11 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:24:59.51
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1506369138/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 21 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:25:47.02
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
31 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:26:08.58
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
41 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:26:28.64
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
51 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:26:50.36
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
61 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:27:11.29
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
71 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:27:28.63
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
81 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:27:49.72
◆6−3
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
91 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:28:09.30
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
101 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:28:27.89
◆7−2
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
111 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:28:47.33
◆7−3
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
121 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:29:05.89
◆8−1(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
131 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:29:33.69
◆8−2
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
141 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:29:53.65
151 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:30:10.57
◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
161 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:30:30.88
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山
171 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:30:51.27
◆11 本文のサマリー
===========================================
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。
181 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:31:11.35
◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
191 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:31:29.21
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
201 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:31:54.32
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことは、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
211 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:32:13.06
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
221 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:32:32.46
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
231 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:32:49.90
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
241 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:33:07.86
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
251 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:33:26.45
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
261 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:33:45.98
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
271 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:34:13.09
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
281 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:34:49.54
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、
美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
291 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:35:10.70
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
301 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:35:32.99
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される。
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
311 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:36:04.01
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
321 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:36:23.84
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 331 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:36:44.02
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等
341 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:37:08.88
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
351 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:37:27.40
◆FAQ 26-1
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
361 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:37:46.88
◆FAQ 26-2
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
371 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:38:05.05
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
381 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:38:23.54
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
391 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:38:44.72
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
401 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:39:16.64
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
411 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:39:34.67
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
421 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:39:59.53
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
431 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:40:19.84
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
441 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:40:52.60
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
451 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:41:16.23
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
461 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:41:39.49
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
471 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:42:01.65
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
481 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:42:21.74
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。
491 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:43:42.90
◆FAQ 41−1
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
501 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:43:56.85
◆FAQ 41−2
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
511 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:44:38.32
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
521 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:44:57.88
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)
→1BV型式(3世紀中葉)
→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
531 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:45:16.82
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
541 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:45:33.79
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され(金原2011)ていること、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
551 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:45:52.29
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
561 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:46:11.73
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
571 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:46:29.60
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
581 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:46:48.65
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に語義を含意せずに用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
591 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:47:08.51
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
601 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:47:28.90
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
611 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:47:47.36
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。
倭人の国ではあり得ない。
621 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:48:07.82
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の時代」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間では…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の時代」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・烈曰:「 世有仁人,吾未之見。」(先賢行状王烈)
・発怒曰:「世有思婦病母者,豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
