
周牌算経の記載に合わないのが確認されてるww<

勿論、冬至では、太陽仰角が小さくて地上の影端の部分が長く不明確になり、
同時に半影部分も不明確になって、
夏至に比べて、影長にも数%位の誤差範囲が出来てしまう、
という事は、以前に述べておいた筈。

570日本@名無史さん2019/01/07(月) 17:27:48.66
ほんとうに・・・・・・・
探偵eyeというドラマがあるでしょ、
仮面ライダーの話なのかな?

そのようなコンセプトじゃない?
何なんだろう

571日本@名無史さん2019/01/07(月) 17:28:06.49
>>566
こやつは韓国政府を責めるが在日朝鮮人に一切言及しないな
つまりはそういう事だ

572>>552です2019/01/07(月) 17:33:21.19
間違えたので訂正
>>552
紹興市から北東と東に線を伸ばしてごらん
九州がすっぽり入るから

573日本@名無史さん2019/01/07(月) 17:39:03.94
あれあれ北東と南東と間違えてしまった様ですよ
方角は間違えるハズが無いのにおかしいですねー

574日本@名無史さん2019/01/07(月) 17:39:23.24
そもそも一寸千里の千里を76km相当とした谷本計算自体に不備がある
1寸2.3cmで
1尺10寸の約23cmで計算がされているそうだが
周の1尺は実際は8寸相当の約20cm
なので1里=300歩≒300尺で計測(これも意味不明だけど)されたとすると
一寸千里の千里は65km相当になる

そもそも周はだいたい1尺=300歩=1800里だったのは史料から明らか
実測されれば八尺の棒の影の長さが1寸違う距離は150里〜200里
一寸150里の法として記録される事になるはずだ

575日本@名無史さん2019/01/07(月) 17:39:47.85
413の>>534
>那珂八幡は魏の時代じゃないだろうね。
五胡十六国時代あたりだから問題なかったのだろう。<

列島で一番古い前方後円墳頃になるから、
西晋の武帝の頃の「天円地方」思想の伝来の後、という事はどうしても避けられず、
また、高句麗の前方後円墳形の伝来流入、という事も避けられず、
大和の石塚や纏向の撥型前方後円墳よりも古い、という事もどうしても避けられず、
だから、那珂八幡は、卑弥呼の冢や、「鏡と玉の女王」である平原よりも新しく、
西晋の武帝よりも新しく、
3世紀末の石塚や4世紀の箸墓よりも古いから、
275年頃だろう、という推定になる。

576日本@名無史さん2019/01/07(月) 17:48:04.95
413の>>545
>逆だよ
東を南としているから、倭人伝の地理が暦韓国の東行三千里以外は「全て南」になってるんだよ
このこと自体が、東を南としていることの傍証になってる<

これは酷いね。
「東を南にしているから」という結論先にありきの、
循環論法そのものになってしまっている!。

577日本@名無史さん2019/01/07(月) 17:48:42.88
飽きもせず・・・・

578日本@名無史さん2019/01/07(月) 17:58:51.08
九州説叩きのめすのは楽しいからな

579日本@名無史さん2019/01/07(月) 18:01:41.99
>>576
実際邪馬台国は東で魏志倭人伝が指す南1万2千里は何もない所
東→南だったから邪馬台国は畿内

580日本@名無史さん2019/01/07(月) 18:02:25.79
気づいている人は気づいていると思うんだけど、
どこかに詐欺師のような人物がいるんだろう


謎の漫画、アニメ・・・ゲームなど、
実際は家の話じゃない?

581日本@名無史さん2019/01/07(月) 18:06:11.38
魏志倭人伝の南1万2千里は沖縄台湾辺りで何もなし
東には卑弥呼の時代の前方後円墳や三角縁神獣鏡の見つかる大和という国がある
じゃあ邪馬台国は南じゃなくて東だ
三段論法

582日本@名無史さん2019/01/07(月) 18:07:28.04
『松傾』

こういう名前の家、寺院に通っていて・・・、
・・・・・・・・・・・・家の写真で・・・。

583日本@名無史さん2019/01/07(月) 18:09:34.91
>>581
ずいぶん遅れてる反論だな
5ちゃんだから まっいいか

584日本@名無史さん2019/01/07(月) 18:13:24.40
413の>>550
>前方後円墳も筑紫から移住した一族が伝えたものだったのですね。
その時東征したのは誰だったんでしょう?
天皇家と関係があったのでしょうか? <

歴代中国史書群には東征将軍名は、神武の名前しか書いていませんが、
記紀には、神武の後の當藝志美美命を神八井命が倒して、
「神八井耳命者,意富臣與小子部連,坂合部連,火君,大分君,阿蘇君,筑紫三家連,雀部臣,雀部造,小長谷造,都祁直,伊余國造,科野國造,道奧石城國造,常道仲國造,長狹國造,伊勢船木直,尾張丹波臣,嶋田臣等之祖也.」として、
「火君,大分君,阿蘇君,筑紫三家連」の祖としていますから、
神八井耳命そのものが、九州倭国の東征将軍そのものであった可能性があり、
崇神の頃の三道将軍や四道将軍や、景行や倭建命も、九州倭国の一将軍であった可能性が高い。

585日本@名無史さん2019/01/07(月) 18:19:37.74
413の564
>これを整合させる唯一の方法は、実際は東西に連なる日本列島を南北に連なるものとし、
中華の辺縁に沿うような列島にすることだ。
そのために陳寿は、魏使が伝えた全ての行程方角を90度回転させ、東を南とした。<

これも、史料事実を否定しての「結論先にありき」の循環論法ね。

586日本@名無史さん2019/01/07(月) 18:29:02.89
>>581
倭人伝の資料となった1万2千余里のデータが作られた時期に、前方後円墳や三角縁神獣鏡はまだ存在しない。
誤ったデータを用いての論は、無意味。

587日本@名無史さん2019/01/07(月) 18:32:00.20
>>584
八井耳は橿原生まれになっている。
九州から来た人物というのは、妄想。

588日本@名無史さん2019/01/07(月) 18:35:55.34
この地図だと 東北東から東で九州が網羅されるよ
会稽東治之東は九州でいいと思う
邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚

589日本@名無史さん2019/01/07(月) 18:44:55.99
東北東ではなくて東

590日本@名無史さん2019/01/07(月) 18:49:38.77
413の>>566
>太宰府が王都なら
九州以外のあちこちに対唐と思われる城が建てられてることと符合しないわな<

継体の反乱までは、筑紫倭国の防衛の中心は対半島諸国であったんだろうが、
継体の反乱で大和が筑紫倭国の王家に参入してからは、
列島内での戦闘に対する防御施設が必要になり、
白村江の後には、唐に敵対した筑紫倭國と大和日本国は、
それぞれが防御施が必要になった。

591日本@名無史さん2019/01/07(月) 18:56:25.61
>>588
>この地図だと 東北東から東で九州が網羅されるよ

残念でした、伊都国が東北東より北になります


ww

592日本@名無史さん2019/01/07(月) 18:59:30.38
>>589
陳寿の時代 羅針盤も無いから真東は断定できないよ

593日本@名無史さん2019/01/07(月) 19:04:12.94
方向なんて間違えるわけがない!南で間違いない!東なんていくわけがない!

陳寿の時代だから方向は間違える!だから会稽の東じゃなくても良いんだ!

バカ九州説のサル踊り

594日本@名無史さん2019/01/07(月) 19:04:15.64
會稽東冶之東というのは
行程の里数+日数の南に進んだ分が会稽〜東冶くらいになるということ

595日本@名無史さん2019/01/07(月) 19:19:20.14
>>594
陳寿は道里を計算したんだよ
つまり倭人伝に書いてあることから会稽東治之東が求まる
九州説さん、そんな計算ができる?

九州は無理だね

596日本@名無史さん2019/01/07(月) 19:23:30.12
会稽東治之東を指摘するには会稽東治からの里程を検討しなければ意味が無いな

里程を検討できないのなら、陳寿も里程で検討したのではなく、
会稽東治之東についてはざっくりとした大まかな方角を示したにすぎないことになる。

597日本@名無史さん2019/01/07(月) 19:30:05.13
陳寿は道里から計っている

598日本@名無史さん2019/01/07(月) 19:34:34.84
413の>>567
>太宰府の条坊制地割は白村江の戦いの敗戦直後までは無かった・・・
「ヤマト政権に先行する九州倭国が白村江の戦いの敗戦前まで存在し、
その首都が条坊制地割を持つところの都であった太宰府である」との主張は否定される。
大宰府はハリボテの都であった(参考) <

古賀さんらと通説側学者らの議論では、
初期の太宰府条坊は、7世紀前半であった、という結論であった筈。

>また、この時期、穴戸の豊浦宮は長府に移され、穴戸国は長門国に改名されるなど大きな変更があった(参考)
観世音寺も移築されて法隆寺になったと言う説もあり得ない(参考) <

法隆寺の釈迦三尊の光背銘の上宮法皇は、推古である事も厩戸である事も否定され、
多利思北孤であった、と強く推定された筈。

>北九州の人口は西日本の中で相対的に少なく、九州王朝説は成り立たない(参考)<

どなたかの米の収量情報では、北部中部九州が近畿よりも圧倒的に収量が多かった筈。

>追加: 後の研究により、水城は実は御笠川下流の洪水や土砂崩れを防ぐ砂防ダムであった(参考)。
さらに朝鮮式山城や神籠石山城なども土砂崩れ対策の治山事業であった(参考) <

通説大和説学者らの、「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しをする輩の論文はは、、
大和説という思想宗教に狂った・・・・学者である可能性があり、
全く信用出来ない。

599日本@名無史さん2019/01/07(月) 19:34:37.89
>>587
神武には九州にいた頃に生まれた息子にタギシミミ、畿内に東征してから生まれた息子にヤイミミがいますね。
東征したのが誰かと言うなら、もちろん神武でしょう。

600日本@名無史さん2019/01/07(月) 19:37:45.80
600

601日本@名無史さん2019/01/07(月) 19:39:44.93
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

602日本@名無史さん2019/01/07(月) 19:39:53.52
>>596
だから陳寿は計算して結論を出してる
九州は三国志を無視したいの?

603日本@名無史さん2019/01/07(月) 19:43:37.16
>>569
>要するに、本当は東なのに、陳寿が南という認識でいるために
「東行3千里以外南行しかしていない」ことになるし
「以南や以東、以西のことは知らない」ことになるんだよ
東への長距離移動が南向きと錯誤されているがために
魏志倭人伝の地理観ができあがる訳だ <

ならない。この類スレ主の分裂幻覚の妄想であるだけ。
陳寿は、魏使らの記録を踏襲して記載しただけ。
それが証拠には、魏志では「余」のある概数推定記載と、
「余」のない記録通りの転写記載とを、はっきり書き分けている。

604日本@名無史さん2019/01/07(月) 19:48:48.65
413の>>571
>つまり 「東行3千里以外南行しかしていない」
「以南や以東、以西のことは知らない」 という
魏志倭人伝の地理観そのものが東を南とする錯誤の傍証な訳だ<

これも嘘つきだまし。
陳寿は、「南至投馬國」情報を書き足しているし、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
という、魏使らの(部下の?)記録係の見聞記録も書き足している。

605日本@名無史さん2019/01/07(月) 19:55:37.59
>>604
>陳寿は、「南至投馬國」情報を書き足しているし、

書き足したって証拠は?


>「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
>又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
>という、魏使らの(部下の?)記録係の見聞記録も書き足している。

見聞記録だって証拠は?

606日本@名無史さん2019/01/07(月) 19:57:33.69
>>603
>それが証拠には、魏志では「余」のある概数推定記載と、
>「余」のない記録通りの転写記載とを、はっきり書き分けている。

書き分けているという証拠は?
ランダムじゃないと立証できたの?

