保守がてら、昔の話を書くわね
若い方は知らない…ていうか関心ないかもだけど…ごめんあそばせ♪
前スレで出てきた特攻隊仲間の、俳優西村晃さんと茶道の千玄室氏(第15代千宗室)
この千氏のお姉さまが冠婚葬祭評論家として有名な塩月弥栄子さん
私が子供の頃NHKのクイズ番組の回答者としてレギュラー出演してた<塩月弥栄子さん
おっとりした雰囲気だったわね
そのテレビ出演で人気がでて、それから暫くして
「冠婚葬祭入門」て本をだしたのだけど、これが大当たり
ベストセラーになって、続編もでたり映画化もされたり、塩月さんも一躍時の人となった
多分その頃塩月氏の事務所で秘書的なことをしていたのが、あの沙知代さん
といってもまだ表舞台には出てなくて、世間には知られていなかった
でもその秘書時代に、沙知代さんはかなり人脈を形成したようね
なにせあの方積極的だし、英語もできるし、多分まだ若くて女性としての魅力もあったでしょうし
日本の一流企業の経営者なんかとも、かなり親しくなっていたとか…
そうこうするうちに野村監督と知り合ったのかしらね
男女のことは他人にはわからないけど…
一方塩月さんは冠婚葬祭評論家として名も売れ、元々が茶道家元のお嬢様だし、ご主人もお医者さま、ということで、多方面にわたって活躍され、100歳近い天寿を全うされました(2015年96歳没)
でもこのかた若い時、社長令息とお見合い結婚したのに、四人の子供をおいて家出なさってるのよね
ほんと人に歴史ありだわ
さて、そのNHKのクイズ番組だけど、女性回答者はこの塩月さん以外も烈女揃いだったわね
初代は藤原あき、って人 この方もお金持ちの奥様、いわゆる名流夫人だったけど、ハーフの声楽家と駆け落ちしてるの
その後資生堂に入り、クイズ番組で人気がでてタレント議員のハシリにもなった人
二代目が塩月さん?
三代目は華道家元の安達瞳子さんだったかしら
子供の頃見た番組だから曖昧な記憶だけど。
この安達さんは髪をアップにして、後ろでくるんと留めていたのね
その髪の巻き方が評判になって、「瞳子巻き」とか呼ばれていたわね
えっと…16レスでいいのよね
じゃ、この辺で…ごめんあそばせ♪
いち乙
田口くん、薬で捕まってしまったけど、昭和の頃なら暫く謹慎して復帰できたけど、今はどうなのかしら?
>>1
乙です
昭和のクイズ番組の回答者では山東昭子をよく見かけた
彼女まだ国会議員をしているのにも驚く >>19
良く知らない青年だけど、淳之介といえば作家の吉行淳之介よね
私は好きでよく読んだわ >>24
家宅の人。って何?
火宅の人、なら檀一雄だけど… お客様にあいさつするときは畳に座って頭をさげた。
子供だったから、ちょこっと下げる真似をしただけだった。
それでもお客さんはおおげさにほめてくださった。
いまは親があいさつしないから、子供もあいさつしない。
海辺の光景、サーカスの馬…と思ったらそれは安岡章太郎だったわw
呆けてきたわ
逝ってくる
吉行あぐりの息子だよね
年配者なら、長年女優宮城まり子と恋愛関係にあった…なんてことを思い出すかもね
私は安岡、吉行あたりの作家はほとんど読んだことないからよく知らない…
でも宮城さんのねむの木学園…あそこの美術館には、随分昔に行ったことあるんだけど、どの絵も心が洗われるような作品だったわ
色彩豊でありながら、すごく澄みきっているというか…
>>29
暗室といえば、思い出すのは幻燈
もう完全に廃れてるよね >>31
あるわよ
今はデジカメで撮って加工
文化祭でカレンダーや絵葉書にして販売している
ソニーやパナソニックがカメラ業界=デジカメ産業に挑戦、参入
そんな時代が来るとは昭和の頃は夢にも思っていなかった 理容店のブログを見てたんだけど、日本にはまだこんなにアイパー・パンチパーマやリーゼントに
してる人がいるのかとちょっと驚いた
その筋の人にしか見えないようなヘアスタイルは時代が変わっても根強い人気なのかw
>>26
お客様を「応接間」に通すようになってから
畳に座って手をついて御辞儀をする、という習慣自体が廃れちゃったのかもね
昔はお客様が来ると床の間のある「客間」に通して、客もそこで丁寧にお辞儀をしてから
座布団に座り直した。子供はそんな大人の所作を見ながら自然とマナーを覚えたように思う
今は応接間すらないからなぁ >>33
堅気の商売人の叔父がパンチパーマの髪型ずっとしているわ
下の世代で言うと茶髪的な感じらしいので確かにいい年でも茶髪のおっさんとかいるなーと思うとさもありなんかなと >>33
へー パンチやアイパーって廃れたと思ってたけどまだまだ需要あるのね
そう言えば家の父も若い時パンチだったけど堅気にも関わらずサングラスとか着けたらあっという間にその筋の人に見えてたわ
父曰くパンチは手入れが楽だからという理由でしていたらしいけど >>32
ネオパンも生産終了
女なのにカメラやってるんだーなんて言われてた時代が懐かしい
カラーもいいけど、財布と相談、かつオリーブ少女またはサブカル少女だった私
フィルムはヨドバシで買ってたな 写真部の部室は現像液だか定着液だかの酢酸臭が漂ってた
天文部も天体写真とか撮るので写真部との掛け持ちも多かった
両部に共通するのは「闇」
今はなんでもデジタルで便利だけどちょっと味気ない
>>34
縦型西洋長屋 (通称マンション) には応接間はない。 >>37
トライXの詰め替えフィルム買ったなー。
D-76じゃなく、D-76タイプの安い現像液(の粉)買ってた。 そういや吉行和子さん、まだまだ今期のドラマにも出てるね
結構な年齢ですよね
吉行和子さん、声のかすれが酷くてちょっと心配するレベルだよ
野際陽子さんもすぐるちゃんのドラマの後半は声のかすれがひどかった
>>41
これは本人?
幸せそうに齢を重ねた感じね。 >>20
最近もアイヌ新法にも反対した憂国の士です 吉行さんてご飯も炊けない(炊かない)と公言してるわね
何度か結婚してるだけど、それを通したらしいわ。
思い出すのはNHKドラマ「けものみち」主役は名取裕子だったけど、吉行さんも脇でちらっとでていた…あの頃の和田勉のドラマはどれも印象に残ってる
声のかすれって食道や甲状腺のガンの時に出る症状だね
今日の夕方、歩いてたら昭和中期のバスクリンの香りがしてきて
あの緑のバスクリンにもう一度入ってみたくなった
でも、あの香りのモノはもう販売してないのよね
和田勉ってひさびさ聞いた名前だな
和田って奴は大体あだ名が勉だったから
うちの兄貴はずっとあだ名が機長だけどさ…
>>49
ドラッグストアで売ってるバスクリンの中で、容量は他の商品同様たっぷり系なのに値段が格安のもの買ったら正に昔ながらのそれだったよ
私が以前買ったのは300円未満くらいのだったw
香りや色はもちろんそれらしいのを選んでみて >>49
緑のバスクリンってジャスミンの香りかな
私の子供の頃のバスクリンはジャスミン、リリー、ローズの三種類があった
ネットの口コミ見ると今のバスクリンのジャスミンも昔のと同じ香りがするみたいですよ >>51
ハハハ片桐さんかしら…。
衣装デザイナーのワダエミさんが奥さんと知った時は驚いたわ。すごくクリエイティブなご夫婦よね >>54
和田勉が奥さんに衣装作り頼んだら、才能が一気に開花したケース
和田勉ってすり寄ってくる女優をつまみ食いしている印象だから、
あの二人が夫婦とはにわかに信じがたい 冬季オリンピックでワダエミさんのデザインの衣装を安藤美姫が着たことがあったよね。
フィギュアスケートの衣装としては変だった。
和田勉は朝のワイドショーのコメンテーターやってて、何を振られても駄洒落連発
司会の渡辺真理が完璧にスルーしてるのが面白かった
>>60
ワダエミ好きだけど、戦場のメリークリスマスにこれ?って思ったな 衣装といえば、歴代オリンピックの日本選手団のユニフォームもなんだかな、というのが多かった記憶
前の東京オリンピックは日の丸の赤と白のコンビネーション、これはまだわかるけど、その後もなかなかその呪縛(大袈裟だけど)から抜け出せず、紅白カラーだったような気がする
それが、長野冬季五輪では、紺を基調に垢抜けたユニフォームだったから、これは一般からの引合いも多くて、人気があったとか
逆に最凶だったのがシドニーのレインボーカラーのマント
旗手を務めた井上康生のごつい顎と相まって最低の入場行進だったわ
>>65
覚えてなかったから今検索してみたけど…ほんとひどいねw オリンピックの入場行進みてると、軍隊風の整列の時もあったわよね
最近子どもの運動会見てて思い出したけど、昭和の頃は入場行進で「かしらー右!」とか
そんな敬礼もしてたなー
日の丸の旗を持って入場行進、ダンスとか、未就学児は日の丸の旗拾いとか
今時こんな運動会してたら、ネットにアップされて大問題なんだろうな
日本をはじめとする数か国は
腕の振り方まで一糸乱れぬ軍隊風整列行進だった
ダラダラ自由気ままに入場してくる白人達がだらしなく見えた
長野オリンピックのときの公式ジャケットはかっこよくて
購入したなあ。
買いたくなったのなんてほんとあのときくらいだ。
今でいうキャビンアテンダント、昔はスチュワーデス・・・の制服で、森英恵がデザインしたJALの制服はすごいミニスカートだった
紀比呂子主演の「アテンションプリーズ」の時は森英恵デザインの制服だった。
范文雀も出ていたよね。
なんだか令和になってから、変な事件や事故が多くない?
飛び降り、刺した、刺された、轢き逃げ、その他交通事故…
昭和はそんな事件ばかりじゃなかった?
深川通り魔とか今でも伝説級よ
>>75
子供たちが殺されまくっているからね。
やはり飯塚幸三さんを野放しが理由か? >>75
あと異常気象もプラスで。なんか短期間に濃密すぎる
いい意味でも悪い意味でも動きが大きい時期ってあるし、むしろ改元もそのうちの一つなのかも 確かに
5月に北海道で39℃とかあまりにも異常
北海道の人ってめちゃくちゃ暑さに弱いから、何人かは倒れてるんじゃないかと心配になる
冷房設備のない家がほとんどだし
熱中症知識も今ひとつ浸透していない
90年代の異常猛暑の夏に住んでいたけど地獄だったよ>北海道
>>68
泣ける…
文武両道の優秀な日本男児から散っていったのよね 汚くてすみません。
ボットン便所が忘れられない。
お花見に行って公園のトイレに入ったらたくさん使用しすぎてトイレの底が和式便器と同じ高さまで来ていた。
あの時は使用したけど今は無理だろうなぁ。
>>83
>お花見に行って公園のトイレに入った
トランプ大統領夫妻のニュースを見て、昔カーター大統領が来日したときのことを思い出した。あれはいつだっけ…と調べたら、1979年6月だった。ちょうど40年前…まだ湾岸戦争が起きるずっと前…
ヒット曲でいうと、桑名正博の「セクシャルバイオレットNO1」ジュディ・オング「魅せられて」西城秀樹「ヤングマン」…
カーターと言えば黒いピーナッツ
スヌーピーもピーナッツ
>>41
マジですか…シワだらけになって…
もう現役じゃないよね? >>85
金八先生のドラマが始まった年だよね
サザンのいとしのエリーもこの年の曲
個人的には円広志のとんでとんで〜♪の曲が思い出深いけど 昭和から平成中盤ぐらいまでは、スーパーなんかでアルコール類の試飲販売よくやってたな。
とくにビールなんか、若いコのほうがウケるとばかりにマネキンが10代の女の子ってこともよくあった。
最近は、客に「飲んだら乗らない」の誓約書にサインさせて試飲缶渡してるね。
酒飲むどころか、運動部の悪男子と悪女子はセックスもしてた。
不純異性交遊と呼んでいたけど。
刑事コロンボ見てたら普通にワイン飲んでから運転してる
サザエさんでも、車で来たんだからお酒はこの辺にしておけ!といい酒瓶を無理矢理奪うシチュエーションがあったな
車で来たというのはサザエの勘違いというオチだったが
>>89
円広志ってそんなに前だったっけ?って思ったけど、そうだよね
その後、やしきたかじんとどうにも区別が付いてなかったので、たまに関西に行って
テレビをつけると大体出ててぎょっとする シートベルト着用義務化以前は事故でハンドルに体打ち付けて
顔面&肋骨骨折、またはフロントガラス突き破って車外に放り出されて
死亡というのがよくあった。
うちの子供が小さい時は膝に乗せたり抱っこして乗ってたわ、まだチャイルドシートは強制ではなかった
フィギュアの渡辺絵美さんが高速で事故って
フロントガラスを突き破って緑地帯に落ちて助かったというケースも
事故車は炎上したので中で失神してたら助からなかったかも
デートはポシェット斜めがけ
白いソックス三つ折り
おぼこかった
事故で忘れられないのは、昔ニュースで見た首都高の事故。タンクローリーが横転して炎上、運転手はその直後近くの明治神宮の森で縊死したと。
それをニュースで見て何とも言えず恐ろしい気持ちになりずっと忘れられなかった…
でもこれを覚えてるのは自分だけで、記録にも残っていないだろうと思って最近調べたら1996年の事故としてネットに残ってた。
もう20年も経つ…
似たような事故がもう一件あり、こちらはwikiにもなってる熊野町ジャンクション事故(2008年)だが別件
飲酒運転に厳しくなってここまで国民の認識が共通になったのは素晴らしいよね
ほんと昭和の親戚の集まりなんて車できてようがのめのめが当たり前だったもんね
>>99
子供を 「エアバッグ」 代わりにして、親は助かろう、という魂胆ね。 「ウィンタム」って覚えてる方いますか?
簡単に言うと袖付きスリップ
上半身がシャツ(半袖か長袖)
胸から下がスリップみたいになってる秋冬用の下着、だいたい昭和50年代くらいに普及してたかな
名前の由来は「ウィンター・オータム」らしいw
今はもう販売してないのか、調べたらオークションに出てた
>>98
昔テレビで観た空手バカ一代というアニメで
主人公の弟子が女の子を隣に乗せて車を走らせて事故ってしまうという話があって、弟子はガラス突き破って死んじゃうんだけど、
隣の女の子をとっさに空手技でお腹に蹴りをいれ、足一つで体が前に行くのを防いで怪我だけで済んだ〜みたいな話があったけど
現実に出来るか?と思った。 >>109
上半身がメリヤス素材の半袖〜七分袖で、ウエストあたりから下がナイロンのスリップになってるインナーは知ってる
ウィンタムという名前は初めて知った
昭和の女性は子供もスリップ(シミーズ)着てたよね
体育の着替えの時間に「あっ、今日シミーズ着てきちゃった!!」とむりやり裾を畳んで短パンの中に押し込んでる子がクラスに一人はいた。 >>109 >>110
ウィンタム何十年ぶりかに思い出した
中学、高校生の時に制服の下に着るようにと母親に言われた
ウィンターオータムの略とは知らなかったわ ウィンタムで思い出したけれど
冬用の高い高級下着があったわよね。
薄くて暖かくて北海道の人は良く買ってたと聞いたけれど
名前が思い出せないわ。
>>116
ダマール?
ダイアナ妃も御愛用って新聞広告によく掲載されていた 公立小学校高学年の運動会は
組体操と鼓笛隊やった
太陽に吠えろとか
ルパン三世のテーマなんかを
笛で吹き吹き行進したわ
まだ吹けるかも
鼓笛隊、隊長(?指揮者?)と立ってる鉄琴(なんか名前あったっけ)に
憧れたが、その他大勢の縦笛だったなあ
80年に朝日新聞から毎日新聞に切り替えた
そしたら毎月1回、激安通販のチラシが入っていて、ストッキングが一足65円くらいだった
当時、アツギのストッキング二足組で500円のを愛用していた
安すぎて母と顔を見合わせた記憶
今思うとあれ、セシールだったのかな
>>119
あたしも鼓笛隊は縦笛組よw
バトントワラーに憧れたけどね…でも恥ずかしがり屋だったから、ああいうのは無理 >>117
ダマールだったわね。
当時でも1万位したのよね。 ウィンタムも見ないけど、ブラスリップも絶滅した感じ?
>>120
セシールかも
その頃(昭和55−56年頃)に愛媛出身の子が激安ストッキングを買っていると言っていた
セシールはストッキングを売る会社だと思っていたら昭和の終わりか平成の初めに派手なCMを始めた
>>123
ブラスリップは見ないけどブラトップは売っているね セシール〜イロォフルサ・コンフィアンセ・ソォンナモ〜
>>119
立ってる木琴やったわ
あの肩から背負うやつ子供ながらにキッツかったけど端から見ると鼓笛隊感あっていいわよね そういうエロリラクゼーションもある。
それを目的に通うおばさんもいる。
女版耳かきみたいなもん。
>>127
その木琴みたいなの、よくわからないわ…私も昔鼓笛隊やったけれど。
ところで、鼓笛隊ってやっぱり一人熱心な先生がいないと駄目よね
うちの小学校でも、或る男の先生がほんとに休む間なく指導してた
情熱を傾けていたわ
生徒たちも真面目に練習してた
あの頃は難しい行進曲を何曲も笛でふいていたのよね…今やれと言われても無理 鉄琴鉄琴!
私はいつも鉄琴、鼓笛隊のときも鉄琴だった
ドミファソー ドミファソー ドミファソーミードーミーレー
高校の音楽教諭は声楽科卒で、リコーダーしかやらなかった
保育園の時に鼓笛隊でやってたなーと思いつつ
ベルリラの値段調べたらビックリした
あんな高いものを何台も保育園児に使わせてたのかー
小学生の時に音楽倶楽部。(市内では有名な小学校)
受け持ちはアコーディオンだったのに鉄琴を指名されて鉄琴をやって市のコンクールや演奏会にも参加。
木琴の男子が滅茶苦茶上手くて(天才系)で凄く惨めだった。(鉄琴、木琴は一人づつだった)
他のその他大勢の楽器に比べたら指名されただけ良いのかもしれませんが
個人的には失敗したらどうしようと恐怖だった。
最終的に音大出の私には鉄琴はトラウマで嫌な思いでしかないわ〜w。
木琴をやっていた男子は30歳くらいで亡くなりました。天才は夭折なのかもしれません。
>>133
あら?初めて見たわ
なんだか重そうね
それを抱えて、歩きながら演奏するの?
随分重労働じゃない? >>133
そうそう鼓笛隊の時はそれだったよ。
これは木琴だね。鉄琴も同じ形でした。 >>135-137
ぼちぼち重かった記憶があるわ
夏に練習中に鼻血出して園バスの中で休憩してた思い出があるものw
>>138
ベルリラぐぐってわかったわ!
幼稚園ではこれ使ってなくて先程の木琴と同じく肩にかけてお腹の前で叩くタイプを使ってたよ ↑このタイプの鉄琴だったの
幼稚園でだったからかな?幼稚園児が片手でベルリラ持ってもう片手で叩くの難しそうだもの
保育園でも、幼稚園でも
鼓笛隊でベルリラは珍しくないよ
>>143のタイプの方が重くて大変では? 昔の下着は綿メリヤスだった。友達はお家が金持ちだったので
絹製品が多かった。体育の授業で着かえるとき、さわって感心した。
小学生のとき引越したら
転校先の女の子がキャミソールっぽい下着のことをシュミーズって呼んでて
異文化を感じた
うちではスリップと言っていた
スリップという呼び方がエレガントでないと貶してたのは森茉莉だっけ?
子供用の綿レースの下着のことはシュミーズと呼んでたけどね
元農水省の事務次官の親に殺された長男、ゲーム漬けだったんだね
同い年だけど、小学校の低学年でファミコン出た思い出
この殺された長男は、子どもの頃買ってもらってたのかな
親が厳しいところとか、自分は買ってもらえなくて、よくよその家に上がり込んでファミコンしてたな
>>156
ドラクエ10にログイン中に亡くなったみたいね
他の人達が皆その人にザオリクかけてあげてる >>158
スレチだけど
ドラクエXは1時間操作をしなかったら勝手にログアウトされるシステム。
キャラが残っているのはツール使って落ちないようにしているだけ。
廃人のツール使いだよ。 >>153,154
ここまで皆シュミーズと言ってるわね
自分の子供の頃は、周りの大人たちはシミーズと言ってた気がするわ… 私の地域はシミーズがダサい扱いでスリップと呼んでいたわ。
物は一緒なんだけどね。
レースとか小花とか付いててかわいかった。
ザオリクじゃなくてザオラルというのがミソと聞いたんだけど
ザオラルだよね
しかし私もドラクエ10はやってるが、現実に亡くなった人のキャラを訪ねる趣味はないわ
交流あって仲が良かったとかならまた違うだろうけど
>>164
いちいちネットでぐぐったことしか、貼り付けられないの?
