◎正当な理由による書き込みの削除について:      生島英之とみられる方へ:

邪馬台国畿内説 Part515 YouTube動画>1本 ->画像>64枚


動画、画像抽出 || この掲示板へ 類似スレ 掲示板一覧 人気スレ 動画人気順

このスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/history/1570646047/
ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。

1◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:34:07.49
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1570434903/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:35:45.96
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:36:21.16
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:36:58.26
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:37:33.51
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:38:06.83
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:38:40.99
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:39:17.82
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:40:16.17
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:41:01.98
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:41:36.12
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

12◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:42:11.27
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:42:49.06
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

14◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:43:21.49
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:43:55.55
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:44:30.56
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:45:00.36
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:45:36.24
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

19◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:46:15.31
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、
ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

20◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:47:13.79
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

21◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:47:46.59
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

22◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:48:21.14
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

23◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:48:56.13
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

24◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:49:29.92
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

25◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:50:04.90
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

26◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:50:36.39
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

27◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:51:11.37
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。

28◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:51:51.12
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

29◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:52:31.51
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

30◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:53:36.77
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

31◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:54:14.76
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

32◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:54:46.71
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

33◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:55:20.74
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

34◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:55:58.07
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

35◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:56:31.56
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。

36◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:57:06.39
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

37◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:58:09.98
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

38◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:58:45.34
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

39◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:59:21.41
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

40◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 03:59:56.12
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

41◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:00:29.96
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

42◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:01:05.60
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

43◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:01:30.62
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

44◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:02:11.80
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

45◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:02:47.16
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

46◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:03:29.49
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有¢ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

47◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:03:59.94
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

48◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:04:36.32
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

49◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:05:11.24
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)

50◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:05:46.44
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

51◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:06:20.75
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

52◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:07:05.92
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

53◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:07:43.24
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

54◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:08:16.26
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

55◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:08:51.45
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

56◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:09:27.17
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大ウ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) 邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

57◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:10:22.88
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

58◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:10:57.19
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

59◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:11:32.17
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

60◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:12:11.98
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

61◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:13:07.67
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」

「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。

三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

62◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:13:41.20
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

63◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:14:16.34
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

64◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:14:51.39
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君d高官」「保子d孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君d高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。

65◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:15:26.41
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

66◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:16:19.28
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

67◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:16:52.02
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

68◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:18:02.40
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

69◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:18:38.69
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。

70◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:19:16.49
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。


◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。

71◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:19:51.34
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬がある。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

72◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/10(木) 04:20:31.11
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし

73日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:02:53.66
前スレ>978
http://2chb.net/r/history/1570434903/978
>なぜ男女別の単位を用意しなければいけなかったのか?
>答えてみろよ。

答えは既に書いてあるだろ?
「身体尺」だからだよ

男と女で手の大きさが違うんだから、違う表現じゃないと困るだろうがww

74日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:03:34.92
>>564
上の人間ほどふんぞり返って何もしない位高ければ義務ナシ
金品が必要になればそこらの民草からふんだくる強盗経済の確立
たまに権力誇示のため無意味に立法や処刑
そこで形成された社会観は倫理観もへったくれもなし
後先考えずに嘘でも何でもついてとにかく目先の事をやり過ごすことに特化
そして嘘が暴かれるのは死を意味する

戦後の自民支配社会は人間性に対する力の限りの憎悪が込められた一種の呪い
そこで形成されたのは真理が憎まれ嘘が崇められる反人間性
なぜこのような社会が恐らく意図的に築き上げられたのかは歴史上の謎

75日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:04:31.48
前スレ>981
http://2chb.net/r/history/1570434903/981
>後世に宮と呼んだだけで、実態は山城もしくは高地性集落であっただろう。

高祖山系に、3世紀以前の高地性集落も山城もないよ
どうしてこういう現実離れした嘘をつくかなぁww

76日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:08:12.97
>>565
>>その数字で邪馬台国は福岡県を出ない。<

>短里なんてないんだから、2000里もあれば軽く畿内まで届くぞww<

「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
短里だから、大和まで届かない。

>まあ、萬二千里も観念的な数字で当てにはできないけどね<

魏の役人たちは、「観念的な数字」なんかで報告を書かないから、×。

77日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:09:10.37
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は、「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(ベトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島をベトナムまで引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。

78日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:13:03.89
>>77の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」‗〜│←「自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」

79日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:21:43.18
>>78

帯方郡
↓↓
↓東治
↓↓580q「陸行一月」
東冶=女王国(12,000里)

中国大陸での道里の、倭国への転用か(納得)!

80日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:22:14.23
前スレ>>984

鋳造用語では鬆も巣も使う

https://www.ipros.jp/technote/basic-casting-processing7/

81日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:29:48.08
>>77
>>78
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)

畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾する。
また、軍事力(鉄製武器)も通信手段(文字・駅伝制=早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
魏志倭人伝を史料として採用する以上、消去法によって九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

82日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:34:31.40
>>81すると、欽明(現皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

83日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:37:26.28
【平原遺跡の年代について】

・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から多量に出土していて、
時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から四世紀と考えられている

・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から出土したものと同型である。

結論
平原遺跡は3世紀中頃、卑弥呼の没年の前後に作られた王墓であり、
被葬者は女性であることから、卑弥呼の墓である可能性が高い。

邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚
平原遺跡の超大型内行花文鏡は舶載鏡を改鋳した国産鏡であり、漢の滅亡後に中国からの冊封に頼らず独自の権威を確立しようとしたものだろう。
そして八咫の鏡の製作者としてのアマテラス伝承のモデルともなったと考えられる。

84日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:37:57.40
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。

金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志伝倭人だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。

85日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:37:57.74
>>82
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0

その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。

ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。

86日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:46:30.23
纏向説はなぜ素直に大型建物は倉庫だったニダと認められないんだろ?
イノシシ避けの柵があるのは農作物を貯蔵していたからだろ?
居住区も無いのに大集落だと妄言吐いたり、ちょっと頭おかしいんじゃね?w

87日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:49:12.02
九州説だけどさ、纒向かあまりにも叩かれて可哀想だからプラスの評価をしてあげよう。
あれはやはり指導者層がいことを示す宮だよ。
つくりが神社建築そのものだもの。
本殿と拝殿が一列に並び、玉垣で囲ってある。
一部の建物だけ棟持柱があるのが特徴的だったはず。
だけれども、現地指揮官が一人いただけなんだよ。
伊勢遺跡みたいにそれが何棟も並んではいないから、ここに首長層が集まったということはない。
ここは王都ではあり得ない。
家臣に訓示を述べる建物はあっても、貴人達を迎える構造にはなっていない。
もちろん帯方郡からの使いを饗応した痕跡(建物も土器も)もない。

88日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:49:38.74
小沢毅氏
「纏向遺跡を都市とみるには多くの問題がある。都市的要素にしても都市の存在は推定にとどまっており、
何よりも、集住を示す住居や居住区の確認例があまりにも少なすぎる、という現実につきあたる。
こうした点は、都市の定義の根幹をなす集住自体が、はたして寺沢が想定するような規模でなされていたかどうかを疑わせる。(中略)
纏向遺跡の段階に、王宮を核として多数の人々を恒久的に集住させるような必然性があったとは
到底思われない。(中略)また、かりに王権による強制的集住があったとしても、それが都市とするにふさわしい恒久性を有していたかは検討を要する。(中略)以上、纏向遺跡については、居住者
の質の問題はともかく、集住の規模と期間に疑問があり、都市としての要件を満たしているとはいいがたい。」

89日本@名無史さん2019/10/10(木) 12:53:43.80
>>985
>ヤスカワは、伊勢遺跡のある野洲川だろう

違う!   その「天之安河」がまさに「鮎喰川」なんだよ。   @阿波

90日本@名無史さん2019/10/10(木) 13:06:03.60
>>85
ダイワとしか読めない大倭(大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(特に唐)に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
また7世紀の隋・唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため「大倭」(>後漢書東夷伝)と書き、
発音は九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐との外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として遂行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。

91日本@名無史さん2019/10/10(木) 13:10:34.50
>>90
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、ダウンロード&関連動画>>


その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて九州島を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(時間の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗って、宇宙の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)

-継体による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居【倭京】仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html

92日本@名無史さん2019/10/10(木) 13:20:36.82
箸墓古墳と同じ前方後円墳、今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれたのだろう。。。

93日本@名無史さん2019/10/10(木) 13:20:42.08
>>566
>ただ、「伊勢大神」というのは「天照大神」を指していて、
穀物神である豊受大神を祭神とする外宮「豊受大神宮」の記録『豊受皇太神御鎮座本記』に、この「伊勢大神」=「天照大神」の記述があるのは、非常に不自然である。
つまり、「豊受大神」(外宮)=「伊勢大神」=「天照大神」(内宮)ということか。@阿波 <

豊受は、出雲大国主系であり、伊勢に在地の神であるから、外宮に祀られ、
天照は、天国→倭奴國や伊都国→大和の天孫族系の新規支配者の神であったから、
内宮(伊勢神宮)に祀られたの。
また、阿波は、元は出雲大国主時代からの「出雲での祭祀担当部族」であって、
天照らの国譲り戦争に出雲が負けたから、
阿波に出雲祭祀を持って逃避した部族国であり、
更にまた、九州倭国の「東征毛人」軍の支配を受け、
出雲祭祀を天孫族に伝授する立場になった、
という事だろう。

94日本@名無史さん2019/10/10(木) 13:22:47.91
>>567
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
学問の定説のような史料事実や史料実態の真実真理を見れば
ある種本能的に、殺されそうな感覚に陥るのだろう

95日本@名無史さん2019/10/10(木) 13:27:55.66
>>573
多分だけど、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者を説得するのは、
理論的には不可能なのかも知れない
大和説の嘘は、歪められた本能による防衛反応なのだから
いわゆる「愛ある説得」というヤツでは全くダメで、
病院か刑務所に収容した方がした、
実際に効果を発揮するのかも知れない

96日本@名無史さん2019/10/10(木) 13:28:09.87
平原遺跡が卑弥呼の時代ではないという畿内説の主張の根拠はまだですか?

97日本@名無史さん2019/10/10(木) 13:30:27.34
>>575
すでに「南→東」などの嘘付き騙しや、
憎悪にそり固まってる大和説の・・・・アホガキや老人に、
愛を説いても
カラハリ砂漠に水撒きだ

98日本@名無史さん2019/10/10(木) 13:55:52.75
糸島は博多〜今津湾よりも畿内の影響が遅れているので
200年頃築造の平原1号の商人は博多側では相手にされてない存在であろう
錆色塗装鏡も特大鏡も北部九州のどこも受け入れていない

99日本@名無史さん2019/10/10(木) 14:16:30.07
>>96
卑弥呼の時代じゃないとか誰か言ったか?
聞いた覚えがないw

卑弥呼の生前に誰かが葬られた墓だという証拠ならとっくに出てるが

100日本@名無史さん2019/10/10(木) 14:24:29.03
>>576
「南→東」などの嘘付き騙しや、
存在もしなかった「畿内」なんて嘘つき騙し文言を使う大和説よ
大丈夫大丈夫怖がらなくても
九州説は、君達大和説者を殺したりはしないから
さあ もう嘘はつかなくてもいいんだよ、
誰も罰しないから

101日本@名無史さん2019/10/10(木) 14:28:34.75
>>98
>糸島は博多〜今津湾よりも畿内の影響が遅れているので

博多には畿内の人間もうろうろしていたのかもしれないが、伊都には入れなかったわけだ。

>錆色塗装鏡も特大鏡も北部九州のどこも受け入れていない

他の宝飾品も含めて、卑弥呼だけが独占していたわけだ。

102日本@名無史さん2019/10/10(木) 14:29:03.48
>>99
>卑弥呼の生前に誰かが葬られた墓だという証拠ならとっくに出てるが

生前だという根拠は?

103日本@名無史さん2019/10/10(木) 14:42:42.75
>>577
>九州説の言う、魏志倭人伝は短里で読めば距離ぴったり、というのは
実は単にこの二ヶ所だけ見ると70メートル前後で近い数字が出る、という「だけ」ww<

いや、七千余里も3つの千余里も方四百余里も方三百里も陸行五百里も百里も、
有効数字1桁近似値の範囲内で合っており、
大和説者らの言うような、「長里での6倍位の間違い」にはなっていない。

>これと、周髀算経の夏至の正午の影の長さの差が1寸になるところの距離が
「たまたま近い」のを根拠にしている
しかし、周髀算経の一寸千里は、「八尺」棒と天地の距離「八万里」の比が
一寸対千里になっているだけで「冬至の影の長さも1寸の差」にならなければならない
つまり、現実とは関係ない机上の計算でしかない <

いずれも、有効数字1桁程度の近似値位以内で合っている。
6倍位も違うような「長すぎる里=長里」なんてないんだよ
魏志倭人伝では、長里は全ての論拠で否定されているし、
長里を使う人は、3世紀の魏志の世界では殆どいない

104日本@名無史さん2019/10/10(木) 14:47:49.17
なんだかんだ言っても、糸島=イトコクが崩れると、北部九州説と畿内説派共倒れになる。
それにもかかわらず卍巴えの甲論乙駁、どちらが先に根を上げるか、、、

105日本@名無史さん2019/10/10(木) 14:57:42.59
佐賀が開発されるのは4世紀以降。
川上は壹與の王都。

106日本@名無史さん2019/10/10(木) 14:59:25.33
>>101

3世紀に北部九州でもっとも発展しているのが博多で
今津湾は畿内の模倣筑前型庄内や山陰系土器、半島系軟質土器、
出雲の玉作り工房もあり、交易拠点になっている
糸島最古の前方後円墳の御道具山古墳は今津湾西奥の泊に造られる
糸島唯一の式内社で海から参拝していた志登神社がすぐ南にある
稚拙な鏡を一人だけで溜め込んでも意味が無い

107日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:07:13.97
>>584
大和説は
「正北抵新羅」で死亡
「南≠東」で死亡
「大和日本国は倭國の別種の旧小国」で死亡
九州倭国の「東征毛人五十五國」で死亡
「不彌國付近で萬二千余里がほぼ終わっている」で死亡
「末盧国から伊都国が見えない」ので死亡
伊都国から奴国が東南なので死亡
投馬国が女王之所都の以南なので死亡
山にベンガラが出るので死亡
市を介してヒスイが手に入れられるので死亡
卜骨の習慣があるので死亡
陳寿の言う通りに会稽東治の東だから死亡
卑弥呼の墓の「冢≠前方後円墳」なので死亡
大和の前方後円墳や△は4世紀なので死亡
庄内は筑紫が3世紀前半で大和は3世紀末なので死亡
鉄鏃は大和は九州の数百分の1なので死亡
殉葬奴婢百余人は祇園山だけなので死亡
參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里は侏儒國付近までの陸路なので死亡
大和は有棺有槨なので死亡
あと、まだ何かあったかしら?。

108日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:09:16.87
>>590
いつ、いかなる時も、
「南≠東」などに、反論できない敗者大和説

109日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:11:20.61
>>596
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
ウソがかなりバレてる(証拠付き)

110日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:15:35.86
>>74
ここに書いてあること、なんかお隣の国のそれに似てない?
日本では、そのような階層が出てくると下克上でひっくり返されるようだけど。

111日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:15:59.20
>>602
大和説
昭和の戦後頃まで残存した、
キョクウ国粋殺戮戦争の万世一系八紘一宇の皇国史観宗教の狂気の説。

112日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:19:07.34
>>76
横からだけど、
その万二千里が魏皇帝公認(※世間も公認)なんだからね。
皇帝が自分の首はねないし。

113日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:24:33.58
>>103
横からだけどね。
倭人伝は、海路で行ったて書いてあるし。
海路だから倭人伝の里数は1里75mにならないよ。
いわゆる短里とされるのは偶然にすぎん。

114日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:30:04.73
>>113
>いわゆる短里とされるのは偶然にすぎん。

帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。

因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

115日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:30:32.49
>>613の訂正
>韓地は方「可」四千里と書かれている <

郡の役人たちは、一寸千里と簡易三角測量や歩測などに拠って、
大体の推定里数を書いている。

>確実な測定値ではなく、循海岸水行が七千里なら方四千里で「可」なんだよ<

循海岸水行は郡出発(おそらく海州)から、牙山湾付近までの海岸沿い水行であり、
「歴韓國乍南乍東」は、韓地陸行であり、
それは倭王武の上表文の「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」が証拠であり、
また、魏使らが乗った船に「持衰」が見聞されているから、倭船であり、
郡からの中国船に拠る九州までの全水行が否定される事も根拠。

116日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:31:32.03
>>113
>いわゆる短里とされるのは偶然にすぎん。

帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。

因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波

117日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:33:56.99
>>106
伊都と奴国は近接しており、一つの勢力圏と考えるべき。
伊都と奴国は役割分担がされており、魏志倭人伝の記事からは、九州北部と対馬海峡の監督役が伊都の大率であった。
つまり奴国も伊都の支配下にあったことになる。
その伊都で贅を極めていたのが平原遺跡の被葬者である女性であり、その年代は卑弥呼の治世である。

118日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:35:45.24
>>106
>稚拙な鏡を一人だけで溜め込んでも意味が無い

「意味がない」という言葉の意味が不明。
九州北部で随一の多量の宝飾品を平原の被葬者が集めていたことは事実で、「意味がない」という主観的意見に意味がない。

119日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:36:44.53
>>117

奴国が伊都の支配下にあったなんてことは倭人伝には書いてない

120日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:36:53.82
>>113
偶然でも何でもいいけど、その縮尺なんだろ?

121日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:37:27.00
>>119
伊都の大率を周辺国が恐れ憚ったと書いてある。

122日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:39:28.28
>>118

威信財は配ってこそ意味がある
何も与えなかった支配者などいない

123日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:43:37.46
>>121
>伊都の大率を周辺国が恐れ憚ったと書いてある。

それのどこが
「奴国が伊都の支配下にあった」
という主張と関係あるんだ?
論理的なつながりが何もないぞ

124日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:45:45.24
>>120
縮尺って、なに?
そんなもの存在しないだろ?

125日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:49:21.16
>>617
>以前にも書かれていたことだけど、黄金鑵に鏡を入れるのはおかしくないか?
金属を金属の入れ物に入れるようなことは普通はしない。
考えられるのは、本来は御桶代にそのまま鏡を入れるか、布に包んで入れていたが、
ある時に鏡が灰になってしまったので鑵に入れてから御桶代に入れるようになったのではないか?
つまり本来の鏡はやはり約46センチ程度だったと考えるのが「妥当」。<

ふーん、成程。

126日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:49:47.32
>>117
>その伊都で贅を極めていたのが平原遺跡の被葬者である女性であり、

その人と大率になんの関係があるんだ?
論理が飛躍して文章が意味不明だぞ

127日本@名無史さん2019/10/10(木) 15:53:52.68
>>109
じゃ、その証拠出してみて
出せなければ>>109が嘘つきだって証拠になる

128日本@名無史さん2019/10/10(木) 16:07:13.88
>>116
平壌は楽浪郡。
帯方郡は沙里院とする説もある。
沙里院〜海上〜木浦南の下鳥島=500km
下鳥島〜順天=180km
500km+180km=680km
680000m÷7000里=1里97m

順天〜対馬南端=190km
190000m÷1000里=1里190m

129日本@名無史さん2019/10/10(木) 16:10:02.35
>>627
>後漢書は拘奴國が女王國の東に度海千餘里になっている<

後漢書は、
前史の魏志の記載内容の「自己解釈に拠る書き換え」と推定される箇所が非常に多くて、
半分×書的であり、高確率的な根拠にし難い。
そして、魏志の、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と、
「此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王」の部分が、
まとめて、
「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」
と「書き換えられた形」になっており、
「南→東」の書き換えや「狗奴國→拘奴國」の書き換えになり、
そんな後漢代記録や情報があったのか、という事が不審であり、
結局、根拠にして採用し難い。

130日本@名無史さん2019/10/10(木) 16:11:18.37
>>128
>平壌は楽浪郡。
>帯方郡は沙里院とする説もある。

たいして変わらんが、逆だろう。   @阿波

131日本@名無史さん2019/10/10(木) 16:12:28.70
>>128
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m    @阿波

132日本@名無史さん2019/10/10(木) 16:20:33.45
>>633
>九州上陸から二千里だとどうなる?
確実な定点を通過するのだから、そこで補正するべき。<

陳寿は、
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」
の「五千余里」の計算で、
對海國と一大國の「国内移動見聞里数」の四百余里×2と三百里×2の、
陸行移動里数を算定しており、
従って、不彌國付近で(二千里は残っておらず)、
萬二千余里がほぼ終わっている事になる。

133日本@名無史さん2019/10/10(木) 16:23:32.94
>>635
>補正しておったら、なんの2000里かわからんようになるな。
だから、短里は無理よ。<

始めから、不彌國付近で萬二千余里がほぼ終わっており、
だから、長里は始めから無理よ。

134日本@名無史さん2019/10/10(木) 16:31:06.62
>>650
>金属と金属が接触したままだと劣化するんだよ。
黄金鑵に入っているなら、それはすでに酸化した灰を集めて入れてある可能性が高い。
金属製品は木製の容器に保管するのが普通なので、御桶代の大きさが神鏡の大きさに近いはず。
つまり八咫の鏡の本来の大きさは平原遺跡の鏡と同じ46センチほど。<

ふーん。

135日本@名無史さん2019/10/10(木) 16:35:36.25
>>654
>>長里だともっと南になるから<

>九州説はいつも根拠が言えないね 学説じゃないからだろう<

この大和説男は、
郡からの「萬二千余里」では赤道付近にまで行ってしまう、
という事も知らない・・・・アホであったのか?。詐欺師じゃのう。

136日本@名無史さん2019/10/10(木) 16:41:04.21
>>664
このように
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
デタラメばかり言っていて
自分の説を説明することもできない

137日本@名無史さん2019/10/10(木) 16:48:12.92
>>667
>>>祇園山だけにあっても無駄
殉葬は古来から行われてきた習慣と日本書紀にあるから
奴婢が周りに埋められた跡があちこちの古墳ので見つからなくてはいけない
しかし国内の古墳で周りに奴婢を埋めた跡があるものはなし
つまり奴婢を古墳周りに埋めるのは殉葬ではなし<

>>関係がない。
張政らは、「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を、
実際に見たから、記録した。<

>つまり、どこに埋めたかは書いてないんだよ 九州説っておさるさんだね<

張政らは「大作冢」を見て書けたのだから、
jun葬者奴婢百餘人は卑弥呼の「冢」に埋められた。

138日本@名無史さん2019/10/10(木) 16:50:46.08
>>671
>九州説は非国民!<

「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、国民を騙そうとした非国民。

139日本@名無史さん2019/10/10(木) 16:56:11.92
>>137
>張政らは「大作冢」を見て書けたのだから、
>jun葬者奴婢百餘人は卑弥呼の「冢」に埋められた。

なにこれ
デタラメいうなよ
正面に塚を見て後ろに奴婢を見たかもしんねえだろ
九州説ってあたまへんなの

140日本@名無史さん2019/10/10(木) 17:04:12.07
>>685
>魏の見聞計測役人? 九州説さん、また新発明ですか
冊封や告諭の使者以外に別行動する計測屋さんも派遣してたんですか<

普通は、魏使本人は女王之所都から動かないものだ。
調査して回るのは、部下の役人ら。

>でも、第二の大国である投馬国に行かないで、なんで侏儒国なんて行ったの?<

魏使らの目的の一つは、「東や南の極地」の情報を得る事であり、
だから、裸國と黒歯國情報を得る事が出来たのであり、
また、東テイ人の情報も欲しかったのだが、
女王之所都で「東テイ人の地が投馬國に変わっている」という事が判って、
魏の役人たちは、倭人からの伝聞情報を記録して、それにとどめておいた。

141日本@名無史さん2019/10/10(木) 17:09:03.59
>>120
対馬〜巨済島(最短距離)=60km 60000m÷1000里=1里60里
ソウル〜珍島〜巨済島=630km 630000m÷7000里=1里90里
珍島〜釜山(この距離は半島の東西距離に等しい)=270km 270000m÷4000里=1里68里

1里の長さが似ているのは対馬〜巨済と珍島〜釜山の長さ。
一方、仁川〜巨済島の1里は20〜30里程度も異なる。
対馬〜巨済島と珍島〜釜山間の1里の長さが似ているのは偶然だろう。

142日本@名無史さん2019/10/10(木) 17:19:23.86
>>133
まあ、短里の場合でも、沙里院からだと末盧までで1万里を使うから、残り2千里。
末盧〜伊都=5百里
伊都〜奴=百里
奴〜不彌=百里
で計7百里。
あと1千3百里も残ってるよ。
この1千3百里どうすんのさ。
短里はどうみても無理。

143日本@名無史さん2019/10/10(木) 17:42:23.34
萬二千餘里で女王國に至る
里数で書かれている北部九州沿岸と長門周防は倭人の風習である卜骨が出ない
水行した本州から倭人が住む女王國領域に入る

144日本@名無史さん2019/10/10(木) 17:43:06.00
>>140
>魏使らの目的の一つは、「東や南の極地」の情報を得る事

それはアンタが考案したんだろ
自分で作ればなんでもアリだ
九州説はこれだからデタラメと言われるんだよ

145日本@名無史さん2019/10/10(木) 17:46:11.81
何故、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだろうか、、、

146日本@名無史さん2019/10/10(木) 17:53:31.08
>>131
平壌から阿波まで1300kmだよ。
1300000m÷12000里=1里108m

直線距離て。
海路よ、海路。

147日本@名無史さん2019/10/10(木) 17:59:02.98
>>146
>平壌から阿波まで1300kmだよ。

縮尺が間違っていないかい?   特選距離だよ。   @阿波

148日本@名無史さん2019/10/10(木) 17:59:25.71
>>126
伊都でその時代に一番贅沢をしていた人物なのだから、大率か大率を統べる立場だろ。

149日本@名無史さん2019/10/10(木) 17:59:51.77
>>146
>平壌から阿波まで1300kmだよ。

縮尺が間違っていないかい?   直線距離だよ。   @阿波

150日本@名無史さん2019/10/10(木) 18:00:50.43
>>142
>あと1千3百里も残ってるよ。
>この1千3百里どうすんのさ。

上陸したのだから、その縮尺で千三百里南下すれば?

151日本@名無史さん2019/10/10(木) 18:06:37.02
>>148
>伊都でその時代に一番贅沢をしていた人物なのだから、大率か大率を統べる立場だろ。

なんで伊都でその時代に一番贅沢をしていた人物だと
大率か大率を統べる立場になるんだ
どういう思考?

152日本@名無史さん2019/10/10(木) 18:09:54.76
>>150
縮尺なんて、どうやって出した?
計算根拠は?

153日本@名無史さん2019/10/10(木) 18:13:53.03
>>148
その時代じゃねーし

154日本@名無史さん2019/10/10(木) 18:29:38.74
>>722
>奴婢が大量に殺された大事件などは、当然、後の時代まで語られ伝承されていたはずだ。
>祇園山、には奴婢大量殺害の伝承はない。 だから卑弥呼の墓ではない。<

張政らは「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を、
実見したから記録出来た。
また、「甕棺3、石蓋土壙32、箱式石棺7、竪穴式石室13、構造不明7」では、
丁寧丁重に埋葬されており、殺害ではなく、殉死であった、と推定出来る。

155日本@名無史さん2019/10/10(木) 18:38:41.52
>>734
>国史大系. 第6巻 日本逸史 扶桑略記 コマ番号371
「瓦上在鏡一面。徑八寸許。頭雖有小瑕。専無損。圓規幷帶等甚以分明」
村上天皇の天徳四年の内裏消亡のときに、内裏の八咫鏡が奇跡的に見つかったという記事
瓦上に、鏡一面在す。その徑八寸許り、頭に小瑕ありと雖も、
専ら圓規並びに蔕等を損することなく、いと分明なり。
この記事からも、八咫鏡は径八寸ばかりのものということが分かるし、
これは口径九寸の御桶代に入れるのにちょうどいい大きさだ
そして、三角縁神獣鏡の大きい方とほぼ同じ大きさ<

変な事をいう男だなあ、
「瓦上に、鏡一面在す」だけでは、それが神鏡の八咫鏡であったのか?が、
分からんではないか。

156日本@名無史さん2019/10/10(木) 18:39:46.44
>>154
そんな推定できないだろ
普通に死んだ領民が普通に埋葬されたと考える方がずっと自然だ

157日本@名無史さん2019/10/10(木) 18:42:17.61
>>76
>魏の役人たちは、「観念的な数字」なんかで報告を書かないから、×。

萬二千里は、陳寿の書いた数字だろ?
魏の役人は、距離を測っていないし、道里は日数によるものしか報告書には書いてない
そんなことも分からないのか?

だから、投馬国と邪馬台国は日数表記になってるんだよ

158日本@名無史さん2019/10/10(木) 18:42:32.20
>>156
その通り。   @阿波

159日本@名無史さん2019/10/10(木) 18:45:15.29
>>80
>鋳造用語では鬆も巣も使う

ありがとう
知識が正しく修正されたよ

正式に巣も使うんだね
語義からすれば、もともとは鬆で巣は当て字だとは思うけれど(負け惜しみ 笑)

でも本当にありがとう

160日本@名無史さん2019/10/10(木) 18:47:38.61
>>86
>纏向説はなぜ素直に大型建物は倉庫だったニダと認められないんだろ?

