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邪馬台国畿内説 Part251 [無断転載禁止]©2ch.net ->画像>3枚


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1◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 12:56:47.27
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう

前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1500034839/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている

現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された

この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある

箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)

この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である

2◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 12:57:38.56
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる

血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である(FAQ26参照)
その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する

纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である

その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、
乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、
乃ち布留0期にあるとみることが出来よう

3◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 12:58:02.28
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山並びに渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
箸中山、行灯山並びに渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう

乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
因みに、女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である

紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう

4◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 12:58:25.34
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ

弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があり、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期に中国製威信財の入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争を回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く

共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる

定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れるところの寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の大勢という現実を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する

初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である

5◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 12:58:46.79
◆5(倭国の形成と気候変動)
南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況や河内と吉備の交流の深さ等も鑑みれば、
東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生し、その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている

それが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである

2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である

6◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 12:59:06.51
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあったことは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起している(松木2014)

析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型並びに楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着した(吉田2014)
分節化した統合性の象徴として小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる

方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある

高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる
(この項続く)

7◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 12:59:27.76
(続き)
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである

一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる

この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある

このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である

8◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 12:59:48.35
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる

庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る
前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していることと、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料を突合すると、
対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう

北部九州の土器編年で言えば、卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である

9◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:00:15.38
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である

その最終段階では、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく

博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる

遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る

土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である

倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない

10◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:00:36.10
◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf

11◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:00:56.91
◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」

12◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:01:19.11
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
 弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 TA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内T〜U
 TB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内U〜V  ●纒向矢塚、矢藤治山                  
 UA期ー 布留0古相      ー 河内庄内V    ●箸墓、権現山51号
 UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X  ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
 UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山

13◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:01:38.00
◆11 本文のサマリー
===========================================
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる
それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある

これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる

2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える

倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である

倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない

14◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:01:57.86
◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか

A:九州は倭国の一部なので問題ない

郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである

水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である
これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される

また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である


◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
  魏使は九州を出ていないではないか

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
 「泝流」が6回
 「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある

15◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:02:15.82
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか

A:沖縄本島付近の南海上となるため、畿内説以外の説も無理である(◆FAQ40参照)
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8も参照)


◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる


A:誰も纒向遺跡=邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
また、邪馬台国を大和国とする諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって領域としての令制大和国という定義ではない

畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある

16◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:02:35.87
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している

むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している

17◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:02:54.11
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕がでる(久住2006)
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する

18◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:03:13.43
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある
  畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される

19◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:03:35.61
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう


◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている

封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない

20日本@名無史さん2017/07/17(月) 13:03:45.57
ゴミテンプレでスレアラシすんなよ

21◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:06:25.20
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」とみられる
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である



◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである

弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、ほとんど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる

当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる

倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである

なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」ともいう(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である

22◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:06:53.94
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない

現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない

23◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:07:17.61
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する

一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている

弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない

24◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:07:38.21
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉以来縷々指摘されているが、有効な反論がない


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
したがって測定は存在しない

また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである

25◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:08:01.72
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
  信頼できる基準ではないか
  これに基づいた里程論で邪馬台国は
  九州島内に求められる

A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである

新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く

A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう

九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない

26◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:08:17.28
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ
(この項続く)

27◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:08:41.12
(続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される

中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
  これは信用ならない
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る

A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない

考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである

逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)と土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している
邪馬台国畿内説 Part251 [無断転載禁止]©2ch.net	->画像>3枚
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう

一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる
一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない

28◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:09:01.10
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない

A:方形のものの大きさを「径」で表現することはないので、「径百余歩」と形容された卑弥呼の冢は方型ではありえない
よって平原一号墓、祇園山古墳などが除外される
しかし「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない

箸中山古墳の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している

方丘築造が後出であるという判断は
 箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと
 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で

 前方部盛土に遮られる形で消失していること
 椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で

 前方部に盛土がないこと
等による

29◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:09:26.21
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり(設楽1989)、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである

このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である


◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか

A:7世紀或いはそれ以前の出来事について日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報に依拠するのは、学問的でない

旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
 ・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
 ・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
 ・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない

30◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:09:47.03
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである

遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である

さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる

古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい

31◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:10:11.82
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
  卑弥呼の墓があるのは九州だ

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い

参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である

以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い

32◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:10:31.63
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
  弥生絹があるのは九州のみ

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定されている(布目1999)
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している
弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している

一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2015)と一致する
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる

九州説にとって不利な条件と言える

33◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:10:55.01
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
  箸墓の築造と時間差があるだろう

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある

なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である

なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い

34◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:11:10.21
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く)

35◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:11:30.55
(続き)
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、並びに初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い

当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い

優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる

畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである

36◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:11:49.48
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い

これが部分的利用に留まる所以である


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない

  「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
  「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

37◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:12:07.32
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ
  伊都国は隆盛のさなかである

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い

当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある
これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている(馬淵ら1991)

後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある

後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である

以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう

38◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:12:29.65
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている
しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである

以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている(前田1994,2007)

一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう

弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる

39◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:12:52.96
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿並びに禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う

大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう

40◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:13:11.96
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える

女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である
  九州でいいではないか

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している
行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある

会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである

捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す

41◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:13:25.98
◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう
(この項続く)

42◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:13:44.03
(続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている(景行紀、仲哀紀)

畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない

弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう

43◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:14:04.22
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である

弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する

申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる

申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばからとした(金2011)
これは陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある

嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている

44◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:14:23.14
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
  確かな根拠などないだろう

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している
 また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する(高久2009)
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる

楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)並びに庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する

45◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:14:40.73
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている。
  国産に決まっている

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない
史料上で抹殺された年号は珍しくない
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である

中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である

この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない

景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する

46◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:14:58.71
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果である可能性が認められる
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認されている(金原2011)SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた

また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない

47◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:15:21.58
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している
  これが魏晋鏡だろう

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である

内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯もしくは圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)が共存する
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される

この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である

48◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:15:42.40
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない

魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう
これを倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである
少なくともこの政治体制は、甕棺分布域の縮小や漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には最終的な崩壊を迎えたものと推定される(FAQ34,36参照)

倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない

49◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:15:58.70
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する微高地上の遺跡とされている
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない
(この項続く)

50◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:16:16.59
(続き)
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には種々の制約がある
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿る遺跡群として極めて重要視されている
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

51◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:17:02.05
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

【追加・変更点】◆FAQ48を修文

52日本@名無史さん2017/07/17(月) 13:34:35.09
おい、もうクソテンプレで嵐すんなよ。
ほぼ犯罪だろ、もう。

53日本@名無史さん2017/07/17(月) 13:42:55.28
反論ひとつできない惨めな粘着アンチがおるな
 
 

54日本@名無史さん2017/07/17(月) 14:11:37.25
>>53
反論ひとつ。

>>50 : 1 ◆q8leUXpsw.
>このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿る遺跡群として極めて重要視されている
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>>1 : 1 ◆q8leUXpsw.
>もう確定なのでロマンはありませんが


調査が僅かにも関わらず、確定とは此れ如何に?

55日本@名無史さん2017/07/17(月) 14:27:54.70
>>54
少しは頭使ってみれば?

スクラッチくじで僅か一部だけ削っても「あ」の字が見えたら、もう「あたり」だろう?

56日本@名無史さん2017/07/17(月) 14:36:44.26
>記紀にヒミコが記載されていないのだから


記紀にヒミコが記載されていないという天動説に固執するのはきみの自由だが、未来永劫の敗者になることを覚悟しろ。

ヒミコは記紀でイの一番に記載されている。これが真理だ。


■2世紀から4世紀まで

スサノオ(帥升)107年




ヒメ踏鞴  (3世紀初)神武 
ヒメ踏鞴        綏靖  
ヒメ踏鞴        安寧  
トヨ津         懿徳 孝昭 
トヨ津         孝安    ​     
     磯城の台頭  孝霊 孝元 開化
   (4世紀初〜前)崇神

57日本@名無史さん2017/07/17(月) 14:37:37.93
いくら掘っても「あ」の字が見えんのだかwww

58日本@名無史さん2017/07/17(月) 14:40:21.11
>>57
お前が掘ると
  あほ
しか出ない筈である

59日本@名無史さん2017/07/17(月) 14:51:11.86
いくら掘ってもガラクタばかり。 やる気が失せるぜ

60日本@名無史さん2017/07/17(月) 15:08:54.66
>>59
それが意地悪爺さんの運命なのだから
ポチを殺すな

61subo2017/07/17(月) 15:10:31.15
>>55
畿内厨が削ったら、あっ残念

62subo2017/07/17(月) 15:17:03.49
>>56
畿内を中心に日本が回っていると言う天動説に固執してるのは鴨厨なんだよ

63日本@名無史さん2017/07/17(月) 15:30:24.38
>>61
「既知の情報」から「未知の全体像」を正しく推測する
という能力が必要なんだよねー歴史研究家ってさ

そういうことが苦手だって告白に等しいよね>>61ってさ

64日本@名無史さん2017/07/17(月) 15:33:11.23
>>63
根拠のない思い込みを妄想という。

65subo2017/07/17(月) 15:35:46.76
>>63
あっ残念という思わせぶりがあったら楽しいだろ

66日本@名無史さん2017/07/17(月) 15:43:46.29
>>64
それは九州説に充満している

67日本@名無史さん2017/07/17(月) 15:44:20.67
キウス

68日本@名無史さん2017/07/17(月) 15:47:41.23
>>62
ん?おまえ九州説なん?

ただおまえは俺の説が気になって仕方ないのだろw
まぁその気持ちは分かる。

わしほど見事な説も珍しいからな。w

69日本@名無史さん2017/07/17(月) 15:53:47.41
全国邪馬台国連絡協議会(なんちゅうネーミングセンスやねん…Orz)
に入ったけどツマラン。

誰も反応してこない。
辞めようかな。

70subo2017/07/17(月) 15:58:57.12
>>68
実に見事な珍説である

71subo2017/07/17(月) 16:01:10.65
>>69
ここで遠慮なく披露されるとよろしいでしょう

72日本@名無史さん2017/07/17(月) 16:18:54.37
>>69
九州説のひとは自分の説以外は興味がないんだよ
持論言いっ放しで他人の話は聞かないのさ

73日本@名無史さん2017/07/17(月) 16:28:36.57
モノローグのような日本海ルートやここのテンプレが典型だな

74日本@名無史さん2017/07/17(月) 16:29:13.42
>>72
1人だけ絶賛してくれた人がいた。
これはもう人間性の問題だろうね。

75subo2017/07/17(月) 16:29:21.09
>>72
あなたも遠慮なくここで自説を披露されるとよろしいでしょう

76日本@名無史さん2017/07/17(月) 16:31:05.89
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
ってさ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)

77日本@名無史さん2017/07/17(月) 16:32:06.21
>>73
テンプレは反論してくるじゃん

78日本@名無史さん2017/07/17(月) 16:32:57.96
ZARAKOKUは一つ一つレスを返す。
そして情熱的。

分かりやすく言うと、
「とても几帳面で紳士的、そして情熱の満ち溢れた馬鹿」だろうな。

79日本@名無史さん2017/07/17(月) 16:37:13.48
ZARAKOKUは一つ一つレスを返す。
そしていつも同じ言葉で罵倒する。

分かりやすく言うと、
「とても偏執的で攻撃的、そして狂気の満ち溢れた馬鹿」だろうな。

80日本@名無史さん2017/07/17(月) 16:50:38.64
250の>>908
>(墨子と卑弥呼の鬼道)非攻(非戦論)とはいえ、武器つくってただろ
>武器を嬉しそうに祭器にまでして非戦論ってことはないw<

卑弥呼は、共立女王であるから、当然(墨子と同じく)平和主義であり、
戦力中心は一大率であり、
狗奴國とは姫氏や倭王の主導権争いで戦争になった?。

81日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:01:45.73
250の>>911
>南に水行も陸行もしない嘘吐きダマシの犯罪行為の反省がないのが反日連呼人種ザラコク<

このような「反日連呼」のヘイトスピーチのキョクウらは、おそらく・・・・であるから、
何をしゃべって上げてもも、全て「反日」にすり替えた言い返しが来るだけで、
無意味な泥仕合に持ち込まれてしまうだけであり、
世間の人々の中の、
どうしようもないキョクウがそれで改心する訳もなく、
普通の人々は「反日」呼ばわりをするのはキョクウの・・・・である事を当然知っているのであるから、
・・・・だと判った時点で、放置すべし。

82日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:06:01.47
 
 
   今日もザラコク、中身なし
 
 

83日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:09:22.16
>>81
日本人に対するヘイトスピーチで穢れた反日がお前ザラコク

84日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:25:00.36
>>83
ざらこくのは全ての知性と常識への呪詛にも似たヘイトスピーチでしょ

85日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:29:26.82
>>72
そんなことはない。
いろいろ取り入れているよ。
その結果、九州説になった。

86日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:30:35.96
>>78
マイペースすぎるとは思う。
話題お中心にいてもマイペース。

87日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:30:45.14
根拠もなく極右だとか皇国主義者とかレッテルを貼って
発言すら許すまいとするザラコクのスタンスって
ファシズム政党権力のやり口そのものでしょ

88日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:31:42.12
>>85
という証拠は?

w

89日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:31:58.56
キウス! キウスっ!!!

90日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:32:15.51
>>86
中心にいないし

91日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:36:12.89
「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
                       『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士


☆銅鐸文化の消滅をこじつけでしか説明できない時点で近畿説はダメ

☆巨大古墳は、先住民(銅鐸民)の反抗を封じるために作られた無益なモニュメント

☆結果ではなく過程(強制労働)に意味があった


銅鐸民族の謎―争乱の弥生時代を読む 単行本 ? 2004/11
臼田 篤伸 (著)

銅鐸は「埋められていた」のではなく、「埋まっていた」のだ。「祭り」と「埋納」の呪縛による
銅鐸論の迷走を撃つ書。民族紛争の視点を導入し、銅鐸民族の侵入とその後の天孫族の侵略による
争乱の古代史を描く。

92日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:39:23.76
コピペ狂いの荒らしは
いつもの東遷説野郎だな

93日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:41:54.53
>>919
>スサノオはもちろん神武も実在しないというような学者。 九州王朝説(大笑い)。
文明とは退化するのだ。 本居の時代よりはるかに退化した。<

古田さんは、(九州王朝説も)、
神武の存在を「全面否定」などしておられないよ。

94日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:42:49.96
>>92
「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
                       『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士


「海浜型前方後円墳の時代」という良書がある。? 2015/3/31 かながわ考古学財団 5400円: 295ページ出版社: 同成社
海上から目視可能な交通の要衝に造営された海浜型前方後円墳を集成し、その立地の意義や築造背景、
古墳時代の海民統治などの実態を、新たな視点から追究する。全国の海浜型前方後円墳分布図と一覧表を収録。

第1章が素晴らしい(広瀬和雄)
C 魏志倭人伝の「一支国」で有名な壱岐島には6世紀後半7世紀前半にかけて古墳が300基つくられている
…可耕地が乏しく、玄武岩の大地に覆われた壱岐島にこれだけの有力古墳を支持するだけの食料増産は望むべくもないから

…いっそう海浜型前方後円墳の「不自然さ」が際立つ
…農耕生産が保証されない地形、可耕地が少ない地形環境だけが領域であるならば、大型墳丘をつくる力量をどのよにして首長層は蓄えたのか

…たとえば、新羅や伽耶からもたらされた鉄素材に対して、倭国から運ばれた「もの」の痕跡が彼の地では
ほとんど認められないという事実がある。「もの」が南部朝鮮から一方的に日本列島に運び込まれている。
倭王に「徳」を下賜したとみなせるなら事情は異なってくるが、そうしたことを表す証拠はない。
…中央からもたらされたり、そこを経由したとすれば、見返りは何であったのか。格別の特産物も今のところみあたらない。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む [単行本] 臼田 篤伸
単行本: 260ページ出版社: 彩流社 (2010/12/27)

巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた。 巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった。
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。

95日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:49:10.84
250の>>931
>筑紫は奴国だから邪馬台国ではない。古田説なんて いい加減誰も相手にしてないから。<

こりゃ、どうやら大和説者の・・・・のようだね?。
「相手にしてくれなく」て、面倒臭くなくて、どうも有難う。

96日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:49:58.22
九州説で参考になるような話を見た記憶がないんだよな。
だから九州スレなんて誰も寄り付かないんだぞw

97日本@名無史さん2017/07/17(月) 17:55:15.48
250の>>933
>後年でさえ方角間違えてる例なんて沢山あるのに この爺さん何言ってんだか。認知症か?<

後年の「周髀算経も知らない」ような半島人の間違い例など、
3世紀の(日の入り日の出で東西を決めた)周髀算経を知っている魏使らの実地での方向計測に、
及ぶべくもない。

98日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:00:51.96
250の>>941
>千年後でさえ日本が南側に延びてる地図なんて有名だろ?<

後代学者のかいたものは、前代記録の正誤の論拠にはならないよ。

>隋書の時代でも百済の西側に国がある事になってるからな。<

隋書も後代での「内容説明的な書き換え」が多いから、少し×書なんだよ。

99日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:01:33.41
>>97
周髀算経なんてマイナー本は魏の役人だって知らないんだろ

100subo2017/07/17(月) 18:02:12.93
>>96
九州説スレで自説を述べると刺激があっていいでしょう

101日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:06:42.67
250の>>942
>なんだ、筑紫は奴国と書いてあるのか。<

書いてないよ。

>本当にザラコクは嘘つきだな、やっぱり朝鮮人か?<

おっと、こりゃ、ヘイトスピーチ人種差別のキョクウの・・・・であったらしい。
こりゃ、議論が成立しないから、放置だな。

102日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:14:49.97
250の>>946
>2世紀末から土師器が北九州にも出始める。 もちろん畿内にはある。<

285年頃以後の那珂八幡付近で、
伽耶の陶質土器と、河内や播磨の(大和は僅かだけの?)庄内と、筑紫在地の庄内とが共存し、
三雲にはそれらよりも古い庄内があったんだから、
庄内は三雲が最も古い。

>いわば同一文化だ。<

大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国だよ。

103日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:17:37.55
>>98
単なる御都合主義だぞ。
倭人伝でも東治の東は普通に九州の南海上で完全に間違えてる。

104日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:22:32.59
250の>>948
>タダで酷使できる生口の多さを示す要素だ。<

倭人伝では、「奴」の文字と「生口」とをはっきり書き分けており、
違うものであった可能性が高い。
「生口」の対語は「死口」であり、
「死口」が「奴隷的な意味であって、
「生口」は、奴隷的ではない「生きた人間」の意味であったんだろう、と思われる。

105日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:25:56.90
250の>>950
>隋の時代だと小さな済州島も東西と南北の広さ 間違えてるとしかいえないからな。<

それ、済州島ではなく、台湾や沖縄説があったんでは?。

106日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:26:58.73
>>104
根拠ゼロ

107日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:28:46.31
>>105
つまりは遠方に関してはその位の精度という事だろう。
まして三世紀末の海を渡る行程なんて当然正確な記述なんて有り得ない。

108日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:28:55.95
>>105
またご都合主義

109日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:29:01.18
250の>>954
ssnは、どっち道「殉葬奴婢百余人」の挙証が出来ないアホ。

110日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:30:59.04
>>102
それ、何度も指摘されてるけど
完全なデマだよね

わかっててウソついてるってことだよね

111日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:31:29.33
>>100
結論なんて畿内で出てるのに何しに行くの?
時間の無駄。

112日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:32:27.21
250の>>956
>方角間違い例=倭人伝。 東治の東は九州の南で海の上ですw <

倭人伝では「計其道里、當在會稽東治之東」であり、
「会稽郡の東の治所の東」ですから、ほぼ九州です。

113日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:34:06.07
>>112
「会稽郡の東の治所の東」ってのもウソでしょ
そんなもの無いもの

114日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:36:24.59
>>109
「殉葬奴婢百余人」の挙証とか
やったら詐欺師確定なんですけど

115日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:41:55.75
おまいら!
ザラコクさんは毎日嘘をついてないと死んでしまう病気なんだぞ!
ひとに死ねって言うのか?
思いやりの心はないのか?

116日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:42:56.60
250の>960
>方角が正解だという証明は未来永劫不可能だからな。<

周髀算経の「日の入り日の出を結ぶ線で東西を決める」方法では、方向は殆ど間違えない。

>何より壱岐からマツラへは方角記述が元々ない。<

狗邪韓国→對海國と、一大國→末盧國は、
出発時点で目的地が見えているから、出発方向を記載する「必要がない」。
それに対して、對海國→一大國では、出発時点で一大國が見えないから、
出発方向を指定する「必要がある」。

>よって方角論なんてその程度の信憑性なんだが。<

よって、この男の方角論の稚拙さは、その程度の信憑性なんだが。

117日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:45:48.31
>>116
そんな方法つかったって根拠なにも無し

118日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:52:37.65
250の>>965
>現地で生活する古代人は間違える事はない。 でも間違える例が多くあるという事は<

目的地が見えていれば、方向は殆ど間違えないが、
目的地が見えない所への方角は、「往来方向」や「出発方向」で記載するしかないし、
そんな例は少ない。

>普通に計測手段の不備と伝達ミスだろう。<

普通は、計測ミスも伝達ミスも殆どない。

>つまり方角間違い有り得ない説は九州説の印象操作ですな。<

つまり、
「南→東」などの方角間違いが有り得る、
という大和説は、嘘つきダマシの・・・・詐欺の印象操作ですな。

119日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:52:55.39
>>116
>一大國→末盧國は、
>出発時点で目的地が見えているから

これはウソだな
見えない

120subo2017/07/17(月) 18:55:41.76
何?隋の時代だと小さな済州島も東西と南北の広さ 間違えてるとしかいえないからだと

つまり隋書倭国伝の東西と南北は逆で九州本島は東西3月行で南北5月行てか
なんか逆のような気がしてたんだよな(ザラコクはからむでない

121日本@名無史さん2017/07/17(月) 18:57:18.27
>>118
唐津に近づくと糸島富士が見えてるんですけど

122日本@名無史さん2017/07/17(月) 19:01:05.10
>>118
何百メートルか東南に進んだあと
何十キロも北東に進むのに
それが、東南五百里だという説は
詐欺でなくて、なに?

123日本@名無史さん2017/07/17(月) 19:01:17.50
250の>>968
>倭人伝も実測した例にならないよ <

 皇帝への報告だし、同行者が一杯いるんだから、
 「嘘ダマシ」を書いてバレたら、即刻首が飛ぶし、
 周制への復古方針で周髀算経を読んでいる魏の役人たちは、
 当然一寸千里も簡易三角測量も記里車も歩測も、
 「日の入り日の出で8尺棒の影端を結んで東西を決め、それに直交する方向で南北を決める」
 事も知っているから、
 実測して記録した。

124日本@名無史さん2017/07/17(月) 19:05:05.10
>>123
妄想でしょ
根拠なにも無いもの

125日本@名無史さん2017/07/17(月) 19:06:26.67
>>123
周制への復古方針なんて古田の捏造だろ
そんな記録はない、

126subo2017/07/17(月) 19:07:53.21
九州本島の南北が5月行だったら末蘆国から1月だったら北部九州から
出ることないな

127日本@名無史さん2017/07/17(月) 19:08:11.36
>>123
そんな測定してないって証明されてるし

128日本@名無史さん2017/07/17(月) 19:09:45.15
>>126
九州本島の南北が5月行なわけないから
末蘆国から1月だったら確実に北部九州から
出るな

129日本@名無史さん2017/07/17(月) 19:12:39.98
>>116
そんな計測法を使っていると証明出来ないし根拠が全くない。
それで論を主張しようと誰も説得出来るはずがないんだよ。
いい加減諦めないと惨めになるだけだぞ。
それに古田説にはそもそも信用性がない。

130日本@名無史さん2017/07/17(月) 19:12:45.46
また畿内説が、ズタズタに、、、、、、、

131日本@名無史さん2017/07/17(月) 19:14:55.79
洛陽を訪れた倭人が呉の太伯の後、を名乗った。
太伯は周の王位を譲り、會稽東治に住んだが倭国とは遠すぎる。
刺青の風俗は同じだが、そんなわけがない。
という話は、魏略に載ってるだろ。

倭人の説明に関しての、この話の、混同であって方向間違いの例じゃない。
魏志では周の王族、太伯の後は削除したが、何故か會稽東治は倭人の史料として残った。

最初の弥生渡来人は太伯が治めた呉から九州、ってことで記紀も宮崎起源で調整してんじゃねw
記紀の作者、魏略読んだのかな?

132subo2017/07/17(月) 19:15:18.85
>>128
隋書の東西南北が逆として東西3月行南北5月行が本州と仮定したら
どこからどこまでなんだ?

133日本@名無史さん2017/07/17(月) 19:17:30.49
>>131
九州説を、した。

134日本@名無史さん2017/07/17(月) 19:18:46.21
>>132
九州から常陸くらいまでだね

135subo2017/07/17(月) 19:21:36.69
>>134
九州から常陸まで3月行で常陸から青森まで5月行か?
なんか変だと思うけどな

136日本@名無史さん2017/07/17(月) 19:26:57.29
>>135
古田説系で変でないものは無い

137日本@名無史さん2017/07/17(月) 19:32:51.12
中国江南から広がった下戸遺伝子。

中国南部の文化である銅鐸。

島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。

日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。

淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。


唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。

呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。

弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。

倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃が中心。

倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、畿内や伊勢尾張美濃が中心だろうね。

138subo2017/07/17(月) 19:33:38.71
>>136
古田説が隋書の東西5月行南北3月行をどういう風に解釈してるのかが
わからん、畿内厨は知っていたら教えてくれないか

139日本@名無史さん2017/07/17(月) 19:50:12.86
隋書の倭国は東西3月行南北5月行の九州島であって
邪馬台国の軍事顧問、張政は畿内に入っていない。

日本国=畿内については
唐書の其國界東西南北各數千里、西界南界咸至大海、東界北界有大山爲限
であって、裴世清は斑鳩で聖徳太子とあっている。

140日本@名無史さん2017/07/17(月) 19:50:53.03
>>138
つごう悪けりゃダンマリじゃない?

141subo2017/07/17(月) 20:02:10.59
>>139
ありがとうございます

142日本@名無史さん2017/07/17(月) 20:04:16.88
>>139
資料を勝手に改定してるのか?

143日本@名無史さん2017/07/17(月) 20:06:37.29
結局邪馬台国は畿内で問題ない、と。

144日本@名無史さん2017/07/17(月) 20:09:17.73
隋書には東側が高地だと書いてるから九州ではないだろう。
まず東西移動に5カ月はさすがに本州の事。

145日本@名無史さん2017/07/17(月) 20:25:26.52
250の>>998
根拠もなく自分が普通だと思い込む傲慢が大和説者の限界だな。

146日本@名無史さん2017/07/17(月) 20:31:48.42
>>66
「南→東」などの嘘つきダマシや、
「口先での思わせぶり」のダマシ、
それは大和説に充満している。

147日本@名無史さん2017/07/17(月) 20:34:06.18
>>131
>最初の弥生渡来人は太伯が治めた呉から九州、ってことで記紀も宮崎起源で調整してんじゃねw
>記紀の作者、魏略読んだのかな?