※これらは不特定者を指す例で、否定的文脈である。
「代々…」の用例:
世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒。
昶の父王澤は代郡太守、伯父柔は漢の中郎将。
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
語曰:「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※魏朝に限らず、いつの時代にも不易のことである。
631 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:48:27.91
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
641 ◆q8leUXpsw. 2017/09/28(木) 00:49:03.29
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ15,29,41,56に加筆
65日本@名無史さん2017/09/28(木) 02:05:42.45
キウス
66日本@名無史さん2017/09/28(木) 05:31:49.21
279の>>737
>関係あるよ 畿内倭王権ってのは自生であって九州は(深くは)関係ないということ
だから邪馬台国は九州前提だよね<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の附庸国の旧小国、という関係。 67日本@名無史さん2017/09/28(木) 05:44:41.87
279の>>738
>邪馬台国と関係のない大国が畿内にできた<
大和も畿内も、筑紫倭国の東征で出来た別種の附庸国であったが、
扶余や東沃沮や楽浪などの半島流民を受け入れて、新しい技術や文化を発達させる事が出来た。
>それは物部と葛城の連帯による倭王権(狗奴国)って話<
狗奴國は、南≠東に拠って、×。
范曄の「拘奴國」は、范曄の「高慢誇大な書き変え癖」のために、半分×情報。 68日本@名無史さん2017/09/28(木) 05:49:35.90
279の>>739
>その通り 畿内は邪馬台国と関係がない <
大和が、倭国から別れた別種の附庸国の旧小国であり、「東征毛人55国」の国の一つであった、
という史料実態は動かせない。 69日本@名無史さん2017/09/28(木) 05:52:52.34
279の>>741
>畿内の狗奴国に対抗するために魏に使者を出したんだろ邪馬台国は <
「畿内の狗奴国」は、史料事実が存在しないから、×。 70日本@名無史さん2017/09/28(木) 06:01:10.56
279の>>754
>そんなこと言っても 畿内説の方主張はそうなんですもの。
使者は邪馬台国まで到達しておらず 行程方角は伝聞、倭国側が嘘を教えた、
とかそういうことでしょう。<
史料事実や史料実態に存在しない嘘ダマシ説は、始めから×。
史料事実や史料実態に存在する情報からの確率の高い帰納的推論をすべし。 71日本@名無史さん2017/09/28(木) 06:10:17.96
海遊録 雨漏り修理
確率的にも点で駄目
72日本@名無史さん2017/09/28(木) 06:12:04.67
279の>>781
>>槨の原点は、
「棺」を土中に直葬にするか?、 棺直葬ではなく、棺の周りに空間を造って棺を容れる構造物(=槨)を造ったのか?、
の違いであり、
そういう意味で、石室も槨の一種。
春成?や大和説者は、その「棺の周りに空間を造って棺を容れる構造物」の形状が、いろいろである事で、
ホケノを槨ではない、と言いくるめて、騙そうとしている。<
>その通りだ。
同意する。<
有難うございます。 73日本@名無史さん2017/09/28(木) 06:17:52.78
279の>>782
>いつ見ても短里とかの九州説のテンプレが論破されてるね <
「短里」は、魏志や周髀算経などの史料実態であるから、
その史料の魏志が存在している限り、永久に論破されない。 74日本@名無史さん2017/09/28(木) 06:28:14.45
279の>>790
>壱は知らんよ。
臺でも壱でも、トと読めるらしいから、どうでもいい。
壱だと母音が重なるから、可能性が低いと思うけどね。<
「母音が重なる」とかの音韻ルールは、
古田さんが論証されたように、
人類における文字の選択は、あくまで「音韻や意味の類似文字の選択」であり、
後代の学者が言い出した「音韻ルール」が100%絶対ルールではない、
という事なんだよ。 75日本@名無史さん2017/09/28(木) 06:35:55.92
279の>>794
>魏志倭人伝に使われている里を実際の距離と比較したら一里が75メートルくらいだった
なんて計算をした人はいないのにね 結論だけが一人歩きしてる<
勿論、短里は、
魏志や周髀算経などでの、有効数字1桁程度の大体の、
史料記載事実からの 帰納的推論実態であり、
その史料が存在する限り、否定し得ない史料実態だ。 76日本@名無史さん2017/09/28(木) 07:19:12.25
スローガンの連呼ばかりで
内容がないな
77日本@名無史さん2017/09/28(木) 07:35:17.48
>>75
一里が75メートルって有効数字1桁じゃないよな 78日本@名無史さん2017/09/28(木) 07:36:52.04
無理あるだろ
邪馬台国は九州
79日本@名無史さん2017/09/28(木) 07:38:25.93
畿内に大国があったとしてもそれは「狗奴国」または「倭種の国」にすぎない
どう考えても水行は川だし描かれる風土は九州のもの
80日本@名無史さん2017/09/28(木) 07:52:23.23
また思考停止してるな
81日本@名無史さん2017/09/28(木) 07:55:52.74
>>77
平均と有効数字の関係がわからないゆとり発見。 82日本@名無史さん2017/09/28(木) 07:56:55.43
狗奴国は九州北部邪馬台国の南なんだから、熊本しかないだろう。
官が菊池彦というくらいだし。
83日本@名無史さん2017/09/28(木) 07:57:39.59
【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 84日本@名無史さん2017/09/28(木) 07:57:58.43
後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
85日本@名無史さん2017/09/28(木) 07:58:14.03
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。
86日本@名無史さん2017/09/28(木) 07:58:37.39
あれだけいた畿内説コテハンがほんと消えたなあ。
高齢さんとかも最近見なくなったし。
あの人の世界観は好きだったけど、考古学的証拠が出そろった最近はやっぱり反論できずに言い張るだけになってちょっとかわいそうだったよね。
ジョーカーもあれはあれで頑張っていたけど意外と判断思考は科学的だったから
議論が煮詰まってくると九州説そのまんまの発言をし始めてそれは九州説じゃんと指摘されて本人絶句したり相当悩んでるっぽかったよね。
ここでまだ頑張ってるのはスレ主と根拠厨くらいで科学的議論を放棄してのテンプレ死守の印象操作作戦に徹底してもはや議論が成り立たない。
岡上は東遷説とはいえ畿内説なわけで真っ向から取り組んでなんとか畿内説に持っていこうとしているのだけど、
もう味方であるはずの岡上程度の東遷説議論ですら許容できないほど畿内説は追いつめられているのだな。
87日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:03:33.41
岡上か活動を開始しました
88日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:05:42.91
◆FAQ 29
阿保か
畿内説すべての学者がベニバナ染色なら阿保集団
89日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:05:45.15
>>82
倭人伝は東と南を取り違えてるから
しかも狗奴国があるのは邪馬台国の南ではなく、邪馬台国の属国後半30ヵ国の南
邪馬台国本部=九州
属国後半30ヵ国=瀬戸内海、北部近畿
狗奴国=畿内 90日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:08:46.37
【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
91日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:09:47.03
Wwwww
纏向を天理まで入れるべきと指導したのは俺だよ
スレ主、かわいいね
纏向は邪馬台国と関係ないけどね
92日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:18:34.89
279の>>807
皇国史観教にとっては都合が悪い、という事だけで、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘つきダマシをする・・・・サギシなのが、
大和説者なんだろうなあ。 93日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:19:14.01
スレッドが始まったばかりなのに、もうテンプレートが、論破されているね。。。。。
94日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:23:40.92
279の>>812
>九州説が負けたよ<
歴代中国史書群の証言、などという史料事実が存在している限り、
それからの、確率の高い帰納的推論をしている九州説は、
負ける、という事が有り得ないんだよ。 95日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:23:41.07
>>90
瀬戸内海だよ
伊予国とか播磨国とかまんまじゃん 96日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:32:22.07
讃岐国もあるし
瀬戸内海航路の両沿岸国を順番に書いてる
97日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:33:06.11
279の>>813
>「魏の治世」も九州説が負けたな。<
魏志での、
「伊都国が共立女王國での、郊迎の一体的位置にあって、一大率という軍事的支配の中心國」
という記載事実や実態がある限り、
「治」の主語が、女王であるとも伊都国王である、とも言えるのがから、
九州説が負けた、という事にはならないんだよ。 98日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:36:22.44
>>88
悪口言うだけで相手が論破できるなら
楽ちんだな
w 99日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:37:09.71
279の>>816
>だって魏鏡だからな <
魏の都の洛陽で盛行した、とか、
魏朝が下賜鏡に採用した、という意味では、
「魏鏡」にはならない。 100日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:37:12.96
>>97
伊都国には「王」「官」「一大卒」と三種の権力があって
支配構造がわからないよな 101日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:39:53.69
>>96
九州北部でないと大きさが合わない。
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 102日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:40:17.25
畿内説の論理的に苦しいところは
九州説は畿内を無視できるけど
畿内説は九州を無視できないところだよな
103日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:40:30.40
>>100
だから魏志倭人伝は細かく説明しているんだよ。 104日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:41:29.34
>>102
そうだね。
伊都の役割が絶大なのに、それを無視するあまり畿内説は思考停止に陥っている。 105日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:43:01.34
106日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:43:06.15
>>81
有効数字ってなんだか知らないの?
計算結果にも反映するんだよ 107日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:43:30.19
279の>>821
>魏鏡なら漢墓から出なくて当然ですね。<
魏の洛陽の墓から出土したか?を知りたかったんだが、
洛陽魏墓がまだ見つからないようだから、
前後の漢と晋の洛陽墓で、三角縁が存在しない事を説明したんですよ。 108日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:43:57.65
>>95
>瀬戸内海だよ
>伊予国とか播磨国とかまんまじゃん
倭国(阿波)を中心に見た記述だから当然そうなる。 @阿波 109日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:44:03.34
>>102
>九州説は畿内を無視できるけど
いや、おまえ無視できてねえぇじゃん。
ずっと畿内説スレに居ついてるが? 110日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:44:44.94
111日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:45:36.78
>>105
しょせん、本州は倭種だからね。
以上。 112日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:46:19.54
>>106
じゃあ、魏志倭人伝の里程と実際の地理の関係を論じてよ。 113日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:46:45.86
>>104
>>105
いやそうじゃなくて
畿内にどんな強国があったとしても九州説は破綻しないけど
(邪馬台国とは別の大国があったとすればいいだけ)
九州に強国があることは畿内説の破綻の理由になる
(北部九州は邪馬台国の属国だと明確に書かれているので)
ということだよ 114日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:48:43.45
>>113
じゃおまえは10代崇神がいつ頃の人物かはっきり言ってみ。
それで論理破綻するから。 115日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:50:34.33
116日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:51:07.23
>>113
>九州に強国があることは畿内説の破綻の理由になる
九州に強国なし 117日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:51:12.57
279の>>822
>洛陽で1枚見つかってるから 出土した場所もわかっている 九州説によほど都合が悪いのか<
古物市?のようなところで見つかったようであるし、
「出土した場所もわかっている 」んなら、その場所とその情報根拠を言えばよいのだし、
一枚きりでは、魏朝から卑弥呼への下賜の銅鏡100枚の証拠にはならないし、
列島に500枚以上存在する三角縁神獣鏡の証拠にもならない。 118日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:51:15.67
畿内にいる女王が派遣してきた一大率が伊都国を牛耳っちゃってるって畿内説の主張を
「九州を無視してる」って言ってるんじゃないの?
119日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:52:25.88
>>116
巻向からは品祖な農具しか出てこない
金属製品で九州は畿内を圧倒してる 120日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:52:56.18
纏向で畿内説は崩壊した
誰が先導したのか知らんが、私利私欲でついていった輩は✖
121日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:52:57.23
>>113
それは九州が畿内の影響を受けてるって事実で論破されてるよ。 122日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:53:31.01
279の>>824
>(洛陽の三角縁神獣鏡)日本から輸入されたものと判明した<
あっ、そうだったんですか。 123日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:55:45.97
>>119
教祖のまします平和都市にたいして武器とか居らないだろ 124日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:56:48.56
279の>>826
>またあからさまな嘘をついているな これが九州説<
それなら、何故、
「洛陽の一枚だけの三角縁神獣鏡」の出所情報を言わない、んだい?。 125日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:57:22.03
>>115
まぁ崇神がいつ頃の人物か言えない時点でおそまつな男だと分る。
というか何が目的でそんなに頑張ってるんだい? 126日本@名無史さん2017/09/28(木) 08:59:23.07
>>119
そりゃ防人さんだもん。
自衛隊の最新兵器が皇居にないよね?