つ 合理的思考

倉庫だったら、大きさの異なる建物を並べる必要はない
倉庫だったら、道から離れる方向に複数の建物を並べる必要はない

よって、辻地区の3棟の軸線を揃えた建物を倉庫と考えるのは合理性を欠くし
まともな推定とは考えられない

161日本@名無史さん2019/10/10(木) 18:50:27.07
>>93
>外宮「豊受大神宮」の記録『豊受皇太神御鎮座本記』に

それ、外宮の宮司家、渡会神道が外宮が内宮と同格であると
主張するために書いたもの

だから、必要以上に外宮の神「豊受大神」を持ち上げて書いてるんだよ
人のやることは、人の動機まで考えると理解しやすくなる

162日本@名無史さん2019/10/10(木) 18:55:56.28
>>155
>変な事をいう男だなあ、
>「瓦上に、鏡一面在す」だけでは、それが神鏡の八咫鏡であったのか?が、
>分からんではないか。

前の文に神霊鏡が温明殿で火災に遭ったと書かれていて、続いて温明殿の焼け跡で件の八寸鏡を奇跡的に発見したと書かれてる
さらに文章は「又求得太刀契等、以神鏡等安置縫殿寮高殿。」と続いてる
ばかだからわからないだけ

163日本@名無史さん2019/10/10(木) 18:55:56.13
>>161
>だから、必要以上に外宮の神「豊受大神」を持ち上げて書いてるんだよ

その当時から、だれも異論を唱えていないのは何故か?  後は推して知るべし。   @阿波

164日本@名無史さん2019/10/10(木) 18:56:30.02
>>96
>平原遺跡が卑弥呼の時代ではないという畿内説の主張の根拠はまだですか?

何度も書いてるだろ?

平原1号墓の土坑墓の編年が、伊都国説・1号墓=卑弥呼の墓説の致命傷
そして、3・4号墓の存在も、古墳時代に入るまで1世代以上あることの傍証であり
1号墓が3世紀初頭より後にくだらないことを明確に示している

平原遺跡は、吉野ヶ里遺跡の勢力の文化圏の小物の家族墓地であり、唯一の
厚葬墓である1号墓も、倭王の墓とみなすのは無理

吉野ヶ里遺跡 北墳丘墓
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

平原遺跡
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

同縮尺の比較
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

明らかに格下の墓

165日本@名無史さん2019/10/10(木) 18:58:33.95
>>750
》先の扶桑略記の記事で「頭雖有小瑕」とあるのも、日本書紀の
日~、方開磐戸而出焉。是時、以鏡入其石窟者、觸戸小瑕、其瑕於秡今猶存、此卽伊勢崇祕之大~也。
の「小瑕」を、崇神天皇のときのレプリカ製作でも再現したものと考えられているくらい <

こりゃ、半分×書の書紀の記載では、事実かどうか?が判らんわ。
天の岩戸の八咫鏡では、宗像か阿毎氏の伊都国付近にある筈であり、
倭国の別種分家の大和の八咫鏡とは、同じものであったのか?が断定出来ない。

166日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:00:47.87
>>101
>博多には畿内の人間もうろうろしていたのかもしれないが、伊都には入れなかったわけだ。

妄想ですね

IB期から、サキゾノ地区で畿内庄内甕が出てるよ
「IB期の標識資料としてあげられるのが三雲サキゾノ1−1区1号住居床面出土資料である[czr−37,
pp.17−31]。重要な遺構であるため,やや詳しく記述すると,広口大型壺,頸部に刻み目突帯を有す
る直口壺,在地の中型甕,山陰系二重口縁甕,庄内大和型甕,直口壺4点,在地の小型甕11点,鉢9
点,厚手の小型丸底紺(5号住居の可能性も),椀形手捏土器3点,高杯13点,在地の器台2点,朝
鮮半島からの陶質土器片2点,小型手捏勾玉形土製品,小型手捏甕形土製品,小型手捏壺形土製品2
点が出土した(上層の資料は省いている)。手捏土器・手捏土製品が存在することから,生活のため
の住居ではなく,祭祀遺構と考えられる。実際,庄内甕も煤が一切付いておらず,煮沸に使用された
痕跡はないので,この点からも「祭祀遺構」という解釈を補強できる。」

167日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:02:39.42
>>104
>なんだかんだ言っても、糸島=イトコクが崩れると、北部九州説と畿内説派共倒れになる。

訳の分からないことをいってるなw
崩れるのは「伊都国=邪馬台国の都」説であって、
三雲遺跡群が伊都国の比定地であることは崩れないよ

168日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:02:39.86
>>104
>なんだかんだ言っても、糸島=イトコクが崩れると、北部九州説と畿内説派共倒れになる。

訳の分からないことをいってるなw
崩れるのは「伊都国=邪馬台国の都」説であって、
三雲遺跡群が伊都国の比定地であることは崩れないよ

169日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:05:32.52
>>114
>伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
>↓【東南】100里 (15キロ)1里150m   ←
>奴国(二万戸)(田川辺り)
>↓【東】100里 (25キロ)1里250m    ←

これ↑と、これ↓が同時に書けるんだから、泡はでたらめww

>∴1里=70mは、概ね妥当。  

170日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:07:17.80
>>167
>三雲遺跡群が伊都国の比定地であることは崩れないよ

いくら言い張っても、碌な弥生集落遺跡の無い三雲遺跡群に、伊都国など在る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波   

171日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:07:45.53
>>120
>偶然でも何でもいいけど、その縮尺なんだろ?

縮尺ってのは、どこを測っても同じ縮小率であるときに定義できるものだ

区間ごとに4倍も異なるのは、実測していないし縮尺などは定義できないということ
それを誤差と言い逃げられると思っているところが幼稚そのものww

172日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:09:17.21
>>169
∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波

173日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:10:12.52
>>121
>伊都の大率を周辺国が恐れ憚ったと書いてある。

また原典のテキストを改変している
本当に稚拙なやり方しかしない

この人が亜原田君かなww

諸国が畏れ憚るのは一大率であり、背後に女王国の威があるからだよ
伊都国は女王国に統属される側であり、伊都国も一大率を畏れ憚っている

174日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:14:55.84
>>172
>伊都〜奴=百里
>奴〜不彌=百里

その前に、九州説の主張する短里だと「百里=7キロちょい」にしかならないんだよ

奴国2万戸が、幅7キロの帯状の地域に密集してるって考えると笑えてこないか?
団地やアパートのような高層住宅とかない時代にww

175日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:15:49.37
スレッドのレベルが、相変わらす、低いな。

176日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:15:57.68
>>172じゃなくて>>142だな ごめん

177日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:16:54.26
>>175
おまえが平均を下げるから

178日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:19:52.81
>>158
>伊都でその時代に一番贅沢をしていた人物なのだから、大率か大率を統べる立場だろ。

この人は一大率を大率って書くから、固体識別できていいねww 亜原田君でいいんだよねw
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。世有王、皆統屬女王國。

この、統属女王國は、女王国に統属するのであって、女王国を統属するのではない
つまり、伊都国の長(王かもしれない)は、女王国の代官である一大率に従う立場にある

179日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:23:05.45
>>154
>丁寧丁重に埋葬されており、殺害ではなく、殉死であった、と推定出来る。

普通の弥生墓地だよ

180日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:23:32.45
>>175
プロ固定化された、無職の奥山氏の頭が悪すぎるからでは、ないのかな。。。

181日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:29:56.80
ラジオの高校講座で、奥山氏が習い損ねてしまった三角の関数についての授業が始まるのではないのかな。

182日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:32:54.87
連続句点がナリスマシをやっても、この全1病の重篤さといかにもな頭の悪さで
識別できる

183日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:37:03.92
>>163
>その当時から、だれも異論を唱えていないのは何故か? 

は?
御食津神は、その御食を受ける神に御食を差し上げる神だぞ
どちらが上位かは最初から決まっている

184日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:41:09.05
>>107
書いてる事全部が九州説の嘘なのが逆にすげえわ

185日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:43:04.37
>>183
その当時から、だれも異論を唱えていないのは何故か?   @阿波 

186日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:43:31.89
>>181
このスレッドでの討論のレベルを上げるために、ここの皆で、奥山氏に、奥山氏が小学校のときから引き込もってしまい、習い損ねてしまった物事を、教育してあげれば、良いのだったな。

187日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:45:49.42
奥山氏が繰り返し計算に失敗した一寸千里の法は、本当は、あまり、難しくはなかったな。

188日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:49:50.23
ジャパンゲームというゲームは、インターネットで、視聴できるというのは、真実なのだろうか、、、

189日本@名無史さん2019/10/10(木) 19:52:15.65
九州説は議論に負け跡形もなくなり
あとはどうでもいい事書いて荒らして自らを慰める

190日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:01:43.89
邪馬台国畿内説が、完全に破綻したので、このスレッドは、どうでも良い物事で埋まっていくしかないのだったな。

191日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:02:45.41
>>185
異論だらけで殺人事件まで起こってるというのに

192日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:27:23.82
>>190
こんなふうに九州説にはオウム返しする程度の知能しかない頭の悪い老人しか残っていない
悲惨なことだ

193日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:29:52.62
>>153
>>148
>その時代じゃねーし

畿内説は平原遺跡が卑弥呼の時代なのかそうではないのか、はっきりしろよ。

194日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:31:55.57
>>151
>なんで伊都でその時代に一番贅沢をしていた人物だと
>大率か大率を統べる立場になるんだ

地位が一番高いのだから、大率かそれより上だよね。
大率だって諸国から恐れ憚られるくらいの特別階級だけど。

195日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:33:14.34
>>157
>魏の役人は、距離を測っていないし、道里は日数によるものしか報告書には書いてない

測っていないという根拠は?
一万二千里という数字が書いてあることと根本的に矛盾するよ。
魏志倭人伝を無視しないと成り立たない畿内説なんて、妄想だね。

196日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:36:40.01
>>164
>そして、3・4号墓の存在も、古墳時代に入るまで1世代以上あることの傍証であり
>1号墓が3世紀初頭より後にくだらないことを明確に示している

これは意味不明なんだが?
頭の中で勝手ルールを作っているのかな?
常人には理解できないから、病院に行った方がいいかもよ。

197日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:36:40.30
>>150
1里=70mで1300里は90km。
宇美からだと宇佐、宇部などが同心円上に乗る。
柳川からだと水俣、椎葉村などが同心円上に乗る。
この1里70m説だと、最も有力な邪馬台国の位置は宇佐だよ。
でも、まさかだね。
短里は無理。

198日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:37:31.84
>>166
ふうん、祭祀に混ぜてもらえてよかったね。
それで?

199日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:38:49.23
>>173
>伊都国は女王国に統属される側であり、伊都国も一大率を畏れ憚っている

それは君の解釈であり、魏志倭人伝そのものにはそのようなことは書いてない。
妄想と現実をごちゃ混ぜにしているようだ。

200日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:39:04.01
予想通り、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、頭の悪い奥山氏が、また、完全に論破されたので、討論での反論を諦め、敗北宣言にしかならない嘘の悪口を言い放っていた。

192日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:27:23.82
>>190
こんなふうに九州説にはオウム返しする程度の知能しかない頭の悪い老人しか残っていない
悲惨なことだ

201日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:40:57.20
スレッドのレベルが、相変わらす、低いな。

202日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:43:17.49
>>149
順天に停泊するんだから、平壌ー阿波直線距離はまずくない?

203日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:44:26.36
>>195

測ったら地理観が會稽東冶之東にはならない

204日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:44:57.15
>>197
>でも、まさかだね。

九州北部説では根強い人気だね。
個人的にはまさかだけど、否定する根拠もないだろ?

205日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:46:00.11
畿内説は屁理屈を並べるが、何も説明できていない。
その屁理屈は畿内説の頭の中にしかないからだ。

206日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:49:04.63
驚いたな。。
ヤハタは、ハタというユダヤの民のことなのだな。。。

207日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:49:19.85
>>201
畿内説のレスにしょうもないオウム返しばかりしてレベルを低めてるのは誰かな?

208日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:51:02.45
>>753
>最初期の舶載鏡とされるものは斜縁神獣鏡<

いや、「陳是作鏡」であるから、渡来の呉系楽浪鏡師の関与鏡。

>斜縁神獣鏡は、画文帯神獣鏡とともに中国(華北)から普通に多数出土している<

「神獣鏡」は、揚子江〜呉に盛行した呉系の鏡であるから、魏の明帝に下賜鏡に選択されず、
列島のものは、渡来の呉系楽浪鏡師らの陳氏らの関与鏡。

>U字型鉄製品の出た黒塚古墳は黄幢を受け取った難升米の墓の可能性があり<

「U字型鉄製品が黄幢がであるのか?」は不明であり、
そうであっても、卑弥呼や難升米から派遣された東征将軍に所持であった可能性がある。

>特注品だから、ある意味大きいのが当たり前<

景初四年 陳是作鏡 斜縁盤龍鏡は、特注品であり得ないし、
17.7cmであるから、渡来の楽浪鏡師の「陳氏」でさえも、17〜18cmの鏡と、
22〜23cmの鏡の両方を造っていた事になり、大きさは絶対ではない。

>また中国出土鏡でも、三角縁神人車馬画像鏡や方格規矩四神鏡では
面径20センチを超えるものも出ている<

「新有善銅出丹陽 方格規矩四神鏡」は、20.7cmであり、どちらとも言えない。

209日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:51:16.79
>>206
古羌との関係性も研究したら、良いのではないのかな。。。

210日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:52:16.30
奥山氏は、脳のレベルが、低いな。

211日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:52:57.05
>>202
>順天に停泊するんだから、平壌ー阿波直線距離はまずくない?


倭人伝の記載で、「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳?可七萬餘戸」までが、行程記事で、

「自郡至女王國萬二千餘里」とは別記でしょ?  だから、ぜんぜんまずくないんだよ。 逆にいっしょくたにするから、まずいんだよ。   @阿波

212日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:55:01.34
奥山氏は、モーゼの十戒を知らないのではないのかな、、、

213日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:55:49.24
>>205
そういうのを負け犬の遠吠えという

214日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:57:23.57
邪馬台国畿内説を論破されてしまった奥山氏が、遠吠えしているな。

215日本@名無史さん2019/10/10(木) 20:57:56.31
>>755
>>崇神朝でレプリカ作ったなんてお前の妄想じゃねーか<

>鏡作神社 社伝
崇神天皇六年九月三日、この地において日御像の鏡を鋳造し、
天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。
もの知らずはこれだからww<

「崇神天皇」の「天皇」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この「社伝」自体が、天智以後の大和政権の関与伝である事になり、
「絶対的な根拠」にはならない。

216日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:00:29.51
>>756
>>756とかの、態度の悪い、人間として低レベルの大和説者は
類スレ主バカ君かな?

217日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:01:33.32
>>214
それをオウム返しという

218日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:03:38.99
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏の意見のレベルが、更に下がってしまった。。

219日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:04:38.31
>>758
>>曲がった針金

>これを曲がった針金と言い放つ九州説の心根の貧困w
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

黄幢の実物を見せてくれよ。

220日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:06:57.82
反論できない九州説はダダコネで虚しい抵抗

221日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:09:19.80
>>205
>畿内説は屁理屈を並べるが、何も説明できていない。

だから具体的に反論しろよ
そんな総論だけでボヤいていても繰り言以上の何でもないぞ

222日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:11:33.61
>>218
邪馬台国畿内説が完全に破綻したので、
邪馬台国畿内説という、証拠が全く無い仮説が、成立する可能性が少しでもあるのか、それとも、全く成立しないのか、ということについての討論を、破壊するために、奥山氏は意見のレベルを下げ、邪馬台国畿内説が、破綻したことを隠蔽しているのではないのかな、、、

223日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:13:18.82
九州説は議論をする前にまず倫理や道理とは何かをしっかり頭に叩き込んでおくべきだ

224日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:14:04.31
>>222
つまり、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮人の奥山氏は、論破されてしまったので、討論を諦め、逃亡したのだな。

225日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:14:27.25
>>762
>結局、北部九州説は平原1号墓に事実上全賭けしてるから、<

していない。おそらく壹與の墓。

>46センチ鏡が八咫鏡ではなくなると、それでもう死亡だから必死だなww<

九州倭国の平原の46.5cm鏡と、大和政権の伊勢神宮の八咫鏡は、
始めから違うもの。

>でも、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓と比べてもショボイ
伊都国ローカルの有力者の墓でしかないんだよ<

類スレ主は、平原の副葬品をこっそり隠すインチキ。

>まあ、その前に、女王国より以北の投馬国五万戸が比定できない時点で
北部九州説は壊滅してるんだけどね<

投馬國は、女王之所都以南。

226日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:14:36.87
>>204
>九州北部説では根強い人気だね。
>個人的にはまさかだけど、否定する根拠もないだろ?

会稽東冶の東に当たらないんだから倭人伝に決定的に合わないので、倭人伝に書いてあるとおりに行ったら山大国に着くという主張が自己矛盾を来たしてして崩壊するから、簡単に否定できるよ

227日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:15:36.65
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、モーゼの十戒を知らないのだったね。。

228日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:15:50.29
>>225
>投馬國は、女王之所都以南

言い張るだけで論証できない九州説の惨めさ
そこ、負けると九州説が潰れるのに

229日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:16:59.35
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏の意見のレベルが、更に下がってしまった。。

230日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:17:56.22
>まあ、その前に、女王国より以北の投馬国五万戸が比定できない時点で
北部九州説は壊滅してるんだけどね<

以北でセイカイなんだけど、畿内説の投馬国五万戸は大和の北のどこなのさ・・。

231日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:18:01.98
230

232日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:18:39.39
>>227
九州説こそ十戒の偽証するなかれを知らないようだが

233日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:19:40.21
今回の台風はやばい
沿岸部や川沿いの人は避難した方がいい

アホなスレはほっとけ

234日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:20:00.90
>>205
>畿内説は屁理屈を並べるが、何も説明できていない。
>その屁理屈は畿内説の頭の中にしかないからだ。


たった2行の文章でも論理破綻しちゃう九州説の脳ミソなけないね

「頭の中にしかない」が本当なら
「並べるが」がウソ
これが九州説名物
即刻論理崩壊

235日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:20:06.68
>>229
奥山氏の発表する意見には、下がってしまう余地が、まだ、あったのだね。

236日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:21:40.29
>>230
>以北でセイカイなんだけど、畿内説の投馬国五万戸は大和の北のどこなのさ・・。

今んとこ出雲説と吉備説が並立だね
どっちでも一応辻褄は合ってる

237日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:24:26.95
やはり、邪馬台国畿内説は、嘘の辻褄合わせなのだな。

236日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:21:40.29
>>230
>以北でセイカイなんだけど、畿内説の投馬国五万戸は大和の北のどこなのさ・・。

今んとこ出雲説と吉備説が並立だね
どっちでも一応辻褄は合ってる

238日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:26:03.88
>>773
>三角縁神獣鏡の笠松文様と呼ばれるものが、黃幢という説があり、
その形状と合わせて考えるんだ
>>758で示した写真でも分かるように、U字型鉄製品単体で使うものではないし
笠松文様となるような復元図が描ける訳だ<

笠松文様は、
www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/1300.html
こんなものだし、中国にはなく東夷に見つかったものだし、
黃幢との関係も全く不明だな。
むしろ、三角縁の列島産の証拠になる。

239日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:28:16.31
邪馬台国畿内説は、幾つ、方角間違いをすれば、成立するのだろうか、、、

236日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:21:40.29
>>230
>以北でセイカイなんだけど、畿内説の投馬国五万戸は大和の北のどこなのさ・・。

今んとこ出雲説と吉備説が並立だね
どっちでも一応辻褄は合ってる

240日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:29:31.88
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、モーゼの十戒を知らないのだったね。。

241日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:31:29.44
九州説は説ではなくて背景にあるのは政治運動か宗教活動
バックは政治団体か宗教団体のどちらかの可能性がある

242日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:33:08.81
奥山氏、朝鮮人なのだったな。

243日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:33:16.68
>>775
>平原1号墓の46センチ鏡は八咫鏡ではないし、<

平原の副葬八咫鏡鏡片と、伊勢神宮の現存八咫鏡とは、始めから違うものだし。

>平原1号墓は伊都国ローカルの有力家系の家族墓地の一つの墓であって
卑弥呼の墓でも倭女王の墓でもない <

類スレ主は、平原の大量の玉や鏡の事をこっそり隠して、世間の人々を騙そうとしている。

これが、明らかにされて、大和説死亡という効果が出ております。

244日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:36:02.40
奥山氏は、帯方郡のあった場所からスレッドにアプローチし、奥山氏の所属する民族の利益のために、邪馬台国畿内説を宣伝しているのだったな。

245日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:36:24.70
畿内説のバックは桜井市の新興宗教かな?

246日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:36:27.03
九州説を歴史修正主義と見れば共産主義的だから共産系団体または偽装した右翼団体
十戒と言ってるから宗教団体と見れば朝鮮系キリスト教カルト統一教会

247日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:37:18.96
>>239
>今んとこ出雲説と吉備説が並立だね
>どっちでも一応辻褄は合ってる

適当な辻褄合わせをするだけの畿内説
そこまでの里数も書いてない

248日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:39:12.78
>>243
>類スレ主は、平原の大量の玉や鏡の事をこっそり隠して、世間の人々を騙そうとしている。

こういうデマ流すようになった九州説は
もう終わりだな

249日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:39:30.27
>>245
畿内説は学説だから宗教係わるわけないよ
九州説と違って

250日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:42:10.71
畿内説の「論理」は常人には理解しがたいな。
あれで何か説明したつもり?
平原遺跡の被葬者が伊都と奴国を支配する権力者であることや、それが卑弥呼の時代であることに対して、何も論理的な反論が出てこないな。

251日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:42:36.77
>>249
宗教ではないという証拠は?

252日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:45:34.10
邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏、、、僕達は、真実のために意見を発表しているのです。
朝鮮半島の南側を最初に領土にした民族が、九州を根拠地にした倭人だったという真実を明らかにしても、奥山氏の所属する朝鮮民族に、朝鮮半島の南側を返還しなさい、とは、要求しません。
安心して下さい。。。
僕達は、真実のために、邪馬台国畿内説を叩き潰しただけです。
怨恨の精神を向けないで下さい。

253日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:45:59.64
九州説は共産系の歴史修正主義の政治活動と見ればあまりに実効性がなさ過ぎる
今やってる事はただの嫌がらせに近いからな
論破されても同じこと延々とくり返すのはやはり背景にある団体の
宗教的な信念信条のようなものが反映されている結果ではないだろうか

254日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:47:31.08
>>251
学会の定説
宗教の教条ではなくて

255日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:48:16.21
>>252
真実のためというなら九州説を叩き潰さなきゃ

256日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:48:23.38
>>248

じゃあ畿内説では、平原遺跡の膨大な宝飾品はどう考えているわけ?
鏡が破られていたことを揶揄してばかりだけど、都合の悪いことにだんまりなのは事実だよね。

257日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:48:32.19
>>784
>>大きさが八咫の鏡だからね。<

>これがインチキww 円周長を、円形物の大きさの表現に使う例は絶無w<

八咫鏡のどの部分の長さが八咫がであったのか?が全く不明。

鏡全体の直径なのか?円周なのか?、
8つの「花弁」部分の外接円か、花弁の外半周合計か、花弁の中心円周か、
花弁中心円周の直径なのか?。

258日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:48:50.78
>>254
「定説」と言い張る新興宗教?

259日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:49:38.40
>>255
何も反論できてないようだけど?

260日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:50:50.36
>>234
>「頭の中にしかない」が本当なら
>「並べるが」がウソ

何か御託を並べているのはわかるよ。
でもそこに論理性や合理性を見出せない。

261日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:51:11.34
>>202
>順天に停泊するんだから、平壌ー阿波直線距離はまずくない?


行程記述とは別に、「自郡至女王國萬二千餘里」がポツンと書かれているのは、行程記述とは別項目だから。

帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で一万二千余里を記述したもの。  

だからなおさら、各行程記述とは切り離した。  その心は、帯方郡から女王国までの距離が、直線距離を言いたかったから。   @阿波 

262日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:51:25.46
延々と畿内はないとか南→東じゃないから大和説は×とか
どうも九州説は念仏かお題目を唱えてるに等しいから日蓮宗系とかのセンもあるなあ

263日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:51:59.56
>>223

畿内説こそ、文献を無視しようと躍起になるばかりで、論理性を欠いているよ。

264日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:52:39.02
>>258
言い張ってるんじゃなくて事実だし
そもそも邪馬台国は畿内という宗教信条で活動している宗教団体なんて聞いたことある?

265日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:54:03.36
九州説よこんな所で宗教活動してても何にもならないからな

266日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:55:57.21
邪馬台国畿内説が、完全に破綻した理由は、何だろうか、、、

267日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:56:46.12
創価 統一 九州説

268日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:56:52.63
邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏、、、僕達は、真実のために意見を発表しているのです。
朝鮮半島の南側を最初に領土にした民族が、九州を根拠地にした倭人だったという真実を明らかにしても、奥山氏の所属する朝鮮民族に、朝鮮半島の南側を返還しなさい、とは、要求しません。
安心して下さい。。。
僕達は、真実のために、邪馬台国畿内説を叩き潰しただけです。
怨恨の精神を向けないで下さい。

269日本@名無史さん2019/10/10(木) 21:58:45.68
>>268
九州説こそ怨恨の精神で畿内説スレに書き込みするのをやめたら?

270日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:10:10.44
>>269
君は邪馬台国は畿内だと言ってるわけだから、いやそうじゃない九州だという論者が書き込んでもいいわけだね。
あと卑弥呼のいた都は纏向だ、墓は箸墓古墳だと断言してるのだから、
いやそうじゃない、同じ大和でも葛城だ、墓は高天原だという俺が書き込んでもいいわけだよね。

271日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:11:40.92
江戸の将軍を恐れはばかるということは、江戸に最高権力があったということと同じだろ。
伊都の大率を恐れはばかるということは、伊都に権威があったということだよ。
陳寿が丁寧に役職名と役割まで書いたばかりに、伊都が権力の所在地ではないと曲解するアホが出てくるとは、陳寿さんは想像だにしなかったであろう。

272日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:12:19.07
「定説」「怨恨」
畿内説のお里が知れるね。

273日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:13:15.26
>>270
葛城は畿内だから、あなたは立派な畿内説だね。

274日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:14:39.96
三角縁神獣鏡の笠松文様と呼ばれるものは
遼陽漢魏壁画群(北薗壁画墓)に描かれている黄幢だろう

275日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:14:46.90
>>270
学説や考古物証でとっくに否定されてる話を延々書き込むのは荒らし

276日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:15:15.86
畿内説が淀川水系を持ち出していたら、もっと苦労しただろう。
纒向(クスクス)や葛城(クスクス)を持ち出しているようなら、暇つぶしに遊んであげよう。

277日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:15:40.31
がっかいの定説といっても創化の学会あたりだろう。

278日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:16:02.62
>>275
それって200回掘ってもろくなものが出なかった纒向説のことじゃないか。

279日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:17:13.98
>>272
定説宗教団体はとっくにないし
怨恨と先に言い出したのは九州説
九州説は自分が宗教団体だから相手を宗教団体扱いするのか

280日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:17:29.02
>>277
ああ、桜井市に何かあったなと思っていたけど、そういえばそうだったね。
本当に新興宗教だったのか。
怖い怖いw

281日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:18:01.48
>>809
>平原1号墓がいかにショボイか、一目見て分かると思う
一時代前の墓より、倭王墓の方が小さくていいとか、九州説は本当にいい加減
まあ、平原1号墓を持ち上げる以外にできることがないから
仕方がないのは分かるけれどww<


平原1号は、副葬品が豪華であり大事。
おそらく、臨時女王で薄葬令に縛られた壹與の墓。

282日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:18:04.60
>>269
>>268
>九州説こそ怨恨の精神で畿内説スレに書き込みするのをやめたら?

先に言い出したのはこいつだろ?

283日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:18:35.46
吉野氏が、奥山氏が所属する民族に対する蔑称を、言い放ってしまったな。

284日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:18:36.52
>>278
垂仁天皇(3世紀後半)の居城 纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
景行天皇(4世紀前半)の居城 纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)

居城跡が確認されとりますがな

285日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:18:58.54
>>236
>今んとこ出雲説と吉備説が並立だね

大和から見て以北とは言い難い、方角も定かでないのに九州に口出しするな。

286日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:19:16.29
桜井の馬脚を現すキナイコシ

287日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:19:34.99
>>282
どう見ても九州説の方が先に言っとるがな

288日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:19:58.87
キナイコシのスポンサーがバレてしまったようだな。

289日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:20:28.48
バレたのは九州説だろ。。。

290日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:21:42.07
>>811
>でかいだけなんていうのは、大して価値がないんだよww
平原1号墓の46センチ鏡は、図像を見ても明らかな手抜き鏡<

おそらく、渡来の呉系楽浪鏡師に依頼した「鏡片用の巨大化」鏡。

291日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:22:50.00
大率が刺史のようだというのは、伊都から北の対馬海峡の国々を検察していたから。
南は交戦地域だから、あくまでも大率の役割はすでに支配した地域の内政。
率が人を率いるという意味なので、後世の将軍のようなニュアンスでもある。
また帥と同義語なので、太宰の帥のことでもある。

292日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:23:15.53
>>287
証拠は?

293日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:23:17.33
>>283
吉野氏は、考古学が趣味なので、奥山氏の宣伝する邪馬台国畿内説に怒りを感じ、邪馬台国畿内説を宣伝する民族に対して、NHKで、蔑称を言い放ってしまった可能性が高いな。

294日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:23:29.83
九州説のバックが創価でも統一でもいくら金つぎ込んでも
畿内説がもう定説なのは動かないからな
ノーベル賞に同じ

295日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:24:48.19
>>292

>>268
>>269でも見ておけば

296日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:25:55.70
>>284
ならばもう邪馬台国に絡めるのをやめたら?
せっかくの考古学的成果がすっかり鼻つまみ物になっているよ?