日本書紀の編者らは読んでいた可能性が高いが、あまり気にはしていないだろう。
気にしていたら長崎の方にでも起源を持っていっただろう。
あと、彼らは筑紫の日向は福岡のつもりで書いているよ。

148日本@名無史さん2017/07/17(月) 20:34:33.99
>>136
畿内説が一番ヘンだよ。

149日本@名無史さん2017/07/17(月) 20:36:10.02
>>72
思想宗教にクルっている大和説のひとは、自分の教祖の説以外は興味がないんだよ。
持論を言いっ放しで、他人の話は「匂わせ誹謗で否定」するばかりで、聞かないのさ。

150日本@名無史さん2017/07/17(月) 20:46:30.65
>>96
大和説は、
「南→東」などの(都合の悪い)史料事実の否定曲解や、
大和説以外の説への「口先匂わせ否定の宣伝」や、
思想宗教的な排他主義のヘイトスピーチばかりであるから、
大和説で、参考になるような話を見た記憶がないんだよな。
だから大和説スレなんて、批判者が一杯寄り付くんだぞw 。

151日本@名無史さん2017/07/17(月) 20:55:51.79
>>99
>周髀算経なんてマイナー本は魏の役人だって知らないんだろ <

周髀算経は、後漢末期に再収集と注釈がなされ、
魏の初代文帝が即位の詔書で「度量衡の同一化」を指示し、
魏の高官たちが次々と「周制への復古」の上表文を上奏したから、
魏の役人になるには、周髀算経を読んで知っている事が必要になっていたので、
魏の役人たちは、知っていなければ、役人にもなけなかった事になる。

152日本@名無史さん2017/07/17(月) 21:01:12.34
>>103
>単なる御都合主義だぞ。
倭人伝でも東治の東は普通に九州の南海上で完全に間違えてる。<

「会稽郡の東の治所とは、一地点ではなく、会稽郡の南北長位の幅があり、
だから、「その東」が九州付近になるんだよ。

153subo2017/07/17(月) 21:06:45.95
>>147
長崎はニホンの起源である

154日本@名無史さん2017/07/17(月) 21:10:15.28
>>152
そんな無理な解釈されてもね。
御都合主義にも程がある。

155日本@名無史さん2017/07/17(月) 21:12:03.04
なんで九州説の連中が機内スレでつまらん話してんだろ?
本当にやってる事は朝鮮人そのものだよね。

156日本@名無史さん2017/07/17(月) 21:12:16.71
>>107
>つまりは遠方に関してはその位の精度という事だろう。<

肉眼では見えない遠方では、
その南北距離は、一寸千里で計測可能であるし、
方向は、「往来方向」や「出発方向」で示される事になる事が多い。

>まして三世紀末の海を渡る行程なんて当然正確な記述なんて有り得ない。<

倭人伝の頃は、
東西方向の(肉眼では見えない)遠距離渡海では、日数で示される事が多いが、
南北方向は、一寸千里で計測出来、
肉眼で見えれば、簡易三角測量などで距離測定が出来、
他にも、記里車や歩測でも補足出来た。

157日本@名無史さん2017/07/17(月) 21:15:05.77
ザラコクの話は全く根拠がないからな。説得力がまるでない。

158日本@名無史さん2017/07/17(月) 21:21:37.93
>>152
魏志で帯方郡から短里で一万二千里とあるのを、数字だけ引用して長里で理解してしまったので、実際より南にあると思い込んだ。

159日本@名無史さん2017/07/17(月) 21:22:32.25
>>110
>それ、何度も指摘されてるけど 完全なデマだよね
わかっててウソついてるってことだよね<

晋書扶余國伝の「太康六年」の記載や、
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
や、
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm
に書かれた事からの結論だよ。

160日本@名無史さん2017/07/17(月) 21:29:37.50
>>113
>「会稽郡の東の治所の東」ってのもウソでしょ そんなもの無いもの<

まさか「会稽山の東治」なんて意味になる筈がなく
また、陳寿の執筆時は、会稽郡と建安郡の分郡の後であるから、
だから「会稽東治」は「会稽郡の東の治所」になる。

161日本@名無史さん2017/07/17(月) 21:32:59.20
>>114
>「殉葬奴婢百余人」の挙証とか やったら詐欺師確定なんですけど<

祇園山が、日本では唯一「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を、満たし得る墓。

162日本@名無史さん2017/07/17(月) 21:37:38.37
>>161
平原遺跡も満たす。

163日本@名無史さん2017/07/17(月) 21:39:08.91
>>117
>>>方角が正解だという証明は未来永劫不可能だからな。<

>>周髀算経の「日の入り日の出を結ぶ線で東西を決める」方法では、方向は殆ど間違えない。<

>>>何より壱岐からマツラへは方角記述が元々ない。<

>>狗邪韓国→對海國と、一大國→末盧國は、
出発時点で目的地が見えているから、出発方向を記載する「必要がない」。
それに対して、對海國→一大國では、出発時点で一大國が見えないから、
出発方向を指定する「必要がある」。<

>そんな方法つかったって根拠なにも無し<

「陳寿が、きちんと書き分けている」という史料事実の存在が根拠。

164日本@名無史さん2017/07/17(月) 21:41:50.13
>>119
>>一大國→末盧國は、 出発時点で目的地が見えているから<

>これはウソだな 見えない <

 壱岐から東松浦半島は、島伝いに見えている。

165日本@名無史さん2017/07/17(月) 21:49:30.40
>>120
>(subo)何?隋の時代だと小さな済州島も東西と南北の広さ 間違えてるとしかいえないからだと
つまり隋書倭国伝の東西と南北は逆で九州本島は東西3月行で南北5月行てか
なんか逆のような気がしてたんだよな(ザラコクはからむでない<

宋書の倭王武の、
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
の後の事だから、
隋書では、附庸国も含めており、
だから、東西は、五島列島〜常陸位の日数距離になり、
南北は、半島南部から南西諸島付近までの日数距離になる。

166日本@名無史さん2017/07/17(月) 21:55:50.23
『諸蕃』

見てもわかるけど、先住民系?だとするなら、
成り済ましだと思わない?

167日本@名無史さん2017/07/17(月) 21:59:50.18
>>121
>唐津に近づくと糸島富士が見えてるんですけど <

魏使らは、行程においては、
一大國を出航する時には、次の末盧國の方を気にするのであり、
末盧國の次の国の伊都國や、その近所の山など、関心もなく、気に書ける必要もない。

168日本@名無史さん2017/07/17(月) 22:02:32.61
捏造するなよwと言っている人がいたり

アマテラス?皇祖から別れた家・・・とか
そのような図が出てこない?

169日本@名無史さん2017/07/17(月) 22:06:45.21
諸蕃   皇祖神
↓     ↓
某氏など 某氏など

このような図

紛いモノが作成したものでしょ

170日本@名無史さん2017/07/17(月) 22:15:58.22
皇祖 皇祖神?

これは諸蕃じゃないと、
デタラメになる

171日本@名無史さん2017/07/17(月) 22:26:03.75
>>122
>何百メートルか東南に進んだあと 何十キロも北東に進むのに それが、東南五百里だという説は
詐欺でなくて、なに?<

陳寿の行程記載の原則も、
「出発説明+途中移動の説明+到着説明+付加説明」の記載法が原則だから、

「東南」が出発方向の説明であり、
「陸行五百里」が案内人の誘導通りの途中移動の説明であり、
それに拠って、伊都国に到着する、という事だから、
目的國の方向は書かれていない。

172subo2017/07/17(月) 22:26:28.33
五島列島?常陸?畿内厨の上をいったな、その前に、なんていうか、あのね

5月行3月行は水行、海を含んでないからすべて陸行だし、海があるところで
終わりだし(これは独り言だから誰も絡むでない

173日本@名無史さん2017/07/17(月) 22:28:12.54
>>151
「周制への復古」とか、妄想でしょ

174日本@名無史さん2017/07/17(月) 22:29:32.47
>>123
>>皇帝への報告だし、同行者が一杯いるんだから、
 「嘘ダマシ」を書いてバレたら、即刻首が飛ぶし、
 周制への復古方針で周髀算経を読んでいる魏の役人たちは、
 当然一寸千里も簡易三角測量も記里車も歩測も、
 「日の入り日の出で8尺棒の影端を結んで東西を決め、それに直交する方向で南北を決める」
 事も知っているから、
 実測して記録した。

>妄想でしょ 根拠なにも無いもの <

史料実態と人類の常識が根拠。

175日本@名無史さん2017/07/17(月) 22:31:22.67
天王というのもそう

天王〜天皇となっていたりするけど、
諸蕃じゃないの?

176日本@名無史さん2017/07/17(月) 22:35:28.38
>>125
>周制への復古方針なんて古田の捏造だろ そんな記録はない、<

古田さんは、第1書から第5書頃のいずれか?の本で、
重臣たちの上表文の引用を提示掲載しておられた。

177日本@名無史さん2017/07/18(火) 00:13:15.11
>>176
トンデモ珍解釈じゃん

178日本@名無史さん2017/07/18(火) 03:23:14.03
>>126
>(subo)九州本島の南北が5月行だったら末蘆国から1月だったら北部九州から
出ることないな<

suboの「九州本島の南北が5月行だったら」という仮定がそもそも間違い。

179日本@名無史さん2017/07/18(火) 03:30:26.49
>>127
>そんな測定してないって証明されてるし<

魏志に実際に方向や里数が書かれているんだし、
それらは計測しなければ書けないものなんだし、
魏使らが一寸千里などの方法を知っていなければ、計測出来ない記録である。

180日本@名無史さん2017/07/18(火) 03:38:39.78
丑三キウス

181日本@名無史さん2017/07/18(火) 03:49:52.94
>>129
>そんな計測法を使っていると証明出来ないし根拠が全くない。<

魏志に実際に方向や里数が書かれている、という史料事実の存在が根拠であり、
計測があった事の証明。

>それで論を主張しようと誰も説得出来るはずがないんだよ。
いい加減諦めないと惨めになるだけだぞ。
それに古田説にはそもそも信用性がない。<

・・・・らの説得など関心がない。
世間の皆様に説明出来ればよい。

182日本@名無史さん2017/07/18(火) 03:55:46.87
>>131
>魏志では周の王族、太伯の後は削除したが、何故か會稽東治は倭人の史料として残った。<

ちょっと違う。「計其道里當在會稽東治之東」は、陳寿の地の文。

183日本@名無史さん2017/07/18(火) 03:59:34.70
>>132
>隋書の東西南北が逆として東西3月行南北5月行が本州と仮定したら
どこからどこまでなんだ?<

「仮定」の積み重ねの話では何の価値もない。
原文での議論をしましょう。

184日本@名無史さん2017/07/18(火) 04:03:15.01
>>136
「南→東」などの都合の悪い史料事実の否定や仮定ばっかりの大和説系で、
変でないものは無い。

185日本@名無史さん2017/07/18(火) 04:07:46.50
>>137
>倭国とは倭人の国であるから、
倭国の版図も、畿内や伊勢尾張美濃が中心だろうね。<

この投稿子も、
「南≠東」や、
「大和は筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」や、
「殉葬奴婢百余人」の墓の事を、
忘れたのか?隠したのか?をしている。

186日本@名無史さん2017/07/18(火) 04:12:05.30
>>138
>古田説が隋書の東西5月行南北3月行をどういう風に解釈してるのかが
わからん、畿内厨は知っていたら教えてくれないか <

畿内厨ではないが、
古田説は、
「東西5月行」は五島列島から常陸まで。
「南北3月行」は対馬北端から南西諸島付近まで。

187日本@名無史さん2017/07/18(火) 04:24:09.75
>>179
根拠なし

188日本@名無史さん2017/07/18(火) 04:25:48.83
>>139
>裴世清は斑鳩で聖徳太子とあっている。<

「裴世清は斑鳩で聖徳太子とあっている」は、半分×書の書紀の造作捏造。
厩戸は、善光寺との往復書簡によって、「命長7年=646年」の人であり、
書紀の記載では、646年には聖徳太子はとっくの昔に亡くなっていて、存在しない。
そして、聖徳太子の事績の記載は、書紀の「タリシホコの事績の盗用と改変」。

189日本@名無史さん2017/07/18(火) 04:29:58.02
>>143
>結局邪馬台国は畿内で問題ない、と。<

ダメだよ。大和では、
「南≠東」や、
「大和は筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」や、
「殉葬奴婢百余人」の墓、
などに合わないから。

190日本@名無史さん2017/07/18(火) 04:37:40.88
>>144
>隋書には東側が高地だと書いてるから九州ではないだろう。<

ダメだよ。
隋使が、中部山岳部までは全く行っていないから、知る由もなく、
「其地勢東高西下 」は、実際に見聞出来た「筑紫平野部や熊本平野から阿蘇山など」の地形の事。

>まず東西移動に5カ月はさすがに本州の事。<

筑紫や九州を省いては、これもまた嘘吐きダマシ。

191日本@名無史さん2017/07/18(火) 04:43:49.69
>>155
>そんな無理な解釈されてもね。 御都合主義にも程がある。
>なんで九州説の連中が機内スレでつまらん話してんだろ?
本当にやってる事は朝鮮人そのものだよね。<

ほら、大和説者は、史料事実での反論が不能になる、と判ったら、
すぐに「口先での人格誹謗」のウソ宣伝にすり替える。

192日本@名無史さん2017/07/18(火) 04:55:46.73
>>158
>魏志で帯方郡から短里で一万二千里とあるのを、
数字だけ引用して長里で理解してしまったので、
実際より南にあると思い込んだ。<

陳寿も、当然周髀算経を読んでいて短里も知っているし、
「計其道里、當在會稽、東治之東」も、
陳寿が魏使らの記録を見た上で計算された「地の文」での説明ですよ。

193日本@名無史さん2017/07/18(火) 05:01:45.78
>>173
>「周制への復古」とか、妄想でしょ <

古田本、始めから、読んでみな。

194日本@名無史さん2017/07/18(火) 07:27:59.47
>>188
その通り

「聖徳太子」はいなかった

藤原不比等によって作り出された架空の人格

20年間ほどの期間 現在のJR法隆寺駅の南方の川岸周辺に寺院資材が大量に積み上げられて置かれた。
       地名が「置留(おきどめ)」→「興留」として残る。

古建築秘話 / 伊藤平左エ門‖著 / 鳳山社 , 1962

おもしろ歴史話 法隆寺移築説
宮大工の棟梁の家系に生まれた十一世平左衛門が書いた「古建築秘話」で伊藤平左衛門は、建築に使われる
尺度の歴史的違いに着目することで、法隆寺は後世の再建で、別の場所から移築されたと結論付けた。
高麗尺で作られていて、当時奈良に都がなかった為に他所から移築と

新たな支配者による圧力のもと、転封(移封)という形で、大和の地へ強制的に移転させられた可能性が強いと思います。
今から48年前に、木造建築の専門家が本を出されています。

>>620 時期、伽藍様式が法隆寺に同等なので

大宰府の観世音寺はそんな次元じゃない
法隆寺の心柱の直径と寸法がぴったり合致  ← 法隆寺は、九州大宰府、観世音寺から移築された

鳳山社 , 1962 ← 長生きしてれば九州王朝に賛同したはず

米田良三『法隆寺は移築された─太宰府から斑鳩へ』一九九一年、新泉社刊。

195日本@名無史さん2017/07/18(火) 08:05:09.72
>>188
>善光寺との往復書簡

それ、相手は善光寺如来でしょ
実愛人物なわけないじゃん

196日本@名無史さん2017/07/18(火) 08:18:00.48
>>193
トンデモ本の受け売りか
しかも結論だけで中身を理解してないという(笑

 

197日本@名無史さん2017/07/18(火) 08:35:31.54
>>195
仏僧じゃない?

198日本@名無史さん2017/07/18(火) 08:37:10.25
>>1-50

>>1は素晴らしい知識を持っている。

しかし君に一番必要な物、それは「感(feel)」だ。

考えるではなくて感じる事だ。

考古学はもういい。
ほどほどにするべきだ。

2世紀前半から3世紀後半まで存在したヒミコを生んだ王権。
それは日本の神話に残ってるのだ。

〇〇命、〇〇大神

馬鹿くさい、そんなもの存在しないと君が一番避けて来た神話に残ってるのだ。

ヒミコとは「えべっさん(事代主)」の娘さんだ。

纏向にはいないからね。

199日本@名無史さん2017/07/18(火) 09:17:58.06
>>186
五島列島だの南西諸島だの、すでに四囲大海から外に出てますけどw

200日本@名無史さん2017/07/18(火) 09:17:58.73
>>193
晩年の話なんてとても聴けたものじゃなかったぞ。
思い込みと妄想、何より考古学の知識が古すぎて
現実と話が合わない部分が続出。だから焦ったんだろうな。
まぁザラコクも無駄な時間過ごしたわけである意味哀れだね。

201日本@名無史さん2017/07/18(火) 09:22:09.10
>>191
畿内スレ荒らしてる自覚がないのかね?
朝鮮人が正しい歴史を教えてやる、と日本で暴れてるのと
全く同じなの自覚はしろよw
まともな日本人は韓国行ってそんな事しないだろ。

202日本@名無史さん2017/07/18(火) 09:26:51.06
何度も資料や実例をもって反論されてるのに
それを認めないのも朝鮮人そのものだよね。

203日本@名無史さん2017/07/18(火) 09:42:40.65
>>197
ホンモノな訳ねーよ

204日本@名無史さん2017/07/18(火) 09:43:52.00
スレ荒らしてるのは紛れもない事実だしウソではないよな。
そんな状態の奴の戯言を誰が認めると思ってんだw

205日本@名無史さん2017/07/18(火) 09:51:08.42
このスレはスレ荒らし有ればこそだろ。

206日本@名無史さん2017/07/18(火) 09:59:57.19
スレ荒らしなんて全く不要だよね
荒らすのは脅威を感じてるに他ならない。

207日本@名無史さん2017/07/18(火) 10:17:10.84
205 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2017/07/18(火) 09:51:08.42
このスレはスレ荒らし有ればこそだろ。

206 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/07/18(火) 09:59:57.19
スレ荒らしなんて全く不要だよね
荒らすのは脅威を感じてるに他ならない。

208日本@名無史さん2017/07/18(火) 10:22:24.95
小便着色本九州説スレでやらないでここで暴れてる時点でお察し
九州説どころかただの脳の足りない構ってチャンだろ

ぼくちゃんにレスしてレスして-!っていう可哀想なオジイチャン

209日本@名無史さん2017/07/18(火) 11:25:58.39
>>208
そういう、まぜっかえししか言えないのが畿内厨
第3者もみてるんだぜ
書き込まない層

210日本@名無史さん2017/07/18(火) 11:26:27.89
通説大和説者は、このように、
史料事実に対する反論をせずに、
都合の悪いものは何でも口先でイチャモンを付けて抹殺しようとし、
何でも全て相手へのヘイトスピーチ的な誹謗アジテーションで議論に勝とうとする非人間ばかり。

そのような人種に守られているスレ主も、おそらく彼らの仲間?。

211日本@名無史さん2017/07/18(火) 11:32:43.06
>>209
つまり人が集まる畿内スレを利用してるだけなんだろ?
それは九州説スレが既に機能していないに他ならないんだよ。

自説に自信あるなら当該スレでやれって話。
九州説なんてハナから相手にしてないんだからな。

212日本@名無史さん2017/07/18(火) 11:35:10.44
>>210
反論なんて既に何度もしてもらってるのに無視してるよね。
その辺りも延々日本人に謝罪しろと宣う朝鮮人と全く同じ図式なんだが…

213日本@名無史さん2017/07/18(火) 11:38:09.55
結論的にこのスレにおける九州説の主張は
朝鮮人と全く同じ行動様式に基づいたもの。
これに関しては異論は認めないよ。

214日本@名無史さん2017/07/18(火) 11:48:47.03
>>195
>>善光寺との往復書簡<

>それ、相手は善光寺如来でしょ 実愛人物なわけないじゃん <

如来なんて敬称に決まってるじゃん。
当然往復書簡の相手は、善光寺の座主のような人だよ。

215日本@名無史さん2017/07/18(火) 11:50:50.48
>>199
>五島列島だの南西諸島だの、すでに四囲大海から外に出てますけどw <

対馬壱岐などが既に九州本島ではないんだよ。

216日本@名無史さん2017/07/18(火) 12:18:23.39
同じ時代の古墳の序列が大きさ、つまり大>中>小であることは言うまでもありません。

ところがもう一つ別の序列があります。
立地場所ですね。

高地>中地>低地です。

ヒミコ墓の最有力・箸墓古墳は低地です。
一方、高鴨神社は孝昭天皇の頃(3世紀中〜後半)に神殿ができたと言われてます。
箸墓や纏向古墳群と同時期にはご神体の神山があったと考えて良いと思います。

どちらの地位が高いのでしょう?
高鴨神社のご神体ですね。

私は邪馬台国論争は終了したと思ってます。

https://goo.gl/DA7WRZ

217日本@名無史さん2017/07/18(火) 12:19:36.38
>>214
このように、古田説は史料の恣意的改竄で出来ている

218日本@名無史さん2017/07/18(火) 12:20:50.97
善光寺の手紙の自署は厩戸勝鬘だから聖徳太子じゃないだろ

219subo2017/07/18(火) 12:26:50.69
九州本島は南北陸行5月行、東西陸行3月行である(2倍暦により実質は半分

善光寺がどうした、百済王善光(本田善光)か

220subo2017/07/18(火) 12:56:39.13
>>216
魏志倭人伝>考古学的裏づけ>記紀(いいな鴨厨

221日本@名無史さん2017/07/18(火) 13:07:44.13
>>220
前期古墳が山の上にあるというのは考古学的裏づけだ。

222日本@名無史さん2017/07/18(火) 13:16:39.48
>>221
それに根拠がない

223日本@名無史さん2017/07/18(火) 13:31:23.83
>>211
利用してる
機能していない
相手にしてないんだから


↑こういう否定的要素ばかりで生きてる人間の素性に興味がある

224日本@名無史さん2017/07/18(火) 14:17:43.03
>>218
聖徳太子は後世の呼び名だよ。

225日本@名無史さん2017/07/18(火) 14:42:12.46
>>224
勝鬘はインド人の夫人の名だから、誰か女性が名を伏せて
善光寺と手紙のやりとりをしてるんだろ

226日本@名無史さん2017/07/18(火) 14:47:46.77
じゃあ厩戸王の夫人だろう。

227孝霊厨2017/07/18(火) 14:50:55.82
まぁ太子と推古天皇の関係はそのまま卑弥呼と男王の関係ですからね。
太子と縁の深い場所も何故か孝霊天皇とも重なるのも謎です。

228subo2017/07/18(火) 15:07:10.15
聖徳太子はアマタリシヒコ、蘇我氏、秦氏、筑紫倭国だろ

聖徳太子は百済から来た本田善光と手紙のやりとりしてたのか

229subo2017/07/18(火) 15:09:35.02
葛城王朝の孝霊天皇は筑紫倭国と深い関係にあったということか

230subo2017/07/18(火) 15:12:58.66
キトラ古墳、高松塚古墳は百済王の墓なのか?

231日本@名無史さん2017/07/18(火) 15:36:16.64
また邪馬台国特集をやるようです
前回ハズレだったのであまり期待できませんが・・・


BS-TBS
2017年7月22日(土) 22時00分〜22時54分
諸説あり!
「邪馬台国スペシャル」
テーマは「邪馬台国」。およそ1700年前に日本にあったとされる国“邪馬台国”だが、
その存在は日本史上最大の謎とされ、まさに“諸説の王様”。
300年前に勃発した“邪馬台国論争”は現在も続き、新しい発見が次々と報告されている。
邪馬台国はどこにあったのか?そして、女王・卑弥呼とは一体何者だったのか?卑弥呼が使った呪術とは?
邪馬台国や卑弥呼にまつわる諸説を徹底検証。300年論争に終止符を打つことはできるのか?!

232日本@名無史さん2017/07/18(火) 15:48:57.26
どうせロクな内容じゃないだろ

233日本@名無史さん2017/07/18(火) 16:11:19.24
古田系のキワモノやるよりゃマシでしょ。
もっともそんなんじゃ視聴率とれんだろけど

234日本@名無史さん2017/07/18(火) 16:13:20.69
そうかな?考古学的なまともな検証よりもセンセーショナルな「〇〇はなかった!」みたいなバカネタばかり取り上げるからな

そんなもんばかり広めるからアホが際限なく湧いてきてスレも荒し続けるんだろう
テレビも変な珍説で煽り立てる方が面白いとか思っていい加減な物しか作らないからな

前見た番組でも平気で騎馬民族征服説とか紹介してて失笑しか出なかった

235subo2017/07/18(火) 16:13:58.84
葛城王朝特集やったら鴨厨が大喜びだな

236subo2017/07/18(火) 16:16:32.65
>>234
騎馬民族征服説とかやったのか、いいことである

でも内容は腰砕けだろ、邪馬台国畿内説だったら大笑いだなwwwww

237日本@名無史さん2017/07/18(火) 16:20:20.91
>>222
高天原(御所市高天)にある神山に対して下界の箸墓ごときが頭が高い。
それらしい「謂れ」を持ってこい。

238日本@名無史さん2017/07/18(火) 16:27:03.21
>>229
>葛城王朝の孝霊天皇は

孝霊は葛城王朝ではない、磯城の人物だろう。
6代孝安までは葛城王朝。
ただし3代安寧は名前からも磯城の可能性が高い。

元々葛城と磯城の争いが大乱の要因。

最終的に母親が磯城・物部である崇神が葛城王朝を滅ぼす。

239subo2017/07/18(火) 16:30:32.50
孝霊は葛城王朝ではないのか、知らんかった

240日本@名無史さん2017/07/18(火) 17:02:27.83
ナントカ王朝とか言った瞬間にトンデモ決定だからな

241subo2017/07/18(火) 17:06:31.80
>>240
じゃ葛城帝国、ヤマト帝国、最近では大ニッポン帝国

242日本@名無史さん2017/07/18(火) 17:18:59.74
>>240
>ナントカ王朝とか言った瞬間にトンデモ決定だからな

〇〇命、○○大神と聞いて「はい、そんなのはいない」となるわけだろ?
だからダメなんだ。
君には永遠に分からない。

243日本@名無史さん2017/07/18(火) 17:20:54.13
>>242
なるよ

244日本@名無史さん2017/07/18(火) 17:24:19.45
>>241
トンデモさが増した

245日本@名無史さん2017/07/18(火) 17:28:56.27
しかし本居はすごい。
文献だけで一発で卑弥呼を見抜いたからね。

今の公務員学者どもは爪の垢でも煎じて飲め。

本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世はわざと熊襲の女酋長というアホ説を唱えることで道化を演じた。
那珂通世を最後にこのアホ説は終わる。

なんでか分るかい?

那珂通世の生存中に日清戦争に勝ったからだ。
日本人の中に2千年以上あった中華のくびきが解けた。
くびきとはあんな巨大帝国と戦っても絶対勝てないという恐怖心だ。

明治人が勝ってくれたおかげでもう道化の必要がなくなった。

246subo2017/07/18(火) 17:31:14.12
>>244
戦前は大ニッポン帝国といっていただろ戦後にニホン国になった

大ニッポン帝国憲法は大ニッポン帝国の憲法でありニホン国憲法はニホン国の憲法である
当た前田のクラッカーである

247日本@名無史さん2017/07/18(火) 17:32:36.46
鴨は嘘ばかり、根拠なし。

248subo2017/07/18(火) 17:39:55.84
大ニッポン帝国の信者である国粋主義の本居宣長は筑紫倭国ニホンの卑弥呼様
にたいして失礼である(百済はニッポン、新羅はニホンである

249日本@名無史さん2017/07/18(火) 17:44:55.95
>>247
本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世が。本当に、真剣に、
熊襲の女酋長という説を信じてたと思うかい?

そんなわけはない。

政府、支配者層、知識人が意図的にガセ情報を流し現実から目をそらせるという手法は、
20世紀にもあった。

旧・日本軍の風船爆弾に対して、本当のことを言えないアメリカ政府は、
宇宙人や気象観測用の気球だなんだでごまかした。

いわゆるロズウェル事件だ。
「これは日本軍による風船爆弾です。炭疽菌でも積まれてたらどうやらアメリカは終わりです」
とは言えなかったのだ。

250日本@名無史さん2017/07/18(火) 17:49:02.48
高天原を統べると書かれているのは、アマテラス。アマテラスが祀られているのは、伊勢。
葛城ではない。

251日本@名無史さん2017/07/18(火) 17:51:15.59
本居も同じだ。

「日本の歴史は中国に渡ったスサノオの土下座から始まりました」
とは言えなかった。

ショックが大き過ぎる。

日清戦争に勝って中華に対して優越感を持てるようになるまではな。

252subo2017/07/18(火) 17:53:14.50
>>249
731部隊の風船爆弾やな

253日本@名無史さん2017/07/18(火) 17:53:53.30
>>250
それは伊勢神宮にある穢れた祭器ヤタの鏡に理屈をつけただけ。
アマテラスなんてそんな人物はいない。
後世に葛城のシタテルヒメ(タカヒメ)を原像に創作された。

254subo2017/07/18(火) 17:54:22.22
>>250
熊本の八代である

255日本@名無史さん2017/07/18(火) 18:07:18.04
葛城王朝はイスケヨリ姫のファンの鴨厨じゃないの?

256日本@名無史さん2017/07/18(火) 18:08:14.29
伊勢は伊都のコピー

257日本@名無史さん2017/07/18(火) 18:10:28.17
>>219
>九州本島は南北陸行5月行、東西陸行3月行である(2倍暦により実質は半分<

これは絶対性がない。
二中歴の証言の、
「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政 
 継体五 元丁酉(五一七〜五二一)・・・」
に拠って、
倭國内では517年の39年前(478年頃)に、
「二倍年歴」計算から、結縄刻木する事になって、普通の一倍年歴計算に変わった、
という事になる。
だから、隋代の倭人や俀國人が、二倍年歴を使っていたのか?は、疑問である事になる。

>善光寺がどうした、百済王善光(本田善光)か<

厩戸が、善光寺の座主への手紙に、「命長7年(646年)」と年次を記載した、という事は、
厩戸は、646年にまだ生きており、
書紀に書かれた「厩戸=聖徳太子」の聖徳太子は622年に亡くなったのであるから、
書紀の「厩戸=聖徳太子」の記載が、嘘つきダマシであった、という事の証拠になる訳で。

258日本@名無史さん2017/07/18(火) 18:25:13.95
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう

259日本@名無史さん2017/07/18(火) 18:26:05.94
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)
の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の
被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である

260いかような72017/07/18(火) 18:29:29.88
50 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:16:16.59 >>54
(続き)
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、

調査には種々の制約がある

261いかような種々の制約?2017/07/18(火) 18:30:44.24
50 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:16:16.59 >>54
(続き)
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、

調査には種々の制約がある

262いかような種々の制約?2017/07/18(火) 18:31:12.85
50 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:16:16.59 >>54
(続き)
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、

調査には種々の制約がある

263いかような種々の制約?2017/07/18(火) 18:31:44.33
50 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:16:16.59 >>54
(続き)
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、

調査には種々の制約がある

264いかような種々の制約?2017/07/18(火) 18:33:27.05
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう 」


いかような種々の制約?

265いかような種々の制約?2017/07/18(火) 18:34:50.85
>>1
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう 」


50 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:16:16.59 >>54
(続き)
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、

調査には種々の制約がある

266日本@名無史さん2017/07/18(火) 18:39:57.24
◆FAQ


Aで
「他説でも無理である」

の回答があったが

スレ主

反省 反省  かな

天理市にふれたのも最近だな   wwww

267日本@名無史さん2017/07/18(火) 18:44:29.57
いつものキウス火病か

268日本@名無史さん2017/07/18(火) 18:44:44.91
ここは

スレ主の教育の場

キウスと無駄な抵抗してるが

アンチに対し、たった一人で名無しで書き込むスレ主教育のスレ

269日本@名無史さん2017/07/18(火) 18:47:09.43
>>250
>高天原を統べると書かれているのは、アマテラス。アマテラスが祀られているのは、伊勢。

伊勢神宮 渡会氏は忌部の末裔である。 伊勢神宮は忌部一族を祀っているんですよ.@阿波  

270日本@名無史さん2017/07/18(火) 18:47:38.85
>>259
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)
の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の
被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である <

ダメです。
「南≠東」だし、
「大和は筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」であり、
箸墓は、(卑弥呼の3世紀半ばではなく)布留ですから4世紀であり、
「殉葬奴婢百余人」の痕跡もありません。

271日本@名無史さん2017/07/18(火) 18:48:07.17
またキウスがおかしな書き込みしてるな
>>1はお前なんか相手にしてないぞ

272日本@名無史さん2017/07/18(火) 18:48:27.33
夕方キウス

273日本@名無史さん2017/07/18(火) 18:49:05.96
>>267

俺は

キウスとカキコム奴=裏では勉強になりました

と 理解 してる

274日本@名無史さん2017/07/18(火) 18:49:44.97
>>250
>高天原を統べると書かれているのは、アマテラス。アマテラスが祀られているのは、伊勢。

伊勢神宮 渡会氏は忌部の末裔である。 伊勢神宮は忌部一族を祀っているんですよ。  @阿波 

275日本@名無史さん2017/07/18(火) 18:54:18.56
何か発掘してから勝利宣言しろよ。

276日本@名無史さん2017/07/18(火) 19:09:19.88
>>266は確実に頭がおかしいと思われ

277日本@名無史さん2017/07/18(火) 19:37:01.00
古事記は倭国(阿波)の古の事柄を記したもの。 

神武東征も倭国(阿波)国内での征討を記したものなんですよ。

九州→大和とかの大スケール物語などではありません。  @阿波

278日本@名無史さん2017/07/18(火) 19:48:47.40
哀れな泡男、禿爺だったんだなw

279孝霊厨2017/07/18(火) 20:03:21.83
私事ですが葛城辺りに住んでいて自宅敷地にも古墳の可能性が
とは書いてましたが、うちの知り合いが新たに
店舗を改装する為掘ってみたら、やっぱり何か出てしまったようで、
秋に予定していたオープンにも間に合わなくなってしまったようだ。
奈良に住むのはやはり大変だと実感しましたよ。

280日本@名無史さん2017/07/18(火) 20:03:39.14
>>273
そうだったのか!