>>155と>>157もおたくでしょ
他の人は皆経験したことや思い出を書いてるのに。
おたくだけは、検索したことを貼り付けてるだけだから、スレの流れから浮いてるのよ
何がしたいか知らないけど、うんざり。
熊本スレから出て来ないで >>161
「丘の家のミッキー」で主人公が小学生の時にお母さんが
お友達とおそろいのシミーズを手作りしてくれたエピソードがあって
ピンタックやサテンのリボンや巻きバラをあしらった渾身の品で、読んだだけでわくわくしたものだが
その当時でもまわりでシミーズを着てる子はもういなかったなぁ
おばあさんが普段着を買うような街中の洋品店にはベージュのポリエステルのシミーズやブラスリップが売られてたような気がする
裾のレースがやたら豪華なのよね おたく…w
小学生の時にあなたをオタクと呼ぶのが流行りだして
オタクオタク言ってたわ
今はそういう意味では滅多に使わないけどスレの趣向に合わせたのね、きっと
コバルト文庫といえば氷室冴子だけど
別の作家さんの作品で女子高生がおしゃれに目覚める話が好きで何度も読み返してた
パパイン酵素入りの洗顔料もその作品で知ったわ
女子高生がオシャレに目覚める話が
久美沙織の「ガラスのスニーカー」だったら
同世代かもしれない
許婚のいいとこボンボンを振って
自由に楽しもうとする姿が良くて何度も読んだ
氷室冴子のちぇんじもジャパネスクも好きだったけど
私の中ではコバルト作家といえば新井素子だわ
パパイン酵素の洗顔料も出てきてたと思う、多分間違いない
【速報】金券五百円分とすかいらーく優侍券をすぐもらえる
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A 会員登録を済ませる
B マイページへ移動する
C 招待コード→招待コードを入力する [Rirz Tu](スペース抜き)
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クオカードとすかいらーく優待券を両方ゲットできます。
数分で終えられるのでぜひお試し下さい。 >>169
久美沙織と聞くと、ババアのわたくしは久美かおりを思い出してしまう。
沢田研二の相手役に抜擢された新人。でも、映画にちょっと出ただけで、そのまま居なくなってしまった… 久美かおりレコード大賞新人賞のステージで泣いて歌えなくなって
タイガースファンにブーイングされて公開処刑状態になったのを覚えてる
ブーイングといえば
マッチと噂が出たあとの明菜ちゃんが
トップテンの観客達に帰れコールされてたのを思い出す
確か、それでも気丈に歌ってたと思う
それでますます憎まれたと記憶
コバルト文庫では氷室冴子のクララ白書が一番好きだった
同じく氷室冴子読者だった当時の友達とはいまだに続いてるわ
入寮試験?のドーナツ揚げのエピソード好き
あと、中学生の主人公が大学生と付き合うのにドキドキした
>>156
発達障害とかあった雰囲気だね
この当時だと、そういう診断は一般的ではないから、学校生活とかトラブル多かっただろね
だから仕事も続かない… 久美かおり、ちょい鼻が大きくて可愛い顏だった
もう70前後?
新井素子も読んだ
星へ行く船シリーズとかグリーンレクイエム、絶句、扉を開けててのもあったっけ?
>>169
久美沙織ってドラクエの小説書いてた人ですか? >>184
ドラクエは分からないけど
MOTHERのノベライズは書いてたので
可能性はあると思う
実は、MOTHERのノベライズで
主人公の友達を、元ゲームにない設定にして
私はその設定を受け入れきれなかったので
久美沙織を読むのをやめたんだよね >>64
1964年東京オリンピックのとき、母は早起きして
お友だちと一緒に聖火リレーを見に行ったそうです。先導車が
配った小旗をふって迎えたら、目の前をどたどた固まって
走っていって、「なんだつまらない」 と思ったとか。 うちの地方もシュミーズはお年寄りが使うダサい言葉という認識で
若者は皆スリップと呼んでいた
しかもうちの祖母はシュミーズと言えずにシミーズどころかシミズ寄りの発音
知り合いに清水さんという人がいるので時々会話がかみ合わなくて混乱した
シュミーズがスカートの裾から出てる子を
清水みえこさんと呼んでなかった?
>>187-188
やだー笑ったわー
わたし的には
「うちのおばあちゃんはミニスカートを右スカートと言ってた」
以来の面白さw 中学一年のとき家庭科でスモック作った→調理実習で着用用
二年はスカート。ギャザースカート、フレアスカート、タイトスカート等数種類の中から好きな型紙選んで布やベルト芯ファスナーは手芸店で購入
三年がパジャマ。丸襟角襟・・・ネグリジェもあった気がする
その後地元の公立(普通校)に進学したら、いきなりエプロンだった
てっきり更に面倒なお題出されるとばかり思ってたから、ぶきっちょさんな私でも余裕
奥様達は、家庭科で何つくった?
>>190
昭和50年生まれだけど中学は全く同じ
パジャマは他の人と差を付けようと思って
トップとボトム別生地にしたなあ >>190
金八世代だけど公立中でも同じ、3年の時はワンピースも作ったよ
でも専門教科って地域差や教師の力量があるから一概に言えない >>190
スモック、スカート、パジャマ全て同じ!
高校ではジャンパースカートだったな
ちなみに小5で手提げバッグ、小6でエプロンだった >>186
昔は国道・都道府県道といっても、交通量がそれほど
多くなかったから、あちこちでマラソンや駅伝が盛んに行われていた。
日ごろから、そういう真剣な競技を見慣れた目には、
聖火リレーのようなきまった時間で一団がかたまって
よたよた走るお祭り騒ぎは興ざめだったのでしょ。 >>186
その頃なら国道でもちょっと田舎の方は未舗装のなんちゃって国道だったしねw
はっきり言って楽しめる状態でなかった >>190
小5きんちゃく袋
小6エプロン
中1スモック
中2ギャザースカート(裏地なしゴムウエスト)
中3パジャマ
高1タイトスカート(裏地ありファスナー付き)
高2は1年間調理のみ
高3は浴衣(ただし高3の家庭科は選択制で私は取らなかった) 名前が思い出せないんだけど、チャンリンシャンやティモテが流行った頃?
シャンプーの中にツブツブが入ってたのがクラスで凄く流行ったのよ
なかよしやりぼんでお菓子の香りの女の子がモテると思い込みバニラエッセンスをスカートの裾に染み込ませて登校していたわ。きっと臭かったでしょうね…
赤川次郎や銀色夏生を読み、時折ため息をついて文学少女を気取っていた
今思うとうつ伏せて足をバタバタしたい黒歴史よ
バニラ臭させてるバーコードハゲおやぢは今でもたまに出くわす
>>197
家庭科苦手で苦労したからよく覚えてるのよ
>>198
そのシャンプーはフルーツシャワーね
つぶつぶの名称はフルーつぶ フルーつぶと同時に流行ったのはチャンリンシャンではなくて恋コロンシャンプーね
>>199
頭から漢方薬の匂いがする禿げおやじよりましだろ。
いつだったか流行った中国の毛生え薬w シャンプーの香りといえば、レブロン、フレックスシャンプーーのバルサムの香りよね
根強いファンがいるのに、薬事法か何かの関係で、日本では販売中止になってしまった
昔の入浴剤にはかならず硫化ソーダが入ってた。
温泉の雰囲気が出ると好評だった。
しかし、これから硫化水素を発生させて自殺する人が多くいた。
とばっちりでアパートの他室にもれて中毒死する人が出た。
それで硫化ソーダ入り入浴剤は販売禁止になった。
>>200
フルーつぶなつい!
CMが工藤夕貴だったんじゃないっけ
夢かもしーれないけどって曲流れてた
こんなに覚えてて自分が怖い
中学の被服で作ったもの全く同じ
高校1年ではジャンパースカート
2時間続きの家庭科で
一回でも授業休むと詰んだ
高2は覚えてないからうちも多分被服無かった
高3は浴衣だけど私も被服は選択しなかった
保育を選んだの 保育園実習で子供に大人気で楽しかった思い出 丸文字って言うの?
コロッとした字を書くのが流行った
その後カクカクした縦長の字が流行った
所謂「丸文字」は学術的には「変体少女文字」と呼ばれている(山根,1986)
フルーツブっていうのね懐かしい
これも名前が思い出せないんだけど確か宝石箱?だったかしらドライフルーツみたいなのが入ったアイスがあってCMを見て凄く食べたくて誕生日にお願いしたらそこまで美味しくなくて凹んだわ
後は指にはめて舐めるデカイ指輪みたいなキャンディ
無性にまた食べたくなる時があるわね
おにゃんこクラブの人の作った字体があったな
懐かしい
>>210
その本、リアルタイムで読んだ
著者は中学校教師の協力を得て、数十年分の女子生徒の手書きのものを資料として借り受けて調査
初めて変体少女文字が出現し始めたのは昭和41年
ファンシー文具が登場して、可愛いノートには可愛い字で書きたい欲求の発露、
みたいな考察だった
昭和41年早生まれの私が初めて変体少女文字を見たのは、中学に入学した昭和53年春
4・2・1の割合で3つの小学校から生徒が集まっていて、私とは別の小学校出身の人たちだった
(小3まではみんな同じ小学校だったけど、児童数増大で新設校ができて分かれた)
瞬く間に伝播して、休み時間に練習している人もいた 同い年の私が変体少女仮名を初めて見たのは小学校高学年
卒業の年にクラスで出回ったサイン帳のページを書くのが天才的に上手な同級生が変体少女仮名文化を持ち込んで爆発的にクラスに広がった
今から思えば中高生のお姉さんが変体少女仮名をもっと早くから使ってたんだろうね
>>214
言われてみればクラスの中で文字のお手本的存在だった人、
3才上のお姉さんがいる人だった 子供の頃は、大人のひとの手紙などは、くずし字とか繋がっていたりして、読めなかったけど、今はもうそんな文字を書く人もないわね。
文字も時代により変わる…
達筆、なんて言葉も死語になってる感じ
TBSの筆記体ロゴもまさにそんな感じだ
学校で筆記体教えない以上しゃーないがTBSが筆記体ロゴをやめるやいなやすぐTBSが視聴率もオウム事件とその両方で駄目になったのは偶然ではあるまい今日6月6日はTBSの日ってんなわけないかw
>>217
夫の伯母(70代)からの年賀状は変体仮名まじりの毛筆だわ
能の崩し字を「の」と読むのを知ったのは高校生の時で書道をしていた子からの年賀状で >>216
ルリール、ヨシール、ノリール……写研の仮名書体いろいろあった。
ウメールってのは楳図かずお。 ウメール
>>219
うちは昔の書簡や掛け軸がたくさんあって、何が書いてあるかさっぱり分からず
軸の表装を頼んだ時に職人さんに聞いたら、
そういうのの読み取りを生業としてる人を紹介されたが、
たしか1文字数百円で、手紙一枚でも凄い値段になりそうで諦めたわ やだ、送信しちゃった…
今、結構、古文書を読む、という本が出てるわね。シロウト向けにやさしく解説してある本。ネットでも、そういうサイトがある。
でもホントに読めるようになるには、かなり勉強しないと駄目でしょうね、いつかはチャレンジしたいけど
>>225
仲春令月時和氣清
祝枝山書張衡 《歸田賦》
>>225
ぼけ防止にカルチャーセンターに通おうかと思ってた所
実家の古文書も結局読めずに役所に預けてしまって、ご先祖に墓で合わせる顔もなさそうなので 他スレで見たんだけど、角川博の元妻、津山登志子が娘と何やらバトル()してるらしいわね
津山、元女優と称してるみたいだけど、たいして活動はしてなかったと思うわ
元々は少女雑誌のカバーガールしてた
りぼんとか?
ポジション的には、浅野寿々子(巨泉夫人)とか榊原ルミみたいな位置だったけど、実際その二人よりは全然売れてなかった
(ごめん、かなり年配の人しかわからない話題かも)
昭和40年代後半から50年代前半のテレビの記憶
蒸気機関車の釜に石炭を投入する映像、トンネルに入ると煙が車内に流れ込んで顔真っ黒
西部劇で馬車で移動中に馬で追いかけてくるインデアン
実生活だと、子ども用のエナメルのハンドバッグや靴が好きだったな
今思い返してもワクワクする
>>229
インディアンとカウボーイと幌馬車ね、、、懐かしいわ
あれって日本で言えば時代劇みたいな括りになるの?
あと、保安官とか、二丁拳銃とか、、 インディアンといえば、こないだ大草原の小さな家を久々に見たら、
インディアンはその場にいるだけで悪い人扱いされてる感じね。
彼らの住処に入ってきたのは白人だろうに
西部劇のインディアンを見てローマ帝国とキリスト教による世界征服の歴史に思いをいたす人が居るかなぁ〜
Fザビエルを先頭にしたローマ教会の日本征服の野望を退けた信長・秀吉・家光らの偉大さはもとより、
ペリー来航による植民地化の危機を乗り越えた幕府の役人や維新の元勲らも偉かったと思う。
昭和の敗戦による植民地化を極力防いだ吉田茂がスレタイね
50年代前半て蒸気機関車の映像そんなにあったかなあ
国鉄のSLは昭和50年が最後じゃなかったかしら
眼鏡またはコンタクトをしている人に質問です
眼科で検査をするとき、機械にセットされているレンズをのぞき込むというのは皆さん経験していると思うのですが、
そのレンズを通して見る写真って昔は「草原の中に建つ白い家」でしたよね?
最近ツイッター等で散見される画像が「真っ直ぐな道の向こうに見える気球」になっていていつからそうなったのか疑問に思っています
この画像です
https://dailyportalz.jp/kiji/160308195883
画像検索でも「白い家」の画像が見当たりません。
どなたかいつ頃変わったのか、画像をどこかで見られるか、ご存じの方はいらっしゃいますか? 昨晩テレビで恥をさらしてた津山登志子って
昔昔「少女フレンド」の表紙を飾ってた鈴木登志子よね
あんなに可愛かったのに時は残酷だ
>>226
文選 (A) → パクリ → 万葉集 (B) → 元号 「令和」
A. 仲春令月時和氣清
B. 于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。 津山登志子はどっこい大作と一緒に上京した
でも職場は違っていたと思う
精神病棟に入ってたとか言ってたけど、なんか禿げてたよね。
>>211
宝石箱であってますわよ。
ピンクレディーがCMやってた。
夏休み、母の実家でレコード聞いた記憶。
キャ〜チリップ♪ B面だったけど、A面の曲が思い出せない。 今の30代、40代の女優なんて若作りにばかり熱心だから、気品とか華がないよね。
今の女優は美しいとかじゃなくて若く見えて可愛いのが大事みたい。
可愛くても、重みがないし、品もない。
グリコスカイミントの空箱がヤフオクで20万で出てるw
森永チョコフレーク販売終了してたのね
>>246
「気品とか華のある女優」 って誰?
「重みがあって、品のある女優」 って誰? >>246
それ、外国でも同じよね
私が個人的に思ってるだけでなく、ハリウッド関係の動画コメントでもアメリカ人(もしくは英語で書き込みしてる人)がよく書いてるわ ま、それを書いてるのもやっぱり私とおなじような外国の年配者なんでしょうけどw
あえて分析してみると、日本では今は、気品とかはあまり重要視されない
大事なのは、「透明感」と「若さ・可愛らしさ」そして何より「顔が小さい」ってことなのよねw
小嶺麗奈みたいな顔が小さくて幸薄そうなのはドキッとするね
>>248
岩下志魔、浅丘ルリ子、岡田茉莉子、山本陽子、草笛光子、
浜木綿子、岸恵子辺りの30代から50代にかけて >>249
そらデートリッヒなんかと比べられても困るよね現代の女優さん
ケイト・ブランシェットなんかは雰囲気あるけど >>237
アラフィフの私は気球バージョンしかしらない 久しぶりにNHKのBSで「大草原の小さな家」をみた。まだ若かった母、姉と当時夢中になってみていて記憶がある。大人になってみると感想も違うのかな。
>>255
見たわ
昔は土曜の夕方に放送していた気がする
姉妹の真ん中のローラが
今の感覚で見るとちょい発達と言われるかも >>255
>>256
土曜日の夕方だった。
よく夕食の手伝いしながら見ていた。
大草原の小さな家は原作も好きだったな。
開拓者の歴史って感じで。
あっちこっち引っ越す意味は当時わからなかったけど。 赤毛のアンもよく再放送してたわね
私はあれが好きで、カナダまで行ってしまったわw
ローラはアニメもあったよね
風と鬼ごっこ
走れ走れローラ、ローラ♪
>>255
この前csだったかな、ぶっ続けで何十話もやっていたのを見た
子供の頃は何の疑いもなくローラが主人公と思って見ていたが
アラフィフの今はむしろお父さんとお母さんの物語のように感じる ネトフリ契約したばかりの頃にぶっ続けで見たけど
原作からのエピソードを除くと男のロマン、西部劇という感じよね
父親役のマイケルランドンが仕切ってたんだっけ?
>>260
わかる
昔はローラ目線で見ていた
今は母目線
よくこのお父さんについて行ったなとか思うw >>248
五月 信子 (1894-1959年)
川田 芳子 (1895-1970年)
英 百合子 (1900-1970年)
栗島 すみ子 (1902-1987年)
田中 絹代 (1909-977年)
入江 たか子 (1911-1995年)
桑野 通子 (1915-1946年)
山田 五十鈴 (1917-2012年)
轟 夕起子 (1917-1967年)
https://middle-edge.jp/articles/36GC1 >>258
「赤毛のアン」 はカナダYTV製作作品の劇場版 (2016, 2017) を見ました。
赤毛のアン 第1部
赤毛のアン 第2部 初恋 (The Good Stars)
赤毛のアン 第3部 卒業 (Fire & Dew)
物語はもとより、大人から子供まで登場人物の服装が各シーンごとに
変って、それだけでもとても楽しいでした。
ダウンロード&関連動画>>
@YouTube
当時49歳
現代の49歳
263じゃないが、桑野通子って子宮外妊娠で亡くなったのよね
歯並び悪いがかなりの美人さん
実家に昔の銀幕女優の写真集があって
印象的な女優さんの1人だった
>>265
当時の49歳は髪型と服装で老けて見えるんだと思う
昭和の時代だと年相応の髪型服装をするのが義務のようなところがあった
40歳過ぎてロングの巻き髪なんかしてたら水商売の女みたいだと陰口叩かれたり
年齢的に若くても結婚して所帯を持ったらそれなりに落ち着いた髪型や服装にするものだった >>265
髪下ろして明るい色にしたら、あまり変わらないような >>269
だね
髪おろしてちょっとアイメイクすれば今と変わらない 昔のニュース映像を見てたら、偉い人が葉巻をくわえて喋っていたわ。
ドラマなんかでも、社長さんとかお金持ちの小道具として、葉巻やパイプを手にしていた。
蝶ネクタイに葉巻とかね
ゴム段と呼んだ?
ゴム飛びと呼んだ?