297日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:25:57.76
韓国がノーベル賞取れない理由がわかる

298日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:26:21.90
>>296
なぜ

299日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:26:45.13
>>295
なんだかアポーんされていて見えない。

300日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:27:16.77
>>813
>記紀における「八咫鏡」は、単に大きな鏡を示す普通名詞<

8世紀の大和でなれば、「八咫」の意味は忘れられている。

>「八尋鰐」と同じ、具体的な大きさではなく、単に大きいことを示す修辞に過ぎない <

「八尋」も寸法。「八咫」も何らかの部分の寸法。

301日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:27:39.20
>>284
その「纏向」ってどこにあるの?   @阿波

302日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:27:48.42
300

303日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:28:16.44
>>298
纒向宮跡が見つかりましたと発表していれば、誰も文句はつけなかったんだよ。
それなのに今では纒向、プークスクス、だよ。

304日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:28:35.95
九州説というか儒教朱子学は歴史修正主義どころか学問修正主義
非常識な事この上なし

305日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:28:52.41
>>302
(=^▽^)σ

306日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:29:39.78
>>304
新興宗教にはかないませんよ。

307日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:29:56.58
>>303
九州説およびお前がプークスクスだろ

308日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:30:24.50
>>306
畿内説は学説だけれど

309日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:31:03.96
九州説だけどさ、纒向かあまりにも叩かれて可哀想だからプラスの評価をしてあげよう。
あれはやはり指導者層がいことを示す宮だよ。
つくりが神社建築そのものだもの。
本殿と拝殿が一列に並び、玉垣で囲ってある。
一部の建物だけ棟持柱があるのが特徴的だったはず。
だけれども、現地指揮官が一人いただけなんだよ。
伊勢遺跡みたいにそれが何棟も並んではいないから、ここに首長層が集まったということはない。
ここは王都ではあり得ない。
家臣に訓示を述べる建物はあっても、貴人達を迎える構造にはなっていない。
もちろん帯方郡からの使いを饗応した痕跡(建物も土器も)もない。
尾張から派遣された(程々に)エライ人が駐在していたんだよ。

310日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:31:24.78
>>308
どこの「学会」ですかw

311日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:31:36.97
>>293
クロ現でなんと言ったんだ、吉野さん。  

312日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:31:50.28
桜井市にある学会です。

313日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:33:52.46
吉野氏は、バンビシャスを作成した優れた人物の、先輩なのではないのかな。

314日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:35:17.33
九州説は社会の常識なんて嫌いだオレサマのルールで腐った社会常識を作り変えてやるぜの
中学生ぐらいの年齢で精神の成長が止まっているのだな

315日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:35:39.56
>>292
明かだろ
九州説がこのスレで「朝鮮人」だとか「キョクウ国粋殺人」だとか
異常な罵声を垂れ流してる事実は証拠がたっぷりあるね
畿内の説のものがそんなことをした証拠はない
つまりそれが九州説が先に言ってるって証拠さ

316日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:35:48.21
>>310
いや普通に日本の史学会だけれど

317日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:37:56.52
>>826
>でも、平原1号墓の軸線は夏至どころが二至二分のどれとも関係ないし、
吉野ヶ里でも北墳丘墓の軸線は、特に年暦的なものとは無関係<

各部族の長は、
その部族の所在地にとっての、耕作開始の日の独自の日の出方向を決める、
という事は幾らでもあり得る。

318日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:39:38.84
書き込んでる九州説の年齢は恐らくいい年なんだろうけど
その年まで精神性が中学生ぐらいからまるで成長してないとは悲惨よのお

319日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:39:42.38
>>281
>平原1号は、副葬品が豪華であり大事。
>おそらく、臨時女王で薄葬令に縛られた壹與の墓。

墓が小さくても副葬品が豪華でそれが女王の証拠になるなら、
5世紀の女王というか最高位の女性は奈良の新沢千塚126号墳墓の被葬者になるのだが、
そんなこと誰も言ってないし、あんたも言ってないはず。
なんで九州にだけ副葬品が豪華なら女王なんて尺度を当てはめるのだ?

320日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:41:03.31
>>315
少なくとも一つ目の方はキナイコシがよく使う言葉だけど?
少なくとも自分では書いたことがないなあ。

321日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:41:07.28
某宗教関係の学会!

322日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:42:47.00
>>319
時代が違うだろ。
同時代で卓越しているならそれでもいいけれど、5世紀にもなると豪華な墓だらけになる。
でも畿内説が主張する200年当時に平原遺跡と同レベルの副葬品の墓はないと思うよ。

323日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:43:19.87
同じ事を念仏のごとくオウム返しする九州説は宗教団体

324日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:43:21.03
>>828
>>魏尺と咫は、同時に使われたことがない別々の単位系
面径が魏尺で二尺なら、円周は八咫ではあり得ない
きちんと計算すると、8.63咫になるww<

魏尺と周尺とが少し違うし、「八咫」の寸法はおそらく周尺との関連。

325日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:44:07.50
>>321
桜井市にあるんですね、わかります。
だから纒向を推すのですね。
国から予算がたくさんもらえるのでしょうね。

326日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:45:58.40
どちらが倫理的に正しいかではなく
大声出し続けた方が勝ちというソント方式を取り入れた新たな学問スタイルの九州説

327日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:46:59.39
>>322
>畿内説が主張する200年当時に平原遺跡と同レベルの副葬品の墓はないと思うよ。

ないだろうね。
副葬品を埋葬できるのは槨があるからだね。
でも卑弥呼やトヨが豪華な副葬品を埋葬したなんて誰が決めたのかな。
それより女王の墓、王族の墓なら山稜にある。
平原は山稜ではない。

328日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:47:43.96
>>322
副葬品が豪華だと王様だっていう理由は何なんだ?
また言い張るだけか?

329日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:49:15.10
いや九州説はソント方式を取り入れたわけではないな
朝鮮ソントそのもの

330日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:49:36.65
>>327
>副葬品を埋葬できるのは槨があるからだね。

平原遺跡は槨がないけれど、大量の副葬品があったよ?
何が言いたいのかわからない。

331日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:50:24.09
>>328
王様が家来に自分の墓より豪華な副葬品を許すのかい?

332日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:50:36.55
吉野氏が言い放った言葉は、江戸時代という時代には、もう、ある者達を指し示すためにあったのだが、その後、邪馬台国畿内説を宣伝する奥山氏の所属する民族だけを、指し示す言葉に、なぜか、一般化したので、差別の言葉ということになってしまったのではないのかな、、、

333日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:51:07.50
>>327
>それより女王の墓、王族の墓なら山稜にある。
弥生王墓は小高い丘陵であっても山上ではないよ。

334日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:51:13.05
日本の古墳は大規模、朝鮮半島の墓は中に入ると別世界で豪華な副葬品
日本は大土木工事で王の力を見せつけることによって朝鮮半島よりも早く統一を果たした
朝鮮半島では常に北方の騎馬民族に対する危機感があったので
時間を要する大規模な墓を造らなかった
韓国の学者が歴史ヒストリアで分析していた

335日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:51:47.82
>>329
それ、よく知らないけど、畿内説がよくやっているようだよ。

336日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:52:28.45
>>332
九州説は差別が大好きだな
人格的に問題があるんじゃないのか?

337日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:52:47.91
>>335
証拠は?

338日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:52:57.53
>>334
「中に入ると」
槨がある古墳のことで、邪馬台国とは関係ないねえ。

339日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:53:49.59
>>330
>何が言いたいのかわからない。

一番大事な事、被葬者の位置。
王族でない者の墓が高さで王族を超えるのは不敬にあたる、
だから前期古墳はことごとく高地・山稜にある。

平原はそうではない。

340日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:54:11.75
九州説のアホな荒らしが創価統一の仕業じゃないかと
疑惑の目が向いたら大変だなあ
それというのも九州説の荒らし書き込みがあり得ないほど低脳に過ぎるからだ

341日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:55:01.48
>>336
桜井市とか天理市とか葛城市と書くと差別になるのか?
大変息苦しい県だな。

342日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:55:33.23
>>331
>王様が家来に自分の墓より豪華な副葬品を許すのかい?

許すもなにも、自分の財産をどう使おうと家来の自由だろ
それとも、そんな規制があったという証拠でもあるのか?

343日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:55:44.75
>>338

中に入るのは朝鮮半島の墓だから

344日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:55:53.72
>>339
三雲南小路遺跡とか吉武高木遺跡とかどうなっちゃうんだ。

345日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:56:30.67
>>331
今でも天皇より金持ちはたくさんいるのだが。

346日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:56:30.87
>>343
なんで朝鮮を持ち出したの?

347日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:56:44.84
>>335
スレを眺めれば一目瞭然
どっかの九州説ジジイが畿内はない畿内はないと意味不明なオウム返しの連呼を
数年に渡ってさんざんくり返してるからなあ

348日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:57:16.98
>>344
王墓でもなんでもない。

349日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:57:49.36
>>342
逆に聞くけど、家来が好きなように大きな墓を作ったらいけないの?
平原遺跡より大きな古墳があるからどうのこうのと言う畿内説がいるんだけど。

350日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:58:27.12
>>341
現にお前は差別用語を連発してるよ
そのうちアクセス規制くるかもね

351日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:58:30.47
>>346

墓のサイズが小さくて副葬品が豪華なのが朝鮮半島の墓だから

352日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:58:51.82
>>348

あああ
言うに事欠いて考古学を否定ですよw

353日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:59:25.93
>>350
市の名前を書くとヤバイのか?

354日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:59:48.00
>>349
>逆に聞くけど、家来が好きなように大きな墓を作ったらいけないの?

いけないな
外に見える物には身分に応じた格差がある

355日本@名無史さん2019/10/10(木) 22:59:53.84
>>351
槨がある墓は邪馬台国と関係ないねえ。

356日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:00:25.58
>882
>ホケノ山は建造時期の地層は纏向石塚に次いで古い。
3世紀初頭あたりであろう。<

ホケノは有棺有槨の前方後円墳で「庄内3〜布留」であるから、
「3世紀末〜4世紀」になり、
この男は、×。

357日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:01:01.05
>>354
ただの家来が八咫の鏡と三種の神器を持ってたりするのかw
畿内説の頭の中は面白いなw

358日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:01:49.15
巨大な銅鏡は威信財の典型だと思うよ。

359日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:02:40.62
>>349
5世紀に吉備が大王級の墓を連発したのだが、雄略によって征伐されたな。

360日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:03:03.65
>>353
九州説がまた捏造してるな
嘘つきの常習者だ

361日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:03:13.47
創価学会や統教会等の宗教団体が資金提供

邪馬台国の会

掲示板荒らしの総元締めの疑惑がある電通など広告代理店

畿内説スレの荒らし九州説

こうかな?

362日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:03:38.28
バンビシャスは、勝てるだろうか、、、

363日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:05:41.97
吉野氏は、バンビシャスを作成した優れた人物の、先輩なのではないのかな。。

364日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:05:57.23
>>355

其死有棺無槨は倭人の一般風習記事中に書かれている
中国が周代から有棺有槨であることと
東夷の民族を比較している
倭の女王が一般人と同一の墓と同じだとは限らない

365日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:06:53.13
あーあー畿内説スレのアホな荒らし書き込みが
何らかの団体が係わってると世間の疑惑の目が向いたら大変だな
書き込み内容がアホ過ぎるから

366日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:07:58.60
大きな墓を作るというのは豪壮な宮殿を建てるとか指導者の巨大銅像を作るとかと同じで権力を見せつける装置だからね
それが政治そのものなんだよ
人に見えないお供物なんかは私事だ

367日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:09:41.40
>>364
>倭の女王が一般人と同一の墓と同じだとは限らない

魏志倭人伝を無視するための方便にしか聞こえない。
同じではないと言う根拠を示さないと。

368日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:10:46.69
やけに纒向を押すなと思っていたら、そういう宗教でしたか。
「学会がー」と叫ぶのもそういうことでしたか。

369日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:10:50.68
>>367

同じだと書いてない

370日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:11:10.83
>>368
どういう宗教?

371日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:12:02.36
創価 統一 九州説

372日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:12:09.30
>>366
朝貢貿易で中国から渡ってきた宝物はすべて間違いなく女王様の元に届いたはずなのに、平原遺跡の被葬者はどうやってそれを手に入れたのだろう?

373日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:13:59.13
>>372

平原1号墓は200年ころなので朝貢貿易はない

374日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:18:22.38
荒らし九州説のやってる事はソント+念仏的な信仰形態
そうやれと指令されているのだろうから朝鮮系宗教団体がおそらくバック

375日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:37:48.59
>>373
200年「頃」の幅は?
公孫氏との関係は無視?

376日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:45:18.99
>>375
なんで無視だと言うんだ?
理由は?

377日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:48:46.37
>>375

公孫氏と倭国との記録はない
だから公孫氏の賜遺の物を女王に伝送したという根拠も無い
200年ころだから200年ころ

378日本@名無史さん2019/10/10(木) 23:50:16.16
理論的に敗北しているのなら普通は引き下がるのだけど
九州説は明らかに理論で勝つのではなくて畿内はない等明白に頭のおかしい主張を得にもならないのに延々と繰り返しをする
どんな主張でも繰り返しているうちに真理になって九州説が優位になれば
国民を屈服させられるなど我々にはよくわからない信念信仰が非倫理性から見て背景になっている可能性が濃厚にあり
九州説はそういう信念がある宗教団体から資金提供を受けて荒らし書き込みをしている可能性がある

379日本@名無史さん2019/10/11(金) 00:14:13.66
>>375
180〜200

380日本@名無史さん2019/10/11(金) 00:32:43.33
>>378
もうそういう泣言しか言えなくなったかw
効いてる効いてるwww

381日本@名無史さん2019/10/11(金) 00:54:53.71
>>380が自分の言ってることを典型的な泣き言だと理解できてないの
知能がそうとう低いから

382日本@名無史さん2019/10/11(金) 00:55:10.50
歴史】三橋貴明「邪馬台国は九州」「畿内説は自虐史家たちの政治的意図を感じる」「Y遺伝子、大陸と日本人は全く似ていない」
http://2chb.net/r/newsplus/1570715650/l50

経世史論の特別コンテンツで、なぜ長浜先生に「邪馬台国はどこにあったのか?」「日本人はどこから来たのか?」についてご解説頂いたのかと言えば、我が国の古代史には、

1. 自虐史家(戦後の日本の歴史学者の多数派)が日本書紀、古事記を全否定し、神武天皇から開化天皇までの諸天皇は「いなかった」と決めつけている

2. 狩猟採取が中心だった縄文時代の日本に、紀元前200年頃に大陸から渡来人が多数襲来し、水田稲作を伝え、渡来人の子孫の「弥生人」となった

という、完全に間違った「通説」が、あたかも真実のごとく流布してしまっているためです。

特に、「邪馬台国畿内説」「邪馬台国東遷説」は、日本の建国を「邪馬台国」としているため、建国時期を200年以上も後ろ倒しにできます。

卑弥呼の死は西暦247年頃ですが、卑弥呼と何と「天照大神」を同一視する論調までもがあり、しかも結構広まっているのです。(井沢元彦らによる)

実際には、邪馬台国は九州の「旧・山門郡」にあり、卑弥呼の時代の三世紀ほど前に、神武東征が実際にあった。

大阪平野の変遷が、神武東征の時期(紀元前50年以前)を特定したのですが、相変わらず邪馬台国畿内説や東遷説が消えません。

開化天皇以前の天皇(特に神武天皇)を否定したいという、自虐史家たちの政治的意図があるとしか思えないのです。

「新」経世済民新聞 2019年10月6日

383日本@名無史さん2019/10/11(金) 01:24:37.34
九州説のお里が知れまくり

384日本@名無史さん2019/10/11(金) 01:28:02.63
>>377
根拠なく言い張るだけかよ。
これだから畿内説は。

385日本@名無史さん2019/10/11(金) 01:30:18.41
3世紀の北部九州の遺跡発掘現場を見学に行った関西の考古学者や博物館の学芸員は、
周辺の地層全体が真っ赤に染まるほど大量の鉄の出土量を目の当たりにして内心(負けた…ヤマト王権は邪馬台国じゃないや…)と直感的に思うらしい。
でも関西に帰ると学閥や先輩後輩のしがらみがあって、職場で敵なんか作ったら大変だから、口が裂けてもそのことは言えず、
講演会などで「ヤマトで決まりやな!」という禿げ頭の素人おじいちゃんたちを見て
九州の発掘現場を知ってる人達同志で互いに肩をすくめて苦笑し合うらしいw
逆に九州の考古学者や博物館学芸員が畿内の3世紀遺跡発掘を見学に来ると、あまりの貧弱な出土品(木製品や桃の種、カエルの骨)に爆笑してしまい、
古墳築造の「縁日」と呼んでいるらしいw

386日本@名無史さん2019/10/11(金) 01:31:01.55
卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。

筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。

肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。

考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。

九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。

邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。

その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。

卑弥呼が女王であった倭国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。

387日本@名無史さん2019/10/11(金) 01:46:31.35
>>386
>邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
>卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。

などと決め付ける理由は?

388日本@名無史さん2019/10/11(金) 02:34:24.00
それは岡上独特の思い込み

389日本@名無史さん2019/10/11(金) 02:46:30.85
>>261
まあ、特報!邪馬台国阿波説、卑弥呼の宮廷、四国にあり。
あれ、ユダヤのアークも四国にあったのでは。
なにもかも寄せ集め過ぎ。^^

390日本@名無史さん2019/10/11(金) 03:06:28.78
魏略、魏志倭人伝の「倭は帯方東南大海の中に在り」の「東南」は、朝鮮半島南岸から直東南方向にある倭を指していることが分かった。
倭は間違いなく北部九州を指している。
邪馬台国はその北部九州にあり、そこから東千里の所にある倭種の国は大和とその周辺の国であるということになる。
長年にわたり議論が続いてきた邪馬台国論争は、わずか魏略冒頭24文字でもって決着した。
大和説の考古学者たちも、これでやる気をなくすだろう。
考古学もやはり、文献を超克することはできなかったということになる。
なにはともあれ、めでたいことだ。

391日本@名無史さん2019/10/11(金) 03:15:00.48
>>390
こいつとびきりあたま悪いな
「帯方東南」と自分で書いといて
「朝鮮半島南岸から直東南方向」だとさ

392日本@名無史さん2019/10/11(金) 06:54:08.96
>>391
アホちゃう。
その帯方があてにならんと散々書いたろが。
どこみとんのよ。

393日本@名無史さん2019/10/11(金) 07:01:29.15
>>202
>順天に停泊するんだから、平壌ー阿波直線距離はまずくない?


行程記述とは別に、「自郡至女王國萬二千餘里」がポツンと書かれているのは、行程記述とは別項目だから。

帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で一万二千余里を記述したもの。  

だからなおさら、各行程記述とは切り離した。  その心は、帯方郡から女王国までの距離が、直線距離を言いたかったから。   @阿波 

394日本@名無史さん2019/10/11(金) 07:08:00.23
>>392
畿内説は何度「あてにならん」を繰り返すんだよ。
議論にすらならない。

395日本@名無史さん2019/10/11(金) 07:09:13.27
>>392
>その帯方があてにならんと散々書いたろが。

どこになんと書いた?

九州説はまたウソまみれかな

396日本@名無史さん2019/10/11(金) 07:16:50.31
実際に人々が生活していた集落遺跡がほとんどない纏向遺跡とは、一体何なのか?
吉備の特殊器台で飾られた(つまり、殉葬のない)ホケノ山、箸墓、は誰の墓なのか?

397日本@名無史さん2019/10/11(金) 07:23:13.26
東南も一万二千里も何もかも「あてにならん」と言い、魏志倭人伝と関係ないことばかり主張する畿内説。

398日本@名無史さん2019/10/11(金) 07:24:50.50
>>396
纏向遺跡(大型建物D)=倭迹迹日百襲姫の祭殿

箸墓(初代大王・神武陵)後円部の断面図(北側)
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追葬
4段目…………/ ̄ ̄磐 ̄余 ̄彦 ̄ ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

399日本@名無史さん2019/10/11(金) 07:28:31.86
>>396
阿波人のお墓。   @阿波

400日本@名無史さん2019/10/11(金) 07:36:39.51
>>78 >>399
侏儒って、背丈が並み外れて低い人(一寸法師)って意味なんだって。瀬戸内海を渡って出雲にやってきた少彦名!!!
前方▢+後円〇墳の形から言って、吉備を従えた大国主@出雲(大物主@大和)の墓っていうのはどう?東征してきた神武は西殿塚に!

401日本@名無史さん2019/10/11(金) 07:51:41.91
>>397
アテになってたら邪馬台国はオーストラリアでとっくに決着だろ

402日本@名無史さん2019/10/11(金) 07:55:07.57
>>396
ホケノ山…少彦名陵
箸墓…出雲大国主(倭大物主)陵
西殿塚…神武陵

403日本@名無史さん2019/10/11(金) 07:56:13.41
>>909
>咫は円周率を用いることなく、端数を出さないように計算するための工夫なんだよ。
鯨尺と同じようなもの。
径一尺の円の円周を四咫とするのが原義なんだよ。
そうでないなら改めて咫という尺度を作る意味がない。<

成程。有り得る。

404日本@名無史さん2019/10/11(金) 07:57:03.54
九州説の書き込みは朝鮮宗教団体による宗教活動の可能性

405日本@名無史さん2019/10/11(金) 07:59:08.54
>>907
>八咫は、八幡なのだったな。。<

ふーん。

406日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:02:43.03
>>912
>>平原1号墓の軸線が日向峠を向いているのは偶然<

>実際には軸線上に日向峠はない。
その北側の高祖山の一部である日向山、おそらくは高千穂宮の方角を向いている。
記紀にある筑紫の日向の高千穂宮である。<

ふーん。

407日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:05:51.26
>>913
>考古学では平原遺跡1号墓は200年ころの築造<

明帝の下賜の21枚の「尚方作」方格規矩鏡の鏡片が出土しているから、
考古学的にも、248年以後の築造。

408日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:14:04.37
>>918
>八幡といえば豊前一宮宇佐神宮。
八幡神社は末社の数が全国最大であり、それこそ九州北部勢力が全国支配を行なった証拠のようなもの。
そして現在の皇室の直接の祖は応神天皇だが、
神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(神功皇后紀。うみ:福岡県糟屋郡宇美町)、
または蚊田(応神天皇紀。かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)
で生まれたとされる。
つまりは伊都国生まれの倭王が現在の天皇家そのもの
(当時はまだ天皇制がないので国際的な称号は倭王)。<

ふーん。

409日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:14:59.23
>>403
1尺=4咫 は文字通り読むのではなく、直径1尺の円周を4咫とするっていう定義(理由不明)。
『説文解字』にいう「周」代を「円周」と解釈して、咫とは円周の単位であり、円周率3.14を3.2で近似させて、
直径1尺の円周は3.2尺で、これを4咫としたという説がある。この説によれば、日本の「八咫」鏡は円周8咫だから、直径2尺の鏡という意味。
後漢尺は23.04cmだから、2尺で直径約46cmの銅鏡となり、福岡県糸島市の平原遺跡から現在までに5面出土している、当時国内最大(つまり倭王)の内行花文鏡が相当するものと考えられる。

410日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:21:45.85
>>409
つまり、どうしようもない馬鹿ということなんだな

411日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:24:44.69
>>409
直径1尺の円周を4分割したのが咫ってことか
平原遺跡当時の中国王朝は、漢委奴国王が朝貢した光武帝の後漢だから、ピッタリやね

412日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:25:04.58
>>922
>平原の鏡は、
鋳造技術が未熟なために鋳びけが発生して
文様が不鮮明なものがあり、
これに伴なって全部の鏡面や縁側面に無数の気泡である
巣が生じているものなど鏡鋳造技術の稚拙さが目立つ(柳田)<

「南→東」などの嘘付き騙しの「柳田」か。
半分×人間だから、
発掘事実や実態報告はある程度信用しても、
21枚の「尚方作」方格規矩鏡の説明を、皆無と言っていい程聞かないから、
発掘事実に対する歴史解釈や説明は、全く信用しないよ。

413日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:25:27.13
『説文解字』九、尺部「咫」
「中婦人手長八寸、謂之咫。周尺也。」

414日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:29:15.86
しかし、伊勢神宮の天照大神の御神体・八咫鏡が、なぜ北部九州の糸島平原遺跡から5面出土の当時国内最大(つまり倭王)の内向花紋鏡と同型鏡なのか?

415日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:29:52.21
墓参りの為に、邪馬台国に行く予定だったのだが、台風が来てしまった。。。

416日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:30:48.13
去年は、雨どいが何処かに吹き飛ばされてしまったのだったな。。。

417日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:35:33.62
<12日06時の予報>
強さ 非常に強い
存在地域 潮岬の南南東約300km
予報円の中心 北緯 31度00分(31.0度)
東経 137度05分(137.1度)
進行方向、速さ 北 20km/h(10kt)
中心気圧 930hPa
中心付近の最大風速 45m/s(90kt)
最大瞬間風速 65m/s(130kt)
予報円の半径 70km(40NM)
暴風警戒域 東側 440km(240NM)
西側 350km(190NM)

418日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:36:46.80
>>414
>>82 >>85

419日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:36:50.80
奥山氏の自宅は、北朝鮮にあるので、安全なのだったな。。。

420日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:39:01.65
三橋貴明氏とは、何者なのだろうか。。。

421日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:39:49.87
>>420
優れた若者なのではないのかな。。。

422日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:45:50.82
>>414
九州説はデマが好き

423日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:47:24.46
>>418
つまり卑弥呼は伊都国王家(ドイツのメルケル首相)出身で、倭王(欧州大統領)として共立され、伊都国(ドイツ)への反発を抑える目的で王が途絶えた奴国(博多・福岡空港滑走路地下)で即位、邪馬台国(欧州連合)と名付けたのだろう

424日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:51:04.99
「邪馬台国はどこにあったのか?」「日本人はどこから来たのか?」

425日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:51:31.81
『韓国人は何処から来たか』長浜浩明著

426日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:52:12.08
>>964
>平原遺跡が「何に対する」考古学証拠なんだ?<

21枚の「尚方作」方格規矩鏡は、明帝の下賜鏡が元になっている事と、
錆色塗装は、それまでの中国でも列島でも全くなかったから、
渡来の呉系楽浪鏡師の関与しか考えられない事と、
大量の「玉」や大量の破鏡鏡片があった事から、
女王的地位の女性に墓である事になる事。

427日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:53:28.89
>>414
うむ。
誰かが畿内に持ち込んだのだが、記録がない。
神武が大和に来た時は持っていなかったが、崇神は纒向から鏡を追い出している。

428日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:54:56.95
>>414
そして、諜報機関本部・一大率だけでなく、国賓である帯方郡使の宿舎まで備えた伊都国…その王様とは何者か?

429日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:55:48.12
崇神天皇と後の時代に名付けられた人物について研究すれば、4世紀の纏向のことが明るみになるのではないのかな。。。

430日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:57:28.30
>>423
福岡空港の滑走路、いますぐアスファルト剥がして、発掘しろ!!!

431日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:57:29.41
崇神天皇の本名はミマキイリヒコイニエノミコトというのだな。。。

432日本@名無史さん2019/10/11(金) 08:58:55.88
ミマキイリヒコイニエノミコトは、銅鐸王家の者達の怨恨の充満した魂を鎮魂するための総指揮官だったのだね。。。

433日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:00:17.20
ミマキイリヒコイニエノミコトは、なぜ、八咫鏡を伊勢に遠ざけたのだろうか。。。

434日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:02:29.61
イシコリドメとは、何者なのだろうか。。。

435日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:06:05.17
>>430
画面左端に見えますのが能古島、奥の小さな島が玄海島、その隣が国宝金印でお馴染み、志賀島でございま~す!
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

436日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:09:12.96
卑弥呼は肥国王家出身で、倭王が実権を失った伊都国で即位、邪馬台国(欧州連合)と名付けたのだろう

437日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:09:59.82
>>430
まあまあ、そう焦らなくても、滑走路の下にある間は保護されているとも言える。

438日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:12:51.25
>>430
福岡空港に関しましては、民間企業に運営が委託されており、また、皇室の沽券に関わる重要機密でございますので、あしからずご了承ください(宮内庁)

439日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:28:38.57
イシコリドメとは、何者なのだろうか。。。

440日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:30:45.19
>>438
また、邪馬台国の所在地に関しましては、現在奈良県にございます纏向遺跡が最有力候補となっているようでございますので、そちらの方向で議論を進めていただければと存じます(宮内庁)

441日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:33:09.24
>>909
>八咫とは・・:径一尺の円の円周を四咫とするのが原義なんだよ。
そうでないなら改めて咫という尺度を作る意味がない。<

咫は、我が田舎では尺貫法の時代まで使われていた。
右手五本の指をいっぱいに広げた時の、親指の先から小指の先までを云う、約23〜25p位。
これを測定物に当てて長さをはかる。
その応用例だが、まず1咫を計る、
次に小指の先端を動かさないで親指の先端だけを右に移動し、小指のところへ移動させる。
さらに次は、その親指の先端を始点にして、小指の先端を右いっぱいに伸ばす。これが2咫目。

つまり、親指の先端と小指の先端を交互に支点にして、尺取り虫のように進み、1咫、2咫、3咫・・、と計ってゆく。
なかなか便利で、けっこう早く測れる。子供の遊びにも使われていた伝統の技法だが、其の性質上、円周測定には使わない。。

442日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:36:09.33
特に畿内説は残されている記録をあまりにも無視しすぎだ。
説の9割以上がどこにも記録の無い話ばかり。
中国の史書には博多湾から南の方角と記されている。
また翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
で引用されている「廣志」で邪馬臺国の場所が記されている。

邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。廣志曰く、
「倭国東南陸行五百里、到る伊都国。又南、至る邪馬嘉(臺)国」
上陸から東南5百里(約35km)で伊都国に至る、また南に行けば邪馬台国に至る。
つまり伊都国のすぐ南と書いてある。
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区付近

443日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:39:40.29
九州北東部一帯は、中国では氐と呼ばれたイスラエルの流民が流れ着き、ヤハタと名乗り、秦と書かれたのだったな。。。

444日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:40:54.11
盤古とは、何者なのだろうか。。。

445日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:42:03.21
イシコリドメとは、何者なのだろうか。。。

446日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:42:36.05
ミマキイリヒコイニエノミコトは、なぜ、八咫鏡を伊勢に遠ざけたのだろうか。。。

447日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:44:26.07
>>440
記録や証拠を無視して想像のみで構築されたのが畿内説だ。
その畿内説学者が妄想で箸墓古墳を卑弥呼の墓だと言い出したが、宮内庁は記紀という記録に基づき、全く異なるモモソヒメの墓だと断定した。
現時点、畿内説は誰も相手にしていないというのが現実だ。
最近、大和王朝ではなくヤマト王朝とカタカタで記述されるようになったのは、奈良の事だと誤解されない為だ。
勘違いするなよ。

448日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:44:47.15
>>443 >>85
宇佐→清水→鶴岡などへ勧請(分祀)された、八幡神は応神天皇だったね…

449日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:46:44.57
>>402
それ、マジ!?