281日本@名無史さん2017/07/18(火) 20:04:09.46
卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。

筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。

肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。

考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。

九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。

邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。

その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。

邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。

282日本@名無史さん2017/07/18(火) 20:09:25.23
>>281
>考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
   筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。

考古学的に全くの妄想。

283日本@名無史さん2017/07/18(火) 20:11:28.24
>>273
キウスがどんだけ思いあがっているか良くわかるな
はっきりいって嫌悪感しか抱かない

284日本@名無史さん2017/07/18(火) 20:23:52.76
  
「丹山」一つだけでとっくに決定してしまってるが、以下は補足。  @阿波

@倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
  四国東部は帯方の東南に当たり、四周が海 山や島に人が居住し国を為している
A今倭水人好沈没捕魚蛤
  徳島県南部海部地方などに古くから見られる漁法
B文身亦以厭大魚水禽
  入墨(文身)を表した土製仮面が出土している
C種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
  吉野川中流域は古来より麻を栽培している
D倭地温暖
  徳島は温暖な地である
E其木有{木冉}杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠幹桃支有薑橘椒襄荷不知以爲滋味有爾猴黒雉
  特に、橘は徳島県南部が古くからの産地である
F女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
  徳島の東の海(紀伊水道)を渡る千余里で倭種国(紀伊半島)が位置する
G問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
  徳島は離れた海中の洲島の上を、あるいは隔絶し、あるいは陸続きに、ひとまわりすると、五千里あまりになる
H直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤
  鳴門の萩原墳墓群などに中国産の真朱が使われている
I女王国への行程記述

285日本@名無史さん2017/07/18(火) 20:44:17.99
いつまでも邪馬台国と倭を混同してはダメです。

286subo2017/07/18(火) 21:19:44.97
>>279
金持ちの知り合いか、ロータリークラブとか入ってないか

287日本@名無史さん2017/07/18(火) 21:31:29.99
>>283 WWWWWWW

288subo2017/07/18(火) 21:35:27.93
>>284
I女王国への行程記述はまったくもって意味不明

289日本@名無史さん2017/07/18(火) 21:38:08.56
>>285
どちらもヤマトだよ。

290日本@名無史さん2017/07/18(火) 21:38:56.23
>>282

王として冊封されたのは筑紫倭国の王だけ。

291subo2017/07/18(火) 21:40:07.52
邪馬台国は筑紫倭国ニホンでありヤマトはヤマトニッポンである

292孝霊厨2017/07/18(火) 21:41:50.97
>>286
私は入ってませんが知り合いは沢山いますよ。

293subo2017/07/18(火) 21:45:32.36
>>292
ニッポン会議みたいなカルトと付き合うのはやめたほうがいいぞ

294孝霊厨2017/07/18(火) 21:48:52.95
邪馬台国は卑弥呼、もしくは女王が誕生した場所としての
解釈もすべきですね。そうなると保津の名を持つ、
弥生遺跡も集中する場所は重要でしょう。
奈良盆地にはそういう場所がありますからね。

295孝霊厨2017/07/18(火) 22:04:20.55
>>293
深く考えすぎですよ、仕事の付き合いですからね。
土地を多く所有されてる人は大半そうでしょう。

296subo2017/07/18(火) 22:05:30.69
奈良盆地は邪馬台国のイメージがわかないんだよな

297日本@名無史さん2017/07/18(火) 22:07:12.88
>>294
もういいからwww

298subo2017/07/18(火) 22:12:34.46
奈良に中井シゲノという有名な霊能者がいたそうである、孝霊厨は詳しいだろ

299日本@名無史さん2017/07/18(火) 22:14:16.20
邪馬台国
女王卑弥呼の所都は天孫降臨の高千穂
卑弥呼は天照大御神(オオヒルメノムチ)、あとはおおむね、記・紀・本紀のとおり

300孝霊厨2017/07/18(火) 22:16:52.15
>>296
そもそも倭人伝にある邪馬台国の実情なんて
実は情報量少ないでしょう?
日数による行程と戸数、それと卑弥呼が都する場所、だけですよ。
まぁはっきり言ってしまうと畿内の信貴山を中心とした
周辺部が該当すると思ってます。

301孝霊厨2017/07/18(火) 22:24:33.25
>>298
そっち方面は特に面識ないですよ。
ちなみに私の親戚は京都亀岡、生駒周辺と山城町に多い。
また和歌山橋本と九度山、花園村に吉野川上村にもいますね。

302日本@名無史さん2017/07/18(火) 22:26:32.67
2世紀末にヤマトの地は、吉備や伊勢尾張を中心とした外部勢力の侵入(征圧)を受けている。

卑弥呼がヤマトの生まれということはないな。

ヤマトに侵入した外部勢力の何れかが卑弥呼の出身母体だろう。

卑弥呼、天照大御神、伊勢神宮
まぁ卑弥呼は、伊勢尾張の倭人だろうな。

神武や崇神の系統とは関係ない王統だったんだろうね。

303日本@名無史さん2017/07/18(火) 22:31:24.20
まあ、関西全部、邪馬台国と関係ないからな。

304日本@名無史さん2017/07/18(火) 22:31:41.52
日本で良質な砂鉄が採れたのは、伊都国と揖斐川流域なんだね
この両地域の争奪戦は当然あっただろうし、その土地を手に入れた奴は権力を持っていったんだろうな

305日本@名無史さん2017/07/18(火) 22:32:00.98
亀岡といえば、丹波国一宮、出雲大神宮。

三穂津姫。

中々興味深い。

306日本@名無史さん2017/07/18(火) 22:32:09.72
亀岡といえば、丹波国一宮、出雲大神宮。

三穂津姫。

中々興味深い。

307孝霊厨2017/07/18(火) 22:38:19.06
卑弥呼が生まれた、もしくは生活していた可能性のある場所は畿内なら
私は信貴生駒山の西側一帯を推しますね。
山背と呼ばれる場所です。まぁ私見なんで根拠は発表できませんが。

308日本@名無史さん2017/07/18(火) 22:39:22.92
>>302
>2世紀末にヤマトの地は、吉備や伊勢尾張を中心とした外部勢力の侵入(征圧)を受けている。

吉備勢力も伊勢勢力も尾張勢力もみんな阿波から出立した忌部一族です。
卑弥呼は阿波に生まれ、阿波で共立され、阿波で統治しています。

309孝霊厨2017/07/18(火) 22:44:16.89
訂正、山背なんで信貴生駒の西側でなく東側ですね。
もしくはもう少し北側の枚方寄り。

310日本@名無史さん2017/07/18(火) 22:46:33.15
孝霊厨

郷土愛は大切だが、学問の邪魔をするよ

311孝霊厨2017/07/18(火) 22:53:10.54
>>310
勿論学問的根拠もありますよ。
そもそも郷土愛なんて特に無いです。
生まれた場所でもないですからね。
まぁ私は鍵唐古で例の絵画土器が出た時点で
これはもう畿内だなと思ってますね。
椿井大塚の時点で△も国産説です。

312subo2017/07/18(火) 23:04:31.73
>>311
楼閣のことか、あれは楼閣船にある楼閣だろ

313孝霊厨2017/07/18(火) 23:10:05.21
>>312
あの年代でそういう物をあの場所で描いている時点で
大陸との往来は確実ですよ。
また池上曽根遺跡の建物もダメ押しでしょう。

314subo2017/07/18(火) 23:14:39.66
>>313
楼閣船で孫呉との交流があったかも知れんな

315日本@名無史さん2017/07/18(火) 23:19:23.80
>>314
邪馬台国勢力とは別ルートの交流の可能性はあるね

316日本@名無史さん2017/07/18(火) 23:22:39.82
筑紫倭国を回避するルートなんて、あるわけない。

317subo2017/07/18(火) 23:22:48.38
>>315
関門海峡が船で通行できるようになったのは仲哀天皇のときだから
瀬戸内海は危険だし畿内から四国沖、九州南部から江南のルートやな

318日本@名無史さん2017/07/18(火) 23:23:46.17
>>302
考古学的には否定されてるね

319日本@名無史さん2017/07/18(火) 23:24:18.07
黒潮に逆らう遠洋航海など、非現実的。

320日本@名無史さん2017/07/18(火) 23:26:08.83
>>317
なんでこんな妄想が湧いてくるのか頭の構造が理解できない

321日本@名無史さん2017/07/18(火) 23:27:06.58
畿内説の人たち、頭おかしくなっちゃった。
海から隔絶された奈良盆地は、せいぜい東海とのわずかな交流があった程度の辺境の地で、遠隔地との交流などなかったよ。
考古学的に明らかだよね。
現実逃避はやめたほうがいい。
本当に妄想に囚われているよ。

322日本@名無史さん2017/07/18(火) 23:28:04.45
>>307
頭のおかしい人、代表

323日本@名無史さん2017/07/18(火) 23:30:38.78
>>319
では、交流というより、流れついた?可能性もあるな

324日本@名無史さん2017/07/18(火) 23:30:43.59
まあ>>321を読んだ一般世間の人が頭おかしいと思うのは
確実に>>321のことだけどな
考古学を無視した古代妄想は20世紀半ばで終わってる

325日本@名無史さん2017/07/18(火) 23:31:42.72
唐古鍵の楼閣の絵の蕨手は神輿と同じだな

326日本@名無史さん2017/07/18(火) 23:35:31.65
楼閣の絵だけでは?

楼閣があれば、高床式住居が多数発見されても良いのだが・・・・

また、土器の土の成分は何処の物?

327日本@名無史さん2017/07/18(火) 23:47:00.54
>>315
そもそも邪馬台国の年代よりずっと古い物だが。

328日本@名無史さん2017/07/18(火) 23:49:17.48
楼閣の絵ぐらいで邪馬台国との繫がりは断定できない
稲作自体、大陸から伝来した物であり、
大陸をにおわせる遺物は畿内に限った事では無い。
銅(鐸)製造の技術も大陸から来てるし。

329日本@名無史さん2017/07/18(火) 23:51:43.37
参考
三崎山遺跡(山形県飽海郡遊佐町)では大陸との交易によって
入手したとみられる約3000年前の青銅刀子が出土している

330日本@名無史さん2017/07/18(火) 23:58:03.07
鍵唐古の絵画土器で邪馬台国を確信する孝霊厨はもはや宗教

331日本@名無史さん2017/07/18(火) 23:59:00.79
>>323
江南から流れ着き肥国王家になったのならあり得る。

332日本@名無史さん2017/07/19(水) 00:02:07.28
>>328
そもそもほとんどの文化が福岡を経由して輸入されているが、西日本の中でもその恩恵にあまり与れていなかったのが奈良盆地なんだよね。
海がなかったことが致命的なんだろう。
とにかく遺跡が少なく貧弱。
卑弥呼は大陸との交流を盛んにしていたのに、その痕跡が西日本一少ないのが奈良盆地。
そこが邪馬台国とか、あり得ない。

333日本@名無史さん2017/07/19(水) 00:07:55.03
卑弥呼の大陸との交流の痕跡は、
卑弥呼の遣使以後大陸系文物が増えるところだな

334日本@名無史さん2017/07/19(水) 00:12:33.42
>>333
それが顕著なのは畿内よりも福岡でしょ。

335日本@名無史さん2017/07/19(水) 00:13:55.17
魏では倭国と往来する中国人商人から税をとるわけだから
中国では貴重品で中国人商人が欲しがるものを多く産するところと交流するのが
経済的にメリットがある

336日本@名無史さん2017/07/19(水) 00:15:37.57
交流というか、越の国はすでに筑紫倭国の属州扱いじゃないか。

337日本@名無史さん2017/07/19(水) 00:16:38.17
逆だろ

338日本@名無史さん2017/07/19(水) 00:18:21.76
甕棺の首狩の親玉が没落するころに
糸島に出雲系の玉造工房集落ができる

339日本@名無史さん2017/07/19(水) 00:22:11.41
>>337
何が?
越が筑紫倭国より上位だったと?
だったらなぜ、筑紫の邪馬台国の名が残り、越の名は魏志倭人伝に登場しないのだ?

340日本@名無史さん2017/07/19(水) 00:23:03.16
>>331



で、江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡とその生活痕たる中国系土器と中国系農具は?


.

341日本@名無史さん2017/07/19(水) 00:24:30.10
>>330
その絵を元に吉野ケ里ランドを作って邪馬台国だと
主張する九州説とかw

あれ実は高齢が噛んでる話もあるよ。

342日本@名無史さん2017/07/19(水) 00:26:53.82
>>334
それ卑弥呼以前の時代だろ、邪馬台国の証明とは無関係だなw

343日本@名無史さん2017/07/19(水) 00:37:14.18
吉野ケ里は中学教師の江永夫妻が保存運動を始めた
当初佐賀では相手にされず工業団地起工式は決行されたが
佐原真氏が来佐し、報道にも注目され国営で全面保存するにいたった
しかし佐賀説の中には佐原真を犯罪者のように言う者もいる

344日本@名無史さん2017/07/19(水) 00:40:08.60
高齢の嫁さん佐賀出身らしいからな

345日本@名無史さん2017/07/19(水) 03:24:48.22
倭が半島で以前より掘っていた鉄の採掘権の更新を目的として
そのころ半島に郡を置いた魏に調貢することにした
だけだろ

346日本@名無史さん2017/07/19(水) 04:03:54.17
>>289
>どちらもヤマトだよ。<

邪馬台国なんて、史料に存在しない。
倭國は、半島南岸から九州。
「南≠東」だし、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」だから、
中国四国以東は、ほぼ倭種や別種。
大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国。

347日本@名無史さん2017/07/19(水) 04:09:25.07
>>294
>(孝霊)邪馬台国は卑弥呼、もしくは女王が誕生した場所としての
解釈もすべきですね。そうなると保津の名を持つ、
弥生遺跡も集中する場所は重要でしょう。
奈良盆地にはそういう場所がありますからね。<

この文は、史料事実の否定曲解の、全くのの分裂幻覚妄想ばかりであり、
孝霊が・・・・サギシである証明ですね。

348日本@名無史さん2017/07/19(水) 04:11:36.02
>>295
>(孝霊)深く考えすぎですよ、仕事の付き合いですからね。
土地を多く所有されてる人は大半そうでしょう。<

そうか。
孝霊は「ニッポン会議みたいなカルト」とお付き合いがあるのか?。

349日本@名無史さん2017/07/19(水) 04:18:21.06
>>299
>邪馬台国<

邪馬台国なんて、史料には有りません。大和説者のインチキ造語です。

>女王卑弥呼の所都は天孫降臨の高千穂 卑弥呼は天照大御神(オオヒルメノムチ)、<

紀元後3世紀の卑弥呼と、紀元前200年頃以前の天照とは、「=」にはなりません。

>あとはおおむね、記・紀・本紀のとおり<

記紀は、半分×書です。

350日本@名無史さん2017/07/19(水) 04:23:12.71
>>300
>(孝霊)そもそも倭人伝にある邪馬台国の実情なんて
実は情報量少ないでしょう?
日数による行程と戸数、それと卑弥呼が都する場所、だけですよ。
まぁはっきり言ってしまうと畿内の信貴山を中心とした
周辺部が該当すると思ってます。<

孝霊も、「南→東」の嘘吐きダマシの大和説者や、スレ主や、ssnや阿波らと同じく、
・・・・サギシなんでしょう。

351日本@名無史さん2017/07/19(水) 04:28:20.97
>>302
>2世紀末にヤマトの地は、吉備や伊勢尾張を中心とした外部勢力の侵入(征圧)を受けている。
卑弥呼がヤマトの生まれということはないな。
ヤマトに侵入した外部勢力の何れかが卑弥呼の出身母体だろう。
卑弥呼、天照大御神、伊勢神宮 まぁ卑弥呼は、伊勢尾張の倭人だろうな。
神武や崇神の系統とは関係ない王統だったんだろうね。<

この投稿子も、「南→東」の嘘吐きダマシの・・・・サギシの仲間。
世間の皆様、「南→東」の嘘吐きダマシの・・・・サギシの仲間ばっかりですから、
騙されないように、気を付けましょうね。

352日本@名無史さん2017/07/19(水) 04:34:14.40
>>304
>日本で良質な砂鉄が採れたのは、伊都国と揖斐川流域なんだね
この両地域の争奪戦は当然あっただろうし、その土地を手に入れた奴は権力を持っていったんだろうな<

この投稿子も、「南≠東」を隠してこっそり、
「伊都国と揖斐川流域の間に争奪戦があった」という嘘ダマシのインチキを匂わせて、
世間の人々を騙そうとしているんでしょうね。

怖い怖い。

353日本@名無史さん2017/07/19(水) 06:29:17.87
昨日も畿内説 やり込められていたな。

354日本@名無史さん2017/07/19(水) 06:52:15.72
九州説も一緒にな。

355日本@名無史さん2017/07/19(水) 07:20:17.27
朝キウス

356日本@名無史さん2017/07/19(水) 07:35:29.69
>>355
朝から勉強になったか

357日本@名無史さん2017/07/19(水) 08:54:45.96
朝四時に意味不明な書き込みしてる爺さん、新聞配達でもしてんのかな?

358日本@名無史さん2017/07/19(水) 09:06:10.98
つ年寄りは朝が早い

359日本@名無史さん2017/07/19(水) 09:13:15.83
ザラコクは邪馬台国スレ徘徊老人だなw

360日本@名無史さん2017/07/19(水) 09:38:55.16
>>私は探しました。
>>崇神の少し前にトヨ、その少し前にヒメがいます。

 >ひょっとすると、すごい発見かもしれません。
 >その二人は、皇室の系図にいらっしゃるのでしょうか?
 >そうであれば、どのあたりにいらっしゃるのでしょうか?

います。初代皇后と4代皇后です。ヒメ踏鞴と天トヨ津です。
そう言うと必ず反論が来ます。卑弥呼は独身だが?という反論です。

【年已長大、無夫壻】
・歳すでに長大である。夫はいない

たったこれだけです。にも関わらず卑弥呼は生涯独身であったかのようにいう人たちがいます。
ちなみに今現在、私の母親は【年已長大、無夫壻】です。
しかし子も孫もいます。卑弥呼に子がいてもいいし孫がいてもいい。

そのヒメ踏鞴の夫である神武が初代天皇です。
この天皇・皇后という称号は7世紀に出来ました。
創った理由は大王(おおきみ)ではなかった神武を新称号・天皇に繰り上げるためです。

実は神武の時代が女王国だった。
日本書紀の神武東征の大げさな記述は女王国であった事をごまかすためでしょう。

ではなぜごまかすのか。
ヒメ踏鞴・神武夫妻の5世代100年前、自ら海を渡り後漢の皇帝・安帝に朝貢しようとした日本の王がいました。
スサノオです。

日本の歴史が中国への土下座朝貢から始まるなんて惨めにもほどがある。

だから分らなくさせようと神武の時代をBC660年というトンデモない時代をずらし、
この史実(スサノオの朝貢)を封印したのだと思います。

361日本@名無史さん2017/07/19(水) 10:19:22.36
卑弥呼な台与が若く女王になったという記述はあるが、婚姻した
という記述がない以上は夫や子供がいたなんて単なる妄想だね。

362日本@名無史さん2017/07/19(水) 10:22:49.03
そもそも女王の婿だとどんな呼称になるんだよ?
記録には全く無いしな。
それはそんな人物は居なかったとみるしかない。

363日本@名無史さん2017/07/19(水) 10:54:10.60
キウス

364日本@名無史さん2017/07/19(水) 11:11:31.07
>>361
>婚姻した という記述がない以上は夫や子供がいたなんて単なる妄想だね

魏志には卑弥呼の親の事は書かれてない。
したがって親はいなかったのだという理屈と同じ。
負け犬は引き下がってなさい。

365日本@名無史さん2017/07/19(水) 11:35:50.53
>>362
>そもそも女王の婿だとどんな呼称になるんだよ?

ヒコ

366日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:12:06.57
卑弥呼は
・歳すでに長大であるが、夫はいない

>>360が言ってる状況だと
・歳長大であり、すでに夫はいない

367日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:13:43.53
そしてヒメ踏鞴にはお兄ちゃんしかいない

368日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:26:14.20
>>364
アホ、どうやって卑弥呼は生まれてきたんだよw

369日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:31:00.56
>>368
そうだろ。
だから記述がないは「いない」にならない。
子供がいないと明記されてるわけではないのに「いない」と決めつけるなアホ。

370日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:33:54.72
倭人伝には卑弥呼は「若くして」女王になったと描かれている。
また政治は弟王が存在している。
となると卑弥呼の婿が存在する場所なんて何処にあるのだ?という話。
まぁ斎宮やモモソのような巫女王と解釈する他はない。

371日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:36:16.64
>>370
古今東西、世界のどこに女王の「恋愛、結婚、出産」という、
女性としての普通の欲求をを妨げる国があったのか。
むしろ周りが率先して婿をみつけてあげるのが常識。

頭が固い。
​おまえのような人間が多かったから卑弥呼が見つけられなかったのだ

372日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:37:39.33
>>369
頭のおかしな理屈を平気で言うなよw
親に関する記述はなくても卑弥呼の存在は当然成立するが
また子供や婿が当初から存在しなくても成立している。

373日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:38:09.70
斎宮の事知らんのか

374日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:40:23.97
>>371
伊勢の斎宮は?

375日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:40:29.72
>>373
斎宮は崇神以降。
時系列を無茶苦茶にするな。

376日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:43:46.72
>古今東西、世界のどこに女王の「恋愛、結婚、出産」という、
>女性としての普通の欲求をを妨げる国があったのか。

古今東西
古今東西

時間列自分で無視しておいてこれだよw
しかもこれ日本の伝統だからな?
その起源を見出す事が出来ると見てもいいはずだがな?

倭人伝には死を穢れと考える思想や、水での潔斎と言う後の神道の要素を見出す事も出来る
何で都合よく切り離してるんだ?

377日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:44:07.96
モモソも大物主という神と神婚してるよな。
子供も産んでないし。

378日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:44:54.64
やっぱり卑弥呼と斎宮のイメージを重ねてた。
そして生涯独身の固定観念が植え付けられてた。

予想通りの馬鹿がいた。w

379日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:47:41.48
>古今東西、世界のどこに女王の「恋愛、結婚、出産」という、
>女性としての普通の欲求をを妨げる国があったのか。

お前のこれに答えてやっただけだ
アホがw
箸墓の被葬者を記紀の誰かに比定して考えてる奴なんていない

380日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:48:11.11
>>376
「古今東西、世界のどこに女王の「恋愛、結婚、出産」という、
女性としての普通の欲求をを妨げる国があったのか」

に答えろ。

エリザベス1世の場合でも周りが結婚を勧めたはずだ。
生涯独身であったのは彼女の個人的理由であろう。

381日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:50:56.68
>>380
バカはもう寝ろ

382日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:52:24.39
男王の場合は複数の女性を当てる。
そして男としての欲求を解消させる。

ところが女王の場合は違う。
複数の男の中から一人を選ぶのだ。

これが鉄則だ。

383日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:53:26.26
>>381
はいはい、論破されたウンコ漏らし太郎君www

384日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:53:52.12
もう良いからバカは寝ろ

385日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:55:51.14
エゲレスは恋愛のためにカトリック教会から離脱して宗教改革したような国なので
出産を穢れと考えたわが国とは違う

386日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:56:08.13
>>384

1年十暇なおまえと違って寝てられるか。
俺は夕方から仕事だ。

387日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:58:07.46
>>385
>出産を穢れ

出産のときの体内からの分泌物は穢れ。

しかし子供は穢れではない。

どんな人間観してるんだこいつ。

は た ら け!

388日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:58:28.69
婿も子供もいないと明記されている事をここまで曲解するアホw
卑弥呼のダンナや子供は何処のどいつなんだろうねww

389日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:58:36.24
さいおう【斎王】
〈いつきのみこ〉ともいい,伊勢神宮または賀茂神社に奉仕する未婚の皇女。伊勢神宮は斎宮(さいぐう),賀茂神社は斎院(さいいん)といって区別した。斎院斎宮

基本的に斎王として勤める間は独身
源氏物語でも斎王になると恋愛が出来ない、結婚が出来ないという物語が描かれている
退下したのちに降嫁した例ががある

390日本@名無史さん2017/07/19(水) 12:59:42.10
>>380
神に仕える斎宮や斎院は未婚を強いられ
男との密通を疑われて退任させられた者までいたのだが

斎宮や斎院はいつでも結婚出産を許されていたのに
自分の意思で勝手に独身やってたと思っている?

391日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:00:55.06
バカは斎王の事も知らんで古今東西に例がない!とか絶叫してるから笑わせてくれるわな

斎王の原型は崇神天皇の頃に見られる
大和王権の誕生時期に現れた制度と考えると興味深いものがあるな

392日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:01:55.09
>>388
>婿も子供もいないと明記されている

どこにあるの?
「いない」と書かれてる部分を出してくれ。
何も書かれてないのはいないの証明にならない。

393日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:03:06.93
卑弥呼は王になってからは顔を見せず
多数の巫女に囲まれて、男はごく限られた人物しか
出入り出来ないよな。何処にも子供がいた要素はないぞ。

394日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:03:31.61
>しかし子供は穢れではない。

卑弥呼は子供ではない
神に仕える祭祀女王の卑弥呼が3回も穢れた期間産休
になってしまうということなんだよ

395日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:03:33.73
>>391
だからそれは4世紀の崇神以降だろ。
なんでそれを卑弥呼に当てはめてるのだ、馬鹿かおまえは。

396日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:05:35.08
>>393
>何処にも子供がいた要素はないぞ。

それはおまえが少ない脳みそで勝手に創ったイメージで俺は知らん。

397日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:06:07.04
>>395
バカかお前
上でも書いてあるように倭人伝には日本の神道の原型とみられる描写がいくつもある

独身で神に仕える巫女という伝統が崇神天皇と言う大和王権の原型にもみられるところからも、
倭人伝に時代から見られる可能性は十分に考慮する価値がある

お前みたいに斎王さえも知らんで「古今東西に例がない」とか喚いてるバカが何語ってんだ?
つかお前必死に誤魔化してるけどそもそも斎王知らなかったろw

398日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:07:17.09
不完全な資料で四世紀と断定してる時点で議論の余地はないね。
思い込みが激しすぎてそれじゃ何の話にならないだろう。

399日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:09:10.17
考古学的にも何度も祭りの場を作っては壊すという遷宮や原始的な神社の形を見る事も出来る
水での潔斎については纏向に沐浴場と思われる場所も見つかってる
また桃の種などの神話に魔よけとして扱われる物が供物として使われてる事が分かってる
日本の後の祭祀伝統の萌芽がこの原点的な時代に見られると考えても特に無理はない話

例が無いとか無知晒してドヤ顔してるバカがなにを言うのやら

400日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:10:37.17
>>397
>独身で神に仕える巫女という伝統が崇神天皇と言う大和王権の原型にもみられるところからも、
倭人伝に時代から見られる可能性は十分に考慮する価値がある

考慮する価値がある程度の話ね。
ならば結婚して子供がいた事も考慮しろ。

「両方あり」で幅を持たせて考えればいいのに何で生涯独身と決め付けるのだ。

古代史にとって一番不必要なのがお前のような人間だ。

401日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:10:43.48
まぁ記紀さえも読んだことが無い、自分がほざいた言葉にさえ責任が持てない「古今に例がないくん」程度のバカじゃ恥晒すだけ

悪いこと言わないから寝ておけw

402日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:12:59.57
卑弥呼は女王である。

巫女とは明記されていない。

何で斎王と一緒にしてるんだ?

403日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:13:10.85
まぁ能無しはオッサンの小便着色本でも崇めておけばいい

404日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:16:06.91
>>401

具体的に国名を言え。

女王「恋愛も結婚もしたい」
側近「あなたは女王なのだから恋愛も結婚も禁止です」

こんな国がどこにあった?

秋元のAKBかアホwwww

405日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:18:18.84
ぼくは斎王のことなんてなにもしらなくて恥かいてはずかしいからいすわってさわぎつづけますぅ

406日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:19:56.58
卑弥呼は斎王とは関係がない。

時代が違う。

407日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:21:54.47
それ言うなら記紀は8世紀、時代が違う

408日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:22:50.88
そしてアーアーキコエナイ
人の書いたレスも読めないんじゃそりゃ記紀なんて読めないし自分で言った事も覚えてないよね

「古今東西に例がない」くんw
もう恥ずかしいだけだから悪いこと言わないから寝ろw
どうせやる事なんて何もないんだろww

409日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:23:25.91
>>399
頭、混乱してないか?

410日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:25:26.48
具体的に国名を言え。

女王「恋愛も結婚もしたい」
側近「あなたは女王なのだから恋愛も結婚も禁止です」

こんな国がどこにあった?