607日本@名無史さん2019/01/07(月) 19:58:15.77
>>583
じゃあ最新の反論をどうぞ

608日本@名無史さん2019/01/07(月) 19:59:18.44
世界中
古代の方位は太陽と星で決めたんだろ

609日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:01:19.45
>>586
畿内に魏と卑弥呼の時代3世紀の三角縁神獣鏡も前方後円墳もある
誤ってない
南1万2千里が邪馬台国は誤り

610日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:01:42.89
413の>>576
>>大規模工事ができるのは、それ相応の人口や経済力があったからだろ?
人口が少ないという推測時代に誤りがあるんだよ。<

>だから「白村江の敗戦後に作られた」って書いてあるだろ?<

そんな「唐に敵対するため」の幾つもの大規模工事は、
郭務ソウらがも筑紫都督府に来た時までに完成する筈もなく、
そりゃ、「敵対的だ」として攻撃されてしまうよ。

>大和朝廷の動員で行われた大規模工事だよ<

白村江の前に、
唐や新羅の攻撃や、
東方の大和日本国の寝返り反乱を恐れた九州倭国が、
自前で建造したもの。

611日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:02:18.50
オレ様の思想に合わないからお前は間違っている、というロジックを捨てないと九州説には先が無いよ
まあ、捨てた瞬間に九州説じゃなくなるんだろうけど

612日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:04:26.39
413の>>577
>>前方後円墳も筑紫から移住した一族が伝えたものだったのですね。<

>時系列、ガン無視だなw だから九州説はトンデモなんだよw<

何だ?、その「時系列」とやらの、説明が書けないのか?。

613日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:07:02.37
奈良文化財研究所より

方位
間違いないのは太陽を利用する方法です。地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。
この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。日本へは、そうした書物や朝鮮半島からの渡来人をつうじて伝えられたのでしょう。


南≠東

614日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:13:36.91
畿内説の三種の神器

鏡…三角縁神獣鏡

畿内で最も多く見つかる魏の銅鏡
記銘されている魏の年号景初三年は
当時現存していた原典に近い魏志倭人伝を引き写した
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に卑弥呼が魏に使いを送った年と出てくる
魏から卑弥呼への下賜鏡とされる

剣…淮南子に書かれている世界の果てまでの距離1万2千里

帯方より南1万2千里が邪馬台国は短里で実測された距離という
九州説の主張を漢の時代に書かれた淮南子に出てくる
空想的なものだよとバッサリ一刀両断

勾玉…九州説をネチネチといたぶり倒す曲がった根性

615日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:15:54.04
>>613

それはその場所の方位はわかるけど
その場所から移動した後にどの方向に進んだのかが必要だからな

616日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:19:06.44
413の>>589
>大宰府の城郭は、憶礼福留、四比福夫指揮の扶余羅城の構造だな
大野城最下層から百済系軒丸瓦も出てる
白村江の後急ピッチで建設したんだろうな<

またアホが出て来たね。
百済が一旦滅んだ後の、白村江で倭國が大敗した後では、
「大野城の最下層から百済の軒丸瓦」なんて、
運んで来る事自体が、唐に敵対しているんであり、出来る筈がないではないか。
だから、逆に、「大野城の最下層から百済の軒丸瓦」は、
百済が健在な時(白村江の前の百済の存在時)に、大野城の建設が始まっていた、
という事の証拠。

617日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:22:14.92
>>613
部下が方位を東と報告しても
上司が南だと言えば南になるのは古代でも現代でも同じ

618日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:22:45.90
413の>>596
>大野城は朝鮮式山城としては最初と紹介されるが、
伊都の高祖山には中国式山城があったことが判明している。<

ふーん、成程。

619日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:23:27.93
>>615
つーか、古今東西世界各地で方位を間違えてる人が後を絶たないのは一体なんで?
って話よ

620日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:25:23.02
>>618
>>大野城は朝鮮式山城としては最初と紹介されるが、
>伊都の高祖山には中国式山城があったことが判明している。


>>大野城は朝鮮式山城としては最初と紹介されるが、
伊都の高祖山には中国式山城があったことが判明している。<

621日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:25:31.32
東に行ったら無鉄器毛人の地

622日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:27:50.38
暴発しちゃった


>>618
>>大野城は朝鮮式山城としては最初と紹介されるが、
>伊都の高祖山には中国式山城があったことが判明している。

大野城が伊都高祖山の中国式山城より古いだけ

623日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:29:01.19
>>621
エロい事でも言ってるのかとカン違いしたじゃねーかよ

624日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:35:03.89
>>601
>>そもそも大和朝廷の防衛のためなら、関門海峡や大阪湾沿岸に防衛戦を築くべきだ。<

>残念ながら>>566にも書いてあるとおり、いろんなところに防護施設が作られてるんだよ
太宰府王都説は破綻している <

残念ながら、高安信貴のや鬼ノ城は、山城状であり、神籠石的ではない。

>山城ていろんなところに防護施設が作られてるんだよ 太宰府王都説は破綻している<

神籠石や水城は、白村江のはるか前から造られており、
大和説は破綻している。

625日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:41:27.37
神籠石が瀬戸内海にあるから脳
畿内は九州と敵対しとったんじゃ脳

626日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:50:23.92
日本語でおk

627日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:51:03.41
>>624
>神籠石や水城は、白村江のはるか前から造られており、
>大和説は破綻している。

証拠は?

628日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:56:37.60
東に行ったら無鉄器毛人の地

629日本@名無史さん2019/01/07(月) 20:58:45.30
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

630日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:01:51.74
>>628
このように
九州説の人は
加齢するとともに
おかしな宗教や政治思想に
かまけるようになっていくのだ

631日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:02:42.06
>>609
三角縁神獣鏡も前方後円墳も3世紀後半以降に造られた。
卑弥呼が死んだのは、248年。
無理に接木すると、ヘンなことになるよ。

632日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:05:03.55
>>631
それ、根拠は?


いつもどおりの九州説
ww

633日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:06:16.95
無理に接木した結果、ヘンなことになってます。

634日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:12:38.87
根拠はもちろん願望だよ

635日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:13:05.77
九州説はすべてそれ

636日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:14:09.01
新年明けましておめでとう御座います!
居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
⇧見つかりましたか?(玄界灘周辺に1票
あ〜んど壹与ちゃんの都は葛木かも?

637日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:18:32.15
>>636
誰に話しかけてんの?

コミュ障は大変だね

638日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:19:54.01
まーがんばれ!


追記 素人爺どもは相場師に騙されるな?
大損こいてるんは爺どもと年金運用

639陳寿90度回転さん2019/01/07(月) 21:22:47.30
魏使は、皇帝の使者であることを周囲に示すため、周囲の蛮族たちが驚くような極力大きな船に乗り、
皇帝の使者であることを示す旗などでやたらにゴテゴテ飾り付け、
護衛の兵士や荷運びの奴隷を乗せた船も何隻か連れて、大名行列で来る訳よ。

この人たちは基本的に、目的地ギリギリまで海岸沿いを水行する。
なぜなら人も荷物も多いし、船団自体に魏国の偉大さを示すデモンストレーションの意味があるから。

その人たちが、末廬国に上陸した後、いきなり東南→東南→東と、内陸内陸に進んでいくというのは、ない。
そして内陸に深く分け入って不弥国に行った後、今度は水行20日で投馬国だ。
使者だけ内陸を歩き、船団は海岸沿いに追いかけて来て、途中で合流したのか?そりゃないよ。

実際は、末廬国→伊都国→奴国→不弥国と、ずっと北九州沿岸を北東に向けて船団と一緒に進んでたわけ。
そうすると、行程記事にある方角は最初から間違っているというか、時計回りに綺麗に90度ずれている。

この原因は2つしかなく、方角を間違ってたか、意図的に90度ずらしたか、だ。
そして方角を間違い、その後もずっと間違い続けるか?というのはなさそうだから、
残るのは『意図的に90度ずらした』だよ。で、それをやったのは誰か?
『後で航海してくる連中が迷って遭難したりしたら大変だし、とにかく都には間違いのない精確な報告をしておかないと・・・』
というモチベーションを持つ魏使じゃない。

記事が都でどれだけ受けるか、評価されるかばかり気にしている編纂者である陳寿だ。
彼は『天円地方』説に基づき、中華の知識人が受け入れやすいよう、倭国の向きを90度回転させた。
ちなみに卑弥呼の時代以降に造られた前方後円墳は、この『天円地方』説に基づいたものだ。
魏使が『天円地方』説を伝えたのだろう。

640日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:23:18.48
>>627
八木奘三郎が神籠石は山城で石組の構造から7世紀以前に造られたものだと言ってるね。

641日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:24:24.03
東に行ったら無鉄器毛人の地

642日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:25:42.52
>>632
三角縁神獣鏡が4世紀以降に造られた国産鏡であることは確定しているし
その三角縁神獣鏡が出土する前方後円墳も4世紀後半以降に造られたもの。

643日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:26:04.55
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

644日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:28:33.51
413の>>602
>九州国立博物館による解説
「それらの発掘調査の結果、推定朱雀大路(政庁中軸線上に伸びる南北2kmのメインストリート)は、
 路面幅約35〜36m、それ以外の道路は路面幅約3mで、朱雀大路をはじめとする右郭に位置
 するいくつかの南北の道路は8世紀代に成立し、その後、縮小を続けながらも11世紀後半ごろまで
 掘り替えられていました。その一方で、その他の道路の多くは、10世紀後半、すなわち
 藤原純友の乱の後、大宰府政庁V期の建物が築造された時期とほぼ同時期に造営され、
 11世紀後半から12世紀前半に廃絶したことがわかりました。」
『大宰府政庁の成立当時から条坊の完全な姿が存在したわけではないようです。』 <

九州国立博物館では、始めから「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者の管轄だから、
全く信頼性がない。
古賀さんと発掘担当学者との議論で、条坊ラインと観世音寺のラインとのズレが発見され、
条坊ラインの方が古く、観世音寺の完成は670年であった事などから、
条坊の方が7世紀前半にまで遡る、という事になっていた筈。

645日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:30:22.75
まったく

根拠を言わない


 九州説

646陳寿90度回転さん2019/01/07(月) 21:36:48.02
不弥国の次の投馬国も、その版図は実に水行30日分(行くまでの20日+陸行を始めるまでの10日)にも達し、
そのような長大な海岸線を持つ国は、九州には入りきらない。
その投馬国の可能性がある長大な海岸線を持つ国の候補としては、出雲王国か、吉備王国しかない。

647日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:39:57.19
>>644
>九州国立博物館では、始めから「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者の管轄だから、
>全く信頼性がない。

自説に都合の悪いことはすべて難癖を付けて否定するww
最近、火器管制レーダー照射について似たようなことをしている国があるねぇ
多分、中の人が同じ系統なんだろうねw

648陳寿90度回転さん2019/01/07(月) 21:42:07.05
そしてその出雲王国か吉備王国(戸数5万)の先にある、大船団を置いて陸行1月かけて行かねばならない、盆地にある国。
戸数7万の国。その場所はどこかと言えば、奈良盆地しかない。

649日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:43:34.54
413の>>604
>那珂八幡古墳は纏向型前方後円墳だよ 箸墓よりも古いww
と書いてあるとどうして九州からの移住者が作ったことになるんだ?
那珂八幡古墳より纒向石塚古墳の方が古いんだよ
時系列ガン無視じゃなくてただのもの知らずなのかい?<

まず前方後円墳は、卑弥呼の冢や平原の墳丘墓よりも新しいし、
筑紫の前方後円墳は、
西晋の武帝の時の「天円地方」の思想と高句麗の前方後円墳思想の、
筑紫への流入があった可能性が高い事と、
那珂八幡は、くびれ部彎曲であって高句麗の前方後円墳と似ているが、
大和の石塚や箸墓のは撥型前方後円墳であって、高句麗の前方後円墳に似ていない、
という事で、那珂八幡の方が、石塚や箸墓よりも古い、という事になり、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って、筑紫の前方後円墳が大和に伝播した、
と考えられること。

650日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:45:04.98
>>646
>その投馬国の可能性がある長大な海岸線を持つ国の候補としては、出雲王国か、吉備王国しかない。

記紀がどこまで信じられるかってのはあるけれど、神武の東征説話では
安芸国の埃宮と吉備国の高島宮は別扱いだから、吉備王国はそこまで広くないと思う

651日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:52:21.45
413の>>606
>自主規制してないのは魏使倭人伝の「大作冢径百餘歩」で分かるだろ?<

百余歩(≒25.5m余)では、自主規制している。

>そして張政もそれを咎めていない<

当たり前。楽浪太守墓と同じ位のサイズ。

>そもそも皇帝墓についての副葬品を豪華にするなというのが薄葬令の中身なんだから
倭人の墓の墳丘については完全に無関係 <

人手とカネがかかる事を否定している。

>そもそも薄葬令を誰が倭国に伝えたという設定のつもりなんだ?ww<

当然、魏や郡の役人が、魏朝の臣下でもあった倭大夫率善中郎將らに伝えた。

652日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:52:24.06
>>650
そこまでとは、何処まで?

653陳寿90度回転さん2019/01/07(月) 21:55:30.76
>>650
僕も、可能性として吉備王国を上げはしたものの、実際は以下の理由により出雲王国であったろうと思う。

○その後の陸行の長さ
○行の航路であれば対馬海流に乗ることが出来てラクチン
○投馬(3音節)、出雲(3音節)、吉備(2音節)で、音感も出雲の方が似ている

654日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:56:11.89
413の>>611
>纏向型前方後円墳は石塚を初めとし、矢塚、勝山などがあり、石塚は今や200年頃の築造かとすら言われている。
いくらなんでも、那珂八幡が石塚より古いわけないよな。
那珂八幡は、3世紀後半じゃろね。<

いくらなんでも 「卑弥呼の冢」よりも、前方後円墳の方が古い、なんて事がある訳ないよな。

655日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:08:06.16
>>652
>そこまでとは、何処まで?

>>646のいう水行30日分というところまで

656日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:12:33.05
チョンスレ

657日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:13:04.44
>>653
>○投馬(3音節)、出雲(3音節)、吉備(2音節)で、音感も出雲の方が似ている

投馬は、上古音でdug-magの二音節という説に賛同
投馬が「ヅマ」で、出雲が「ィヅモ」
最初の母音が弱声化すればぴったりだと思う

658日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:13:23.71
>>648
>戸数7万の国。その場所はどこかと言えば、奈良盆地しかない。

まったく根拠がなくて呆れるよ。
妄想だね。

659日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:14:36.04
陸行一月は島国である日本列島のどこにも該当しない。
1日の間違いだろう。

660日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:16:33.35
3世紀の奈良盆地は無人の湿原ですから、残念!

661日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:19:09.02
>>631
三角縁神獣鏡も初期前方後円墳も
X船蛍光測定や炭素14c測定など
科学的な分析によって3世紀のものと結論づけられている

662日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:19:19.95
>>659
最低でも1日15kmは行くからな
30日だと450km
水行もあるし最低でも東北地方くらいまでいくなw
北海道もあり得る。

663日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:20:50.50
>>661
初耳だなソースは?