450日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:49:27.59
ヤハタとムナカタは、どのような関係性があるのだろうか。。。

451日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:50:01.78
>>195
>測っていないという根拠は?

そもそも測る手段・方法がない
渡海部分は絶対に測ってない

そして、北部九州から先も里では計ってない(水行距離を測る手段、目安がない)のも確実

だから、道里が日数表記なんだよ

452日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:50:35.51
魏志倭人伝時代の九州北東部は、投馬国なのだったな。。。

453日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:50:37.68
>>980
>だから、平原1号墓は卑弥呼が生きているうちに完成、埋葬されてるんだってば!
九州説の時系列無視はすごいなww<

「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」は、あくまで、
卑弥呼が死んだ事を以って「大作冢徑百餘歩 」したと書かれているのであり、
寿陵という表現ではなく、
張政らが実際に見聞計測した、という書き方である。

454日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:51:30.77
>>452
投馬国の役所は、大分市にあった可能性が高いな。。。

455日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:53:59.28
>>196
>これは意味不明なんだが?
>頭の中で勝手ルールを作っているのかな?

お前が物知らずで頭が悪いだけ

平原遺跡は
5号墓
1号墓・2号墓
3号墓・4号墓
の順に、3世代の墓が営まれた家族墓地

3・4号墓が造墓された後、古墳時代に入って、ワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳が作られる。

1号墓(2号墓)が作られてから、3・4号墓の1世代が経過して、それから古墳時代に入る
こういう基本事項と理解できないから、九州説みたいなでたらめを信じていられるんだよww

九州説は整合性の取れない矛盾だらけ

456日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:57:36.19
>>198
>それで?

伊都国に畿内の人が来ていないというでたらめが、
考古遺物という実物証拠で否定されるってことだ

>>101のこれを書いたのは、お前だろ?
「博多には畿内の人間もうろうろしていたのかもしれないが、伊都には入れなかったわけだ。」

もの知らずの大嘘つきのデタラメ野郎ww
亜原田君かな?

457日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:57:55.38
>>447
>最近、大和王朝ではなくヤマト王朝とカタカタで記述されるようになったのは、奈良の事だと誤解されない為だ。

カタカナ単語を見たら眉唾だとパッチャが教えてくれた。

458日本@名無史さん2019/10/11(金) 09:58:35.05
>>199
>それは君の解釈であり、魏志倭人伝そのものにはそのようなことは書いてない。

うそつきのばか以外は、伊都国は女王国に統属されているとしか読まないよww

459日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:02:15.63
>>998
>ひたすら理由なき算定を繰り返す迷妄 それが九州説<

「南→東」などの嘘付き騙しの断定のように、
十分な確率や根拠理由無き断定を繰り返す・・・・アホの迷妄、
それが大和説。

460日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:04:55.54
畿内説は胡散臭い謎理論ばかり。
早く言えば屁理屈。
誰も納得しない。

461日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:10:30.21
>>396
-纏向遺跡(大型建物D)=倭迹迹日百襲姫の祭殿
-ホケノ山=少彦名陵、西殿塚=神武陵
-箸墓(大国主=大物主陵)後円部の断面図(北側)
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追葬
4段目…………/ ̄大国主=大物主 ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

462日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:14:31.15
>>458

事実と意見をごちゃ混ぜにするな。

463日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:26:06.14
>>79
>帯方郡
↓↓
↓東治
↓↓580q「陸行一月」
東冶=女王国(12,000里)
中国大陸での道里の、倭国への転用か(納得)! <

倭人伝には「東冶」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。

464日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:26:35.87
>>442
>「倭国東南陸行五百里、到る伊都国。又南、至る邪馬嘉(臺)国」
>上陸から東南5百里(約35km)で伊都国に至る、また南に行けば邪馬台国に至る。
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区付近

上陸から東南5百里(約35km)で・・、と明記してあるのに、なんで糸島や福岡西区になるのか。
方角を捻じ曲げるな、九大キャンパス。

465日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:29:13.18
方角を捻じ曲げることに関しては、九州説も畿内説も同罪じゃろ!

466日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:33:40.78
>>462
意見じゃなくて事実なんだよ
伊都国は女王国に統属されている
倭人伝にはそう書かれている

467日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:33:54.08
左曲がりのダンディー(南⤴東)、畿内説!

468日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:40:42.08
>>463
東治とは東冶のことだよ
日中の定説だ
あきらめろ

469日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:41:14.77
魏志倭人伝という文章では、邪馬台国は南にあるのだったな。。。

470日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:42:09.99
>>81
歴史に詳しい人に訊きたいんだけど、

@倭国大乱の痕跡
A楼観城柵厳設
B鉄鏃・骨鏃
C文書使用(封泥用金印)
D殉葬

これらを満たす地域は、2世紀末の倭国ならどこ!?

471日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:42:54.57
会稽東治は、良渚の東にある上海にあるというのは、中国の学者達にとっては、常識なのだったな。。。

472日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:44:26.75
>>78
女王国は投馬国の南と北に、虚実2つあるってこと?!

473日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:47:18.85
アンテナや雨どいが吹き飛ばされないよう、何かできることがあるだろうか。。。

474日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:48:08.22
>>473
屋根には、上らない方が良いよ。。

475日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:51:44.65
畿内説は想像の産物です。

・史書によると邪馬台国は福岡から見て南に位置する
・畿内説の主張はどの文献記録にも該当する記述が無い
・箸墓古墳の周濠で5世紀の馬具が出土したので時代が合わない
・纏向遺跡で出土した3世紀の遺物は「桃の種」だけ
・纏向遺跡で出土した木製仮面、蛙の骨は、東日本の文化圏であったことを示している

476日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:55:16.78
最近発見された土器に描かれた乳房を、卑弥呼に結びつけていた、あまり頭の良くない者がいたな。。。

477日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:57:18.55
>>98
>糸島は博多〜今津湾よりも畿内の影響が遅れているので・・・<

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和の前方後円墳や庄内は3世紀末であるので、
糸島にも博多にも殆ど影響を与えないし、
逆に「東征毛人五十五國」などによって、筑紫から影響をから与えられた方。

478日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:57:33.09
>>77
>>78
ちょっ!おまっ!そんな小細工されたんじゃ、訳判んねぇじゃん!!!
道理で、西暦290年前後(280年呉の滅亡〜297年陳寿死去)の成立として、1730年間解読できなかったワケだ。

479日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:57:50.97
>>476
毎年、高校生たちを熱中症に追い込もうとしている新聞社が、発表したのではないのかな。。

480日本@名無史さん2019/10/11(金) 10:59:40.40
バンビシャスは、闘うのだろうか。。。

481日本@名無史さん2019/10/11(金) 11:02:08.13
>>466
書いてないよ。
それは君の解釈だよ。

482日本@名無史さん2019/10/11(金) 11:02:12.87
バンビシャスは、高速道路をバスで移動するのではないのかな。。。

483日本@名無史さん2019/10/11(金) 11:03:36.60
魏志倭人伝では、女王国の入口は、伊都国と奴国の間にあるのだったな。。。

484日本@名無史さん2019/10/11(金) 11:04:07.50
奴国は、女王国の一部なのだったな。。。

485日本@名無史さん2019/10/11(金) 11:05:24.87
奴国は、女王国の一部で、女王国の中では最も北にあるので、女王の境界の尽きる所なのだったな。。。

486日本@名無史さん2019/10/11(金) 11:08:42.39
>>78
陸行一月(30日)って、北部九州(邪馬台国連合)30カ国(一日一国)に対応させてたら、陳寿天才や!

>師匠の譙周は、弟子の陳寿に「卿は必ずや学問の才能をもって名を揚げることであろう。挫折の憂き目にも遭うだろうが、それも不幸ではない。深く慎むがよい」と言ったが、その通りの結果になったと『晋書』は評している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%AF%BF

487日本@名無史さん2019/10/11(金) 11:08:53.15

488日本@名無史さん2019/10/11(金) 11:11:09.40
正方形に例えられる大きな島の一番北側に渡った後、そこから、その島の一番南側に船で辿り着くには、
その島の形状を例えている正方形の辺が緯線や経線と平行という、確率が0に近いケースを除けば、
2辺の沿岸を移動しなければいけないのだったな。。。

489日本@名無史さん2019/10/11(金) 11:14:20.53
>>488
つまり、女王国の入口は奴国なのだな。。。
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000

490日本@名無史さん2019/10/11(金) 11:15:00.62
奴国は、女王国の一部で、女王国の中では最も北にあるので、女王の境界の尽きる所なのだったな。。。

491日本@名無史さん2019/10/11(金) 11:18:54.76
奥山氏は、帯方郡のあった場所からスレッドにアプローチし、奥山氏の所属する民族の利益のために、邪馬台国畿内説を宣伝しているのだったな。

492日本@名無史さん2019/10/11(金) 11:28:21.42
邪馬台国に行ってしまった寺下氏は、元気なのだろうか。。。

493日本@名無史さん2019/10/11(金) 11:59:45.18
>>481
>書いてないよ。
>それは君の解釈だよ。

じゃあ君は誰が誰を統属してると読むのだね?
九州珍説を聞かせてもらおうじゃないか

494日本@名無史さん2019/10/11(金) 12:01:43.45
>>106
>3世紀に北部九州でもっとも発展しているのが博多で
今津湾は畿内の模倣筑前型庄内や山陰系土器、半島系軟質土器<

「畿内の模倣筑前型庄内」は間違い。
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和の庄内は3世紀末の石塚の庄内T以後であり、「畿内の模倣」が×。

>出雲の玉作り工房もあり、交易拠点になっている
糸島最古の前方後円墳の御道具山古墳は今津湾西奥の泊に造られる<

那珂八幡よりも後で、3世紀末らしいな。

>糸島唯一の式内社で海から参拝していた志登神社がすぐ南にある
稚拙な鏡を一人だけで溜め込んでも意味が無い<

類スレ主が、
大量の玉などや21枚の「尚方作」方格規矩鏡などの存在を隠蔽して、
世間の人々を騙そうとしている事が見え見え。

495日本@名無史さん2019/10/11(金) 12:10:17.81
このように
九州説はあらゆる面で通説をただ拒否して
根拠もなく我流の珍説を言い張ることで
かろうじて細々と存続しているのだった

496日本@名無史さん2019/10/11(金) 12:29:54.46
A統屬Bは、AはBに統屬する

四年、轉爲前將軍 以諸葛亮欲出軍漢中 嚴當知後事 移屯江州
留護軍陳到 駐永安 皆統屬嚴 (蜀書李嚴伝)

四年、前将軍に転じる。諸葛亮が(北伐のために)漢中へ軍勢を出そうとし、
李厳を後方に当たらせ、その駐屯地を江州へ移した。
護軍の陳到を永安に留めるも、李厳が皆を統率した。

226年、前将軍に昇進した。諸葛亮は北伐のため漢中に陣営を移したので、
後方を李厳に任せるべく、彼の駐屯地を江州に移動させた。
永安には陳到を置いたが、引き続き李厳が統括するものとした。

497日本@名無史さん2019/10/11(金) 12:56:25.02
「通説」「定説」
それが間違っていたことなどいくらでもある。
根拠を聞かれてそれしか返ってこないなら、「痛説」だよ。

498日本@名無史さん2019/10/11(金) 12:59:20.87
>>497
「教科書に書いてあることを信じないこと  常に疑いを持って自分の目でものを見ること」

ノーベル医学・生理学賞受賞 本庶佑(京都大学特別教授)   @阿波

499日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:00:27.64
「世有王皆統属女王国」

500日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:00:46.92
定義を明確にしよう。

「定説」九州説
「通説」畿内説
「痛説」>>1
「痛風」奥山氏

501日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:03:23.91
「通説」「定説」が間違っているという研究もないのに
間違っていると決め付けるのが「痛説」=九州説

502日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:08:43.75
「確定」倭国(阿波)。   @阿波

503日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:09:19.08
>>499
伊都国の王たちが実権を失い、かわりに卑弥呼が共立されたのなら、何の問題もないな。
女王国の王都が伊都国でよい。
伊都における複雑な政治状況を郡使は理解していたということだ。

504日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:11:45.88
伊都国から先に進んでいるので女王卑弥呼の都には到着していない

505日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:17:23.59
頭の悪い奥山氏が使っている教科書では、日帝による強制徴用工や従軍慰安婦は、定説となっているので、あったな。。。

506日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:17:46.55
>>503
じゃあ邪馬台国ってのはどこにあるんだ?
珍説家の考えることはよくわからない

507日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:21:37.36
様々な分野の学部の者達で構成された公的な組織や日本国の歴史を勉強している高校生の常識では、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が見つかっていないのだったな。。。

508日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:23:50.14
>>502
阿波池田駅は、各停しか止まらないのだな。。。

509日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:24:45.27
邪馬台国は、対馬からも、壱岐からも、南にあった可能性が、そうではない可能性よりも、断然、高いな。。。

510日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:25:27.79
>>504
奴国や不弥国にも足を伸ばしているが、駐在したのは伊都国と書かれている。

511日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:26:02.99
>>506
7万戸もあるのだから、奴国を含む筑紫全体が邪馬台国だよ。

512日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:27:46.74
纒向の掘立柱は、北緯何度に立っていたのだろうか。。。

513日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:30:41.53
伊都國は郡使往來常所駐であるけれども
至邪馬壹國 女王之所都ではない

特置一大率 常治伊都國では
皆、津に臨みて捜露す 文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、
差錯することはない

514日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:30:53.62
纒向の掘立柱は、北緯34.5度なのだな。。。

515日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:34:38.39
纒向は、対馬市役所よりも北極に近いのだな。。。

516日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:35:58.73
邪馬台国は、対馬からも、壱岐からも、南にあった可能性が、そうではない可能性よりも、断然、高いな。。。

517日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:46:59.24
大國萬餘家 小國数千家 揔十餘萬戸(韓伝)

全部で〜戸の場合は「揔〜戸」で表現している

518日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:47:14.46
掘立柱は、どのような者達が、利用した建物を、支えていたのだろうか。。。。

519日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:51:29.23
>>511
その珍説では12000余里をどう誤魔化すんだ?

WW

520日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:52:01.12
纒向の掘立柱は、銅鐸王国の王である大物主が倉庫として利用していた建物を支えていたのだろうか、、、
それとも、ミマキイリヒコイニエノミコトが、大物主の魂を鎮魂するための祭祀のために利用していた建物を、支えていたのだろうか。。。。

521日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:53:08.65
奥山氏は、帯方郡のあった場所からスレッドにアプローチし、奥山氏の所属する民族の利益のために、邪馬台国畿内説を宣伝しているのだったな。

522日本@名無史さん2019/10/11(金) 13:54:42.21
邪馬台国に行ってしまった寺下氏は、元気なのだろうか。。。

523日本@名無史さん2019/10/11(金) 14:00:47.91
纒向は、対馬市役所よりも北極に近いのだな。。。

524日本@名無史さん2019/10/11(金) 14:04:25.98
スロープにアプローチ?

525日本@名無史さん2019/10/11(金) 14:40:04.52
様々な分野の学部の者達で構成された公的な組織や日本国の歴史を勉強している高校生の常識では、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が見つかっていないのだったな。。。

526日本@名無史さん2019/10/11(金) 14:54:24.86
ジャパンゲームというゲームは、2試合で選手たちが400点以上を得点しあい、4万人以上の者達をアリーナに集め、数百万人の者達を興奮させられるのではないのかな。。。

527日本@名無史さん2019/10/11(金) 14:56:35.24
バンビシャスの人気が高まれば、ジャパンゲームというゲームと同じように、たくさんの者達が、儲かる可能性があるな。。。

528日本@名無史さん2019/10/11(金) 14:57:23.03
>>513
これは荷を開封して伝票と付き合わせしているということだよね。
つまり伊都国が最終目的地だったということ。
伊都からさらに大和に運ぶなら、伊都で荷を解くことはあり得ない。

529日本@名無史さん2019/10/11(金) 14:58:31.83
邪馬台国畿内説という嘘の人気が高まっても、一部の者達が、少し、儲かるだけではないのかな、、、

530日本@名無史さん2019/10/11(金) 14:58:45.02
>>519
短里だと筑後平野で里程は終わる。
つまり筑紫イコール邪馬台国で決着する。

531日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:03:19.32
だいたい、ヤマトもマキムクも出てこずに、伊都のことばかり書いてあるのだから、陳寿は伊都が倭の王都というつもりで書いているに決まっているではないかり

532日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:10:53.82
>>528
>伊都からさらに大和に運ぶなら、伊都で荷を解くことはあり得ない。

伊都国は、いわば出入国管理局。
荷を確認するのは、当然である。 もちろん、開封などはしないが。   @阿波

533日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:13:37.42
>>531
>伊都のことばかり書いてあるのだから

伊都国の記述はちょっぴりだけ!  大半が阿波の女王国記述である。  ウソはイカンぜよ。   @阿波

534日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:14:14.09
>>204
>個人的にはまさかだけど、否定する根拠もないだろ?

伊都国と奴国以外の九州説全てに言えるのだけれど、
「3世紀のめぼしい遺跡がない」で否定できるんだよ

そして、伊都国と奴国は、邪馬台国とは別の国、水行陸行でヶ月隔てた国だから
否定できる

結局、九州説は全部否定される

535日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:18:42.80
>>230
陳寿の脳内以北なので、
帯方郡
 ↓
狗邪韓国
 ↓
北部九州
 ↓
投馬国
 ↓
邪馬台国
という並びになっていればいいんだよ

音韻的には出雲でよいと思う 四隅突出墓文化圏
吉備の関与を強く認める立場では、吉備周辺となる

536日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:18:57.71
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、

分かりやすいのが、明治天皇以前には、一人も九州行幸が無いこと。

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。  @阿波

537日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:22:00.52
>>247
>そこまでの里数も書いてない

魏志倭人伝に書いてあるのは、道里でありそれが日数表記になっている
出雲で魏志倭人伝の記述と矛盾はないぞ
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚
水行区間は一日20キロ程度、
陸行区間は一日6キロちょい

538日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:24:21.11
>>250
>平原遺跡の被葬者が伊都と奴国を支配する権力者であること

これ、論証されてないから、否定するまでもないぞw

それに、吉野ヶ里遺跡の同じ葬送文化の北墳丘墓と比較することで、
権力の大きさが推定できるが、圧倒的に平原1号墓は劣る存在でしかない
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

539日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:25:54.50
>>534
屁理屈を積み上げただけw

540日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:30:12.99
>>535
>音韻的には出雲でよいと思う 四隅突出墓文化圏


「四隅突出墓」も倭国(阿波)発祥!   

萩原1号墳・萩原2号墳・足代東原1号墳・奥谷2号墳   @阿波

541日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:34:09.77
>>256
>じゃあ畿内説では、平原遺跡の膨大な宝飾品はどう考えているわけ?

言うほど膨大ではないんだって!
九州説がもの知らずなだけww

京都府大風呂南一号墓出土品
国宝・重要文化財(美術品)
「本件は、弥生時代後期後半に築造された墳丘墓からの出土品一括である。
 本件は、このうち一号墓(墳丘規模=尾根筋方向の長さ約二七メートル、
 尾根と直交する長さ約一八メートル、墳丘高約二メートルの長方形)に
 築かれた四基の土壙(第一−第四主体部)から出土した副葬品の一括である。
 その内訳は、腕飾り(ガラス釧一箇、銅釧一三箇、貝輪残欠一箇)と
 玉(ガラス勾玉六箇、碧玉管玉三五六箇)、
 鉄製品(鉄剣一四本等)、および附とした土器・土器片七点から構成され、
 その総数は四一二点である。」

542日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:38:23.70
>>271
>江戸の将軍を恐れはばかるということは、江戸に最高権力があったということと同じだろ。
>伊都の大率を恐れはばかるということは、伊都に権威があったということだよ。

江戸時代の京都の公家は京都所司代を恐れはばかっていたけれど、
それは江戸の最高権力の威を背景にしたものであって、京都に権威があったことを意味しない

3世紀の伊都国を含む北部九州諸国は、一大率を畏れはばかっていたけれど
それは邪馬台国の最高権力の威を背景にしたものであって、伊都国に権威があったことを意味しない

>>271は、例示の仕方からして見当違いww

543日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:39:21.50
>>395
めんどくさいやつやな。パート514に書いとる。そこ探すの疲れるから、要約したる。
魏略、魏志倭人伝の帯方は漢書地理志の楽浪から置き換えたもんや。
その漢書地理志の楽浪には、倭は東南の方にあるとは書いてない。方位ははっきりせんのやな。
次の魏略から倭は東南の方にあると方位が出てくる。
しかし、この魏略が書いとる帯方は漢書の楽浪から置き換えたもんやから、魏略に初見えする東南とは何の関係もないデータということになる。
帯方とは関係のないデータなんやから、どういうわけで東南の方位が決まったのか調べなあかんというわけや。
調べた結果、その東南の方位は半島南岸の固城の沖が起点で、終点は唐津市呼子の加部島となっとることが分かった。
その方位はちょうど東南ぴったりや。
魏略の「倭在帯方東南大海中」の「東南」は、その東南やということになったわけや。
ということは、この東南の方位は、倭と半島を行き来する渡海ルートやったということやな。
つまり、魏の使節団が海渡って倭にやってきたのが東南の方向やったから、倭は東南に在るとするデータができたのよ。
それまでは、倭が所在する場所の方位は明確には把握されてなかったということになるのや。

お主もひとのこと批判するひまあったら、むしろ自分の説を披露せえよ。

544日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:40:19.32
破綻した邪馬台国畿内説を、完全に論破された奥山氏が出現し、あまり意味の無い意見を発表しているが、巻向遺蹟は、何十年もかけ、莫大な税金と人員を投入し、200回程もの発掘調査を実行したのだが、邪馬台国畿内説の具体的な証拠を発見出来なかったのだったな。

545日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:42:35.95
呼子は、田島神社の島と砂州で繋がっていたのだったな。

546日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:43:56.06
>>276
>畿内説が淀川水系を持ち出していたら、もっと苦労しただろう。

淀川水系は三嶋湟咋の根拠地で、神武の皇妃媛蹈鞴五十鈴媛命の実家筋だよ

淀川水系は、それほど平地がないからそこだけで独立した大国があるような場所ではなく
普通に畿内の一部でよい
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

547日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:45:34.87
>>545
天候が悪い時は、壱岐からは、長崎県松浦市にあったマツラ国ではなく、加部島を目指すことがあったのだね。

548日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:46:10.02
>>281
>副葬品が豪華であり大事。
>臨時女王で薄葬令に縛られた壹與の墓。

「副葬品が豪華」⇔「薄葬令に縛られた」
たった二行で矛盾ww

薄葬礼を何だと思ってるんだ?ww

549日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:47:54.21
>>284
>居城跡が確認されとりますがな

天皇の宮の居館跡の直接の遺跡は出てないよ
出れば決まりだけどね

550日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:48:55.49
>>113
>横からだけどね。
倭人伝は、海路で行ったて書いてあるし。
海路だから倭人伝の里数は1里75mにならないよ。
いわゆる短里とされるのは偶然にすぎん。<

「海路で行った」とは書いていない。
歴韓國乍南乍東は、陸行でなく全海路では全く不可能であるし、
倭王武が「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」と説明しているから、
百濟の渡海港まで陸路を採っているし、
全海路であれば、当然中国船のはずであるのに、
魏使らの乗った船には「持衰」が乗っていたので、倭船であった事になり、
だから狗邪韓國からは、陸路から倭船にから乗り換えている。

551日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:49:10.70
破綻した邪馬台国畿内説を、完全に論破された奥山氏が出現し、あまり意味の無い意見を発表しているが、巻向遺蹟は、何十年もかけ、莫大な税金と人員を投入し、200回程もの発掘調査を実行したのだが、邪馬台国畿内説の具体的な証拠を発見出来なかったのだったな。

552日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:50:38.25
>>543
要するに九州説は魏志倭人伝を無視して妄想すれば畿内説が論破できると
そう思っているわけだね

ばかではないのか藁

553日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:50:44.52
>>285
>大和から見て以北とは言い難い、方角も定かでないのに九州に口出しするな。

畿内説は、魏志倭人伝に記載された方角が
「(末盧国から)東南陸行五百里、到伊都國」⇒実際は北東 であるという
魏志倭人伝の記載をもとに、「方角はあてにならない」ときちんと確認した上で
魏志倭人伝の記述を検討しているから、その指摘には意味がないww

554日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:51:25.89
>>546
>淀川水系は三嶋湟咋の根拠地で、神武の皇妃媛蹈鞴五十鈴媛命の実家筋だよ

それぜんぶ、「忌部はん」 の痕跡!   @阿波

555日本@名無史さん2019/10/11(金) 15:59:10.14
>>322
>でも畿内説が主張する200年当時に平原遺跡と同レベルの副葬品の墓はないと思うよ。

だからもの知らずだっての
大風呂南墳丘墓にも赤坂今井墳丘墓にも負けてる

結局、割られた銅鏡(ほぼ全量仿製鏡)がやたら多く出るというのが特徴なだけ
大量生産された青銅器が大量埋納されているという点では、出雲の荒神谷遺跡との
比較が重要となる

556日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:01:28.47
>>553
そもそも魏志倭人伝の南北は対馬ー壱岐ラインだな。
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

557日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:02:25.79
>>338
>「中に入ると」
>槨がある古墳のことで、邪馬台国とは関係ないねえ。

初期古墳の竪穴式石室は、中に人が入れる構造ではないから「槨」ではない
古墳が中に人が入れる横穴式石室を備えるようになるのは古墳時代中期以降

横穴式石室は「槨」と呼びうるし、古墳時代中期は邪馬台国とは時代が異なるww

558日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:04:50.51
>>543

倭人伝の南渡一海の方位が間違いということになる

559日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:06:10.87
>>344
>三雲南小路遺跡とか吉武高木遺跡とかどうなっちゃうんだ。

吉武高木遺跡は最古の王墓とか呼ばれることがあるけれど、
そんなに豪華な副葬品がある訳でもない
単に、鏡と剣と玉が揃っているだけ

特定集団墓と呼ばれる11の集団墓のうちの一つで、その中の最有力者、くらいの
位置づけでよい

560日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:08:28.23
>>557

初期古墳の竪穴式石室も、倭国(阿波)発祥!   悪しからず。   @阿波

561日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:10:39.52
>>535
>音韻的には出雲でよいと思う 四隅突出墓文化圏


「四隅突出墓」も倭国(阿波)発祥!   

萩原1号墳・萩原2号墳・足代東原1号墳・奥谷2号墳   @阿波

562日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:14:54.67
>>559
>単に、鏡と剣と玉が揃っているだけ

超重要事項だろそれw

563日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:16:36.70
>>142
>まあ、短里の場合でも、沙里院からだと末盧までで1万里を使うから、残り2千里。
末盧〜伊都=5百里  伊都〜奴=百里   奴〜不彌=百里 で計7百里。
あと1千3百里も残ってるよ。 この1千3百里どうすんのさ。<

方4百余里の對海國の国内見聞移動で8百余里、
方3百里の一大國の国内見聞移動で6百里。
伊都国〜奴國は、移動した文字がないから、0里。
その補正で、一千三百里は消失。

長里はどうみても、始めから全く無理。

564日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:16:56.23
>>562
という理由は?

565日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:20:30.70
>>143
>萬二千餘里で女王國に至る
里数で書かれている北部九州沿岸と長門周防は倭人の風習である卜骨が出ない<

ト骨は卑弥呼の鬼道ではなく、辺縁での見聞記録であり、一大國に沢山あれば十分。

>水行した本州から倭人が住む女王國領域に入る<

「南≠東」などに拠って、×。

566日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:21:44.32
>>562

朝鮮の鏡と剣
ヒスイは糸魚川産

567日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:24:41.25
>>349
>逆に聞くけど、家来が好きなように大きな墓を作ったらいけないの?

巨大墳丘墓が作れるだけの大動員ができるなら、
それがそのまま兵力として動員できることにどうして気づかないかな?

あえて見てみぬふりをしているのかな?