秋元のAKB王国かアホwwww

411日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:26:03.28
倭人伝には弓の特徴とかも触れてるな
日本の文化をかなりシッカリと描写してる部分があるから面白いな
骨を使った占いは後の史書や伝統にも見出せる
刺青については吉備周辺に刺青を入れたと思われる人を描いた土器も複数見つかってるし
纏向にその幾つかの痕跡を見出す事も出来る点も重要だな

412孝霊厨2017/07/19(水) 13:39:20.61
倭の古代祭祀を受け継いでいるとも思われる
琉球神道の聞得大君も巫女王。
当初は二代目まで生涯独身となってますね。また君得大君は
地上から航海安全を祈る立場でもでもありますよ。
トヨムなんて中々意味深な言葉ですね。

413日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:43:44.81
サギサギ台湾ブタチック ブタ広鼻 巨大タラコ唇 半ニガー発見!



>>137


で、江南から中国南部やら呉から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?


.

414日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:44:36.93
>>412
琉球王国は普通に男王。

その例は女王であったヒミコとは意味が違う。

415日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:50:57.17
サギサギ台湾ニグロティックブタピーデ発見!


>>137



で、江南やら中国南部やら呉から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?


.

416日本@名無史さん2017/07/19(水) 13:55:10.78
サギサギ台湾広鼻ブラック!ブタ広鼻発見!


>>137



で、江南やら中国南部やら呉から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?


.

417孝霊厨2017/07/19(水) 13:56:01.55
>>414
聞得大君は女性の祭祀王だから卑弥呼と全く同じ立場です。
しかも当初は生涯独身で男子禁制だった点も類似してますよ。

418subo2017/07/19(水) 13:57:17.22
>>416
くだらんレス連投するな、ぼけ!

419subo2017/07/19(水) 13:59:15.42
>>417
沖縄から九州本島へ伝わったということか

420日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:01:24.17
>>417
琉球王国の男王より上の女王だった?

大和朝廷で例えば斎王が複数いたとしてそのトップという意味でしょ。

421日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:02:24.02
時代が全然違うでしょ
第二尚氏だよ

422孝霊厨2017/07/19(水) 14:04:30.97
>>419
時系列的には逆に徐々に追いやられたともいえますね。
かなり眉唾ですがルーツは本州から伝えたという話もあります。
逆輸入的なのかもしれません。

423日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:04:33.92
>>417
>聞得大君は女性の祭祀王だから卑弥呼と全く同じ立場です。

卑弥呼は女王。
祭祀王ではない。
何らかの祭祀「鬼道」をしていたというだけ。

>生涯独身で男子禁制だった点も類似してますよ

卑弥呼の記述のどこにそんな事が書かれてる?

424日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:04:38.89
伊勢神宮には明治4年まで「大物忌」という童女の神職の制があり
斎内親王よりも伊勢大神の近くで奉仕した
大物忌は10歳前後の少女で、初潮が来ると交代となった
香取、鹿島、春日、賀茂などの大社にも童女童男の「物忌」の神職があった
神に仕えるものは穢れのない身である必要があるというのが
大和民族の根底にあるんだろう

425日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:06:33.38
卑弥呼は人に会わないのだから政治はできない
それでも女王なのだから祭祀王

426日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:06:37.73
大物忌神社とは関係がありますか?

427日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:07:19.39
>>418
2ch創業から18年間も湾ブタの江南サギすら撃退できなかった中卒のバカが
偉そうな口利くんじゃねえよ。


2ch創業から18年間も湾ブタの江南サギすら撃退できなかった中卒のバカが。

428日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:08:22.32
聞得大君

「琉球全土の祝女の頂点に立つ存在であり、命令権限を持った。
ただし祝女の任命権は国王に一任されていた。」

女王じゃねえしw

429subo2017/07/19(水) 14:09:02.29
>>422
ガチガチ男系のヤマトに追いやられたか

430孝霊厨2017/07/19(水) 14:11:40.35
>>423
鬼道を用いて民を先導するのだから巫女王です。
それは聞得大君と同じ立場ですよ。
倭人伝では卑弥呼は生涯独身と解釈するのが普通だと思います。
台与にも婚姻して子孫がいた記述は皆無です。
まぁ男性がいたり子供がいた可能性までは否定できませんが、
表舞台に出れる存在とは思えないですね。

431日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:11:46.98
>>425
政治は男弟がやっている。
その人物のことは日本書紀も「王と書いている。

神武の血統ではない人物としては異例の表記だ。
紀編纂者は実質この人物が王であると知ってたからだ。

その人物とは鴨王ことクシヒガタだ。

432subo2017/07/19(水) 14:15:38.74
>>427
すこしは邪馬台国について語れ、どんな珍説でも結構

433日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:16:16.44
>>430
「琉球全土の祝女の頂点に立つ存在であり、命令権限を持った。
ただし祝女の任命権は国王に一任されていた。」

のなら女王ではない。
国王ではない人物の例を出すな。

>生涯独身と解釈するのが普通だと思います

その普通と言う解釈で卑弥呼が誰か解けないではないか。
解けないやつが説いたわしに解けない論理で応じるな。

モモソヒメはだめだぜ結婚してるし。

434日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:29:22.35
年已長大、無夫壻

歳すでに長大である。夫はいない

たったこれだけの記事なので寡婦もありと幅を広げたらヒミコが解けた。

なら「生涯独身」でヒミコを解いてみろ。
いないだろ。

生涯独身でヒミコを解いてヒミコらしき人物が判明したのなら出してこい。
ただしトヨ(またはイヨ)も出せよ。

出せないだろ。
出せないのはおまえの論理が間違えているのだ。

卑弥呼が誰なのか出せない人間が、出した人間に、出せない論理で応じてくるな。

千年早いわ。

435日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:29:47.59
>その人物とは鴨王ことクシヒガタだ。

それヒメ踏鞴のお兄ちゃん

436日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:31:20.50
バカはまだ起きてたんだ

437日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:38:02.81
>>435
中国には女弟という表現もあるので男弟の弟は徒弟の弟と見る。
臣下という意味。

クシヒガタでよい。

もっと言えば兄と弟を間違えててもいい。
畿内説であることは方角を間違えたと理解する。
それと同じ。
中国人が書いたのだから。

438日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:41:43.35
>>437
ご都合解釈

439日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:44:51.04
細かい点が一致しないのは当然。
魏志は100%正しくはない。

奴婢の埋葬もなかっただろうし方角も間違えた。

そういう状況なら最大公約数で捉えればいい。
重箱の隅をつついても仕方がない。

ハンドルの遊びの部分も必要。

440日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:52:49.86
最大公約数がヒメとトヨだけ
寡婦もありと幅を広げても記紀には倭人伝と一致する人物はいないということ
幅を広げた上に修正に修正を加えなければならないような無理を押し通そうとするお爺さん

441日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:54:42.47
>>433
それをご都合解釈というんだよ。
倭人伝には普通に女王以外に男王や倭王も出てくる。

442subo2017/07/19(水) 14:55:51.28
>>439
>奴婢の埋葬もなかっただろうし方角も間違えた。
なんでこんな妄想がでてくるんだ

443日本@名無史さん2017/07/19(水) 14:57:51.63
だから頭の病院に行けと言っているんだよ


数年前の、とあるスレ(KPOP)

「ちゃきちゃきの川崎っ子」という
謎の書き込みがあったりしなかった?

444日本@名無史さん2017/07/19(水) 15:08:29.95
>>442
妄想だと決めつける理由は?


????

445孝霊厨2017/07/19(水) 15:09:33.92
>>428
大君と名が示すように最高位ですけどね。
聞得大君は王の血縁者である娘、親族からで当初は
純潔性を求められています。また
任命は国王ではなく神からという形で国王、国の守護神という立場ですよ。
これは卑弥呼像、台与像にはかなり近いと思いますけどね。

ちなみに「トヨ」むとは大地に鳴り響く、響き渡るさま、
もしくは太陽の光が大地に射す様という意味ですね。

446subo2017/07/19(水) 15:21:24.41
>>444
間違いだというのなら間違いだと言う理由を述べなければ妄想である

447日本@名無史さん2017/07/19(水) 15:25:31.92
かなーり前の書き込み

「人の褌で相撲」

本当の話、年(年齢)も違うと思わない

448日本@名無史さん2017/07/19(水) 15:28:38.34
suboが理由を聞くのは筋違いというものだろうw

449孝霊厨2017/07/19(水) 15:33:13.29
つまり淡路島、鳴門とは声を鳴り響かせる者の所在地、
その入り口の意味と捉える事が出来ますよね。
淡路島からみて日が登るのは生駒山方面のはずですよ。
日の王、日の本は山背辺りという事になります。
神武神話伝承を作るに当たっても日に刃向かう話が
許されないのもその為でしょう。

450日本@名無史さん2017/07/19(水) 15:35:50.01
>>446
そんなの、ここ畿内説スレだぞ
100回以上書いてあるな

451日本@名無史さん2017/07/19(水) 15:38:51.78
謎のチェーンソーのゲーム

金返せと言っているけど

452日本@名無史さん2017/07/19(水) 15:39:25.29
>>448
筋違いでないsuboなど
suboでない

453日本@名無史さん2017/07/19(水) 15:50:29.39
>>449
神武神話伝承を作るに当たっての日に刃向かう話って
元来は大坂道から鳥見だったものが後世に日下江から富雄に移された可能性はないの?
伝承が文字ものに編集されたころ河内湾は北の方しか残ってなかったから
鳥見だったほうが、迂回して宇陀方面から背後を衝くというストーリーと会う

454日本@名無史さん2017/07/19(水) 16:15:38.53
>>440
>最大公約数がヒメとトヨだけ
>寡婦もありと幅を広げても記紀には倭人伝と一致する人物はいないということ


思いっきりいるのだが?

スサノオ(帥升)107年




ヒメ踏鞴  (3世紀初)神武 
ヒメ踏鞴        綏靖  
ヒメ踏鞴        安寧  
トヨ津         懿徳 孝昭 
トヨ津         孝安    ​     
     磯城の台頭  孝霊 孝元 開化
   (4世紀初〜前)崇神


この二人以外にいるのなら出してみろ。

455subo2017/07/19(水) 16:17:59.28
>>448
多少は意地悪でも理由を聞いてもいいだろ

456日本@名無史さん2017/07/19(水) 16:19:35.55
>>441
>倭人伝には普通に女王以外に男王や倭王も出てくる

「其国」の男王?
ちゃんといるじゃん。
スサノオの系統は今では神様とされて伝承されてるではないか。
大物主、事代主など。
彼らだ。

457日本@名無史さん2017/07/19(水) 16:21:07.83
しかしzarakokuがいないと話が進む。

ほんと〇んでくれないかな、あのジジイ。

458subo2017/07/19(水) 16:21:38.42
>>452
筋違いてか、たまには良い事いうだろ

459日本@名無史さん2017/07/19(水) 16:23:35.66
>>445
一億歩譲って女王だとしても(女王ではないけど)、
だからと言って卑弥呼と関係してるなんて話が飛びすぎ。
3世紀の沖縄の状況を説明してもらわないと。

460日本@名無史さん2017/07/19(水) 16:26:21.02
>>442
逆に魏志が100%正しいなんてやつはいるのか?
言葉や文化の齟齬、いろいろあったはずだ。

最大公約数で見ればいいのだ。

461subo2017/07/19(水) 16:32:22.25
>>460
大雑把なところや見落としとかあってもなんでもかんでも間違いというのはな

記紀はもっと捏造や隠蔽があると思うぞ

462孝霊厨2017/07/19(水) 16:42:21.38
まず地形を知らないなら迂回する手段もわからないと思いますよ。
なので生駒山を越えようとして大敗したと。
吉野迂回は別の話を付け加えたとしか思えませんね。
珍彦の祖先伝承部分で丹山の利権話を入れた、と思います。

463日本@名無史さん2017/07/19(水) 16:42:46.87
>>455
いうまでもない
毎度1がテンプレに書いてるわ

464孝霊厨2017/07/19(水) 16:51:51.03
>>453へのレスでした。

>>459
聞得大君の件は三世紀沖縄ではなく、古来からの倭の女王のシステムを
復元したのではないか?という考え方ですよ。
本土では完全に仏教の時代を経てますからね。

男王の親族が巫女王になる点はそのまま卑弥呼や
台与像と同じなのは否定できません。
海人の航海安全や五穀豊穣が主なのも共通項でしょう。

465日本@名無史さん2017/07/19(水) 17:31:39.55
大和には海人は無理、無縁。

466subo2017/07/19(水) 17:35:05.06
古来からの倭の女王のシステムは女系の筑紫倭国であって男系の畿内ヤマト
のシステムじゃないな

467日本@名無史さん2017/07/19(水) 17:35:20.85
>>360
【年已長大、無夫壻】は、当然魏使らの(240年頃の)見聞の記録であり、
「長大」は、古田さんの三国志からの分析で、「30〜35歳」位の事だ。
という事は、卑弥呼の誕生は205〜210年頃だ。

そして、「南≠東」や、
「大和は筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」や、
「大和には殉葬奴婢百余人の墓がない」から、
卑弥呼は、大和の女王ではない。

468日本@名無史さん2017/07/19(水) 17:37:17.67
>>370
>となると卑弥呼の婿が存在する場所なんて何処にあるのだ?という話。
まぁ斎宮やモモソのような巫女王と解釈する他はない。<

卑弥呼は大和の女王ではない。

469日本@名無史さん2017/07/19(水) 17:49:00.52
まだ死なないの

470日本@名無史さん2017/07/19(水) 17:50:18.90
>>464
>男王の親族が巫女王になる点はそのまま卑弥呼や
台与像と同じなのは否定できません。

だから否定できないというのはいいけど、
寡婦である可能性も否定するな。

巫女なんだから独身という論理の押し付けはやめれ。
寡婦でも生涯独身でもいいからヒミコを探してみろ。
いた方が正解。

正解は寡婦。

471孝霊厨2017/07/19(水) 18:02:41.40
>>470
まず鬼道を使う巫女王という記述がある以上は
伊勢や聞得大君のような性格を持つと判断しますね。
それらはどちらも純潔性を重視しています。
また卑弥呼と台与の婚姻関係や子孫に関する記述は何処にもありません。
また台与は宗女なら一族の女性であるので
卑弥呼の子孫とは言えませんから貴方の推測はかなり無理がありますよ。

472日本@名無史さん2017/07/19(水) 18:03:25.94
>>470
探すって、卑弥呼は卑弥呼だろ

473日本@名無史さん2017/07/19(水) 18:03:35.39
自分の家が、その家(正統、正当)を継いでいる
という嘘の系図

偽証 偽造?

実際に悪用していた場合

474日本@名無史さん2017/07/19(水) 18:04:44.46
>>403
>まぁ能無しはオッサンの小便着色本でも崇めておけばいい <

まぁ反古田の能無しの・・・・オッサンは、小便着色本でもでっち上げて、拝めておればいい。

475日本@名無史さん2017/07/19(水) 18:12:57.24
>>465
倭直は海人なんだが

476日本@名無史さん2017/07/19(水) 18:22:47.79
>>470
こいつはいつもの奴だから、スルーで

477日本@名無史さん2017/07/19(水) 18:24:08.69
>>470
文献的検証だけでは妄想にすぎない
考古学的事実を重ねてみて、はじめて推論になる

まず、記紀の記述通りなら、神武は九州から東征してるが、その痕跡は考古学的にはあるのか?
卑弥呼はどこにいた?
その墓は?

卑弥呼前の男王の存在は?どこにいた?
どう説明できる?

478日本@名無史さん2017/07/19(水) 18:32:58.02
うぜえ。

479日本@名無史さん2017/07/19(水) 18:34:48.51
>>470
>正解は寡婦。

なんで可能性から断定になるんだよ。

480日本@名無史さん2017/07/19(水) 18:37:31.91
>>477
>考古学的事実を重ねてみて、はじめて推論になる

スーパーブーメラン。

481日本@名無史さん2017/07/19(水) 18:40:44.15
キウス

482日本@名無史さん2017/07/19(水) 18:43:04.97
>>479
それがトンデモの常

483日本@名無史さん2017/07/19(水) 18:45:35.58
>>477
卑弥呼は初代王だから問題なし

484日本@名無史さん2017/07/19(水) 18:53:06.75
>>483
倭人伝には卑弥呼は倭国の初代王とは記載は無いが?
卑弥呼前に倭国には男王がいた、とあるが?

485日本@名無史さん2017/07/19(水) 18:55:10.05
>>484
冊封されてないので関係なし

486日本@名無史さん2017/07/19(水) 18:55:54.08
妄想も終わりにしろ

487日本@名無史さん2017/07/19(水) 19:02:40.56
冊封うけてる王と受けてない王は別モノだって理解しようね
中国史の基本だから

488日本@名無史さん2017/07/19(水) 19:08:39.82
>>484
倭人伝読んでないの?

489日本@名無史さん2017/07/19(水) 19:09:27.53
>>475
>倭直は海人なんだが

それがなにか?

490日本@名無史さん2017/07/19(水) 19:11:01.36
これも、かなり前の話になるけど

「お前の話なんてしていないんだよ」

という書き込みを見たことがあるでしょ

491日本@名無史さん2017/07/19(水) 19:21:52.58
冊封は領地を与えられて爵位をもらう封建だから
日本では漢代北部九州の首狩族の親玉だけだろ

492日本@名無史さん2017/07/19(水) 19:22:13.03
>>489
つまり>>465は間違いだね


w

493日本@名無史さん2017/07/19(水) 19:23:47.00
>>491
本領安堵も冊封

494日本@名無史さん2017/07/19(水) 19:36:05.33
>>491
倭国王じゃないよな

495日本@名無史さん2017/07/19(水) 19:40:13.72
>>492
なんで?

496日本@名無史さん2017/07/19(水) 19:53:08.03
北部九州に侵入した首狩の親玉は売国奴で
弥生時代後期に倭人によって倭地を追い出されたんだな

497日本@名無史さん2017/07/19(水) 19:56:29.77
制詔 親魏倭王 卑弥呼
じぃちゃお ちんうぃうぉわん ぴぃみぃうぉ
「詔して曰く 卑弥呼をして親魏倭王となす」
四人担ぎの輿に乗せて運ばれてきた詔書を読み上げる冊封使
龍音
卑弥呼は平伏し首から掛けた勾玉が音をたてないよう左手で握りしめて聴かなければならなかった

498日本@名無史さん2017/07/19(水) 19:57:28.90
チェーンソーのゲームでしょ?

本物は、その後、出家したと書いてない?

499日本@名無史さん2017/07/19(水) 19:59:18.24
伊達郡が何やらと言っている人がいたり

以前書いた
アカマツ(ネギま?)の話じゃないけど

500subo2017/07/19(水) 20:01:33.55
>>496
首狩の親玉は畿内にいって首狩をしてたということか?

501日本@名無史さん2017/07/19(水) 20:01:50.41
あのネギ・・・の写真(家の先祖)

例えるなら:□□力夫氏

同じ家?だよ、
直接の親戚ではないけど、上の名前は同じ、むかーし伊達郡のほうに

502日本@名無史さん2017/07/19(水) 20:02:38.01
>>500
首狩は北部九州しかいない

503日本@名無史さん2017/07/19(水) 20:06:32.58
北部九州の初期稲作の石包丁と南九州東部のものは同じ
肥後、豊国は出ないから、海のルートが存在した
ところが首狩の親玉が北部九州に侵入すると
南九州には青銅器類は搬入されなくなる
首狩の親玉は皆に嫌われていたんだよ

504日本@名無史さん2017/07/19(水) 20:11:34.71
>>500
九州からはほとんど出ていない
せいぜい四国の西岸くらいまで

505日本@名無史さん2017/07/19(水) 20:14:32.26
老婆「たしか香野という家の・・・と結婚したんだよ」

謎の掲示板(伊達郡 川俣町)もそうなんだけど、
なんで知っているんだろう

506日本@名無史さん2017/07/19(水) 20:14:40.10
肥後では石包丁を模した鉄包丁なんてのがある。

最初は武器用で中国のものを模した
鉄剣や鉄鏃だったのが
余裕ができて生活用品に回るようになる。

ただし生活用品の形状はあまり伝わっておらず
今までの自分たちの文化からの
模倣と試行錯誤なのが面白い。

507日本@名無史さん2017/07/19(水) 20:20:27.47
https://www.facebook.com/people/%E8%8A%B1%E4%BA%95%E5%84%AA%E7%BE%8E%E5%AD%90/100002979247894

店舗名
中国料理 優優

代表者
花井 健二
住所
東京都千代田区九段南3-2-4アシスト麹町ビル岬B1F
電話
03-3239-2480

ごみの不法投棄やめろ。 犯罪だ。

508subo2017/07/19(水) 20:21:22.45
>>502
源平や戦国時代なんかいくさでは普通に首狩やってただろ(知らんのか

509subo2017/07/19(水) 20:23:27.33
畿内厨のご先祖様はいくさで敵の首をいっぱい取り褒美をもらってたんだろ

510日本@名無史さん2017/07/19(水) 20:24:24.87
>>508
それは首実検

511日本@名無史さん2017/07/19(水) 20:25:04.30
キウス

512subo2017/07/19(水) 20:26:55.65
>>510
首実検しなきゃ褒美がもらえんだろ

513日本@名無史さん2017/07/19(水) 20:27:29.07
家に飾ってあった、謎の刀(凄い刀)の話

畳や床下の土まで掘られていて・・・無くなっていた

没収されたのかな、何の話なんだろう

514日本@名無史さん2017/07/19(水) 20:29:58.56
首狩の親玉は欲深かった
だから没落してしまった

515日本@名無史さん2017/07/19(水) 21:12:54.13
謎の『サイバーパンク SPECIAL』

このコミックもそうでしょ、
ロトという人物が出てきたり。

それと右目の無い、独眼竜のようなキャラも出てくる。

寒いな(あったかい)・・・このような事を言っている。

516日本@名無史さん2017/07/19(水) 21:53:22.71
このような謎の曲があったり、なぜか独眼?

『空白のエピローグ』

517日本@名無史さん2017/07/19(水) 21:58:03.34
ガンダムの話なのかな

『罪の在処』

PHASE−□ 第□話

調べてみて

518日本@名無史さん2017/07/19(水) 23:25:33.48
>>488
其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年

「王」がいるよ?
其國=倭国だが?

519日本@名無史さん2017/07/19(水) 23:29:09.22
倭人伝も後漢書も読まず、記紀も斜め読みで妄想逞しくしても、何も得るものはない。

520日本@名無史さん2017/07/20(木) 00:14:44.28
       、--‐冖'⌒ ̄ ̄`ー-、
     /⌒`         三ミヽー-ヘ,_
   __,{ ;;,,             ミミ   i ´Z,
   ゝ   ''〃//,,,      ,,..`ミミ、_ノリ}j; f彡
  _)        〃///, ,;彡'rffッ、ィ彡'ノ从iノ彡       なんだと?
  >';;,,       ノ丿川j !川|;  :.`7ラ公 '>了
 _く彡川f゙ノ'ノノ ノ_ノノノイシノ| }.: '〈八ミ、、;.)     九州説が倭人伝を持ち出して譲らない?
  ヽ.:.:.:.:.:.;=、彡/‐-ニ''_ー<、{_,ノ -一ヾ`~;.;.;)
  く .:.:.:.:.:!ハ.Yイ  ぇ'无テ,`ヽ}}}ィt于 `|ィ"~  それは無理矢理改竄しようとするからだよ
   ):.:.:.:.:|.Y }: :!    `二´/' ; |丶ニ  ノノ
    ) :.: ト、リ: :!ヾ:、   丶 ; | ゙  イ:}    逆に考えるんだ
   { .:.: l {: : }  `    ,.__(__,}   /ノ
    ヽ !  `'゙!       ,.,,.`三'゙、,_  /´   「銅鐸王から巨大古墳でもいいさ」
    ,/´{  ミ l    /゙,:-…-〜、 ) |
  ,r{   \ ミ  \   `' '≡≡' " ノ        と 考えるんだ
__ノ  ヽ   \  ヽ\    彡  ,イ_
      \   \ ヽ 丶.     ノ!|ヽ`ヽ、
         \   \ヽ `¨¨¨¨´/ |l ト、 `'ー-、__
            \  `'ー-、  // /:.:.}       `'ー、_
          `、\   /⌒ヽ  /!:.:.|
          `、 \ /ヽLf___ハ/  {
              ′ / ! ヽ

521日本@名無史さん2017/07/20(木) 00:40:21.66
>>471

能書きはいいからヒミコとトヨを出してみろ。

いないだろ。

それはおまえの論理が破たんしてるから。

俺は出したから。
初代皇后と4代皇后に不足はないよな。

モモソ媛のような一皇女=小物ではないし。

522日本@名無史さん2017/07/20(木) 00:45:10.62
だから、どーでもいいから

523日本@名無史さん2017/07/20(木) 02:06:03.45
>>518
冊封されてない王は関係ない

524日本@名無史さん2017/07/20(木) 02:54:35.10
深夜キウス

525日本@名無史さん2017/07/20(木) 04:03:38.24
>>524
徹夜で学習、頭に入ったか?

526日本@名無史さん2017/07/20(木) 04:05:40.38
深酒もよろしくない

527日本@名無史さん2017/07/20(木) 05:56:49.28
>>521
出して何の意味がある?

ないよ

528日本@名無史さん2017/07/20(木) 06:15:16.08
其南有狗奴國男子為王
其國本亦以男子為王 女王国も元はまた(狗奴國のように)男子を王と為していた

慣習を言ってるので冊封は関係ない

529日本@名無史さん2017/07/20(木) 06:34:50.68
だから、どーでもいいから

530日本@名無史さん2017/07/20(木) 06:49:55.85
このスレに来る畿内説のレベル相当低い

531日本@名無史さん2017/07/20(木) 07:12:21.47
>>528
単なる王と冊封された王の違いを知らないなんて
一から勉強し直さないと邪馬台国は語れないよ

532日本@名無史さん2017/07/20(木) 07:27:45.96
このスレで一番レベルの低い>>530に、どうしてソレがわかるの?

533日本@名無史さん2017/07/20(木) 07:40:46.21
>>477
>文献的検証だけでは妄想にすぎない
>考古学的事実を重ねてみて、はじめて推論になる
>まず、記紀の記述通りなら、神武は九州から東征してるが、その痕跡は考古学的にはあるのか?<

源平合戦の考古学的痕跡はないから「なかった」のか?
例えば宮というのは今も残ってる。
それも証拠になりうるだろう。
神武の宮は御所の神武社としてある。

>卑弥呼はどこにいた?
>その墓は?
>卑弥呼前の男王の存在は?どこにいた?

高天原(御所市高天)。
男王は今では神々となって祀られてる。


>どう説明できる?

おまえの説明を聞こうか。

534日本@名無史さん2017/07/20(木) 08:29:14.38
>>533
源平合戦?おいおい1180年〜頃の時代と一緒にしたらいかんだろ
文字文化が確立している当時の事と比べてどうする?
都跡もはっきりわかってるし時代だろ?
あらゆる物が現在に残っている時代だろうに
信用性が全く違う

記紀がいつ書かれたか知ってるか?
当時は倭国の範囲さえわからない
神武の生きた年代さえ不明だよ

仮に卑弥呼時代だったとして、では倭国=大和政権だったのか?の疑問も出てくる。

まずはここから、なんだよ
この時代、文献だけではなんも実証できないから、考古学で補うしかないだろう

535日本@名無史さん2017/07/20(木) 08:32:19.70
>>533
>神武の宮は御所の神武社としてある。

根拠は?

536日本@名無史さん2017/07/20(木) 08:35:42.22
朝キウス

537日本@名無史さん2017/07/20(木) 08:36:07.39
卑弥呼より前の倭国王だって、後漢書によれば冊封されていただろう。
倭奴国王が倭国王ではないと駄々をこねているアホもいるが、それなら卑弥呼だって邪馬台国の女王だという言い方もできてしまう。
畿内説の中には、奴国や関門海峡より東が女王の領域だと言うアホもいる。
でも、後漢の頃の金印冊封を継承して魏も金印で冊封したのだろうし、倭国の代表として承認されたことを意味しているはず。

つまり、卑弥呼より前の男王も、冊封された倭国の王だよ。
その王は後漢書によれば倭奴国王だし、考古学的な時代から言えば、すでに博多奴国の時代ではなく伊都国の時代なので、伊都国王だよ。

538日本@名無史さん2017/07/20(木) 08:55:40.45
委奴国王は倭国王ではない
伊都国王は属国の王だな

539日本@名無史さん2017/07/20(木) 08:59:32.33
考古学的な時代から考えれば、倭奴国王は伊都国王のこと。
そしてそれが卑弥呼の前の男王。
もちろん、卑弥呼がいた倭国の王都は、群郡使が駐在して皇帝の詔書や金印の下賜が行われた伊都国。

540日本@名無史さん2017/07/20(木) 09:02:43.86
トンデモを連呼してもだめだよ
チョンビー伊都厨

541日本@名無史さん2017/07/20(木) 09:03:03.86
>>537
卑弥呼より前に倭国王が冊封されていたとか
後漢書のどこにも書かれていないし
当然ながら倭奴国王は倭国王ではない

なにを妄想してるやら

542日本@名無史さん2017/07/20(木) 09:07:30.96
糸クズの主張の10割は妄想からできています

543日本@名無史さん2017/07/20(木) 09:09:20.79
平気で詐欺もするしな

544日本@名無史さん2017/07/20(木) 09:22:57.79
また、テンプレートが論破されている。。。。

545日本@名無史さん2017/07/20(木) 09:38:11.46
>>535
橿原神宮は近世に出来た。
だから神武の宮でないことは当たり前。

元々カシハラという地名は御所にしかない。
今の御所市柏原にある神武社が真の神武即位の宮跡であろう。

546日本@名無史さん2017/07/20(木) 09:40:55.33
>>545
根拠のない妄想

547日本@名無史さん2017/07/20(木) 09:42:35.47
>>544
ほらな
こうやって定期的にデマを流す

548日本@名無史さん2017/07/20(木) 09:46:11.30
>>534
>記紀がいつ書かれたか知ってるか?
当時は倭国の範囲さえわからない
神武の生きた年代さえ不明だよ

須恵器の編年でおおよそ応神が5世紀前後、
遡ること3.4世代の崇神が4世紀前半と決まりつつある。
ならば大和での大変革期・庄内0期は2世紀末なので崇神以前が存在したことになる。

4世紀前半の崇神の数世代前にトヨ、その少し前にヒメという最高位の女性がいる。
したがって邪馬台国論争は終了。

神武は実在、邪馬台国は葛城になる。
ただし神武は大王ではなかったという事になる。

だからハツクニシラスが二人いる。

549日本@名無史さん2017/07/20(木) 10:03:28.06
>>548
なんで応神から遡ること3.4世代で崇神なんだ?