664日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:23:47.62
>>642
イヤ畿内で見つかる三角縁神獣鏡には
景初とか正始とか3世紀である239年〜240年の魏の年号が入ってるし
これを4世紀以降で確定とする根拠は何よ

665日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:25:08.84
>>663
知らんのはお前だけ
考古学会では常識中の常識

666日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:28:00.56
>>653
>○行の航路であれば対馬海流に乗ることが出来てラクチン

記紀がどこまで信用できるかってのはあるけれど、
大国主の妻に奴奈川姫(越)から、多紀理毘売(宗像)までいるのは、
日本海側の交流、交通がそれだけ盛んだったことの反映だと思う

その意味でも、日本海航路の「投馬国、出雲」説の方に分があると思う

667日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:28:54.48
>>665
だからソースは?

668日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:30:11.07
>>654
>いくらなんでも 「卑弥呼の冢」よりも、前方後円墳の方が古い、なんて事がある訳ないよな。

前方後円墳は冢だし、実際卑弥呼の冢は前方後円墳だぞww
最新の標準編年を否定し続けないと成りたたないのが九州説

669日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:30:24.21
> X船蛍光測定

これがお前の学会のレベルかあ

科学的に重大な欠陥だらけだと指摘されたのに
懲りるどころか積極的に詐欺をしているわけだ

670日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:32:16.30
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

671日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:33:42.62
冢は同じ三国志東夷伝の、韓伝に参考箇所があるだろ。

弥生朝鮮半島の住居であり、
円形も方形もあり、
ちょうど平原遺跡の冢くらいの大きさだ。

朝鮮半島の住居は巨大な前方後円型ではない。

672日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:34:41.58
>>631
卑弥呼が死んだのは257〜8年頃と
魏志倭人伝にも書かれている

673日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:36:07.20
413の>>618
>向き合った結果 魏志倭人伝の帯方より南1万2千里が女王国は<

これ、嘘吐き騙しで×。「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」と書いてある。

>淮南子と後漢の伝承から引いてこられた架空のもので<

これも×。
淮南子は「萬二千里」であり、
魏志は「萬二千余里」で「余」を付けてあるから、
萬二千里とは違うデータからの近似表現になっており、
だから淮南子情報を転写したのではなく、
魏使らの記録から近似した数字である、という事になる。

>淮南子は、概念的には沖縄台湾辺りの会稽東治の東を指し
北九州はおろか邪馬台国すら指していないという結論が出た<

淮南子も、「沖縄台湾辺りの会稽東治の東」という場所を特定していないから、×。

674日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:37:10.67
>>669
化学分析がサギサギ論法は
21世紀の現在には通用しない

675日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:39:34.07
413の>>619
>陳寿が東にある邪馬台国を南と書いたんだよ
皇帝に気に入ってもらおうと それだけの事<

邪馬台国はないし、何の史料事実根拠もないから、分裂幻覚の妄想であり、×。

676日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:42:19.92
>>674
分析手法が詐欺詐欺なのだが。

あ、ついでだからさ、X船蛍光測定(笑
を引用している学者さんを教えてよ。
とてもいいリトマス試験紙になる。

677日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:43:05.02
>>659
>陸行一月は島国である日本列島のどこにも該当しない。
>1日の間違いだろう。

その一日って何時間歩くんだ?w
水行で行ける国なら海岸まで国が広がってるだろ?
逆に1日だったら、そんな陸行がわざわざ書かれるのはありえない

678日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:43:37.52
>>667
蛍光X線分析によって三角縁神獣鏡は魏・晋鏡と同じ成分

埋葬されていた木棺のAMS法分析によって
ホケノ山古墳の被葬者は120〜244年頃のもの
副葬品から見て3世紀中葉

ほら出してやったぞ

679日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:48:13.78
>>676
蛍光X線など分析手法がサギならば
証明すれば科学史を引っ繰り返す新たな理論の発見者となってノーベル賞受賞は確実
ぜひ蛍光X線分析のどこがサギなのかご解説願いたい

680日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:48:54.94
>>677
>逆に1日だったら、そんな陸行がわざわざ書かれるのはありえない

それお前の主観だろw陸行が少しでもあれば書く必要あるんじゃないの?

>>678
そのソースは?

681日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:49:08.53
>>678
>蛍光X線分析によって三角縁神獣鏡は魏・晋鏡と同じ成分

魏晋鏡を溶かして作ったんだね。
ということは、日本への伝来時差を考えると
めでたく晋代。
よかったね。

682日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:52:26.19
>>678
>副葬品から見て3世紀中葉

本州なんだから、邪馬台国の東の倭種の国だろ。
畿内は結局それに尽きる。

683日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:52:42.59
>>681
成分が同じなのは当然だよな
国産の銅はまだ無いから
国産の鏡も材料は輸入品だからね。

684日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:53:01.62
>>677
>水行で行ける国なら海岸まで国が広がってるだろ?

伊都国は内陸だよ。

685日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:53:08.24
>>679
なんもわかっとらんのだな。
うーむ。
本当にわかっていないただの馬鹿なのか、
分かった上で押しとおそうとしている詐欺師なのか、
よくわからん。

ただどちらにせよ、お前は議論に参加する資格が無いということは
わかった。

686日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:53:31.69
>>671
それ、家の形の説明であって、大きさは関係ないんだが?
相変わらず漢文が読めないんだなww

687日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:55:29.91
413の>>623
>「臨海郡」が江蘇省だとか 真っ赤なウソを並べてるから
九州説がご臨終したんだよ 信用を失うってどういうことだか思い知れよ・・・<

Wikiの臨海郡:
257年(太平2年)、三国の呉により会稽郡東部を分割して、臨海郡が立てられた。
臨海郡は揚州に属した。

だから、会稽郡の南とは書かれておらず、「会稽郡の東部」と書かれており、
しかも、江蘇省の殆どを占めた揚州に属した、と書かれていた。

688日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:56:09.55
うん、キナイコシは詐欺師

689日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:57:43.22
>>680
>それお前の主観だろw陸行が少しでもあれば書く必要あるんじゃないの?

主観じゃないってw
>>677にも「水行で行ける国なら海岸まで国が広がってるだろ? 」って書いておいただろうがw

690陳寿90度回転さん2019/01/07(月) 22:58:15.48
>>659>>662
いやいや。魏使は途中途中で接待攻めに遭いながらの行程で、
しかも馬も牛もいないので、完全に徒歩だ。

土産の鏡だって、一つ一つ丁寧に、布で何重にも包まれ、
魏国皇帝の紋章が焼き印か金で象嵌された美しい木箱に入れられて、
その箱自体が大切に大切に、別の箱に入れられている。

鏡を運ぶ奴隷だけで数十人規模だ。護衛兵を入れたら数百人にも達する一行。
それが舗装もされていない道を、毎日毎日15kmも歩くはずがない。

そもそも本州ですら陸行1月が無理筋なら、九州だと余計に無理筋だろう。

691日本@名無史さん2019/01/07(月) 22:59:30.17
>>682
>ということは、日本への伝来時差を考えると

魏朝から直接銅鏡もらってるんだから、伝来時差はほぼないだろ?

692日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:03:59.51
>>683
>成分が同じなのは当然だよな

それがな、倭国の青銅器製作に技術は想像よりも高くて、ちゃんと金属をブレンドして使っている
だから仿世鏡の微量成分分析をすると、分布域が広くなるんだよ

成分が同じなのは、実は当然ではないんだ

693日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:04:24.84
>>624
>>根拠の詳細は省きますが、「会稽東治」だと「会稽の東部地域の治所」と解釈し、
>現在の江蘇省蘇州市辺りとなる<

>ソレ、詳細を省いてるんじゃなくて ただウソついてるだけだから<

江蘇省蘇州市辺りなら、揚州近く、揚州(≒江蘇省)の地域になるから、
この類スレ主がウソをついていることになるだけだなあ。

694日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:08:55.46
>>684
>伊都国は内陸だよ。

糸島水道が繋がってて糸島半島が島だったんだから、海からすぐだよ

695日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:10:53.90
>>685
中身が何もないww
議論する気がないのは>>685だな

逃げてるとも言うww

696日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:11:35.20
>>694
ちょうど一日歩くのにいいです。
輿に揺られてえっちらおっちら行くわけだから。

697日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:13:17.99
413の>>625
>まあ後漢書の指す会稽東冶之東は邪馬台国というより
後漢に朝貢し倭の極南界にあると想定された倭奴国の概念的な位置だろうけど <

後漢書の「東冶」は、後代での「自己解釈に拠る前史の書き換え」の多い范曄の記載だから、根拠にならず、
この類スレ主が、×。

>魏の学者そして陳寿は後漢の由緒正しい朝貢国倭奴国と邪馬台国をなるべくすり合わせようとした<

後漢書の方が半分×記載なんだから、これも×。

>万里の彼方にあるという倭の極南界にある国が漢と同じように魏を慕い朝貢に来ましたよとするために
だから考古物証で見れば大和国=邪馬台国は東にあるのに
魏志倭人伝では南にあると書かれている の<

人類は「日の出日の入りで東西南北を間違えない」から、×。

698日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:14:21.22
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

699日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:22:23.35
413の>>628
>後漢書も魏志倭人伝も会稽東冶之東は空想的な倭の極南界沖縄台湾辺りを指す
魏志倭人伝の行程も大体そんな感じだろ
九州に上陸したら南へ南へと進んで<

魏志は、はっきり「不彌國の南で萬二千余里」はほぼ終了していることを示し、
投馬國は不彌國からの側副傍線國で南九州付近である事を示して、
女王國が九州付近である事を示し、
女王國が沖縄や台湾や赤道付近にある事を否定し、
「南≠東」などに拠っても、大和を否定している。

700日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:26:14.78
413の>>630
>後漢書の倭奴国の下りは魏志倭人伝の成立より古い
後漢と倭奴国の交流記録を引き写ししたものだよ<

後漢書は、書き換えが多い范文×書だから、根拠にならない。

>それから見るに後漢ですでに倭国は国境(楽浪)より南1万2千里
その都は倭の極南界で場所で言えば会稽東冶之東の
沖縄台湾辺りとなっていた事が伺える <

後漢書は、半分偽書であるから、伺えない。

701日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:30:09.68
>>694
遠浅で大きな船は海岸に近付けなかったんだ。

702日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:32:48.17
>>699
>投馬國は不彌國からの側副傍線國で南九州付近である事を示して、

12000里が終わってるんだから、帯方郡から水行20日だよ
不彌國は内陸で不彌國から水行なんて無理。

703日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:36:33.57
413の>>635
>魏志倭人伝の行程は淮南子と後漢書を下敷きにした
概念的なものととっくのとうに解析済み<

淮南子は「余」がなく、
魏志は、「余」があるから、「余」のない淮南子を下敷きにしていないし、
後代の後漢書を下敷きには出来ない。

大和説は、いまだに長里長里とやっているようだが、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学者本を絶対的聖典とし崇める儒教思想。
それが大和説。

704日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:37:30.05
>>696
>ちょうど一日歩くのにいいです。

>>677でも「その一日って何時間歩くんだ?w 」て書いただろ?

糸島水道から三雲遺跡群まで2キロしかないぞww
普通に歩いて30分
というか上陸したところから見えてるw
それを陸行一日って書くか?

一月を一日にというのは理に合わない改竄
南が東の錯誤というのは、多くの状況証拠から論証できる合理解

705日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:40:15.66
>>671

「其俗少綱紀 國邑雖有主帥 邑落雑居不能善相制御 無跪拜之禮 居所作草屋土室 形如冢」

その風俗は、規律が少なく、国邑に統治者がいるとはいっても、
村落は入り混じり、うまく制御することができない。
跪いて拝む礼はない。住居は草の屋根と土の部屋を作り、形は盛り土の墓のようである。

文章全体から読み取らないと

706日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:40:35.57
>>701
>遠浅で大きな船は海岸に近付けなかったんだ。

小舟に移ったところで、または遠浅の沖から海を歩いたところで、それは陸行じゃないだろ?
陸に上がってから三雲遺跡群までは>>704にも書いたがたったの2キロだ

707日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:42:06.37
413の>>645
「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
一切証拠を言えず、出さないで断定し続ける。


それが大和説。

708日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:49:56.38
>>706
大きな船の着ける天然の良港の呼子か名護屋浦付近に上陸したんだよ
そこから歩いて1日
呼子や名護屋浦付近の風景が「濱山海居」
東松浦半島の風景が「草木茂盛 行不見前人」
二丈付近の風景が「好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之」。

709日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:53:13.41
413の>>660
>世界の果てまでの架空の数値一万二千里が九州北部を指すというのは
架空の話という事になる<

淮南子には「余」がない萬二千里だから、
実測ではなく形容詞的文言であったかも知れないが、
魏志には「萬二千余里」という、
記録データからの近似的な数値記載である事を示す文字があるから、
(淮南子の引用ではなく)、
魏使らの記録からの近似的推論数値である。

710日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:59:47.18
413の>>666
>架空の数字1万2千里で指されてしまった九州北部邪馬台国は
架空の存在だったという事だ <

魏志に、「余」のない里数記載と「余」のある里数記載が混在している、
という事は、
陳寿は、魏使らの記録から「余」を使って近似的な記載をした李記載もあった、
という事だ。

711日本@名無史さん2019/01/08(火) 00:05:35.54
>>708

倭人伝では陸行は一月

712陳寿90度回転さん2019/01/08(火) 00:18:14.26
日本海側のどこかから奈良盆地まで歩いたので、陸行1月なんだと思う。
これにより投馬国は吉備王国ではなく、出雲王国の蓋然性が高まる。