それと同じ。 127日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:02:07.79
128日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:02:23.17
>>120
「纏向の畿内説は崩壊した 」なら賛成。
ヒミコなんて速攻で解いた国学者たちが意図的に創り出した論争に終止符を打とうぜ。 129日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:02:38.71
>>112
帶方郡即ち臨津江口より狗邪韓國即ち金海に至る海上の距離は、大約二百餘里なるを、『魏志』には七千餘里となす。
故に此間の三十五里は我が一里に當る。
又狗邪韓國より九州の末盧國即ち松浦郡に至る海上の里程は、大約六十餘里に過ぎざるを、『魏志』には之を三千餘里となす。
故に此間の五十里は我が一里に當る。
又末盧國より不彌國即ち太宰府の附近に至る陸上の距離は大約三十里を出でざるに、『魏志』には之を七百里となす。
故に此間の二十三、四里は我が一里に當る。
此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる… 130日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:03:09.97
131日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:06:14.38
>>127
でも関川の説はもろくも崩壊しちゃったんだよね 132subo2017/09/28(木) 09:09:58.34
>>128
畿内説は意図的に創りだした説なんだよ(いいな鴨厨 133日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:09:59.41
279の>>830
>洛陽の三角縁は白馬寺周辺の畑で地元の農民が掘り起こしたものなんだけど<
ご情報提供、有難うございます。
白馬寺としていますが、墓の副葬であったんですか?。
また、いつ頃の鏡であるのか?の情報はないんですか?。 134日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:13:54.17
135日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:14:42.02
弥生時代の青銅器の分布です。
https://goo.gl/m2KfqU
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
この時代からすでに筑紫が悲しく哀れな防人の土地であったことが分かります。
畿内の王権を守っていたのでしょう。 136日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:16:37.35
>>132
それは九州説の話じゃないの?
皇国主義者が政治的意図で発明した 137日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:17:17.96
>>132
なんで意図的に古代天皇の朝貢を認めようとするんだよアホ 138日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:21:17.65
桜井市纒向学研究センターは
奈良県立橿原考古学研究所の天下り先?
県費から市費への巧妙な税金搾取?
139日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:23:17.83
>>136
>皇国主義者が政治的意図で発明した
その通り。
九州説とは、元々九州だなんてこれっぽっちも思ってない新井や本居が創り出した虚構。
ヤマトだと認めた瞬間、古代天皇の朝貢と言う耐え難い史実を認めねばならない。
国学者としてそれはできないからわざと虚構を創り、論争させた。
それが真理。
それがわからず、ごきぶりホイホイに捕まって身動きできないのが今の九州説者www 140subo2017/09/28(木) 09:23:35.20
141日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:26:48.38
279の>>854
>景初年号 銅出徐州 師出洛陽の記銘 <
そんなへんてこな記銘は、逆に、魏朝の鏡ではない、という事の証拠。
>スプリング8で中国製と確認<
呉系楽浪鏡師らの使った手持ちなどの材料銅が中国や江南であっただけ。
>100枚を4回くらいもらった可能性<
記録は一回だけ。
>国産コピー品もある<
呉系楽浪鏡師らがコピーした。
逆に、コピーは、魏帝の下賜鏡ではない、という事の証拠。 142日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:28:15.88
>>140
そういうことにしたい政治的意図が九州説を発明させた 143日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:29:10.67
>>138
叩きまくられた特殊法人問題と似たようなもの 144日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:29:52.80
九州説は陰謀論と中傷が好きだね
145subo2017/09/28(木) 09:30:29.97
>>139
記紀ホイホイに捕まって身動きできないのが鴨厨 146日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:30:31.23
>>140
ヒミコは神武より地位が上なんだよ。
そのヒミコが朝貢したというなら神武って…w 147日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:32:01.37
148subo2017/09/28(木) 09:33:29.67
>>146
倭國と畿内豪族は別物だから比較はできんだろ 149日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:34:05.03
279の>>881
いつ見ても、三角縁神獣鏡は魏朝鏡だ、との、
大和説のテンプラが、料理されてるね。 150日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:34:35.53
>>147
ほら、こんな中傷しかできない
九州説は学説じゃない単なる政治スローガンから仕方ないか 151日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:35:41.85
279の>>885
もう大和説は荒らしだけか、
・・・・はぁ 。 152日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:36:25.26
>>148
神武の時代がヒミコの時代。
だから神武東征紀なる大げさな記述で【女王国】であることをごまかした。 153日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:37:12.92
関関同立の考古学はイカン
154日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:37:46.00
155日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:38:48.02
156日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:39:59.11
157日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:42:56.10
279の>>892
>三角縁神獣鏡に使われている銅は当時の倭国内のものではなく
魏晋時代の中国の銅鏡と同じ物 <
洛陽付近や魏では、銅が殆ど出なかったんでしょ?。 158ここまでのMVP2017/09/28(木) 09:44:23.18
159日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:45:00.49
160日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:45:03.23
161日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:47:56.58
279の>>900
三角縁が国産でも九州説は痛くも痒くもないけど、
三角縁が国産だと大和説は、即死 。
それだけのこと。 162日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:48:05.84
ベニバナについては、多少書きこんでおきましたが
畿内説ではベニバナは揚げ足を取られると思います。
なぜ、特段に畿内説はベニバナを取り上げるのか不思議です
染色はアカネで良いと思います。
もし織物に赤があれば・・アカネ以外でも赤に近い植物も有りますが
163日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:49:01.57
畿内説は、纏向から時計は止まってます・・
スレは進みますが、畿内説の進歩は纏向から止まってます
畿内説は纏向で終止符を打つのでしょうか???????????????
164日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:50:28.94
岡上が意味不明
165日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:51:03.35
▼埴原和郎(福岡県・人類学)
私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近い』
▼中橋孝博(奈良県・人類学)
『関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い』
▼池田次郎(山梨県・人類学)
『畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し、縄文人から最も離れている』
▼松村博文(兵庫県・人類学)
『畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。朝鮮半島の人々も畿内人と同じようだとわかりました』
▼欠田早苗(兵庫医科大学名誉教授・解剖学)
『大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い』
▼熊谷公男(東北学院大学教授・日本古代史)
『河内国(大阪府)が列島随一の渡来人(朝鮮半島)の集住地域であったことはよく知られている』
▼高権三(韓国済州島出身・歴史学者)
『大阪の浪波子には朝鮮の人の血を受けていないものは、殆どない』
▼中上健次(和歌山県出身・作家)
『大阪はね、ほとんど韓国と一緒の土地だと思うんです。着るものとか街並みだとか、ものすごく韓国に似てますね』
▼橋下徹(東京都出身・大阪市長)
『大阪の人たちは韓国人と非常によく似ている』
▼森喜朗(石川県出身・元首相)
『大阪は日本のタンツボ』
▼内藤湖南(秋田県出身の歴史学者)
『大坂町人は商売のことも判からず、もちろん学問もせず、使用人になにごとも任かせきり』
▼谷崎潤一郎(東京都出身の作家)
『大阪の人は電車の中で、平気で子供に小便(糞)をさせる人種である』
▼坂口安吾(新潟県出身の作家)
『大阪にミジメなものがあるとすれば、東京に対する対立感が強すぎることだ』
▼杉浦明平(愛知県出身の作家)
『本当に京都は酷いですねえ。部落差別なんかでも、やっぱり今でもあそこは根拠地みたいなところがある』
▼井上満郎(京都産業大学教授)
『秦氏というのは新羅を母国といたしまして、五世紀の後半に日本列島に渡来してまいります。そしてこの京都に住みつきます』
▼仲尾宏(京都造形芸術大学客員教授)
『関西の3府県で韓国・朝鮮籍の永住者が全国の約5割を占める』
166日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:51:48.06
279の>>904
なので 国内産の鏡は色んな産地の銅を溶かし合わせたらしきデータが出る。
しかし三角縁は、中国の魏・晋時代の銅鏡と同じ成分と出るが、
洛陽付近や魏では、銅そのものが殆ど出ない。 167日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:54:57.80
司馬遼太郎
飛鳥の公用語は百済語
168日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:55:03.30
279の>>907
>あれは三角縁の区分でいうとちゃんと第4期のものに分類されるんだと<
という事は、洛陽の古物市にあった三角縁神獣鏡は
、まさか、大和の鏡造り神社の製作鏡?。
まさか・・・。 169日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:56:03.46
大化改新は
渡来人VS倭人
170日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:57:51.18
みんな神武東征紀の武勇伝のイメージで男王国だと思ってる。
違うって。
手品師が右手のカードに注目させる時には左手を見れって。
ほらトヨもヒミコもいた。
300年論争なんて終わり。
I崇神(310年)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安
トヨ津 D孝昭
トヨ津 (250年)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年) @神武
171日本@名無史さん2017/09/28(木) 09:59:01.43
279の<<912
大和説者は、
オームやキョクウのヘイトスピーチ狂などのように、
もう、犯罪をおこしそうなほど、狂気じみているな。
172日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:00:52.76
>>162
ベニバナの何で畿内説が不利になるんだ?