550日本@名無史さん2017/07/20(木) 10:11:54.02
>>549
新唐書で遣唐使が神功皇后は開化の3世代後と述べてる事。

あと崇神絡みの人物としか思えない古墳が4世紀前後。
中山茶臼山、椿井大塚山、一簣古墳群など。

そして崇神自身が行燈山である可能性が高い。
行燈山も4世紀初頭。

一世代間20年弱として崇神は応神から遡って3,4世代前であろう。

551日本@名無史さん2017/07/20(木) 10:23:05.07
というわけで邪馬台国論争は終了。

俺は300年論争および全古代史ファンに王手をかけた。

君たちは身動きできない。

552日本@名無史さん2017/07/20(木) 10:45:25.91
もう来なくていいよー

553日本@名無史さん2017/07/20(木) 11:47:41.89
トンデモなほど、より怪しい文献に走るという法則

554日本@名無史さん2017/07/20(木) 12:59:19.38
>>551
機内は邪馬台国と関係ないですよ。

555日本@名無史さん2017/07/20(木) 13:11:19.89
九州だ 畿内だと喧しいが、阿波の「丹山」一つだけで、とっくに決定してしまってるでしょ。  @阿波

556日本@名無史さん2017/07/20(木) 13:42:24.37
>>549
>>550
それはそれで文献上の一説でいいのだが、
根本的問題は、倭国=大和国とする考古学的根拠が何も無い事

557日本@名無史さん2017/07/20(木) 13:44:43.53
すまん、
>>550>>551
の間違い

558日本@名無史さん2017/07/20(木) 14:20:57.26
>>544
仕方ないよ。。。。
だって、2013年に決着がついているのだもの、、、

559日本@名無史さん2017/07/20(木) 14:31:13.86
>根本的問題は、倭国=大和国とする考古学的根拠が何も無い事

弥生時代、すでに王権が畿内にあったことが分かる。
北部九州は防人の土地。
対馬なんて今でも自衛隊(防人)がいるよね。

邪馬台国畿内説 Part251 [無断転載禁止]©2ch.net	->画像>3枚

560日本@名無史さん2017/07/20(木) 14:41:30.42
【A】神武は実在し大王であった

【B」神武は実在しない


正解は間をとった中間子だ。


【正解】神武は実在したが女王国であった

561日本@名無史さん2017/07/20(木) 14:49:01.01
>>560
魏志倭人伝に卑弥呼の前に男王がいたことが書かれてあるよ
しかし大乱で国がまとまらなかったので
巫女の卑弥呼を女王に立てると治まったと

562日本@名無史さん2017/07/20(木) 14:55:18.15
>>556
は?

大和が倭国だって木簡が出土してるだろ

563日本@名無史さん2017/07/20(木) 15:10:45.12
>>558
そういうウソをつかねばならないくらい
東遷説は困窮してるわけね

564日本@名無史さん2017/07/20(木) 15:17:10.63
>>559
>弥生時代、すでに王権が畿内にあったことが分かる。

邪馬台国とは関係ない、魏や漢から冊封されない地方豪族だよ。

565日本@名無史さん2017/07/20(木) 15:18:02.83
>>562
邪馬台国と書いた木簡があるわけではないだろう。
木簡くらい、あちこちにある。

566日本@名無史さん2017/07/20(木) 15:22:53.10
>>562
そういうウソをつかねばならないくらい
畿内説は困窮してるわけね

567日本@名無史さん2017/07/20(木) 15:43:56.82
>>559
>弥生時代、すでに王権が畿内にあったことが分かる。

        ⤴

大きく出たな!
まぁあったとしよう。
遺跡から、吉野ケ里より相当ちっぽけ王権だな

568日本@名無史さん2017/07/20(木) 15:46:10.97
>>559
>弥生時代、すでに王権が畿内にあったことが分かる。

        ⤴

大きく出たな!
まぁあったとしよう。 規模、高床式・・
遺跡から、吉野ケ里より相当文明の遅れたちっぽけな王権だな


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569日本@名無史さん2017/07/20(木) 15:49:21.39
>>565
誰がそんなもん有ると言った?
精神の病な人?

570日本@名無史さん2017/07/20(木) 16:00:18.54
>>567
>遺跡から、吉野ケ里より相当文明の遅れたちっぽけな王権だな


環濠集落だけでも唐古・鍵遺跡、天理市平等坊・岩屋遺跡、
桜井市芝遺跡、桜井市大福遺跡、橿原市四分遺跡、御所市鴨都波遺跡などなど。

奈良盆地全体で見れば吉野ケ里より大きいのではないか。

その奈良盆地全体を束ねている王がいた。
魏志の其国の男王だ。

住んでたのは高天原(御所市高天)。
王とは湧き出る水の第一利用者。

571日本@名無史さん2017/07/20(木) 16:01:56.50
>>567
巻向より吉野ケ里は小さいだろうw
三輪の大古墳群は誰が造ったと思ってる?

572日本@名無史さん2017/07/20(木) 16:05:38.18
>>561
>魏志倭人伝に卑弥呼の前に男王がいたことが書かれてあるよ

そうだよ。
名前を言おうか?

大物主、事代主。

彼らがその男王だよ。

573日本@名無史さん2017/07/20(木) 16:09:01.80
>>571
いやそうではなく>>567 が言ってるのは纏向以前の弥生時代、
まぁ2世紀の話。

その時代でも奈良盆地の方が全体的には大きい。

574日本@名無史さん2017/07/20(木) 16:11:40.71
吉野ケ里は外土塁、内環壕で、牧のような構造の特殊な集落だよ

575日本@名無史さん2017/07/20(木) 16:16:55.69
当時の奈良盆地は沼地だろ

576日本@名無史さん2017/07/20(木) 16:28:52.36
デマご苦労

577日本@名無史さん2017/07/20(木) 16:37:52.60
>>572
大物主は娘を神武天皇に差し出し政権を譲り渡した神だろう
神武天皇の時に別王朝になっている

578日本@名無史さん2017/07/20(木) 16:44:34.26
弥生時代、まぁ2世紀と仮定しよう。
そのころの王権はすでに大和にあった。

弥生中期から西日本の最大権力は出雲であった。
高塚墳墓で他地域を圧倒する。
その出雲王権が防衛上の遷都と言う形で天然の要塞・奈良盆地に都を置いたのだろう。
2世紀前半には大和に王権が移ってた。
其の国の男王とは大物主、事代主。
彼らの事だ。
この王族からヒミコが出た。
事代主の娘、ヒメ踏鞴だ。

防人の土地、北部九州に都なんぞ置かない。
自惚れるなカッペ。

579日本@名無史さん2017/07/20(木) 16:48:03.80
>>578
だから、どーでもいいから

580日本@名無史さん2017/07/20(木) 16:51:24.17
>>577

神武は大王ではない。
神武が大王なら天皇と言う称号を7世紀に創る必要はない。
だいたい彼には妃がいない。
大王なら当然であるハーレムも作ってない。
この状況は6代孝安まで続く。

つまりこの時代が女王国なのだ。

>大物主は娘を神武天皇に差し出し政権を譲り渡した神だろう

違う、神武が神(鴨)王朝へ婿入りしたのだ。
だから宮崎に残した妻と子を(キスミミ)を奈良に呼べなかった。

大物主から政権を奪ったのは崇神だ。
だからハツクニシラスと呼ばれる。

581日本@名無史さん2017/07/20(木) 16:56:25.84
>>580
神武は大勢の妻妾と実子を持ってるじゃんw

古来、日本では巫女、斎宮、斎院は未婚の処女であり
卑弥呼も台与も未婚である
よって女王に婿は存在しない

582日本@名無史さん2017/07/20(木) 17:03:09.99
>>581
>神武は大勢の妻妾と実子を持ってるじゃんw

どこに?

>古来、日本では巫女、斎宮、斎院は未婚の処女であり
卑弥呼も台与も未婚である
よって女王に婿は存在しない

「歳はすでに長大 夫はいない」

たったこれだけの記述で、そう思ってるのなら具体的に人物名を出せ。
出してからの話だ。
出せないのはおまえの論理が間違ってるのだ。

583日本@名無史さん2017/07/20(木) 17:14:03.42
昔、3億円事件があった。
最初から犯人を単独犯と決め付けた。
単独犯だと言う根拠はなんとベテラン刑事の勘だという。
情けない。
最初から複数犯もあり単独犯もありと幅を持たせて捜査してたらあの事件は解決してただろう。

日本人の悪い癖は時々思考が硬直化することだ。

ヒミコを処女だ巫女だと決め付けてるお前の事だ。
分かったか能無し。

584日本@名無史さん2017/07/20(木) 17:16:09.31
事代主と後世に呼ばれた勢力は、卑弥呼を共立した30ヶ国の一つだろうな。

卑弥呼と共にヤマトを征圧した勢力。
ヤマト入り前はどこにいたのか?

585日本@名無史さん2017/07/20(木) 17:16:38.18
>>411
>倭人伝には弓の特徴とかも触れてるな 日本の文化をかなりシッカリと描写してる部分があるから面白いな
骨を使った占いは後の史書や伝統にも見出せる <

弓や骨占いは、縄文的であるから、列島内での差異の論拠になり難い。

>刺青については吉備周辺に刺青を入れたと思われる人を描いた土器も複数見つかってるし<

刺青も、縄文からの出雲の文身國も主風習であった可能性があるから、吉備の断定根拠にはならない。

>纏向にその幾つかの痕跡を見出す事も出来る点も重要だな<

「南→東」の嘘付きダマシや、
「大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」や、
「殉葬奴婢百余人」の墓も見つからないようでは、
纏向もダメだな。

586日本@名無史さん2017/07/20(木) 17:21:20.51
夕方キウス

587日本@名無史さん2017/07/20(木) 17:22:43.97
>>585

おいジジイ。
梅雨明けまでに氏ねと命令したはずだ。
何で生きてるんだよ。

約束は守れ。

588日本@名無史さん2017/07/20(木) 17:26:18.70
>>417
聞得大君は、
年代がはるか後代であるから、3世紀の卑弥呼の話の後代造作の可能性があり、
卑弥呼の根拠にはならない。

589日本@名無史さん2017/07/20(木) 17:29:41.16
>>582
記紀を読め。

>>583
卑弥呼、台与、歴代斎宮、歴代斎院に
夫がいた一次史料を出してから言え。

分かったか能無し。

590日本@名無史さん2017/07/20(木) 17:53:43.28
なんかまた、変なのが居着いちゃったね

591日本@名無史さん2017/07/20(木) 17:57:36.56
>>570
佐賀平野全体とか、福岡平野全体とか、、、

592日本@名無史さん2017/07/20(木) 17:58:42.75
>>578
>2世紀前半には大和に王権が移ってた。

考古学的に否定される。

593日本@名無史さん2017/07/20(木) 17:59:32.59
>>589
>記紀を読め。

ブーメラン乙

594日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:03:01.55
>>424
>伊勢神宮には明治4年まで「大物忌」という童女の神職の制があり
斎内親王よりも伊勢大神の近くで奉仕した
大物忌は10歳前後の少女で、初潮が来ると交代となった
香取、鹿島、春日、賀茂などの大社にも童女童男の「物忌」の神職があった
神に仕えるものは穢れのない身である必要があるというのが
大和民族の根底にあるんだろう <

「大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」であり、
その田舎のご大尽だけの発展史を説明するんなら、
別に文句も言わんが、
大和が如何にも列島全体の盟主であったか?のような嘘つきダマシの言い方をすれば、
黙過し難い事になる。

595日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:07:45.59
>>585
>骨占いは、縄文的であるから

知識も無いのにテキトーなデマ書くな

596日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:08:39.30
>>431
>政治は男弟がやっている。 その人物のことは日本書紀も「王と書いている。
神武の血統ではない人物としては異例の表記だ。 紀編纂者は実質この人物が王であると知ってたからだ。
その人物とは鴨王ことクシヒガタだ。<

「大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」であり、
その田舎のご大尽だけの発展史を説明するんなら、
別に文句も言わんが、

卑弥呼が大和の女王であったかのように匂わせたり、
大和が如何にも列島全体の盟主であったか?のような嘘つきダマシの言い方をすれば、
黙過し難い事になる。

597日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:09:49.15
>>594

反日人種は自分達の民族の歴史を探れ

598日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:11:22.57
>>432
>すこしは邪馬台国について語れ、どんな珍説でも結構<<

「邪馬台国」なんて、史料に存在しない文言であるから、
嘘つきダマシの造作文言あり、
結構ではない。

599日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:12:29.99
これもみなすべて、スレ主が説得力のない妄想だらけの間抜けなテンプレに固執して、きちんとした畿内説を書かないからだ。
畿内説の名の下に妄想を好きなだけ展開していいスレとなっている。

600日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:19:35.41
>>571

だから、畿内説は馬鹿にされるのだよ

纏向は広いだけで、大集落群と言えないよ

纒向の範囲の比定も出鱈目だし

601日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:20:34.43
>>435
>もっと言えば兄と弟を間違えててもいい。<

普通は間違えない。

>畿内説であることは方角を間違えたと理解する。 それと同じ。<

「東西南北」の方向は99.9%位間違えない。

>中国人が書いたのだから。<

人種差別的偏見で「中国人が書いたのだから」などとしゃべって恥じない・・・・の投稿は、
全く信用出来ない。

602日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:21:51.72
問題なのは

纏向に

吉野ケ里のような居住空間がないこと。

603日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:24:33.23
纏向の発掘調査で

今のところ

何人ぐらい住民がいたと推定できるかな?

604日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:27:05.10
王都は吉野ケ里のように人間や動物が逃げられないような構造にはしない

605日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:27:47.23
>>603

私も知りたい。
倭人伝当時の纏向の推定人口知りたいな。
古墳創るための労務者入れるんだろうが・・・邪馬台国と関係無い
スレ主頼みますよっ。

606日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:32:48.32
>>439
>細かい点が一致しないのは当然。 魏志は100%正しくはない。<

論の成否は確率的に考えるべし。
魏志の記載が間違っている確率は、0.5%以下。
間違っていない確率は99.5%以上。

>奴婢の埋葬もなかっただろうし方角も間違えた。<

99.5%以上間違えない。
従って「間違いえた」という論をする人間は、・・・・サギシ。

>そういう状況なら最大公約数で捉えればいい。 重箱の隅をつついても仕方がない。
ハンドルの遊びの部分も必要。<

学問や科学は、遊びではない。

607日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:34:18.41
>魏志の記載が間違っている確率は、0.5%以下。

根拠なし。

608日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:36:56.75
>>440
>最大公約数がヒメとトヨだけ 寡婦もありと幅を広げても記紀には倭人伝と一致する人物はいないということ
幅を広げた上に修正に修正を加えなければならないような無理を押し通そうとするお爺さん <

記紀は「倭國の存在を隠蔽しようとした半分×書」であり、
倭人伝の99.5%以上の正しい確率に比べて、始めから信頼性がない。

609日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:39:26.01
>倭人伝の99.5%以上の正しい確率

根拠なし。

610日本@名無史さん2017/07/20(木) 19:00:55.40
>>231
総集編と書いてあるから2回分の放送をまとめただけだろう
ゲストも同じだし
2回とも見たけど内容空っぽだった
見る価値ないよ

611日本@名無史さん2017/07/20(木) 19:13:17.71
>>444
>妄想だと決めつける理由は? ???? <

確率が殆ど0%だから。

612日本@名無史さん2017/07/20(木) 19:34:42.94
>>456
>>倭人伝には普通に女王以外に男王や倭王も出てくる<

>「其国」の男王? ちゃんといるじゃん。 スサノオの系統は今では神様とされて伝承されてるではないか。
大物主、事代主など。 彼らだ。<

「其国」とは、「倭国」であり、
「南≠東」だから大和も出雲も倭国の中心ではないし、
「大和は、筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国」であるから、✖。

613日本@名無史さん2017/07/20(木) 20:39:39.07
魏志倭人伝の多くを否定、曲解しないと成り立たたない畿内説

倭人伝が無ければ、邪馬台国は無い

記紀神話の引用は畿内説が多い。

記紀が無くても邪馬台国は存在した

614日本@名無史さん2017/07/20(木) 20:42:02.63
まだ、わからないのですが・・・・

纏向の発掘調査で

今のところ

何人ぐらい纏向に住民がいたと推定できるかな?

615日本@名無史さん2017/07/20(木) 20:43:03.30
>>586
ガンバレ、日々学習の連続だ

616日本@名無史さん2017/07/20(木) 20:47:27.28
なぜトンデモな方々はこうも思い上がりが酷いのか

617日本@名無史さん2017/07/20(木) 20:47:59.19
畿内説

記紀と古墳で成り立ってるのか?
決め手の発掘物も少ない。
弥生期の物証なんてどこでも転がってる。
また、大陸との交流の証も全国に散らばってる。
山形の大陸からの青銅剣はしらなかったが、、、

618日本@名無史さん2017/07/20(木) 20:56:11.36
纏向の発掘調査で

今のところ

何人ぐらい纏向に住民がいたと推定できるかな?

619日本@名無史さん2017/07/20(木) 21:01:40.91
>>614
テンプレでいけば、この範囲に住民はいない
通勤で纏向、纏向は今でいう東京駅近辺
誰も一般人は済んでいない、


纒向遺跡の範囲は、北は烏田川、南は五味原川、
東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区
およびその範囲は約3km2

620日本@名無史さん2017/07/20(木) 21:02:10.67
夜キウス

621日本@名無史さん2017/07/20(木) 21:14:53.50
>>620
学習してますね。
感心します。スレに着いてきてください。
もう少しで、持論書きこめるかも。
期待してます。

622日本@名無史さん2017/07/20(木) 21:28:42.67
>>1

俺は研究者じゃ無いから知らんが
纒向の実態を知るのに立ちはだかる

>>50  の「調査には種々の制約がある」
     「制約」を詳しく述べてくれない。か。
法律?行政?利権?・・宮内庁は関係無いだろうが・・・・

623日本@名無史さん2017/07/20(木) 21:33:53.94
>>619
その範囲内に何件の家があったというのか。
そこが田舎の集落ではなく女王の都であった証拠は何になるのか?

624日本@名無史さん2017/07/20(木) 21:42:18.46
>>622,
>>623

纏向は所都で確定したわけでない。
調査の道半ば(半分も言っていない)で
纒向に脚光を浴びせた不定の族が私利私欲だ
吉野ケ里が引き金になり焦った族
邪馬台国の王都は高原、宇陀市だよ、
卑弥呼の墓はどこでもいい。宇陀市ふくめ畿内に古墳いっぱいあるから。

625日本@名無史さん2017/07/20(木) 21:52:37.00
B地区の多いところがヤマト王権の都です。

飛鳥から平安までほとんど現B地区が多いところが都です。

倭人=B民 と 渡来人との融和が朝廷

その意味で、邪馬台国が畿内ではない。

九州に邪馬台国があり倭人と渡来人の連合国を畿内に設立・・・東征???

大化改新は渡来人と倭人の権力争い、倭人が勝ったが畿内の現住民はB

626日本@名無史さん2017/07/20(木) 21:59:36.84
>>623
纒向は所都でないという事だろうな。
邪馬台国と関係無い近畿の豪族どもの墓地が橿原、天理、桜井・・・あたり
纏向は斎場か7物々交換の市場だと思う

627畿内説=天皇陛下万歳説2017/07/20(木) 22:05:36.49
倭人伝と記紀をつなげたるのはイカン
記紀は神話だし、神話を裏付ける遺物皆無だから

特に、九州説で記紀を持ちだす人はイカン

圧倒的に倭人伝に基づく物証は九州が勝っているのだから。

畿内説はアンチ九州説、天皇陛下バンザイ説

628日本@名無史さん2017/07/20(木) 22:09:12.95
>>627
>圧倒的に倭人伝に基づく物証は九州が勝っているのだから。
>>627
>圧倒的に倭人伝に基づく物証は九州が勝っているのだから。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)

629日本@名無史さん2017/07/20(木) 22:11:20.03
巻向、三輪山麓辺りは、例えば出雲大社の神在り月の大祭のような感じ。(その時期だけ神神が大挙してご来臨)

日頃は閑散としているが、祭礼イベントになると各地からイナゴの大群の様に大群衆が押し寄せ沸いてきたような場所かも。

因みに三輪山の神、大物主神は初代神主、太田田根子命の直系のご先祖様、、、大物主神の本体、異名も暴露しています?(ニギハヤヒではない)

630日本@名無史さん2017/07/20(木) 22:16:49.22
邪馬台国が西日本のどこでもいいじゃん
東日本關係ねーし
ヤマト王権が東日本を滅ぼしたぐらいはわかるけど
現実てきに東京を中心に日本潤ってるジャン
大阪説はないのか

631日本@名無史さん2017/07/20(木) 22:22:35.52
>>624
東遷厨どんだけ連投すんの

632日本@名無史さん2017/07/20(木) 22:27:40.70
>>627

記紀は今では畿内説も九州説もあまり重要視していません。
テンプレ通り記紀は参考程度・・しかし、少しスレ主が引用しすぎなのが残念
記紀の記述を持ちだすと、売り言葉に買い言葉で記紀あそびしますが。
倭・・ヤマトなんて読みをする最近の書で述べてる方はいないです

633日本@名無史さん2017/07/20(木) 22:30:57.45
既知害が火病ってるな

634日本@名無史さん2017/07/20(木) 22:32:20.88
>>629

記紀神話と邪馬台国関係ねーーーよ

635日本@名無史さん2017/07/20(木) 22:41:29.84
>>626
なんかもう畿内のどこでもいいという感じだけれど、裏を返せばどこでもない。
今のところ、畿内説は考古学的証拠が何もない妄想。

636日本@名無史さん2017/07/20(木) 22:45:00.36
>>634
しかり  

記紀以前に書かれた中国の倭国の書物が参考になるネ

九州説は記紀から離れるべきだと思うよ。

畿内説の対抗馬として記紀を出す程度でいいいよ

637日本@名無史さん2017/07/20(木) 22:50:30.60
>>632
1は一行たりとも引用してないがな

638スレ主頼む、教えてくれ裏事情2017/07/20(木) 22:52:33.00
制約おしえてくれ、

501 ◆q8leUXpsw. 2017/07/17(月) 13:16:16.59>>54>>622
(続き)
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には種々の制約がある

639日本@名無史さん2017/07/20(木) 22:53:06.98
キウスは引用って何だか知らない

640日本@名無史さん2017/07/20(木) 22:55:08.33
>>638
普通の頭があるなら
その文だけ読めばわかるレベルの難易度

641日本@名無史さん2017/07/20(木) 22:59:14.97
>>501

不動産で調べたけど、売地纏向周辺にいっぱいあったし、
田畑も銭払えば、調査ぐらいさせてもらえそうだな。
いま、一反につき助成金10万ぐらいだったかな。
100万あれば十分に調査可能だ・・・・・助成金目当てや税逃れの所有者多い

たのむから、

制   約

教えてくれ

642日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:02:26.14
>>635
畿内説の誰が何と言ったことばを聞いてそう評価するのか不明
つまり具体性がないので妄想だ

643日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:04:42.92
>>641
その金だれが出す?

644日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:08:46.88
各説

倭人伝と記紀神話と固執しないこと

倭人伝は神話じゃ無いから

645日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:11:34.66
>>644
その日本語が意味わからない

???

646日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:20:39.98
キウスの日本語読み書き能力は義務教育レベルに達していない

647日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:27:31.28
>>643

100万ぐらいで研究が進めば、寺澤でも出すよ
      wwww

648日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:30:07.06
>>640
じゃあ、なんで九州からはちゃんと遺跡が発掘されているんだよ。
何も見つからないことの言い訳にしているだけだろう。

649日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:33:10.02
>>647
100万でどうやって調査するんだ

650日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:33:26.64
発掘調査がどういう理由でおこなわれているかくらい自分で調べようぜ

651日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:36:06.70
>>645

スイマセン

邪馬台国論争において
記紀神話と倭人伝のどちらを重要視するかです。
答えはいずれも同じでしょう。
倭人伝無ければ邪馬台国も無かったということです。
記紀から邪馬台国を探るのいいでしょうが・・・・根拠は倭人伝にすり寄ってるだけだと思いますよ。

652日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:37:07.83
記紀以前に書かれた中国の倭国の書物が参考になるネ

九州説は記紀から離れるべきだと思うよ。

畿内説の対抗馬として記紀を出す程度でいいいよ

653日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:38:19.05
何故か連投したがる害既知脳

654日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:41:40.51
キウスは自演中毒

655日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:42:24.49
>>651
倭人伝がなくだって実在してた国が消えるわけ無いだろ

656日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:44:04.08
口調かえてもキウスはキウス

657日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:45:18.20
>>652
そもそも畿内説ほとんど記紀使ってないし

658日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:48:12.03
>>657
三輪山伝説????

659日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:50:17.41
>>658

スレ主に言え

660日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:54:15.05
>>658
ちょっとだろ
ほとんどは考古と倭人伝だ

661日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:55:24.69
>>658
考古学と魏志が主、記紀は補助程度でしょ

662日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:55:56.99
記紀が書かれた8世紀初頭時点で箸墓の被葬者が女性だと
認識されていたんだろうということだけだろ

663日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:56:27.41
>>658
1は三輪山伝説つかってないな

664日本@名無史さん2017/07/20(木) 23:59:08.00
文科省、県教委
桜井市教委ではダメ
畿内説は行政をつき破らないと妄想で終わる危機感を持つべし。
税金で飯食ってるから利害が交錯してるか、上に従う。
纏向なんて固執する必要なし、畿内説が優位だと思う
・・・・・・日本史に筋を通すためにはだけど。倭国と日本は別に考えても????

665subo2017/07/21(金) 00:04:16.48
筑紫倭国ニホンと畿内ヤマトニッポンは分けて考えなければならない

666日本@名無史さん2017/07/21(金) 00:06:37.63
日本だけかもしれないけど


倭国史(先住民史)と日本史)(天皇)は分けて、歴史認識すべきだと思う



インディアンのレ歴史とアメリガの歴史とは違う・

667subo2017/07/21(金) 00:13:21.90
ヤマト王朝至上主義の歴史教科書はニホン史ではないニッポン史である

668日本@名無史さん2017/07/21(金) 00:21:10.97
まぁ畿内説に解説願おう

現同和問題

貴賤の令、五色の賤

畿内は邪馬台国と関係無い

あるとすれば、東征で制圧された国
畿内の原住民=被征服民=B

669日本@名無史さん2017/07/21(金) 00:26:31.75
その報復が秀吉
彼は卑民
それにとって変わっのが鑑真坊主の家康、これも賤民

いずれも朝廷なんて糞喰らえ・・・倭人の意地

670日本@名無史さん2017/07/21(金) 00:28:57.01
>>664
まいどの中傷では畿内説イタくも痒くもない
東遷説の品格が堕ちるだけ

671sage2017/07/21(金) 00:32:24.14
キウス

邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも

ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度
>>1のトリに似せた英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうともする最低のクズである

自分に否定的なカキコはすべて畿内説スレの>>1によるものだと思い込む、「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者

環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる
勝手に「本日のMVP」を決めるなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ

トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E

キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である
「キウス扱いされた」などと他人を装う書き込みもするが、バレバレ
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求するが、自分はすぐに名無しに戻るダブスタ、トリスタ上等の卑怯者
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊

日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないため、
日本の義務教育を受けていないのではないかと推測されている

672日本@名無史さん2017/07/21(金) 00:33:13.26
東遷厨は差別ネタが異常に好きだな

 

673日本@名無史さん2017/07/21(金) 00:34:43.39
庸は京や畿内・飛騨国に対して庸は賦課されなかった
調は京や畿内では軽減、飛騨では免除された
 ※飛騨工(匠丁)は木工寮や修理職に所属して工事を行った

674日本@名無史さん2017/07/21(金) 00:35:58.50
>>671
詐欺の常習者でもある

w

675日本@名無史さん2017/07/21(金) 00:40:58.59
卑弥呼が倭国の連合体の盟主。
なぞの4〜5世紀に倭国が国内では歴史から葬り去られ、
突如ヤマト王権なるものが現れた。記紀神話で日本の王の系図を捏造した。
少しは統治のため、各地に残る伝説を融和させのたのが記紀かも。
さすれば、記紀神話から九州民族(倭人+渡来人)が東征し日本国を創ったのも一理ある。
カギは琉球、蝦夷、アイヌにある。

676日本@名無史さん2017/07/21(金) 00:51:39.33
>>589
>卑弥呼、台与、歴代斎宮、歴代斎院に
夫がいた一次史料を出してから言え。
分かったか能無し。


なんで卑弥呼、台与と歴代斎宮、歴代斎院を一緒にしてるんだクズ。

どうでもいいから人物名を言え。
言えないだろ、クズ。

677日本@名無史さん2017/07/21(金) 01:00:53.36
>>675

ヤマト王権って三世紀から有るんですけど



 

678日本@名無史さん2017/07/21(金) 01:05:01.53
>>676
記紀登場人物へのアテハメごっこ遊びたいなら
自分ひとりでやってれば?