北九州から出雲までの距離を2とし、そこから日本海側を1の距離移動した辺りに、
奈良盆地に続く古代の街道があれば。おそらくそれが、魏使たちが辿った道だろう。

713日本@名無史さん2019/01/08(火) 00:18:39.21
413の>>667
>何言ったって短里は土地税制からいって有り得ないからな
九州説は伝世資料だけしか見ないから自らが現実と乖離してるということをを自覚しなって><

何と言っても、「里」は「田の土地」という形だから、
一人の人が耕し生活出来る一つの田畑を数える距離単位であったようであり、
畝に近い広さであったようだが、
しかし、時代に拠ってかなり変化していて、断定的な根拠にはなりにくい。

714日本@名無史さん2019/01/08(火) 00:31:28.18
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

715陳寿90度回転さん2019/01/08(火) 00:49:04.20
魏皇帝が、クシャーナ朝(インド北部+アフガニスタン+西域を支配した大帝国。後漢と戦って敗北し、以後後漢に朝貢)
に与えた『親魏大月氏王』と同格である『親魏倭王』に下賜する鏡100枚。
親魏倭王はそれを周辺諸国の王たちに分け与え、魏国の権威を東夷全体に知らしめる。

その鏡の1枚1枚が、どれほど大切に梱包され、運ばれたことか。
過剰と言われるくらいに何重にも梱包され、奴婢1人が背負うのは、せいぜい1枚か2枚であったろう。

つまり鏡を運ぶだけで100人か、少なくとも50人くらいの奴婢の列だ。
他にも下賜品は多々あり、それを護衛する兵士、さらにその兵糧を運ぶ奴婢も含めると、数百人は下らない一行。

彼らの陸行は大仕事で、どうしても陸行せざるを得ない時にしか陸行しなかった。

これゆえに、行程途中の国々はおおむね海に面し、最後の邪馬台国だけは内陸の盆地であったことが推定される。

716陳寿90度回転さん2019/01/08(火) 00:57:48.22
九州のローカルな王が、魏皇帝から見てクシャーナ朝と同格か?
辰韓、馬韓、弁韓と比べて格上か?
東海に浮かぶ『周旋可五千餘里』の巨大列島の王であるからこそ、『親魏倭王』の称号を与えたのではないか?

717陳寿90度回転さん2019/01/08(火) 01:07:19.40
いずれにせよ『陳寿90度回転説』は、この永年に渡る邪馬台国論争を、
完全に解決する説なのだ。

718陳寿90度回転さん2019/01/08(火) 01:21:03.44
仮に邪馬台国が宮崎や熊本だとすると、そこには船で簡単に行けてしまうんだ。
宮崎や熊本であれば、船で行かない理由がない。陸行1月を歩く必要がない。

魏使がどんな船に乗って来て、どれだけの数の人間がその一行にいたか。
その荷物がどれほどの量になったか。それらの荷物はどう扱われていたか。
そこに合理的かつ常識的な想像力を巡らせれば、行程記事は読み解けると思う。

719日本@名無史さん2019/01/08(火) 02:04:10.92
奈良文化財研究所より

方位
間違いないのは太陽を利用する方法です。地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。
この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。日本へは、そうした書物や朝鮮半島からの渡来人をつうじて伝えられたのでしょう。


南≠東

720日本@名無史さん2019/01/08(火) 02:07:13.99
>>688
>キナイコシは詐欺師

キナイコシは詐欺師じゃないよ 詐欺を働く知恵は無い
単なるお馬鹿さん 畿内説の恥さらし
馬鹿だから本人は気づいていないだろうけど

721日本@名無史さん2019/01/08(火) 02:16:42.47
>>719
それでも人は道に迷うんだよ
それが人類の歴史だ

722日本@名無史さん2019/01/08(火) 02:20:40.34
畿内説では、「南は東の間違い」とする意見だが
やはり太陽は東から昇って西に沈むのは基本的なことで、
これを古代の中国人と交流もあった、船を操舵する海洋民族の倭人が知らないことは、
大洋を航海する上では致命的である
後漢書でも魏志でも同じように、「倭は韓の東南大海の中」とあって、ここでの韓は馬韓のこととされているが、
韓から東南に直線を引くと明らかに延長線上は九州となる 畿内は真東にちかく、奴国(福岡市)と不弥国の南という記述には矛盾する
ただ邪馬台国九州説で説明がつかないのは距離の問題 短里でも良いでしょうが邪馬台国の比定地が九州の何処でしょう

723日本@名無史さん2019/01/08(火) 02:23:08.76
>>721
魏の使者が何度 邪馬台国に来たか答えて見なさい

724日本@名無史さん2019/01/08(火) 02:34:31.04
畿内説の南→東は
誤認・誤情報・陳寿が書き換えたに集約されそうな勢いだが
いずれも根拠が薄弱で憶測であろう
纒向も王都とするには根拠が薄弱で憶測である
更なる調査研究が進むことが望まれる

725日本@名無史さん2019/01/08(火) 02:36:29.73
キウス

726日本@名無史さん2019/01/08(火) 03:37:37.31
クシャナ朝と漢が戦ったとか無いと思うが
大月氏もクシャナ朝では無いし
目茶苦茶言ってないか

727日本@名無史さん2019/01/08(火) 03:42:43.78
>>724
>いずれも根拠が薄弱で憶測であろう

相変わらず、ひとことも理由を言わない九州説
デタラメ過ぎる

728日本@名無史さん2019/01/08(火) 04:03:55.23
畿内説の学者は功を焦りすぎ
妄想から捏造に走らなければ良いが・・・
功は後進に譲るつもりで研究すべきだが
悍ましい輩の集りのように見えてくる

729日本@名無史さん2019/01/08(火) 04:06:47.82
居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
見つかりましたか?

730日本@名無史さん2019/01/08(火) 05:32:00.77
大集落跡
みつかりましたか

731日本@名無史さん2019/01/08(火) 05:33:20.09
413の>>668
>そんなところに天下を治めた大王がいるのか?<

陪葬のヲワケにとっては、中心の粘土槨の加多支鹵は左治した大王であったから、
鉄剣に刻んでもらった。

732日本@名無史さん2019/01/08(火) 05:35:39.18
413の>>670
>位置方向は東だから陳寿の勘違いが確定したか <

大和説の×が確定した。

733日本@名無史さん2019/01/08(火) 05:36:49.23
柱が見つからないと 都の撤去とともに抜いたという短絡的な考えにはついていけない
いわんや、石床もないのに大型という 平屋の建物でんな

734日本@名無史さん2019/01/08(火) 05:38:19.52
413の>>671
大和説の最大のアホ論拠の一つだった1万2千里が、
今後は九州説が大和説を殴る武器になった。
大和説はデッド・エンド 。

735日本@名無史さん2019/01/08(火) 05:40:47.56
>>727
根拠は支離滅裂のテンプレ
こんないい加減な説を信じられるか

736日本@名無史さん2019/01/08(火) 05:41:34.75
413の>>672
大和説は歴史テロだよな
戦後の最初の方はその指摘に価値があったかも知れないけど
だんだん辻褄合わせの珍説になっていった

737日本@名無史さん2019/01/08(火) 05:43:30.74
413の>>675
大和説は恐らくキョクウ系の戦争準備なのかも知れんなあ
イザとなったら天皇バンザイとやるための

738日本@名無史さん2019/01/08(火) 05:47:56.69
413の>>680
史料事実からの帰納的確率的な推論をしている九州説は、弾き飛ばされる理由がない
大和説は、「南→東」などのような嘘吐き騙しをし、
論理的な文章が書けないから、国民の間でのメジャーになれないんだよ。

739日本@名無史さん2019/01/08(火) 05:50:51.56
413の>>685
「南≠東」などに拠って、×。

740日本@名無史さん2019/01/08(火) 05:53:27.27
413の>>686
こんな具合に、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きだましの大和説って、
いつも具体的な内容がゼロなんだよな。

741日本@名無史さん2019/01/08(火) 05:53:50.57
誤認・誤情報の線は消えたな
723日本@名無史さん2019/01/08(火) 02:23:08.76
>>721
魏の使者が何度 邪馬台国に来たか答えて見なさい

742日本@名無史さん2019/01/08(火) 05:56:30.67
413の>>687
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、精神的に異常な犯罪者グループであり、
不合理の塊。
提唱する学者も スレ主も。

743日本@名無史さん2019/01/08(火) 05:59:52.15
「魏志倭人伝」を読むと、「三国志」の編者、陳寿は、極めて正確に、極めて丁寧に「魏志倭人伝」を記述していることが判る。
それなのに、畿内説では「魏志倭人伝」の記述に問題があると指摘する学者は多い。
しかし、何しろ相手は、歴史が証明する希代の史家なのである。問題があるのは、「魏志倭人伝」ではなく、読み手の側だと思ったが間違いない。

744日本@名無史さん2019/01/08(火) 06:02:40.49
413の>>694
もう大和説は瀕死の末期症状だから、
江戸期の「足摺の西沖の沖の島に低身長部族が存在していた」という記録を、
抹殺までするインチキ情報流すくらいしか、
できることがない。

745日本@名無史さん2019/01/08(火) 06:09:30.57
413の>>700
まあこのままでは、いずれ日本は、また殺し合い戦争をおっぱじめて、
破滅だけどな。
安部文部省や右翼学会教育界やキョクウマスコミやPC会社らの策謀で、
教科書にも「南→東」などのウソつき騙しの大和説有利と載るし・・・。

746日本@名無史さん2019/01/08(火) 06:11:45.58
少し引掛けの質問だから下記でもいいや

魏の使者が何度倭国に来たか答えて見なさい

747日本@名無史さん2019/01/08(火) 06:15:47.07
>>730
集落ねえ鉄もねえ
たまに出てくる桃の種
海女漁をしようにも東西南北山ばかり
おらこんな村いやだぁ

748日本@名無史さん2019/01/08(火) 06:16:18.58
413の>>701
>1万2千里は淮南子にある架空の世界の果ての数字だぞ?
それが九州北部を指しているなら
邪馬台国は九州北部にはなかったという事になる<

淮南子は「余」がないから、単なる形容的な記載である事になって、
信頼性は落ちるが、
魏志はきちんと「余」を付けた記載と「余」を付けない記載とを区別して、
魏使らの実地の計測値からの引用であった事を示しているから、
女王國は「ほぼ九州島」付近にあった事になった。

749日本@名無史さん2019/01/08(火) 06:21:08.55
413の>>704
ほら「南→東」などの嘘吐き詐欺師の大和説は、
今度は、淮南子に「余」がない事を、一生懸命説明しなくてはいけなくなったぞ。

750日本@名無史さん2019/01/08(火) 06:24:27.82
>>748
>魏志はきちんと「余」を付けた記載と「余」を付けない記載とを区別して、

してるって証拠なし
ただ言い張るだけ

ww

751日本@名無史さん2019/01/08(火) 06:28:55.18
413の>>704
大和説者が、「南→東」などの嘘吐き騙しがバレただけでなく、
今度は、冬至では、太陽光線の入射角が小さくなって、影端がぼやける事や、
半影部分もはっきりしなくなって、影長計測が困難になる、
という事が分からない・・・・アホであった、
という事もバレたな。

752日本@名無史さん2019/01/08(火) 06:35:13.16
413の>>713
>帯方より南1万2千里が指すのは邪馬台国ではなく架空の世界の果て<

「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」だし、
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし。

もし大和を指す」っていうんならん、
そこは邪馬壹國女王之所都ではありえませんなあ。

753日本@名無史さん2019/01/08(火) 06:37:30.36
413の>>715
大和説は、淮南子で殴られ、後漢書で殴られ、魏志倭人伝で殴られ、
今度はスレ主のテンプレそのもので殴られるのだ 。

754日本@名無史さん2019/01/08(火) 06:41:30.96
413の>>723
>会稽の東部地域に魏の治所があるわけでもないのにそんな書き方はしない
後に書かれた後漢書が「邪馬臺」「會稽東冶之東」だから
元の倭人伝(or元資料)は「邪馬臺」で「會稽東冶之東」 <

後漢書は、半分偽書。

755日本@名無史さん2019/01/08(火) 06:47:40.55
>>725
じゃあ証明しなくていいよ
1万2千里は「余」が付いていないから、
淮南子に出てくる架空の距離であり、
邪馬壹國女王之所都とは関係がないんだから、
魏志の記載だけから、女王國の位置を決めればよいんだから。

756日本@名無史さん2019/01/08(火) 06:54:31.30
413の>>728
淮南子の1万2千里は、「余」がないから、形容詞的使用であった可能性があるが、
魏志には「余」を付けた里と「余」を付けない里が混在しているから、
架空の存在ではなく、
魏使らの実地に計測した記録の転写や、陳寿の「近似的表現の、
どちらかであった可能性が高い。

757日本@名無史さん2019/01/08(火) 06:57:39.79
>>730
「余」の有無をきちんと書き分けられた里記録に、
実際の地理を当てはめたら、
短里になったんだね。

758日本@名無史さん2019/01/08(火) 07:04:12.97
413の>>731
1万2千里は「余」がないから、淮南子に出てくる形容詞的の距離であり、
当然邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
大和を指しているならそこは女王國じゃない。
指しているとしてしまったテンプレや大和説学者は破滅。