畿内説圧倒的有利の物証だろうに 173日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:01:42.72
279の>>922
「南→東」などの嘘をついて、荒らすしかない大和説は終わってるな 。 174日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:04:35.60
279の>>923
>(スプリング8)調査した8枚のうち1枚だけが中国のものと同じ成分を示した、
って書いてあるぞ
つまり7枚は国産だってことじゃんやっぱ
三角縁の大半は国産
つまり中国のなかのあるグループが気まぐれて少数だけ作った鏡が日本に輸入され
それをお手本に国内で複製された ってことだろ
中国の王権が倭の王権に威信財として渡したものとはぜんぜん違う<
成程。 175日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:05:36.11
>>172
ベニバナは邪馬台国と関係無い
また、ベニバナ栽培が渡来したのは後世 176日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:06:22.96
279の>>924
「南≠東」を、嘘だ嘘だと言い張って、
現実から逃げることしかできないヤマトセツ。 177日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:10:27.39
279の>>927
>そんな事書いてたか? 三角縁8枚のうち6枚が中国西晋時代の鏡と成分が一致したと
そうあるんだけど <
「中国西晋時代の鏡」とは、どんな鏡で、それはどこで出土したものだったんかね?、 178日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:14:36.59
>>177
>倭国大乱は、阿波内の出来事と言ってたな。
>阿波のどの地域とどの地域が争ってたんだね?
倭国(阿波)大乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。
邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)
「旧吉野川流域北岸勢力」
東州津遺跡・大柿遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・勢合銅鐸出土地
「旧吉野川流域南岸勢力」
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡
「鮎喰川下流域勢力」
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
「勝浦川流域勢力」
桧銅鐸出土地
「那賀川流域勢力」
若杉山遺跡・福寺山遺跡 179日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:18:53.55
279の>>939
最近の大和説は、「南→東」などのように、
バレバレの嘘をついてすぐ自滅するな 。 180日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:18:59.23
>>175みたいに
理由もなく決めつけるのが九州説
終わってるよな 181日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:21:52.38
279の>>940
いまだに「南→東」などの嘘つきダマシの大和説なんかを信じている時点、
で頭の中身はお察しだからな。 182日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:21:53.84
>>177
>卑弥呼は何処にいたのかな?
粟国
>倭国大乱前の男王がいた場所は?
長国 183日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:24:08.54
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波
184日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:25:27.12
279の>>943
いつ覗いても、大和説が、「南→東」などのウソをついたあげくに、自爆しているな。 185日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:26:13.27
ベニバナ花粉入りの土壌と普通の土壌の見分け方は?
186日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:28:24.16
279の>>946
「南→東」などの嘘つきダマシのバカが、知ったかぶりで恥を晒す。
大和説には、まともな人間はいない。 187日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:30:03.43
279の>>947
>畿内派のが集団的な書き込みだろ
畿内は産経が押してるから
スタップ騒動と同じ構造だと睨んでる<
ふーん、そうなんですか。 188日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:32:53.45
279の>>948
>巻向なんて数%しか発掘されてないし
畿内の地面の下にはまだまだ遺跡が埋まっている<
もっと10倍以上位の弥生銀座は、何%発掘されているんだい?。 189日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:38:43.39
190日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:41:58.06
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人世有冠冕 惟仁義為名 守慎為稱 孝悌於閨門 務學於師友。
現在、貴方たちの先人(祖父の王澤と王柔)は、魏の世で冕を冠ぶる身分にあるが、ひたすら仁義を名誉と心得て、慎みを守ることを称賛すべき美徳と考え、家にあっては孝悌を尽くし、師友に学ぶ努力をした。
※のち魏の司空となる王昶が子や甥に書いた訓戒。
昶の父王澤は代郡太守、伯父柔は漢の中郎将。
王澤とその兄王柔は幼少の頃に郭泰(郭林宗128-169)に会っているが
王澤が郭泰に会ったのが西暦165年で10才の頃と仮定すると、西暦155年生まれとなり
魏の成立した西暦220年代には65歳?それから10年後とすると王澤が75歳?子の王渾7歳。
191日本@名無史さん2017/09/28(木) 10:50:08.62
>>190
人物評して推挙してもらうんだから、もう10歳は上だろう 192日本@名無史さん2017/09/28(木) 11:06:34.18
193日本@名無史さん2017/09/28(木) 11:11:48.16
279の>>950
>集団的書き込みって それだけ多く支持してる人がいるって事だろ<
支持者は、(安部自民と同じく)国民の3割位しかないんだよ。
しかし、安部自民も大和説者も、
産経や文部省などの皇国史観の人種差別的国粋主義と同じの、一種の・・・・であるから、
口数や集団的ヘイトスピーチ宣伝が多い、という事だけでしょ。
そして、国民の何人かの浮動層も、その宣伝に引きずられて、
殺し合い戦争に賛成してしまいそうになって来ている、という事なんでしょう。 194日本@名無史さん2017/09/28(木) 11:14:09.20
>>189
纏向の溝の土壌のすべてを顕微鏡で見たの?大変だっただろうね! 195日本@名無史さん2017/09/28(木) 11:26:45.18
279の>>962
>あまりに九州説がメタメタにされてついに妄想の世界へ逃避したか <
九州説は、史料事実や史料実態からの確率の高い帰納的な推論であるんだから、
史料事実や史料実態が消えない限り、消えるものでもなく、
逃避する必要もないんだよ。