昭和40年代生まれの私はゴム段
同じ市の出身で昭和20年代生まれの母はゴム飛び
小学校の近くの文具店にゴム飛び用の長いゴムが売ってあったよ
両側の子が膝のあたりにゴムを掛けて二本にしたゴムで色々な技をして遊ぶのもあった
1986年 3月31日付 オリコンシングルHOT200
この当時、赤いラジカセ流行ってたのよね
いろいろ思い出して胸キュン(´д`) >>282
3/31付けで「蒼いスタスィオン」が入っている
変だな、その年の8月初旬にトップテンの閲覧に当たって、
10位が「夜明けのミュー」、それより上位に「蒼いスタスィオン」が入っていた気がする
それとも次の曲だったのか
小泉、河合と私も同学年で、もう一人同学年の女アイドルがランクインして出演していたんだけど誰だったか忘れた
ペアで招待ではなくて、四人でハガキを出したら私一人当選だった
当日の入場列も前後は1人で来ている人だった >>283
河合その子は次の再会のラビリンスだと思うわ
同学年は明菜じゃないかな? 明菜の妹の秋穂が病気で亡くなってた、ニュースを見た
明穂さんかわいそうな人生よね
姉の七光りデビューも失敗、エロビデオ出す、最近じゃ足が悪いって記事も出てたし、ずっと父親と暮してたみたいだし独身だったのかな
「じつは、明菜の一番上の姉の孫娘、私にとっては初の“ひ孫”が、去年、亡くなったんですよ。小児白血病で、骨髄移植したりと2〜3年、苦しんだんですが、小学6年生で他界
「明穂は交通事故に遭ってしまい、右の踵を大ケガしました。手術を3回も受けて、もうハイヒールなんか、とても履けなくなり、足が不自由で引きずるようしか歩けなくなってしまいました」
明菜が大スターになったら親族は不幸の連続じゃないか
栄光の光と影ってやつね
光が大きければ大きいほど、影も大きいと
>>277
>>279
私の世代だと1本のゴムを使うのが「ゴム飛び」で
平行棒みたいに2本のゴムを使うのが「ゴム段」だったな
ゴム段は飛ばなくても、両手にゴムをまきつけて頭をくぐらせて向こう側に出る、というやり方もokで
ルールが微妙に別物だった記憶 >>287
明菜の長姉に孫が生まれた時、明菜父が「明菜によく似た女の子が生まれた」
とインタビューに応じた記事を読んだ記憶がある
その時の子なのかな…切ないわ
ご冥福を祈ります 明菜の妹はヌードになって妻子持ちのマネージャーと失踪したところまでしか知らなかった
明菜も家族に金銭面で苦労させられただろうけど
年の近い妹なんかはほんとに姉の大スターぶりに、どうして自分は平凡なのか・・・って
どうしても思っちゃうだろうな> 光と影
江利チエミと腹違いだか種違いの姉もそんなだったよね
有村架純の姉なんかは別の方向性みつけて
妹に比べて自分は・・・の整形ぶっちゃけキャラで世の病み系女子から支持されそう
斉藤由貴の弟のファンだったわ
片岡鶴太郎、江口洋介と一緒に翼をくださいってドラマに出てた
もう平成だったかな
マジンガーZの新作観た
甲児くんカッコよくてさやかちゃん綺麗になってた
>>263
木暮 実千代 (1918-1990年)
高杉 早苗 (1918-1995年)
高峰 三枝子 (1918-1990年)
水戸 光子 (1919年-1981年
山口 淑子 (1920年-2014年)
明日 待子 (1920年- )
原 節子 (1920年-2015年)
花柳 小菊 (1921-2011年)
山根 寿子 (1921-1990年)
月丘 夢路 (1922-2017年)
淡島 千景 (1924-2012年)
京 マチ子 (1924年- 2019年)
高峰 秀子 (1924年-2010年)
三條 美紀 (1928年-2015年)
若山 セツ子 (1929-1985年)
https://middle-edge.jp/articles/36GC1?page=3 >>295
全盛期を過ぎた頃、野球の小林繁と付き合って、タバスコ一気飲みなんて記事がでていたわ、どこまでホントかわからないけど…
一方の小林も一時代を築いたけど、最期は借金取りに追われて早くに亡くなってしまった… ゴム段やるときはスカートの裾をパンツの足まわりに押し込む
>>294
鶴見辰吾の弟、「台風クラブ」って映画に主演したけどその後ぱっとせず
斎藤由貴の弟とともにホリプロ解雇されて今はわけのわからないことやってる >>300
斎藤由貴の弟は働いているけどオーラもない 台風クラブ怖かった
ただいま、おかえり、ってずっと言ってる子いたよね
今はあの設定できないね
>>299
スカートを深く巻き込み、ずりあげ過ぎて、お尻が丸見えの子がいた。
今ならいろいろ危ない 登り棒は「なに、この気持ち良さ!」
と目覚めた瞬間だった。
>>282
お年玉も足してテレビ音声が入る赤いラジカセ買って
ベストテンもレッツゴーヤングも録音したなぁ
アイドルも歌謡曲も演歌も洋楽もアニソンも、全部が入ってるバラエティ豊かなオリコン
今の薄っぺらとは違うね。懐かしいわ。 >>277
走り高飛びみたいに飛べる高さを競うのがゴム段
2本の並行に張られたゴムを片足ケンケン状態で歌いながら
引っ掛けたり巻き付けたりするのをゴム飛びと言ってた
けっこう複雑で憶えるの大変だった記憶アリ
東京育ちで昭和38年生まれです >>309
うちはゴム段とゴム飛びが全く逆だった
昭和50年生まれで東京の隣の県 >>311
あれでも昭和39年生まれなんだね(>_<)
5時に夢中が全国ネットされ恥ずかしい >>309
>>310
どっちもゴム段って言ってたと思う。
たまーにしかそのテの遊びをしてなかった1960年(昭和35年)東京生まれ。
確かに、高さを競ったりも、バンブーダンスっぽいこともしたけど。
長いゴム使うより、輪ゴムを繋げて長くしてやってたな。 >>277
>>313と逆に、どっちもゴム飛びって言ってた
無性に好きだったな
群ようこあたりのエッセイでゴム飛びという言葉もあることを知った
昭和39年生まれ、九州育ち 同じ区内でも言い方違うよ、ゴム段とゴム跳び
しかも私の周りではゴム縄だったわ。これはだいぶ少数派っぽい
森永ババロアのCMソング、アルプス一万尺とかの歌に合わせるバンブーダンスみたいなものと、
高さ種目以外にゴムを広げる幅種目もあって、普通の幅から指1本の幅まで引っ掛けて跳べるかってやったわ
カラーの輪ゴムを繋げてやってたよね
うちの地域では跳ぶやつより
高さを変えたり、交差してる中をゴムに触れずにくぐるのが主流だったな
隙間が狭くて難しいやつは、右手で1箇所だけ押さえてもOKみたいなルールがあった
最近は見ないけど昔は文房具屋さんでゴム飛び用の長いゴムが普通に売ってた
今の小学生はゴム飛びってやらないのかな?
学校近くの文房具屋さんは学校や勉強で使う文房具だけでなく
ボールや縄跳びなど子供の遊ぶものやおやつも売っていて子供のよろず屋みたいだったよね
でもゴム跳びのゴムはプラモデル屋で買ってたかな
ゴムダン、縄跳び、缶けり、だるまさんが転んだ、
杉並の空き地で遊んだわ
今の子は空き地が無いから可哀そう
何も無い所で遊ぶと創造力が発達するのにね
下駄隠しやったな
靴を隠して鬼が見つける遊び
下駄隠しの歌を歌いながら
鬼を決める
空き地で、ゴミ箱の蓋投げて遊んだなー。
巨大フリスビーな感じ。
アニメのトムソーヤのOPかEDか忘れたけど
トム達がタイヤみたいな輪っかを棒で押して転がす遊びみたいなのが
してみたかった
>>322
小学校の前に文具やさんあった
ちびまる子ちゃんの駄菓子屋さんみたいなディスプレーだったわ
引き戸に小さな金具がつけてあって、開けるとガラガラ音がして店の人が奥から出てくるの
奥の小上がりが居間という造りのお店たくさんあったなあ フリスビーが日本に入って来た頃、代々木公園で男の子とフリスビーして遊んだのを思い出した…
昔過ぎて忘れてた…
今は婆さんになったあたしにも、そんな若い頃があったんだ…と我ながら驚いてしまう
あの頃は高校でも大学でも、男子を引き連れて歩いてた
結婚してからはすっかり地味な暮らしになったけどw
>>329
あったねー都会にも田舎にもどこにでも
店番のおばちゃんが店の奥の部屋でテレビ見てるの
サンリオの文具とかかわいかったなあ
風の子さっちゃん好きだった >>324
下駄隠しかくれんぼーまな板にのーせて
ぽっくりぽっくりぽっくりな >>331
私が好きだったサンリオキャラはゴロピカドン
風の子さっちゃんも優しい雰囲気で良かったよね サンリオではボウタイ・ダンディーが好きだった
黎明期の2ちゃんでAAを見たときはうれし懐かしかった
>>328で思い出したけど、私の通っていた小学校には大型トラックのタイヤが山積みになっていた。
体が小さいから輪の中に沿うように入り、友達に転がしてもらい、ぐるぐる回転して遊んでたわ。
自然の多いところで毎日楽しかった。 >>336
リリアンの糸をほぐしてチリチリになったのをくるくる巻いて、真ん中を縛って達磨作るってのが流行った。 サンリオはみんなのたあ坊とマロンクリームが好きだったわ
>>335
私の小学校では、古タイヤや木の電柱をリサイクルした遊具がいっぱいだったの思い出した
タイヤに入って遊んだり、塔の様に山積みになってるのに登って遊んだり
今思えば電柱も綱も網も所々朽ちてたような・・・でも危険だなんて考えたこと無かったわ サンリオショップについて質問
昭和50年代始め位、市内のデパートにサンリオショップがありました 連れていってもらうたびテンション上がったものです
その後デパートは倒産、商店街も衰退、少子化激しく小中学校は次々統合
人口も当時の半分程度と、すっかし寂れちゃったらしい
しかし、今も昔も地方の山間部であることに変わりありません
今更ながら40年前市内に直営サンリオショップがあったとは思えない
直営でなくフランチャイズ?それかただサンリオグッズ集めた一角を「サンリオショップ」と思い込んでただけ?
確かコンビニ程度の敷地面積はあったのだけれども。
奥様達の生まれた町はどうだった?
>>341
うちの近所ではちょっと大きい老舗の文房具店二階にサンリオショップがあった
たぶん、今でいうフランチャイズ
スヌーピーグッズ、アメフトデザイン物もあったので海外ブランドも扱っていたと思う
徒歩圏内にあったデパートにもスヌーピーグッズがあった
でもそこはサンリオグッズが無かった
そういうわけで町の子はほぼ全員、その文具店の二階にサンリオグッズを買いに行ったわ
あのオマケで付けてくれた小物が懐かしい
最後におばさんが「どれにする?」って箱ごと見せて選ばせてくれたのよね
画像検索すると沢山出てきて、胸がうずく >>324
私もその遊びやったけど
今やるといじめに繋がるとか難癖つける人がいるんだろうなあ >>342
あーゆーオマケとかちゃんと捨てずに取っておく人ってすごいよね
フリマサイトで懐かし昭和グッズ見ると楽しい ド田舎だけど、文房具屋だった店がファンシーな小物を置くようになり
だんだんサンリオのものが増えていった
いちご新聞もたまに買ってたなぁ
みんなが言ってるおまけ(プレゼント包装してもらうとそこにもくっつけてくれる)が可愛くて嬉しかったの覚えてる
>>341
同じく昭和50年代前半、雑居ビルのカバン屋の上、2階がサンリオショップだった 直営かはわからない
私自身はそこまでサンリオは好きじゃなかったけど、パティ&ジミーはアメリカンな感じがいいと思ってた
つきあいで行くとなんだかわくわくしたよ サンリオショップ、直営なんてデパート出店くらいでほとんどなかったんじゃない?
ギフトゲートって名がついた店は大型店でいろいろイカしてた気がするけど
昭和のサンリオ直営店って東京でも新宿アドホックのギフトゲートと銀座店ぐらいだった気がする
小学生の時五反田TOCビル内にあったサンリオ本社に見学に行ってキキララの原画とか見せてもらった
いちごの王様は不在で王様の部屋(たぶん社長の応接室)に入らせてもらった記憶
銀座のサンリオはしばらくして閉店してティファニーになったような
あと昭和のデパートのサンリオショップはおもちゃ売り場じゃなくて
1階の婦人小物コーナーの一角にあることが多かったと思う
ホールマーク社のカードやギフトブック(ペイネの詩集ややなせたかしの絵本)のコーナーと一緒になってて
おしゃれな感じだった
新大久保にサンリオショップあってよく行ってた
大久保二丁目?あたりにも小さなサンリオショップあったな
ゴロピカドンのボードゲーム持ってた
いちご新聞に載ってた亀有のサンリオショップまでわざわざ親に連れて行ってもらったのを思い出したわ
うちの近所の小さな店より商品が充実してワクワクした
いちご新聞
友人が中学に上がるタイミングで親からいちご新聞を全て処分するように言われて、
それをまるごともらい受けた
ユニコとかその時代
いちごの王様からのメッセージとか載っていたような
余談だけど中学のとき1年5組で、学級新聞の名前を決めるときに女子が「いちご新聞」を提案
男子の猛反対に逢って「1の5タイムス」になった
>>355
> 学級新聞の名前を決めるときに女子が「いちご新聞」を提案
> 男子の猛反対に逢って「1の5タイムス」になった
当時の男子と女子の攻防が目に浮かぶようで、なんかほっこりした
私のクラスは「すまいる新聞」
ネーミングが80年代だわ >>356
外来語をひらがなで書くのが新鮮だったんだよね
みるく とか ぽえむ とかw 中1のときは班毎に名前を付けて、私の班は日本史マニアがいたので長州班だった
他の班の名前がどんなのだったかは、記憶にない
中1の学級新聞は週に一度、班毎に順番に作成
模造紙にマジックで書いて、教室の壁に張りだし
中2からはB5で鉛筆書き、1班から6班までで月〜土を担当して、毎日発行だった
昼休みの終わりまでに作成して担任に提出
帰りの学活でプリントしたものを全員に配布だった
私達の小中学校もずっと班ごとに何かやるようになってた。
班単位で学習したり活動したり
その班編成がまた大変
あとは席替え
席替えのたびにクラス内がもめる
前の方の席ははだいたい目の悪い生徒が座るようになってた。
あとは窓側がいいとか、廊下側はどうだとか…あいつの隣はいやだとか…
小学校の机は当時は二人でひとつの机だったから、誰が隣になるかは結構重要だった
その後、小学校もひとりひとりの机に変わったみたいだから、よかったと思う(無用な争いを避ける意味でも)
ネグレクト気味のお父さんしかいない男子がどうも風呂にもまともに入れて貰えてないみたいでまわりに疎まれていたのを
さりげなくクラスの男子たちを銭湯に誘ってその子を風呂に入るようにしてた担任
今ならそこまで立ち入ったことをするのは問題視されたかも知れないけど
大人になってつくづくいい先生だったなと気づいた
小5か小6の頃だったと思うけど、班の新聞を「ハレンチ新聞」て名前にしたら先生に怒られた。
>>361
昔はそういう先生がいたよね
先生自体が苦学してた人も多かったよ
子供の頃弁当が持参できなくて、校庭の隅で時間潰したとかそんな話してる先生もいたな
戦災孤児だったという先生もいた…壮絶
いい先生だったよ今思い出しても >>365
小学校低学年の頃の担任がソレ。
差別と依怙贔屓の権化。
その教師こそがクラス一番の「いじめっ子」だった。
自分は代用教員上がりじゃなくちゃんと師範学校を出てるって自慢してたな。 昔は尊敬できる先生がいたけど
今はもうね…
みんな事なかれ主義になっちゃったようだ
>>369
むしろそれ、昭和な言葉な気がする。
自分が学校行ってた頃も、子どもたちの頃も、まずこれ教師以前に人としてどうよ?って酷いのもいたし、良い先生もいたけど、昔のほうが酷い率高かった。 日本人が考える小学校教師の理想像が映画『二十三の瞳』の大石教諭(演:高峰秀子)である
ウルフガイで松田優作にレイプされたのは青鹿先生だっけ?
>>367
私が中学2〜3の担任がそれだ!
中2の時に身内間の問題で、叔母に引き取られたけど
転校先で何故か友達が出来なくて、ボッチが続いたが
中3になってから数が少ないけど友人になった子から
当時、私と仲良くなりそうになったら
その担任に呼び出されて
「高校受験に向かう大事な時に、問題のある子(私)と
関わるのはどうかと...」的に待ったをかけていたらしい。
因みにその担任、私が結婚後に趣味が高じた関連で
ちょこっと雑誌に掲載されたら
「自分の教え子だ」と言いふらしていたらしいw >>370
でもしか先生を初めて知ったのが昭和40年代の日テレ系青春ドラマ
先生にでもなるか先生にしかなれない
それでデモシカだって台詞にあった >>377,370
おっしゃる通り昭和30年代からある言葉で、むしろ古い表現ですね。
今はあまり使われないでしょう 昔と今の先生の顕著な違いは、私的には暴力(体罰)かな…
昔はビンタとか当たり前にやってた、男子には。女子は特にやられることはなかったけど。
今はほとんどの先生方は体罰はしないようになってる…でも最近のニュースを見てると、一時期よりはまた体罰が復活してるのかな…とも思う
何か体育系の部活で大怪我をさせたり、生徒を自殺に追い込むような暴力教師(もしくはコーチ)のニュースが増えてきた感じ、ここのところ
>>379
ずっと共学だよね?
女子校では容赦しなかった特に運動部は
体育系の部活もだけどもやはり個人的に小学校の組体操が悪質化してる感じかな
たまたま恩師が飯塚幸三さん同い年だが27年定年からもう経つのにいまだに地元小学校では飯塚幸三さんなみ権威言うか権力みたいなものを持ってるらしいからこういう上級元教員?の力があるのかも、 髪の毛引っ張ってブンブン振り回されたり、コンクリの柱に頭打ち付けられたり、なかなかエグい体罰されたわ。
悪ガキだったんだけどね。
田村高廣さん、品があって素敵よね
晩年までずっと仕事してたけど、全部見てたわ
正和さんも最近リタイアらしくて新作はないわね
年に一度、小中学校で箱入りの紅白饅頭が配られた
何の日に配られたのか、思い出せない…
家に持ち帰って、やはり持ち帰った兄者とともにウッキウキで母の帰宅を待ち侘びていた
二十四の瞳で高峰秀子と結婚する船乗りの夫が天本英世なのよね
寺の幼稚園で紅白の「御供物」=落雁が配られたのは何の日だったんだろう?
やっぱ創立記念日かな。
運動会かも?
不味かった。
ごめん、これ他板で百恵と言われてるけど、何か違うと思うわ
[sage] 2019/06/15(土) 01:59:52 ID:znCiyWbZ0
最近の百恵
昔、山口百恵のそっくりさんで山内百恵とかいうポルノ女優がいたわ
コピペだけど、今は学校のプールサイドにタオルあるのね?
364 名前:おさかなくわえた名無しさん [sage] :2019/06/15(土) 08:47:22.24 ID:nhFYH9ez
昭和の小学校プールの授業は、男女混合のうえプールサイドにタオルがなく話を聞くためにプールから上がると体が拭けない、という今では有り得ない状況だった。曇った日なんかは風が吹くと寒さに震えた。
だからみんな無意識で手で体の水を払った。
クラスで一番の美少女で濃い顔だった子はプールから上がると腕や足の毛が水で張り付いて真っ黒になり、その子は無造作に水を払うの他の女の子と違い、足の毛並みを揃えて目立たなくするように一方向に拭ってたのが印象的だった。今にして思うと小6でも自分の体が毛深い事を意識してたんだなぁ…
学校のプール授業の水着も、大正時代の水着みたいに太腿まで覆うようなデザインにする学校があるみたいね。ちらほら…
確かに今までは学校だからと、身体の線もあらわになるようなデザインを強制されていた…教師の盗撮事件なんかも起きてるから、ある程度は危険性回避するデザインにするのは良いかも
>>396
ハリウッドに渡ってスタントウーマンやってたよね
18年くらい前の「チャーリーズ・エンジェル」でも、メイン3人の内の誰かのスタントやってた >>398
あら、素敵なお写真。
自販機、瓶だったのよね。ちゃんと空き瓶入れる箱がある。
ガムも専用自販機も、あったわね〜。 加納竜って人以外は分からないわ
今と違ってソロ歌手たくさんデビューしてたんだな
ほとんどが無名の人でしょ、数人を除いては
何故だらだら貼っているのかわからない
>>402
下に行くほど知らなくなる。
黒沢ひろしは後のヒロシ&キーボー >>412
いや、どう見てもキャロライン洋子のお兄さん >>413
後に少年探偵になったね。
今見ると、ゴクミの息子に似てるな コメントもなくただ貼る人って一体なにがしたいのかね
普通にお話できないコミュ障が話題を提供してるテイを装いたい?
リアルタイムでは見ていないけれど
芦川いずみの顔立ちが大好き
子供の頃テレビで見た「あいつと私」
そこ頃から憧れの女性
>>420
何でもかんでも同じ人に見える病気か?
決めつけ乙!間違ってるけどなw >>417
参考までに伺いたいのですが、書かれてる内容は実際見るまでどうやってもわからないと思うのですが、
嫌な書き込みだけ見ないというのはどうすれば出来るのですか? >>423
横から失礼するけど、スレッド自体を見ない、という意味でしょう 前にも何処かに書いたと思うけど>>403の宮田恭男って人、昔、電車で見たことがある。
平日午後、新宿で私鉄に乗ってぼんやりしてたら周りの高校生がざわざわし出したので、ん?と思って見回したら、若い男性が車両の最後尾に立って本を読んでた。
それがリアル王子様みたいにピカピカしてて。肌がなめらかで顔立ちも整ってる。
でも知らない人だった…けど見とれてしまった。
その人が萩本欽一の番組に出てるタレントだと知ったのは暫く後のこと。
上のジャケ写じゃ全然どうってことないけどね >>424
説明してくれてありがとう
まさしくそう言う意味で書いた
自分にとって嫌なことが書かれてたとしたら
あぼーんすりゃ済むのに「嫌なことばかり」と
>>416みたいに、自分にとって嫌なことは書くなと言うのは傲慢だと感じる >>427
あなたも一行しか読まないでよく人の気持ちがわかるわね
傲岸不遜な女 >>397
50年前の小学校で、フツーにプールサイドのフェンスにバスタオル引っかけてたと思う。
地域による? 学校による? プールサイドにバスタオル持ち込みしてたけど、プールの中に入っているときにどこに掛けてた/置いていたか、さっぱり記憶に無い
>>429
50年前の小学校プールと言えば
洗眼用の蛇口?で必ず目を濯いだものだけど
現在、あの蛇口は廃止になったらしいね(遠い目)
あと腰洗い場とかは今でもあるのかしら?