759日本@名無史さん2019/01/08(火) 07:15:50.86
413の>>734
>実際に「會稽東冶」という地域名は存在したが
「會稽東治」なんてのは12世紀の三国志の版本にしかない <

これ×ね。「東治」は地名ではなく、普通の説明文言。
そして、宋明清代の校勘学者は誰も「東治」を校勘していない。
そして「東冶」と書いた范曄の後漢書は、半分×書。

>中国では「會稽東冶」に訂正している <

訂正しているのは、
日本の「南→東」などの嘘吐き詐欺師の大和説学者の脅迫に負けた、
台湾の学者や出版社。

760日本@名無史さん2019/01/08(火) 07:21:14.15
>>734
おう殴ってみいや
殴り返されるが

761日本@名無史さん2019/01/08(火) 07:22:01.87
朝からよく喚くオウムだな

762日本@名無史さん2019/01/08(火) 07:27:11.43
キナイコシヤケクソ

763日本@名無史さん2019/01/08(火) 07:32:11.67
オクヤマヤケクソ

764日本@名無史さん2019/01/08(火) 07:38:06.72
そしてキウス

765日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:05:00.48
>>759
>訂正しているのは、
>日本の「南→東」などの嘘吐き詐欺師の大和説学者の脅迫に負けた、
>台湾の学者や出版社。

陰謀説は敗者の証明

766日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:11:57.45
また使い分けとか九州説が創作し始めたのか
短里だと井田法で1家に分配される農地はたった600平米で1月でさえ生活できないのだから短里なんて有り得ないじゃん

767日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:19:43.09
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、

768日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:23:47.85
>>767
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査で、畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、

769日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:24:36.08
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている

770日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:25:07.10
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。

771日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:25:36.37
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、

772日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:26:55.82
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。

773日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:29:52.02
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。

774日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:33:28.53
>>759
>「東治」は地名ではなく、普通の説明文言。

と言っている学者はいない

775日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:42:57.33
413の>>741
>周の時代に実際に計られれば一寸150里になるから違うね<

ならない。

>よって1歩≒25cmも間違い<

よって、ならない。

776日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:44:39.46
413の>>742
>陳寿が東にある国を南と書いたから<

陳寿も、南は南と書いた。

777日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:45:31.72
揚州を江蘇省のことだとか捏造歪曲して
会稽東治(福建省)を異常北上させようとする歴史破壊者
それが九州説

邪馬台国畿内説 Part414 	->画像>22枚

778日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:46:30.67
>>776
東モナー

779日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:48:10.38
413の>>747
>三国志以外も読んでわかるのは倭はかなり南国と考えられていたという事だな<

後代の後漢書は、「自己解釈に拠って買い替え」を実行した半分×書であり、
根拠にならない。

780日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:49:08.74
>>772
韓国政府の宣伝目的では、ないのかな。。。

781日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:53:46.75
413の>>748
>国境(帯方)より南1万2千里は
淮南子に出てくる架空の世界の果てまでを指す距離<

魏志は「余」できちんと書き分けをしており、
淮南子の「余」のない「萬二千里」を写していない。

>邪馬台国を指しているものじゃないから
もし九州を指すならそこは邪馬台国じゃない<

邪馬台国なんても、存在もしない嘘つき騙し文言。
これ適当にコピペしてればそのうち大和説は消滅すんだろ?。

782日本@名無史さん2019/01/08(火) 08:55:35.57
413の>>750
流れは完全に変わった。
さあ、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説狩りだ。

783日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:04:13.09
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

784日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:05:36.33
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

785日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:06:49.10
『スサノオ 紙幣』
というのもイルミでしょ、それよりも上位なの?

786日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:07:31.35
413の>>752
そうだな けどな 思ったんだけどな
淮南子に出てくるの萬二千里は、「余」がないから、
魏志とは違う世界の果てまでを指す距離で、
女王國までを指しているものじゃないから、
もし大和を指すならそこは女王國じゃないんじゃないのかの?。

787日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:08:45.09
邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用している、韓国人のキナイコシや韓国人の3寸男という、頭の悪い者に対して、韓国人のキナイコシや韓国人の3寸男の頭の悪さがバレてしまった理由を教えてあげることは、
韓国人のキナイコシや韓国人の3寸男の頭が悪いので出来ないので、教えてあげても仕方がないのではないのかな。。。

788日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:09:06.54
思考に因果関係がないな

789日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:09:29.99
>>708
>大きな船の着ける天然の良港の呼子か名護屋浦付近に上陸したんだよ
>そこから歩いて1日

そこから末盧国までだって歩いたら1日じゃつかないぞ
いつの間にか末盧国まで邪馬台国にしちゃってるしww

女王国以北の投馬国はどこに置くんだ?
どんどん支離滅裂になってきてるぞww

790日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:12:40.86
>>713
>何と言っても、「里」は「田の土地」という形だから、
>一人の人が耕し生活出来る一つの田畑を数える距離単位であったようであり、

里が「田の土地」というのはでたらめもいいところだし、
「一人の人が耕し生活出来る一つの田畑」が、「夫」だ

「夫」が1辺百歩の方形
その「夫」を9つ井形に並べたのが「里」
ここまではっきりしてるんだから、1里76メートルだったら全員飢え死にだよw

791日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:14:08.62
1万2千里の道里をどう計算しても、会計まで届かない
九州説もう諦めろ

792日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:14:54.40
>>789
呼子、名護屋浦付近から糸島市まで40km
1日の徒歩圏です、時速4km/hで10時間。
投馬国は狗邪韓国を中心とした朝鮮半島南岸地域。

793日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:15:22.14
>>722
>ここでの韓は馬韓のこととされているが、

いきなりウソをつくww
韓地にあるから、馬韓、弁韓、辰韓って言うんだよ
全部合わせて、韓だw

794日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:16:49.78
413の>>754
邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき騙し文言であり、
淮南子の萬二千里は、世界の果てまでの距離という、形容詞的なな記載なんだろ。

795日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:22:08.22
>>791
短里と長里の取り違えがあったからだろ。
逆に言うと倭人伝が短里で書かれていたことの証拠になる。

796日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:22:12.25
>>792
>1日の徒歩圏です、時速4km/hで10時間。

10時間も歩くわけないだろ?
こうやって、適当な言い訳は破綻していくww

797日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:23:51.74
>>795
>短里と長里の取り違えがあったからだろ。
>逆に言うと倭人伝が短里で書かれていたことの証拠になる。

取り違えなんかないんだよ
短里なんてないんだからww

誇張された表記があるだけ
そしてその本ネタは淮南子の世界観
「余」がつくかつかないかとか、ザラコクがバカすぎるww

798日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:27:14.53
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

799日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:28:35.23
邪馬台国畿内説を宣伝するために、韓国政府が雇用している、韓国人のキナイコシや韓国人の3寸男という、頭の悪い者に対して、韓国人のキナイコシや韓国人の3寸男の頭の悪さがバレてしまった理由を教えてあげることは、
韓国人のキナイコシや韓国人の3寸男の頭が悪いので出来ないので、教えてあげても仕方がないのではないのかな。。。

800日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:29:00.84
800

801日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:30:18.95
本当の話でしょ『chosen one』(〜半島周辺、絡みの話)

802日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:31:50.29
会稽郡・臨海郡は浙江なのは明らか
地图帝に分かりやすい地図があるよ

地图帝→三国→三国扬州

803日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:33:27.81
せいんとせいや?
『神に認められし ヒドラ』

804日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:34:21.20
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、

805日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:36:46.82
『聖徳太子 日本人ではない』

スサノオ?紙幣になっていたり

806日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:36:56.78
>>795
>短里と長里の取り違えがあったからだろ。

一体どんな状況で「短里と長里の取り違え」なんか発生するんだ?
ありえないだろう
非現実的な想定をすれば九州説の首が締まるだけだぞ

報告書提出先の人が知らない単位などを使って
どこの誰が報告書を書くんだ

807日本@名無史さん2019/01/08(火) 09:45:59.59
413の>>757
>・・・だが、 この文に、計其道里 當在 會稽東治之東 が出てくる道理は無く、文章が破綻している。<

破綻していない。夏后少康之子の伝承と女王國との関係を示そう、とする記載である。

>これは、漢代文献などから引いた倭人伝であり、魏の都合で、倭人は自ら
太伯の後 と称した、の文に係る部分が削除されたためである。<

魏の都合ではない。陳寿が不確定事案として、削除しただけのものだ。

>そこには 倭人の奏上、太伯の後 に対して、中国人は 太伯は会稽に退いた王族であるが、会稽から倭は
計其道里 當在 會稽東治 之東 洛陽から会稽を東するほども離れている。 信じがたし、と、訝しんだ。
という、ソース一文が存在した。<

そのような記録は存在していない。夏后少康之子の伝承は、魏略にも書かれているから、
魏使らが書いた判断記載内容だ。

>削除理由は、太伯が三国志魏王に対する呉王の祖となった事、
倭王がいまさら三国志王に一枚加わる皇帝としての証拠は作れない事、である。<

それが削除理由なら、陳寿は「夏后少康之子の伝承」も書かない筈。
つまり、この「類スレ主」男は、一種の・・・・詐欺師。

808日本@名無史さん2019/01/08(火) 10:06:09.03
413の>>758
>その対馬海峡の数字が間違ってるんだから問題ない <

「余」が付いているから、
魏使らの計測値を陳寿が大体の近似化した数値であり、
おおきな間違いはない。

809日本@名無史さん2019/01/08(火) 10:15:33.56
413の>>761
そうだな。
この投稿子も、結局「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の、
・・・・アホではないの?。

810日本@名無史さん2019/01/08(火) 10:20:42.29
>>808
>「余」が付いているから、

ザラコクさんに質問
対馬の方可四百餘里 と
壱岐の方可三百里  とで

「餘」がついているかどうかでどんな意味の違いがあるんですか?

811日本@名無史さん2019/01/08(火) 10:36:08.57
413の>>769
お前が言うな。
というか、壊れたのは、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者だな。

812日本@名無史さん2019/01/08(火) 10:36:27.98
>>808
>「余」が付いているから、
>魏使らの計測値を陳寿が大体の近似化した数値であり、

あんたのなんの根拠もない個人的解釈を何度聞かされても意味がない

「余」にそんな意味がないなら、あんたの説は意味がない
「余」にそんな意味があるなら
実測だとウソをつきたい奴は「余」をつける
つまり、あんたの説は意味がない

つまり「余」が付いているかどうかで
実測か実測でないかを判断できない

813日本@名無史さん2019/01/08(火) 10:50:32.93
>>804
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査で、畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、

814日本@名無史さん2019/01/08(火) 10:50:55.13
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている

815日本@名無史さん2019/01/08(火) 10:51:16.56
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。

816日本@名無史さん2019/01/08(火) 10:58:51.09
天王?天皇直属というのは、天皇教のこと?
いつの時代の話?

偽造、ねつ造のような事を
したりすると書いてあるでしょ

ちなみに家は『松傾』?
このような名前の家なんだけど、
陛下とか・・・?知らないと言っていたり

817日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:09:13.54
よく薩摩、長州が〜???という話が出てきたりするでしょ、
家は会津ではないけど、昔そっちの方面に住んでいたと言っていたり、
どういう話なんだろう

818日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:12:51.31
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

819日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:16:39.44
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、

820日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:17:31.77
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。

821日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:18:41.29
キウス

822日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:25:35.34
>>649
こねくりまわしていて、わけが分からんな。
200年頃築造の石塚が260年〜270年頃の箸墓より新しいわけがない。

823日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:29:21.76
むかーし住んでいたというところ、
そこの近所に建てられている大伴小手子の像?
調べてみると・・・それらしき家(古代〜何やら)だと書いてある

824日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:30:26.33
372: 日本@名無史さん [] 2019/01/08(火) 10:33:24.47
初めてだけどなつかしい感覚
日本で昔栽培されてた麻のオイル
https://plaza.rakuten.co.jp/denkyupikaso/diary/201806090001/

825日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:31:10.62
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。

826日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:31:57.82
>>632
定説だろ。

827日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:33:08.78
>>820
韓国政府の宣伝目的では、ないのかな。。。

828日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:36:25.02
413の>>776
そもそも史料事実からの当然の推論や考古的証拠で構成されてる九州説を
「南→東」などの嘘つき騙しで何でもでっち上げて破壊してやろうとするその性根
人間の理性や歴史に対する挑戦であり冒涜
世の中を人は虫ケラ以下のアホだから騙し放題だ、とする高慢さで、
タカ派の唯我独尊の皇国史観精神の顕現の、大和説

829日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:39:32.03
413の>>777
>里も歩も尺寸も絶対的な距離単位だ<

部族や国ごとに採用に差のある、距離単位だ。

830日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:42:45.55
>>239
沖縄あたり。

831日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:46:53.20
413の>>790
>3世紀から存在する前方後円墳<

「前方後円墳は冢ではない」から、卑弥呼の時代ではなく、
3世紀の第4四半世紀以後。

>卑弥呼が魏に使いを送った年の魏年号の入った三角縁神獣鏡が存在<

景初3年の紀年△は、明帝の詔書の景初二年12月よりも後だから、×。

832日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:47:21.98
キチガイ九州説なんて相手するスレじゃないんだが

畿内でどうやって邪馬台国が成立して発展したかと言うスレだろココ

833日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:50:12.43
どちらにしても(女王国東渡海千余里復有国皆倭種)なんだから、この地理記述に合うのは瀬戸内海だけ。
女王国は北部九州なのは、理の当然。
その倭種の国が女王国だなんぞ、頭沸いてるし。

834日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:50:32.32
と言うわけで邪馬台国と大和朝廷の関係をどう考えてるかどうか聞きたい

俺は系譜的な部分は不確かだが邪馬台国はそのまま大和朝廷に繋がる勢力だと理解してる

835日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:50:43.05
413の>>793
>短里のあった証拠も出さんそっちが悪い <

大和説者の「類スレ主」も、必死で、
周髀算経は「1里≒66m」位の短里だった、
とのたまわっていたよ。

836日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:54:42.53
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

837日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:56:21.39
いつも前スレばかりにレスする奴は嘘ばかり言ってるな
変な造語も作って意思疎通する気が無いのだろう

838日本@名無史さん2019/01/08(火) 11:59:34.82
413の>>799
>魏使は帯方郡からずっと船に乗ってて、全然自分の足で歩かなかったと思うんだ。
なので行程記事にあるクニは、最後の邪馬台国以外は全部海に面している。<

歴韓國乍南乍東は、韓内陸行ね。

839日本@名無史さん2019/01/08(火) 12:03:40.80
413の>>801
大和説者が「腕の見せどころ」?。
「南→東」などの、捏造・ウソ解釈上って立場で、
ワロタ。

840日本@名無史さん2019/01/08(火) 12:04:39.59
「類スレ主」ってどこの言葉ですか?