それに引き換え大和説は、記紀と同じように、
史料事実や史料実態の否定曲解の上に造作された半分偽説であるから、
いずれは議論に負けて逃亡する羽目になる。 196日本@名無史さん2017/09/28(木) 11:31:30.03
279の>>970
>畿内説が学説で定説なのは 長年議論と研究が何重にも重ねられた結果ぞ<
記紀の皇国史観という「結論先にありき」での、
「南→東」などの史料事実の否定での「議論や研究」は、
幾ら沢山したって、何の価値もなく、
アホであるだけぞ。 197日本@名無史さん2017/09/28(木) 11:31:58.27
198日本@名無史さん2017/09/28(木) 11:36:03.18
>>135
苦しい言い訳
どうして九州の豪族が畿内を守らなきゃいけないんだよ
理由を言ってみろよ 199日本@名無史さん2017/09/28(木) 11:37:45.84
279の>>980
>畿内からは中国製の鏡と思われる三角縁神獣鏡が多数出土するから
邪馬台国の有力候補です <
三角縁神獣鏡は、洛陽から全く出ないから、
魏帝の下賜鏡ではありません。 200日本@名無史さん2017/09/28(木) 11:38:41.41
>>165
なんだ畿内説派は朝鮮人の末裔だったのか 201日本@名無史さん2017/09/28(木) 11:41:21.54
苦しい言い訳に終始する畿内説
202日本@名無史さん2017/09/28(木) 11:45:31.08
279の>>985
>本気で研究に取り組むなら、研究史・先行研究の把握が必須なんだけど、
九州脳だと、そんなものはおかまいなしで自分の意見だけが全て、だもんな
俺が気が付いた読み方が正解だ、とか客観性もクソもなく、学問以前の戯言だ <
本気で研究に取り組むなら、後代学者の解釈よりも、
陳寿の三国志や魏志の実態研究が必須なんだけど、
やったのは、古田さんらだけ。
大和脳だと、そんなものはおかまいなしで、後代学者の解釈や自分の意見だけが全て、だもんな。
後代学者の読み方が正解だ、とかは、客観性もクソもなく、学問以前の戯言だな。 203日本@名無史さん2017/09/28(木) 11:54:13.19
279の>>990
全体的に思うjけど、大和説の言う事って、「都合の悪い史料事実」を、
「何でもまちがいだ」とした、本当思いつきを適当に言ってみただけ、
って感じで、薄っぺらすぎるよな 。 204日本@名無史さん2017/09/28(木) 11:54:55.72
勘違いしている人もいるが、倭人も渡来人だからな。
中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内や伊勢尾張が中心だろうね。
205日本@名無史さん2017/09/28(木) 11:56:31.12
279の>>996
現実には、文献的にも考古学的にも九州。 206日本@名無史さん2017/09/28(木) 11:58:14.47
八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。
207日本@名無史さん2017/09/28(木) 11:59:12.77
279の>>1000
1000なら九州説で確定 。
大和説のキョクウの皇国史観国粋主義の、既知害ガキ憤死。 208日本@名無史さん2017/09/28(木) 12:05:36.24
209日本@名無史さん2017/09/28(木) 12:16:43.66
>>204
>倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国(阿波)から進出して、各地を拓殖していった忌部一族の痕跡ですね。 @阿波 210日本@名無史さん2017/09/28(木) 12:26:51.47
>>191
10歳戦後でしょうね
余り年が多いと孫との年齢が離れすぎ
今の計算で王澤34歳で王昶が生まれ
王昶34歳で王渾が生まれたくらいですから。 211日本@名無史さん2017/09/28(木) 12:49:31.23
忌部氏は江南の越族と思われる
風俗がね。
212日本@名無史さん2017/09/28(木) 12:53:46.30
弥生時代の青銅器の分布です。
https://goo.gl/m2KfqU
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
大乱を経験して戦時体制を取り続けた筑紫を中心とする倭国の領域がわかります。
魏の使いが滞在した外交の舞台である伊都を含む北部九州と、瀬戸内や関西は別の領域であり、奈良盆地は邪馬台国とは関係ない地方であることがわかります。 213日本@名無史さん2017/09/28(木) 12:57:03.36
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
214日本@名無史さん2017/09/28(木) 12:59:10.28
豊葦原中国の葦とは稲穂のこと。
稲作先進地域である博多湾沿岸に稲田が広がる様子を描写したもの。
215日本@名無史さん2017/09/28(木) 13:00:22.15
>>93
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 216日本@名無史さん2017/09/28(木) 13:06:29.93
217日本@名無史さん2017/09/28(木) 13:07:10.34
>>165のごく一部が荒らしの北部九州説
ここで変な九州弁を使ったりする人たち 218日本@名無史さん2017/09/28(木) 13:09:27.52
>>216
こういう説明が出来るのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 219日本@名無史さん2017/09/28(木) 13:21:10.28
>>210
>>191
10歳前戦後でしょうね
余り年が多いと孫との年齢が離れすぎ
今の計算で王澤34歳で王昶が生まれ
王昶34歳で王渾が生まれで
王昶が70歳で死亡
王渾が74歳で死亡
。 220日本@名無史さん2017/09/28(木) 13:22:01.73
>>210
>>191
10歳前後でしょうね
余り年が多いと孫との年齢が離れすぎ
今の計算で王澤34歳で王昶が生まれ
王昶34歳で王渾が生まれで
王昶が70歳で死亡
王渾が74歳で死亡 221日本@名無史さん2017/09/28(木) 13:27:02.47
岡上、荒らすなよ
222日本@名無史さん2017/09/28(木) 13:39:09.91
>>202
三国志の訳も現在のが正しいとの保証はない
誰も検証とかしてないですね。 223日本@名無史さん2017/09/28(木) 13:42:01.07
国生み。
書によれば、淡洲、伊予二名島となっているのもある。
淡洲は阿波かな、伊予二名島と別なのはどういうことかな。
伊予二名島って四国の何処なんだろう。
224日本@名無史さん2017/09/28(木) 13:42:40.82
経歴詐称爺の小便着色本を聖典として崇める狂信者が朝からまた基地外晒してるのか
異常者は毎日ほかにすることもないんだろうなぁ
225日本@名無史さん2017/09/28(木) 14:43:02.98
どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、
226日本@名無史さん2017/09/28(木) 14:59:28.85
淡洲は淡路、伊予二名島は四国
227日本@名無史さん2017/09/28(木) 15:10:52.87
最近ザラコクと岡上の仲がいい
228日本@名無史さん2017/09/28(木) 15:13:41.08
九州説の勝ちすぎを妬むやからも最近は多いと聞く
229日本@名無史さん2017/09/28(木) 15:25:37.00
>>198
>どうして九州の豪族が畿内を守らなきゃいけないんだよ
九州の豪族って誰?
>理由を言ってみろよ
頭の弱い防人だからさw 230日本@名無史さん2017/09/28(木) 15:25:51.60
231日本@名無史さん2017/09/28(木) 15:27:30.50
>>228
一体逃げてばかりの九州説が何時どこで勝ったの?