まだ孫が居ないから、現在の小学校事情には
とんと疎いわ フェンスにロープが張ってあってそこにひっかけていた
昭和50年ごろ
>>432
腰洗い場、って
プールに入る前に浸かってた消毒曹のことかな
あれも廃止よ プール脇のコンクリートの床で躓いて足の爪がはがれたことがある
それ以来コンクリート打ちっ放しというものが苦手
最近のプールはFRPとかもっと爪に優しい夢の素材とかで出来てるのかしら
区民プールに目を洗う蛇口未だにある
腰洗い場は結構大昔に廃止されたみたいで30年前にはすでに見かけなくなったな
今、子供が通う小学校は水着注文用紙にも男女区別ないよ
小学校のプールで鼻炎起こした
鼻水止まらず夏でもマスク、一年通院
その後、水泳は見学のみ日焼け専門になっちゃった
水に濡れると毛並みが真っ黒になる様な南方系ルックスの美少女も、ゴクミなんかの昭和時代の遺物ですよね
>>434
私の頃、あれは市販されていなくて、母親がバスタオルにゴム通してスナップつけた加工品だった。
うちの親はそんな気が利くタイプじゃなかったから、持ってる子が羨ましかったわ。 着替えや身体検査で恥ずかしがるのは悪いことだという風潮があった
もじもじグズグズしていると教師の怒声、ひどいときは体罰
私が通った小学校はプールも体育も4年生まで男女同じ教室で着替えさせてた
身体検査に至っては高学年になってもパンツ一丁
胸を手で隠したりするとオバサン教師がヤクザみたいな口調でヒステリックに叱る
胸囲も体重も男性教師が測定するという無神経さ
じっとりした目で特定の女子児童だけ目で追ってる若い男教師もいてホント最悪だったな
>>445
小6でも男女一緒だった
みんなタオルをうまく使って着替えていた
文句を言う人もいなかった
中学の時は思い出せない
更衣室は男女別にひとつづつあったけど、
各学年7〜9クラスあったので使った記憶がない 中学はなんでもさすがに男女別行動でしょ?
身体検査も
体育も別だった男子が運動場つかうときは女子が体育館だから体育館の倉庫で着替えしてた
逆の時は女子は教室で着替えしてた
更衣室はなかったな
>>446,447中学、男女一緒に教室で着替えてた。
スカートを履いたまま、まずそのスカートの下にトレパンを穿いて、それからスカートを脱ぐ、みたいなやり方で。
更衣室作って、という要望はあったけど、なかなかできなかった。
ただ、そんなもんだ、と思っていたから、今の人ほどは気にならなかった…
おませな女子は嫌がっていたみたいだけどね >>446
私が文句言う人だったわ
いい担任だったけど、しかも若い女性教師なのになぜかそこは曲げなかった
学級会議題にあげたのに、なんか説得されてみんなで行為するのは間違ってないことになった
全く納得できなかったけどめんどくさくなったことだけ記憶 公立学校の現場教師は、設備を作ってやりたいと思っても権原もいっさいないから口にできなかったんだろうね。
すべて行政庁がつくる教育予算の不足が原因だった。
すべて高度成長によって解決したんだ。
結構、地域差があるのかな
私の小学校時代は50年前だけど
中学年以上は男女交代制だったわ
先に女子が着替えて、その間は男子は廊下で待機
という風に着替えてた。
まぁ、廊下から覗こうと思えば覗けたけど
(何度かはアホな奴らが騒ぎを起こしたっけw)
正義感に燃える?優等生男子群から吊るし上げを
食らった挙げ句、教師にばらされる→
親が呼び出される→女子からも総すかんと言う
結構なペナルティだったようなw
中学校、旧校舎を壊して新校舎を増築する工事中、旧校舎にあった更衣室が使えなくなり教室で着替えることに。
体育の授業は2クラスずつ合同で男女別にやってたので、A組で男子B組で女子が着替えるってなことをしてた。
女子が着替え終わっても男子が終わらないと、女子がセクハラ。
ごるぁ! いつまでモタモタしてっと開けるぞ!って。
糞田舎だが更衣室はあった
まあ土地に困ってなかったというのはある
小学生時分は離れの木造おんぼろ校舎があってそこは5年生が入ることになってて
冬場には朝当番が灯油を運んでストーブを着ける
いまなら危ないからそういうことはさせないだろうなあ
>>445
うちは最悪教師いたよ。
プール授業の前の着替えでタオル使って着替えするのが時間がかかると怒って
教室の中で男女タオルを使わず隠さずに着替えしろ、と命令下した。
男子が好きな子の着替えをちらちらと見たりして「○○君エッチ!」と
怒る子もいた。今なら絶対に問題になるけど、
当時はそういうのを親に言いつけたりするような風潮じゃなかった。 小学校か中学くらいまで、赤い鉛筆や赤ペンで氏名を書くと早死にするって迷信なかった?
若い新入社員で封書の宛先宛名を赤ペンで書いた子がいて驚いたわ
>>397
今はキッズ脱毛サロンが繁盛していると聞いて驚いた40代だけど、私の小学生の頃は一番可愛い女の子が一番毛深くて、その子はいつも超短いスカートなので太ももの毛の流れまで遠目にも分かる程だった。でもその頃は服というのは母親が買うはずだから、本人も母親も毛深い事は気にしてなかったのかな。確かにスタイルは良かったから、というのはあったかも知れないけど。 脇は別として
あの頃は体毛を処理する人なんていなかったじゃない?
腕や脛の産毛はあって当たり前
平成になってからじゃない?
みんなツルツルの腕になったのは
ストッキングの下ですね毛が渦巻いてるOLさん
昭和の時代はたしかにいたわ…
テレビCMが素晴らしいのばかりだった。特にたばこ関係。ビールのCMでシーズンインザサンが流れるのは秀逸
昨日の想い出づくり。
この時はまだ東北新幹線が無かったんだなぁと
この2年後の放送のおしんで乙羽おしんが上野駅に降りた時には、
緑色のラインの初代東北新幹線の絵が駅の外壁?にデカデカとあったからもう開通してたのかな
結婚式の花嫁はベッドに寝た状態で白塗りされるものだったの?
10年ぐらい後だけど私あんなことされた覚え無いわ
1行空けて書いたから分かりにくかったかもしれないけど
想い出づくりの中で、花嫁役の森昌子がベッドに寝かされた状態で
白塗りされたうえ目元の化粧までされてたの
>>455
あったかも
深夜0:00ちょうどに鏡を見ると・・・とか、ヘソの上に両手を置いて寝ると・・・とかもあった >>462
遅ればせながら…
昨日の「想い出づくり。」見てましたよ
寝ながらのお化粧は違和感がありました
古手川祐子がキッチン、いえ、台所の流しで髪を洗うのが懐かしかった オカルトついでに
こっくりさん
転校生の子がクラスに持ち込んだんだ
あまりに流行り過ぎて先生の知るところとなり禁止命令がでた
BSプレミアム「アナザーストーリーズ〜太陽にほえろ!」
生粋の昭和のドラマ
実況も大盛り上がりでした
こっくりさんは小学生のときに流行ってて
授業中にもやってた
紙も10円玉も使い回しで、それはいけないことだとあとから知った
新潟地震と言うと楳図かずおの「四年目の怪」という漫画を思い出す
主人公は4年ごとに幸運が訪れる少女
ところが16歳の時に転居した新潟では何一ついいことがなく追われるように町を出る
その直後に新潟地震で町が全滅…四年目の幸運のおかげで一家は助かった
というお話だった。
秋田で大地震があったことがあったよね
津波で遠足中の子供達が…っていう地震
秋田の地震(日本海中部地震)
週刊誌グラビアで津波水死した小学生引き上げた写真掲載されていた
>>460
前に書いた小学校時代の濃い顔の美少女が、大学就活の時、ストッキングの下で波打ってたのと、私の就職先での妙齢先輩で渦巻いてるのを見たのが最後で1996年頃だから、平成一桁で絶滅かな。ちなみに自慢する訳じゃないけど自分は全くツルツルで一度も処理した事無いんだけど、むしろそういう人の方が多いよね?? 九州住んでて、子供の頃全然地震なかった!
はじめて地震らしい地震を体験したのは平成にはいって高校生になってるときだった
関東は多いってきいてたけどさ 九州は地震関係ないと思ってたの 災害なんて台風絡みだけだって
屋外レジャーに行く日だけでなく普段から日焼け止めを塗りましょう〜
という空気は昭和の頃にはなかった。
今のように当たり前みたく腕や足も脱毛する人が多くなったのは
平成に入り日焼け止め意識が強くなってからだと思う。
どんなにまばらでも色が薄くても産毛が生えていると日焼け止め塗りにくいからね。
>>478
日焼け止めと言えばショックなことが
昨年、イギリスの大学だか研究機関が老若男女人種問わず大勢の協力を得て日焼け止めの効果について実証実験した結果、
日焼け止めの効果を得られる人もいるが効果を認められなかった3つのタイプを発表したの
3つの内のひとつが日本人にも多い
「太陽に当たると皮膚が赤くなる」人
このタイプはいくら日焼け止めを塗っても、効果は薄いんだって
他2つは「金髪、青い目」の人ともう1つは忘れた
どちらも日本人にはいないタイプだった >>477
関東から見て「九州」って大きめな括りだと、自然災害=火山噴火!ってイメージだな。
実際住んでる人にとっては、九州のどこらへんかで全然違うんだろうけど。 >>481
桜島はしょっちゅう噴火するけど地震よりも降灰だな リレー号というものを皆さん覚えてますか
東北から科学万博を見に行った際、東北新幹線ではなく車で行ったのに、
どういうわけかリレー号に乗った記憶がある
あれは大宮−上野間だったんですよね?当時他に東京に行ったこともなかったのにいつ乗ったんだろう?
目から入る紫外線で体内反応起こしてメラニン色素が出ちゃうんだよね。
>>486
>目から入る紫外線で体内反応起こしてメラニン色素が出ちゃう
↑
でたらめ 結局は、オゾン層の破壊、というのが大きな理由よね、日焼けに対する意識が変わったのは。
15年くらい前に外資系化粧品会社のセルフタンニング化粧品使ってたわ。それは実際に日光に当たらなくても塗るだけて日焼けした色になるというやつ。
確かギャッツビーから同じような製品がでていた。
でも昭和の頃に既にあったの。若い時使ってた、コパトーンのセルフタンニング。
独特の匂いがするのよね、人工日焼けの匂いというか。
今は世の中すっかり変わってしまったわね、とにかく美白でしょ
>>477
そういや、鹿児島は台風の時、毎年被害があったよね
土砂崩れとか
避難誘導しているおまわりさんが土砂崩れに巻き込まれる話とかプロジェクトXで見たことあるわ
最近は気候変動のせいもあるのか、あまり聞かなくなったね >>485
なるほど私は85年8月に万博に行ったので乗ってる筈がないですね
別の電車と間違えたのでしょう、納得しました、ありがとうございます
> expoドリーム号
明らかに普通の車両と違う形の電車をホームから見た記憶があるのですが、別の電車の話でしょうね 日焼け止めといえば資生堂?の、分離してて振って使うやつなかったっけ
>>493
日焼け後の化粧水、カーマインローション?
今でも売っているわよ、冷やして使うと気持ちいい カーマイン、棒つきの硬めパフでパタパタしてたよ
いとこのお姉ちゃんがやってるのがなんかカッコよくてw高校生の頃に始めた
乾くと白くなっちゃうのよね
小母さんの子供の時分にはサンオイルといえば黄色に橙の資生堂だったわね
青春時代には既にコパトーンが入ってきてそれ一択でした
>>489
美白という言葉が初めて出たのは平成一ケタの頃よね
昭和はサンオイルで焼いた日焼け肌がオシャレだった時代
特に子供は健康のためにも日光に当たってガンガン焼くべきと信仰されていて
私は焼けにくい肌質でいつも白かったから不健康児扱いされ夏場は肩身が狭かった
平成二ケタを迎える頃からガングロやまんばギャルブームが来て
日焼け肌復活か?と思いきやすぐ下火になっちゃったね >>498
若い子は焼いたね。
母親たちは帽子かぶってパラソルの下。 >>499
キャキャ砂浜でビーチバレー
…
それをお母さんが見ていた
のんびりした時代だわ 令和生まれの子も
令和の子供時代を振り返って
いい時代だったと思うのかな
カフェオレのことをカフェオーレ
ラザニアのことをラザーニアと呼んでいた
ピザをピザパイ
レモンスカッシュをレスカ
アイスミルクティーをアイミティー
>>492
> 明らかに普通の車両と違う形の電車をホームから見た記憶があるのですが、別の電車の話でしょうね
乗ったのか見たのか何が知りたいのかワケワカメ
日立のポンパ号と時空を超えて更に混じってる気もする 昭和の小学生だったけど、夏休み明けには「クロンボ集会」っていう名前の
日焼けNO1コンテストがあったわ
真っ黒けの土人がヤッホー♪って全校で歌うのよ
>>507
うちの学校にもクロンボ大会あったわ。
頑張って焼いてクラス女子代表になったw >>509
私も代表になった
商品がちびクロサンボの絵柄の
タオルだった
可愛い絵で大切にしてたな 日焼け自慢大会は無かったな
兄が小学1年の夏休み、校庭で親子でカレーライスを作って食べる催しがあった
クラス単位ではなくて、朝の集団登校通学班単位だった模様
家でカレーライスを食べるお皿は平たいものだったので、
子どもが手に持って食べるのには向かないので、
縁のあるカレー皿を買っての参加
楽しみにしていたのに、私のときは無かった
クロンボ大会!
差別意識なんて1mmも無くても傷つく人がいるだなんて当時想像だにしなかったわ
夏休みあけにクロンボだ土人だと男子にからかわれたなー
紫外線対策皆無で遊びまくっていた いい時代だった
何が驚いたかって、英語でインド人が「インディアン」だと習った時。
え?インディアンってインド人なの?
実は西部劇のインディアンはアメリカインディアンであり、
そもそもの発端は、コロンブスの大陸発見時の誤解に遡ると知ったのはかなり後だった。
今はネイティブアメリカンというのよね
インディアンの酋長ごっことか
土人ダンスとか
差別意識も何もなく普通にやっていた
そもそもボール遊びの「ドッツン」とか
地面に田の字を描いて、それぞれの升?に
王さま、金持ち、平民、乞食という
ランク付けをして「わーい王さまだ!」
「わーん乞食におちた」とか私たちの時代だと
平気でやってたけど
今じゃ、そのボール遊びが
一番二番三番...に言い方を変わっているらしい。
バカチョンカメラ、ビッコ、せむし、ロンパリ
めくら判、つんぼ桟敷...今じゃ差別用語で
使えない言葉がいっぱいあるね
ちょんは江戸時代から使われていた言葉で、
そそっかしい人、今で言うドジな人のこと
バカチョンカメラの由来もそこからなのに
人口20万ほどの地方都市だけど昭和50年頃まで時々乞食を見かけた
お金入れる容器を置いて新聞紙の上に座っていた
うちは飲食店をやっていたんだけど何か恵んでくれと訪ねてくる乞食もいた
そして今思うとそれはあくまでの日常の一部だったから別に誰も驚きもビビりもせず
祖母なんかはうちに来た乞食に普通におにぎりをあげたりしていた
子供は大人に「勉強しなければああやって乞食になるしかないんだよ(だからしっかり努力せよ)」と教えられた
格差があるのはけしからん!人を差別してはいかん!とエセ平等がはびこる現代より健全だった気がする
昭和30年代、渋谷のガード下に
傷痍軍人が座ってた 前に空き缶みたいな入れ物置いて
腕が無かったり、足がなかったりしてちょっと怖かったのを覚えてる。
ちびくろサンボやジャングル黒べえが封印された。
しかし、「ちび」「くろ」ってすげーな。
犬にもそんな名前付けてたっけ。
>>518
バカチョンって馬鹿とチョンボ(そそっかしい人)の意味で
明治以前からあった言葉なのに
チョン(朝)=朝鮮人の蔑称と歪曲されて
バカチョンカメラ→馬鹿でも朝鮮人でも写せるカメラ、と
真しやかに広がったんだよね。
何十年か前ででも、加山雄三が「ヨッ!お疲れさん!」と
言っている栄養ドリンクのポスターが
「四つ(非差別部落の人)お疲れさん」と読める、とか
何とかで回収されるとかあって、はぁ!?と
子ども心にも呆れた記憶があるよ。 ケロイド宇宙人が出てくる、ってことでウルトラセブン第12話も永久封印
されたまま。
円谷はこのほかにも「怪奇大作戦」で基地害を扱った「狂気人間」も封印。
ネイティブアメリカンは最近は再び使われなくなってる言葉じゃないかな…?
当人たちが「我々は皆と同じアメリカ国民だ、差別するな」と言って問題になっているから
まあポリティカルコレクトネスは上で書かれていることの百倍は締め付けが厳しくて
あらゆる人種、性的指向、年齢などを全部配慮しなくてはいけない社会に今アメリカはなっている
小説『1984』もびっくりの全体主義、歴史修正主義社会になってるよ
それと戦っているのがトランプでありプーチンであり、欧州の脱グローバリゼーション勢力なんだけどね
>>522
現存している明治時代の瓦版に「ちょんきな芸妓のナントカ奴」の記載があった
「ワンサくん音頭」も歌詞にドジっ子の意味のちょんが使われていて、
放送できなくなった
4で馬鹿馬鹿しいのは、バブル全盛期の日テレだったと思う
報道の裏側に密着、みたいな番組で、ADが本番前の指を折ってのカウントダウンに手を掲げていて、
5、4、3、2、1のところで4のときだけボカシが入った >>523
詳しそうなのでお尋ねします。
怪奇大作戦の「狂気人間」て第二話あたりの
最後海底の水圧に潰されちゃう話ですか?
かなり不気味で印象深かったんですけど、
アーカイブ探しても出てこないんですよねー。 >>528
『狂わせ屋』がでてくる『狂鬼人間』ですね
めっちゃ怖いです… コビトという駄菓子のお菓子メーカーもあった。
ピグミー族?の土人がメーカーのマークでおいしかった。
「コビト コビト コビト の キャンディー コビトキャンディー
コビト キャンディー オマケつき」というCMソングがあった。
なんか懐かしいなー
コビトとか、カバヤとか
ちっちゃいお菓子が多かった
2003年、以前から販売していたポストカードについて、差別にあたる!ってクレーム受けた
古い人形の写真や70年代POPのポストカード全撤去→処分
人事異動で渋谷から横浜に着任した直後だったから鮮明に覚えているんだ
>>478
昔は 色白が美人の条件でした。「色の白いは七難隠す」 とも
言ったそうです。
樋口一葉 「たけくらべ」 1896年
三
解かば足にもとゞくべき毛髮(かみ)を、根あがりに堅く
つめて前髮大きく髷おもたげの、赭熊といふ名は
恐ろしけれど、此髷(これ)を此頃の流行とて
良家(よきしゆ)の令孃(むすめご)も遊ばさるゝぞかし、
色白に鼻筋とほりて、口もとは小さからねど締りたれば
醜くからず、一つ一つに取たてゝは美人の鑑(かゞみ)に遠けれど、
物いふ聲の細く清(すゞし)き、人を見る目の愛敬あふれて、
身のこなしの活々したるは快き物なり、
尾崎紅葉 「金色夜叉」 1897-1902
(一)の二
宮の装(よそほひ)はわづかに暁の星の光を保つに過ぎざれども、
彼(か)の色の白さは如何(いか)なる美しき染色(そめいろ)をも奪ひて、
彼の整へる面(おもて)は如何なる麗はしき織物よりも文章(あや)ありて、
醜き人たちは如何に着飾らんともその醜きを蔽(おほふ)能はざるが如く、
彼は如何に飾らざるもその美きを害せざるなり。
泉鏡花 「歌行燈」 1910
三
浅葱あさぎの襷たすき、白い腕を、部厚な釜の蓋ふたにちょっと
載のせたが、丸髷まるまげをがっくりさした、色の白い、
歯を染めた中年増ちゅうどしま。
萩原朔太郎 「絶句四章」
色白の姉に具されて。今日もまた昔談や。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
https://www.aozora.gr.jp/ 小人って使っちゃいけない言葉か?