841日本@名無史さん2019/01/08(火) 12:06:08.60
>>792

>投馬国は狗邪韓国を中心とした朝鮮半島南岸地域

朝鮮史板へどうぞ

842日本@名無史さん2019/01/08(火) 12:11:29.74
>>838
>歴韓國乍南乍東は、韓内陸行ね。

じゃあ「南至投馬国水行二十日」の出発点はどこ?
自己矛盾してるよね九州説

843日本@名無史さん2019/01/08(火) 12:20:22.25
>>842
>自己矛盾してるよね九州説

いや、倭国(阿波)以外は全部、自己無旬しているよ。  @阿波

844日本@名無史さん2019/01/08(火) 12:24:28.89
>>842
>自己矛盾してるよね九州説

いや、倭国(阿波)以外は全部、自己矛盾しているよ。  @阿波

845日本@名無史さん2019/01/08(火) 12:51:59.28
肝心の畿内の話は全くしない畿内スレだった

846日本@名無史さん2019/01/08(火) 13:02:03.69
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

847日本@名無史さん2019/01/08(火) 13:03:08.23
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

848日本@名無史さん2019/01/08(火) 13:04:16.34
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の「類スレ主」の話題に、変換すれば良いな、、、

849日本@名無史さん2019/01/08(火) 13:05:20.21
>>796
連続して何日も歩くのではなく、1日限りだから10時間くらは問題ない
旧陸軍では1日40kmの行軍は強行軍で完全増備の兵士が1日に進撃する速さ。

850日本@名無史さん2019/01/08(火) 13:10:16.13
850

851日本@名無史さん2019/01/08(火) 13:31:41.21
本当に頭の良い人は気づいている

スポーツ、ノーベル賞・・・(その他)が
何やらという話があるでしょ、受賞したのは日本人だと言っていたり、
正確には日本人(民族)ではない、全員が全員とは言わないけど

852日本@名無史さん2019/01/08(火) 13:46:54.01
>>849

末盧國から伊都國まで1日で歩こうが2日かけようが
陸行一月とは何の関係もないからどっちでもよい

853日本@名無史さん2019/01/08(火) 13:50:17.67
>>849
>旧陸軍では1日40kmの行軍は強行軍で完全増備の兵士が1日に進撃する速さ。

つまり到底コンスタントに維持できる移動ペースではないわけね

854日本@名無史さん2019/01/08(火) 14:00:33.13
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

855日本@名無史さん2019/01/08(火) 14:05:12.15
10日で200kmを移動した豊臣秀吉の中国大返しが日本史史上屈指の強行軍だしな

856日本@名無史さん2019/01/08(火) 14:06:37.55
当時の倭人は裸足かな

857日本@名無史さん2019/01/08(火) 14:32:19.85
>>838
>歴韓國乍南乍東は、韓内陸行ね。

一時が万事というつもりもないけれど、これを信じられる時点でカルト脳なのは確実だよな
古田史学の会以外で、韓地陸行を主張する人なんて皆無だろうにw

858日本@名無史さん2019/01/08(火) 14:33:46.78
>>840
>「類スレ主」ってどこの言葉ですか?

キウスや連続句読点と違って自分は全1病じゃないという、
ザラコクなりの差別化のつもりww

859日本@名無史さん2019/01/08(火) 14:36:39.06
>>849
>旧陸軍では1日40kmの行軍は強行軍で完全増備の兵士が1日に進撃する速さ。

自分でも、軍隊の強行軍の距離って言っちゃってるやんw
大荷物の魏使様、それも大陸の人で慣れない水行を10日もしてきた人を、
陸に上がってすぐ強行軍で10時間も歩かせるなんてある訳ないだろ?ww

860日本@名無史さん2019/01/08(火) 14:37:10.14
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の「類スレ主」の話題に、変換すれば良いな、、、

861日本@名無史さん2019/01/08(火) 14:57:28.62
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

862日本@名無史さん2019/01/08(火) 15:17:49.49
>>859
日本軍の軍装知っているの?50kgくらいあるんだよ。
荷物は港から倭人が運ぶから魏使は手ぶらで歩くだけ
偉い人は倭人が輿に載せて運んでくれたかもしれないよ。

863東海道 1日歩く距離2019/01/08(火) 15:29:19.68
一般的に江戸を立って京に向かう場合、最初の宿泊地となったのが戸塚宿、あるいはその手前の保土ヶ谷宿だった
日本橋から保土ヶ谷宿までが八里九町(約33km)、戸塚宿までは十里半(約42km)
だから1日の行程はおよそ八里から十里強(約32〜40km)といえそうだ
もちろんこれは成人男子の場合ですが、歩行速度を時速4kmとすると、単純計算で約8〜10時間も歩くことになる
そのためには夜明け前に出発し、夕方日が暮れないうちに次の宿に着くようにしていた

864日本@名無史さん2019/01/08(火) 15:31:39.58
『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛・喜多八の二人が江戸を出て最初に泊まったのは戸塚宿
2日目は戸塚から小田原まで約40km、3日目は小田原から箱根まで約30km強を歩いている
毎日10時間も歩きつづけながら目的に向かうというのは、現代では考えられないだろうが、
一般的に昔の人は想像以上に健脚だといえそうだ

865日本@名無史さん2019/01/08(火) 15:34:10.94
「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)  河川は川船で渡船

投馬国(土佐国宿毛) ➡ 魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 ➡ 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)

距離約350km 歩行速度11.7km/日   @阿波

866日本@名無史さん2019/01/08(火) 15:35:44.41
結論として
魏の使者が目的地まで40キロなら1日で歩くことは不思議ではない
ただし、毎日40キロ歩くのはシンドイであろう

867日本@名無史さん2019/01/08(火) 15:38:34.03
魏志倭人伝時代の倭国には、馬がなかったので、マツラ国から熊本城まで、陸行一月かかった可能性が、高まってきたな。。。

868日本@名無史さん2019/01/08(火) 15:45:08.06
>>862
>荷物は港から倭人が運ぶから魏使は手ぶらで歩くだけ

でも、一行の進む速度は荷物持ちの速度に合わせることになる
荷物だけ後から来るなんてことはありえない
荷物は皇帝からの下賜品なんだからw

>偉い人は倭人が輿に載せて運んでくれたかもしれないよ。

輿に乗るのは疲れるんだよw

869日本@名無史さん2019/01/08(火) 15:49:53.67
一日40キロということにしたがっているけれど、
陸行「一日」の間違いだという人は九州説でもそれほど多くない

九州説は、テキストの改変を認めると南→東の二文字の改変だけで、
圧倒的に畿内説が妥当になるから文字の間違いを認められないんだよなww

そして、一日40キロも進んだら、陸行一月で1200キロ
福岡ー鹿児島が直線距離で200キロちょいだから
九州を縦断3往復くらいできてしまうんだがww

870日本@名無史さん2019/01/08(火) 15:50:13.16
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

871日本@名無史さん2019/01/08(火) 16:12:09.22
なぜ家の話ばかりしているんだよ、
何々様(ひみこではない、実際はヒミコ?)なんて言われていたという話でしょ

たてまつられていたとか

872日本@名無史さん2019/01/08(火) 16:15:39.74
家は『松傾』?
こういう名前の家なんだけど、嫁の家が、
そのように言われて奉られて(祀る?)いたとか
『老婆談』


キュウリの葉、葱の華などが写っている、
あの写真の話

873日本@名無史さん2019/01/08(火) 16:16:59.21
キウス

874日本@名無史さん2019/01/08(火) 16:26:25.64
実際はヒミコよりも上なのかな
『松傾』?の嫁の家

あの謎の掲示板があるでしょ、
蚕(養蚕)、機織りの話をしている人がいたり


なぜか老婆談と同じ

875日本@名無史さん2019/01/08(火) 16:29:41.46
413の>>802
>いずれにせよ、最後の陸行1月が重要<

記載は、明確。
陳寿は、郡〜邪馬壹國女王之所都の行程の距離説明は、
全て(日数ではなく)「里」数で記載し、
その合計が不彌國で「萬二千余里」にほぼ達している、という記載になっている、
という事であり、
また、(不彌國から)南至邪馬壹國の移動里数が書かれていない、という事であり、
だから、不彌國→邪馬壹國は、殆ど移動距離無しで到着する、という事だ。

そして、「水行十日陸行一月」という日数説明は、
その前の文言の「女王之所都」の説明になるんだから、
行程移動の目的地であるから、「郡〜女王之所都」の所要日数の説明になる、
という事だ。

876荷物は2019/01/08(火) 16:33:37.24

877日本@名無史さん2019/01/08(火) 16:34:04.58
あの掲示板、読んでみた?

誉田(不明)が〜、
みたいな書き込みがあったり

なぜか東北地方の掲示板

878日本@名無史さん2019/01/08(火) 16:38:48.21
413の>>809
>空白の4世紀に遷都したとは考えられないかな?<

唐会要倭国伝には(大和日本国と区別して)「正北抵新羅」と書いているから、
倭国は、唐代まで九州に存続していた。

879日本@名無史さん2019/01/08(火) 16:39:02.87
>>868
皇帝からの下賜品だからと言って一緒に都に着く必要はない
「皆臨津捜露 傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯」
と港で荷の内容は確認しているから荷物は後からゆっくりと運べばよい
一行の進む速度と荷物持ちの速度とは別。

880日本@名無史さん2019/01/08(火) 16:39:19.78
近所に小手子の像というものが建てられていたりするし、
デタラメ、嘘の書き込みではないと思う

なぜ東北地方なのか?
本当に誰なのか知らないけど、先住民の系統なのかな

881日本@名無史さん2019/01/08(火) 16:40:39.74
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

882日本@名無史さん2019/01/08(火) 16:49:56.11
誉田で調べてみると・・・、『応神天皇』と出てくるでしょ?

883日本@名無史さん2019/01/08(火) 17:05:27.10
>>875
>だから、不彌國→邪馬壹國は、殆ど移動距離無しで到着する、という事だ。

それ、これまで言ってきたことと矛盾してるって分からないのか?
末盧国に上陸するところまでの距離が末蘆国への距離で、
そこから伊都国国境までが伊都国への距離っていう主張だったよな?