そんなこと一度でもあったかな? 232日本@名無史さん2017/09/28(木) 15:36:30.87
>>226
淡路洲、淡洲、伊予二名島とあるからな。 233日本@名無史さん2017/09/28(木) 15:42:07.93
>>222
あんたのトンデモ説は検証うけて否定されたけどね 234日本@名無史さん2017/09/28(木) 15:50:04.56
235日本@名無史さん2017/09/28(木) 15:53:34.24
>>231
負けても自覚のない者はある意味で幸せだな。 236日本@名無史さん2017/09/28(木) 15:58:44.92
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人世有冠冕 惟仁義為名 守慎為稱 孝悌於閨門 務學於師友。
現在、貴方たちの先人(王澤と王柔)は、魏の世で冕を冠ぶる身分にあるが、ひたすら仁義を名誉と心得て、慎みを守ることを称賛すべき美徳と考え、家にあっては孝悌を尽くし、師友に学ぶ努力をしてきた。
※のち魏の司空となる王昶が子や甥に書いた訓戒。
王 昶の父王澤は代郡太守、伯父柔は漢の中郎将。
王澤とその兄王柔は幼少の頃に郭泰(郭林宗128-169)に会っているが
王澤が郭泰に会ったのが西暦165年で10才の頃と仮定すると、西暦155年生まれとなり
魏の成立した西暦220年代には65歳?それから10年後とすると王澤が75歳?子の王渾7歳。
>ひたすら仁義を名誉と心得て、慎みを守ることを称賛すべき美徳と考え、家にあっては孝悌を尽くし、師友に学ぶ努力をしてきた。
先祖が代々これをしてきたと?先祖がみんなこんなに偉かった?有り得んだろw
これは王澤と王柔のことで、それ以前の先祖の行いなんて王 昶が知るはずもない。
冒頭で今と言ってるんだから、代々と過去の話に訳すのは矛盾してる。
237日本@名無史さん2017/09/28(木) 15:59:13.80
238日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:18:04.34
親孝行も聞いた話だろ
239日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:33:41.18
>>46
◆FAQ 38 Aより纏向所都
>卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格<
☝
☝
このような、所都でベニバナ染色だけ許されてたでいいのかな? 240日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:36:59.76
>>239
紅花って、たくさん栽培しても少ししか取れない。
非農村なら十分に取れるわけがない。
むしろど田舎だったことの証拠。
中国産の高品質な丹が手に入らなかった田舎豪族が代用品として使ったかもしれないね。 241日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:41:41.54
今日もテンプレ論破されてるな
242日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:42:14.62
243日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:44:31.33
>>239
> 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格<
ど田舎の沼地です。
まともな耕作もできませんでした。
人もあまりいませんでした。
そう読めるよね。 244日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:45:36.57
245日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:45:58.74
>>234
あんたは反論されてれも聞こえないフリで反論せず
自分の珍説を連呼してるだろ
そう言う状態は論破されたって言うんじゃないの? 246日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:46:45.77
土壌に後で畿内説の輩がベニバナ花粉を混入させた説に賛成だな
畿内説にとって裏目に出てしまったがな。迷惑な話
247日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:46:45.73
248日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:47:20.34
249日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:48:12.02
>>236
>これは王澤と王柔のことで、それ以前の先祖の行いなんて王 昶が知るはずもない。
祖父の話も知らんと? 250日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:50:12.34
>>236
周代の話の次に「さて」と現代の話に転じてるから矛盾なんか無いと指摘されてるのにシラン顔 251日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:51:28.79
紅花から作った上質の紅は平安時代でも『金一匁(もんめ)紅一匁』と言われた
252日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:51:42.08
言い張るだけは岡上の常だよ。
253日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:52:54.62
キュウシュウセツに理由なんて聞いても無駄
どうせ何にもないんだから
254日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:53:16.42
>>236
先人なので死んじゃった人たちのこと
したがって、今を現在と訳すのは誤訳 255日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:55:35.18
>>236
王澤と王柔は漢代の人だから「魏の世で」なんてトンデモ訳は不可です。 256日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:58:24.80
>>249
王昶家誡は青龍年間の箇所に書かれているから、王柔は生きてないだろう 257日本@名無史さん2017/09/28(木) 16:59:17.77
>>249
記録も無い祖父も
>ひたすら仁義を名誉と心得て、慎みを守ることを称賛すべき美徳と考え、家にあっては孝悌を尽くし、師友に学ぶ努力をしてきた。
と言える理由は?
今と言いながら曾祖父時代の過去の話になる理由は? 258日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:01:02.43
>>257
祖父のことぐらい知ってるであろう王昶が話してるから 259日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:01:45.40
>>257
「今」は「現時点」じゃなくて「現代」の意味だから 260日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:02:42.37
反論は全く聞いていない岡上
261日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:03:00.67
王昶が兄として仕えた王淩の叔父は王允だから
太原郡の王氏はそれなりの家柄だったんだろう
262日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:05:45.76
>>261
しかも王允も王柔兄弟も
郭泰の推薦で出世した同士だね 263日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:07:03.14
だから、どーでもいいから
264日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:07:30.21
ごまかし逃げが始まったぞ
265日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:08:01.99
何の話?
ドラ◯もん?
266日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:08:37.44
畿内説はすぐにケムにまいて逃げ出すね。
267日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:08:44.43
代々だろうが、その時のだろうが何にも変わらん
伊都国とその他国々が女王国に従ってると言うだけのことだ
何をこいつは延々と喚いてるんだ
268日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:09:13.20
それがどーだってんだ?
269日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:09:20.26
いくら定説にイチャモン付けても「魏の治世に」なんて新発明読みが通用するわけ無いのにね
270日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:09:53.99
>>254
今の意味・・・・・・.いま、現在の
先人・・・・・・先祖でしょ、爺さんは先祖、死んでなくとも爺さんは先人
>>255
魏代まで生きてても不自然ではないでしょ
>>256
正確な誕生日とか分かりませんので何とも言えないな。 271日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:10:19.69
>>266
自分が追いまくられて逃げてるのに図々しい奴だ 272日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:11:07.32
273日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:14:35.74
>>260
根拠のある有効な反論じゃないからね
自分はこう思うだけでしょ。>>261
>>261
太原郡の王氏はそれなりの家柄だったとしても
太原郡の王氏が代々
>ひたすら仁義を名誉と心得て、慎みを守ることを称賛すべき美徳と考え、家にあっては孝悌を尽くし、師友に学ぶ努力をしてきた。
は変だろ。 274日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:14:50.69
>>270
>今の意味・・・・・・.いま、現在の
何を反論されても
同じことを言い張り続けるだけ
それって論破されてる状態だね 275日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:14:57.91
ベニバナの渡来は4世紀以降だから、纏向は✖
276日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:15:08.61
277日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:16:27.21
>>274
根拠のある今の意味だしてよ。
言い張るだけじゃだめだよ。 278日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:16:57.42
279日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:17:47.08
280日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:18:03.44
>>274
実際中身のある反論してないだろ。
同じことを言い張り続けるだけは君だよ。 281日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:18:53.66
282日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:18:59.94
>>277
今=現在って言い張る岡上こそ根拠ある今の意味だしてよ。
言い張るだけじゃだめだよ。 283日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:19:30.70
>>280
実際中身のある反論してないって証拠は? 284日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:21:08.86
>>282
今に現在以外の意味を根拠を付けて示してよ
言い張ってるだけは君でしょ。 285日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:21:11.80
>>281
生きていようが最終官歴は漢護匈奴中郎将だから漢代 286日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:21:20.42
大量のベニバナ花粉が見つかったのは3世紀中ごろの溝だろ
287日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:21:40.50
288日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:22:39.98
289日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:24:09.18
290日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:24:10.89
291日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:25:49.65
だから
今=現在って言い張る岡上こそ根拠ある今の意味だしてよ。
言い張るだけじゃだめだよ。
292日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:26:00.10
293日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:27:21.03
294日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:27:45.96
295日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:29:04.62
>>250
「さて」は日本人が勝手に訳しただけで誤訳
>現代の話に転じてるから
正しく訳すなら「現在は」でしょう 296日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:29:59.58
空想と現実が区別できてない耄碌九州じいさん
297日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:30:12.22
>>291
今=現在
は如何なる漢字の辞書にも載ってますよ。 298日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:31:02.57
299日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:31:57.85
畿内説が言うことはいちいちブーメランなんだよな。
論破された意味のないことを繰り返しテンプレと称して貼り続けているからね。
300日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:32:02.44
301日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:32:48.62
>>295
>現代の話に転じてるから
つまり「今汝先人世有冠冕」も現代の話ってことだろ 302日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:33:19.10
ベニバナ 渡来 でググると3世紀中ごろは出て来ない
303日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:33:58.76
畿内説は言い張るだけだな
言い張って論破したw
304日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:40:58.12
305日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:41:41.11
306日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:42:17.83
>>297
こう言うウソを平気でつけるのは異常だな 307日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:45:09.00
308日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:46:07.84
309日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:50:13.98
>>295
そのヘンテコな理屈は
現在王柔が生きてないと成り立たない
という証明不能な必要条件があるね
つまり根拠がないってことだ 310日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:51:53.94
>>270
先人
祖先。常指已死的父親。詩經.小雅.小宛:「我心憂傷,念昔先人。」聊齋志異.卷十.神女:「先人廉其直,買而歸。」近祖先、祖宗
古人。管子.大匡:「先人有言,知子莫若父,知臣莫若君。」文選.陸機.文賦:「詠世コ之駿烈,誦先人之清芬。」
先人は、「祖先。常指已死的父親」、死んじゃった父親のこと 311日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:54:42.24
>>310
先人は、祖先あるいは「死んじゃった父親」のこと 312日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:55:07.46
寺澤と金原はお友達だから
313日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:55:25.23
>>309
現在の時点で王柔か王澤が生きてればいいでしょう
>>250
とか完全に今が現代って意味ですね
自爆してますね。 314日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:56:53.40
>>311
それもあるけど先祖の意味もあるでしょ
孫にとって祖父は生きてても先人 315日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:57:32.04
>>313
そう
今とは現代って意味ですね
現在じゃない 316日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:58:34.34
>>313
>現在の時点で王柔か王澤が生きてればいいでしょう
つまり証明できない
と言うことは根拠なし 317日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:58:55.48
318日本@名無史さん2017/09/28(木) 17:59:38.10
319日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:01:07.96
岡上家では言うんだろw
320日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:01:15.84
纏向は染色工場をもった祭祀場って説が畿内説?