権力誇示のための巨大構築物は、大きさがそのまま権力の大きさを示すんだよ
家来の方が墓が大きい=家来の方が動員力がある=家来の方が権力がある、という
おかしな話になる

568日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:28:27.88
>>357
>ただの家来が八咫の鏡と三種の神器を持ってたりするのかw
>畿内説の頭の中は面白いなw

何度も言うが、平原1号墓の46センチ鏡は皇室の神器たる「八咫鏡」とは無関係
そして、剣・鏡・玉のセットはただの家来、ただの豪族の墓に普通に副葬されている

山口の赤妻古墳とか山梨県の笛吹市平林2号墳とか、ちょっとググるだけでいくらでも見つかる

いわゆる「三種の神器セット」は別に皇統、王族の独占物じゃないんだよ

そんなことも知らない九州説が、情弱なだけ

569日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:30:55.94
>>357
>巨大な銅鏡は威信財の典型だと思うよ。

割らずに、手抜きをせずに作ったものはそうだと思うよ?
例えばこんなの
「直弧文帯縁内行花文鏡」34.3センチ 佐紀陵山古墳出土
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000690000/afe97a03a9d2456899e83ea787ce89f2

平原1号墓のは、図像からして手抜き鏡
外区を広く取ってごまかしているだけ
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

570日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:33:29.83
>>57
>>魏の役人たちは、「観念的な数字」なんかで報告を書かないから、×。<

>萬二千里は、陳寿の書いた数字だろ?魏の役人は、距離を測っていないし、道里は日数によるものしか報告書には書いてない
そんなことも分からないのか?<

「萬二千余里」は、(陳寿の魏志だけではなく)魏略にも書かれているから、
二人とも魏使らの記録を見て書いた事になる。

>だから、投馬国と邪馬台国は日数表記になってるんだよ<

不彌國付近で「萬二千余里」はほぼ終わっており、
投馬國へは行っておらず、倭人からの伝聞情報であり、
女王之所都の「水行十日陸行一月」は、郡から女王之所都の所要日数説明。

571日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:35:16.18
>>568
その通り。   @阿波

572日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:35:38.93
>>372
>平原遺跡の被葬者はどうやってそれを手に入れたのだろう?

は?
後漢や魏代の舶載鏡が一面も出ない平原1号墓がどうしたって?
平原1号墓で副葬された舶載鏡は
16号鏡 18.8センチ 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡 漢鏡五期
17号鏡 16.5センチ 四螭二朱雀龍虎鏡 虺龍鏡  漢鏡三期
の100年以上前の伝製鏡2枚だけだぞ

573日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:39:23.46
>>162
>>変な事をいう男だなあ、
「瓦上に、鏡一面在す」だけでは、それが神鏡の八咫鏡であったのか?が、
分からんではないか。<

>前の文に神霊鏡が温明殿で火災に遭ったと書かれていて、続いて温明殿の焼け跡で件の八寸鏡を奇跡的に発見したと書かれてる
さらに文章は「又求得太刀契等、以神鏡等安置縫殿寮高殿。」と続いてる
ばかだからわからないだけ <

神殿内にあった鏡が、火災で、なんで「瓦の上」にあるんだ?。

574日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:39:47.80
>>384
>根拠なく言い張るだけかよ。
>これだから畿内説は。

公孫氏と倭国との交渉の文献記録は「一切ない」
「交渉があったと主張することに根拠がない」という親切な説明を
「根拠なく言い張るだけ」ってのは
意味がないを通り越してブーメランだぞww

575日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:47:03.65
>>390
>東千里の所にある倭種の国は

はい、ここ!
これが典型的な、九州説の捏造のやり方ですよ!

まず、東渡海千里の「渡海」を消している
倭人伝での渡海の用法は、外洋に出て海を渡ること
九州から本州ではどうやっても渡海にならないww
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

そして、魏志倭人伝にも魏略にも「皆」倭種と書いてあるだけ
倭国の列島の中の海峡を渡っても、そこは渡る前も後もみんな倭種で韓人などは
いないという記述だよ

倭種の国が倭国と呼ばれていることを無視してはいけない

576日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:49:27.60
>>394
>畿内説は何度「あてにならん」を繰り返すんだよ。

九州説は「方角は正しい」と言い張るためだけに
「末盧国は呼子」 それでも東南にならない
「東は夜明け方向」夜に北極星を見れば異郷の地でも方角は分かる
みたいな、すぐに否定される戯言を「発見・発明」し続けるww

577日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:50:34.00
>>164
>平原1号墓の土坑墓の編年が、伊都国説・1号墓=卑弥呼の墓説の致命傷<

土坑墓で絶対年代を特定する根拠になる筈が無く、
また1号墳は21枚の「尚方作」方格規矩鏡の存在に拠って、卑弥呼の死以後である、
という事が確定する。

>そして、3・4号墓の存在も、古墳時代に入るまで1世代以上あることの傍証であり
1号墓が3世紀初頭より後にくだらないことを明確に示している<

この男(おそらく類スレ主)は、「古墳時代=前方後円墳時代」という騙しをしており、
筑紫の前方後円墳は那珂八幡などの3世紀後半半ば過ぎ以後になる、
という事を隠して騙そう、としている。

578日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:52:49.05
>>575
>倭国の列島の中の海峡を渡っても、そこは渡る前も後もみんな倭種で韓人などはいないという記述だよ

その通り。   @阿波



>倭種の国が倭国と呼ばれていることを無視してはいけない

倭国じゃあ、ない。  「倭種の国」とは、「忌部一族」が開拓に入っている途上国。   @阿波

579日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:54:06.48
>>409
>1尺=4咫 は文字通り読むのではなく、直径1尺の円周を4咫とするっていう定義(理由不明)。

バカですか?

>『説文解字』にいう「周」代を「円周」と解釈して、

よく知らないならでたらめを書くなよw
説文解字に書いてあるのは「中婦人手長八寸,謂之咫。周尺也。」

この「周尺也」を「周を測る尺」と読んだバカが居たんだよ
これが昔、ウィキペディアにも書いてあった

もう直されてるけれどww

580日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:55:27.13
>>166
>IB期から、サキゾノ地区で畿内庄内甕が出てるよ
「IB期の標識資料としてあげられるのが三雲サキゾノ1−1区1号住居床面出土資料である[czr−37,
pp.17−31]。重要な遺構であるため,やや詳しく記述すると,広口大型壺,頸部に刻み目突帯を有す
る直口壺,在地の中型甕,山陰系二重口縁甕,庄内大和型甕,直口壺4点,在地の小型甕11点,鉢9
点,厚手の小型丸底紺(5号住居の可能性も),椀形手捏土器3点,高杯13点,在地の器台2点,朝
鮮半島からの陶質土器片2点,小型手捏勾玉形土製品,小型手捏甕形土製品,小型手捏壺形土製品2
点が出土した(上層の資料は省いている)。手捏土器・手捏土製品が存在することから,生活のため
の住居ではなく,祭祀遺構と考えられる。実際,庄内甕も煤が一切付いておらず,煮沸に使用された
痕跡はないので,この点からも「祭祀遺構」という解釈を補強できる。」<

庄内大和型甕と、朝鮮半島からの陶質土器片2点で、佐々木のインチキを指摘済み。

581日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:56:19.19
魏志倭人伝時代、熊本城の地下にあった女王城は、邪馬台国と呼ばれた御城下だけではなく、女王国として、宮崎にも広がって支配していたので、四国が東に渡海した倭種の国なのだったな。

582日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:56:44.94
>>411
>光武帝の後漢だから、ピッタリやね

光武帝の後漢の時点で、公定尺の体系に移行して何百年も経っているし
身体尺の「咫」は計量単位として使われていない

また、大陸の歴史の全期間を通して「咫」が円形物の周長を示すのに使われた例は
一例たりともない

どこがぴったりだ?ww
無能w

583日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:57:57.14
>>414
>しかし、伊勢神宮の天照大神の御神体・八咫鏡が、なぜ北部九州の糸島平原遺跡から5面出土の当時国内最大(つまり倭王)の内向花紋鏡と同型鏡なのか?

同型鏡でもないし、大きさもまったく異なる
「なぜ」という疑問が成り立つ余地が最初からない

584日本@名無史さん2019/10/11(金) 16:58:27.66
>>581
魏志倭人伝時代の畿内には、銅鐸民族という倭種とは少し異なる者達が住んでいたのだったな。

585日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:00:45.71
>>584
銅鐸民族は、毛人と倭種が結婚して、誕生した民族の可能性があるな。

586日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:00:48.60
>>575
>倭国の列島の中の海峡を渡っても、そこは渡る前も後もみんな倭種で韓人などはいないという記述だよ

その通り。   @阿波



>倭種の国が倭国と呼ばれていることを無視してはいけない

倭国じゃあ、ない。  「倭種の国」とは、「忌部一族」が開拓に入っている途上国。   @阿波

587日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:02:29.19
>>441
>咫は、我が田舎では尺貫法の時代まで使われていた。

というか、今でも「手の大きさに合う箸の選び方」として「一咫半」を
自分の手で測るというのが、言われている

ただし、日本の「咫・あた」と大陸古代の「咫・シ」は、
「手を使う身体尺」であるという点が一致するだけで、本来別物であり、
日本の「咫・あた」は当て字

588日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:03:01.80
>>585
ネアンデルタールも、混じっているのでは、ないのかな。

589日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:05:22.83
九州説はいつも妄想の世界

590日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:05:59.64
>>460
>誰も納得しない。

どれだけ説明されても「僕チンは納得しないんだー」と言い張るだけの簡単なお仕事が九州説
しかも「自分が納得しない(ということにする)」という主観を
「誰も」納得しないと言い換えることで、普遍性があるように見せかける姑息な卑怯者ww

591日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:06:28.26
破綻した邪馬台国畿内説を、完全に論破された奥山氏が出現し、あまり意味の無い意見を発表しているが、巻向遺蹟は、何十年もかけ、莫大な税金と人員を投入し、200回程もの発掘調査を実行したのだが、邪馬台国畿内説の具体的な証拠を発見出来なかったのだったな

592日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:08:14.11
>>482
>事実と意見をごちゃ混ぜにするな。

伊都国が女王国に統属すると読む 
⇒漢文として正統な読み方だし、そう解釈する人が98%超

伊都国が女王国を統属している(支配している)と読む
⇒漢文として破綻しているし、そう解釈する人はごく少数

何が事実で何が意見なんだい?wwwww

593日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:08:19.67
邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、頭の良くない奥山氏が、論破されたので、興奮してきたな。

594日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:08:49.03
>>171
>>偶然でも何でもいいけど、その縮尺なんだろ?<

>縮尺ってのは、どこを測っても同じ縮小率であるときに定義できるものだ
区間ごとに4倍も異なるのは、実測していないし縮尺などは定義できないということ<

「区間ごとに4倍も異なる」なんていう解釈は、
類スレ主の「里」記載の出発点と到着点の位置比定が、
インチキであり詐術的であったからだ。

>それを誤差と言い逃げられると思っているところが幼稚そのものww<

類スレ主や大和説学者らのように、
「6倍」位もの差異になる「1里約435m」何てインチキで、
言い逃げられると思っているところが幼稚そのもの。

595日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:09:21.11
>>566
どちらも縄文時代からの伝統と言えるな。
半島南部にも縄文系民族が居たんだから。

596日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:10:15.81
奥山氏は、少し、漢文を勉強した方が、良いな。

597日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:12:50.91
鏡と剣と玉は、天皇であることを証明する、互いに独立した75パーの根拠なのだったな。

598日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:13:13.98
>>497
>それが間違っていたことなどいくらでもある。

それは間違っていることがきちんと具体的な根拠をもって論証されたからだよ
具体的な根拠もなしに、訊かれても答えられずにただ「僕チンは信じない」って
言い張っているだけなのが九州説ww

599日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:15:43.54
奥山氏は、漢文を勉強すれば、邪馬台国が対馬から南の方角にあることが解るのではないのかな、、、

600日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:15:45.37
>>511
>7万戸もあるのだから、奴国を含む筑紫全体が邪馬台国だよ。

それがまたインチキww

奴国は二万戸しかない
福岡平野全体で二万戸で、他をどう集めても七万戸には届かない

601日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:16:31.13
邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、頭の良くない奥山氏が、論破されたので、興奮してきたな。

602日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:18:32.74
>>528
>これは荷を開封して伝票と付き合わせしているということだよね。

これが勝手な妄想
現代の物流でも、箱の表書きで確認して先へ配達するのであって、
物流拠点ごとに荷解きなんてしないww

>つまり伊都国が最終目的地だったということ。
>伊都からさらに大和に運ぶなら、伊都で荷を解くことはあり得ない。

だから、荷を解かずに確認して、大和に送るんだよw

603日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:18:33.38
墓参りに行く予定が、狂ったので、明後日まで、奥山氏の相手をしてあげればよいね。

604日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:20:32.76
>>603
奥山氏は、僕達の意見に対しては、あまり、討論を仕掛けて来ないな。

605日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:21:03.50
>>77 なるほど!

606日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:21:04.21
>>530
>短里だと筑後平野で里程は終わる。
>つまり筑紫イコール邪馬台国で決着する。

というのが、九州説のほぼ唯一の拠り所だから、
短里などないというのを意地でも認められないww

そのために「島巡り仮説」だの、「水行の起点は帯方郡」だの
無理な珍解釈を発明・発見しないといけないのが九州説ww

投馬国は女王国より以北の国、一つで破綻するのにご苦労なことだ

607日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:22:32.39
>>597
>鏡と剣と玉は、天皇であることを証明する

それみんな、阿波の特産品!  悪しからず。   @阿波

608日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:22:35.84
>>472 >>478 そういうこつ

609日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:22:42.71
>>531
>ヤマトもマキムクも出てこずに、

ヤマト、出てきてるだろ?
邪馬台国って明記してある

伊都国でも「三雲」は出てこないだろ?
纏向という王宮所在地の小地名が出てこないのも当たり前

610日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:23:52.91
>>511
>7万戸もあるのだから、奴国を含む筑紫全体が邪馬台国だよ。

いくら言い張っても、碌な弥生集落遺跡や資源の無い北部九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。   @阿波   

611日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:24:20.67
>>78
女王国は、虚(投馬国以南)実(以北)の2つあるんだよ

612日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:24:33.99
>>539
>屁理屈を積み上げただけw

相変わらず具体的な反論、一切なし

「めぼしい遺跡がない」←事実ww

613日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:25:33.25
>>602
>だから、荷を解かずに確認して、大和に送るんだよw

いや、女王国阿波だけどね。   @阿波

614日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:25:41.10

615日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:25:53.23
>>543
>調べた結果、その東南の方位は半島南岸の固城の沖が起点で、終点は唐津市呼子の加部島となっとることが分かった。

どう分かったんだ?ww
これが、ごまかしの入り口のインチキ

616日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:25:54.35
>>606
>投馬国は女王国より以北の国、一つで破綻するのにご苦労なことだ

必死の論戦も虚しく、語るに落ちて破綻したのは畿内説のほう、いまさら取り返しはつかぬ・・。

617日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:26:24.56
意見を発表します。
古墳が出現した頃の巻向は、人口密度が、低いと思います。
なぜなら、トイレや住宅が発見されないからです。
古墳は、農閑期に回りから来た人民が、交代で、作成しました。
だから、都ではありません。

618日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:27:45.64
>>617
良い意見ですね。。

619日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:28:07.86
>>556
>そもそも魏志倭人伝の南北は対馬ー壱岐ラインだな。
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

このインチキ図を繰り返し貼るの止めろよ
正しい方角はこれ
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

620日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:28:37.35
>>617
>古墳は、農閑期に回りから来た人民が、交代で、作成しました。

その通り。   
ただし、「忌部一族」だけどね。   @阿波

621日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:30:28.67
>>546
>淀川水系は三嶋湟咋の根拠地で、神武の皇妃媛蹈鞴五十鈴媛命の実家筋だよ
>普通に畿内の一部でよい

わかっているから書いたのさ。
畿内の中で中心となるべき場所は淀川水系の一部だろう。
纒向を持ち上げる畿内説に未来はない。

622日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:30:37.37
>>174
>>伊都〜奴=百里  奴〜不彌=百里 <

>その前に、九州説の主張する短里だと「百里=7キロちょい」にしかならないんだよ
奴国2万戸が、幅7キロの帯状の地域に密集してるって考えると笑えてこないか?
団地やアパートのような高層住宅とかない時代にww<

また類スレ主がインチキ騙し。
奴國は伊都国の「東南至奴國百里」と位置指定のみ書かれていて、
途中移動が書かれていないから、魏使らは移動していない。
そして、大体日向峠西麓平野〜早良平野のほぼ全域の広域になるから、二万戸が可能。
そして、不彌國が伊都国の出発地点(おそらく糸島水道の東端)から「東行至不彌國百里」になり、
不彌國の入り口はおよそ姪浜の東端であり、中心地は藤崎西新町付近。
そして、その南に邪馬壹國がある事になるから、邪馬壹國は、
油山山地の東側の福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地。

623日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:31:04.39
>>562
>超重要事項だろそれw

そういうことにしたがるのは九州説だけ

三種の神器セットは、首長層の人気の取合せで、皇統以外の古墳でも普通に見られる
逆にそれが王権のシンボルだというなら、吉武高木でも王は一代だけなのか?という話になる

継続して、三種の神器セットの副葬された墓が一代一つずつあるというならともかく
そんな話はどこにもない

624日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:32:10.60
>>621
>畿内の中で中心となるべき場所は淀川水系の一部だろう。

そこが「忌部一族」の、畿内への橋頭保。

625日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:37:47.31
>>621
>わかっているから書いたのさ。

分かっていたら、畿内の一有力者というだけだと分かるだろうに

>畿内の中で中心となるべき場所は淀川水系の一部だろう。

それが妄想w
複数の有力者の寄り合い所帯がヤマト国の実態だが、その中心が
一時期は河内が亀井遺跡、ヤマトが唐子鍵遺跡
その後、さらに周辺まで巻き込んだ再編共立劇があり、新しい王都を
纏向に作ったんだよ

626日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:38:11.10
>>621
>畿内の中で中心となるべき場所は淀川水系の一部だろう。

理由のない主張をしても他説への批判にはならない
論理的に無理

627日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:41:15.96
>>621
>畿内の中で中心となるべき場所は淀川水系の一部だろう。

そこが「忌部一族」の、畿内への橋頭保。

628日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:45:35.54
>>623
妄想で自己解決して幻想にふけってる

まで読んだw
頭の重病だなw

629日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:47:15.36
>>184
書いてる事全部が、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者らの嘘の指摘なのが、
逆にすげえわ

630日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:49:10.08
>>189
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
議論に負け跡形もなくなり
あとはどうでもいい事書いて荒らして自らを慰める

631日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:49:53.00
>>628
そうそう!
九州説という頭の病は重篤ww

632日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:51:17.60
>>192
こんなふうに、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者には
オウム返しされてしまうされてしまう、という程度の知能しかない
頭の悪いガキしか残っていない
悲惨なことだ

633日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:56:25.18
>>559
>単に、鏡と剣と玉が揃っているだけ

弥生時代だからそれで十分。
なんで後世の墓と比べて貧弱だからとか言うのかな?
その地域でその時代に卓越していれば十分だよ。

634日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:56:40.70
日韓歴史共同研究委員会に参加した古田博司によると、
韓国側研究者について「民族的感情を満足させるストーリーがまずあって、
それに都合のいい資料を貼り付けてくるだけなので、
それ以外の様々な資料を検討していくと、矛盾、欠落、誤読がいっぱい出てくる」、
「要するに『自分が正しい』というところからすべてが始まっており、
その本質は何かといえば『自己絶対正義』にほかならず、
したがって何をやろうと彼らの『正義』は揺らがない」等々、批判的に評している。

日本の学者を拒絶する九州説そのもの

635日本@名無史さん2019/10/11(金) 17:58:14.24
>>197
>1里=70mで1300里は90km。
宇美からだと宇佐、宇部などが同心円上に乗る。
柳川からだと水俣、椎葉村などが同心円上に乗る。
この1里70m説だと、最も有力な邪馬台国の位置は宇佐だよ。
でも、まさかだね。
短里は無理。<

方四百余里の對海國と、方三百里の一大國の、
国内見聞移動を記録しているから、それだけでも萬二千余里であり、
不彌國の直ぐ先に邪馬壹國女王之所都がある事になってしまうね。
長里も大和説もほぼ100%無理だね。

636日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:00:37.35
>>633
>弥生時代だからそれで十分。

それが、継続して伝承されていないという話
単に人気の副葬品がたまたま揃っただけで「王権の所在」は示していない

>なんで後世の墓と比べて貧弱だからとか言うのかな?

平原1号墓が貧弱というのは
「同時代の他地域の遺跡(丹波の大風呂南墳丘墓)」や
「一世代前の同じ地域の遺跡(吉野ヶ里遺跡北墳丘墓)」と比べての話だぞww

637日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:03:23.96
吉武高木遺跡は3号木棺墓でも群集する墓の一つにすぎないので
隔絶した存在である王墓の出現にいたる前の段階と考えられている

638日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:05:04.73
三種の神器は皇室の権威とともに長く伝世したから、神器になったのであって
最初から「三種の神器」があった訳ではない

日本書紀に見られる神器ではない八咫鏡
日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇

別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連(連、未詳何姓人)
奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」

日本書紀に見られる神器ではない八尺瓊勾玉
日本書紀 巻第六
活目入彥五十狹茅天皇 垂仁天皇

昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。
是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」。
因以獻之。是玉今有石上~宮也。

もともとは、「八咫鏡」も「八尺瓊勾玉」も普通名詞として、
三種の神器以外にも使われていたことが分かる

逆に言えば「八咫鏡」も「八尺瓊勾玉」も、それだけでは
王権のレガリアたり得ないことが分かる訳だ

639日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:08:51.83
>>637
>隔絶した存在である王墓の出現にいたる前の段階と考えられている

まあ、特定集団墓の中では第一人者だと思うけれどね

甕棺墓
100号 細形銅剣(1)
109号 管玉(10)
110号 銅製腕輪(2)・勾玉(1)・管玉(74)
111号 管玉(92)
115号 細形銅剣(1)
116号 細形銅剣(1)
117号 細形銅剣(1)・勾玉(1)・管玉(42)・ガラス小玉(1)
木棺墓
1号 細形銅剣(1)・管玉(20)
2号 細形銅剣(1)・勾玉(1)・管玉(133)
3号 細形銅剣(2)・細形銅矛(1)・細形銅戈(1)・銅鏡(1)・勾玉(1)・管玉(95)
4号 管玉(10)

640日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:09:49.21
>>635
島巡りで二重帳簿サギしないと論争のスタート地点にも立てないのが
九州説だよ

641日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:11:44.86
>>213
そういうのを、
「南→東」などの嘘付き騙しで議論に負けた、
負け犬の遠吠えという

642日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:14:24.01
>>220
「南→東」などの嘘付き騙しの指摘に、
反論できない大和説者が、
ダダコネで虚しい抵抗

643日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:14:36.04
>>635
>不彌國の直ぐ先に邪馬壹國女王之所都がある事になってしまうね

すぐ南にあるのに、陸行一月もかかってしまう不思議ww
水行の起点を帯方郡にして、島巡り仮説でごまかしても
水行一万里に十日 物理的に当時の船では不可能
陸行七百里に一月 どんだけのんびり屋さんなんだか
という不合理というか不条理を主張することになるww

引用はザラゴキだが、北部九州説は全部同類だぞww
分かってるのか?ww

644日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:14:58.51
>>633
>その地域でその時代に卓越していれば十分だよ。

つまり田舎大名の証明しかできない
その田舎大名が女王の統率下にあるんだから
伊都は遠方にいる女王が御目付を派遣して監視させてる重要地方都市ということだ

645日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:15:10.13
>>639
剣などの武具が多いね。

防人=物部(モノノフ)だからだろうね。

筑紫物部の遺跡だろうね。

646日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:16:46.15
>>223
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、議論をする前に、
まず人類の常識や倫理や道理とは何かを、
しっかり頭に叩き込んでおくべきだ

647日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:18:32.41
>>645
筑紫忌部(物部)の遺跡だろうね。   @阿波

648日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:21:58.46
>>228
>>投馬國は、女王之所都以南<

>言い張るだけで論証できない九州説の惨めさ そこ、負けると九州説が潰れるのに<

不彌國や邪馬壹國女王之所都付近で、「萬二千余里」がほぼ終わっていて、
投馬國は、それらから「南へ水行二十日」の位置にある、と書かれているから。

649日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:22:36.97
>>646
常識常識って騒ぐのは、ちゃんと証拠で自説を組み立てられないオチコボレだよ

650日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:24:04.46
>>648
つまり我流トンデモ読み集大成の結果だろ
ダメに決まってる

651日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:24:33.54
>>236
>今んとこ出雲説と吉備説が並立だね
どっちでも一応辻褄は合ってる <

「南≠東」などに拠って、×。

652日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:26:17.32
>>648
>不彌國や邪馬壹國女王之所都付近で、「萬二千余里」がほぼ終わっていて、

ということは道里を計っても会稽東治にはるか届かないので、その読み方が間違いだと証明されます

653日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:27:09.94
>>241
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
説ではなくて、背景にあるのは政治運動か宗教活動
バックは政治団体か宗教団体のどちらかの可能性がある

654日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:30:05.53
>>651
>「南≠東」などに拠って、×。

それは
「俺様の説と合わないからお前の説は×だ」
と言っているのだから
論証の方法として失格だよ

655日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:38:32.48
吉武高木遺跡は弥生後期に集落が縮小、後期末には一旦断絶する

656日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:40:24.09
>>241
>>類スレ主は、平原の大量の玉や鏡の事をこっそり隠して、世間の人々を騙そうとしている。<

>こういうデマ流すようになった九州説はもう終わりだな<

「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が、
「平原の大量の玉や鏡の事をこっそり隠した」という事実も隠蔽否定して、
こういうデマ流すようになったから、
大和説者はもう終わりだな

657日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:48:39.00
>>249
>畿内説は学説だから宗教係わるわけないよ 九州説と違って <

「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙しの皇国史観宗教の文言を使い、
それを「学説」だと嘘を付き、
「南→東」などの嘘付き騙しをする大和説男が、まともな人間である筈がないよな。

658日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:49:34.30
>>655
>吉武高木遺跡は弥生後期に集落が縮小、後期末には一旦断絶する

その頃には野方遺跡が充実してくるから、早良平野の中心が移動したってことで
よいだろう

659日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:51:21.86
>>253
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
キョクウ系の皇国史観国粋主義の政治活動と見ればあまりに実効性がなさ過ぎる
今やってる事はただの嫌がらせに近いからな
論破されても同じこと延々とくり返すのはやはり背景にある団体の
宗教的な信念信条のようなものが反映されている結果ではないだろうか

660日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:54:59.10
>>254
>学会の定説
宗教の教条ではなくて<

学会そのものが、「南→東」などの嘘付き騙しで、
キョクウ国粋の殺戮戦争狂の皇国史観大和説に狂った・・・・アホ詐欺師人種。
怖い怖い。

661日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:55:34.91
>>568
>何度も言うが、平原1号墓の46センチ鏡は皇室の神器たる「八咫鏡」とは無関係

キナイコシの言うことは誰も信じていないよ。

662日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:56:03.67
>>567
>巨大墳丘墓が作れるだけの大動員ができるなら、
>それがそのまま兵力として動員できることにどうして気づかないかな?

地域も時代も違うものを比較しても意味がないんだよ。

663日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:56:08.76
>>255
真実のためというなら、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説を
叩き潰さなきゃ

664日本@名無史さん2019/10/11(金) 18:57:30.67
>>572
>後漢や魏代の舶載鏡が一面も出ない平原1号墓がどうしたって?

おいおい、宝飾品は無視かよ。
逆に卑弥呼なら大きい鏡があれば、その他の鏡はおまけだよ。
それより首飾りや耳飾りだよ。

665日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:01:26.09
>>623
>逆にそれが王権のシンボルだというなら、吉武高木でも王は一代だけなのか?という話になる

見つかっていない墓がまだたくさんあるんだろう。
もしくはすでに開発によって破壊されたか。

666日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:02:44.64
>>664
>それより首飾りや耳飾りだよ。

それも、倭国(阿波)。  わははははは   @阿波

667日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:04:22.84
>>625
>分かっていたら、畿内の一有力者というだけだと分かるだろうに

これって三島鴨一族のこと?
畿内説の鴨はこれこそ王家と呼んでいるんだろ?
実際、第2代天皇以降はその血筋だから、あながち誤りではない。
一有力者というのはやや過小評価な気がする。
まあ、色眼鏡で過小評価するのは君のいつもの悪い癖だな。

668日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:06:07.35
>>626
関西の地理を知っていれば当然だよ。
古代においては日本海ルートと瀬戸内海ルートを繋ぐのが琵琶湖淀川水系なんだ。

669日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:06:26.37
>>656
>「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が、
>「平原の大量の玉や鏡の事をこっそり隠した」という事実も隠蔽否定して、

そんなことした人はいない
九州説による捏造だよ

670日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:10:11.27
>>636
>それが、継続して伝承されていないという話

代替わりごとに三種を揃え直したのだろう。
冊封体制から言えば、即位するごとに漢に遣いを送って倭王の承認が必要なはずだし。
それはつまり新しい鏡が皇帝からもらえるということだ。
だから王位だけ継承して、三種の神器は更新されたんだろう。
三種の神器が副葬されているという事実からそう考えるべきなんだ。
そして、漢が滅びた卑弥呼より後は、少なくとも八咫鏡は副葬しなくなったことになる。

671日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:10:12.82
>>668
>>626
>関西の地理を知っていれば当然だよ。
>古代においては日本海ルートと瀬戸内海ルートを繋ぐのが琵琶湖淀川水系なんだ。

それが無知の典型
加古川ー由良川ルートを知らないのは異常

672日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:12:34.40
つまり、朝鮮人が宣伝していた邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだな。

673日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:15:01.03
>>672
やはり、分かりますか。

674日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:18:53.94
マンガーノという女優は、マンガーノ氏と関係性があるのだろうか、、、

675日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:19:22.31
加古川、淀川桂川木津川と大和川、そして紀ノ川
こういう河川交通ルートを掌握したのが大和政権だ

676日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:20:17.63
>>658

中心もなにも早良平野の遺跡は後期までに多くが廃絶し
野方遺跡と飯倉遺跡くらいしかない

677日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:24:57.35
>>673
九州説は自演が大好き

678日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:27:21.05
バンビシャスが、邪馬台国で死闘を繰り広げているな、、

679日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:30:49.53
まともな人間なら日向峠や広石峠が自然国境だとわかりそうなもんだけどねえ
まったく九州説ってやつは、・・・

680日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:31:05.48
>>675
こういう河川交通ルートを掌握したのが「忌部はん」 だ。   @阿波

681日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:35:46.34
>>679
だからお前の脳内幻想なんか誰にも見えないんだから気付けよ糖質

682日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:36:18.03
>>675
こういう河川交通ルートを掌握したのが「忌部はん」 だ。   @阿波

683日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:39:06.24
>>681
>だからお前の脳内幻想なんか誰にも見えないんだから

脳内幻想と決め付ける根拠は?
だだ単に反論できないからかな?