他人に強要できる話じゃない

679日本@名無史さん2017/07/21(金) 01:27:06.97
>>678
2世紀末から畿内と九州に土師器が出る。
畿内から九州にまたがる大王権の女王が伝承されてないはずがない。
神話であれ何であれ伝承されてるはずだ。

ヒミコを見つけられないのは、おまえの論理が間違ってるからだ。
見つけた人間に対して「アテハメごっこ」などと偉そうに言う前に、
おまえの脳味噌を何とかしろ。

680日本@名無史さん2017/07/21(金) 01:36:55.17
>>679
「はず」なんて理由もない思い込みに縛られてるアンタ、はずかしい人

681日本@名無史さん2017/07/21(金) 01:56:59.33
>>680
だからおまえはヒミコを見つけられない自分を擁護してる下らないオナニストだろ。

682日本@名無史さん2017/07/21(金) 02:42:41.56
自分は卑弥呼を見つけたとか主張する方がよっぽどオナニストだよなぁ

683日本@名無史さん2017/07/21(金) 03:16:26.29
池上・曽根遺跡

684日本@名無史さん2017/07/21(金) 03:24:04.86
纒向は屁
登呂遺跡にゃ勝てん

竪穴式住居
高床式倉庫
祭殿

あるもんな
畿内に貸してやりたいよ

685日本@名無史さん2017/07/21(金) 03:38:57.14
大平洋ルート

投馬国は日向、大隅あたり
南に向かい黒潮で本州海岸 
陸行で邪馬台国 静岡も候補地

686日本@名無史さん2017/07/21(金) 03:52:49.30
このスレッドの住人も気づいていると思う

すさ?大国主?・・・実際は仏教の話

肉は食べないとか

687日本@名無史さん2017/07/21(金) 03:58:41.97
アフラ・マズダ 、胡、えびす?

実際は同じだという話

あのキュウリの写真

688日本@名無史さん2017/07/21(金) 04:00:48.81
テレビなどに出てくる、芸人のエビスの話じゃないぞ
と言っている人もいたような

689日本@名無史さん2017/07/21(金) 04:14:06.23
>>664
91 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2015/10/17(土) 15:54:01.43 ID:fynOFoqN0 [2/5]
箸墓卑弥呼説は見てて悲しくなってくる
纒向の発掘調査やってる人や桜井市奈良県の考古学専門家が発掘が進むにつれ
箸墓は卑弥呼の塚じゃない、誰の塚かさっぱりわからん、卑弥呼じゃなく台与の次の男王の墓だ、
などなど卑弥呼説に否定的な意見ばかり出てくるようになったた、市の広報は
予算確保や市民の興味引くために卑弥呼卑弥呼と連呼しなければならん、
でそれに踊らされてる一般人の図。
これは一般日本人が遺跡を軽んじてる証拠
卑弥呼が絡まないと価値がないとして無視してしまう知的探究心のとぼしさ、
卑弥呼に絡まない遺跡の発掘や保持なんかに金使うなという浅ましさ
見てて本当に悲しくなってくるわ

103 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2015/10/17(土) 16:22:40.01 ID:fynOFoqN0 [3/5]
91の続きになるが、奈良県や桜井市所属の考古学者はかなりキツイだろ
自治体ノータッチの考古学関連の集いなんかだと
箸墓は卑弥呼の墓じゃないっす、時代が卑弥呼じゃなく台与かそのあとっすとか言うが
次の日市のイベントで「纒向発掘〜卑弥呼の宮殿発見!」とかに出なきゃいけないからな
逆に言えば、公務員や市から金もらって発掘やってる学者の彼らが
こんな市 http://www.city.sakurai.lg.jp/himiko/ の意向によく逆らえると感心したりもする

690日本@名無史さん2017/07/21(金) 04:15:24.07
youtubeで良いから観てみること 10:15〜辺り

『Saint Seiya   All openings and endings』

『アフラ・マズダ』?

691日本@名無史さん2017/07/21(金) 04:16:03.17
>>668
部落の源流 単行本 ? 1997/7 高本 力 (著)

我が国の部落問題も解放令発布以来すでに120年になる。
この長い年月が経っても牢固として部落問題のみが解決しないのは何が故か。
東北地方から移配された蝦夷の俘囚を部落の源流とする本格的研究。

移配された俘囚は、7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争で、大和へ帰服した蝦夷男女が集団で
強制移住させられたものである。

俘囚は、一般の公民百姓らとは大きく異なる生活様式を有しており、狩猟および武芸訓練が俘囚生活の特徴であった。
俘囚と公民百姓の差異に対応するため、812年(弘仁3)、朝廷は国司に対し、俘囚の中から優れた者を夷俘長に専任し、
俘囚社会における刑罰権を夷俘長に与える旨の命令を発出している。

692日本@名無史さん2017/07/21(金) 04:17:49.92
桜井市の大福遺跡で出土した銅鐸は、土器でいうと庄内式の最初あるいは弥生土器の最後の時代で、
西暦185〜188ごろに捨てられたとみられる
大福の銅鐸は完全な形。
つまり2世紀前半の奈良の祭器は銅鐸。

祭祀で定期的に埋納されているなら場所が目立っていて、もっと盗掘されるはず
年に1つ埋めたとしても5年くらい同じ場所、しかも集落から外れた場所に埋めていれば、
銅鐸祭祀でない他のムラの人間などに盗掘される危険性が高い

これらが1,2の例外を除いて全てに当てはまることからして、
銅鐸祭祀でない他勢力からの征服時に、文化の象徴である銅鐸が全て回収されて
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
人目につかない場所に一括廃棄されたと考えるのが自然
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

693日本@名無史さん2017/07/21(金) 04:29:23.08
『胡』
>あごひげの長い人

『あごひげ』でしょ?

謎の『埼玉名字辞典』なぜか百済

694日本@名無史さん2017/07/21(金) 04:30:58.36
『ワイによって助けられる』

普通の人名?ではなかったのかな

695日本@名無史さん2017/07/21(金) 05:45:55.24
>>668
あるとすれば、東征で制圧された国
畿内の原住民=被征服民=B


↑例外もある  内物部といわれる連中

苗字でいうと「伊福部」とか
この人たちは銅鐸をつくってたが、鏡造りに転向
鏡造り居ます神社とかにも関わってる

696日本@名無史さん2017/07/21(金) 05:48:11.96
「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
                       『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士

あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。
森浩一「考古学の模索」1978 学生社


銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27
臼田 篤伸 (著)

巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。

697日本@名無史さん2017/07/21(金) 06:00:51.09
朝キウス

698日本@名無史さん2017/07/21(金) 06:28:41.35
>>460
>逆に魏志が100%正しいなんてやつはいるのか?<

始めから言っている。
魏使らの実際の見聞計測記録であり、客観性と信頼性が非常に高く、
正しい確率は99.5%位以上だ。

逆に、記紀は後代の主観的な説明であり、半分以下の確率だ。
考古も同じ。
発掘も同じ。金石文以外は、後代の学者の解釈に過ぎず、
確率も半分位だ。

>言葉や文化の齟齬、いろいろあったはずだ。<

難升米や都市牛利らは漢文漢語がある程度理解出来たし、
燕の南にいた倭人も、呉王夫差の後裔の姫氏一族も、当然漢文をある程度使えた。

>最大公約数で見ればいいのだ。<

確率の低いものとの最大公約数なんて駄目だ。
諸情報のそれぞれの信頼性の確率を考えた「加重平均」でなければだめだ。

699日本@名無史さん2017/07/21(金) 06:32:48.04
>>462
>(孝霊)まず地形を知らないなら迂回する手段もわからないと思いますよ。
なので生駒山を越えようとして大敗したと。
吉野迂回は別の話を付け加えたとしか思えませんね。
珍彦の祖先伝承部分で丹山の利権話を入れた、と思います。<

孝霊は、「南→東」などの嘘つきダマシをやっているから、信頼性が殆どない。

700日本@名無史さん2017/07/21(金) 06:36:54.60
>>463
>いうまでもない 毎度1がテンプレに書いてるわ<

テンプレも、
「南→東」などの嘘つきダマシをしている事への反省がないから、
信頼性も全くない。

701日本@名無史さん2017/07/21(金) 06:45:03.46
>>471
>(孝霊)また卑弥呼と台与の婚姻関係や子孫に関する記述は何処にもありません。
また台与は宗女なら一族の女性であるので
卑弥呼の子孫とは言えませんから貴方の推測はかなり無理がありますよ。<

卑弥呼も壹與も、名前は松野氏姫氏系図に載っている。

孝霊の「存在する史料の100%の無視」、という犯罪者的な 処理は、
かなりの精神的な異常性がありますよ。

702日本@名無史さん2017/07/21(金) 06:47:39.93
>>472
>探すって、卑弥呼は卑弥呼だろ <

松野氏姫氏系図では、
「刀良」?という人(女性?)の「称号」であるような記載である。

703日本@名無史さん2017/07/21(金) 07:18:38.22
>>672
奈良県民が差×ネタを好むからだろう。
なんで天理市を外した?

704日本@名無史さん2017/07/21(金) 07:19:25.48
>>677
>ヤマト王権って三世紀から有るんですけど

妄想乙。
卑弥呼が畿内にいたことにしたいからだな。

705日本@名無史さん2017/07/21(金) 07:28:23.25
>>3
>その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
>このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山並びに渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
>また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
>この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう
>乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう

記紀を参照しながらも、直接引用をせず批判をかわそうとする姑息なテンプレ。
それをくどくどと文字数だけ増やして、まとめる能力がないというよりも、洗脳のためむしろ長く書きなぐってある。
これは学問ではなく、カルトや詐欺の文書だよ。

706日本@名無史さん2017/07/21(金) 08:24:34.35
>>705
これは同意せざるをえないww

707日本@名無史さん2017/07/21(金) 08:24:36.59
>>682
4世紀前半と推定される崇神の前にトヨ、その前にヒメがいた。
記紀によれば2人とも大和朝廷の最高位の女性だ。
いたという事実がある。
おまえごときにケチをつけられる問題ではない。

ひっこんでろ能無し。

708日本@名無史さん2017/07/21(金) 08:24:58.28
畿内説とは、畿内に天皇家がはるか古代からいたことにして、その絶対的支配の根拠を捏造しようとする詐欺史観。

709日本@名無史さん2017/07/21(金) 08:25:48.87
>>707
崇神4世紀に根拠なし。

710日本@名無史さん2017/07/21(金) 08:27:07.68
>>707
弥生時代に大和朝廷だの皇后だのという妄想を持ち込んで無理を通そうとする妄想家。
イスケヨリかわいいよと呟くだけにしろ。

711日本@名無史さん2017/07/21(金) 08:28:01.68
>>707
そもそも機内は郡使も行ってないし、邪馬台国と関係ありません。

712日本@名無史さん2017/07/21(金) 08:33:35.20
>>698
室見川の銘板は清代だったな
戦時中に手に入れたものかもな

713日本@名無史さん2017/07/21(金) 08:38:23.37
>宣長は神功皇后が卑弥呼だとは思っていなかった。
>それは卑弥呼の記録と合わないからです。

そうでしょうね、時代が全然合わない。
ではなぜ「神功皇后である」と言ったのでしょう?

本居は、なぜ記紀が意図的に時代を大きくずらしているのか、
その真意を理解し、千年前の編纂者たちに同意したのです。

「そうか、そういう事か。それなら神功皇后でよい」

朝貢を強く意識してた本居にとっても、一番困る人物がヒミコだったのです。

それは5世代前に帥升らしきスサノオがいるヒメ踏鞴五十鈴媛以外にいません。

714日本@名無史さん2017/07/21(金) 08:41:10.91
スレ主の主張は、箸墓の被葬者が女性と伝えられているので、これが卑弥呼だと思う、というもの。
初代天皇の妃の名前にヒメが含まれているから、これが卑弥呼だと思う、というのも同じレベル。

715日本@名無史さん2017/07/21(金) 08:44:43.85
考古学もなかった時代に本居が気付いたことを、現代人が気付かない。

自分は知的で進歩してると自惚れてる現代人が気付かない。

文明は退化するのだ。

716日本@名無史さん2017/07/21(金) 08:45:32.02
>>691
これよく貼ってるけど、897年に全国へ移配されていた俘囚は奥羽へ還住されたことは抜かして
九州では現代まで差別され続けたように書いてるということは
九州説は東北人のことが大嫌いなんだろうな

717日本@名無史さん2017/07/21(金) 08:49:25.25
>>714
>初代天皇の妃の名前にヒメが含まれているから

初代天皇の妃なんていない。
后と妃の区別もつかない人間は古代史から足を洗え。
初代天皇の「后」にヒメがついてたらそれで充分なのだ。
しかも少しあとの「后」にトヨまでいる。

他にいるなら出せ。

その少ない脳みそで考えろ。

718日本@名無史さん2017/07/21(金) 08:55:16.90
>>709
応神陵墓は誉田御廟山であろう。
誉田八幡宮を創建した6世紀の欽明天皇が世界最大級の墳墓の被葬者を間違うはずがない。

ならば一世代間20年弱で崇神まで遡ること3〜4世代。

崇神は4世紀前半だろう。
稲荷山鉄研のヲワケからの系譜でもオオヒコが4世紀前半。

719日本@名無史さん2017/07/21(金) 09:02:07.58
神社の自称創建年を丸呑みするとかwww

720日本@名無史さん2017/07/21(金) 09:29:55.90
>>719
創建を自称していいのならもっと古くして権威付けようとするけどね。

だいたい天皇陵と言う管轄地に民間人が神社など建てられない。
したがって誉田八幡宮創建者は欽明で間違いない。

721日本@名無史さん2017/07/21(金) 09:34:41.20
しかし地動説を唱えた人は、
天動説者たち相手にさぞかし苦労しただろう。

しかも天動説者たち、自分の考古学の知識を自慢して自惚れている。

アホで屁が臭い。

あ〜ぁ…

722日本@名無史さん2017/07/21(金) 09:42:07.92
>>717
>后と妃の区別もつかない人間は古代史から足を洗え。

弥生時代にそんな区別があるかよ。
イスケヨリ姫は道端で見かけて声をかけてナンパしたんだよ。
妄想も大概にしろ。

723日本@名無史さん2017/07/21(金) 09:42:56.81
本居宣長も新井白石も、
倭人伝の卑弥呼が九州の女王だということは
認めてるんだな。

それが、倭国代表なのか、騙った偽物かの
違いがあるだけで。

724日本@名無史さん2017/07/21(金) 09:43:08.18
>>720
天皇陵に指定したのなんて、長い歴史から見ればつい最近だろ。

725日本@名無史さん2017/07/21(金) 09:44:17.93
>>723
魏志に倭国代表として扱われているよ。
畿内は邪馬台国と関係ありませんでしたと事実を直視しろよ。

726日本@名無史さん2017/07/21(金) 09:56:16.08
>>724
7世紀に天皇陵を含め重要な古墳に、盗掘を防ぐため五色の賤「陵戸」を置いてるよね。

727日本@名無史さん2017/07/21(金) 09:59:44.04
>>723
>本居宣長も新井白石も、
倭人伝の卑弥呼が九州の女王だということは
認めてるんだな。

大和朝廷が朝貢してた事実を知ってたから、
朝貢してた卑弥呼が九州にいたと言った。
プライドが許さなかったから。

そもそも九州説とは何なのだという事になる。
大和朝廷が朝貢してた事実を覆い隠すためのフェイクだ。

728日本@名無史さん2017/07/21(金) 10:01:55.66
>>723
新井白石や本居宣長は国学者で日本は神国だと信じているから
日本の天皇が中国皇帝の家来だったなんていう過去があるはずはない
卑弥呼は九州の女酋長で勝手に中国皇帝に媚びやがった
同時代に卑弥呼みたいな女酋長たちを従えて
奈良で日本を治めていたのが天皇家であるという考え方なんだよ

729日本@名無史さん2017/07/21(金) 10:01:58.02
>>726
中世にはそんなことは忘れられて荒廃しているよ。
主な天皇陵を再指定して整備したのは明治以降。
ただし禁足地にしたので、それ以降は木々が生い茂りかえって荒廃した姿になって破壊が進んでいる。

730日本@名無史さん2017/07/21(金) 10:03:46.27
>>727
>そもそも九州説とは何なのだという事になる。

当時の九州説と今の九州説は根本的に違うんだよ。

731日本@名無史さん2017/07/21(金) 10:28:41.05
>>729
>中世にはそんなことは忘れられて荒廃しているよ。

だから何?
欽明の時代に誉田御廟山の被葬者を知ってたかという話から論点をずらすなウンコ君。

732日本@名無史さん2017/07/21(金) 10:30:45.18
>>730
>根本的に違うんだよ

根本って何?

733日本@名無史さん2017/07/21(金) 10:39:14.04
>>728

彼らは大和朝廷が朝貢してた事実を知っていた。
だからそれをごまかすために九州側が勝手に朝貢したと唱えた。

元々彼らのフェィクから生まれたのが九州説。
つまり九州説自体が虚構。

あとは彼らが帥升を誰だと考えたか。
これでヒミコは決まる。

帥升と名前が似ているスサノオと考えた以外にない。
ならば5世代100年後のヒミコは一人しかいない。

ヒメ踏鞴五十鈴媛だ。

734subo2017/07/21(金) 10:43:31.17
>>723
卑弥呼の時代には畿内は葛城王朝だったんだよ、葛城王朝からヤマト王朝へ交代したんだよ

葛城王朝が朝貢してた事実を覆い隠すためというならともかく、なんで大和朝廷なんだよ

735日本@名無史さん2017/07/21(金) 10:47:30.67
>>734
葛城はあったとすれば卑弥呼の前だろ
三輪王権の首都であった巻向は卑弥呼の時代と一致する

736日本@名無史さん2017/07/21(金) 10:59:04.25
>>734
>卑弥呼の時代には畿内は葛城王朝だったんだよ、葛城王朝からヤマト王朝へ交代したんだよ

そうだ。

>葛城王朝が朝貢してた事実を覆い隠すためというならともかく、なんで大和朝廷なんだよ

神武を基点に男系でみれば大和王朝。

しかし実際は葛城王朝の婿さん。
葛城王朝は3世紀後半のトヨまで続く。

その葛城王朝が終わる頃、磯城に箸墓古墳ができる。
これが大和朝廷の始まりだ。
天皇でいえば孝霊の時代。

737subo2017/07/21(金) 11:00:43.17
>>733
九州に朝貢するぐらいの大きな勢力があったことを認めたくなかったんだよ

鴨厨と同じ畿内ヤマト至上主義の国粋主義なんだよ

738日本@名無史さん2017/07/21(金) 11:01:08.13
>>734
葛城に首都を置いていた神武天皇~開化天皇も大和王権だろ
王朝交代があったかどうかはおいといて
大和国の葛城から三輪に首都が移転しただけで
どっちも同じ大和の狭い地域での話

739日本@名無史さん2017/07/21(金) 11:02:51.57
葛城王朝ーーーーヒメーーートヨ
大和王朝    神武・・・・・・・・考霊・・崇神

740日本@名無史さん2017/07/21(金) 11:04:12.88
>>556
>は? 大和が倭国だって木簡が出土してるだろ <

木簡出土の信頼性は知らんが、
大和は、「筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国」であり、
「筑紫倭国=俀國の附庸国」であったから、
「倭国の中の一小国」であったのであり、
「倭国木簡の出土」があってもなんらおかしくない。

741日本@名無史さん2017/07/21(金) 11:06:16.35
九州も葛城も妄想ばかり。

742日本@名無史さん2017/07/21(金) 11:08:01.34
またzarakokuという腐れが来たw

あぁうっとおしいw

743日本@名無史さん2017/07/21(金) 11:10:31.53
葛城王朝・・・・・・・ヒメ.・・・・・トヨ
大和王朝       神武・・・・・・・・考霊・・崇神

744日本@名無史さん2017/07/21(金) 11:11:52.54
>>570
>環濠集落だけでも唐古・鍵遺跡、天理市平等坊・岩屋遺跡、
桜井市芝遺跡、桜井市大福遺跡、橿原市四分遺跡、御所市鴨都波遺跡などなど。
奈良盆地全体で見れば吉野ケ里より大きいのではないか。 その奈良盆地全体を束ねている王がいた。
魏志の其国の男王だ。
住んでたのは高天原(御所市高天)。
王とは湧き出る水の第一利用者。<

「南≠東」だし、
「大和は、筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国、倭国の附庸国」であるし、
「殉葬奴婢百余人」の墓もないのだから、
×だよ。

745日本@名無史さん2017/07/21(金) 11:19:07.12
>>571
>巻向より吉野ケ里は小さいだろうw <

纏向は、「何本もの大道」のある弥生銀さよりも小さいだろうw。

>三輪の大古墳群は誰が造ったと思ってる?>

「筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国」の、
「筑紫倭国の「地方の市を監督する附庸国」が、
筑紫勢力や半島渡来部族の助けで、在地出雲縄文系を墓守り人にして、造った、と思う。

746日本@名無史さん2017/07/21(金) 11:21:42.46
>>572
>>魏志倭人伝に卑弥呼の前に男王がいたことが書かれてあるよ <

>そうだよ。 名前を言おうか? 大物主、事代主。 彼らがその男王だよ。<

「南≠東」だから、大物主、事代主は、✖だよ。

747日本@名無史さん2017/07/21(金) 11:33:53.25
昼キウス

748subo2017/07/21(金) 11:40:53.19
>>743
筑紫倭国・・・・・・・ヒメ.・・・・・トヨ
葛城王朝、大和王朝       神武・・・・・・・・考霊・・崇神

749日本@名無史さん2017/07/21(金) 11:43:05.45
>>747
日々学習ご立派

750日本@名無史さん2017/07/21(金) 11:49:52.92
>>748
>筑紫倭国

新井、本居たちの虚構でしたwww

751日本@名無史さん2017/07/21(金) 11:50:44.25
>>578
>弥生時代、まぁ2世紀と仮定しよう。 そのころの王権はすでに大和にあった。<

ダメだな。
大和日本国が、列島盟主であった筑紫倭国を併合吸収継承出来たのは、
ようやく、倭国が白村江で唐に大敗して亡国の運命に晒された後だ。

752日本@名無史さん2017/07/21(金) 11:58:24.20
>>705
その通り、思いっきり記紀だ

753日本@名無史さん2017/07/21(金) 12:22:27.80
このスレ読んでると、畿内説が支持されない理由がよくわかる

754日本@名無史さん2017/07/21(金) 12:23:35.07
行灯山にも渋谷向山にも帝陵であるとの伝承はなかった
これ豆な

755日本@名無史さん2017/07/21(金) 12:31:22.68
>>735
年代詐欺

756日本@名無史さん2017/07/21(金) 12:33:32.75
>>738
首都じゃない。
集落または族長の屋敷程度の話。
王として冊封されていたわけではないし、都として整備されていたわけではない。
鴨厨と同レベルの誇大妄想が含まれている。

757日本@名無史さん2017/07/21(金) 12:37:49.20
>>570
>環濠集落だけでも唐古・鍵遺跡、天理市平等坊・岩屋遺跡、
>桜井市芝遺跡、桜井市大福遺跡、橿原市四分遺跡、御所市鴨都波遺跡などなど。
>奈良盆地全体で見れば吉野ケ里より大きいのではないか。

なんで個別の遺跡を合計するんだよ。
福岡県内の遺跡を合算するか?
これだから畿内説は詐欺と言われても仕方がないんだよ。
ザラコクにまともに反論できる論客もいない。
出土品もないのにカスみたいな妄想を膨らませるだけの畿内説。

758日本@名無史さん2017/07/21(金) 12:54:12.01
弥生中期の複合型集落を比べても意味が無い

759日本@名無史さん2017/07/21(金) 14:05:41.67
>>757
奈良は山に囲まれた盆地だから、それ自体が1つのクニ。
だから合計しても構わない。

760日本@名無史さん2017/07/21(金) 14:07:58.77
委奴国王印

あれ本物?
綺麗すぎない?
出た場所もわざとらしいし。

なんかありそうだな…

761日本@名無史さん2017/07/21(金) 14:14:48.29
江戸時代天明年間(天明4年2月23日(1784年4月12日)とする説がある)、
水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされる。
発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説もある。
一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。
すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていた。
発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、
儒学者亀井南冥は『後漢書』に記述のある金印とはこれのことであると同定したという。


そうすると百姓は新しく水田を開拓しようと巨石をどけたというわけか?
巨石なんて避けて開墾するだろ普通。

で、その巨石はどこにあるの?
今もあるのだろうね、巨石なんだから。

762日本@名無史さん2017/07/21(金) 14:16:38.78
だいたい「儒学者亀井南冥は『後漢書』に記述のある金印とはこれのことであると同定したという。」
と速攻で反応してるのも怪しいのだが。

763日本@名無史さん2017/07/21(金) 14:17:16.04
弥生時代後期に入ると各地の拠点集落の統廃合が進み、土器や墓制が一定の範囲に広まるようになる
これは集落がそれまでの小さい村単位だったものから、都道府県・地方レベルの広範囲の国が誕生した表れとして考えられている

九州はこの流れに逆行して各村落の個性がより強くなり、小さい範囲に分裂してる状態が明確になっていく
これは魏志倭人伝にあ北部九州の数千戸程度の小集落のクニグニの姿と合致する

どこの地方だろうと単独で数万戸を数える集落など存在しない事、大国を描写する際に北部九州のようにいちいち小さい範囲で記述しない事からも、
大国の人口とは領域全体の物であると考えるのが考古学的見地と倭人伝の記述から整合性のある解釈だろう

764日本@名無史さん2017/07/21(金) 14:47:41.09
>>757
トンデモ九州説はとうとうザラコクを持ち上げるまでに、なった

堕ちるとこまで堕ちたな

765日本@名無史さん2017/07/21(金) 14:51:04.88
参考にする偽物もなかっただろ

766日本@名無史さん2017/07/21(金) 14:54:44.08
>>765
本籍の三雲村で事前入手していた。

767日本@名無史さん2017/07/21(金) 15:01:46.01
金印は嘘。

王墓から出てない時点で嘘。

768subo2017/07/21(金) 15:06:33.17
金印を偽物認定かい、九州で出土したら何でもかんでも偽物か

で纏向から桃の種がいっぱい出たから卑弥呼の宮殿があったとか(もたんな

769日本@名無史さん2017/07/21(金) 15:12:45.46
本当は邪馬台国がヤマトであることは分かってた。
しかしそれは天皇家の朝貢を意味する。

九州にあったのではないかという議論をおこし、論者を増やしたい。
新井、本居が相次いで九州だと唱える、本心は大和であるが。

邪馬台国の場所を意味するヒミコの印は偽造などできないが、
委奴国王印程度は偽造できる。
そして奴国を特定させ、
邪馬台国は九州だというアホを増やしたい。
アホが増えてくれてるうちはヤマト朝廷の朝貢がばれない。

まぁそういう事であろう、アホ(九州説)君たちwww

770subo2017/07/21(金) 15:42:08.36
>>769
遣隋使や遣唐使も朝貢なんだよ

新井、本居の本心は九州なんだよ、九州は畿内ヤマトの支配下だと思ってただろうけど

委奴国王印を偽造するわけないだろ、奴国は北部九州で異論はないんだろ
まぁそういう事で、アホは鴨厨でしたwww


奴国は北部九州で異論はないんだろ

771日本@名無史さん2017/07/21(金) 15:44:50.26
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國(中略)次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國
— 『三国志』魏書東夷倭人
訳文:自女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載し得たが、その余の旁国は遠く険しくて、詳細を得られなかった。
次に斯馬国(中略)次に奴國有り 此れ女王の境界の尽くる所なり その南に狗奴國有り

斯馬国は伊勢志摩 奴國は伊那・恵那 狗奴國は静岡

772日本@名無史さん2017/07/21(金) 15:59:59.32
奴国は北部九州の「田川辺り」ですね。  @阿波

773日本@名無史さん2017/07/21(金) 16:17:59.71
金印って普通に考えたら王墓から出るよね。
しかも最近作ったばかりのように綺麗すぎ。

新井や本居は邪馬台国がヤマトだと分っててあえて九州だと言った。

邪馬台国論争自体が天皇家の朝貢隠しのために意図的に興された。

つまり【時空を超えた壮大な釣り】であった。

774日本@名無史さん2017/07/21(金) 16:38:32.79
>>773
その役割を東京官製大学が引き継いだ
九州説が戦後もしばらく存在していたのはスピードの出たトラックがすぐ止まらないのと同じ理由
今はもう止まった

775日本@名無史さん2017/07/21(金) 16:40:56.63
>>584
>事代主と後世に呼ばれた勢力は、卑弥呼を共立した30ヶ国の一つだろうな。<

事代は、大国主の息子であり、卑弥呼とは無関係。

>卑弥呼と共にヤマトを征圧した勢力。 ヤマト入り前はどこにいたのか?<

「南≠東」だから、卑弥呼は大和に入っていない。

776日本@名無史さん2017/07/21(金) 16:42:59.35
九州説の凱歌が聞こえる

777日本@名無史さん2017/07/21(金) 16:44:48.84
ザラコクって
九州説が正しいから九州説が正しいんだ!
って言ってるのと同じだね

778subo2017/07/21(金) 16:46:09.97
>>774
東京官製大学とは東京低脳大学か、そんなもんどうでもいいんだよ

スピードの出たトラックがすぐ止まらないのというのは畿内厨の捏造やな(ふむふむ

779日本@名無史さん2017/07/21(金) 16:49:02.71
>>589
>記紀を読め。<

記紀は、はるか後代の「倭国の存在を抹殺しての大和一元主義造作」の主観的な半分×書。

倭人伝は、同時代的で、魏使らの実地の見聞記録に拠っての、客観性の高い95.5%以上の確率の文書。

780日本@名無史さん2017/07/21(金) 16:51:53.88
>>776
九州説の垓下の歌?