つまり、末盧国の国内移動距離が末盧国から伊都国への距離だっていう不合理を
言い張ってたじゃないかww

そして、同じ旅程で「不彌國→邪馬壹國は、殆ど移動距離無しで到着する」とするなら
不彌国は大きさ0だww
不彌国に到着したところが邪馬壹國ということになるww
不彌国もバカにされたもんだなww

884日本@名無史さん2019/01/08(火) 17:06:58.31
>>879
>皇帝からの下賜品だからと言って一緒に都に着く必要はない

一番大事な荷物は、親魏倭王の金印と封泥で封印した皇帝詔書
これを後から届けるというのはありえないw

885日本@名無史さん2019/01/08(火) 17:08:59.00
>>879
>皇帝からの下賜品だからと言って一緒に都に着く必要はない

手ぶらだとしても、魏使を上陸後すぐ10時間40キロも歩せたりしないよw
それに、伊都国まで船で行くし、そこから2キロで三雲遺跡群だし
陸行1日はどうウソにウソを重ねても不合理なんだよ

886日本@名無史さん2019/01/08(火) 17:12:29.37
413の>>81
>>万世一系という倫理を振りかざしてヤマト王権と邪馬台国をすり替えようとしているだけ。<

>そんなこと言うから正常な人と思われないんだよ
万世一系なんて畿内説と関係ないのは誰でも知ってるのだから<

いや、誤魔化してもダメだ。
大和説と言わずに、わざわざ「畿内説」という文言を敢えて使っている、という事が、
大和に天皇がいて、列島を支配していた、
という万世一系皇国史観である事を示している。

887日本@名無史さん2019/01/08(火) 17:22:21.03
「陸行一月」

陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)  途中の河川は川船で渡河

投馬国(土佐国宿毛) ➡ 魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 ➡ 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)

距離約350km 歩行速度11.7km/日   @阿波

888日本@名無史さん2019/01/08(火) 17:25:53.87
413の>>818
>膨大な量の土産物を雨や波飛沫で濡らさないために、魏使たちが乗ってたのは、
小型で甲板なしの埴輪船でなく、帯方郡からずっと乗って来た大型で甲板ありの中国船だと思う。
それで奈良盆地まで行くのは不可能だったんだろう。<

これも違う。
「其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去虫幾蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。
若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹」
という記録を書いている事になるから、魏使らは、渡海舟に持衰が同乗しているのを見聞記録した事になり、
という事は、渡海において魏使らが乗ったのは倭船であった事になる。
そして、それは、当然狗邪韓國〜末盧國の渡海で見聞した。

889日本@名無史さん2019/01/08(火) 17:38:36.63
ザラコク
周回遅れでもいいが 前スレを指す場合は半角で>>?は止めてくれないか
現スレと かぶってしまって混乱するから ヨロシク

890日本@名無史さん2019/01/08(火) 17:39:01.20
>>884
>一番大事な荷物は、親魏倭王の金印と封泥で封印した皇帝詔書

そのくらいの小物は魏使が直に運んでも苦にならないよ
あと下賜品の目録だけ持参すれば荷物なんて後でいい。

>>885
だから輿とか使えば問題ない
伊都国の近くに良港が無かったのと、長い航海で早く陸に上がりたかったんだろうな。

891日本@名無史さん2019/01/08(火) 17:41:00.04
>>888
>魏使らは、渡海舟に持衰が同乗しているのを見聞記録した事になり、
>という事は、渡海において魏使らが乗ったのは倭船であった事になる。

なんの根拠もない空想だね

帯方郡の港にいる中国人は入港して来た倭船から持衰が降りてくるのを見ることだって出来る
精進潔斎明けの持衰と一杯やった奴だっていないと断定できるのか?
倭船に乗ったことのある韓人から情報を集めることだって出来る
日本に住んだことのある楽浪人からだって事情聴取できる

自分の空想した可能性だけが唯一絶対だという思い込みが強いのが九州説の特徴だね

892日本@名無史さん2019/01/08(火) 17:44:49.85
>>884

親魏倭王の金印と封泥で封印した皇帝詔書は
魏志の使者が初めて倭国に訪れた時に持ち込んだもの?
ここが問題なのだよな
魏の使者が数回訪れていたら南≠東は正論

893日本@名無史さん2019/01/08(火) 17:45:41.70
>>890
>長い航海で早く陸に上がりたかったんだろうな。

それまでの航海に比べて壱岐から唐津は断然近い

894日本@名無史さん2019/01/08(火) 17:47:06.59
413の>>822
>畿内説側が示しているのは「淮南子」という具体的な中華古典であり
それが萬二千里の典拠だということ<

魏志は、行程記載でも「萬二千余里」でも、「余」を使って、
元の里数記載からの概数記載をしている事を示したりしているから、
淮南子の「萬二千里」を典拠にしていない事になり、
この「類スレ主」男の説明は、×。

>魏志倭人伝原理主義がカルトなんだよww <

いや、畿内説という「天子や天皇の存在」を前提とした文言を使った大和説の方が、
万世一系皇国史観原理主義のカルトだ。

>南が東の錯誤だと認めた瞬間、畿内説の整合性に敵わなくなるから
誰が見ても明らかな「末盧国から伊都国の東南が間違っていること」が
認められずにあがくことあがくことwwこれがどうやったら東南に見えるんだ? 北東だろ?<

陳寿の「行程説明の原則」に従えば、
「東南」は、末盧國からの出発時点での出発方向の説明であり、
「陸行五百里」が、途中移動の説目であるだけだ。

895日本@名無史さん2019/01/08(火) 17:50:35.30
413の>>823
「畿内」なんて「天皇の存在」を前提とした文言を、
検討もせずに使うのは
脳が万世一系皇国史観の儒教思想の畿内説に染まっているからだ。

896日本@名無史さん2019/01/08(火) 17:51:52.82
>>888
魏使様が、持衰と一緒に狗邪韓国から倭船の埴輪船で渡海?

ねーわ!んなことw w w w w

魏使様に旧軍並の1日40km行軍させるとか、九州説論者はどんだけ笑わせてくれるんだwwwww草生えまくるわ!

897日本@名無史さん2019/01/08(火) 17:56:33.02
>>895
>「畿内」なんて「天皇の存在」を前提とした文言を、
>検討もせずに使うのは
>脳が万世一系皇国史観の儒教思想の畿内説に染まっているからだ。

でも「畿内」が「天皇の存在」を前提とした文言だなんて証拠は
狂犬zarakokuの脳内にしか無いんでしょ

898日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:06:09.06
早く歩いた長く歩いた

という何の根拠もない過程を持ち出すなら逆も言えるってことだな

遅く歩いた短く歩いた

とね
根拠もない過程なら何とでも言えるんだよサル
こんな無意味な都合のいい過程を持ち出して論とか
笑わせんなアホが

899日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:08:30.48
>>896
頭だいじょうぶ?

魏使様が魏船で来たのなら、ますます方角なぞ間違わないのだがな。

900日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:11:09.06
>>899

なんで?
なんで九州説の人はいつも
ひとことも理由いわないの?

901日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:12:04.32
イスラムの隊商の移動距離は1日20キロくらいだったそうだな

902日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:12:18.19
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

903日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:14:25.94
>>900
自分の船で来るのに方角を間違ったら遭難するから。

これは説明が必要な理由ではなく、
>>899の一文に内包される常識である。

904日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:15:51.46
会稽の東に無いけどなw

905日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:16:38.56
方向を間違えるわけがない!キリッ

会稽の東に無いのは方向を間違えたからだ!キリッ

これが名物九州説のサル踊りですよ

906日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:16:50.25
413の>>824
>実際には短里だったから  これに一切根拠がない <

東アジアに使われた里記載の距離、という」史料実態が根拠だ。

>根拠だと言い張っているものが、短里の記録だと主張するものだけという循環論法のみ<

存在する史料実態を、始めから「存在しない」と言っている方が、
結論先にありきであり、循環論法だ。

>周髀算経が根拠にならないのは、ザラコクと連続句読点の醜態を見れば明確だろ?
蓋天説という間違った前提に従って、机上の計算をしただけのものだから、
現実の地理、度量衡とは無関係なものだよ<

いや、「周地」付近という大地平面近似の出来る地域での、
「天地の数値や構造」に関する推論としては、十分有効なものだ。

907日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:17:29.87
>>899
>魏使様が魏船で来たのなら、ますます方角なぞ間違わないのだがな。

相変わらず九州説は、方角にしがみついてるんだなww

そして、その場で間違わないというのと、史書に記録されるまで間違わないというのは
レベルの違う問題であり、魏志倭人伝の方角も実際に間違いまくっている

九州説が、ここしかがんばりどころがないっていうのも九州説がオワコンだっていう証拠

実際、末蘆国から伊都国だって方角が間違ってるだろ?
>>463
でたらめ九州説の末蘆国比定地をとっても、どうやっても東南にはならない

伊都国→奴国も東南じゃない
>>498

方角が間違うはずがないといくら九州説が言い張っても、
実際間違いまくりなんだから意味ないよw

908日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:18:54.88
>>903
>自分の船で来るのに方角を間違ったら遭難するから。

渡海はともかく、海岸航行の水行なら、方角を間違っても遭難しないから大丈夫だなww

909日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:19:37.21
実際、渡海のところの方角は大体合ってて、
九州についてから倭国内の方角が狂いまくりなんだが?

910日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:21:47.44
>>908

>>896
>魏使様が、持衰と一緒に狗邪韓国から倭船の埴輪船で渡海?

>ねーわ!んなことw w w w w

ここから始まっているやり取りなのだがな。
畿内説のあんたには、なんの中身も無いようだな。

911日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:21:58.43
413の>>825
>架空の値に実際の地理を当てはめたんだよ。
一万里以上の行程が内訳まで記載されている訳だからね。<

陳寿の魏志では、
「余」を使っての「計測地に対する近似的概数」説明が、幾つも使われているから、
魏使らや陳寿は、淮南子の「萬二千里」を使っていない。

912日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:22:19.25
日本に行くのなんて晴れてりゃ半島から見えるんだからな
正確な方向感覚なんていらんからな

ド最初の認識からして会稽の東に無いのに辿り着けるくらいのテキトーさだと理解しろサル

913日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:23:01.68
渡海のところの方角から全て西に少しずつずれている。

当時は羅針盤が無く、
人々は海に潜って漁をしているから夏だ。

914日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:24:01.86
>>896
魏使は魏の船で呼子か名護屋浦付近に上陸
荷物を港で倭人に引き渡し目録、皇帝詔書、金印だけを持って
輿に載せられて伊都国まで運ばれた。

915日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:24:40.19
半島から見える島はいくつもある。
南にある保証がなければ渡海するわけにもいかんだろうな。
残念ながら。

916日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:27:28.49
>>826
>>会稽の東は畿内説にとって致命的だよね。<

>それだけ倭国内の移動距離が長いと陳寿に認識されていたということ<

いや、陳寿も「短里」を使っていた、という事の証拠。
長里を使っていたら、赤道付近に行ってしまう。

>方角の錯誤があるだけで、むしろ畿内説の傍証だぞ<

「南≠東」も「陳寿も短里を使っていた」という事は、
大和説のにとっては、致命傷だ。

917日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:28:32.59
何百年の間、日本と行き来してると思ってんだこのサルw

918日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:29:51.63
何百年の間、行き来していたらそれこそ方角なんぞ間違わんな。

919日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:30:18.58
九州バカは今度は「九州はこの時初めて大陸と行き来した」とか言い出すのか

たまげたなぁ

920日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:30:27.55
413の>>827
>かつての王朝が九州にあろうが畿内にあろうが 万世一系そのものには関係してこない
それより九州説こそ天皇の権威を高めるために生み出された説<

この大和説者も、「畿内」なんて「天皇の存在を示す」文言を使っているから、
万世一系皇国史観者そのもの。

921日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:32:05.86
正確な方向なんて知らんでももうお馴染みの見えてる場所辿って行けばいいだけだ
しかも半島と日本の間の島の数なんてたかが知れてる
何でわからなくなると思うんだろうなこのアホども
むしろ適当に行けるから正確な方向を認識してないんだよ

会稽の東に無いんだからな

いい加減理解しろバカが

922日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:33:24.86
方角は間違わないということだな。

言葉で誤魔化すだけで中身の無い憐れな奴。

923日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:33:43.54
最近ザラコク見てて可哀相になって来た

924日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:34:07.32
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

925日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:34:54.44
>むしろ適当に行けるから正確な方向を認識してないんだよ

太陽を見りゃ一発でわかる
方角を認識されると困ることでもあるのかい?

926日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:35:11.57
方角は間違うよ
俺もしょっちゅう間違うし

927日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:35:58.85
会稽の東に無い
その他の上陸後の九州の記述も方向間違いだらけ
つまり方向なんて分かってない

何で辿りつけるのか?
見えてるから
何度も行ってるから

脳ミソの足りない九州説は間違いだらけの記述も、日本が見えてると言う事実も全部無視しないといけないと言う事が露呈するだけ
流石は猿だな

928日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:37:13.13
そろそろ本性を表せよw

 倭 猿 

って言いたくてウズウズしてんだろ?www

929日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:40:11.79
413のの>>830
>魏志倭人伝も自己解釈による書き換えが行われてるという事にはならないの<

陳寿も、魏使らの記録に「余」を使った近似をしたり、
魏略に書かれた「聞其舊語、自謂太伯之後」の削除や、魏略の記載との差異が発生しているが、
要は、魏使らの記録を大きく変えるような書き換えはなく、
意味が大きく変わるような書き換えはしていない、という事だ。

930日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:40:38.78
>従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千余里

>おいおい。
>海岸水行だけで、帯方郡から倭に至るらしいぜ。



なぜかキナイコシが発狂www

もはや畿内に邪馬台国をもってくるのが目的じゃなくて
三国志の地理記載全てを虚構にするのが目的www

『韓在帯方之南 東西以海為限 南興倭接 方可四千里』

931日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:42:23.04
見えてて知ってる場所に行ってる
その後は現地の人間に案内されてる
別に測量も方向の確認なんてする必要はない

だから適当に書いてる

実際、日本の位置から、九州の中でも方向間違いだらけがそれを示してる

でもバカ九州説はなぜかこんだけ間違いだらけなのに「間違うはずがない!」と事実に反することを喚くだけ
流石はサルだな

932日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:45:31.03
>>781
淮南子が1万2千里後漢書も1万2千里
魏志倭人伝は1万2千余里
という事は
魏志倭人伝の1万2千余里は後世史家の自己解釈による書き換えだな
今の魏志倭人伝は12世紀だし後世史家は
何でも絶対に自己解釈による書き換えを行う存在らしいから

933日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:47:46.40
413の>>831
>>周髀算経には、半月毎の正午の8尺棒の影長の表が出来ていたから、<

>それが周髀算経が実測してない証明なんだよ
夏至の影長と、冬至の影長から単純な比例計算で数字を置いただけ<

当然近似値的表であり、
元々一寸千里自体が有効数字1桁の近似的な計測であったし、
魏使らの計測里数も有効数字1桁程度の近似値であったんだから、
「半月毎の正午の8尺棒の影長の表」という近似値表で十分だ。

934日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:48:05.28
>>929
じゃあ南1万2千余里も倭国の極南界を指す概念的な数字に
ちょっとつけ足しされたものだな