321日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:03:08.52
先人
(1) [ancestor]
(2) [my late father]
322日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:03:26.82
323日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:04:32.20
324日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:05:08.34
大和説は頭が弱い
325日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:05:20.70
>>320
纏向は染色工場も鍛冶工房も特殊木工場も王宮ある祭祀都市って説が畿内説 326日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:06:16.65
327日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:06:22.58
>>320
現代の山形県の位置付けを考えればいい。 328日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:06:59.23
畿内説にはいろいろいるから
329日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:07:16.03
>>319
岡上家のおじいちゃん先祖代々の墓に住んでたりして 330日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:09:29.18
>>325
高床式住居が無いチンケな都市だな、吉野ケ里より遅れてるな 331日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:11:49.92
今日も飲尿信者がバカ晒してるようだな
キュウシュウセツはバカなことを畿内説スレで喚き散らしていると九州に邪馬台国が表れると思ってる馬鹿だから仕方ない
332日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:12:18.81
333日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:12:37.77
誰かが、纏向は国会みたいな都市と言ってたが
そこには工場域もあったんだ。へーーーーー
334日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:15:04.84
335日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:16:35.67
纒向は巨大な兵の駐屯地であり、祭祀の目的は兵を纏めるため。巨大古墳などの土木作業は単なる兵の労働が目的。実際巨大古墳が始まるのは3世紀半ば、纒向のインフラ整備が飽和した時期。
テンプレは、意図的に纒向遺跡に関する重要な事実を無視している。
◎纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。また発掘に携わった考古学者は、外部勢力の侵入を考えざる得ないとも言っている。
卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。
纒向遺跡全体でも3キロ平米、後世の京に匹敵する巨大さ。
湧水土壌であることを考えれば、民の住居は竪穴式住居の採用は難しかったんだろう。
高床式建物や掘立柱建物が延々と連なって建っており、住居や食糧庫だったんだろうね。
巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。
農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないかな。
◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。
さらに4世紀に突然消失し武器などの遺留物が無いこと(もぬけの殻)を考えると、記紀の四道将軍の記述と合致する。
◎纒向は、4世紀に意図的に解散し、民は兵として全国平定に駆り出されたと推測できる。
336日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:16:39.96
337日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:19:21.92
>>335
さあ、今夜も負けた九州説が荒らし始めましたよ 338日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:19:45.53
339日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:21:09.52
340日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:21:32.47
畿内説の人は今日も論破されたのに自覚がないな。
341subo2017/09/28(木) 18:22:14.72
342日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:22:43.35
343日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:23:22.97
344日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:23:35.82
345subo2017/09/28(木) 18:24:25.31
>>339
纒向が3世紀末 突然発生で何か困ることでもあるのか? 346日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:24:47.05
347日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:25:40.83
348日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:25:42.07
349日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:26:10.86
350日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:27:24.97
山形の紅花染は室町時代から
延喜式に記された紅花の産地は九州,四国,東北地方以外の全国24国
伊賀・伊勢・尾張・三河・駿河・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸
信濃・上野・下野・越前・加賀・越中・因幡・伯耆・石見・備後・安芸・紀伊
奈良の月ヶ瀬には烏梅を媒染剤に使った伝統的な紅花染めが残っている
https://www.atpress.ne.jp/news/121018 351subo2017/09/28(木) 18:30:50.23
352日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:31:10.04
>>349
都である理由がないからだよ
わかった? 353日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:36:12.35
354subo2017/09/28(木) 18:40:35.19
>>350
呉藍は九州経由でなく孫呉から直で畿内か 355日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:43:12.50
356日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:43:47.34
357日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:44:20.81
>>353
ある理由がないからだよ
ある理由があるというならお前が示さないと 358日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:45:04.36
359日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:45:05.89
360日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:45:31.91
361日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:46:01.98
362subo2017/09/28(木) 18:46:40.99
>>355
だってさ、紅花の産地は九州,四国,東北地方以外て書いてあったから 363日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:46:53.78
また畿内説が自爆してんな
364日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:48:18.85
吉備や讃岐なんて倭人伝に出てこないからな
「総花的」とかなに言ってんだろうな
365subo2017/09/28(木) 18:48:55.87
纏向は崇神王朝(285〜318)の都なんだろ
366日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:50:48.46
>>338
纒向のはじまりは3世紀中葉
御肇國の記念すべき年は247年 367日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:52:23.94
俺「卑弥呼共立の当事国は?」
キナイセツくん「吉備、出雲や瀬戸内の国、伊勢などだよ」
俺「じゃあそれらの国は倭人伝にはなんて書かれてたの?」
キナイセツくん「・・・(頭がパンクして故障)」
www
368日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:55:55.34
畿内には狗奴国の都があった
邪馬台国が魏との関係をバックに周辺国を属国化して勢力を広げたから
反邪馬台国勢力も一つにまとまる必要があった
それが「総花的な」巻向の様子だよね
369日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:56:42.33
ベニバナは3世紀には渡来していた。
畿内説の広報が足りないだけだ。
370日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:57:12.38
>>334
そんな立派なものじゃない。
川べりの倉庫の周りに紅花の加工場があったかもという程度。
しかも、こ」でますます3世紀という主張に疑問が強くなった。
纒向遺跡はやはり4世紀以降なのではないか? 371日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:58:20.13
>>335
>卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。
集会ならともかく、仕事場としては不足だよ。
1000人の下女が働く王宮ではないよ。 372日本@名無史さん2017/09/28(木) 18:59:20.90
>>335
>◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
数棟しか見つかってないだろ。
誇大妄想。 373日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:00:34.31
>>350
田舎だと言っているだけだよ。
当時の纒向が、現代の山形県のような辺境の土地だったと。
あ、山形県民がいたらゴメンな。 374日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:01:39.72
375日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:02:12.04
>>369
むしろ、纒向が4世紀以降であった証拠w 376日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:02:14.05
>>77
>一里が75メートルって有効数字1桁じゃないよな じゃないよな <
「有効数字が1桁」というのは、
「史料に計測記載された数字」の話であり、
その「計測値からの計算値」の事ではないんだよ、・・・・くん。 377日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:02:22.14
378日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:03:21.81
辺境の土地にシルクロード経由の花は入らないな
ハウスがない平安時代には紅花は台風が来るところ雪深いところでは作らなかったのかもな
379日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:03:32.00
380日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:04:31.34
381日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:05:15.62
382日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:07:16.42
>>79
>畿内に大国があったとしてもそれは「狗奴国」または「倭種の国」にすぎない <
「南≠東」だから、狗奴國は畿内や大和付近にはならないよ。 383日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:11:01.82
384日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:11:23.62
邪馬台国側
北中部九州、山陰、山陽の一部、北部近畿
狗奴国側
南九州、瀬戸内、畿内、東海
倭国大乱=吉備の裏切り(邪馬台国側(当時は奴国が盟主)→狗奴国側)による混乱
邪馬台国と狗奴国の争いの結末
狗奴国優勢で和睦(崇神)
385日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:11:53.08
>>376
有効数字1桁のデータの平均は有効数字1桁になります 386日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:13:11.27
>>377
じゃあなんで吉備を代表とする瀬戸内の国、伊勢東海、出雲という邪馬台国の最友好国が倭人伝に出てこないの?w
w 387日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:13:51.95
388日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:15:42.25
>>383
「紹介します。俺の先祖です」
って言って祖父さんに合わせたら、先方仰天するぞ。 389日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:16:34.68
390日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:16:42.80
391日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:17:29.01
392日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:17:58.06
日本書紀の作者の考え
卑弥呼が畿内の女王だとしたら、、、
→畿内の女王が中国に朝貢してたなんて認めない!!