684日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:41:06.47
>>681
妄想大好き九州説さん
そこに峠がある事実は誰にでも見えますよ

685日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:44:55.31
>>675
こういう河川交通ルートを掌握したのが「忌部はん」 だ。   @阿波

686日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:45:04.52
河川交通ルートというルートは、どのようなルートなのだろうか、、、

687日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:45:29.74
>>684
タイムマシンで当時を見てきましたというならその証拠を出せよ。

688日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:46:02.76
>>686
「忌部はん」 が使うルート。   @阿波

689日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:46:50.20
>>638
>三種の神器は皇室の権威とともに長く伝世したから、神器になったのであって

主観的な主張。
根拠なし。
いつ作られたのかも特定せずに不毛な意見だ。

690日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:47:02.82
>>687
また異常なことを言い出す九州説
峠は移動しないよ

691日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:47:50.78
ルートは、二つの英語の単語を表す言葉だったね。

692日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:48:26.75
>>645
物部の祖は天孫ニギハヤヒ。
れっきとした王だよ。
そもそもヤマト王権の主権は物部氏にあったのかもしれないぞ?

693日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:49:05.61
>>649
>>646
>常識常識って騒ぐのは、ちゃんと証拠で自説を組み立てられないオチコボレだよ

キナイコシに言ってやれよ。

694日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:50:16.53
>>691
今、このスレッドで話題になっているルートは、rootのことではなく、routeのことなのではないのかな、、、

695日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:50:20.91
>>692
「物部氏」の祖神とされている「伊加賀志許賣命・伊加賀色許雄命」が

日本で唯一、阿波國麻殖郡 「伊加々志神社」で祀られていることから、物部氏の本貫地は旧麻植郡周辺の可能性が高い。

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

696日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:51:11.73
>>658
>>655
>>吉武高木遺跡は弥生後期に集落が縮小、後期末には一旦断絶する

>その頃には野方遺跡が充実してくるから、早良平野の中心が移動したってことで
>よいだろう

そうそう。
キナイコシはその場限りの方便を駆使するから、違う地域の墓と比べて云々と言った舌の根も乾かないうちに同じ地域内で仮想の「興亡」をでっち上げる。

697日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:51:20.10
根の国は、何処なのだろうか、、、

698日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:52:25.43
>>638
>>三種の神器は皇室の権威とともに長く伝世したから、神器になったのであって

九州説は、その神鏡が径八寸程だったという平安時代の目撃記録を無視するのかね?

699日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:52:43.74
>>692
「先代旧事本紀 巻五 天孫本紀」では饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖神と仰ぎ、六代目にあたる伊迦賀色許売(いかがしこめ)、

伊迦賀色許男(いかがしこお)姉弟は、倭の土着豪族として朝廷に仕えた蘇我氏、葛城氏、物部氏の祖にもあたる。   @阿波

700日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:52:54.54
バンビシャスは、逃げきれるだろうか。。。

701日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:53:05.88
>>676
>>658

>中心もなにも早良平野の遺跡は後期までに多くが廃絶し
>野方遺跡と飯倉遺跡くらいしかない

伊都国に移動するからだよ。
山一つ隔て別の勢力なわけないだろ。
口先だけのクズ

702日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:54:07.18
その、伊迦賀色許男(イカガシコオ)姉弟は、

日本で唯一、忌部の郷、徳島県旧麻植郡の延喜式式内社「伊加々志神社」に祀られている。

「伊加加志」(イカガシ)を社名・御祭神とする神社は、全国でここ一箇所だけなのである。

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

703日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:54:54.41
>>679

畿内の政権は西日本全域に影響していたことにして、福岡はさらに細分化?
ご都合主義だな。
誰もキナイコシの言うことは信用しなくなるよ。

704日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:56:27.29
素数の平方根は無理数なのだったな。

705日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:56:28.84
>>703
>誰もキナイコシの言うことは信用しなくなるよ。

@阿波の言うことだけ信じればよい!  わははははは   @阿波

706日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:57:34.07
>>696
>キナイコシはその場限りの方便を駆使するから、違う地域の墓と比べて云々と言った舌の根も乾かないうちに同じ地域内で仮想の「興亡」をでっち上げる。

同じく時代の違う地域の墓と比べて小さい
同じ地域内の中で連続性がないので「興亡」してる

だから王朝は無い
なにか問題でも?

707日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:57:40.09
素数の全ての根は、無理数なのだろうか、、

708日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:58:09.74
>>703
>誰もキナイコシの言うことは信用しなくなるよ。

@阿波の言うことだけ信じればよい!  わははははは   @阿波

709日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:59:07.77
>>679
葛城山は自然国境にはならないのかよ。
下らないダブルスタンダードだな。

710日本@名無史さん2019/10/11(金) 19:59:22.52
>>703
>誰もキナイコシの言うことは信用しなくなるよ。

ひとは理由もなく突然他人を信用しなくなったりしない

711日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:00:57.65
>>698
>九州説は、その神鏡が径八寸程だったという平安時代の目撃記録を無視するのかね?

もう改鋳されていたんだろうね。
そんな何百年も後世の目撃情報は意味をなさないよ。

712日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:02:23.84
>>703

西日本全域じゃない
コマビト異人地域はまだ関係ない
福岡は倭人伝でも2万戸の奴国と千戸の伊都国は別の国

713日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:03:12.15
>>706
>だから王朝は無い

ないことにしたいわけだ。
畿内説に都合が悪いから?
まあそうだろうなあ。
遡れば遡るほど、博多湾沿岸のみが倭国になるもんな。
その王朝を認めたら、自分の「信念」が瓦解するものね。
キナイコシとしては必死なわけだ。

714日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:04:01.83
>>712
邪馬台国と投馬国は、奴国などとは別情報だよ。

715日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:04:59.30
>>714

別情報って?

716日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:07:45.64
>>713

博多湾沿岸は倭人特有の風習である卜骨が一欠けらも出てない

717日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:08:58.18
情報源は知らないが、道すがら尋ねて集めた道中の国々の人口とは別に、
「女王の国の人口はどれくらい?」
「七万戸でございます。ただし隣の投馬国は五万戸ございます」
「投馬国?それは通過してないよね?」
「左様でございます。投馬国とは隣の国ですが、女王とは対立はしておりません」
などというやりとりがあったのだろう。

718日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:10:00.13
>>716
途中の壱岐で見ていたはず。
それは「倭国の一般の風俗の情報」じゃなかったのかよw
このダブスタ

719日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:11:53.69
>>717

作り話は孫にでも聞かせてやれ

720日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:13:09.74
>>718

壱岐だけで見て他国ではどこもその風習がなかったら
倭人の風習じゃない

721日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:19:01.55
>>720
いく先々で毎日卜占を見学させられたら嫌だろ?
だから壱岐で一回見ればいいんだよ。
見学ツアーというか物見遊山のようなものなんだから。

722日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:21:07.37
>>721
阿波の遊山箱を持って行くといいよ。  わははははは   @阿波

723日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:24:08.35
>>721

中継地の壱岐は楽浪生活土器も韓系土器も出るから
倭人だけが住んでるわけじゃない
倭国本土でどこもやってないなら倭人の風習ではない
九州説は韓濊でも持っている鉄、絹は根拠にするが
東夷伝で倭人伝にしか書かれていない卜骨はなくてもいいと主張する

724日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:25:17.46
>>723
阿波の遊山箱を持って行くといいよ。  わははははは   @阿波

725日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:29:28.87
バンビシャスが、死闘を繰り広げているな。

726日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:30:29.60
バンビシャスが、逆転した。。

727日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:40:00.74
マンガーノ氏が、良いな。

728日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:45:01.83
>>717
>「左様でございます。投馬国とは隣の国ですが、女王とは対立はしておりません」
>などというやりとりがあったのだろう。

九州説の欠陥を妄想でカバーできる?


無理だね
w
w
w

729日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:46:28.73
邪馬台国畿内説が、完全に破綻したのだから、このスレッドは、バンビシャスの実況のためのスレッドにすれば良いな。

730日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:46:56.42
>>728
妄想でカバーしまくりだよ、九州説は。  わははははは   @阿波

731日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:49:06.03
バンビシャスが、勝った。

732日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:50:27.16
バンビシャスは、邪馬台国で、銅鐸民族の怨恨を晴らすことができたのではないのかな、、、

733日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:50:35.84
>>713
>遡れば遡るほど、博多湾沿岸のみが倭国になるもんな。

時代とともに変化があるのは歴史の当善


>キナイコシとしては必死なわけだ。

平静に当善のことを言っている

734日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:51:48.09
明日も勝てば、良いね。

735日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:56:52.77
当善、、、
は、
当然、、
とタイアップしたかったのだろうか、、

736日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:59:34.04
>>735
当善、、、
は、
当然、、
とタイアップしたかったのだろうか、、
という文章は、
当善、、、
は、
当然、、
とタイピングしたかったのだろうか、、
と、タイピングしたかったのではないのかな、、、

737日本@名無史さん2019/10/11(金) 20:59:38.09
半島人

738日本@名無史さん2019/10/11(金) 21:01:04.63
邪馬台国畿内説が、完全に破綻したのだから、このスレッドは、バンビシャスの勝利を賞賛しるためのスレッドにすれば良いな。

739日本@名無史さん2019/10/11(金) 21:02:47.49
>>738
邪馬台国畿内説が、完全に破綻したのだから、このスレッドは、バンビシャスの勝利を賞賛しるためのスレッドにすれば良いな。
という意見の発表は、
邪馬台国畿内説が、完全に破綻したのだから、このスレッドは、バンビシャスの勝利を賞賛するためのスレッドにすれば良いな。
とタイピングしたかったのではないのかな。。。

740日本@名無史さん2019/10/11(金) 21:05:48.52
邪馬台国畿内説が、完全に破綻したのだから、このスレッドは、バンビシャスの勝利を賞賛するためのスレッドにすれば良いな。

741日本@名無史さん2019/10/11(金) 21:10:29.62
僕達の故郷の邪馬台国のチームも、称えれば良いな、、、

742日本@名無史さん2019/10/11(金) 21:12:03.36
倭人伝に記された卜骨は
弥生前期の出雲の山陰やヤマト王権誕生の奈良の遺跡に初めて表れ
記紀に伊弉諾尊・伊弉冉尊が国土生成のおり,
いかにして良き子を得ることができるか問うたところ,
天神が太占によって占って教えてくれたとみえる
我国の歴史を考察するうえで非常に重要な祭祀文化

743日本@名無史さん2019/10/11(金) 21:19:58.39
魏志倭人伝時代の倭種とは少し異なる民族の、銅鐸王国の王家の本部だった畿内に、台風19号が、近づいてきたな、、、

744日本@名無史さん2019/10/11(金) 21:22:02.68
遠出する予定だったので、食品の蓄えが無い。。

745日本@名無史さん2019/10/11(金) 21:22:52.37
明日も勝てば、良いね。

746日本@名無史さん2019/10/11(金) 21:37:21.72
>>742
>我国の歴史を考察するうえで非常に重要な祭祀文化

祭祀といえば、「忌部一族」。   @阿波

747日本@名無史さん2019/10/11(金) 21:59:45.39
孫が、来た。。。

748日本@名無史さん2019/10/11(金) 22:09:53.16
>>742
>我国の歴史を考察するうえで非常に重要な祭祀文化

祭祀といえば、「忌部一族」。   

神道、鳥居と言えばやっぱり忌部の郷でしょう。

忌部の郷 徳島県吉野川市山川町忌部山字黒岩 

「忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)」
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

749日本@名無史さん2019/10/11(金) 22:11:34.11
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。

また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。

大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。

大麻といえば、阿波忌部。 

『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』  『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』

卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。   

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

750日本@名無史さん2019/10/11(金) 22:41:57.60
忌部の後裔斎部広成の編纂した古語拾遺には
殺牛祭祀の形態が見られ半島系の色彩が濃い
新羅で殺牛祭祀をした事を刻んだ古碑が発見されている
奈良県御所市の南郷遺跡から出土した牛骨が日本最古の資料とされる

751日本@名無史さん2019/10/11(金) 22:49:18.43
>>262
延々と「南→東」や「冢→前方後円墳」や「大和の庄内3世紀末→3世紀前半?」や、
「平原の大量の玉や21枚の尚方作鏡の隠蔽」などの嘘吐き騙しを唱えて、
どうも大和説は、念仏かお題目を唱えてるに等しいから、
日蓮宗系とかのセンもあるなあ

752日本@名無史さん2019/10/11(金) 22:49:53.26
日本産の麻に含まれているカンナビノイドの代表的なTHC含有量に関する研究によると、
本州の在来種のTHC含有率は0.08〜1.68%であった。
麻の来歴を調査した西岡五夫氏の研究によると、
日本産の麻は繊維型であるCBDA種であったことが報告されている。
精神活性作用をもたらすにはTHCが2.5%以上含まないと効果がないことから、
日本の在来種の中にもマリファナ効果が期待できるものはあるが、
海外で医療利用されているTHC8〜25%の品種と比較するとかなり低濃度であることが分かる。

753日本@名無史さん2019/10/11(金) 22:55:10.34
>>264
>言い張ってるんじゃなくて事実だし
そもそも邪馬台国は畿内という宗教信条で活動している宗教団体なんて聞いたことある?<

あるある!。
日本のキョクウ天誅標榜の、
「畿内や邪馬台国のような存在もしない嘘つき騙し文言」や、
「南→東」などの嘘吐き騙しの、
大和説宗教の学会教育界。

754日本@名無史さん2019/10/11(金) 22:56:19.39
七味唐辛子は、大麻を発芽させてしまう可能性が、否定仕切れないのだったな。

755日本@名無史さん2019/10/11(金) 22:56:23.46
>>265
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者よ
こんな所で宗教活動してても何にもならないからな

756日本@名無史さん2019/10/11(金) 22:57:24.60
>>750の追加

御所市南郷遺跡出土の牛骨は5世紀ころ

757日本@名無史さん2019/10/11(金) 22:58:08.21
邪馬台国はヤマト国
他の畿内はまた別の国

758日本@名無史さん2019/10/11(金) 22:58:58.80
七味唐辛子は、かけ過ぎると、咳き込ませられてしまうのだったな。。

759日本@名無史さん2019/10/11(金) 22:59:51.27
>>269
「畿内や邪馬台国などの存在もしなかった嘘吐き騙し文言」を使うのや、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説者こそ
怨恨の精神で書き込みするのをやめたら?

760日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:00:30.31
邪馬台国に、行けば良かったな、、、

761日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:02:08.73
夫餘で方可二千里 戸八萬
高句麗で方可二千里 戸三萬
大和に七萬餘戸は無理

762日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:07:58.08
>>274
>三角縁神獣鏡の笠松文様と呼ばれるものは
遼陽漢魏壁画群(北薗壁画墓)に描かれている黄幢だろう<

検索してみたけど、「黄幢」のような画は見つからなかった。
この掲示板に出してみて?。

763日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:10:53.12
>>664
>おいおい、宝飾品は無視かよ。
>逆に卑弥呼なら大きい鏡があれば、その他の鏡はおまけだよ。
>それより首飾りや耳飾りだよ。

ガラス管玉の類いは、丹波の弥生王墓の方が豪華だと何度教えれば覚えるんだ?

お前、バカだろ?
亜原田君かな?w

764日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:11:22.67
>>275
「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
史料事実や考古物証や学説的にでとっくに否定されてる話を、
延々書き込むのは荒らし

765日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:13:45.99
>>279
定説宗教団体はとっくにないし
怨恨と先に言い出したのは大和説者
大和説は、自分が宗教団体だから相手を宗教団体扱いするのか

766日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:15:53.03
>>689
>いつ作られたのかも特定せずに不毛な意見だ。

八咫鏡は神武から崇神までの間に畿内、唐古鍵周辺で作られたんだよ
面径は一尺弱、八寸という伝えがある

これが大体三角縁神獣鏡の大きさとも一致する

767日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:21:01.28
>>294
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説のバックが、
安部自民文部省でも、右翼学会教育界やマスコミでも、
キョクウ赤報隊でも、創価でもオームでも統一でも、
いくら金つぎ込んでも
九州説がもう国民の定説なのは動かないからな
ノーベル賞に同じ

768日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:25:27.82
>>304
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説というか
国粋皇国史観儒教朱子学は、歴史修正主義どころか学問修正主義
史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しをやるなんて、
非常識な事この上なし

769日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:28:31.68
>>308
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使い、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
学説ではなく偽説だけれど

770日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:32:02.25
>>314
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は
社会の常識なんて嫌いだ、
オレサマのルールで腐った「人類の常識」を作り変えてやるぜの
中学生ぐらいの年齢で精神の成長が止まっているのだな

771日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:35:43.13
>>635
魏の公里は1里435mとされているね。
倭人伝にある1万二千余里は、誰かも言っていたように「遠いところ」の代名詞と考えるのがよい。
1万二千余里を実数だととらえると、ニューギニアあたりになってしまうが、まさに「遠いところ」だよ。
これが実態だね。

ところで、対馬の方四百里、壱岐の方三百里も実際に測った距離であり、その距離もふくめた1万二千里は不彌国のすぐ先あたりになるというのはどういう計算なのか理解できんね。
狗邪韓国まで七千里、巨済島〜対馬千里で計八千里。これに対馬を実測した里数千六百里を加えると九千六百里。それから壱岐までの千里も入れると一万六百里。壱岐の方三百里=千二百里を足すと一万一千八百里になる。ほぼ一万二千里だね。
それにまだ末盧まで千里あるし、それに不彌までの七百里を加えると総数一万三千五百里なので、完全にオーバーしてしまう。
まあ、壱岐に邪馬台国があったというのなら、計算上はそれはそれでOKだけどね。

いずれにしろ、わけが分からんというのが正直なところ。
一万二千里は「遠いところ」の代名詞だよ。

772日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:37:03.51
>>696
>同じ地域内で仮想の「興亡」をでっち上げる。

お前はもの知らずだから「同じ地域」ってのを考えなしに使っているだろう?ww

早良平野は室見川流域がまず一つの治水共同体としてまとまり、その頃の中心が高木遺跡周辺
その後、福岡平野全体が奴国としてまとまり、早良平野の中心が伊都国(三雲)と
奴国中枢(比恵那珂遺跡群)を結ぶ交通路上の野方に移るんだよ

773日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:37:37.72
>>315
明かだろ
大和説者がこのスレで、最初に「朝鮮人だ」とかの人種差別発言をし、
異常な罵声を垂れ流してる、という事実は証拠がたっぷりあったね
九州説者からそんなことをから言い出した、という証拠はない
そして、九州説者が、それにオーム返しのように言い返した、
つまりそれが大和説が先に言ってるって証拠さ

774日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:39:53.66
>>701
>山一つ隔て別の勢力なわけないだろ。

弥生後期のクニは治水共同体
山は当然に自然国境になる

775日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:40:07.40
>>318
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説を書き込んでるを大和説者の年齢は、
恐らくいい年なんだろうけど
その年まで精神性が中学生ぐらいからまるで成長してないとは、
悲惨よのお

776日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:42:57.33
>>703
>畿内の政権は西日本全域に影響していたことにして、福岡はさらに細分化?

畿内だって、有力首長の連合体だぞ?
それがヤマト国という共同体を作っていたんだよ

そうした共同体同士の談合の結果、卑弥呼が共立されたというのが畿内説の基本的な考え方

777日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:43:31.99
>>319
>>平原1号は、副葬品が豪華であり大事。
おそらく、臨時女王で薄葬令に縛られた壹與の墓。<

>>447墓が小さくても副葬品が豪華でそれが女王の証拠になるなら、
5世紀の女王というか最高位の女性は奈良の新沢千塚126号墳墓の被葬者になるのだが、
そんなこと誰も言ってないし、あんたも言ってないはず。
なんで九州にだけ副葬品が豪華なら女王なんて尺度を当てはめるのだ?<

3世紀の列島にとっては、最高級の副葬品の質や量だから。

778日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:46:53.74
>>711
>そんな何百年も後世の目撃情報は意味をなさないよ。

半島や大陸では前王朝のものを全部壊してしまうけれど、
この日本では実際に2000年の伝世鏡が確認されている

皇室に伝世されていたものを信じないというのは
日本sageのイデオロギーん持ち主なんだろうね

779日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:52:42.07
>>761
>大和に七萬餘戸は無理

邪馬台国七萬戸の範囲は畿内第V様式土器を使っていた範囲
投馬国五萬戸は丹波以西の四隅突出墓文化圏の範囲

780日本@名無史さん2019/10/11(金) 23:59:40.38
>>773
>大和説者がこのスレで、最初に「朝鮮人だ」とかの人種差別発言をし、
>異常な罵声を垂れ流してる、という事実は証拠がたっぷりあったね

あるなら出して見せろ
出せなければ、あると言った>>773
嘘つきだと判明する

781日本@名無史さん2019/10/12(土) 00:02:47.32
>>323
「南→東」などの同じ嘘吐き騙しの内容を、
念仏のごとく繰り返し事をする大和説は、
宗教団体

782日本@名無史さん2019/10/12(土) 00:05:27.01
>>326
どちらが学問的に倫理的に正しいかではなく
「南→東」だーという大声出し続けた方が勝ち、
というソント方式を取り入れた新たな学問スタイルの大和説

783日本@名無史さん2019/10/12(土) 00:07:45.81
>>327
>でも卑弥呼やトヨが豪華な副葬品を埋葬したなんて誰が決めたのかな<

副葬品の質と量が決めるの。

784日本@名無史さん2019/10/12(土) 00:20:06.39
>>204
狗奴国を別府や宮崎にするのはいささか躊躇だね。
それに、宇佐から東に千里(70km)の倭種の国は周防屋代島、あるいは愛媛八幡浜あたりになるから、
倭人伝がそこの人民も倭種だと断るまでもなく宇佐の人には周知のことなので、わざわざ書き入れることもないのにと不審になるね。
それに、周防屋代島付近や愛媛八幡浜あたりの人民が倭種だからと言って、それがどうしたのかという疑問も生まれる。
このように倭人伝の記述と合わないことがあるね。

785日本@名無史さん2019/10/12(土) 00:25:49.50
>>778
>半島や大陸では前王朝のものを全部壊してしまうけれど、

7世紀に謎の文化的断絶があるよ。
邪馬台国も文字を使っていたはずなのに、7世紀以前の文献は皆無。
建物も彫像も出自が不明のものだらけになり、なぜか文法まで変わっている始末。

786日本@名無史さん2019/10/12(土) 00:27:53.88
>>778
>皇室に伝世されていたものを信じないというのは

三種の神器のことかい?
いつから伝世していたか不明なんだろ?
立場をコロコロと変えると信用されなくなるぞ。
2000年前ということは、八咫の鏡が前漢鏡だとでもいうのかい?
それならきっと平原遺跡と同じ内行花文鏡なんだろうねえw

787日本@名無史さん2019/10/12(土) 00:29:13.20
>>776
>そうした共同体同士の談合の結果、卑弥呼が共立されたというのが畿内説の基本的な考え方

魏の使いが大和まで来た記録がないし、纒向からは帯方郡の土器が出ない。

788日本@名無史さん2019/10/12(土) 00:31:31.36
>>771
最初の一行だけで、あとは読む価値がないとわかるよw

789日本@名無史さん2019/10/12(土) 00:33:55.63
>>766
>八咫鏡は神武から崇神までの間に畿内、唐古鍵周辺で作られたんだよ

神武の年代もわからないのによく言うよ。
皇紀2600年だとか言い出すんじゃないだろうな。

>面径は一尺弱、八寸という伝えがある

根拠を示せ。
それが正しいという理由もつけてな。

790日本@名無史さん2019/10/12(土) 00:35:47.74
>>763
>ガラス管玉の類いは、丹波の弥生王墓の方が豪華だと何度教えれば覚えるんだ?

違う地域と比べてどうする。
それに年代だって、20年もズレたら違う王の時代になるから意味がない。
そんな精度でどちらの王墓も年代を特定できていない。
つまり場所も時代も違うものを比較している可能性の方が高い。

791日本@名無史さん2019/10/12(土) 00:37:58.42
>>742
>弥生前期の出雲の山陰やヤマト王権誕生の奈良の遺跡に初めて表れ

時代が違うものをごっちゃにするなよ。
出雲、筑紫(壱岐も含めてね)、大和の順だろ。

792日本@名無史さん2019/10/12(土) 00:38:20.71
>>741
>僕達の故郷の邪馬台国のチームも、称えれば良いな、、、

君の故郷はどこなんだ?

793日本@名無史さん2019/10/12(土) 00:39:51.37
>>723
壱岐は倭人伝に書かれているのだから、当然倭国だよ。
それよりもあんたはなんで壱岐を朝鮮側に渡そうとするんだ?

794日本@名無史さん2019/10/12(土) 00:43:24.41
>>784
>それに、周防屋代島付近や愛媛八幡浜あたりの人民が倭種だからと言って、それがどうしたのかという疑問も生まれる。

宇佐説を支持するわけではないが、周防についての情報が役に立たないわけではない。
後漢は博多湾の倭国と交流して、倭国が半島の南側の島だと思っていたが、倭国の東側にも別の陸地があって、そこにも仲間がいると言うのは、中国人にとっては予想以上に倭国が大きく感じられることになるんだよ。
その情報がもたらされたのは、中国側からわざわざ博多湾まで行った甲斐があったんだよ。

795日本@名無史さん2019/10/12(土) 00:45:46.94
>>261
平壌〜阿波まで直線で1000km。
1里70mだと1万4300里。
残念〜!