でもミゼットは使うよね
白雪姫と七人のこびと、は普通に使われてるから、別にいいんじゃない?
蔑称的に使用しなければ
絵具のチューブに入ったようなチョコ、あれ、チューブチョコって言うんだ。
おいしかったけど、今考えると体に悪そうだなぁ。
今でも売ってるんだろうか?
こびとずかんってあるよね。
本屋で普通に売ってる。
>>540
イングマール・ベルイマン監督のスェーデン映画 「沈黙」 (1962年) には
七人の小人の劇団員が登場します。
ダウンロード&関連動画>>
@YouTube
@ 24:16-24:21
A 26:12-28:54
B 38:30-39:09
C 1:19:47-1:20:55 >>536
白雪姫に登場するこびとは、人間というよりは
森のエルフである要素が強いからじゃないかな?
北欧辺りの森の妖精の伝説の中にいる
「小さく老人顔で地中で炭坑を掘るのが生業」という
種族をモチーフにしているからセーフ!
と、勝手に解釈しているw この流れで思い出したけど昭和の鉄道切符
子供用は小児って印字がしてあったなって
ググったら、大人用切符の上に小の字の赤ハンコもあった、懐かしい
自動改札でなかった時代の厚紙の切符だ
>>538
あなた、外に出たことないの?
今というか、最近はずっと日傘復活してるじゃないの
昔みたいな白系パラソルだけでなく、黒っぽいものもあるし
男性用日傘まである。
商店街とか混雑した道では日傘ってすごく邪魔に感じるわ なに、そのつっつかり方。感じ方の違いを言えばいいだけよ
>>546
感じ方の違い?
このスレの何%の人が「最近は車で生活してるから日傘を使わなくなった」という理屈に賛同するかしらね? ID:El9BylMK0 は ものの言い方に気をつけることね
けんか腰とか険があるとかいうことばを知った方が良いと思う
今度時代劇専門チャンネルで映画のてなもんや三度笠やるんだけど
今の尺度で見ると白木みのるの存在ってすごいなと。
うまいいいかた思い浮かばないんだけど。
>>507
やりにげろーそら逃げろーとっ捕まえたらフライパンで揚げられる
凄い歌詞だよね…今放送とかしたら大変だ 「大草原の小さな家」
再放送見ているけれどテンポがのんびり
コロンボも今見るとテンポが遅い
車といっても、
>>548 さんのは歩行車だからね。ナットク ナットク。
今日、都内某所の区立図書館に「天国と地獄」の上映会に行ってきた
上映後にゲストの日大教授と香川京子さんの対談があった
目の前数メートルに香川さん
質問したいことがいくつかあったのに、時間切れで二人で終了だった
残念
>>555
麻薬中毒者で菅井きんさん出てたよねあれ >>556
出てた、ヤク中の役
香川さんのお話で、後年スクラップ帳切り抜きの整理をしていたら、
黒沢監督が「天国と地獄」について語ったインタビュー記事があって、
権藤の妻はエリザベス・テイラーのイメージを想定していたとあって、
知っていたらものすごいプレッシャーだったと言っていた
(買い物袋なんて持ったことがない暮らししかしたことがない)
ついでに仲代達矢が演じた刑事は、ヘンリー・フォンダのイメージだったとか
三船敏郎は優しくて、衣装係が大荷物を運んでいるとひょいと取り上げて車まで運んであげたりする人だったとか 香川京子は黒澤、小津、溝口をはじめとする巨匠の映画に出演してるんだから
映画史の生き証人だね
天国と地獄、は黒沢映画で一番好き
どうしても時代劇のほうが人気あるのでしょうけど
>>559
上映前に解説、上映後に対談した日大教授は日本映画史の先生で、
正にそれを言ってた
香川さんが思い出深い出演作に「獄門帳」を挙げていた
「天国と地獄」では監督からセリフの無い場面での立ち居振る舞いの指示がなくて、
自分なりに苦心した話とか
香川さんの最初に撮影したカットは重役たちが追い出されるように帰る場面で階段から降りてくるところ、
タイミングがうまく合いますようにとドキドキしながら階段で待機していたそうです
失敗談で、誘拐犯からの最初の電話を受ける三船さんの持つ受話器の送話口に耳を寄せてしまって、
「そっちじゃない」と言われて気づいた話とか
皮肉なことに誘拐犯の罪が軽いことに憤りを感じていた黒沢監督が作ったこの映画に触発されて、
子どもの誘拐事件が頻発してしまったこと
有名どころでは吉展ちゃん事件、とのことでした >>553
アメリカのテレビドラマ 「大草原の小さな家 (Little house
on the Prairie)」 は Laura Ingalls Wilder のベストセラーに
基づいてネットワークNBCが製作し、1974年3月30日に放映されました。
ドラマは盛りだくさんのエピソードでテンポが速く、視聴者は
2時間釘付けになりました。
大好評に応えて、NBCはこれをシリーズものにし、同年9月11日から
放映しましたが、原作の自伝部分はじきタネが切れて、
フィクションとして、登場人物を無暗矢鱈増やしては複雑な
内容にして、だらだら話をひっぱりました。
「テンポがのんびり」 というのはこのころのことと思います。
https://en.wikipedia.org/wiki/Little_House_on_the_Prairie_(TV_series) >>539
絵の具チューブチョコ、滅茶苦茶好きだったなあ。
もう見かけないね。 チューブチョコ、ペリーヌだかマルコだかのイラストが書いてなかったかな
蓋の後ろの突起で穴開けるのが楽しかったけど味は好きじゃなかった
硬い水飴が割り箸に刺さって20円くらいのやつも好きだったな。
舐めて温めてからめっちゃ練るの。
唾液ついた後練るから、今考えるとちょっと汚い?
小人といえばヴァル・キルマーが88年に出たウィローって映画
本人以外ほとんどが小人の俳優達だった
昔は女子プロレスにはミゼットプロレスがセットで興行してたけど
人権団体が文句つけてきてミゼットレスラーが仕事を失ったというルポ読んだことある
俺たちは障害者かも知れなkがアスリートなんだって言ってて切なくなったわ
>>538
結婚式の記念写真に日傘がよく使われます。
土曜の夜にNHKで「YOU」っていう若者向けの番組やってて
当時小学生で、高校生の姉が見るから仕方なくみてた(土曜日だから0時近くまで起きてておっけー)
小学生にはちょっと内容が大人な感じであんまり面白くなかった
でも土曜だから夜遅くまで起きているという状況を楽しんでいた
ユー!ユー!アイニージュー!みたいなテーマソングだった
攻撃は最大の防御なり。 昨日のやりとりを読んで、頭の悪い人はそうするしかないとつくづく思ったわ。
ホモとかオカマとかレズも笑いものにされてたけど今やったら炎上だね。まあ大騒ぎするのは
LGBT運動とやらで自分が市民権を得たと勘違いし調子に乗ったホモやレズだけで普通の人
は傍観するだろうけど。
>>572
YOU懐かし〜
私も小学生だったけど坂本龍一ファンだったから見てたわ
オープニングも良かったけどエンディングの曲が好きだった
タイトルを坂本龍一がラジオでリスナーから募集して「両眼微笑(りょうがんびしょう)」に決まったのを覚えてる >>565
割れてない割り箸に刺さってて自分で割って両手で飴びよ〜んてするんだよね!
やだ40年ぐらい忘れてたなつかしい >>573
観客のひとり
「出てた」は正確じゃない 158名無しさん@1周年2019/06/23(日) 21:08:20.43ID:hWiaOqc+0
そもそも日本人がまともな食物を食べられるようになってから百年ちょっとらしいからね
白米が贅沢品で庶民は粟・ヒエ・麦しか食べられない
大根の沢庵や白菜の漬け物がメインの惣菜
亡くなった祖母が子供の頃は鶏卵が高級品で桐の箱に入って売られていたと言っていた
>>561
そういや最近は身代金目的の児童誘拐事件って無いね 昭和と言っても戦前戦後高度成長期バブル期では全然違うでしょうね
戦後世代のうちの両親は
バナナが高級フルーツとして1本売りされていた話や
カレーライスはたまにしか登場しないご馳走だった話をよくするよ
「ひもじかった頃の記憶」
著者 渡辺裕二
出版 リーブル出版 (2010)
雑穀、虫、草に筵 (むしろ) まで。食べられるもんはみな食べた。
食べるほかなかった。
著者が村や町を歩いて明治、大正、昭和初期生まれの人々から戦中戦後や、
昔の食べ物の話を聞き、それをそのまま聞き書きとして記録。
多くの農民は高い小作料を現物で払って残り僅かになり、それだけでは
食べられないため、別に雑穀を作って食糧にあてた。
むらによっては山岳地帯という厳しい自然環境にあってもともと
食糧難に悩まされていた。ひとたび飢饉になれば、彼岸花(ヒガンバナ)の
球根を掘るなど山野草を取り、木の実を拾い、筵まで刻んで
食糧にあてた。
https://ec.line.me/product/1966185554/ うちの親に 休んだ子の給食のパンを届けさせられたと聞いたことがある。たぶん 昭和40年代
>>584
昭和50年代に私も実際届けてたよ
わら半紙でコッペパンをくるんで、ジャムやミルメークある日だったらそれも一緒に わら半紙、懐かしい。
いまあんなガサガサの紙みかけないね。
>>586
17年くらい前に近所の文具店が閉店セールをしてて、わら半紙100枚入りを見つけて購入した
Office Depoができてわずか数年で近隣の文具店と店舗用品店が数件、店仕舞いしてしまった
そのOffice Depoも10年営業せずに撤退した バナナが高級品だと頭に刷り込まれたじいさんの前で
子供が2本目のバナナを食べようとすると怒られた。
>>590
とうほぐだけど「西洋紙(せいようし)」言ってた言ってた
あと「ざらし」、「ざらがみ」っていう先生もいた あとまとまった数のプリントなんかを
げんこつくるくるして必要枚数数えて取り分けてた
束ねたわら半紙を一気に切断する機械みたいなの職員室になかった?
手で下に押して使うヤツ
職員室の隣に印刷室があったかもしれない小学校の時
>>593
職員室の隣に印刷室あったあった。当時生徒会の会報みたいなのを清書する係をやってたんだけど、オブラートみたいな…油紙みたいなちょっとペラッとした用紙に、先の尖った針みたいなペンで文字を書いてインク垂らして一枚一枚刷るの。
地味だったし大変だったけど好きだったな〜 「ボールペン原紙」と呼んでいた
先生は鉄筆で書いたけど生徒はボールペンで書いた
文字を間違えた時に使う専用の修正液があったように思う
よく覚えていないけど
元々はヤスリにのせて鉄筆で書くロウ原紙しかなかったのよ
ボールペン原紙が登場したときはこんな便利なものが!と驚愕した
>>598
修正液、アルコールのようなツンとした臭いがした気がする
マニキュアみたいにキャップの下にブラシがついていて、青色の液体だった ロウ原紙の修正液は毒々しい橙色だった
クラスのイケメン君が派手にこぼして太腿がべったり橙色に染まったのがエロかった
パラフィンで出来た修正液あったね
なんか甘い匂いだった
紫色の綺麗なのでマニキュアごっこして怒られたわ
今から20年か25年位前、夫の関連の人が言ったそうです
当時50代以上の人に気をつけなさい。
戦前戦後の喰うや喰わずの時代を過ごした人だから、人を出し抜いてでもいい思いを
しようとする。火垂るの墓の世代。他の時代と人間の質が違うから気をつけろ
>>580地域による。江戸とか大阪は普通に庶民が白米をたらふく食べてた。 >>601
私が覚えてるのも橙色だったわ
でも昔過ぎてぼんやりしてる、ていうか、何か二種類を混合してた記憶もある。
あと、ガリ版と謄写版ていうのが同じものかどうかもよくわからない。 >>580
さすが昭和スレだけあって共産党系の階級闘争史観、東京裁判史観の古い認識だわw いやその人いつも自分の思い出でなく、どっかから引っ張ってきた書き込みや、又聞きの話とか、戦前の画像とか貼ってる「浮いてる人」でしょ
>>608
でもよく文章も書くんだよ
そのときは団塊左翼丸出しなんだけどw 欧州の政体は人道的で江戸幕府は弾圧的で非人道的だという長年左翼が流してきたテンプレを信じてる層は結構いる。
実際は欧州は自国領民を妾のネックレスを買うために奴隷として新大陸に売り飛ばしたり飢饉が起きても放置してカニバ
リズムをさせても平然としてたりする。日本の場合コメなどを領民に与えて救おうとしたり年貢を免除したりしてる。
救済、お救い米の話はあちこち残っているけど
わざわざ書かれているのは希少だったから
豊作だろうが凶作だろうが一定の米を徴収しようとして一揆が起こったのは珍しくない
名君と持ち上げられている殿様も百姓は米以外作るなとお触れを出して農民逃散したとか
凶作で米価格暴騰の中、幕府首脳に米を賄賂に流してしまい反乱おきて大阪まる焼けになったとか
歴史解釈は史実を踏まえておこなうこと
欧州のはそういうレベルでなかったというお話をしてるのにこの人は何言ってるんだろう?
「左翼が流してきたテンプレを信じてる層は〜多い」
「日本の場は〜」
欧州は酷くて日本はエライですか?
国家民族に拠らず残酷話と救済話は混在しているのが現実であり史実でもあります
誰がエライかヒドイか民族と結び付けてはいけませんよ
まあ妾の宝飾品のために領民を奴隷として売ってないからね日本。
左翼って反米を唱えていながらアメリカの富裕層の狙い通りに動いているのが滑稽だわ
格差是正を唱えながらその格差を作っている金融資本が拠って立っているグローバリズムとリベラリズムとフェミニズムに乗っかっている
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ
各地で50万もいるという。
肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、
奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。 鉄の伽をはめられ、
同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、
白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の
教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2869029.html 日本にいたポルトガル人宣教師は、同胞商人による日本人奴隷売買をひどく
嫌がり、本国に取締を要請し、1570年9月20日にドン・セバスチォン王は
禁止令 を出したが効き目はなかった。「この現象を嘆いて、ポルトガルの
碩学、アントニオ・ヴェイラはこう言って
いる。『法律というものはあっても、違反者は絶えないものである。例えば
日本人を奴隷にすることを禁止する法律が制定されているにも拘わらず、
ポルトガル国内には多数の日本人奴隷の存在する事実によって、 これを
証することが出来る』」(『入門』165頁)と中隅さんは例証する。
禁止令の26年後にアルゼンチンで奴隷売買されたフランシスコ・ハポンの
存在がまさにそれを実証している。
現在の伯国に通じる法律軽視の気風は、すでにこの当時の宗主国にはあった。
「秀吉の側近だった大村由己(ゆうこ)は『日本人男女数百名の多数を
黒船に買取り、手足に鎖をつけて舟底に追い込み、地獄の責苦をあたえ』と
憤慨して書いているから、一船当たり、200名位は積んだらしい」
(前同)と記す。
まるでサルバドールの奴隷市場で売り買いされた黒人と寸分変わらない
様子で、日本人も扱われた歴史がある。
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/news〇plus/1399908639/779 >>581
日本だと身代金犯罪って効率悪いだろしね、だから詐欺事件ばかり増えてる
子供の身代金誘拐は減ったけど、サイコ的な子供を快楽の為に誘拐や殺人は増えたのでは
今だと昔みたいに子供達だけで外で遊ばせる事や人少ない道を子供だけで通学させれない感じだし やっぱり宮崎勤が転換点なんだろうね
あの辺から身代金目的の子供の誘拐は聞かない気がする
日本の歴史教科書は白人の悪辣さ、キリスト教の欺瞞性は教えない
インカ帝国は1532年、スペインを征服した総督フランシスコ・ピサロが率いるわずか
168人の軍隊に制圧され、皇帝アタワルパが捕虜となりました。
この際、ピサロは皇帝の解放と引き換えに多大な財宝を奪い、そのうち2割をスペ
インの国王に献上、残り8割の財宝は兵士たちが分配したとされています。
第13代インカのアタワルパは約束した金と銀を積み上げた後,修道士たちから偶像
崇拝者とみなされていたため,まずカトリック教徒としてバプテスマを施されてから絞首刑にされました。
https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/101998004 、神父は聖書を皇帝に勧め、この中の言葉に由来した権威だと答えた。皇帝は聖書を調べ
、「なぜこれは喋らない」と尋ね、地面に放り投げた。この行動はインカには書き文字が無
かった事によるものだが、結果的にスペイン人に対しインカと戦うための絶好の口実を与
えてしまった。神父が神に対する冒涜だと叫ぶ声を合図に、射撃は開始され、2時間にわた
り7,000人以上の非武装のインカ兵が鉄剣と騎兵により殺された。この時使われた鉄砲は先
込め式銃であったため発射は数斉射に限られ、スペイン人の戦果の大半は剣によるものだった。
アタワルパは輿から引き摺り下ろされ、太陽の神殿に投獄された。
明治生まれの人達が何かにつけて振り翳していた
明治の気骨、明治の矜持、明治の良心…
もうすぐ昭和生まれが同じことを言い出すんだろうなぁ
>>628-629
米国アイダホ州出身のケント・ギルバートは(67)は1980年代に
来日し、モルモン教宣教師の仮面をかぶってマルチ商法で善良な
日本人をだまして富を得た。いまはゴーストライターに
書いてもらった原稿をつぎつぎと出版して印税を荒稼ぎし、
似非評論家として日本会議 (統一教会の下部組織) 主催の
講演会で高額の謝金をいけしゃあしゃあと受け取っている。
かくて昭和・平成・令和の三時代にわたって、日本を蚕食し、
「右翼ビジネス」 の成功者として栄耀栄華を誇っている。
http://2chb.net/r/seijinewsplus/1559550432/40 500mlペットボトルって1996年からなのね
伊藤みどりの動画を観ていたらキスクラで紙コップで水を飲んでいたわ
昭和は瓶入り500mlコーラが「ホームサイズ」として売っていた
家族で分けて飲む量だった&開栓したら飲み切るしかなかったから
女子高生だった頃の夏(1990年くらい)
夏期講習の帰りに、自動販売機で缶入りのはちみつレモンを買うのが楽しみだったなあ
白い缶に可愛い蜂のイラスト
あれって350mlだったよね
今自販機で買うってスーパーよりずっと高いから贅沢だと思えるんだけど
1990年くらいの頃はそんなこと考えてもなかった・・・
高校生の頃ってスーパーへ行く感覚なかったもんね
コンビニか自動販売機だから主婦になって特売の安さにびっくりしたわ
特に日用品
いや、当時って通り道にもスーパーはあったし安いのは常識で知ってはいたけど
塾帰りにお小遣いで缶ジュース1本買うのは私も自販機だったと思う
わざわざスーパー入って売り場で探してレジに並んでっていう買い方は私もしなかったように思う
自販機で買う楽しみってプライスレスじゃなかった?
TPOによる使い分けってあるじゃない
1990年は平成2年、ということは、今42,3歳の奥様か〜
そうそう
講習終わった〜暑いな〜から
自販機に百円玉をカチャンと入れて
ゴロゴロゴトンと出てきた冷たい缶を取り出して
「ああ〜炭酸噴かないように」と
ちょっと緊張しながらプルタブを起こすまでが美味しさなのよ
高校の夏期講習の帰りに古びたかき氷屋さんに寄るのが楽しみだった
ある日行ったらお店の人がいないけど友達と喋りながら待ってた
すると奥でトイレの水が流れる音がしておばちゃんが「いらっしゃーい」と出て来た
注文して食べたけど、おばちゃんちゃんと石鹸で手洗ったか不安だった思い出
>>640
そういうお店、冬場は太鼓焼き(大判焼き)を焼いてたなー、うちの地元では >>634
あはは、懐かしい!