935日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:52:25.70
何年たっても距離も方向も記載が変わらんで伝説の頃から同じようなこと言ってるのは中国人が正確に方向や距離を調べてないと言う証拠だな

936日本@名無史さん2019/01/08(火) 18:59:18.58
伝説時代や交渉の薄い頃の記載からずっと後まで方向も距離も記載が変化してない
実際の行程も九州内ですら間違いだらけ

ここから導き出される答えは「中国人は距離も方向も別に調べてない」と言う事が分かる

つまり、「南は絶対!」なんていうアホ話が成り立つわけがねーと記事読めばすぐにバカでもわかる話
でも九州猿はこんな当たり前のことも理解できないで毎度毎度行程とか言い出すわけよ

哀れな道化だな

937日本@名無史さん2019/01/08(火) 19:40:40.24
教祖古田の教えを守れず逆に九州説を崩壊させてしまったザラコク
儒教道徳から見ればとんでもない犯罪者
儒教社会からはじき出されるだろう

938日本@名無史さん2019/01/08(火) 19:44:34.67
大昔の伝説の頃から1万2千里だの南だの書いててそれがいつになっても変わらん上に実際に間違いだらけと言う時点でおかしいと思えよバカが

939日本@名無史さん2019/01/08(火) 19:45:36.88
>>923
本当に可哀想なのは世話をしてる身内

940日本@名無史さん2019/01/08(火) 19:47:11.42
朝鮮半島南部すら倭地と認識することができる知識を、獲得できる文献とは、どのような文献なのだろうか。。。

290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。

941日本@名無史さん2019/01/08(火) 19:49:07.42
邪馬台国畿内説が、韓国政府が偽造した宣伝だったことが、はっきりした今、僕達は戦争を防止するために、どうすれば良いか考えれば良いのではないのかな、、、

942日本@名無史さん2019/01/08(火) 19:49:57.95
キウス

943日本@名無史さん2019/01/08(火) 19:54:34.82
伊都クズ=連続句読点=九州王=○か○み

944日本@名無史さん2019/01/08(火) 19:56:00.04
つまり、韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人は論破され、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。

945日本@名無史さん2019/01/08(火) 19:59:08.46
韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人が、意味の通じない意見を発表したのではないのかな。。。

943日本@名無史さん2019/01/08(火) 19:54:34.82
伊都クズ=連続句読点=九州王=○か○み

946日本@名無史さん2019/01/08(火) 19:59:33.64
妙だな

畿内への道のりを証明することよりも
まるで魏人が方角も距離もわからないクルクルパーだったと
力説したいようだ
キナイコシはなにを言いたいのだろうか?


>従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千余里
>おいおい。
>海岸水行だけで、帯方郡から倭に至るらしいぜ。



なぜかキナイコシが発狂www

もはや畿内に邪馬台国をもってくるのが目的じゃなくて
三国志の地理記載全てを虚構にするのが目的www

『韓在帯方之南 東西以海為限 南興倭接 方可四千里』

947日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:02:51.09
キウス

948日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:03:50.49
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、一寸千里の計算に失敗したので、やけを起こし、意味の通じない意見を発表したが、
僕たちは、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された、韓国人の3寸男の発表の何処が間違っているのか研究を再開すれば良いな。。。

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった

949日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:04:20.37
書きためたレスを一気に放出

950日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:05:33.22
コピペを混ぜて別人アピール

951日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:06:43.65
やはり、3寸男は、頭が悪いのではないのかな。。。

952日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:07:37.79
>書きためたレスを一気に放出
>>1-103


キナイコシはまとめるという能力が無いようだ。
陳寿を見習え。

953日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:08:14.95
3寸男は、頭が悪いので、可哀想だね、、、

954日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:08:44.99
キウス

955日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:08:46.78
連投で分かりやすっ!

956日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:08:52.54
陳寿が言ってたよ。キナイコシは悪いって。

957日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:09:39.93
>>953
本当に可哀想なのは世話をしてる身内では、ないのかな。。。

958日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:10:13.54
どうせ消してるからいつものバカ妄言連呼してると分かる

959日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:10:57.48
バレバレ

960日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:13:24.07
韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人が、勘違いをして、意味の通じない意見を発表したのではないのかな、、、

949日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:04:20.37
書きためたレスを一気に放出

950日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:05:33.22
コピペを混ぜて別人アピール

954日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:08:44.99
キウス

955日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:08:46.78
連投で分かりやすっ!

958日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:10:13.54
どうせ消してるからいつものバカ妄言連呼してると分かる

959日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:10:57.48
バレバレ

961日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:13:31.38
関係ありそうでしょ『応神天皇 百済』


家の老婆と同じような話をしている人がいたり・・・、
蚕、機織りをしていたとか、秦氏と同じシルクロード関係なのかな?


でも、むかーしの話だからな・・・・。

962日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:13:40.31
連投で流すとか「物凄く痛かったです」って言う告白と変わらんからな

バカは分かりやすい

まぁ本当は自分が間違いだらけだと分かってるからこそだと言う自白でもあるな

バカは分かりやすい

963日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:13:45.41
連続句読点は九州説の短里の根拠
谷本計算の不備を突かれたのがよほど悔しかったようだなあ
けど残念だけど谷本計算には間違いがある
by3寸男

964日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:15:34.42
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、一寸千里の計算に失敗したので、やけを起こし、意味の通じない意見を発表したが、
僕たちは、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された、韓国人の3寸男の発表の何処が間違っているのか研究を再開すれば良いな。。。

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった

965日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:16:45.38
蓬莱島だの何だの言ってる頃とその後に実際に交流を持ってる頃となんも変わらん距離感と方向感
実際に間違いだらけ

これで信頼できる証拠だとか言うんだから九州説の脳ミソのなさが理解できるわ

966日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:17:46.76
つまり、韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人は論破され、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。

967日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:20:19.40
連句点の人格はとうの昔に破綻しているが

968日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:20:27.16
邪馬台国畿内説を、完全に破綻させた、谷本計算とは、どのような計算なのだろうか、、、

969日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:22:39.76
韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人は論破され、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したので、韓国人が怨恨を抱き、悪口を言い放ったな、、、

967日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:20:19.40
連句点の人格はとうの昔に破綻しているが

970日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:22:45.47
まあそのコピペの周八尺160cm棒の影長が
北緯35度より北になるってのはちょっと怪しいかもな
あと160cm棒の影長が1寸差になるのが60kmは
66kmがより事実に近い
連続句読点よ60kmを66kmに直しておいてくれんか

971日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:25:35.26
970日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:22:45.47
まあそのコピペの周八尺160cm棒の影長が
北緯35度より北になるってのはちょっと怪しいかもな
あと160cm棒の影長が1寸差になるのが60kmは
66kmがより事実に近い
連続句読点よ60kmを66kmに直しておいてくれんか

972日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:26:05.12
それをコピペしてどーする

973日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:29:45.76
>>968
句読点さんに教えてほしいのですが、
句読点さんの計算では、短里は何メートルになるのでしょうか?

974日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:34:13.40
おや連続句読点が止まったな
畿内説から罵倒されるのが常だから
普通に話しかけられたらどうしたらいいのかわからんとかか

975日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:45:55.64
遠くの孫達から、電話が掛かるかもしれないので、韓国人と討論することに集中出来ないのでは、ないのかな、、、

976日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:52:55.56
あと天王でしょ?

本当は日本の話(出来事)ではないと言ってる人がいたり、
どういう事なんだろう、何かの書からの引用なのかな?

977日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:53:07.72
孫がいる年齢でこんなとは悲惨だな

978日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:53:20.37
お前はいくつなんだよ

979日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:55:38.03
九州説は耄碌老人ばかりなのか

980日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:56:45.00
老後の趣味がスレ荒らしとはな。。。

981日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:57:06.40
>>845
>肝心の畿内の話は全くしない畿内スレだった

しょうがない。
畿内説なんて中身がなく空っぽなのだから。

982日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:58:08.64
西遊記??????

983日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:00:32.45
ヒマな高齢者雇って荒らさせてるとかかもな
老人虐待九州説

984日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:07:10.15
>>869
>そして、一日40キロも進んだら、陸行一月で1200キロ
>九州を縦断3往復くらいできてしまうんだがww

だから1日の誤りで、九州北岸に上陸したらもう伊都まで1日の陸路だけ。

985日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:07:43.56
どのスレだったかな
『クンビーラ』が〜と言ってる人もいた

986日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:09:49.79
次回のスレッドが作製されましたね。。。

邪馬台国畿内説 Part415
http://2chb.net/r/history/1546949244/l50

987日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:10:32.49
>>892
>親魏倭王の金印と封泥で封印した皇帝詔書は
>魏志の使者が初めて倭国に訪れた時に持ち込んだもの?

後漢の時代にも金印ならもらっているよ。
同じ倭王だからね。
倭が東遷でもしない限り、倭は九州北部でしかない。

988日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:11:43.90
>>897
>でも「畿内」が「天皇の存在」を前提とした文言だなんて証拠は

畿内を辞書で引いてみろ。

989日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:11:50.33
韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人は論破され、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したので、韓国人が怨恨を抱き、悪口を言い放ったな、、、

979日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:55:38.03
九州説は耄碌老人ばかりなのか

980日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:56:45.00
老後の趣味がスレ荒らしとはな。。。

990日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:12:41.88
990

991日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:12:55.03
>ヒマな高齢者雇って荒らさせてるとかかもな

ほほう。
キナイコシの思考とはそのようなものか。

992日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:14:01.72
>>991
図星だったのかよ

993日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:14:51.32
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

994日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:16:20.16
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

995日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:17:47.20
次回のスレッドが作製されましたね。。。

邪馬台国畿内説 Part415
http://2chb.net/r/history/1546949244/l50

996日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:17:50.88
>>919
>九州バカは今度は「九州はこの時初めて大陸と行き来した」とか言い出すのか

そういうふざけたことを言うのは畿内説だろ。
九州説は後漢から金印を貰った倭も魏から金印を貰った倭も九州北部なんだよ。
いつ倭は九州北部から畿内に東遷したんだ?

997日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:18:31.61
発見済みの金印は奴国王であって倭国王では無いわな

998日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:20:02.88
クンビーラ、

水に関係する神という説明があるでしょ、
河童?キュウリ?

999日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:20:47.93
倭はのちに日本に改名
その頃の政権は大和

1000日本@名無史さん2019/01/08(火) 21:20:55.30
6年前の2013年、邪馬台国畿内説は完全に破綻しました、、、


lud20200528162844ncaこのスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/history/1546683723/
ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。

TOPへ TOPへ  

このエントリをはてなブックマークに追加現在登録者数177 ブックマークへ


全掲示板一覧 この掲示板へ 人気スレ | Youtube 動画 >50 >100 >200 >300 >500 >1000枚 新着画像

 ↓「邪馬台国畿内説 Part414 ->画像>22枚 」を見た人も見ています:
邪馬台国畿内説 Part421
邪馬台国畿内説 Part413
邪馬台国畿内説 Part451
邪馬台国畿内説 Part491
邪馬台国畿内説Part1
邪馬台国畿内説 Part421
邪馬台国畿内説 Part401
邪馬台国畿内説 Part415
邪馬台国畿内説 Part13
邪馬台国畿内説 Part416
邪馬台国畿内説 Part418
邪馬台国畿内説 Part405
邪馬台国畿内説 Part404
邪馬台国畿内説 part440
邪馬台国畿内説 Part440
邪馬台国畿内説 Part344
邪馬台国畿内説 Part437
邪馬台国畿内説 Part439
邪馬台国畿内説 Part436
邪馬台国畿内説 Part434
邪馬台国畿内説 Part345
邪馬台国畿内説 Part449
邪馬台国畿内説 Part452
邪馬台国畿内説 Part403
邪馬台国畿内説 Part433
邪馬台国畿内説 Part437
邪馬台国畿内説 Part428
邪馬台国畿内説 Part438
邪馬台国畿内説 Part420
邪馬台国畿内説 Part400
邪馬台国畿内説 Part432
邪馬台国畿内説 Part446
邪馬台国畿内説 Part439
邪馬台国畿内説 Part490
邪馬台国畿内説 Part492
邪馬台国畿内説 part450
邪馬台国畿内説 Part470
邪馬台国畿内説 Part406
邪馬台国畿内説 Part455
邪馬台国畿内説 Part543
邪馬台国畿内説 Part462
邪馬台国畿内説 Part445
邪馬台国畿内説 Part493
邪馬台国畿内説 Part422
邪馬台国畿内説 Part324
邪馬台国畿内説 Part448
邪馬台国畿内説 Part495
邪馬台国畿内説 Part466
邪馬台国畿内説 Part402
邪馬台国畿内説 Part497
邪馬台国畿内説 Part450
邪馬台国畿内説 part4001
邪馬台国畿内説Part388
邪馬台国畿内説 Part39
邪馬台国畿内説 Part510
邪馬台国畿内説 Part501
邪馬台国畿内説 Part317
邪馬台国畿内説 Part315
邪馬台国畿内説 Part488
邪馬台国畿内説 Part316
邪馬台国畿内説 Part518
邪馬台国畿内説 Part391
邪馬台国畿内説 Part447
邪馬台国畿内説 Part301

人気検索: まんこ 自撮り 亜炉 ロリ画像 ムダ毛 2016 チア 35 ゆうみ 見せつけsex 吉岡なつき スカトロ 女子 中学生
16:28:46 up 15 days, 20:38, 5 users, load average: 4.42, 5.88, 5.91

in 9.719801902771 sec @2.2696890830994@839 on 052816