781日本@名無史さん2017/07/21(金) 16:52:51.17
>>779
九州説は捏造ばかりだな

782日本@名無史さん2017/07/21(金) 16:59:04.53
>>778
スピードの出たトラックがすぐ止まらないという
物理的事実まで否定するトンデモ

それが、九州説

783subo2017/07/21(金) 17:03:11.99
>>780
畿内説は四面楚歌になったか(ふむふむ

784日本@名無史さん2017/07/21(金) 17:05:23.07
>>634
>纏向は所都で確定したわけでない。
調査の道半ば(半分も言っていない)で
纒向に脚光を浴びせた不定の族が私利私欲だ
吉野ケ里が引き金になり焦った族
邪馬台国の王都は高原、宇陀市だよ、
卑弥呼の墓はどこでもいい。宇陀市ふくめ畿内に古墳いっぱいあるから。<

「南≠東」だから、大和は始めから✖だ。

785日本@名無史さん2017/07/21(金) 17:14:37.24
>>760
金は非常に安定してる金属で、酸化する(錆び付く)ことがない

786日本@名無史さん2017/07/21(金) 17:20:48.14
>>630
>邪馬台国が西日本のどこでもいいじゃん <

よくない。
「南≠東」だから、九州しかない。

787日本@名無史さん2017/07/21(金) 17:24:43.70
>>638
>広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には種々の制約がある <

制約など関係なく、「南≠東」だから、纏向は、✖。

788日本@名無史さん2017/07/21(金) 17:31:42.50
>>664
>纏向なんて固執する必要なし、畿内説が優位だと思う
・・・・・・日本史に筋を通すためにはだけど。倭国と日本は別に考えても????<

「南≠東」だし、
「大和は、筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国」であるし、
「大和には殉葬奴婢百余人」の墓はないから、
大和説は×。

789日本@名無史さん2017/07/21(金) 17:34:59.94
>>670
>まいどの中傷では畿内説イタくも痒くもない <

大和説者は、
「南≠東」や、、
「大和は、筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国」である事や、、
「大和には殉葬奴婢百余人」の墓はない事に、
反論しないし、出来ない。

790日本@名無史さん2017/07/21(金) 17:39:06.22
>>789
そんなのとっくに完全論破されてんじゃん
てんふは見て見ぬフリか

791日本@名無史さん2017/07/21(金) 17:40:09.55
ザラコはウソばかりついてるな

792日本@名無史さん2017/07/21(金) 17:44:11.24
>>675
>なぞの4〜5世紀に倭国が国内では歴史から葬り去られ、
突如ヤマト王権なるものが現れた。記紀神話で日本の王の系図を捏造した。 <

関係がない。
「筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国」の大和が、
筑紫を併合吸収継承出来たのは、白村江の後。

793日本@名無史さん2017/07/21(金) 17:51:06.89
>>677
>ヤマト王権って三世紀から有るんですけど <

筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国の大和が出来たのは、紀元前1世紀頃。
そして、それまで奈良盆地にいた出雲系銅鐸祭祀部族や、毛人蝦夷らは、
婚姻などを通して、少しずつ、別種の旧小国に征服されて行った。

794日本@名無史さん2017/07/21(金) 17:56:10.33
>>759
魏志倭人伝では、一つの国邑、環濠集落に対して名前をつけている。
中国における国の考え方からはそれが普通。

795日本@名無史さん2017/07/21(金) 17:57:23.46
>>679
>2世紀末から畿内と九州に土師器が出る。<

庄内は、紀元250年頃に九州(三雲や祇園山?)で発生。
大和の庄内は285年頃。

>畿内から九州にまたがる大王権の女王が伝承されてないはずがない。
神話であれ何であれ伝承されてるはずだ。<

大和は、筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国であり、
筑紫を併合吸収継承したのは、白村江の後。

796日本@名無史さん2017/07/21(金) 17:58:15.96
>>767
漢委奴国王印は、実は細石神社に伝えられていた。
籠神社の内行花文鏡と同じ。

797日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:00:44.97
また与太話を持ち出すバカがいるな

798日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:01:51.83
金印も八咫の鏡も、倭国の都が福岡だったことを明確に示しているよ。
纒向は梅の種で頑張るの?
無理じゃないw

799日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:02:25.25
>>797
反論できないからって、言いがかりはやめろよ。

800日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:02:56.94
>>685
「大平洋ルート 」などは、「黒潮に乗せられて漂流死する可能性が高いから、
人類の常識では、そんなルートを拒否するもの。

801日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:06:11.00
【倭国の交易路】
日本海ルートと瀬戸内ルートがあったが、4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備されるまでは日本海ルートだけが主力であった。なお、太平洋ルートは存在しなかった模様。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓       近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

802日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:07:49.50
畿内なんていうまとまり自体が後世のもの。
纒向は周辺との交流に乏しく、人気も少ない、沼辺の辺境の地。

803日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:08:49.61
怪しげなババアが梅干しでも売っていたかもしれないが、卑弥呼とは関係ないな。

804日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:09:09.11
>>794
>魏志倭人伝では、一つの国邑、環濠集落に対して名前をつけている。
>中国における国の考え方からはそれが普通。

それはおかしい。
ではわしがあげた環濠集落、唐古・鍵遺跡、天理市平等坊・岩屋遺跡、
桜井市芝遺跡、桜井市大福遺跡、橿原市四分遺跡、御所市鴨都波遺跡などなどに、
1つ1つ国名があるとでも?

そんなアホな事はない。
そんなものいちいちクニにしてたら大変だ。
日本人同士で呼び合う集落の名前は当然あっただろうけど、
中国人が認識するようなクニではない。

805日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:11:15.90
梅干しばばあ?

806日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:11:59.25
邪馬台国へのルートである。

魏志倭人伝において、ます到着するのは末盧国である。500里をはるばる歩き、伊都国(博多湾一帯)に至る。
伊都国から奴国(飯塚市を中心とした遠賀川流域一帯)へ。さらに東に進み、周防灘に面する不弥国(行橋市から宇佐)に至る。飯塚市から行橋市に古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時、玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路だった。
そこから船で南へ沿岸を航行し、20日かけ大隅半島を抑えている投馬国へ着く。
大隅半島を南へ漕ぎ出し黒潮に乗る。黒潮は時速7Kmであり、何もせずとも1日に150Km進む。黒潮は自然と潮岬に接岸する。(現代において観測され証明されている)つまり10日で潮岬に流れ着く。
熊野に上陸し、陸行1ヶ月でヤマトに至る。
これが魏志倭人伝当時の邪馬台国へ至るルートである。

河内や宇治は当時狗奴国領、琵琶湖北部にも敵対勢力がいたため、大阪湾方面や若狭湾方面から大和盆地入りするには敵対勢力に襲われる危険が高かった。

敵対勢力の支配域に近づく必要がない太平洋ルートが、魏の使者を迎えるルートとして選択されたんだろうね。

807日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:13:47.47
倭人の渡来ルートも黒潮ルートだな。

中国江南から広がった下戸遺伝子。

中国南部の文化である銅鐸。

島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。

日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。

淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。


唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。

呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。

弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。

倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃が中心。

倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、畿内や伊勢尾張美濃が中心だろうね。

808日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:15:12.02
1世紀後半〜2世紀後半の伊勢遺跡。
やっぱり重要だな。

出雲や、富山石川など越の影響が強く見られる建物もある。

円形に並んだ建物が30棟。中心に水の祭祀を行う施設。

畿内を中心に北陸など広範囲に跨った首長連合があった可能性がある。
クニの始まりの可能性があるね。

北陸は古墳時代の四道将軍の派遣先。
卑弥呼、そしてその流れを汲む初期ヤマト政権。実は倭国大乱でクニに対して謀叛を起こした勢力だった可能性も考えられる。

809日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:15:36.45
>>804
心配しなくても、魏の使いは畿内まで来ていないから、それらの集落の名前は知られていない。
それは纒向も同じこと。

九州については、集落ごとに名前が記録されているように見える。
伊都国から奴国、奴国から不弥国はそれぞれ百里、約8キロの間隔しかない。

810日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:17:04.15
>>807
倭国は福岡県だけ。
本州は海を渡ったところにも倭種がいる、とだけ書いてある。

811日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:18:05.58
>>806
>伊都国から奴国(飯塚市を中心とした遠賀川流域一帯)へ。さらに東に進み、周防灘に面する不弥国(行橋市から宇佐)に至る。飯塚市から行橋市に古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時、玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路だった。

遠賀川河口に向かうのに、伊都の周りを歩く必要はないだろう。

812日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:19:06.21
【邪馬台国の周辺の国】

1番目の斯馬国は旧志摩(しま、嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。

813日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:21:21.68
1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。

同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡もそのようなものだったのかもしれない。立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。

当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。


1世紀から2世紀にかけて倭国の王は何処にいたのか?

ここからはあくまで個人的な推測。

倭人は海洋民族。倭人の本拠地が大和や内陸にあるとは考えにくいんだよね。
記紀にもあるとおり大和盆地はナガスネヒコなど様々な勢力が雑居していたと考えられるしね。

伊勢遺跡では銅の工房は認めているが、当時の畿内の鉄器生産が盛んなところは淡路島。
淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。

クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。
クナ国に男王卑弥弓呼、官に河内彦がいるとある。
河内彦の所領は河内であろう。
残りの泉北丘陵とそれに続く上町台地は誰が支配していたのだろうか?歴史が消された場所。

淡路島の向かいにある上町台地〜泉北丘陵にかけてがクナの王卑弥弓呼の本拠地だった可能性はないだろうか?
大物主を祀ることになるオオタタネコがいたのが泉北丘陵の陶村。その近傍に卑弥弓呼がいた可能性はないだろうか?
上町台地の先端にある大阪城の下or泉北丘陵の巨大前方後円墳の下に何かあるかもね。

814日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:22:08.35
夕方キウス

815日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:22:17.24
魏志倭人伝当時の九州状況


女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。

奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。

九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。

女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。

816日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:28:05.46
邪馬台国の前線の砦は大野城と基肄城。
その南にある狗奴国の砦は菊池城。
両国は筑後平野で激しい戦いを繰り広げていた。

817日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:28:29.71
卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。

結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。

吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。

在来系の土器も勿論多数出土している。
纒向の南の芝遺跡は纒向と入れ替わるように弥生時代後期に消退するし、芝遺跡からも人々が纒向の営みに動員されたんだろうね。

818日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:29:05.77
>>813
>面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。

王は遠く離れた伊都国にいたから。

819日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:32:31.13
畿内説も思いっきり記紀を参照しているな。
別にいいけど。

820日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:33:46.50
大和の地が卑弥呼側の勢力に制圧された後(2世紀後半以降)の、
狗奴国の版図は、河内、和泉。

卑弥呼側の勢力と狗奴国の対立はどういう結末を迎えたのか?


孝元天皇は(台与の時代か)、河内青玉繋(河内彦)の娘である埴安媛と血縁を結び、武埴安彦命が生まれる。血縁を結ぶことで、狗奴国と和睦したと考えられる。

問題なのは、この和睦が河内彦中心に行われたと考えられること。

狗奴国王卑弥弓呼&その正統はどうなったのか?
謎だな。
和睦の前に狗奴国内でクーデターがあり、卑弥弓呼の系統は抹殺されたのか追放されたのか、逃亡したのかもしれない。

何れにしても、狗奴国の正統は饒速日(実在も怪しい)ではないんだろうね。

821日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:35:34.21
畿内における倭国大乱。
卑弥呼と卑弥弓呼の争いは、大阪湾一帯の倭人勢力と伊勢湾を拠点とする倭人勢力の争いであった可能性があるな。

倭人は、海洋民族。本拠地は沿岸部だろう。

それに吉備を拠点とする倭人勢力が、卑弥呼側として参戦と。

長江河口から潮岬に渡来した倭人勢力。
下戸遺伝子をもたらした集団。
下戸遺伝子が色濃く分布する、大阪湾、伊勢湾、紀伊、吉備。

822日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:36:45.78
1世紀〜2世紀初頭、畿内のクナ=クニ(倭国)を中心に西日本は緩やかに纏まっていたんだよ。
天孫降臨に代表されるように伊都国など地方の国々とも血縁を結んだりしてね。
倭国大乱を経て、吉備や伊勢尾張、丹波、九州南部の投馬国などが台頭。

畿内の倭国では卑弥呼と卑弥弓呼が対立。
九州では伊都国が投馬国と吉備を中心とした一大率に支配されることになる。
結局1世紀に栄えた旧勢力は卑弥呼を共立した国々に敗退することになる。
それと同時に神話や血統まで奪われ、クナや卑弥弓呼に至っては歴史上から抹殺されてしまう。

823日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:38:46.72
元伊勢の分布は中々興味深い。

アマテラスとされる勢力。
伊勢平野から始まり、甲賀で拠点を構え琵琶湖方面へ進行、さらに伊賀で拠点を構え宇陀方面からヤマトに進行(2世紀末)。
甲賀や伊賀の元伊勢は、当時のアマテラスの勢力の足跡を訪ねた可能性も考えられる。

崇神の代以降は、丹後半島、吉備、紀伊、彦根→美濃に分布。

元々王と同床共殿であった天照大御神。


卑弥呼がいた纒向は、対狗奴国の前線基地。
王がいるのは本来勢力拡大の前線であった可能性が考えられる。

四道将軍。実は王の資格を持つ人々であった可能性もある。
つまりヤマトの地に残った崇神は、唯の留守居役であった可能性もある。

吉備津彦、丹波道主命、大彦の勢力が持ち回りで、王の地位についていた可能性もある。

824日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:40:23.45
北部九州で水稲栽培が始まるのが、BC1000年頃。
呉の末裔を名乗る倭人が淡路島や畿内に渡来したのが、BC4〜5世紀。春秋時代末期。
その畿内中心に広がったのが、方形周溝墓。

天孫降臨は記紀にも書かれている通り、ニニギの婿入り。
伊都国への婿入りだろう。
つまり天孫降臨は伊都国成立以降の話。
博多平野で、婿入りを示唆する考古学的所見は、1世紀中頃の方形周溝墓の受け入れ。(三雲南小路遺跡)

畿内にあった倭人によるクニ(倭国)からの婚姻を伴った天下り(地方官の派遣)が天孫降臨だろう。

元々伊都は倭人ではない人々の国であったが、1世紀中頃畿内の倭国から伊都国の王として、倭人を迎え入れたんだろうね。

825日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:41:22.46
八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?

元は大阪城の位置にあったとされる生国魂神社と関係あるのかな。

大阪城の下に何かあるのかな。

826日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:42:05.11
稲作も方形周溝墓も内行花文鏡も、あらゆる文化は筑紫から伝播した。

827日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:42:40.61
【筑紫】

筑紫とは博多湾沿岸を中心とする、倭国で最も古い勢力である。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、
井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある(年代は暫定的なもの)。
これらの遺跡からは、全国に先駆けてすでに三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
漢により冊封された王権の象徴としてはガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作の成立と同様にこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。

828日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:43:20.38
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
邪馬台国畿内説 Part251 [無断転載禁止]©2ch.net	->画像>3枚
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

829日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:45:06.69
>>826
たいていの客人は玄関を通って応接間に通される

830日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:46:10.01
>>822
支配?
北部九州を?
考古学的にそれができるほどの力があった国があるかい?
さぞ北部九州経由の宝物がザクザク出てるのだろうね

831日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:52:16.44
>>829
郡使が玄関の作りばかりを記録して、客間や応接室のことを記録しないということがあるだろうか。
倭国は郡使を玄関に泊めたと言うのだろうか。
郡使が常に駐留した伊都こそ、邪馬台国の都だ。

832日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:54:34.05
>>727
>大和朝廷が朝貢してた事実を知ってたから、
朝貢してた卑弥呼が九州にいたと言った。<

そもそも、卑弥呼の頃に「大和朝廷」なんて存在しない。
大和は、筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国。

833日本@名無史さん2017/07/21(金) 18:55:05.12
>>822
>畿内の倭国では卑弥呼と卑弥弓呼が対立。

畿内にそんな対立の痕跡はないよ。
そもそもそれほど人がいなかったし、武器どころか日常生活品も少なかった。
倭国の人口は海岸に面した平野に集中していて、特に稲作先進地である九州北部に多かった。

834日本@名無史さん2017/07/21(金) 19:01:06.66
邪馬台国と狗奴国の戦いを裏付ける戦闘の跡も、九州北部に多い。
武器や殺された遺体などだ。
倭国大乱や狗奴国との戦いなど、血みどろの戦争の歴史が倭国の歴史だ。

瀬戸内の海賊が仲良く巫女を共立しましたなどという畿内説ユートピア論は、文献を無視した完全なる妄想だ。

835日本@名無史さん2017/07/21(金) 19:07:04.01
今日は岡上が火病る番なのか…
ホント、アンチはキチの人材が豊富だな

836日本@名無史さん2017/07/21(金) 19:08:27.25
>>799
証拠をだせないキチの遠吠えwww

837日本@名無史さん2017/07/21(金) 19:10:19.35
梅干し婆??

信長の野望onlineに登場する敵でしょ

838日本@名無史さん2017/07/21(金) 19:13:21.52
アフラ・マヅダ

寺院に通ったりしている人(家)は、
本当は牛肉などを食べてはいけないんじゃないの?

家は食べても良いことになったみたい?なんだけど

でも老婆は、あまり食べなかった

839日本@名無史さん2017/07/21(金) 19:16:22.40
>>716
アイヌとエミシは全然違うぞ

蝦夷は製鉄文化を持っていて、「舞草刀」という刀を作る技術があった
湾曲して片刃の世界にもる類例のない日本刀の原型では?という説もある
さらに須恵器という素焼きの土器を作る事も出来た
アイヌ民族は結局、製鉄技術も製陶技術も持たなかった
(必要なものを、そのつど和人から貿易で購入していた。)

さらに蝦夷の持っていた騎馬の文化をアイヌは持っていない
文化的な連続性が途切れている以上、2つの文化を同一と考える事は出来ない
また、土蜘蛛というのは6世紀頃本州にいた民族なので、13世紀以降に北海道で成立した
アイヌ民族と同一であるとは言えない

古事記などの記述から農耕に従事しない民族とは解かっているが、具体的な全容は解かっていない。
蝦夷、土蜘蛛がアイヌと同一視されるのは左翼系の学者が思想を根拠に、
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
天皇家(大和朝廷)に圧迫された縄文系民族という分類で学説を吹聴した結果なのだ
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

『蕨手刀―日本刀の始源に関する一考察』 (1966年)石井昌国著
『古代刀と鉄の科学』石井昌國著、佐々木稔著

840日本@名無史さん2017/07/21(金) 19:24:17.85
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を算出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔であり、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

841日本@名無史さん2017/07/21(金) 19:28:26.96
やまたいの話なのか、
他のスレの話なのか

きゅうりの葉、葱の華・・・あの謎の写真

肉は食べなかったよ、
ニンジンとかイモ類ばかり食べていた

寺院に通ったりしていたとか

何だったんだろう

842日本@名無史さん2017/07/21(金) 19:32:41.28
糸クズ大暴れ

843日本@名無史さん2017/07/21(金) 19:34:40.77
とあるワードをググった結果、出てきたコトバ

「遊びでやってんじゃねーんだよ!」
楽をして、お金儲けとか、そういう事なら、潰せと言っているんだよ

たしか認可などが必要だったはず、取り消せという話

844日本@名無史さん2017/07/21(金) 20:02:30.50
倭国を神社に例えると、本殿や拝殿があるのが大和
鳥居の手前のテキヤが北部九州

845subo2017/07/21(金) 20:09:57.89
なんだ、畿内厨はテキヤだったのか、夏場は祭が多くて忙しいだろ

846日本@名無史さん2017/07/21(金) 20:17:19.69
>>844
そんなところで魏からの遣いを饗応しないよ。

847日本@名無史さん2017/07/21(金) 22:16:29.85
そのキウス狂暴につき

848日本@名無史さん2017/07/21(金) 22:59:51.30
・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(糸島地域p178)
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。瑪瑙や琥珀の玉類
は別にしても、四二面のうち最も多い方格規矩鏡の中に、方格内の銘や小乳もなく、八像も簡略化さ
れ、玄武が釣針状の蛇だけになったものがある。このように簡略化された方格規矩鏡は三世紀代に下
がるものと思われ、鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。周溝から鉢形の土器が
出土しているが公表されていない。」

なんと平原の周溝から出たという土器は公表されていなかった!

849日本@名無史さん2017/07/21(金) 23:12:34.44
夜キウス

850日本@名無史さん2017/07/21(金) 23:29:03.52
内容古いな
平原遺跡が二世紀前半ともいわれているとか原田の説だろ

851日本@名無史さん2017/07/21(金) 23:32:19.87
科学的な根拠は全くないってこき下ろしてるじゃない。

852日本@名無史さん2017/07/21(金) 23:34:37.46
原田は古いほど価値があるって思ってたんだよな

853日本@名無史さん2017/07/22(土) 00:00:42.76
深夜キウス

854日本@名無史さん2017/07/22(土) 00:11:19.42
つまり平原遺跡は3世紀以降と。
どうやっても卑弥呼の治世です。
本当にあり(ry

855日本@名無史さん2017/07/22(土) 00:27:59.31
>>844
それは言い過ぎ
鳥居をくぐったあたりとするのが公平だと思う

856日本@名無史さん2017/07/22(土) 01:30:27.77
畿内説では、帯方郡から一万二千里のつじつまを合わせるために、伊都より東ではじめて女王の領域に入ることにしているんだと。
つまり伊都は女王国じゃないらしい。







アホだろ

857日本@名無史さん2017/07/22(土) 01:48:07.71
>>809
>伊都国から奴国、奴国から不弥国はそれぞれ百里、約8キロの間隔しかない。

ちっちゃいw
どんだけ田舎者なんだよwww

858日本@名無史さん2017/07/22(土) 01:54:28.02
ほとんど嘘の話だと言ってるでしょ

家の先祖の写真なども、
何か、おかしくない?

騙りのような家が、
あるんじゃないの?

859日本@名無史さん2017/07/22(土) 01:56:51.12
委奴国王印が本物と言うならまず出土状況をはっきりさせないと。
ここから出ましたという証拠もないのでは本物にはならない。

金印の上にあった巨石はどこにあるのだ?

畿内にあった邪馬台国=大和朝廷の朝貢を隠すため、
邪馬台国論争をおこす必要があった。
だから新井白石や本居宣長が九州だと言った。

国家ぐるみで捏造したのが金印であろう。

奴国は福岡ではない。
狗奴国(静岡)の北にある「伊那・恵那」

860日本@名無史さん2017/07/22(土) 01:57:24.22
かなり前の、とあるスレを見たとき

「川崎に住んでいるんでしょ」と言っている人がいたり

何の話なのか、わからないけど、家の事だと思う

861日本@名無史さん2017/07/22(土) 02:00:59.62
ちなみに家は・・・□□力夫氏と同じ家?だと思う

寺院に通っていた、なぜか肉は食べなかったよ
と言っていた

862日本@名無史さん2017/07/22(土) 02:04:31.10
神話なのか、何なのか、知らないけど
むかーしの話をしているような気もする

863日本@名無史さん2017/07/22(土) 02:07:33.36
『人権侵害』のような事を言っている人もいなかった?

864日本@名無史さん2017/07/22(土) 02:28:36.97
創価か何かじゃないのか?
と言っている人もいたような

家に対し、
恨みを持った人がいるのかな

865日本@名無史さん2017/07/22(土) 02:40:50.43
謎のチェーンソーのゲーム

主人公「金返せ」と言っているけど

866日本@名無史さん2017/07/22(土) 03:14:16.31
ネットが普及して、
ほとんどの人が気づいていると思う

漫画、アニメ、ゲーム・・・など

確実に人権侵害

867日本@名無史さん2017/07/22(土) 06:39:16.60
だからさ、何を見て偽物を造ったの?

868日本@名無史さん2017/07/22(土) 07:16:01.91
>>730
>>そもそも九州説とは何なのだという事になる。<

>当時(本居や明治)の九州説と今の九州説は根本的に違うんだよ。<

当時も現代も、権力学者は、
魏志などの非常に客観性と信頼性が高い直接的な史書記録や、考古史料よりも、
後代の大和の主観的で半分×書の記紀を重視している、
という点では、同じだよ。

869日本@名無史さん2017/07/22(土) 07:22:37.25
>>733
>彼らは大和朝廷が朝貢してた事実を知っていた。
だからそれをごまかすために九州側が勝手に朝貢したと唱えた。<

違うね。
彼らは、客観的で信頼性の高い同時代的な歴代中国史書群の記録よりも、
主観的 で信頼性の低いはるか後代の、半分×以下の記紀を信奉した。

元々彼らのフェィクから生まれたのが九州説。
つまり九州説自体が虚構。

870日本@名無史さん2017/07/22(土) 07:28:00.79
>>735
>葛城はあったとすれば卑弥呼の前だろ
三輪王権の首都であった巻向は卑弥呼の時代と一致する <

仮に、時代が一致した?としても、
「南≠東」や、
「大和は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であり、
「殉葬奴婢百余人」の祇園山がある限り、
纏向は卑弥呼の都ではない。

871日本@名無史さん2017/07/22(土) 07:32:15.13
>>752
>その通り、思いっきり記紀だ <

記紀は、信頼性が半分以下の×書だ。

872日本@名無史さん2017/07/22(土) 07:39:50.35
>>771
>斯馬国は伊勢志摩 奴國は伊那・恵那 狗奴國は静岡<

「南≠東」だから✖。

873日本@名無史さん2017/07/22(土) 08:16:36.76
>>859
その後でアジア各地で見つかった他の印と比較して、間違いなく本物というのが現在の学問的な立場だよ。
ただし出土状況に不明な点が多い。
だからこそ、実は細石神社の伝世の品という噂に信憑性がある。
籠神社の饒速日の内行花文鏡と同じような状況だったのだろう。
細石神社が邇邇芸の墓とされる三雲南小路遺跡の祭殿であることとあわせて、非常に辻褄が合っている。

874日本@名無史さん2017/07/22(土) 08:18:16.06
>>857
弥生時代の国である倭国としては、それくらいがちょうどいいサイズだよ。
誇大妄想的な畿内説よりはずっとリアルだし、何より魏志倭人伝を無視して邪馬台国論争は成り立たない。

875日本@名無史さん2017/07/22(土) 08:26:36.12
卑弥呼の頃の倭国は概ねこんなサイズ。

>>812
>邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
>半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。

876日本@名無史さん2017/07/22(土) 08:54:43.75
畿内より何百年も前から筑紫に古代王権が存在して中国に朝貢して倭と呼ばれて冊封されたいたことは事実で、卑弥呼がその系譜かどうかが問題なわけだが、中国側の史書では同じ倭国として扱っているんだよね。
そして旧唐書ではじめて東に日本国が登場して、倭国を併合したと書かれている。

877日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:00:43.44
>>873
細石神社関連の話しは歴史学的にはまったく無価値

878日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:04:20.81
日本が4兆5千億円相当の資金供与をしたのに
日本は関係ない、漢江の奇跡だと言う民族だからな
瑞梅寺川の奇跡ぐらいに考えているんだろ

879日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:07:46.28
>>869
ヤマトという地名も北部九州から移った

森浩一、最後のインタビュー(足立倫行「倭人伝、古事記の正体」2012)


伊都国の平原古墓は、すべての銅鏡が破砕して墓に埋納されていたことで有名ですが
奈良県桜井市の前期の外山茶臼山古墳でも、2009年の再調査で、実に81面の
銅鏡が埋納され、ことごとく破片だったことがわかりました、2つの墓は
100年ほど年代が隔たっていますが、弥生時代の近畿には墓へ銅鏡を入れる風習も、
その銅鏡を割る風習もなかったことを考えると、北部九州の強い影響は明らかです

また「魏志倭人伝」では、中国人が倭地の朱や丹に関心を持っていたことが記されていますが、
伊都国の平原古墓や井原鑓??溝古墓では棺の中に大量の朱が使われました
近畿でも、前期の前方後円墳では遺骸の周囲に朱を撒くことが知られており、
奈良天理市の大和天神山古墳では約40キロもの朱がキビツに埋納されていた

これなども、北部九州からの風習の伝播でしょうね
そもそも、ヤマトという地域名、いずれ国名になる名称自体が北部九州からの東遷の結果です

880日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:08:46.93
>>876
>そして旧唐書ではじめて東に日本国が登場して、倭国を併合したと書かれている。



それは、西の倭国(阿波)から東の大和(日本国)に遷都したことを記しているんですよ。  @阿波

「日本國(大和)者 倭國(阿波)之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名」

881日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:17:51.63
松本清張著『鴎外の婢』にみられる考古学的虚実構成

「《近畿地方に成立した古代王朝の前身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であっ
たことは、三世紀半に編纂された三国史東夷伝倭人の条の記事を見ても明らかである。倭人伝
は、すでに「邪馬台国」の名で呼ばれる北九州の部族連合体政権を魏の使者の報告通りに記載
しているので、この連合体政権は、それより早く、二世紀の後半には存在していたとみなけれ
ばならぬ。そして北九州で蓄積され発達した、この政権のエネルギーがわが国の中央部である
やまと東に移り、現地の部族連合体を吸収して大和古代国家の基礎となったであろうことは
すでに多くの学者の説くところである。すなわち畿内政権の故郷は北九州であると
無理なく考えられよう。記紀には人名にも地名にもトヨの字が多く出てくるが、魏志倭人伝の

「台与」がその音を写したものとすれば、後代に「豊」の漢字をあてはめた地名は北九州に
ずっと以前からあったものとみなければならない。ツクシが奈良朝期にできた九州の広い呼び名で、
豊の国がその中の狭い地域の呼び名であったことから、豊のほうが古い名であり、

大化後の行政区画である豊みやこ前豊後のうち、豊前がその原体である。
それも豊前平野を占める京都郡(旧仲津郡を含む)が中心であったことは、従来史家の
いずれも認めるところである。

882日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:19:33.59
2012年といえば、森先生が松鶴洞墳でちょんぼをこいてしまわれた
28年後だな

883日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:19:45.17
つまり、この京都郡地域は、東遷して成立した大和政権の、母なる地であったことが推定されるのである。
豊の国のミヤコあがたは、伝説の景行天皇が熊襲征伐のとき行宮をこの地方のナガオ(長峡)の県に
置いたから起こったというが、ミヤコを皇都の意味にした京都の字を宛てたのは奈良朝で、
ミヤコというのはこの地方の独立した古い地名であった。
「一体に古い地名は意味のわからぬのが多いことを考えねばならぬ」と津田左右吉博士が言っているとおり、