796日本@名無史さん2019/10/12(土) 00:54:28.67
>>789
>>面径は一尺弱、八寸という伝えがある

>根拠を示せ。
>それが正しいという理由もつけてな。

扶桑略記が確実な目撃証言だな
天徳4年に内侍所が火災にあったとき無事回収された神鏡と明記されてる

それが八寸

797日本@名無史さん2019/10/12(土) 01:03:20.71
>>791

我々日本の研究では
島根は前期、鳥取と奈良は前中後期古墳初頭
壱岐は弥生中期
九州島は弥生後期以降にならないと出ない
柳川、佐賀の2ヶ所だけ
本州は岡山〜関東まで広範囲に数多く出ている
四国は愛媛の前期〜古墳初頭

798日本@名無史さん2019/10/12(土) 01:05:01.20
>>793

何言ってるのかわからない

799日本@名無史さん2019/10/12(土) 01:23:41.29
半島へ渡海する際の九州側の最後の港の加部島にある田島神社の祭神は、宗像三神だった。
5世紀頃からは航海守護神は綿津見神や筒男神ではなくなっていたということか。
なにやら衝撃波が起こってくるな。

800日本@名無史さん2019/10/12(土) 01:41:00.29
>>797
>島根は前期、鳥取と奈良は前中後期古墳初頭

これ、ばかが誤読するかも知れないから補足しとくと
「島根は前期(弥生)、鳥取と奈良は前中後期(弥生と)古墳初頭」な

801日本@名無史さん2019/10/12(土) 02:54:43.97
>>550
「歴韓国乍南乍東」の読みは「韓国を歴(へ)てたちまち南したちまちち東し」。
この「歴」を「へて」と読む場合は「並んだ点を次々と通る」の意味である。
この「次々に並んださま」は、歴然というように「はっきりと区別されているさま」を表し、
これを水行と合わせると「韓国の港を次々に通って」の意味になる。
また、「乍南乍東」は韓国南部の多島海を南に進んだかと思うと今度は東に進んで」の意味であるので、
ちょうど韓国の南西部の角にあたる珍島で舵を大きく切って巨済島方面へ進むことを表現している。
このように、巨済島あたりまでの全行程を水行することになんの支障もない文章である。

倭武王の上奏文は、倭人伝とは逆に倭から魏へ行く航路を前提とした文章である。
この文章は「道遥百済、装治船舫」で、「遥」は南史では「逕」となっている。
「遥」も「逕」もともに「へて」と読んでいるが、南史の「逕」は「通る」の意味。
問題は「遥」である。この遥は遠い、長いの意味であるが、動詞として用いる時は「ゆらゆらとゆれる」の意味になる。
このことからすると、船に揺られながらの意味になる。
この倭の武王の上奏文においても船が用いられていることが分かる。

倭人伝でも、倭武王の上奏文でも、陸上を行く意味を表す語彙はどこにもみられない。

802日本@名無史さん2019/10/12(土) 03:00:19.24
>>552
自分の論を立てられない情けなさが文字のあいだに漂っているぞ。

803日本@名無史さん2019/10/12(土) 03:20:24.10
>>575
いやいや、当方が想定している渡海の起点は行橋市あたり。
海の終点は河内湖にあった大和川河口あたり。
下関の方には行かないよ。
倭種の国は大和周辺の国々だから、北部九州にあった倭国とは別よ。

804日本@名無史さん2019/10/12(土) 03:42:46.80
>>615
なにをいっとるの?
魏略も倭人伝も書いている「倭は東南大海の中にある」というその「東南」の方位は、誰が、いつ、どこで判定したのかという問題なのよ。
お主が決めたのか。

805日本@名無史さん2019/10/12(土) 04:11:35.06
古代史の分野には割とよく自己顕示欲爆発系の無能が自爆デビューする
特徴は無学と自意識過剰

806日本@名無史さん2019/10/12(土) 04:21:49.98
>>788
短里は幻想よ。

807日本@名無史さん2019/10/12(土) 04:40:37.76
>>794
お主が言うように、倭種の国があるという情報は、卑弥呼の倭国と冊封関係を結ぼうとしていた魏にとっては、極めて重要な情報だったのよ。
だから、冊封関係を結ぶ実務協議のために倭国を訪れた使節団は、報告書にその情報を特記したわけだね。
千里といえば大和とその周辺までの距離。
間には周防も吉備もあるのに、報告書ではそれらの国にはまったく言及せずに大和周辺の倭種の国だけを取り上げた。
この3世紀前半中頃の時期としては、纏向石塚古墳や矢塚古墳、勝山古墳などが造られた時期に当たり、大和に結集した勢力が活発な活動を進めていた。
このことは、当然卑弥呼の倭国も注視していたのだろう。
魏の使節団の調査に対して、その大和のことをつぶさに話したと思われる。
だから、魏は卑弥呼に親魏倭王の称号を授けたときに、すでに大和のことは承知していたと思われる。
その後、狗奴国が邪馬台国に攻め込んで、その報告が帯方郡に届いたとき、帯方郡の役人たちはピンときたということではないか。

808日本@名無史さん2019/10/12(土) 04:48:00.70
>>807
それが
「女王国東渡海千余里、復有国皆倭種」の一言だって

妄想乙

809日本@名無史さん2019/10/12(土) 05:07:51.61
>>807
訂正

上から6行目の「周防」は「安芸」が正しい。

810日本@名無史さん2019/10/12(土) 05:11:16.97
>>808
書いとる文章の意味が分からんな。

811日本@名無史さん2019/10/12(土) 05:17:42.61
>>807
訂正

一行目の文章が欠落してるな。
「お主が言うように、倭種の国があるという情報は、卑弥呼の倭国と冊封関係を結ぼうとしている魏にとっては、極めて重要な情報だったのだ。」
これを再掲する。

812日本@名無史さん2019/10/12(土) 05:18:14.56
>>776
>そうした共同体同士の談合の結果、卑弥呼が共立されたというのが畿内説の基本的な考え方

そんな夢物語は、もはや通用する時代じゃないんだよ。  トンデモ畿内説さん。   @阿波

813日本@名無史さん2019/10/12(土) 05:22:48.30
>>808
この一行から、それくらいの背景が読み込めんようじゃ、お主もモグリだわ。

814日本@名無史さん2019/10/12(土) 05:23:30.40
>>779
>邪馬台国七萬戸の範囲は畿内第V様式土器を使っていた範囲

未だに勘違いをしている!

畿内第V様式土器はあくまで、厚型重量弥生式土器。 そんなものの文化斉一性に意味はない。

文化的斉一性が見られるのは、軽量薄型丸底土器。 いわゆる「東阿波型土器」なのである。   

鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。

中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。

企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。 土器製作専業集団によるものだろう。

類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。   @阿波

815日本@名無史さん2019/10/12(土) 05:25:14.98
>>779
>投馬国五萬戸は丹波以西の四隅突出墓文化圏の範囲


その「四隅突出墓」も倭国(阿波)発祥!   

萩原1号墳・萩原2号墳・足代東原1号墳・奥谷2号墳   @阿波

816日本@名無史さん2019/10/12(土) 05:32:53.69
>>813
中身なくて偉そうな口調だけでマウントとりたがるのは
カスのしるしだよ

817日本@名無史さん2019/10/12(土) 05:42:55.04
>>779
>邪馬台国七萬戸の範囲は畿内第V様式土器を使っていた範囲

未だに勘違いをしている!

畿内第V様式土器はあくまで、厚型重量弥生式土器。 そんなものの文化斉一性に意味はない。

文化的斉一性が見られるのは、軽量薄型丸底土器。 いわゆる「東阿波型土器」なのである。   

鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。

中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。

企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。 土器製作専業集団によるものだろう。

類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。   @阿波

818日本@名無史さん2019/10/12(土) 05:46:01.00
>>779
>投馬国五萬戸は丹波以西の四隅突出墓文化圏の範囲


その「四隅突出墓」も倭国(阿波)発祥!   

萩原1号墳・萩原2号墳・足代東原1号墳・奥谷2号墳   @阿波

819日本@名無史さん2019/10/12(土) 07:36:12.65
其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王
(卑弥呼の説明2-3行略)

共立後の女王国東渡海千余里、
・復有国、皆倭種。 ・・・・・・・・中国地方
・又有侏儒国在其南、人長三四尺。・・四国地方
去女王四千余里。
・又有裸国、黒歯国。 ・・・・・・・近畿地方

復在其東南、船行一年可至。・・小笠原諸島

参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連周旋可五千余里。・・九州島?

820日本@名無史さん2019/10/12(土) 08:04:42.64
>>819
共立後の女王国東渡海千余里、
・復有国、皆倭種。 ・・・・・・・・近畿地方
・又有侏儒国在其南、人長三四尺。・・四国地方
去女王四千余里。
・又有裸国、黒歯国。 ・・・・・・・??地方

復在其東南、船行一年可至。・・??

参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連周旋可五千余里。・・四国   @阿波

821日本@名無史さん2019/10/12(土) 08:05:24.70
>>819
共立後の女王国東渡海千余里、
・復有国、皆倭種。 ・・・・・・・・近畿地方
・又有侏儒国在其南、人長三四尺。・・??地方
去女王四千余里。
・又有裸国、黒歯国。 ・・・・・・・??地方

復在其東南、船行一年可至。・・??

参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連周旋可五千余里。・・四国   @阿波

822日本@名無史さん2019/10/12(土) 08:20:28.43
魏志倭人伝の時点で魏の使いが大和(田舎)のことなど気にする必要はなく、短里から考えると周防あたりを倭種と呼んだのだろう。
もしくは日本海ルートが主力であったことを考えると出雲のことであったかもしれない。
大和はまだ本州の中でも上から数えて5本の指に入らない程度の弱小だったはず。
ヤマトヤマトと叫ぶのは無自覚の皇国史観の刷り込みの結果だよ。
いい加減に洗脳から目を覚ませ。

823日本@名無史さん2019/10/12(土) 08:22:57.72
>>801
>倭人伝でも、倭武王の上奏文でも、陸上を行く意味を表す語彙はどこにもみられない。

これは重要な視点だ。
古墳時代においても主要な交通手段は海上交通であったことを考えると、当然ではあるのだが、文献的に確認できる意味は大きい。
そして、倭が福岡であった間接的な証拠でもある。

824日本@名無史さん2019/10/12(土) 08:25:14.26
>>799
>5世紀頃からは航海守護神は綿津見神や筒男神ではなくなっていたということか。

宗像が主催する沖ノ島の祭祀が国家級になっているし、福岡県内の古墳の分布でも宗像系が最大勢力となっている。
おそらく2世紀までに志賀島系から沖ノ島系に政権交代している。

825日本@名無史さん2019/10/12(土) 08:26:34.09
>>796
>天徳4年に内侍所が火災にあったとき無事回収された神鏡と明記されてる

そんな後世(960年)のことを持ち出されてもw
意味なし。

826日本@名無史さん2019/10/12(土) 08:28:30.25
>>823
>そして、倭が福岡であった間接的な証拠でもある。

いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「倭が福岡であった」訳がない。 なにを考えているんだか。  足元を見直し給え!   @阿波   

827日本@名無史さん2019/10/12(土) 08:40:07.58
>>328
>副葬品が豪華だと王様だっていう理由は何なんだ?
また言い張るだけか?<

この男も、人類の常識知らずの一種の・・・・アホ詐欺師だな?と思うけど、
まあ、世間の人々が騙されないように、説明しておこうか。
平原1号の副葬品の豪華さは、3世紀の倭地や北部九州付近では、断トツだからだ。

828日本@名無史さん2019/10/12(土) 08:43:06.95
>>334
>日本の古墳は大規模、朝鮮半島の墓は中に入ると別世界で豪華な副葬品
日本は大土木工事で王の力を見せつけることによって朝鮮半島よりも早く統一を果たした
朝鮮半島では常に北方の騎馬民族に対する危機感があったので
時間を要する大規模な墓を造らなかった
韓国の学者が歴史ヒストリアで分析していた <

ふーん。

829日本@名無史さん2019/10/12(土) 08:46:04.37
>>336
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者らは、
史料事実の否定曲解と大和尊崇と差別が大好きだな
人格的に問題があるんじゃないのか?

830日本@名無史さん2019/10/12(土) 08:51:42.49
>>339
>一番大事な事、被葬者の位置。
王族でない者の墓が高さで王族を超えるのは不敬にあたる、
だから前期古墳はことごとく高地・山稜にある。
平原はそうではない。<

卑弥呼ははっきり「共立女王」であり、親魏倭王であったから、「王」であったが、
壹與は、「共立」とは書かれても「王」とは書かれておらず、「倭王」であったのか?は不明。
だから、「臨時王」とか「仮の王」とかの可能性があった。

831日本@名無史さん2019/10/12(土) 08:53:45.57
>>340
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説のアホな荒らしが、
創価統一の仕業じゃないかと疑惑の目が向いたら大変だなあ
それというのも大和説の荒らし書き込みが、
あり得ないほど低脳に過ぎるからだ

832日本@名無史さん2019/10/12(土) 08:57:02.45
>>343
>中に入るのは朝鮮半島の墓だから<

「中に入れる構造」であれば、それは「槨」というよりは、
(中国の王らの漢代以後の)「室」だな。

833日本@名無史さん2019/10/12(土) 09:04:04.41
>>347
スレを眺めれば一目瞭然
どっかの大和説の・・・・アホガキが、
天子や皇帝や天皇の直轄的支配地を意味した「畿内」なんて文言を使って、
畿内がある畿内があるがあるがある、と意味不明なオウム返しの連呼を
数年に渡ってさんざんくり返してるからなあ

834日本@名無史さん2019/10/12(土) 09:07:40.52
>>360
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が、また捏造を連発してるな
嘘つきの常習者だ

835日本@名無史さん2019/10/12(土) 09:17:59.28
>>361
安部自民が戦前のような万世一系八紘一宇の戦争皇国史観国家に戻そう、としている

創価学会や統教会等の宗教団体や財界が資金提供

文科省や右翼マスコミや権力学界教育界が興奮して隷従し、「南→東」の応援

文部省や財界にべったり服従のYahooや5chなども電通など広告代理店も応援

スレ荒らしの大和説の応援と、九州説の投稿削除のスレ荒らし

こうかな?

836日本@名無史さん2019/10/12(土) 09:30:55.54
>>365
あーあー、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき男子文言を使う大和説者の、
スレ荒らしのアホな書き込みが
何らかの政治宗教団体が係わってると、
世間の疑惑の目が向いたら大変だな  
書き込み内容が、(京都アニメ犯人や朝日記者銃殺テロ犯人のような)、
人種差別殺戮戦争を鼓舞扇動する唯我独尊のアホ過ぎるからな。

837日本@名無史さん2019/10/12(土) 09:33:55.97
台風が来た。。。

838日本@名無史さん2019/10/12(土) 09:41:17.10
娘達や僕達の家に対して、修理代がかかるような去年の台風程の接近になってしまわないよう、神となった、銅鐸王家の王に祈れば良いな。。。

839日本@名無史さん2019/10/12(土) 09:41:20.72
>>366
>大きな墓を作るというのは豪壮な宮殿を建てるとか指導者の巨大銅像を作るとかと同じで権力を見せつける装置だからね
それが政治そのものなんだよ 人に見えないお供物なんかは私事だ <

東征毛人五十五國の将軍らは、征服民を威圧する必要があったが、
壹與は正式な「王」ではなく、「仮の共立」や「臨時的共立」であり、
薄葬令も相まって、巨大墓を造る必要もなかった。

840日本@名無史さん2019/10/12(土) 09:43:01.39
遠くの娘一家に直撃しない様に、台風はカーブを激しく描けば良いな。。。

841日本@名無史さん2019/10/12(土) 09:43:33.97
>>833
こういうキチガイじみたオウム返しを連呼するから九州説は宗教活動の一種と言われる

842日本@名無史さん2019/10/12(土) 09:45:41.04
>>838
銅鐸王家の王に対して昨夜の勝利の為に祈った分を、今の祈りに回せばよかったな。。。

843日本@名無史さん2019/10/12(土) 09:47:32.63
>>22日本@名無史さん2019/10/08(火) 00:23:32
魏王朝の台風が呼子から佐賀平野に入った可能性は?
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

844日本@名無史さん2019/10/12(土) 09:48:12.63
>>835
オイオイ邪馬台国の会が抜けてるぞ
九州説の正体の答え合わせか

845日本@名無史さん2019/10/12(土) 09:54:30.74
>>844日本@名無史さん2019/10/12(土) 09:48:12.63
>>835 >オイオイ邪馬台国の会が抜けてるぞ

そうだな、邪馬台国の会の正体を見たり○○○、、、

846日本@名無史さん2019/10/12(土) 09:57:14.35
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、北朝鮮の沙里院市に住んでいるので、台風の心配をしなくても良いのだったな。。。

847日本@名無史さん2019/10/12(土) 09:59:44.52
現「沙里院市」の東のあたりから桜井は、16
方位で、南東の方角なのだろうか、、、
それとも、東南東なのだろうか、、、

848日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:00:27.76
>>825
>>天徳4年に内侍所が火災にあったとき無事回収された神鏡と明記されてる

>そんな後世(960年)のことを持ち出されてもw
>意味なし。

「そんな後世」(905年)の延喜式にある御樋代の大きさだけで
三種神器の八咫の鏡が平原八葉鏡と同型鏡だと言い張った(と)説が
自滅した

849日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:00:40.18
>>371
戦前の戦争皇国史観国家願望の安部自民文科省や創価統一が、命令し鼓舞扇動、
右翼のマスコミや学界教育界やPC会社が追従、宣伝、
それが「南→東」などの嘘付き騙しの大和説

850日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:00:43.83
九州説は論理的な説ではなく背後にいる政治か宗教団体の圧力か信仰活動の一種

851日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:05:10.07
>>373
>>朝貢貿易で中国から渡ってきた宝物はすべて間違いなく女王様の元に届いたはずなのに、
平原遺跡の被葬者はどうやってそれを手に入れたのだろう?
>平原1号墓は200年ころなので朝貢貿易はない<

平原1号は、3世紀後半の266年以後。
壹與は、卑弥呼の宗女であり、後継として共立されたから。

852日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:06:07.60
予想通り、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、頭の悪い奥山氏が、また、完全に論破されたので、討論での反論を諦め、敗北宣言にしかならない嘘の悪口を言い放っているな。。

850 名前:日本@名無史さん 2019/10/12(土) 10:00:43.83
九州説は論理的な説ではなく背後にいる政治か宗教団体の圧力か信仰活動の一種

853日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:06:30.22
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、北朝鮮の沙里院市に住んでいるので、台風の心配をしなくても良いのだったな。。。

854日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:19:25.32
破綻した邪馬台国鬼内説を宣伝していた者と、破綻した邪馬台国の怪を宣伝していた者は同根だったのではないかな。

855日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:20:26.33
https://www.sankei.com/west/news/140224/wst1402240010-n1.html

難波宮造営期 歴史学に画期的な進展も 地球研・中塚教授の「酸素同位体比法」


中塚教授は、この十数年で酸素同位体の分析装置やセルロース抽出法の開発が進んだことに着目し、この方法を開発。年代が判明している木材を酸素同位体比で確認したところ、年輪年代法の結果とも一致したという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

纏向石塚が2世紀末、
勝山が3世紀前半、
これはもう確実。

ただし纏向遺跡が卑弥呼の都かどうか、箸墓古墳が卑弥呼の墓かどうか、
これはまた別の話。

まぁ違うのだけどね。

856日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:22:53.07
>>374
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説のやってる事は、
ソント?+念仏的な信仰形態
そうやれと指令されているのだろうから、
キョクウ戦争皇国史観の、安部文科省や宗教団体がおそらくバック

857日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:27:28.77
>>278
「南→東」などの嘘付き騙しで、理論的に敗北しているのなら、
普通は引き下がるのだけど
大和説は明らかに、理論で勝つのではなくて、畿内はあった等の、
明白に頭のおかしい主張を得にもならないのに延々と繰り返しをする
どんな主張でも繰り返しているうちに真理になって大和説が優位になれば
国民を屈服させられるなど、我々にはよくわからない信念信仰が、
非倫理性から見て背景になっている可能性が濃厚にあり
大和説はそういう信念がある政治団体や宗教団体から資金提供を受けて、
荒らし書き込みをしている可能性がある

858日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:29:06.73
年輪年代法というのは、同じ木材の樹皮に近い外側の年輪を計測しなければ、埋没していた地層の年代どころか、伐採された年代すらも、全く究明できないのだったな。。。

859日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:30:41.48
>>855
>年代が判明している木材を酸素同位体比で確認したところ、年輪年代法の結果とも一致したという。

年代が判明している木材とは何を指しているのか肝心の根拠が非提示、まさか年輪年代法で判明した年代のことではあるまいな??

860日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:30:59.97
>>858
つまり、纏向に古墳が最初に出現した年代は、4世紀以降の可能性が、そうではない可能性よりも、高いのだったな。。。

861日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:34:38.49
魏志倭人伝に関するレベルの高い討論会の結論では、年輪年代法は、ある年代の接続部分に失敗した可能性が高いので、ある年代以前は不完全の可能性もあるのだったな。。。

862日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:34:59.14
>>855
で、後期難波宮造営期が8世紀だと出たわけね?  @阿波

863日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:36:26.26
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、北朝鮮の沙里院市に住んでいるので、台風の心配をしなくても良いのだったな。。。

864日本@名無史さん2019/10/12(土) 10:43:38.65
>>385
>3世紀の北部九州の遺跡発掘現場を見学に行った関西の考古学者や博物館の学芸員は、
周辺の地層全体が真っ赤に染まるほど大量の鉄の出土量を目の当たりにして内心(負けた…ヤマト王権は邪馬台国じゃないや…)と直感的に思うらしい。
でも関西に帰ると学閥や先輩後輩のしがらみがあって、職場で敵なんか作ったら大変だから、口が裂けてもそのことは言えず、
講演会などで「ヤマトで決まりやな!」という禿げ頭の素人おじいちゃんたちを見て
九州の発掘現場を知ってる人達同志で互いに肩をすくめて苦笑し合うらしいw
逆に九州の考古学者や博物館学芸員が畿内の3世紀遺跡発掘を見学に来ると、あまりの貧弱な出土品(木製品や桃の種、カエルの骨)に爆笑してしまい、
古墳築造の「縁日」と呼んでいるらしいw<

ふーん。

865日本@名無史さん2019/10/12(土) 11:06:46.17
>>404
「南→東」など、敢えて嘘つき騙しの大和説の書き込みをする人種は、
安部文科省や神社庁やキョクウ宗教団体による宗教活動家の可能性

866日本@名無史さん2019/10/12(土) 11:20:57.82
>>859
>まさか年輪年代法で判明した年代のことではあるまいな??

中塚さんの手法と年輪年代が合致してるという話。
ただしその木材が伐採されてからすぐ使われたのか、何年か経過して使われたのかは分からない、

867日本@名無史さん2019/10/12(土) 11:26:34.79
>>422
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者は
デマが好き

868日本@名無史さん2019/10/12(土) 11:42:36.59
>>441
>咫は、我が田舎では尺貫法の時代まで使われていた。
右手五本の指をいっぱいに広げた時の、親指の先から小指の先までを云う、約23〜25p位。
これを測定物に当てて長さをはかる。
その応用例だが、まず1咫を計る、
次に小指の先端を動かさないで親指の先端だけを右に移動し、小指のところへ移動させる。
さらに次は、その親指の先端を始点にして、小指の先端を右いっぱいに伸ばす。これが2咫目。
つまり、親指の先端と小指の先端を交互に支点にして、
尺取り虫のように進み、1咫、2咫、3咫・・、と計ってゆく。
なかなか便利で、けっこう早く測れる。
子供の遊びにも使われていた伝統の技法だが、其の性質上、円周測定には使わない。。<

成程。

869日本@名無史さん2019/10/12(土) 11:50:39.35
>>865
文部省は宗教団体ではないぞ

870日本@名無史さん2019/10/12(土) 11:51:14.64
文科省は何か関係あるの?

871日本@名無史さん2019/10/12(土) 11:51:16.34
>>451
>>測っていないという根拠は?<

>そもそも測る手段・方法がない 渡海部分は絶対に測ってない
そして、北部九州から先も里では計ってない(水行距離を測る手段、目安がない)のも確実
だから、道里が日数表記なんだよ<

おや?、類スレ主は生きてたの?。
魏の役人たちも、首が危ないからきちんと計測したし、
陳寿の「道里」は「道の里」であり、「日数」ではなく、きちんと書き分けている。

872日本@名無史さん2019/10/12(土) 11:51:37.92
「学会」は宗教団体?

873日本@名無史さん2019/10/12(土) 11:55:01.56
>>871
こんなふうに
九州説の根拠はいつも
「俺様がそう思うからだ」だけ
史料からの帰納や確率の計算は絶対にやらない

874日本@名無史さん2019/10/12(土) 11:57:38.05
創価「学会」
考古「学会」

875日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:00:56.04
>>456
>1号墓(2号墓)が作られてから、3・4号墓の1世代が経過して、それから古墳時代に入る
こういう基本事項と理解できないから、九州説みたいなでたらめを信じていられるんだよww
九州説は整合性の取れない矛盾だらけ <

何だ?、それでは平原1号は、古田推定の「壹與の墓」説にピッタリではないか。
類スレ主は、いつの間に古田説を盗用したんだい?。

876日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:02:44.45
創価学会が宗教団体だからって
学会とつけば全部宗教団体にしようとするアホな九州説脳

877日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:04:55.71
>>874

九州説が学問をどういうものと考えているのか良くわかるな
もしかして儒教九州説の頭には理論的という概念そのものが存在しないのでは

878日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:12:32.43
やっぱり前々から怪しいと思ってたけれど九州説は
地球人と脳や精神の構造が違う異星人とか異次元人とかその類なんでねーの

879日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:17:34.84
九州説にとって学問とは宗教的信仰の一種だった
そりゃあ理論立てなんて無視して強弁だの金だので言い分をゴリ押そうとするわけだ

880日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:27:01.39
去年の台風よりも、風力が弱いな。。。

881日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:27:27.93
考古学を無視して桜井市を推すのなら、それはもう学問ではなく宗教でしょ。

882日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:28:01.70
雨も少し弱まったのではないのかな。。

883日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:28:39.70
邪馬台国に墓参りに行けばよかったな。。。

884日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:29:31.10
バンビシャスは、連勝できるだろうか。。。

885日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:30:49.63
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、北朝鮮の沙里院市に住んでいるので、台風の心配をしなくても良いのだったな。。。

886日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:34:20.22
邪馬台国畿内説を宣伝している北朝鮮の沙里院市に住んでいる奥山氏は、台風の心配をしなくても良いので、インターネットにひたすら嘘の宣伝や、悪口を発表しているな。。。

876日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:02:44.45
創価学会が宗教団体だからって
学会とつけば全部宗教団体にしようとするアホな九州説脳

877日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:04:55.71
>>874

九州説が学問をどういうものと考えているのか良くわかるな
もしかして儒教九州説の頭には理論的という概念そのものが存在しないのでは

878日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:12:32.43
やっぱり前々から怪しいと思ってたけれど九州説は
地球人と脳や精神の構造が違う異星人とか異次元人とかその類なんでねーの

879日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:17:34.84
九州説にとって学問とは宗教的信仰の一種だった
そりゃあ理論立てなんて無視して強弁だの金だので言い分をゴリ押そうとするわけだ

887日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:37:20.71
邪馬台国畿内説を宣伝している北朝鮮の沙里院市に住んでいる奥山氏は、共産主義者なので、唯物論に惑わされた無神論者である可能性が高いのだったな。。。。。

888日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:37:40.04
888

889日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:39:56.71
>>887
僕達は、銅鐸王国の王が神になったので、日本を発展させたこの神に、感謝したり、家族の幸せを祈ったりしているのだったな。。。

890日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:41:16.50
>>887
唯物論というのは、色々な学部で、破綻が指摘されているのだったな、、、

891日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:43:40.96
>>889
天皇も、ご自身の御先祖に対してだけではなく、銅鐸王国の王が神になったので、日本を発展させたこの神に、感謝したり、国民の幸せを祈ったりしているのではないのかな。。

892日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:44:24.81
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、北朝鮮の沙里院市に住んでいるので、台風の心配をしなくても良いのだったな。。。

893日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:45:53.40
僕達は、今、様々な分野の学者で構成された学会を設立しました。。。
「邪馬台国畿内説が、完全に破綻した理由を究明するための学会」です。。。

894日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:47:03.10
バンビシャスは、連勝できるだろうか。。。

895日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:54:01.24

896日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:56:59.60
>>881
いやな
畿内に大きな権威があった事を伺わせる前方後円墳が
副葬品や科学測定から卑弥呼の時代の3世紀中ごろにはあった事は判明してるし
卑弥呼が魏から貰った銅鏡ではないかと思われる三角縁神獣鏡も
銘文や科学分析で魏鏡である事が明白
なら邪馬台国は畿内にあって
3世紀から宮殿があった事が文献にもある纒向が政治や祭事の中心だったと考えるのも最もだろ
そういう証拠が積み重なって学会では古代史を語るとき畿内説を基準に話がされているのだから

897日本@名無史さん2019/10/12(土) 12:59:17.41
NHKが、邪馬台国畿内説には具体的な証拠が無いという真実を、高校生たちに教育していたな。。。

898日本@名無史さん2019/10/12(土) 13:00:40.50
>>897
2か月ごとに、繰り返し、繰り返し、発表しているのではないのかな。。。

899日本@名無史さん2019/10/12(土) 13:02:32.72
>>898
日本の真実の歴史を、意図的に捻じ曲げる闇の勢力の宣伝から、日本の高校生を守ろうとしているのではないのかな。。。

900日本@名無史さん2019/10/12(土) 13:02:53.05
900

901日本@名無史さん2019/10/12(土) 13:04:00.39
日本の真実の歴史を、意図的に捻じ曲げる闇の勢力の宣伝には、
「畿内に大きな権威があった事を伺わせる前方後円墳が
副葬品や科学測定から卑弥呼の時代の3世紀中ごろにはあった事は判明してるし
卑弥呼が魏から貰った銅鏡ではないかと思われる三角縁神獣鏡も
銘文や科学分析で魏鏡である事が明白」
という嘘もあるのだったな。。。

902日本@名無史さん2019/10/12(土) 13:04:37.03

903日本@名無史さん2019/10/12(土) 13:09:24.06
>>896
>そういう証拠が積み重なって

「前方後円墳」も「三角縁神獣鏡」 も、倭国(阿波)の専売特許だよ。  なにを考えているんだかw   @阿波

904日本@名無史さん2019/10/12(土) 13:11:13.36
大祓詞には、なぜ、「氐」の文字が使用されているのだろうか、、、

905日本@名無史さん2019/10/12(土) 13:13:47.29
氐族というのは、元々は、やはり、イスラエルの一族なのだろうか。。。

906日本@名無史さん2019/10/12(土) 13:21:34.19
イシコリドメとは、何者なのだろうか。。。

907日本@名無史さん2019/10/12(土) 13:24:18.90
>>903

そうかもしれんね。
ただ卑弥呼とは関係ないけどね。

908日本@名無史さん2019/10/12(土) 13:28:21.09
>>907
たしかに、「前方後円墳」も「三角縁神獣鏡」 も、卑弥呼より後ではある。   @阿波

909日本@名無史さん2019/10/12(土) 13:49:39.44
>>896
>卑弥呼が魏から貰った銅鏡ではないかと思われる三角縁神獣鏡も

引越しの時に持って行ったのかもよ。

>銘文や科学分析で魏鏡である事が明白

明白じゃないよね。
嘘つき。

910日本@名無史さん2019/10/12(土) 13:49:59.72
>>896
>3世紀から宮殿があった事が文献にもある纒向が政治や祭事の中心だったと考えるのも最もだろ

卑弥呼は関係ないじゃん。

911日本@名無史さん2019/10/12(土) 13:50:23.20
>>882
>雨も少し弱まったのではないのかな。。

これからだよ。

912日本@名無史さん2019/10/12(土) 14:13:19.25
>>909
三角縁神獣鏡には銅出徐州 師出洛陽 魏の銅山があった徐州の銅で洛陽の鏡師が作ったと銘あり
蛍光分析器スプリング8で分析した結果素材の銅は魏の鏡と同じものである事が判明
魏鏡である事は明々白々

>>910
卑弥呼は3世紀倭国の女王であり祭祀を司る長
3世紀の政治や祭事の中心がありそうな所が邪馬台国

913日本@名無史さん2019/10/12(土) 14:16:37.07
バンビシャスは連戦の2戦目は、動きが鈍り、ターンオーバーが多いのだったな。。

914日本@名無史さん2019/10/12(土) 14:39:24.35
>>912
妄想はやめようよ。

915日本@名無史さん2019/10/12(土) 14:58:30.25
>>914
妄想だと決めてかかる理由は?