画像検索しなくても脳内記憶で久乃が出て来てポーズ取ってくれたよ! 1990年は平成2年、ということは、団塊Jr.の奥様か
奥様になるどころか犯罪ニート多い世代それこそ豊田真由子このハゲではないが奥様だけで勝ち組ドヤ顔解らんでもない
はちみつレモンってありとあらゆる企業から発売されてましたよね
最初はサントリー発売だったから、当時はみんなサントリーの真似っこしてるんじゃないのと思ってた
よくよく考えれば、商標登録してるわけじゃないから各メーカーは出していいんですよね
オレンジジュースやクリームソーダが各メーカーから発売されてるのと同じ
子供が露天に放置されている冷蔵庫に閉じ込められて亡くなる事故って昭和によく起こりましたよね
最近聞かなくなったのは安全対策が施されたか、放置すると罪が科されるようになったか
ある事故では鍵を操作すれば中からも開けられたけど、真っ暗でそれがわからなかったという事例があって胸が痛んだ
ダイドーのはちみつレモンが好きだった
ダイドーも昭和〜平成5年頃はよく見たメーカーだけど最近ご無沙汰になった
ダイドーも覚えてるCMは「飲んでミスティオ」とか言ってるCMくらいが最後かな
昭和の終わりに午後の紅茶が出た頃
缶紅茶ブームになったっけ
ネーミングもみんな午後teaの真似っこというか
「霧の紅茶」「紅茶花伝」のように露骨に「漢字+紅茶」な後続品が多かった希ガス
中には「tess」「ピコ―」というのもあったけど
>>643
アホか
その年代で最近話題になった人をあげて強引に結論づけてるだけじゃん
そんな手法なら団塊なんてジュニアの幾倍になることかw 昭和50年頃、中学生の私は夏場の部活帰りにみんなで
「チェリオ」を飲むのが楽しみだったw
当時のジュースの中では最安値の50円
炭酸系、量も多くてしかも結構な確率で王冠を開けると
クローバーのマークがあってもう一本当たり!という
貧乏中学生達の救世主だったが
当時の添加物基準から見ても、飲めば舌が毒々しい
オレンジor紫(オレンジ味、グレープ味)に染まるわ
明らかに薬品風味w満載だわの...飲料水としての
ダークさが変にみんなのテンションを上げて
帰り道にはお互いの舌の毒々しさを競ったものだわw
>>648
フリーズドライの紅茶物語は84年春だったけど、すぐ消えてしまった
アイスティーがお手軽に楽しめた >>649
643は多分、「キャンディ」という半コテ
最近あまり書き込みしないから、知らない人もいると思うけど、ハゲとか豊田真由子とかわざと無理矢理なことを書いてく >>648
無糖紅茶のジャワティーが好きだった。
あれってあまり売れなかったのかな。 >>650
同じく。
バス停の前に、パン屋があってそこで買ってバスを待つ間に立ち飲み。
大好きだった。
最近まであったけど(今もあるのかな?)、もうあの感動はない。 >>654
ジャワティー今もまだあるんじゃないかな 無糖のジャワティはまだあるよね
ジャワティは平成?
当初はシンビーノというブランドから出てたような覚えがある
>>653
キャンデーさんは643みたいな芸風じゃあない
もっと上品で博識なかたですよ あ、勘違いしてた
649のことかと思ってたんだけど
643だったら確かにキャンデーの旦那かもしれない
緑茶→急須でいれたやつ
紅茶→ティーパック又は粉末溶かしたレモンティー
コーヒー→違いの分かる男、又は、フラスコみたいなのにアルコールランプみたいのつけてボコボコ沸かして水が登ってくのが不思議だった
パーコレーターっていうのがあった
何度か使ったはずだけどどんな使い方かも忘れた
アサヒのチャティーというジャワティみたいな紅茶が好きだった
「こつぶ」を飲むと最後の方は粒が上のほうに貯まって全部飲みきれないというかつぶを食べきれないので
歯がゆい思いをした
飲み口から指を切らないように入れて上のほうにはりついた粒をすくいとって食べていた(汚ネー
>>666
やったねー
オレンジジュース繋がりで思い出したけど
飲料メーカーのキャラクターで「リボンちゃん」っていうのがいたなー
スヌーピーの人が描いたみたいなシンプルな線の絵で
でっかい赤いリボンの女の子
雑誌の裏表紙によく広告が載ってた そしてこの『インカ帝国の滅亡』のあらすじを、どうも豊臣秀吉や徳川家康は知っていた様なんだよ?
だからキリスト教禁教令(キリシタン弾圧)をしたと考えらる
此等の情報をもたらしたのは、当時のイギリスや、お互いを牽制するオランダやポルトガル等のスペ
インのライバル国とされている
キリスト教の布教は危険だと考えるのは、当然の事だろう
日本の様に武力が強く、文化の発展した国においては、国民をキリスト教に改宗させ人心掌握して
内乱を起こさせ、弱った所を侵略するのが当時の列強諸国のやり方だったのだからね
https://ncode.syosetu.com/n4357cw/160/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3) インカ帝国にまつわる新発見!日本人ルーツ説の謎に迫る! | The mystery
https://otoriyosegurume0141.com › 古代文明の謎
2018/02/12 - 13世紀〜16世紀にかけ繁栄したインカ帝国 最盛期は、北はコロンビアからチリまで領
土を拡大 この南米最大の帝国が、日本人の祖先であった可能性があるのだ! >>667
テレビCMやってなかったっけ?
商品よりリボンちゃんを全面に押し出したCMを見たような記憶 10年くらい前にリボンちゃんのCMがあったような覚えがおぼろげにあるわ
リボンちゃんはリボンオレンジ、リボンシトロンのキャラクターだよ
>>670
りぼんちゃ〜ん、リボンジュースよ〜
って、お母さんが呼ぶやつじゃなかった? >>667
10年以上前、待受け画面にしてたわ、ガラケーの頃ね。
iモードサイトに、リボンちゃんの待ち受け画面があったの。
真っ赤な絵と、もう一つの絵、ダブル画面?(クリックすると絵柄が変わる) >>645
ねこぢるでそういう描写の話あったなーって思い出したわ
想像するだけで怖すぎる…絶望で狭い中死ぬのやだわ… 北海道では、リボンナポリンていうオレンジ色のサイダーみたいなの売ってるよ。
>>645
あったね
てことは昭和の子供ってけっこうゴミ置き場みたいなところで隠れんぼとかして遊んでいたんだな
私も空き地で遊んでたな
背丈より高い草が生えてた
今ではビルが建ってしまった
ユーミンじゃないけど >>653
彦根のおっさんでしょ
まともに句読点使えてないから >>679
当時は「公園」みたいなお膳立てされた場所なんか
殆どなかったから、ちょっとした空き地や草むら
土手とかでも十分遊ぶ方法を工夫したし
大人が禁止しても、こっそり溜め池や廃屋で
冒険ごっことかもしたw
当時は意識してなかったけど、日常の延長線上に
死は稀に転がっているってイメージだったかも
野良犬はそこらじゅうに居たし、犬猫、ネズミの
轢死体も珍しくなくて、ご近所のお爺ちゃんお婆ちゃんも
いつかは亡くなってお葬式があって...というのも
当たり前だった。
小学校の6年間にクラスメートの不慮に死は3人居たし
そういう事は不運だけど、あるのは仕方ないという
諦念みたいなものがあったような気がする。 >>681
野良犬いたな
校庭に入ってくるのは昭和あるあるだったw
諦念あったよね
子どもなんてバカやるからいつ事故で死んでも不思議じゃないみたいな
リスクヘッジとしての2人、3人きょうだいという面はあったと思う
それにしても3人亡くなるのは多いね ネットが普及する平成の初めごろまで、
近所の寺院の何かのお祭り(骨董市や陶器市の日だったかも)の日に
毎年テントの下で行方不明者の人探しがあった
と言っても、そう大人に聞いていただけで、
どんな手段で探していたのかどんなことしてたのか行ったことがないので分からない
調べても、どこにも出てこない
廃冷蔵庫にかくれんぼで入って死亡。
ぽっとん便所に転落して死亡。
農業用水ため池に落ちて死亡。
昭和の子供事故。
防空壕にガスがたまって死亡
防空壕はいつ頃まであったかしら?
小学生の時トトロのモデルになった所に住んでた
地域学習は所謂七国山辺りの田んぼでおたまじゃくし見たような
山の奥の方に不審者が住み着いてると言われた記憶がある
今思うとホームレス?不審者≒危険wのんびりした時代だった
小学校帰りに知らないおじさんに話しかけられて
もうすぐバレンタインデーだね〜誰かにチョコあげるの?とか
普通に会話しながら帰ったのを思い出した
今なら小学校に報告案件か
>>687
八国山は散歩にいいんだけどこの時季は蚊の餌食になるから行けない 学校帰りの帰り道、時には校門のすぐそばに
手作りみたいな手品の道具とかを売る怪しいおじさんが年に一度くらいいた。
後年、そういうのは務所から出たばかりの人が当面の日銭を稼ぐために
しているのだ、と知った。
>>681
昭和は60年もありますが、それは昭和何年代ころの話ですか? >>690
居た居たw
子供騙しの手品の他に
粘土?を般若や鬼面の型で型どりして
上から金粉を振って仕上げる工作系とか
大人から見ればなんじゃそれだけど
子供の目には魅力的で値段も
おやつの買い食い一回我慢すれば...程度の
絶妙な値段設定のやつを売っているオジサンw トトロの舞台をググるマップ見ちゃった
西東京市…えっと、元はなんて言ったっけ?
>>689
お住まいの奥様?
今は田んぼも畑も住宅地になってしまって映画の欠片もないでしょうね
電車が通ると全力で手を振ってたw車掌さんが振り返してくれるのが嬉しかったわ カラー砂絵のオジサン、カラーひよこのオジサン、浮沈子のオジサンも肛門脇に居たね
同一人物だったかどうかはわからない
>>693
それ、「型屋」ってやつ?
前に他板で男性が書いてたと思うのだけど、私は全然見たことなかった。
だから男の子用の遊び(売り物)なのかな、と思ってたわ 新興住宅地だったから公園はいっぱいあったな
今日はどこの公園行こうかな〜て楽しんでた
お気に入りの公園に住みたいとまで考えてたわ
こうもん と書いて変換すると普段使っている漢字に変換される。
肛門
肛門
肛門
校門
試してみたわ
あの頃、キリスト紙芝居で来てたおじさん(パンフ持ち帰ったら両親に嫌な顔された)
ラムネか何かの四角い板を上手くくりぬくと\30〜\5000くれるらしいおじさん
とうに鬼籍でしょうが、何処からやって来て何処へ向かっていったのか 当時考えたこともなかったな
公園にあった箱型ブランコ楽しかったな
椅子の背もたれに立ってふざけて
ガッシャンガッシャンいうまで漕いだりした
あの遊具で指を切断する事故がときどきあって
平成初期にはほとんど撤去された
>>704
あったね@箱形のブランコ
あと丸い鉄骨の回転遊具や、二人で漕ぐタイプの
シーソーもあったけど、最近じゃそれらも見掛けないから
危険だと撤去されたのかしら。 最近見かけないといえば、女性のネッカチーフ(スカーフ)
だいたい昭和40年頃?までは、女の人がネッカチーフってものをよく頭に巻いてた、風が強い時とか…といっても街を歩いてる人の20人に1人くらいの割合?
もっと少なかったかな
こないだ古い画像見てて、思い出した
昭和40年頃の渋谷には、空き地もあったし
空き地に土管もあった
お笑い漫画道場でよく土管の絵を描いてた漫画家いたね
>>707
>昭和40年頃?までは、女の人がネッカチーフを頭に巻いてた
>>705
丸い鉄骨の回転遊具、去年行った公園で現役のヤツを見かけたわ
懐かしさと物珍しさに興奮して乗ってみたけどけっこう怖かった
みんなでガンガン回して乗ってた幼少期は、怖さを知らなかったんだな ほどなく
>>713 さんは 「回転式納骨堂」 にはいるのでしょうね。 >>705
丸い鉄骨の回転遊具って
グローブジャングルのことかな?
回旋塔かな?
どっちも面白くて好きだったわ。 うんていってどういう漢字かとググったら雲梯!
何となく納得
あれみるとどうもチンパンジーを連想しちゃうのよね
よく学校の校庭とかでやってたけれど
必ず上に上る男の子がいたわ
雲梯
腕の力がなくてうまく出来ないから上に登って歩いてたわ
うんてい= うちの母校の小学校は「さるわたり」って呼んでいたの
あれにぶらさがる様はまちがいなくお猿さんよね
>>715
あれ、グローブジャングルっていうんだ…知らなかったわ >>722
7回視聴のをよくみつけたわね
しかも2年前に公開のw
それにしても中国でも雲梯っていうのね 遊動円木
前後に動くだけなんだけど男子が漕ぐとかなりスピードが出て、ちょっと怖かった
日本にもアスリートおじいさんみたいのいたけど死んじゃったからなぁ。
作詞家の千家和也さん訃報
「ひと夏の経験」「なみだの操」「年下の男の子」等々
>>725
遊園地のバイキングに乗った時に
遊動円木を思い出したわ
どっちも怖いwもう乗れない グローブジャングルも遊動円木も初めて聞いたわ
地球ジムと棒ブランコと呼んでた
小学校の校庭に棒ブランコと船ブランコと傘ブランコがあったけど卒業する頃には全部無くなってしまったな
>>729-730
小学校6年くらいの時、校庭の遊動円木で男子がすごく激しく揺らすので、女子たち皆がキャーキャー言いながら「やめて〜」とか言ってたの、怖くて。
そしたら1人の男子が
「○○先生が、女子がキャーキャー言うのは喜んでるから、もっとやって欲しいからだ、と言った」とさらに激しく揺らして来たの。
その言葉を聞いた時のショックは忘れられないわ
えっ?
と思った。
喜んでないわ、ホントに怖いのよ!って思った。 遊動円木って名前知らなかったから検索したら
これトラウマのやつだわ
手すりとか付いてなくて丸太のだったから
振り落とされそうで本当に怖かった
ジャングルグローブと遊動円木、物は知ってたけど名前知らなかったわ
勉強になる〜
回旋塔は知ってたけどここで聞くまでその存在すら忘れてた
あとはシーソーの手でぶら下がるバージョンみたいなのがあったなあ
相方が急に手を離すとヤバイ
子供が野山で遊ぶことをしなくなって
公園からは遊具も消えて
タワマンの空調効いた室内でゲーム三昧
文明ってなんだろね
回旋塔でわざと吹っ飛んで遊んでたな
我が子があんな事やってたら青ざめるわ
木登りに崖のぼり。
柿の木の枝が折れて背中から落下。
数秒間、息ができなかったな。
よく死ななかったわw
でもそんな昭和の遊びで死んだ子もいっぱいいるのよ
ほらあなたの後ろにも…
マンションの屋上から隣のマンションの屋上にジャンプする遊びをしてて落ちた子いたよね
>>738
回旋塔、転校した学校にあったわ。
危険すぎてものすごいびっくりした。
吹っ飛ばされそうになったけど、子供心に手を離したらヤバイと思ってなんとか持ち堪えた。 遊動円木って幼稚園にあったわ
足置きと手すりがあったな
よくデパートの屋上にあった動物の乗り物についていた手すりのようなものが
>>740
どこどこの公園のブランコの鎖が外れて吹っ飛ばされて亡くなった子がいる
と言う噂が子供たちの間で真しやかに囁かれていた 昌子ちゃんだけ髪飾りケチられてかわいそう
昔はパーカーの服はあまりなかったように記憶
今の子供が昔の公園で遊んだら、パーカーや紐でひっかかりまくりだろうね
>>748
言われてみればそうね
フードの付いたのは防寒用の一部だけだった 1988年のダイエーのチラシ なんでも安いw
むかしって家も床置きエアコンが普通だったのかな
>>751
すごい面白い!レイアウトや物がレトロだ
昔のチラシを集めた本とか出たら絶対買うわ
サラダ油200円位、アイロンやハンドミキサー3000円位、ストーブ一万弱とか今とそれほど物価が違わない印象…
バナナ9円は安いねw 兄が昭和51年春にブリジストンのロードスターだか名前は忘れたけど、
黒の5段変速のスポーツサイクルを買ってもらったとき、
5万円弱だったのを覚えている
>>751
1975年に建てたうちの実家はエアコンじゃなくクーラーと暖房が別だった
リビングは天井にクーラーがくっつけてあった
各個室はクーラーなかったけど昔は今ほど暑くなかったし >>737
ジジババ世代も自分たちに危害が及ぶから子供は外で遊ぶなと言っている
現在多くの公園では野球ができない
バットを使わずに手で打つならいいというところもあってちょっと意味がわからない >>755
今は幼稚園、小学校でも「よその家のお子さんを車に同乗させないでください」の世の中だよ
事故を起こしたり巻き込まれたりしたときに、大変だから 自分の生まれる前だと東宝特撮作品(DVDで全部観た)、リアルタイムだとクイズ・ドレミファドン!が思い出深い
TBS 荻昌弘(月曜ロードショー)
日テレ 水野晴郎(水曜ロードショー⇒金曜ロードショー)
フジ 高島忠夫(ゴールデン洋画劇場)
NET(テレ朝) 淀川長治(日曜洋画劇場)
往年の民放の洋画劇場の解説者はみんな死んじゃったね
小森のおばちゃまも。
12chのあの早口女はまだ存命かと。
増田貴光
また聞きですみません
仕事関係であった人曰く「男と思えぬほどの美貌」だったとか
>>762
と言うか男に媚びる美貌でしょうね。
なぜ往時の映画評論家にそちらの人が多かったのか謎 高島忠夫といえばクイズ!年の差なんてだな
昭和じゃなかったらごめんなさい
>>762
増田貴光、NHKの子ども向け番組の司会をしていたが特にハンサムだと思わなかった
子どもの目には分からなかっただけかもしれないけど 高島忠夫は細うで繁盛記の
こいさんに恋してる板前さんだったのを憶えてる
>>768
あら、太陽の季節に出演してた?
あれは日活映画で、高島さんは東宝じゃなかった? 50年代終盤以降はたまに貸し借りがあったのよ
裕ちゃんを借りるかわりに忠ちゃんを貸すとか
高島は太陽の季節に出てないよ
第一、日活に対抗して五社協定ができたんだから貸すわけない
高島忠夫は司会者としてしか知らんわ
81年にクイズドレミファドンの司会に伊藤つかさが出たとき、
あまりにも役立たずで露骨に不満を顔に出していた
伊藤はいつの間にか消えた
>>765
あーそれか
まず淀川さんのお稚児となり可愛がってもらうことから始まる・・・ >>773
伊藤つかさって、そんなに喋り下手とは思えない。高島の性格の歪みを感じるわね >>776
いやいや、テレビを見ているこっちもイライラしっぱなしだった
高島忠夫に同情するレベル
台本あるはずなのに、しどろもどろもいいところ
案の定、すぐいなくなってホッとした
81年の夏休み前だったと思う
部活の友だちと「何あれ?」と話した記憶 映画と伊藤つかさで思い出した
初の日中合作映画とかで伊藤つかさがチョイ役出演
予告編は伊藤つかさプロモーションビデオかってくらいだった
全くスジには関係ない場面で涙をポロリ
観客一斉に噴き出し私も笑いが止まらなかった
これでファンが増えるとか熱が高まるのとかスタッフ事務所考えていたのか
全くナゾの感覚
>>778
それは「未完の対局」
30年くらい前に上海から来た女の子と話す機会があり、
紙に「未完 対局」と書いたら通じた
「上海雑技団」と書いてNTTの上海雑技団の猫のテレホンカードを見せたら驚かれた 淀川さんは生涯独身だったけど、別にホモだったわけじゃないでしょ?