ミヤコ=京都としたのは二、三世紀と八世紀とを突然に接合したようなものだ。
古い地名のミヤコは、あるいはヒミコとも関連があるかもしれず、空想を許されるなら、
ヒミコは魏の旅行者がミヤコを聞き誤っての訛伝かもしれないのである。
ミヤコの地名が皇都として畿内に東漸したのは、民族の移動に付随してあり得ることである。

いったい景行天皇の西征は架空の物語で、これは奈良朝に全国統一を誇示するために創作された。

景行帝が九州に入った最初の行宮がトヨの国の長峡であったことは、このかつ地が大和政権の
曾ての故郷だったのを現わしている。景行紀によってミヤコ(京都)の名がこの地方に
起こったのではなく、五世紀も隔てて忘れかけられている母国の名がようやくにして
「地方誌」に書きとめられたのである。明治三十三年に京都郡小波瀬村の挾間畏三という人が
『神代帝都考』という一書を著して京都郡仲津郡内を記紀の神代史の地名に当てた。

884日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:20:33.33
「《椿市は、書紀にある海柘榴市(ツバイチ)で、地名は、景行紀と豊後風土記とに出ている。
しかし、もとはこの地にあったものが豊の国に対する上代の曖昧な知識から豊前の説話が
豊後(大分県直入郡)に転置されたのである。

紀は海柘榴市に「海柘榴ノ樹ヲ採リテ椎トナシ兵トナス。因ツテ猛卒ヲ簡シ兵椎ヲ授ケ、以て山ヲ穿チ
つちぐもことごとくるぶし草ヲ排シ、石室ノ土蜘蛛ヲ襲ヒ、稲葉ノ川上ニ破リテ其ノ党ヲ悉ク殺ス。
血流レテ踝ニ至ル、故ニ時人ソノ海柘榴椎ノ処ヲ作シテ海柘榴市ト曰ヒ、亦血流ノ処ヲ血田ト曰フナリ」
と地名起いち源を述べ、豊後風土記もほとんど同じ記事を掲げている」

だが、これでは海柘榴の市の説明にはならない。市は物々交換の場所だからである。
倭人伝にも「国国ニ市アリ、有無ヲ交易ス、たいわ大倭ヲシテ之ヲ監セシム」との記事によっても証される。
すなわち各地には民衆が集まる一定の場所があったのである。それには、人々のもっとも分りやすい所が
択ばれたろう。いまだ固有の地名のなかった時代、高い樹や珍しい樹の下などは、目印として恰好な場所で
あったにちがいない。ツバキは当時としては珍しい樹の一つであったろうから、
その樹のあるところは誰でも知っており、その下の広いところが市場に択ばれたのである。

885日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:21:35.44
ずっと後代になって、暦日が制定され、日付が誰の知識にも入ってくると、
日時をきめて市場が開催されるようになった。
二日市、四日市、五日市、八日市、十日市、二十日市(豊前にも四日市がある)の地名がその
起りということは、ひろく知られている通りだが、「ツバキの市」はそれ以前の原始的形態で、
古代の交換経済の実施場所であったろう。「最初は種族と種族とが、それぞれの氏族長を通じ
て交換した。しかし畜群が特別財産に移りはじめるや、個別的交換が次第に多くなり、逆に唯
一の形態となった。

倭人伝に「大倭」がこの市を監したと伝えるのは、すでに権力階級の発生があったからであり、
この地方権力者による云い伝かんせんえが、のちに中央政府によって官撰の歴史に組みこまれたのであろう。
そういう例は多いのでよある。ツバキが古代に珍しかったのは八、九世紀になっても万葉集などに多く
詠まれているこやまとしきとで分る(4)。海柘榴市は大和磯城郡(今の三輪町付近)にもある。

これが豊前の地名の東漸であることは、ツバキ市に関連する古地名が長門、周防、阿波、因幡、伊勢の
径路に分布していることでも知られる。地名の移動が民族の移動に付随することは、アメリカにおける
イングランド移住民の故郷地名の例をまつまでもない。また、大和の海柘榴市がその地名の本来の由来を
そうしつ喪失していることは、日本紀略、枕草子に地名しか載せていないことでも分り、これも豊前の
うたがきがはるかに古い証である。大和の海柘榴市が上代の歌垣の場所になったというのは、古代市場
としての広場の機能が転化したとみられるが、わずかにその名残りも伝えられないではなかった。

886日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:22:56.82
「《古事記の巻頭についている太安万侶の序文にあるように、古事記は稗田阿礼の誦す
とねりる先紀旧辞を安万侶が編集したことは周知の通りである。時ニ舎人アリ、姓ハ稗田、名ハ阿礼、
な年コレ二十八、人ト為リ聡明とあるが、当時の姓は地名からきているのが多いから稗田は阿礼
あまのかかぐやまの出身地名である。現在、奈良県の天香久山に近い稗田がそうだとされて、
その指標も建てられているが、これも豊前の稗田の地名が東に移されたもので、部族の移動を語る。

仲津郡になかとみじんぎおみは倭名抄中臣郷がある。中臣氏は、古代に神祇をつかさどった。
中臣は仲津臣で、仲津とナカツヒメ(仲媛)とは、関連があるかもしれない。

南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、
弥馬獲支(みまかくき)、奴佳?(なかてい)があり、推計7万余戸。

 奴佳鞮

ぬかて

なかとみ

中臣郷

中臣鎌足

中臣郷 奴佳?(なかてい)
中臣郷 奴佳?(なかてい)

887日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:30:10.54
>>876
>そして旧唐書ではじめて東に日本国が登場して、倭国を併合したと書かれている。



それは、西の倭国(阿波)から東の大和(日本国)に遷都したことを記しているんですよ。  @阿波

「日本國(大和)者 倭國(阿波)之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名」

888日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:30:48.32
>>883
>空想を許されるなら

空想ですね。

889日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:37:14.14
3世紀東アジアで鉄器が無くて木器と石鏃の新人類発見したら
魏使は泡吹いて学会に発表しただろ

890日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:43:16.13
東夷諸国で鉄の武器をたくさん持ってるところは討伐されてるから
北部九州程度の量ならあってもなくてもかわらんけど

891日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:44:26.96
>>888
「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
                       『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士


☆銅鐸文化の消滅をこじつけでしか説明できない時点で近畿説はダメ

☆巨大古墳は、先住民(銅鐸民)の反抗を封じるために作られた無益なモニュメント

☆結果ではなく過程(強制労働)に意味があった


銅鐸民族の謎―争乱の弥生時代を読む 単行本 ? 2004/11
臼田 篤伸 (著)

銅鐸は「埋められていた」のではなく、「埋まっていた」のだ。「祭り」と「埋納」の呪縛による
銅鐸論の迷走を撃つ書。民族紛争の視点を導入し、銅鐸民族の侵入とその後の天孫族の侵略による
争乱の古代史を描く。

892日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:48:17.87
いつもの歯医者さんの本
ピラミッドは日本にはありませんね

893日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:52:57.18
>>892
「旧銅鐸群およびそれらと組成する機会のあった武器形青銅器が埋められたことを契機として高地性集落や丘陵性集落が急増したり
より盛行する地域が確かに存在する。大量埋納遺跡を有する摂津の六甲山系や出雲の宍道周辺の丘陵はその典型例で、集落の結合
単位に大きな変動をきたし、古い青銅器群の埋棄を誘致するとともに社会構造が刷新されたことと連動する…」
(森岡秀人2004a p.184)


銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27 臼田 篤伸 (著)

巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。

894日本@名無史さん2017/07/22(土) 09:57:52.30
>>890
鉄器ゼロだとこういう思考になるのかw
後世に残しておこうw

895日本@名無史さん2017/07/22(土) 10:00:20.97
>>892
「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
                       『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士

あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。
森浩一「考古学の模索」1978 学生社


銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27
臼田 篤伸 (著)

巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。

896日本@名無史さん2017/07/22(土) 10:04:28.63
森岡秀人の「一概に出土地が青銅祭器を活発に受容したとは言い難く、
分布地と日常の祭りに青銅器を積極的に導入した場所とは当面隔離しておくべきであろう。
青銅器を全く保持していない地域に遠隔搬入された銅鐸や武器形青銅器があったことは想像されてよく、
最終の分布状態の意味するところはそう単純ではない。」
と歯医者さんの趣味は無関係です

897日本@名無史さん2017/07/22(土) 10:04:40.37
なにこのスレw

畿内銅鐸民族はこうやって土地を奪われていったのだなあ

898日本@名無史さん2017/07/22(土) 10:13:09.95
>>806
>敵対勢力の支配域に近づく必要がない太平洋ルートが、魏の使者を迎えるルートとして選択されたんだろうね。<

魏志を曲解捏造しての、
魏使らの人類の「安全最短の原則」に違反するような、太平洋黒潮漂流ルートは選択されないし、

「自郡至女王國萬二千餘里」の里数計測にも違反している。

899日本@名無史さん2017/07/22(土) 10:19:21.92
>>807
>弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。 倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃が中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、畿内や伊勢尾張美濃が中心だろうね。<

倭人の居住域と、魏使らの到着地とは、全く関係がない。
「南≠東」や、
「自郡至女王國萬二千餘里」や、
「殉葬奴婢百余人」の墓が存在しない地域は、
結局は否定されてしまう。

900日本@名無史さん2017/07/22(土) 10:36:51.94
祇園山古墳は集団墓だね

901日本@名無史さん2017/07/22(土) 10:45:58.49
>>808
>卑弥呼、そしてその流れを汲む初期ヤマト政権。
実は倭国大乱でクニに対して謀叛を起こした勢力だった可能性も考えられる。<

大和政権は、
筑紫城の倭奴国の「阿毎氏の別種の旧小国」であったのであり、
「姫氏」である 卑弥呼の、直接的な流れを汲んでいない。

902日本@名無史さん2017/07/22(土) 10:48:12.39
「姫氏」である 卑弥呼の、直接的な流れを汲んでいない。


例の埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)の稲荷山古墳出土鉄剣
(表)
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比?、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、

「辛亥の年七月中、記す[2]。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ

^ 宮崎市定は『謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本』(中公新書、1983年 )124〜126頁で、
「記す」の繰り返しは漢文として稚拙であるので「記」を氏族名と見て、「記のヲワケの臣」が人名であるとした。

↑明らかに、記(木、喜、鬼、姫)氏、氏族名だよ  無視されてるけど宮崎市定はただしい…


もちろん紀氏は東海姫氏国(日本)の国姓・姫氏の一派に属する

↑これ、百済国書の「貴国」が固有名詞だってはなしともつながる

東海姫氏国(日本
百済国書の「貴国」

903日本@名無史さん2017/07/22(土) 11:10:26.86
>>876
>そして旧唐書ではじめて東に日本国が登場して、倭国を併合したと書かれている。



それは、西の倭国(阿波)から東の大和(日本国)へ、8世紀に遷都したことを記しているんですよ。  @阿波

「日本國(大和)者 倭國(阿波)之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名」

904日本@名無史さん2017/07/22(土) 11:11:08.70
>>813
>伊勢遺跡では銅の工房は認めているが、当時の畿内の鉄器生産が盛んなところは淡路島。
淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。
クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、
大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。<

「南≠東」であるから、✖。

905日本@名無史さん2017/07/22(土) 11:12:40.88
>>869
>元々彼らのフェィクから生まれたのが九州説。
>つまり九州説自体が虚構。

おぉ、同じ意見だw

906日本@名無史さん2017/07/22(土) 11:14:21.74
>>815
>ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。<

「南≠東」だし、
「大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であるし、
「殉葬奴婢百余人」の墓が存在しないから、
×ね。

907日本@名無史さん2017/07/22(土) 11:17:46.85
>>904
森浩一氏が、九州からいくら鉄が出てきても畿内説の考古学者は
無視するが、近畿地方から鉄のかけらでも出てくれば大騒ぎする、
と言っていたが、これは畿内説の考古学のあらゆる面で妥当する。

九州の数百と言われる高度な鉄鍛冶遺跡には触れず、淡路島の原始的な
鉄鍛冶遺跡を「日本最大級」と発表したりする。
畿内説の考古学は少し疑ってかかる方がいい。


淡路島 五斗長垣内遺跡
遺物の鉄器は、矢尻、鉄片、鏨(たがね)、切断された鉄細片など75点が出土した。

熊本 西弥護免遺跡
西弥護免遺跡では弥生終末期 581点の鉄器が出土している。さらに鉄滓などもあり。

908日本@名無史さん2017/07/22(土) 11:18:04.17

909日本@名無史さん2017/07/22(土) 11:21:04.03
>>817
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。
これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。<

時代が全く違う。
神武は紀元前1世紀頃の人。
卑弥呼は3世紀の人。

> 神武は吉備軍に同伴しただけ。 結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。
この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。<

「南≠東」だし、
「 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」だから、「大和の地は卑弥呼の支配下」とはならない。

910日本@名無史さん2017/07/22(土) 11:22:47.66
>>820
>大和の地が卑弥呼側の勢力に制圧された後(2世紀後半以降)の、
狗奴国の版図は、河内、和泉。<

「南≠東」だけで、✖。

911日本@名無史さん2017/07/22(土) 11:24:48.32
>>821
>畿内における倭国大乱。
卑弥呼と卑弥弓呼の争いは、大阪湾一帯の倭人勢力と伊勢湾を拠点とする倭人勢力の争いであった可能性があるな。<

「南≠東」だけで、始めから可能性がない。

912日本@名無史さん2017/07/22(土) 11:27:22.53
>>822
>1世紀〜2世紀初頭、畿内のクナ=クニ(倭国)を中心に西日本は緩やかに纏まっていたんだよ。<

「南≠東」であるし、
「大和は、筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国」であったから、
始めから✖。

913日本@名無史さん2017/07/22(土) 11:28:01.48
>>907
>九州の数百と言われる高度な鉄鍛冶遺跡には触れず

根拠無し

914日本@名無史さん2017/07/22(土) 11:29:53.97
>>823
>卑弥呼がいた纒向は、対狗奴国の前線基地。<

「南≠東」だから、始めから✖であり、
残りの記載は、分裂幻覚妄想にしかならない。

915日本@名無史さん2017/07/22(土) 11:30:01.54
>>908
それ印章だけだから、金の含有率とか大きさは分からないでしょ
それにたしか金印はなかったんだよな
ていうか、それ最後まで読んだんなら偽造は否定されてるでしょ

916日本@名無史さん2017/07/22(土) 11:36:18.73
>>915
王墓から出ない金印なんてあるものかい。
由緒ある神社に古くから伝わってたわけではないないし。

917日本@名無史さん2017/07/22(土) 11:49:55.05
本当は邪馬台国がヤマトであることは分かってた。
しかしそれは天皇家の朝貢を意味する。

九州にあったのではないかという議論をおこし、論者を増やしたい。
新井、本居が相次いで九州だと唱える、本心は大和であるが。

邪馬台国の場所を意味するヒミコの印は偽造などできないが、
委奴国王印程度は偽造できる。
そして奴国を特定させ、
邪馬台国は九州だというアホを増やしたい。
アホが増えてくれてるうちはヤマト朝廷の朝貢がばれない。

まぁそういう事であろう、アホ君(九州説)たちwww

918日本@名無史さん2017/07/22(土) 11:53:20.94
>>842
>その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、
卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。<

終わりとならない。
317年頃に、それまでの(壹與の後の)伊都国の阿毎氏系の王朝から、
また(卑弥呼の後)の姫氏系の「東海姫氏國」王朝になり、
更にまた、阿毎氏系の磐井に変わり、
継体の反乱後も阿毎氏系が続いた。

久留米付近への遷都で、

919日本@名無史さん2017/07/22(土) 12:05:20.61
>>917
記紀が事実だとするなら、
仮に邪馬台国がヤマトだとしても、3世紀前半当時それが九州か畿内か?で、意見が割れそうだが?

記紀では神武は九州から東征した訳で、それはいつ頃?という問題もある

つまり、なんも答えは出ないのだよ

920日本@名無史さん2017/07/22(土) 12:05:52.82
>>916
だから、どうやって偽物を造ったの?

921日本@名無史さん2017/07/22(土) 12:20:48.19
>>916
細石神社
宮司の口伝で金印は神社の宝物であったという事

金印の摩耗が少ない事からも至極妥当なんだよね

922日本@名無史さん2017/07/22(土) 12:33:35.56
>>921
それもねえ
金印が見つかった時に、なんで神社伝来のものだと文句つけないんだろ

923日本@名無史さん2017/07/22(土) 12:37:17.41
神社の宝物って古文書で所蔵した経緯とか書き残すんじゃね

924日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:01:47.42
日清戦争の前後では日本人の感性が大きく変わった。

日本人は2千年近く、隣国である巨大帝国・中華に怯えていた。
実際白村江で負ける。
隣国である巨大帝国の事を考えるだけで気分が鬱になったであろう。

そんな新井白石、本居宣長の時代、かつて日本の天皇が中華に朝貢していたなんて認めれると思うか?

日清戦争後の今の日本人は認めれるのだ。
なぜなら中国に対して完全に見下しているからだ。
「へぇ、昔は中国に朝貢してたんだ。だから?」こんな感じだ。

現代人は中国人を小馬鹿にして何の劣等感も持ってない。
むしろ中国人が日本に対して劣等感を持っている。
そんな現代日本人の感性で本居の時代を考えても分らないのだ。


本居宣長の奇説「熊襲の女酋長説」は古代大和朝廷の朝貢をごまかすため、目をそらすため意図的に創られた。
それが証拠に日清戦争の勝利を見届けた那珂通世を最後にこの説は終わる。

九州説自体が創られたのだ。
邪馬台国はどこにあるのだ?という関心を呼び寄せるためだ。

委奴国王印も偽造であろう。
今、出土状況がはっきりしないピカピカの親魏倭王の金印を誰かが出してきたとして、それを認めるのか?
卑弥呼の金印だと認めるか?
俺は認めない。
だから委奴国王印も認めない。

もういい加減に気づけ。

925日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:02:52.00
>>900
>祇園山古墳は集団墓だね

根拠なし

926日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:04:19.16
>>923
明治維新の直後に焚書があったから、多くの記録が失われた。

927日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:04:49.67
>>920
口の固い、腕の良い工芸士に作らせたのだろうね(*^^)v

928日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:06:40.12
九州説をどんなに誹謗しようと無駄だ、真実は勝つ

929日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:07:47.41
活きのいい畿内説がいなくなったな、粗方駆逐したか

930日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:07:54.62
>>922
そもそも神社からという形を避けて世に出した節があるな。
都合が悪かったんだろう。
でも真実なら、倭奴国の名前で倭王に冊封されたのは伊都国王であり、南小路遺跡の被葬者であったことになる。
それは倭国大乱の前の男王でもあったから、それを継承した卑弥呼も伊都にいただろう。

931日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:08:13.16
誰の話なのか、しらないけど、
本物は伊達郡というところに住んでいるんだよ、
住んでいたというの?

932日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:08:39.97
>>927
作り方の話じゃないんだよw
正式な金印のスペックを知らないのに、なぜ他の正規の金印等と同じスペックのものを造れたのと聞いてる

933日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:09:18.18
>>927
後から他の国で見つかった金印なども同じ様式であったから、本物と考えられている。
学問的には確定事項。

934日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:09:42.49
『天子神璽』?

935日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:10:00.72
>>929
カルト信者が減るのはいいことだ。

936日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:11:40.87
たぶん盗掘されたんだろな
裏世界で売買されてたんだろ

937日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:12:05.35
『天子神璽』に関係する『冤罪事件』?
というのがあったみたいなんだけど、本当なのかな

938日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:28:05.47

939日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:30:21.13
>>929
それは困る
週末の楽しみが減るじゃないか
畿内説の漁獲制限を設定しようぜ

冷房のきいた部屋で冷えたビール片手に畿内説をボコる
それが漏れの週末の儀式

940日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:30:55.25
崇神が4世紀、神武が2〜3世紀だと、神武が東征したのは倭国大乱の時であった可能性がある。
倭国大乱の前の男王の時代は、神武の前の日向三代の時代にあたり、考古学的には南小路遺跡など伊都国の時代である。
拝領した金印には倭奴国とあるが、これは伊都国のことであった。
そしてその伊都国の王墓の一つである平原遺跡からは日向三代の象徴である八咫の鏡が出た。
これは、伊都国の最初の王墓である南小路遺跡の被葬者が邇邇芸であり、日向峠の麓の高祖宮が日向の高千穂宮であったこのとを示している。
卑弥呼以前から、筑紫の日向にある伊都国が倭国の都であった。

941日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:31:03.24
今、出土状況がはっきりしないピカピカの親魏倭王の金印を誰かが出してきたとして、それを認めるのか?
卑弥呼の金印だと認めるか?
俺は認めない。

942日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:32:34.82
>>938
江戸時代に金印を偽造するというお前の発想が怖ろしいわ

そんなんだと旧石器時代事件じゃないが
偽造でなんでもありになっちまう

943日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:35:53.99
>>942
出土状況の分からない金印を認めるおまえの発想が恐ろしいわ。
俺が新魏倭王の金印を作って「出土状況はムニャムニャ…」と濁しても認めてくれるんだね?www

944日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:39:02.25
>>940
>崇神が4世紀、神武が2〜3世紀だと、神武が東征したのは倭国大乱の時であった可能性がある。

まったくその通り。

>倭国大乱の前の男王の時代は、神武の前の日向三代の時代にあたり、考古学的には南小路遺跡など伊都国の時代である。

時代的にはその通り。

では質問。
神武は何の目的で大和に来た?
ちょうど卑弥呼の時代だ。

945日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:39:02.36
>>943
>出土状況の分からない金印を認めるおまえの発想が恐ろしいわ。

はい、中国ゼロ枚出土の銅鏡は、完全なる日本製ですね!

946日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:39:35.26
>>938
ちゃんと読んだか?
否定されてるだろ

947日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:39:37.22
出土状況が分からないから偽造とか意味不明

948日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:42:17.24
>>943
いま見つかったんじゃダメだろw
情報のない江戸時代にみつかったんなら認める

949subo2017/07/22(土) 13:43:17.86
>>903
乙巳の変で畿内のニッポン国に北部九州のニホン国が支配されたということですよ
それ以前のことかもしれんが、ちなみに平成はニホンである

950subo2017/07/22(土) 13:45:04.05
>>905
沿海州豚か?

951日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:46:46.36
>>938
引用

田中氏の推論によれば、ある人物が金印を発見したが奉行書に差し出さず手放してしまった。米屋才蔵が何かの縁でそれを買い取り、知人の奉行津田源次郎に届けて処分を委ねた。

952日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:47:56.57
>>946
作れるかどうか聞いたから作れることを示した。
このHPで否定されてるかどうかは関係ない。

俺は王墓から見つかってない作りたてピカピカ金印なんて認めるわけないから。w

953日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:48:59.84
戦前に発掘されたものは、多くが現在の基準で言えば発掘状況不明だよ。
弥生式土器でさえ、最初に命名された弥生町のどこであったか不明なんだから。
だけども弥生時代がなかったことにはならないだろ?

954日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:49:10.61
出土状況が分からないのに本物とか意味不明

955日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:49:49.75
>>949
筑紫倭国は白村江に参戦しているから、その後じゃないかね。

956日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:50:33.27
>>953
偽造の意味がない土器と一緒にするな。

957日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:50:33.37
>>952
お前は認めてなくても、世間は認めているから。

958日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:51:25.73
>>956
旧石器時代の石器は意味があったのかなかったのか

959日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:51:51.46
>>954
淋しいやつだなお前w

出土状況がわからなくても、
銅矛は銅矛
三角縁神獣鏡は三角縁神獣鏡
金印は金印
>>「モノの真贋」と出土状況とは結びつかない

960日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:52:32.79
>>957
>世間が

おまえはザラコクか
wwwwwwwww

961日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:53:21.24
>>952
造れるかどうかなんて聞いてないぞ
どこから本物のスペック情報を手に入れたって聞いてる
(どうして偽物を造れたのか)

962日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:53:45.93
キウス

963日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:54:43.22
それこそ伝世品なんてどうするんだよ?

籠神社の伝世鏡は出土してないぞ
本当にずっと籠神社にあった証明も無いぞ?
だが明らかに前漢鏡と後漢鏡だ

964subo2017/07/22(土) 13:55:43.39
>>924
畿内ヤマトニッポンの前に飛騨王朝や出雲王朝、筑紫倭国が存在したんだよ(いいな鴨厨

965日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:56:00.51
>銅矛は銅矛
>三角縁神獣鏡は三角縁神獣鏡

普通に墳墓などから出てるよね。もちろん経年劣化して。

>金印

どこから出たか分からずピカピカ作り立てwww
何で「巨石」は残ってないの?

966日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:57:14.98
>どこから出たか分からずピカピカ作り立てwww

しつこいなw
だから、どうやって偽物を造ったの?

967日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:57:48.19
>>958

あれは個人的な功名心。

968subo2017/07/22(土) 13:58:11.50
>>925
祇園山古墳は殉葬墓である

969日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:59:02.02
>>965
>墳墓などから出ている銅矛
>墳墓などから出ている三角縁神獣鏡
本物の銅矛や三角縁神獣鏡

>出土状況がわからない銅矛
>出土状況がわからない三角縁神獣鏡
鑑定でシロなら本物の銅矛や三角縁神獣鏡

>出土状況がわからない金印
鑑定でシロなのだから本物の金印

970日本@名無史さん2017/07/22(土) 13:59:27.16
>>966
おまえがしつこい。
作れることは作れる。

あとは本物かどうかの問題。

作り立てピカピカwww
場所も分りませんwww

971日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:00:12.87
>鑑定でシロなのだから本物の金印

だれが鑑定できるんだい?www

972日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:00:13.94
>鉄器
錆びるし、ボロボロに腐食する

>銅矛 銅鏡
錆びてブロンズとなる

>金
劣化しない

973日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:01:18.89
>>971
江戸時代の
言い伝えでは志賀島出土
少なくとも福岡県で見つかった
金印を

現代の学者たち
が鑑定して
本物と言っている

974subo2017/07/22(土) 14:02:29.10
>>928
畿内ヤマトニッポンがいくら捏造しようが無駄である

975日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:02:29.44
>>972

劣化しないのは純金の場合。
委奴国王印は純金ではない。

976日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:02:39.89
他の類似出土品との比較
当時に偽造できるだけの資料がない

等の理由で金印そのものが本物である可能性は高い
だけど言うとおり出土状況が完全に不明なので本当なら資料的価値は疑わしいと言わざるを得ない

977日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:03:35.96
>現代の学者たち
>が鑑定して
>本物と言っている

安本とかなwww

978日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:04:07.96
>>976
>【漢委奴国王金印】は、日本で出土した純金製の王印(金印)である。

>1931年12月14日に国宝保存法に基づく(旧)国宝、
>1954年3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されている。


日本国が学会も含めた総意として認めた国宝である。

で、君は何人?

979日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:05:15.87
さあ、週末孝霊の

畿 内 説 の タ コ 踊 り の 時 間 だ よ ! ! !

www

980日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:06:50.62
>>970
だから、テクニカルな話じゃないだろw
偽物作者は本物をどこかで見たのか

981日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:07:15.35
>日本国が学会も含めた総意として認めた国宝である。

ヒミコが誰かも分らない「学会も含めた総意」なんて意味がないしwww

982日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:08:31.93
>>980
作れるだけの資料はあると上でしめしただろハゲ

983日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:09:03.27
物そのものが後漢の金印である可能性は高い

だが出土場所や状況が全く分からないので資料としての信頼度は低い

こういう事だな
偽物ではないが資料として活用する事が困難
そのままこれを持って「史書にある金印である」「ここが奴国である」と言うのは実際不可能

984日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:09:39.66
畿内説はとうとう国宝の信憑性すら疑い始めたのか

985日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:10:12.46
>>983

そういう事。
まぁ偽物だろうけどねw

986日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:10:49.80
>>983
偉そうに講釈垂れなくても
志賀島が奴国とはだれも思ってないから

987日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:12:04.41
>>985
お前が偽物だろw

988subo2017/07/22(土) 14:14:07.73
>>955
百済はニッポン、新羅はニホン(基本である

989日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:14:31.51
>>953
ばかだろこいつw

990日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:15:24.53
>>989
俺は日本人だが、金印は本物と思っている。

で、日本国宝で、東アジアで滅多に授与されなかった貴重な金印が
偽物であると主張するお前さんは
何人なの?

991日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:16:07.65
発掘状況が不明だと真偽不明になるのなら、
中国で見つかった△鏡はそもそも偽物ってことになるなあ

992日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:16:44.86
まぁ邪馬台国は九州にあるんじゃないかと思わせる必要があったからね。
本当の事を知られるのは本居も困っただろう。
九州説というものを創る必要があったんだよね。
古代天皇家の朝貢を認めるわけにはいかないからね。

993日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:17:21.84
中国の三角縁も当然疑わしいものとして扱われている
出土状況の分からない物は基本的に資料として使い物にならない

994subo2017/07/22(土) 14:17:36.28
>.986
志賀島は奴国である

995日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:18:10.52
連呼で変えようとしても祇園山古墳は集団墓だから

996日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:18:28.33
>>992
>邪馬台国は九州にあるんじゃないかと思わせる必要があったからね。

馬鹿じゃねこいつw

だったら「親魏倭王」の金印を偽造するだろがw

はい、妄想を論破しました。

997日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:19:06.31
畿内説は落ちぶれたな。
九州のありとあらゆる出土品が妬ましいのだろう。
そうまでして日本の歴史を歪めたいのか。

998日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:20:18.46
57年金印が古代天皇家と関係があった証拠もないのに、
わざわざ金印を作って九州に埋めるかいな
だったら井原鑓溝を秘匿するほうがよっぽど重要

>古代天皇家の朝貢を認めるわけにはいかないからね。
倭の五王は放置ですか

999日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:20:36.98
>>990
俺は偽物だと主張してない
>>953がばかなだけ

1000日本@名無史さん2017/07/22(土) 14:20:42.35
>邪馬台国は九州にあるんじゃないかと思わせる必要があったからね。

馬鹿じゃねこいつw

だったら「親魏倭王」の金印を偽造するだろがw

はい、妄想を論破しました。


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