916日本@名無史さん2019/10/12(土) 15:26:55.15
この嵐で落命される人がおりませんように
主よ、もしそれが避けられぬ運命ならば
どうぞ代わりにzarakokuと連続句点の一命をお召し下さいますように

917日本@名無史さん2019/10/12(土) 15:52:28.49
>>464
>>「倭国東南陸行五百里、到る伊都国。又南、至る邪馬嘉(臺)国」
上陸から東南5百里(約35km)で伊都国に至る、また南に行けば邪馬台国に至る。
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区付近<

>上陸から東南5百里(約35km)で・・、と明記してあるのに、
なんで糸島や福岡西区になるのか。 方角を捻じ曲げるな、九大キャンパス。<

はるか後代の翰苑やその注書きの文では、
自己解釈に拠る書き換えが多くて、半分×文であり、
例えばその「倭国」なんて文言は、魏志にはなく、
だから翰苑は魏志を自己解釈に拠る書き換えをしている事になり、
また、陳寿は行程移動説明においては、人類の常識通りに、
「出発説明+途中説明+到着説明」というはっきりした書き分けをしており、
「東南陸行五百里、到伊都國」の「東南」が、
末盧國からの出発時点での出発説明である事になるが、
翰苑の「倭國東南陸行五百里、到伊都國」では、
出発國が「倭國」になってしまって、「末盧國」では無くなってしまって、
意味が変わってしまっている、という事になり、
その事も「後代の自己解釈に拠る書き換え」であり、×だ。

918日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:01:09.43
>>468
>東治とは東冶のことだよ 日中の定説だ あきらめろ<

陳寿は「東冶」と「東治」とはきちんとはっきり書き分けており、
倭人伝では「会稽東治之東」であり、
宋明清代の校勘においても「倭人伝の東治」は誰一人校勘しておらず、
原本写本版本を通して「東治で正しい」という判定であり、
それが、人類の常識であり、正常な学者の判定だ。
諦めろ。

919日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:09:30.34
>>824
宗像三神が素戔嗚を介して天神系に組み込まれたのは、そういうことを表しているな。
2世紀までに、かどうかは検討の余地があるが、なぜにそのような変遷が起こったのか注目される。
4世紀後半には神功の筒男神と綿津見神が全盛期のはず。
ところが、宗像神の国家祭祀は5世紀から始まる。
この謎は大きいぞ。

920日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:18:16.06
>>785
>7世紀に謎の文化的断絶があるよ。
>邪馬台国も文字を使っていたはずなのに、7世紀以前の文献は皆無。
>建物も彫像も出自が不明のものだらけになり、なぜか文法まで変わっている始末。

また適当な嘘をついてるww
万葉集巻1の冒頭の歌を、現代人でも日本語で理解できる
日本語は、ずっと日本語だよ

921日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:20:34.03
>>786
>2000年前ということは、八咫の鏡が前漢鏡だとでもいうのかい?

2000年の伝世鏡と言われて、籠神社の邊津鏡、息津鏡 のことだと思い至らない人は
古代史の基礎知識に欠けるから、恥をかくだけだよww

お前はバカw

922日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:21:49.35
>>787
>魏の使いが大和まで来た記録がないし、纒向からは帯方郡の土器が出ない。

来てるから、ヤマト国=邪馬台国が記録されてるんだぞww
帯方郡の土器も出てる
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

923日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:22:29.99
>>788
>最初の一行だけで、あとは読む価値がないとわかるよw

具体的な反論はできませんという、負け犬の負け惜しみww

924日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:23:08.94
>>823
長崎、佐賀も入れてやってちょうだい。

925日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:23:43.66
>>495
このように
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
あらゆる面で都合の悪い文字や文献考古資料を否定曲解し、
人類の常識をただ拒否して
根拠もなく皇国史観の我流の珍説を言い張ることで
かろうじて細々と存続しているのだった

926日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:31:13.70
>>789
>神武の年代もわからないのによく言うよ。
>皇紀2600年だとか言い出すんじゃないだろうな。

神武は記紀の各豪族と天皇名の対応と、豪族系譜をつき合わせることで
崇神の5世代前という検証が、複数個所で独立になされている

崇神が纏向のヒコ王であり、纏向遺跡は炭素年代で建設開始が2世紀末ごろと
推定されている
そこから五世代遡ると、1世代20年で計算して100年、末子相続で30年で計算すると
150年遡ればよいことになる

神武は1世紀中ごろから後半に奈良盆地にいたと想定すればよい

>根拠を示せ。
>それが正しいという理由もつけてな。

ほらよ つ「根拠」
国史大系. 第6巻 日本逸史 扶桑略記 コマ番号371
「瓦上在鏡一面。徑八寸許。頭雖有小瑕。専無損。圓規幷帶等甚以分明」

他にも、三つの御神鏡が面径一尺程度という伝承もあるし、
八咫鏡は1尺程度というのは長く日本で信じられてきた大きさだ

平原1号墓の46センチ鏡を、原田大六氏が昭和の時代に言い出すまで
八咫鏡は1尺程度というのが常識だった

927日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:32:08.79
>>501
「文献考古の史料事実や史料実態」が間違っているという研究もないのに
「南→東」などの決めつけの嘘付き騙しをしているのが「通説=大和説].

928日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:34:54.21
>>790
>違う地域と比べてどうする。
>それに年代だって、20年もズレたら違う王の時代になるから意味がない。

同じ倭国だし、ガラス管玉を副葬するのは同じ時代、同じ文化だぞww
逃げを打とうったってそうはいかないww

>そんな精度でどちらの王墓も年代を特定できていない。
>つまり場所も時代も違うものを比較している可能性の方が高い。

どちらも弥生後期の、ローカル王権が伸張していく時代だ
そして、平原1号墓がむしろ吉野ヶ里遺跡と同じ文化同じ時代のローカル有力者というのが
この図で示される
邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚

平原1号墓を倭王墓にしようってのは、九州説にとって他に候補がないから、以外の
理由がないんだよwwwwww

929日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:37:43.67
>>799
>半島へ渡海する際の九州側の最後の港の加部島にある田島神社の祭神は、宗像三神だった。
>5世紀頃からは航海守護神は綿津見神や筒男神ではなくなっていたということか。
>なにやら衝撃波が起こってくるな。

チェリーピッキングがすごいなww
田島神社の祭神が、宗像三神に「なった」のはいつの時代だww
そもそも田島神社が、5世紀まで遡らないだろww

本当に、単語だけでつないでストーリーを作るから九州説は妄想説なんだよw

930日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:38:58.99
>>818
投馬=殺馬→薩摩

931日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:40:27.90
>>779
>投馬国五萬戸は丹波以西の四隅突出墓文化圏の範囲


その「四隅突出墓」も倭国(阿波)発祥!   

萩原1号墳・萩原2号墳・足代東原1号墳・奥谷2号墳   @阿波

932日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:40:55.64
>>803
>いやいや、当方が想定している渡海の起点は行橋市あたり。

渡海の定義がわかってないんだよww
もの知らず乙ww

瀬戸内のような多島海を進むのは、水行であって渡海にはならないww
この時点でお前の想定は、根拠なしな訳だ

しかも、お前の想定だと九州説の虎の子の「短里があるんだー」が死ぬぞww
本当にその場のでまかせばかりで、整合性というものを一切考えないのが九州説

933日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:41:26.24
>>914
具体的な反論ができずに妄想というだけの九州説の現状が
いかに彼らが追い詰められているのかを表している

934日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:41:31.88
>>927
は?
文献に「南」とあるが間違いだ
と結論を出した研究が
畿内説だろ?

935日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:43:36.34
>>909
>明白じゃないよね。

またこれかww
年代も明白じゃない
成分分析も明白じゃないww

9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で

「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?

「今のはボールだろ!」←わかる
「誤審だからオレの勝ちだ」←は?

九州説はこんなのばっか

936日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:43:58.62
>>816
罵詈雑言は、相手に反論できないときに出る感情的反応。
具体的に反論してね。

937日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:47:47.54
>>824
>宗像が主催する沖ノ島の祭祀が国家級になっているし、福岡県内の古墳の分布でも宗像系が最大勢力となっている。
>おそらく2世紀までに志賀島系から沖ノ島系に政権交代している。

宗像地域って、大きな古墳が一つもないところだぞ?
「宗像地域における古墳時代首長の対外交渉と沖ノ島祭祀」重藤輝行
とか、読んでみて

938日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:50:09.46
しかし九州説の目的は不可解だよな
学問的に畿内で決着がついてもう成り立たない事がはっきりしている邪馬台国は九州をゴリ押しして一体何になるのか

939日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:51:45.92
倭種の人が倭人
倭種の国が倭国

女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種

倭国の中の千里の海峡を渡っても、そこにいるのは
みんな倭種の人で韓人とかは居ないんだよ

ここで言う「また国あり」は、対馬国、壱岐国レベルの国
卑弥呼とは別の政体があるという意味ではない

940日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:53:03.27
>>937
>宗像地域って、大きな古墳が一つもないところだぞ?

お墓なんて、どうでもいいんじゃないの?   @阿波

941日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:56:01.13
>>534
>伊都国と奴国以外の九州説全てに言えるのだけれど、
「3世紀のめぼしい遺跡がない」で否定できるんだよ<

「南≠東」や「不彌國や邪馬壹國付近で萬二千余里がほぼ終わっている」事や、
「前方後円墳や庄内が3世紀末の石塚以後にしかならない」などで、
大和説は、否定され、筑紫説は全てで肯定される。

>そして、伊都国と奴国は、邪馬台国とは別の国、水行陸行でヶ月隔てた国だから
否定できる<

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
不彌國や邪馬壹國で萬二千余里がほぼ終わっていて、
女王之所都は、邪馬壹國の中にあって到着しているんだから、
女王之所都の説明文言である「水行十日陸行一月」は、
郡から女王之所都の所要日数である。

結局、大和説は全部否定される

942日本@名無史さん2019/10/12(土) 16:57:27.69
九州説を定説にするには文部科学省乗っ取って畿内説の学者を追放し資料を全て抹殺するぐらいの無茶をしない限り不可能だろ
そこまでして九州説に拘って一体何になるというのかねえ

943日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:01:31.62
>>535
>陳寿の脳内以北なので、
帯方郡
 ↓
狗邪韓国
 ↓
北部九州
 ↓
投馬国
 ↓
邪馬台国
という並びになっていればいいんだよ<

不彌國から投馬國は、途中移動の説明がないから側副傍線国説明であり、
不彌國や邪馬壹國で萬二千余里がほぼ終わってしまっている事になるから、
この男は、×。

>音韻的には出雲でよいと思う 四隅突出墓文化圏
吉備の関与を強く認める立場では、吉備周辺となる<

「南≠東」などによって、ほぼ100%、×。

944日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:02:41.95
>>801
訂正

8行目の魏は南宋が正しい。

945日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:03:49.44
819日本@名無史さん2019/10/12(土) 07:36:12.
其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王
(卑弥呼の説明2-3行略)

共立後の女王国東渡海千余里、
・復有国、皆倭種。 ・・・・・・・・中国地方
・又有侏儒国在其南、人長三四尺。・・四国地方
去女王四千余里。
・又有裸国、黒歯国。 ・・・・・・・近畿地方

復在其東南、船行一年可至。・・小笠原諸島
参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連周旋可五千余里。・・九州島。(以上で、概ね西日本を網羅できている)

946日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:06:43.04
>>942
あれ、大和説をとる文科省の権威が、実質地に落ちてきているのに。
掲示板では北部九州説が勝鬨あげてるよ。

947日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:06:49.42
>>537
>魏志倭人伝に書いてあるのは、道里でありそれが日数表記になっている<

陳寿は、「道里」と「日数」をきちんと書き分けており、
不彌國や邪馬壹國で「萬二千余里」がほぼ終わっているから、×。

>出雲で魏志倭人伝の記述と矛盾はないぞ・・・
水行区間は一日20キロ程度、 陸行区間は一日6キロちょい<

勿論「南≠東」などで、×。

948日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:12:44.91
>>942
この頃の古代史講演では、講師が大和邪馬台国をほのめかすと、会場は疑いの目を注ぐ始末だし。
聴衆は大和邪馬台国には冷めてきたね。
かかる状況の中、掲示板で大和邪馬台国を堂々開陳するなんて、かなり頭おかしいんじゃねえの。

949日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:16:47.33
九州説はいよいよ頭が狂い始めた

950日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:18:51.70
>>538
>それに、吉野ヶ里遺跡の同じ葬送文化の北墳丘墓と比較することで、
権力の大きさが推定できるが、圧倒的に平原1号墓は劣る存在でしかない <

奴國は日向峠西麓〜早良平野であり、
その南の坂本峠や三瀬峠を越えれば吉野ケ里付近に達し、
という事は、吉野ケ里も「二万戸の奴國」の支配地であった、という可能性がある。
そして、吉野ケ里の「前方後円墳への転換」は、やはり3世紀後半からであった。

951日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:23:03.39
>>939
倭及び倭人の所在地は、朝鮮半島南岸から東南の方向にある。
ここがおおむね倭国の範囲。北部九州だな。
この東南から大きく東へはずれる大和とその周辺の国は魏略、倭人伝にいう倭ではないの。
ただ、そこに住んでいる人民は倭人と同じ倭種であり、他の種族ではないと言ってるのよ。
卑弥呼の邪馬台国が北部九州にあることは動かない。

952日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:26:26.35
>>948みたいに
全く証拠の出せないことをわめくだけになった
九州説は末期症状だよ

953日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:29:01.77
>>919
>4世紀後半には神功の筒男神と綿津見神が全盛期のはず。
>ところが、宗像神の国家祭祀は5世紀から始まる。

なるほど。
神功と住吉は関係が深いですね。
綿津見の方は方便だったと思いますけどね。
そこから宗像が逆転するのは興味深い。

954日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:30:07.29
>>920
>日本語は、ずっと日本語だよ

文法は変化している。
万葉集までは上古文なんだよ。
教養がない奴め。

955日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:30:25.97
そうか、畿内にシラケ鳥が舞うようになったか、、。

956日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:30:31.98
>>951
>倭及び倭人の所在地は、朝鮮半島南岸から東南の方向にある。

史料的根拠のないことを
理由も言わずにらだ連呼しても
それは
   た・わ・ご・と


 

957日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:34:25.28
>>921
ほう。
籠神社の鏡を知っていたのか。
感心感心。
饒速日の10種の神宝の鏡であり、倭王の象徴だね。
その実態は内行花文鏡だ。
日本人が2000年に渡って王権の象徴として奉斎して来たのは内行花文鏡。
そしてその頂点にあるのは平原遺跡の超大型内行花文鏡だ。

958日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:35:25.83
>>940
宗像地方
4世紀後半 東郷高塚古墳
5世紀 津屋崎古墳群

959日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:36:41.40
>>928
>どちらも弥生後期の、ローカル王権が伸張していく時代だ

伸長の程度を過大評価しているだけ。
それに平原遺跡の過小評価を組み合わせる詐欺。
列島を代表するほどの勢力がそんなところにあったという根拠も文献もない。

960日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:38:33.42
>>929
>そもそも田島神社が、5世紀まで遡らないだろww

「遡れない」のは文化の断絶があるからだよ。
しかし宗像が奉斎した伊都の氏族より前の勢力の名残が田島神社だから、5世紀よりはるかに古いだろうね。

961日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:40:32.26
>>937
>宗像地域って、大きな古墳が一つもないところだぞ?

世界遺産沖ノ島の特設サイトに論文があり、九州北部で古墳時代の最大の勢力が宗像だとされている。
彼らによる国家規模の祭祀が行われていたのが沖ノ島。

962日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:42:54.89
>>541
>京都府大風呂南一号墓出土品 国宝・重要文化財(美術品)
「本件は、弥生時代後期後半に築造された墳丘墓からの出土品一括である。
 本件は、このうち一号墓(墳丘規模=尾根筋方向の長さ約二七メートル、
 尾根と直交する長さ約一八メートル、墳丘高約二メートルの長方形)に
 築かれた四基の土壙(第一−第四主体部)から出土した副葬品の一括である。
 その内訳は、腕飾り(ガラス釧一箇、銅釧一三箇、貝輪残欠一箇)と
 玉(ガラス勾玉六箇、碧玉管玉三五六箇)、
 鉄製品(鉄剣一四本等)、および附とした土器・土器片七点から構成され、
 その総数は四一二点である。」 <

丹後半島付け根の阿蘇海北岸の方墳では、
出雲などの影響と、九州倭国の東征軍の別動隊の関与の両方の可能性があるが、
鉄鏃が出ていないので、将軍の墓ではなさそうであり、
勿論、平原に比べれば、鏡もなく、玉も比較にならない位少ない。

963日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:43:54.87
日本の歴史を声高に否定して回る畿内説は何が目的なんだろう。
7世紀、3世紀などに史料や文化的断絶があり、それをいいことに残されたわずかな史書をことごとく否定して「学会」に都合がいい歴史を捏造する。

964日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:45:33.87
後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな?

965日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:46:44.04
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある。
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある。
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある。
女王国とは倭奴国のことである。

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で書かれている)。

966日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:47:27.06
卑弥呼が初めて魏に国書を送るとき、それが倭王からの国書であることを証明するのは後漢の発行した印による封泥となる。
魏は後漢の禅譲を受けて外交プロトコルを継承しているから、魏に対しても後漢の金印は国璽として通用する。
文書は官僚による代筆でもいいが、印をするのは王の仕事だ。
そしてその印は福岡県にあった。
漢委奴国王印を最後に使ったのは卑弥呼であるはずだ。
その返信とともに卑弥呼は新しい金印を受け取っていて、それを携えた使いは福岡県に滞在して卑弥呼に面会したと魏志倭人伝は伝えている。

967日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:49:18.21
>>963
そんなタワゴトを真に受けるのは中学生だけだから

968日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:51:23.24
>>958
東郷高塚古墳→草崎→勝島→沖ノ島宗像神社境内は、ぴったり一直線に結ばれているよ。
東郷高塚古墳の築造位置は、そのような軸線が選ばれた結果のものだろう。
つまり、沖ノ島の神と直結することを意識して造られたということになる。
なかなか念の入ったことだよ。

969日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:53:32.42
どうやら九州説は反抗期の中学生騙す手口が通用すると思っているようだな
自分が中学生レベルだからって

970日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:55:34.94
学会は真実を隠すキタない連中だぜ
真実を知る俺は騙されない!!ww

971日本@名無史さん2019/10/12(土) 17:56:33.04
学会が真実隠してどうしようってんだろうね

972日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:00:16.51
>>542
>3世紀の伊都国を含む北部九州諸国は、一大率を畏れはばかっていたけれど
それは邪馬台国の最高権力の威を背景にしたものであって、伊都国に権威があったことを意味しない<

「世有王、皆統屬女王國」は、「有」と「統」と「屬」が動詞であるから、順次式に解して、
「世々王あり、皆統一して、女王國に屬する」と受け止めるべし。
という事は、「皆」は、
世々の王であり、女王國に属する国全部、という両方の意味を持たした可能性がある事になる。

973日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:03:50.35
>>960
神社形式は仏教渡来後だが、磐座信仰は古墳時代前期からあり、その前の弥生時代に山の尾根の先端部分に神が宿るとされる御前信仰がある。
田島神社のあるところの磐座に古墳時代には宗像神が祀られていた可能性は大きい。
神社の社はその磐座の地に建てられたといえる。社そのものはもちろん後代のものだ。

974日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:04:29.97
>>546
>淀川水系は三嶋湟咋の根拠地で、神武の皇妃媛蹈鞴五十鈴媛命の実家筋だよ
淀川水系は、それほど平地がないからそこだけで独立した大国があるような場所ではなく
普通に畿内の一部でよい <

「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。

975日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:07:26.92
結局九州説は内面から発生する理不尽な世の中に対する恨みつらみを
対象は何でもよくてtだぶつけてるだけではないだろうか

976日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:08:09.80
>>552
要するに「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は
魏志倭人伝を無視して妄想すれば九州説が論破できると
そう思っているわけだね

ばかではないのか?藁

977日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:12:10.33
>>553
>畿内説は、魏志倭人伝に記載された方角が
「(末盧国から)東南陸行五百里、到伊都國」⇒実際は北東 であるという
魏志倭人伝の記載をもとに、「方角はあてにならない」ときちんと確認した上で・・・<

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
末盧國や途中からは伊都國は見えないから、
「東南」は、末盧國からの出発時点での「出発方向」の記載であり、
間違っておらず、だからこの男は×。

978日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:19:47.99
邪馬台国畿内説を宣伝している、子も孫もいない、独身者の奥山氏は、北朝鮮の沙里院市に住んでいるので、台風の心配をしなくても良いのだったな。。。

979日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:19:51.52
>>555
>だからもの知らずだっての
大風呂南墳丘墓にも赤坂今井墳丘墓にも負けてる<

どちらも、鏡は全くなく、玉も平原1号よりも少なく、
赤坂今井の鉄鏃も1個しかない。

980日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:21:30.73
>>978
台風が、関東を破壊しなければ良いね。

981日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:22:58.82
>>556
>そもそも魏志倭人伝の南北は対馬ー壱岐ラインだな。<

「乘船南北市糴」という認識であるし、
唐会要倭国伝でも「西北接百濟、正北抵新羅」と説明している。

982日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:25:17.96
>>557
>初期古墳の竪穴式石室は、中に人が入れる構造ではないから「槨」ではない <

初期古墳の竪穴式石室は、
中に人が入れる構造ではないから「槨」であり、
「室」ではない。

983日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:26:22.46
>>557
>初期古墳の竪穴式石室は、中に人が入れる構造ではないから「槨」ではない <

初期古墳の竪穴式石室は、
中に人が入れる構造ではないから「槨」であり、
「室」ではない。

984日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:26:36.30
>>557
>初期古墳の竪穴式石室は、中に人が入れる構造ではないから「槨」ではない <

初期古墳の竪穴式石室は、
中に人が入れる構造ではないから「槨」であり、
「室」ではない。

985日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:27:22.19
>>557
>初期古墳の竪穴式石室は、中に人が入れる構造ではないから「槨」ではない <

初期古墳の竪穴式石室は、
中に人が入れる構造ではないから「槨」であり、
「室」ではない。

986日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:29:10.21
>>968
宗像大社の南に標高104.5mの山があるが、この山があるところの地名が田島だ。
この山には宗像大社の辺津神が祀られていたのではないか。神体山だ。現在の宗像大社の元々の神域だったのではないか。
そして、東郷高塚古墳→田島神体山→草崎→勝島→沖ノ島宗像神社境内がぴったり一直線上に並ぶ。
そうすると、呼子加部島に宗像神が祀られているその田島神社の田島の名が宗像の田島神体山とみごとに重なることになるな。

987日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:29:45.80
>>954
>文法は変化している。

変化、変遷は断絶ではないw
こいつは本格的にインチキ野郎だwww

988日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:29:50.82
>>558
>倭人伝の南渡一海の方位が間違いということになる<

普通のまともな成人人類は、東西南北はほぼ間違えないもの。

989日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:33:35.04
>>957
>饒速日の10種の神宝の鏡であり、倭王の象徴だね。

それが丹波にある時点で、北部九州じゃないってことだなw

>そしてその頂点にあるのは平原遺跡の超大型内行花文鏡だ。

それ割って捨てるために手抜きで作った粗製鏡だからw
https://imgur.com/P9ZIvtJ

990日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:34:45.32
>>559
>吉武高木遺跡は最古の王墓とか呼ばれることがあるけれど、
そんなに豪華な副葬品がある訳でもない 単に、鏡と剣と玉が揃っているだけ
特定集団墓と呼ばれる11の集団墓のうちの一つで、その中の最有力者、くらいの
位置づけでよい <

平原も含めて、三種の神器が揃っているから、天孫族系の王の墓、という事でよい。

991日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:40:23.63
>>567
>巨大墳丘墓が作れるだけの大動員ができるなら、
それがそのまま兵力として動員できることにどうして気づかないかな?<

好太王碑でも、征服された民は「守墓人」にしているが、兵士にしていない。

992日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:40:27.88
>>959
>伸長の程度を過大評価しているだけ。

それまでなかった「王権」が勃興してくる過程だぞ?
この流れに取り残されるのが北部九州

>それに平原遺跡の過小評価を組み合わせる詐欺。

イト屑が、誇大評価詐欺なんだよ
この図に全く反論できないくせに何を言ってるんだ?wwww
https://imgur.com/TV2qJ6M

>列島を代表するほどの勢力がそんなところにあったという根拠も文献もない。

そうだなww
列島を代表するほどの勢力がそんなところ(伊都国平原)にあったという根拠も文献もないなw

丹波に一大勢力があったのは、日本海三大古墳の存在や、記紀のヒコイマスの系統の記事で確認できる
こちらの主張は丹波のローカル首長より、平原1号墓の被葬者は小物ってこと
丹波に倭國の中心があるなんて言ってないぞww

993日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:43:40.90
>>568
>そして、剣・鏡・玉のセットはただの家来、ただの豪族の墓に普通に副葬されている<

三種の神器は、天孫族系の部族長や部将らの「お宝」。

994日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:43:56.51
>>973
>田島神社のあるところの磐座に古墳時代には宗像神が祀られていた可能性は大きい。

海の神が山の中の磐座にいるのか?ww
それ、別の神様だろう?www

995日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:47:26.55
>>569
>平原1号墓のは、図像からして手抜き鏡
外区を広く取ってごまかしているだけ <

当然、渡来の呉系楽浪鏡師らに急遽造って貰った造って急造鏡。

996日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:51:50.44
邪馬台国畿内説が、また、完全に論破されているな。

997日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:52:32.85
>>985
初期古墳の竪穴式石室も、倭国(阿波)が発祥!   @阿波

998日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:52:39.82
>>996
仕方ないよ。

999日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:53:22.24
>>572
>は?
後漢や魏代の舶載鏡が一面も出ない平原1号墓がどうしたって?
平原1号墓で副葬された舶載鏡は
16号鏡 18.8センチ 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡 漢鏡五期
17号鏡 16.5センチ 四螭二朱雀龍虎鏡 虺龍鏡  漢鏡三期
の100年以上前の伝製鏡2枚だけだぞ <

邪馬台国畿内説 Part515 	YouTube動画>1本 ->画像>64枚
を見れば、
21枚の「尚方作」方格規矩鏡や陶氏鏡は同じ成分範囲であり、明帝鏡である可能性が高く、
他は、別の成分範囲で、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であった可能性が高い。

1000日本@名無史さん2019/10/12(土) 18:53:30.96
2013年、邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました。。

-curl
lud20191226075809caこのスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/history/1570646047/
ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。

TOPへ TOPへ  

このエントリをはてなブックマークに追加現在登録者数177 ブックマークへ


全掲示板一覧 この掲示板へ 人気スレ | Youtube 動画 >50 >100 >200 >300 >500 >1000枚 新着画像

 ↓「邪馬台国畿内説 Part515 YouTube動画>1本 ->画像>64枚 」を見た人も見ています:
邪馬台国畿内説Part1
邪馬台国畿内説Part388
邪馬台国 畿内説Part219 [無断転載禁止]©2ch.net
ゆるりと邪馬台国畿内説Pprt 302
邪馬台国畿内説 Part21
邪馬台国畿内説 Part13
邪馬台国畿内説 part1
邪馬台国畿内説 part1
邪馬台国畿内説 Part570
邪馬台国畿内説 Part663
邪馬台国畿内説 Part583
邪馬台国畿内説 Part581
邪馬台国畿内説 Part680
邪馬台国畿内説 Part560
邪馬台国畿内説 Part587
邪馬台国畿内説 Part600
邪馬台国畿内説 Part653
邪馬台国畿内説 Part648
邪馬台国畿内説 Part568
邪馬台国畿内説 Part572
邪馬台国畿内説 Part596
邪馬台国畿内説 Part630
邪馬台国畿内説 Part629
邪馬台国畿内説 Part595
邪馬台国畿内説 Part566
邪馬台国畿内説 Part571
邪馬台国畿内説 Part650
邪馬台国畿内説 Part550
邪馬台国畿内説 Part552
邪馬台国畿内説 Part549
邪馬台国畿内説 Part566
邪馬台国畿内説 Part588
邪馬台国畿内説 Part599
邪馬台国畿内説 Part584
邪馬台国畿内説 Part554
邪馬台国畿内説 Part598
邪馬台国畿内説 Part563
邪馬台国畿内説 Part582
邪馬台国畿内説 Part601
邪馬台国畿内説 Part605
邪馬台国畿内説 Part645
邪馬台国畿内説 Part667
邪馬台国畿内説 Part664
邪馬台国畿内説 Part618
邪馬台国畿内説 Part641
邪馬台国畿内説 Part662
邪馬台国畿内説 Part614
邪馬台国畿内説 Part632
邪馬台国畿内説 Part658
邪馬台国畿内説 Part603
邪馬台国畿内説 Part607
邪馬台国畿内説 Part652
邪馬台国畿内説 Part673
邪馬台国畿内説 Part932
邪馬台国畿内説 Part671
邪馬台国畿内説 Part666
邪馬台国畿内説 Part649
邪馬台国畿内説 Part661
邪馬台国畿内説 Part26
邪馬台国畿内説 Part659
邪馬台国畿内説 Part661
邪馬台国畿内説 Part656
邪馬台国畿内説 Part608
邪馬台国畿内説 Part639
邪馬台国畿内説 Part654

人気検索: 3d チア 妊婦ギャル TV  高畑 いもシス 亜炉 js 乳首 JK 和ロリ パンチラ OL癡漢レズ
17:04:52 up 62 days, 23:28, 9 users, load average: 19.92, 17.89, 17.80

in 0.29912400245667 sec @0.29912400245667@0.1 on 030117