わずらわしい人間関係より独身を選んだわけで死神博士の天本英世さんも同じ。
荻昌弘さんも物腰おだやかそうで、
映画にのめり込んで解説までする人ってインテリが多そうだし。
>>777
伊藤つかさって、後年もトーク全然ダメだったの?演技はマトモだと思うのだけど 淀川ホモ説、何度もみたことあるけど
洋画紹介の功績大であり、私生活で世を乱した人じゃない
その話題はパス
増田貴光は女を愛せず新婚妻を放置した、
仕事をなくし詐欺で川口松太郎夫妻を騙そうとした
これはイケマセン
タカラトミーアーツ TAKARA TOMY A.R.T.S
昭和ミニラジカセ [対象年齢:15歳〜]
>>780
いや、女性を受け付けなかったのは事実でしょ、そんな人は芸能界のみならず芸術家でも多いわよ、日本だけでなく海外でも。
古くは小津安二郎とか古賀政男先生もそうだったと言われてるし、海外ではジャンコクトーとかが有名。
だからと言ってその芸術の価値が下がる訳ではない。
あと、古賀先生は若いときに女性に失恋してる、その時作った作品が「影を慕いて」(作詞作曲) 淀川さんに「あなた可愛いわね」と若い頃の夫は頭をなでられたw
夫の自慢話のひとつです
小津は強度のマザコン
内縁の妻は小田原の芸者さんで深川生まれの彼にふさわしかった
宮城だったか温泉の近くに古賀政男記念館があった
そこには友人(オトコ)との別れに「影を慕いて」を作った云々とあった
愛弟子(オトコ)が日本一の美女山本富士子と結婚した。祝福しないで絶縁した
優れた芸術を生み出せばホモだろうが女アサリだろうが芸術には関係ない
ないけど醜聞もオイシイしww
淀長さんと言えば、ドロンの太陽がいっぱいはホモセクシャルの映画である、とただ一人喝破した
殆ど賛同者はいないみたいだけど
昔、この季節(初夏から夏)になると
実家近くは花街が多かったので
窓開けて長唄小唄端唄を練習している三味線の音がよく聞こえた
そういう角を抜けて友達の家に遊びに行った
蚊取り線香の匂いと共に思い出す懐かしい記憶
太陽がいっぱい
淀川氏のいうホモ映画の意味つかめなかったけど
後年、ホモの大家三島由紀夫読むうちに何となくわかったような気がした
「私は彼のような人になりたい」「一体化したい」という主題がそれ
全部は腑に落ちないけどソーユー人もいるってことでしょう
菅原洋一(ハンバーグ)はたった一人の孫を脳腫瘍で亡くしたんだって
かわいそう
アントニオ古賀、結構好きだったわ、私が子供の頃よくテレビにでていたの
親しみやすい人柄で、ギターの名手。そして歌もヒットした。
「その名はフジヤマ」名曲よね、でも若い人は知らないと思う。
意外にも作詞は安井かずみなの。
子供のときは、セジャマフジヤマ…という歌詞の意味もよくわからなかったけど、何だか調子がよくて聞いてると楽しくなった
>>784
古賀政男は普通にゲイっすよ
影をしたいてだって相手が本当に女性だったかどうかなんて
本人しかわからないじゃん
弟子を養子にしたのよ
恋人を養子にするのはゲイの結婚手段じゃん
でも弟子はゲイじゃなかった、ななんと山本富士子と恋愛して結婚してしまった
古賀政男は大大大大大反対で騒動になったのよ
ストレートなら息子が美人大女優を結婚することに
発狂レベルで反対する人いないっしょ >>780
若い人はヨドチョーさんの映画解説を聞いたことがないかも
利いてない人は判らないだろうけど
聞いたことがあれば彼が女性に対して嫌悪感を持っていたのはよくわかるはず
私は子どもだったけど「なんでこの爺さんは女が嫌いなのだ?」と
いつも不思議だった。
ゲイとか概念を知らぬ昔の子どもでもわかるほどあからさまだったよ ♪いっぷかんに あたれば ばんぷも ひらくなし という唱歌
歌詞の意味が全然わからなかった
箱根八里というタイトルだったことも、
「一夫関に当たれば万夫も開くなし」(一人が関所を守れば万人の力を持っても開けない)であることも今調べて知った
>>783
話の流れから「トミー アッーーー!」に見えたw >>796
文章がうまいので興味出て山本富士子調べたら
昭和一桁生まれの第一回ミス日本なのね
契約について事務所と闘ったりして
生き方も当時としては先端行ってたのね
それでいてしっかり子も孫もいる
女丈夫なんですね
勉強になりましたありがとう インタビュアーが女性だとロコツに機嫌悪くてまともに受け答えしないのよ
それで若い男前な人だとウキウキしてて愛想いいの
と 晩年の淀川さんのそばにいてなにくれとなく面倒をみてたおすぎさんがいってました
昭和スレの奥様でもお富士さんを知らない人がいるのか。
でも無理はないか。
映画界を追放されてからは舞台中心であんまりテレビには出なかったからね。
山本富士子さん、老人ホームのCMに出てるから時々見る
関西のわりと安価な施設
>>798
箱根の山は天下のケン(険?嶮?)
小学校の時におじいさん先生が黒板に歌詞を書いて説明してくれた
箱根八里の歌に合わせて今でも運動会で体操を披露する男子校がある
同窓会や友人の結婚式でも皆で体操するそうだw まだ幼稚園前ぐらいの時に
アホな親戚のオッサンに教えてもらった
「ひとつでたホイのほい」を
歌詞の意味も知らずに地蔵盆の壇上で歌って
途中で女性群に横っ抱えにひっ拐われた経験があるw
みっつ出たほいのよさほいのほーい、みにくい娘とやるときにゃ
顔を見ぬようにせにゃならぬ,よさほいのほーい、よさほいのほーい
高島忠夫って小松左京、キダタロー、団鬼六、藤岡琢也と同級生だったことがあるんだっけ
>>806
ググってみた
こんな歌を子供に教えるなんて! アントニオ古賀で思い出したがアントニオ猪木も政治家引退か
昭和40年代後半から50年代前半、猪木&倍賞夫婦は日本一カッコいい夫婦だったと思う
猪木も全盛期で肉付き良かったから今みたいに顎が気にならなかったし
>>806
ググってみた
自分の代のハレンチ学園みたいなもんか >>808
小田実もじゃなかったっけ?
高島、小松、小田、野坂昭如で温泉いって風呂入ったエッセイ読んだ記憶
神戸一中3人組が堂々たる体躯で野坂が「負けた」って思ったとかそんなかんじの
野坂は神戸一中に入れない劣等生がいくなんとかいう神戸の中学なの
実際子ども時代にも体格に差があったらしい
神戸一中の子は良いとこの子が多いので体格がよかったらしい
劣等生の学校は小柄で痩せこけてたとかそんな感じ 昭和の、特に1970年代までの方が日本人はお洒落
だったかも知れない。昔の記録映画とか見ると
遊園地とか、買い物なんかでも男はスーツ、女はドレスとか多いよね。
会社の工員さんなんかも、慰安旅行はスーツネクタイだったり。ホワイトカラーの男の人は会社休日も
スーツネクタイ。
今は老若男女問わず、ラフすぎる格好が多いわねw
確かにその頃まで子供でさえよそ行きと普段着の区別がきちんとあったよね
それはオサレなんじゃなくて
普段何着ていいのかわからなかっただけだからw
中高年男のお出かけ用普段着の概念がなかったのよ
一昔前前の「よそ行き」の格好って好き
かしこまっててキチンとしているよね
ここ十年くらいのダボッとした格好は好きじゃない
波平は会社には三つ揃いのスーツ、家や散歩では和服、釣りやゴルフに行くのは
カジュアルな装いであった
あれが昭和のオトコのスタイル
昭和のお父さん、傘やワニの刺繍入りのポロシャツきてたよね
たぶん昭和40年代だと思うけどかしこまったお出かけの時には母が白い手袋をしてたのを覚えてる
中年のオッサンのお出かけ普段着の概念ができたのは
昭和40年代後半ではないか?
そしてそれはゴルフウエアであった
グリーンなゴルフ場でなら映えるキチガイじみた色使いも
町中ではただのキチガイであったw
60〜70年頃の写真見るとたしかに
普段から女性はワンピースが多いし
男性も襟は必ずついてるね
Tシャツ自体がなかったのかな
あー
小学生のとき制服着て家族で高級ホテルのレストランでお食事したことが一度だけあった
あれはなんだったんだろう…まあいまだに覚えてるぐらいだからいい思い出ではある
現在のTシャツにあたるものは肌着とみなされてたからそれで出歩くことはなかった
ステテコに肌着のおっさんが家の近所をフラフラ歩くくらいはあったけどね
昭和時代は、SNSとかメールが無かったので、クラス会とか困難を極めたし、生き別れのままで終わることも多かった。電脳の効果はすごいものがあるわねー
電話の連絡網というのもよく考えてみれば不効率で大変なものであった
昭和時代にはまだ(呼)の子もいたし
それこそ伝言ゲームみたいに途中で内容が変わっちゃうこともあったw
>>823
ちびまるこのエピにあるわ。
かわいいワンピ着て髪をお団子にしてもらうの。
あの時代、お団子ってあったっけ?
私はポニテ、ツインテール、ハーフアップまでだったな。
編み込みしてるオシャレさんは居た。 Tシャツが表舞台に立ったのは
昭和47年だとおもう
お友達とおそろいのTシャツ
自転車にのって忠実屋まで買いに行った
>>822
日本では若い人がTシャツを着始めたのは1970年前後じゃないかな >>802
多分40歳未満の方でしょうね
単に此処をのぞきにきてるような… >>809
ベビーシッターではなく、お手伝いさん
というか、ベビーシッターは別に居たのです。赤ちゃん養育係の看護婦さんが(今で言う看護師)
それ以外に年配の家政婦がいた。
そして、三人目の使用人として、犯人少女(役割的には、小間使い的なこと) >>814
同意です。
昔の男性のお洒落で特に印象的なのは夏の麻のスーツと白系の革靴。帽子。
昔のスーツは今よりずっとゆったりしたデザインだった。
あと季節感を大事にしていて、夏服冬服以外に「合服」ってものがあった(あいふく)。そんな厳密な区別ではないけど、その名残は今の高校生の制服に残ってるのかな、今日から夏の制服に衣替え!みたいな感じで。
夏のベージュ系の麻のスーツ、そういうファッションも昭和40年以降は廃れていった。
何事にしろ、東京オリンピック(昭和39)の前と後ではかなり変化があったと思う。今振り返ると。 >>819
傘はアーノルドパーマー。
鰐はラコステとクロコダイル。
ワニの口が右向きか左向きか、が、ラコステとクロコダイルの違い。 あと、そういうワンポイントで人気があったのは
マンシング(ペンギン)
ハンテン(hang ten)(足跡のマーク)
>>815
わかる
子供のちょっとしたお出かけ着を買おうと思っても、イオンあたりではカジュアルしか
売ってない
襟付きの小綺麗な服で良いんだけどね、それすら無いの
結局それなりのブランドで買うしかないわ >>813
野坂は楽天三木谷の親父と同級生だったね まあでも今はとにかく夏が暑過ぎますよね
もう何年も夏物の着物なんか出してもいない
幼児〜低学年の頃、おでかけ用の服ってのがほんっとーーーーに苦痛だった。
白いタイツ、オーバーコートにフェイクファーだけど子どもにとっては「毛皮」としか思えない襟巻きとか。
夏場でも、パフスリーブってか「ちょうちんそで」のワンピースとか、なんでこんなカッコ悪い服着なきゃならないのかと。
>>835
>>836
アリスがCMソングを歌ってたことがあるウェザーコックもたまには思い出してあげてください。 昔ながらの子供用のお出かけ着は大人服のコピーか、もしくはお受験着になってるね
日本の四季が変わってしまったからね。
温帯気候から亜熱帯に近くなっている。
>>840
私はお出掛け着を着るのが好きだったわ。
それを着る時は、デパートのパフェとか
普段の「ケ」とは違う「ハレ」の日だという
ワクワク感があったし
エナメルの靴やハンドバッグ、キラキラした
可愛いブローチ、よそ行きの帽子...とか
その時だけは普段よりちょこっと
大人よりの私なの!って気分でねw そういえば、エナメルというのも廃れた?
それと大人の女性の高級品の代名詞だったワニ皮のハンドバッグ
小説などの描写で、お金持ちの奥様といえばワニ皮だったような…
エナメルの靴はたまに見かける
昔と違って本来の夏の定番というのは定着したけど、
そのかわりエナメルの特別感が失われた気がする
子供の時にエナメルのバッグが流行って買って貰った苺のエナメルバッグを大事に使ってたわ
エナメルのポシェット持ってたわ!
ツルツルピカピカしてて特別感があったな
未就学児だった頃なのか…
お出かけ着を着て出かけるのはワクワクしてた。パフスリーブ、ウエストの後ろリボン結びのワンピースやエナメルの靴。夏場はアンクルストラップのサンダルや被せる蓋付き(留め金)のバスケット。
「自宅警備員」って2ちゃんで知った言葉だけど、昭和50年代から使われてた?
たけし軍団の水道橋のエッセイを読んでいたら、この方81年に大学入学
(したもののトータルで4日しか通わずに退学。親は息子が大学に行ってないのを知らずに2年間授業料を納めていた。)
だけど高校生のときから「自宅警備員を気取っていた」(ちょっちウロ)とあって、
回顧して当時をそう述懐ではなく、当時「自宅警備員」を自覚して引きこもっていたと言うのに違和感
受験に失敗して浪人するも予備校通いが面倒になり
ほぼ宅浪状態になると「浪人生兼自宅警備員」なんて冗談言っていた
当時はもうファミコンがあったので、大学さぼって「今日は自宅警備員」とか
>>852
知らなかった
てっきり21世紀生まれの言葉だと思っていた
勉強になります >>850
思い出したわ、白のレースのソックス。なんていうか、ソックスの上端がレースの縁取りになってるのよね?あれ、好きだったわ。レースがひらひらしてて。
私たちの小学生時代は、始業式と終業式には、女子は割ときちんとした(ちょっとしたお洒落な?)洋服を着てくる子が多かった。
でも普段の服装と同じ女子もいた。 若者文化の歴史みたいな本を読むと昭和末期からすでにアウトオブ眼中って言葉があったみたい
>>856
というか、昭和末期〜平成初期に流行っていた言葉だよ >>850
今の女の子はそういうのは履かないんだ
息子しかいないから知らなかった
私が子供の頃はデパートなんかに行くときは冬でも花飾りがついて顎の下でリボンを結ぶような帽子を被ってた
誕生会の時は男子は蝶ネクタイをしてちょっと気取ってやってきたw 若者文化の歴史ついで
「マイブーム」
流行らせたのがみうらじゅんなのは事実なんでしょうが、昭和終わりには皆使ってたわ
レースのついたシースルーソックスをサンダルとかに合わせてる女の子いま多いよね
昭和には無かった文化
>>857
わたしはまじめだったけど世代的にはコギャル世代なんで
その当時の流行語としてマスコミや広告会社がアウトオブ眼中っていってたのよ
90年代半ばかな
でも80年代から普通にあったんだなと、へえ〜って思ったってわけ 中年男性をオヤジといって煙たがったり汚物扱いしたり差別するのっていつくらいからだろうね
バブルの頃にはCMでもなんでもそういう風潮だったと記憶するけど
昔の威厳あるお父さんにも臭いはあったんだろうけど、若い娘も「そういうものだ」と思って特に気にしなかったんだろうね
ってかそもそも大人を汚がるという発想自体希薄だった可能性もあるか
ビートたけしが「おやじ狩りという発想自体昔はなかった。大人をやるなんて思いつきもしなかった」と言っていた
おじいちゃんがよく総入れ歯をコップの水に浸けてダイニングテーブルに置いてたの思い出した
一家のドンとして君臨していたから誰も何も言わなかったな
家でごろごろしてる亭主を粗大ゴミとか一種の流行語になったのは80年代の初めかな
濡れ落ち葉とかね
タンスにゴン タンスにゴン
亭主元気で留守がいい
てのもあったねw
70年代にダメおやじって漫画がヒットしたよ
家では嫁子供にいびられてるヘタレ親父の話
やっぱ給料が現金手渡しじゃなくなったのは大きいと思う
嫁さんから小遣いをもらう立場に堕ちた
>>817
そうそれ。昭和中期の頃の方が余程オシャレ。普段着何を着れば良かったか分からないからではないわ。今の普段着はアメリカナイズなのだけど、とにかくダラシないよね… 小学生くらいだったかな、学校で爆発的にキツネのフェイクマフラーが流行ったわ
口がクリップになってて口を開けて首に巻いて留めるみたいなの。
白や茶色ばかりだったけどピンクをつけて来た子がスターになったなぁ
お出かけの時に大人ぶって灰色をつけるのが楽しみだったw
>>859
マイブーム、具体的にいつ頃から使っていたか思い出せない
「ドキがムネムネ」を初めて聞いたのは81年4月、高1の漢文の先生のお言葉
内心面白いと思ったけど、誰も真似して使ったりしなかった
次に目にしたのはネットの時代になってから
アフター・ザ・カーニバルは83年頃よく使っていた >>869
世の中やっぱりそういうのが嬉しい子が多数派だったのね。
そういうたぐいのもの着せられて、心の底から、こんなみっともないカッコしたくない! フツーのセーター、フツーのジャンパー、フツーのジーパン、フツーのマフラーが良いのに! と思ってた。 >>869
キツネのマフラー懐かしい!
リアルな作りじゃなくてあのおもちゃ感ゆえに安心して口パクパクさせて遊んでたわ
あれリアルだったら絶対流行ってないよね 爺さんが若い頃はMMKだったってよく言ってたなそういや
こういう略し方って昔からあるよね
TNG! TNG!
てんぐ!てんぐ!てんてんぐー!
アウトオブ眼中ってねるとんで覚えた
昭和62〜3年頃かな
眉上前髪のことをオンザ眉毛
略してオンザとか
>>748
80年代中頃にジャージやトレーナーが出現したのも画期的だったな
私は買ってもらえなくて同級生が羨ましかった
というか、それまでって秋冬は何着てたんだっけか
ブラウスか長袖肌着にカーデガンとかセーター??
まる子的な感じかなぁ。 VSOPベリースペシャルワンパターンての思い出したわ
>>879
そうね
トレーナーは70年(昭和45)からあったわね
47、8年頃に爆発的に流行ったのが真っ赤なトレーナー
これはホントに皆着てた (と言っても皆着てると思われるのは、3人に1人くらいでもそう見えるらしい。)多分実際は10人に1人くらいだったのかも
トレーナーを裏返し
トレーナーの袖をハサミで切って七分袖にする
こんなのも流行ってた
男子大学生でも赤いトレーナー着てる子はいた
あとは紺、グレーなど
白いポロシャツにスリムのジーンズ、こんなファッションも女子高生の放課後の私服(昭和47年頃) 70年代といったらマジソンスクエアガーデンのバッグでしょ〜
高校の時、男子がよく持ってたわ
>>883
懐かしいー!
今ググってみたら復刻版が販売されてるね。
40年生まれ。
小6の頃、オーバーオールにネルシャツを親にねだって買ってもらった。それまではプリーツスカートやジャンパースカートだったな。ジーパン履いてる女子はいなかった。 小学校時代女子も男子も防寒着はジャンバーだった
教室にはいるとジャンバー脱いで椅子の背にかけてた
自分はチョッキは着なかったけど年の離れた兄の修学旅行の写真では
みんなけっこうチョッキを着ていた
私は胸当て付きのホットパンツ(ショートパンツ?)を買ってもらった
胸の所に大きい星のデザインが
されていてお気に入りだった
70年代前半=昭和40年代後半に、あくまでも体操着としてって感じだったけど、学校指定のよりちょっとだけカッコいいジャージが出回り出した。
3本線が入ってたりするやつ。
学校指定の縛りはわりと緩やかで、なんとなくそれっぽくて紺とか黒とかならOKだったんで、カッコいいの着てる子もいて羨ましかった。
指定のは思いっきりパジャマな感じだった。
私が小学校の時は真冬以外はスカートだった
寒くなってくるとラクダ色のタイツと毛糸のパンツとジャンパースカート
真冬だけコール天のズボン 母の手編みのセーターに防水加工がしてないジャンパーだった
だから雪合戦をした後はビショビショだったw
夏休みだけショートパンツ(まだホットパンツという言葉はなかったかも)を穿いたけど
登校の時はプリーツスカートかワンピースだった
>>885
北海道ではジャンバーではなく
アノラックとよんでた。 スタジアム・ジャンパー=スタジャンが流行ったのは、昭和52年頃
話しの流れが懐かしすぎて鼻の奥がツーンとなりました
>>889
北海道で、うちの方では、前開きの中綿仕様のものをアノラック
前が開いてなくて被るタイプで、薄手のものをヤッケと呼んでた ローラースルーゴーゴー、ローラースケートでよく外遊びしてたなー
ローラースケートは光GENJIが履いてたスケート靴みたいなのじゃなくて、靴の裏にベルトで固定するものだった
アメリカンクラッカーも流行ったけど、あれは何が面白かったかよくわからなかった
トレーナー(わざと)裏返しにして着てたらよそのおばちゃんに「裏返しよ」って言われたのを思い出した。
>>896
それ言ったの私かもw
襟首のタグが出てる男の子が居たので
「トレーナーが裏向けですよ」と教えてあげたら
「こういうデザインです」と返されたっけorz
私たちの頃はそれがペティコートで
わざとスカートから見えるようにはいていたら
通りすがりのオバチャンに
「シミーズが出てますよ〜」と言われて
男の子と同じ返しをして、後で友達と
プゲラして盛り上がったもんだけど
歴史は繰り返されるものなのねと実感したわw >>897
スリップがスカートから見えてるのをシミチョロって言ってた
清水さんのあだ名はもれなくシミチョロだったw >>882
東京市 殺人的暑さ
四十年ぶりの猛暑
清涼着アッパッパ が大人気
遂にアッパッパ軍大阪を占拠
苺がちょっと酸っぱい
昔のショートケーキが食べたい
シュミーズと発音する人もいた。パンティーと同じかw
パンティーストッキングというのもあったな。
>>900
昭和9年生まれの父は今でも「銀座通り」と言う
私が昭和59年に地下鉄銀座駅の周辺地図を見たときは「中央通り」との記載だった >>905
晴海通りは今でも晴海通り
ちょっとググってみた
銀座通りの名前が廃止されて上野から銀座8丁目までの国道を中央通りと呼ぶようになったのは、
昭和34年からだった >>896
よそのおばちゃんに 「裏返しよ」 って言われた ← 古い作り話 >>907
横から失礼致しますが実際にあった話だと思いますよ
私も山手線の扉付近に立っている時そばの中年女性に言われたことがあります。
ただ今となっては、あなたみたいな人に証明しようがないのも確か。
仮に都市伝説だと言われても、いや実際にあったなかった…過去の出来事を再現できるわけでもないですからね。
体験した人だけが懐かしく思い出せばいいことです 作り話ってことになってるんだ>トレーナー裏返しを注意された
自分は曙橋の駅の階段のところで言われてた
>>900
「六十五、六度もの暑さが連日のように続いている」って書いてあるけど
摂氏65℃なら氏ぬし、華氏65°Fなら摂氏換算で約18℃なので涼しいくらいだし
よくわからないね
昭和初年のおかみさん連中は暑さに特に弱かったのか >>866
懐かしい。うちに全巻あったわ。
たまーに鬼婆みたいな妻に優しくしてもらえるのよね。 夢の島って昔の漫画によく出てきてたよね。
子供心にどんどん山積みにしていって、どうなっちゃうんだろって不安だった。
>>913
私も、よくニュース番組などで、夢の島にゴミを捨てられるのもあと何年かしかない、そのうち捨て場所がなくなる!って言ってたから何か心配になった。
でも意外にあれから数十年?経過してる。
ゴミ問題も、最近は昔の一時期ほどうるさく言われなくなった感じ 漁師世代が跡継ぎなく引退したからね
木更津ぐらいまで廃業させればあと100年ぐらいはいける
鹿児島が豪雨で大変だけど、昭和の頃長崎の眼鏡橋が壊れる程の水害があったよね
昭和57年くらいだったかな
>>910
三十五の誤植だと思うよ。
しかし何気に失礼な文面だわねw 昭和末期〜平成元年ごろ湾岸地域で蠅が大量発生したのおぼえていないですか?
>>917
高校の修学旅行で博多、熊本、長崎に行ったのが昭和58年
バスガイドさんが眼鏡橋の説明をしてくれたけど、
豪雨の話は無かったな
永井隆博士の話をして「長崎の鐘」を歌ってくれたのが思い出深い
東京駅9時頃発で博多に着いたのが夕方5時頃だった記憶
博多ライオンズホテルの部屋に入って無料のテレビを着けたら、
一週前の「はいからさんが通る」のアニメやってた >>921
あなたより約十年古い時代に、同じコースで
修学旅行に行ったw
長崎では風情満載?暗くて古びた旅館に宿泊したからか
「廊下に女学生の幽霊が見えた」だの
旅行後には心霊写真が写ってた!だのと
怪談話で盛り上がった記憶があるw >>910
900は昔から何度も貼られてる。
ここの住人が生まれるずっと前の戦前の画像や動画をいつも貼ってる粘着さんでしょう。 >>917
その頃OLだった
同じ課の男性が長崎出身で、その時の水害で親戚が亡くなられた
長崎は急斜面が多いから土石流とかの土砂災害がひどかったのよね 子供の頃、田舎のほうは高校の修学旅行は東京で観光するってきいてて
楽しみにしてたのに
自分が高校生のときはスキー研修で疲れただけで全然観光とかもなく
宿と雪の中の往復でさ
つまんないったらなかったわ
膝まで水が来てもパチンコしてたなんて話もあったわね長崎水害
同じ夜、茨城で群発地震があって筑波に住んでた私は不安で眠れなかった
パチンカスは生きてる価値なし
タヒね
タヒね
タヒね
小学生の時、修学旅行は函館から青函連絡船
乗って青森だった。
弘前城やら何やら見た記憶。
バスガイドさんが♪りんごのうたを
方言で歌ってくれた思い出・・・
真っ赤だりんごっこさ
くぢびるよへで〜
因みに中高の時も青函連絡船で本州へ行ってた。船だけで二時間半でそこから列車やバスだから疲れた思い出しかない。
私、当時楽しめなかった道筋をタイムマシーンを使って辿れたとしたら確実に狂喜乱舞するわ
>>917
長崎豪雨のドキュメンタリーは今でもネットで探せばみられるけど
消防への通報とそれにこたえる隊員のやり取りが鬼気迫って怖い >>929
函館の学校ですか?
私たちは函館に行くまで数時間かかる某市在住だったわ
何時間かかったか覚えてないけど、でも高校生だったから、あまり疲れは感じなかった
でも青函連絡船は少し酔ったかな
それからまた青森に着いて十数時間かけて東京、京都、奈良、…10 泊11日くらいで、やっぱり最後は疲れたw 昭和は良かったな
毎日楽しかった
平成は疲れただけ
昭和55年頃、長崎に行ったときは、出島は石垣が残っているだけだった。
今は、立派な博物館が作られたらしいけど。
>>932
はい。函館の学校です。
私の高校の修学旅行も同様な行程でした。
青森から京都までは寝台車。
京都の駅だったのかな?大村崑を見た思い出。 >>935続き
出島を調べると、ヒッキーでも外の世界への関心を持ち続ければ
立派に克服できるんだという気分になれる。 函館と言えば大学時代アルバイトして北海道に遊びにいったとき、五稜郭で土方歳三の写真を初めて見たことを思い出す。
はじめは芸能人の写真かと思った、よく見たら土方歳三と名前が書いてあってびっくりした。
あまりにイケメンなので。
ただその後、あれはちょっと修正が入っていて、元のオリジナル写真はもっと不鮮明なものだと知った(市村鉄之助少年が日野佐藤家まで届けたオリジナル)
母が函館出身なので懐かしい
母は棒二森屋の某売り場勤務で、
修学旅行生が来るときは旗を持って青函連絡船の船着き場まで迎えに行った話を聞いたことがある
なので子供の頃に函館へは何回か行ったことがあり、
五稜郭タワーの100円のガチャガチャでスイカの種のネックレスが出た
同じものが五稜郭タワー内の土産物屋で500円か1,000円で売られていて嬉しかった
初めてコカ・コーラを見たのが函館山の自動販売機だった
それまでファンタしか知らなかった
従兄弟が瓶入りの黒い液体を飲んでいてビックリした
夏休み、母の実家に泊まると従兄弟たちが集合して、朝、大人から1,000円もらって1日遊び倒した
朝市行って駄菓子屋に行って海に行って最後に銭湯
駄菓子屋の近くに住み着いている雌猫がいた
従兄弟たちの夏休みが終わると学校の時間は外を出歩けないから、
家の中でおとなしくしていなければならず、つまらなかった
いつも家に北海道から送られてきた缶入りのトラピストバター飴があった
子供の頃の光景をよくそんなに鮮明に覚えてるね。
当分ボケないだろうね。
>>939
華やかだった頃の函館の匂いがする(*^_^*)
当時駅前には棒仁守屋、和光、さいかと3軒の
デパートがあったな。 >>939
素敵だなあ
函館、豊かだったんだね
何年かに一度、函館に旅行で行くんだけど
賑わってる観光地からちょっと歩くと
本州では見たことないようなあばら家が散見される
函館は光と陰が濃いよね… >>939
棒ニ森屋は今年1月惜しまれながら閉店したと、ニュース板で見ました。 >>941
ボケると大昔のことは鮮明に憶えてるけど
さっき食べたことは忘れるものです >>941
> 子供の頃の光景をよくそんなに鮮明に覚えてるね。
> 当分ボケないだろうね。
NHK朝ドラで5歳の頃までの記憶なのではっきりと覚えてないと言ってたけども5歳の頃までの記憶は結構あるけども。
5歳の時に阪急550形電車が引退したが箕面線だとか支線用だったその電車は、宝塚線だとか本線用だった電車よりも、15mなので車長が3m位短かったので、幼稚園児のくせにマセガキだった私は、かわいい〜と生意気にも言ってたけどw
EXPO70大阪万博ステッカーをこの阪急550形電車もつけていたんだけれども、残念ながら大阪万博の前に廃車になった
555というゾロ目電車好きだったんだが4歳の時既に引退していたみたいつまり
3歳から4歳の記憶がバリバリになるねw 一番古い記憶が3歳くらい。
なんでわかるかというと、3歳で引っ越したから。
元いた場所、景色とか毎日来ていた牛乳屋さんの営業車とか覚えてる。後日大人になって行ってみたら記憶の景色よりコンパクトだったわ。自分の視点の位置が変わったからよね。
割と覚えてるもんなのねー、と思ったわ。
私の場合は幼いころの記憶なんて本当に自分の記憶なのか、
それとも後に家族から教わったことを自分の記憶だと思い込んでるのか
判然としないことが多いから何とも言えないな。
>>939
面白い、素敵な思い出ですね
情景が目に浮かぶよう
私は夏休みは友達と図書館に通ったなあ
帰りに大型スーパーでお菓子買って家で本読むのが本当に楽しかった
普通の地方都市だけど緑が多くて、夏空の青さと風に木の葉がゆったりそよいでる景色をとても覚えてる
実家帰りたくなってきたw >>949
同じく。
どこそこで迷子になってとか、何回も言われると
自分じゃ覚えてないのに、勝手に想像して記憶として植え付られてるんじゃないかと… ヒトの脳が連続とした時間経過とともにほかの事象と関連づけて
記憶できるようになるのが3歳からなんだってね
それ以前は印象的な出来事をポツン、と覚えるのが精いっぱい
自分の一番古い記憶はまあ身動きできない赤ん坊のころ、
廊下で電話が鳴って誰も電話を取らないのでハラハラしてた記憶だけど
当時の家にはそんな廊下も電話もなかったはずだからこれは作られた記憶だわ
イヌの記憶力は人間のこの3歳以前の記憶と同じで 時間経過を記憶できない
古い記憶と新しい記憶の区別がつかないらしい
>>949
そりゃ誰でもいろんな記憶が混在してるでしょ
実際の自分の記憶、後から聞いたこと、アルバムを見て思い出したこと、何度も思いだしてるうちに変形してしまった記憶、年齢と共に薄れていった記憶…
鮮明なものも曖昧なものも混ざりあってる
殆どの人間はそんな感じ
ただ、たまに前世を記憶してる人とかいて、本になったりテレビで特集されたりしてるけど
俗にいう[リインカーネイション]てやつね 貴女は実はレプリカントでレプリ製造会社社長の姪の記憶が移植されているのかも
三島由紀夫は産湯につかったときのことを覚えていた
金のたらいのふちとか女中さんとか
いちいちウザいね、このオッサン、熊本スレから出てくんな
>>961
なんだっけ忘れてしまったけど
三島由紀夫も、その記憶自体もしかしたら後で人から聞いた話を脳内で再生したものかもしれないし
本当の記憶かどうかわからないって書いてあった
天才ですらそうだから誰でもあることだね 三島由紀夫といえば、やっぱり金閣寺かな
ああいうモデル小説は人権とかプライバシーで最近は書きにくいんだろうけど
勝手にまとめみたいなことをする人がいるから、ここには書くのやめるわ
1936年2月20日生まれの長嶋が、生まれて7日目に起きた2・26事件について
もちろん覚えてますよそりゃ大騒ぎでしたよへへへ みたいなことを言っていて
さすがミスタープロ野球は記憶力も人違いだと思った
>>965
長嶋茂雄は1974年11月に巨人軍監督に就任し、明くる1975年の
シーズンで球団史上初の最下位になったことで人々の記憶に残る。
長嶋の妻であった亜希子夫人は彼の女性問題で心労が重なって
膠原病となり、2003年1月から別居状態となった。長嶋は毎日
高級レストランで食事していたため、健康を害し、2004年3月4日
愛人宅で倒れた。脳梗塞であった。すぐ救急治療をすべきだったが、
息子一茂が世間体をおもんばかって病人を一旦自宅へ移し、そこから
救急車を呼んだ。時間遅れが原因で、ヨイヨイになって現在に
至っている。
2013年、安倍内閣は長嶋茂雄に国民栄誉賞を授与した。
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/news〇plus/1470095470/505 記憶のたんぱく質が脳に定着する仕組みがまだ確立されてないから
3歳以前の幼児の記憶があるというのは普通ありえないよ。
名古屋?で目の前で母親が何者かに殺されて放置された幼児は
深層催眠みたいのも受けたけど、記憶自体がないから手がかりがつかめなかった。
今も未解決。
>>966
長嶋茂雄は選手としては活躍したが、1975年監督になったら
無能な采配で巨人をがたがたにしてしまった。1981年、
そのがたがたの巨人を藤田元司監督が見事に立て直してくれた。
それを継いだ王貞治監督時代、巨人は鳴かず飛ばずだったが、
1989年藤田元司監督が就任し、再び立て直した。
そのあと長嶋がのこのこ再登場して、先輩の遺産でぬくぬくと
監督業を務めた。
長嶋が国民栄誉賞を受賞したのは大勲位中曽根康弘との
個人的なつながり(住宅賃借)による。国民栄誉賞授与の際、
長嶋一人では話題性に乏しいので松井秀喜がお相伴になった。
米国メジャーリーグでの活躍と言っても、「野茂英雄の功績に
比べたら雲泥の差がある」、 というのが世評の一致する所で
あった。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1383634861/780 名古屋市西区主婦殺人事件
被害者: 高羽奈美子さん(当時32歳)
殺害方法: 刺殺(凶器の刃物は見つかっていない)
傷の状況: 首の前部に複数の刺し傷、手に防御創。左前額部(左側のおでこ)に固いもので殴られたようなコブ
死因: 右頸動脈切断による失血死
・キッチンでは息子の航平君(2歳1か月)が幼児用の椅子に座り、テーブルの上のおもちゃで遊んでいた
・キッチンのテーブルにはヤクルトのミルミルEが飲みかけのまま置いてあった。
https://ameblo.jp/nobu-no18/entry-12283691028.html >>959 <三島由紀夫は産湯につかったときのことを覚えていた>
>>962 <三島由紀夫も、その記憶自体もしかしたら>
>>963 <三島由紀夫といえば、やっぱり金閣寺かな>
三島由紀夫は 「田舎の隊で検査を受けた方がひ弱さが目立って採られないで
すむかもしれない」 という父の入れ知恵により本籍地の兵庫県加古川で
徴兵検査を受けたが、結局は第二乙種で合格した。
しかし、数日前からかかっていた風邪を入営の際、軍医が肺病と誤診して、
入隊免除となり、帰宅を許された。検査場の門を出るやいなや、三島は
付き添ってきた父親と一緒に脱兎のごとく逃げ出した。「さっきの決定は
取り消しだ」 と言われはすまいかと恐れた。父親の表現によれば
「逃げ足の早さでは脱獄囚にも劣らぬ」 勢いで、一目散に駆けだし、
人目を憚りながら故郷に隠れ住んだ。
かくて、三島由紀夫は兵士として戦場に行くことなく、のうのうと
生き永らえ、晴れて終戦の日 (昭和20年8月15日) を迎えた。
https://www.kobe-shinwa.ac.jp/correspondence/column/pdf/sinwakyudai_37.pdf >>957
奥様と友人になれそうだわ
誰も突っ込まないので亀レス >>972 そう
自伝的小説で
生誕時の記憶のくだりも本人の体験と言われているね >>967
>3歳以前の幼児の記憶があるというのは普通ありえないよ。
そうなの?
2歳7ヶ月違いで産まれた弟が産院から自宅に初めてやってきた日の事を鮮明に覚えているけどな 「普通ありえない」だから
普通じゃなければあり得るんだよ
私も乳児の頃の記憶があるけど親には信じてもらえない
写真見たり、親にアンタあのときこんなでこんなで〜と思い出話されてるうちに
鮮明な映像が脳内に植え付けられるんじゃ無いかしら?
私もね、小学校3年くらいまで夜寝るとき、瞼を閉じるといつも同じ映像が見えたの。
具体的にはここに書けないけど、とても落ち着いた綺麗な景色…毎回同じような光景
でも高学年になると、もう見えなくなった
あとで考えるとあれは生まれる前の世界なのかな、って思ったり
別にそういうのを信じてるわけではないけど、他の方はどうなのかな?って思って書いてみました
1歳の終わり頃の記憶はある
私の下の子が生まれるんで祖父母宅に預けられて
初めて母と離れて夜不安で泣いていた
古い家で、仏壇の部屋に寝かされていたのも怖かった
幼児も記憶あるよね
昼間あったことを一所懸命教えてくれる
その記憶を忘れないように何度も何度も反芻させることで
長期記憶が定着する
受験生の勉強法として確立されてるでしょ
私は本棚を2重にしているんだけど、全面に出ている本は
読みなおさないまでも毎日見かけるからその都度記憶が反芻されるのだとおもう
中身をなんとなく覚えているのだけど
裏面にあるものは「あ〜こんな本あったなあ」レベルにまでおちていて
当然ながら中身なんて全く覚えていない
>>966
女狂いで東の横綱が長嶋茂雄なら西の横綱は松下幸之助ですね。 >>974
奥さまはIQの記憶の分野が高いのよ
その後人生どうでした? >>948
弟が産まれた記憶はないが、駐車場にいたデカい茶トラ猫が怖くて泣いたのだけは鮮明に覚えてる
それが2歳と9ヶ月の記憶
窮屈な物にくくりつけられて山頂まで行った
誰かの背中で泣いた
これは父と母が初めて一緒に登山した時の記憶
やはり2歳代らしい
私が10代の頃は細部まで覚えていたんだけどもさすがに忘れた 昔は乗り合いバスに車掌さんが乗ってました。
座席を回ってくるので、「どこまで」 と告げると料金を言います。
それを払うと、5cm×10cm位の乗車券にパンチをいれて、ちょん切って
渡してくれます。降りるときはそれを車掌さんに返しました。
混んでるときは、車掌さんは苦労されてました。
>>983
昔、ワンマンバスの意味がずっとわからなかった
すごいわがままな運転手さん?みたいなw
車掌がいないってことだと知ったのは平成になってからでした ワンマンバスわろたw
なんか特殊な響きで高級バスなのかとおもてたよ
トロリーバスも然り
トロリーバスは一度ものらないまま無くなった
一度のりたかったな〜
私も一番古い記憶は祖母の葬儀だ
それと祖母の実家で雪を食べた記憶
両方とも2歳8カ月だけどこの二つの記憶はリンクしていない
それぞれ別な記憶
祖母の死に顔を見た記憶はあるのだがそれは母によって否定された
でもその母の記憶も曖昧なのでどっちが本当だかわからない
(母は記憶があいまいな人だった)
https://news.nifty.com/article/item/neta/12225-170307010647/photo/
これによると確かに女の子というものは2歳からの記憶確かに賢い子ならあるね
男の方が幼稚でバカなと言うべきなのか女の子はやはりおませと言うべきなのか
1968年昭和43年4月に阪急電鉄神戸線が三宮から神戸高速鉄道乗り入れ前つまり特急三宮止まりの時代の記憶ならあるが1964年昭和39年生まれなのでやっぱり
3歳ということになるのかなそう言えば1967年4月から放送白黒パーマンの方は同級生も記憶あるがその前白黒オバケのQ太郎の方はリアルタイムのの不二家の時間の放送としての記憶は残ってないわ
2歳の記憶ある方多分高校もトップ校ね >>990
>2歳の記憶ある方多分高校もトップ校ね
これ関係あるのw?
(何の関係もないとおも) 作詞家で精神科医の北山修が子どもの頃のことを詳細に覚えていて
それをあちっこちのエッセイにかいてたんだけど
あの位詳細に大量に記憶してたらたしかに知能は高いかもしれない
1967年(昭和42年)10月8日:架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。
1968年(昭和43年)
3月20日:ダイヤ改正により、神戸高速鉄道方面への直通運転(三宮駅以西は回送扱い)を開始。
4月7日:神戸高速鉄道・山陽電気鉄道と相互直通運転を開始。神戸駅を三宮駅と改称。
この辺りなんだけどあ〜モヤモヤするw
神戸線昇圧後も特急運用が残っていたが、1968年4月7日の神戸高速鉄道開業後は三宮折り返しの急行・普通運用が主体となり、編成も6両から7両になった。
1964年昭和39年8月生まれなのでほぼ、3歳の時の記憶で間違いないだろうな。
Wikipediaって便利すっきりしましたww
初めて海に行ったのが2歳9ヶ月ぐらいの時。
駅前に大きな川があって・・・と言っても市街地だからたかが知れてるんだけど
バスで通る度いつも「海だー海だー」と私が大声をあげるので、
母が一度ちゃんと本物の海を見せなければ、と思ったらしい
>>653
勘違いしてるみたいだけど、643はキャンディ >>680
失礼レス番号間違えた
勘違いしてるみたいだけど。643はキャンディ あと、彦根は令和になってからキジョ板では見かけない
天に召されたのではないかと、思ってる。
mmp
lud20190803041837ca
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