卑弥呼が九州の女王だとしたら、、、
→畿内より先進的な国が九州にあったなんて認めない!!
→よし、うやむやにしよう!
393日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:18:13.64
394日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:18:16.73
纏向に染色工房以外の工房あるの?
工房も筆の誤りなんちゃって
纏向が3世紀であろうが無かろうが、邪馬台国と関係ねーし
地方豪族連中の 葬儀場、市場、工場
395日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:18:20.64
396日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:18:50.63
397日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:19:35.18
>>388
しないよw
曾祖父?祖父?とか聞かれそうだけど
先祖とか幅が広すぎ
普通は紹介は曾祖父、祖父でしょう。 398日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:20:09.49
399日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:23:47.40
畿内説二連敗してんじゃんw
400日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:24:13.31
401日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:24:32.06
402日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:26:40.51
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人世有冠冕 惟仁義為名 守慎為稱 孝悌於閨門 務學於師友。
現在、貴方たちの先人(王澤と王柔)は、魏の世で冕を冠ぶる身分にあるが、ひたすら仁義を名誉と心得て、慎みを守ることを称賛すべき美徳と考え、家にあっては孝悌を尽くし、師友に学ぶ努力をしてきた。
これに根拠のある有効な反論が一つもないな
全部根拠は無いが自分はこう思うから違うとの主張だな。
「今」の話だから過去の話(代々)でないのは明白なのに
何時までもグダグダとホントに馬鹿だな。
403日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:27:56.67
>>399
二連敗どろじゃないでしょ
何十連敗もしてる。 404日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:28:30.40
>>399
二連敗どころじゃないでしょ
何十連敗もしてる。 405日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:29:13.48
406日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:30:18.28
こいつ自分で自分にレスつけて会話してる
バレてるの気が付いてないとか恥ずかしくて見てるだけで死にそう
407日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:30:25.61
>>398
現在は「現時点」。
1分前でも過去であり、現在ではない。
現代は近代の次の時代区分。
戦後を指すことが多いが、もっと長くみる立場もある。 408日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:30:34.84
>>89
>倭人伝は東と南を取り違えてるから <
取り違えていない。「南→東」は嘘つきダマシ。
>しかも狗奴国があるのは邪馬台国の南ではなく、邪馬台国の属国後半30ヵ国の南<
邪馬台国本部=九州
属国後半30ヵ国=瀬戸内海、北部近畿<
属国後半30ヵ国が瀬戸内海北部近畿とは書かれていないし、
倭人伝は、別に、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
として、
「30ヵ国」と「東渡海の倭種」とを書き分けているから、
「属国後半30ヵ国=瀬戸内海北部近畿」にはならない。
>狗奴国=畿内<
だからこれも×。 409日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:31:31.95
410日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:31:43.66
411日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:32:35.26
>>408
じゃあ邪馬台国はどこだと思うんだお前は 412日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:32:49.35
413日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:33:27.45
414日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:33:52.85
岡上って言えば反論したことになるらしいな畿内説はw
学問でもなんでもないなw
415日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:34:52.37
416キウス ◆PyuQX798ps 2017/09/28(木) 19:34:54.59
ベニバナでまだ盛りあがってるのですね
すでに論破されてるから、飽きましたよ ベニバナ花粉は畿内説の根拠にならないのでしょ
▲も方位も距離も絹も鉄も矛も高床式住居も投馬国5万戸の比定地も・・・
阿波説が畿内説より行程を除けば厄介です
畿内説のスレですの阿波説との論戦は回避しますが・・・
417日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:36:24.98
>>95
>瀬戸内海だよ 伊予国とか播磨国とかまんまじゃん<
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
として、
「30ヵ国」と「東渡海の倭種」とを書き分けているから、
「30ヵ国=瀬戸内海や伊予や播磨」にはならない。 418日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:36:29.24
419日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:37:23.01
420日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:38:08.74
421日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:39:12.82
>>416
>▲も方位も距離も絹も鉄も矛も高床式住居も投馬国5万戸の比定地も・・・
それが、何?
いままで岡上が論破され続けてきた恥の歴史? 422日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:39:14.50
>>420
倭人伝には出てこないよ
非邪馬台国勢力が総花的に築き上げたのが畿内の都なんだから 423ここまでのMVP2017/09/28(木) 19:40:28.53
変更なし
「畿内説は学より銭」と言った人
424日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:40:49.33
>>420
こないと主張した馬鹿の根拠提示待ち中だよ。 425日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:42:30.23
>>407
現在我が国では〇〇が問題となっております
この文だと1分前でも過去であり、現在ではない?
100分だろうが1年前でも現在だろ
いい加減なこと書くな。 426日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:43:15.07
427日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:43:53.34
>>96
>讃岐国もあるし 瀬戸内海航路の両沿岸国を順番に書いてる <
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
として、
「30ヵ国」と「東渡海の倭種」とを書き分けているから、
「30ヵ国=瀬戸内海や讃岐」にはならないし、
「其餘旁國遠絶、不可得詳」で挙げられた21国は、
「名前の類似」だけでは、比定の証拠には全くならない。 428日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:44:00.66
>>419
論破されても自分が論破したと思い込む畿内脳。 429日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:44:44.84
430日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:44:49.79
哀れじゃ畿内説哀れじゃ
突っ込みどころがなく、どうでもいい「先人」に突っ込む
哀れよのう〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
431日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:45:03.19
432日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:45:06.97
433日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:45:37.89
全戦全敗の畿内説
434日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:46:19.84
435日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:46:25.06
436日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:47:44.07
437日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:48:41.39
>>435
現在の意味について教えてあげたんだよ。 438日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:48:52.23
>>385
で?
畿内説だと一里は何メートル?
帯方郡から女王の都まで一万二千里だけど? 439日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:49:25.36
>>425
一年前が現在なワケなかろ
マヂお前の日本語おかしいわ 440日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:50:00.40
結局、世有には代々の用例が無いことが判明したな。
441日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:50:11.67
>>395
イミフ
わけのわからんことを言い立ててケムにまく詐欺師
それが畿内厨 442日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:50:40.56
443日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:50:42.24
444日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:51:57.99
>>422
中国から目の届かない、筑紫の文化文明の恩恵もない、そんな片田舎のアウトローたちの吹き溜まり、それが纒向 445日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:53:04.65
>>440
倭人伝の「世有王」・・・(伊都国には)魏の世には王がいた
は正しかったな。 446日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:55:25.01
447日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:55:44.30
岡上家、世有ちょんぼ
448日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:55:49.09
449日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:57:18.91
450日本@名無史さん2017/09/28(木) 19:58:13.16
今でも一瞬の今と何年間かでも今の場合もあるからな。
元々が今とあるんだから現在の意味を論じても意味は無いんだけどね。
451日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:00:00.33
自分の考えに反する意見は嘘?
頭の老化した老人だな。
452日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:00:04.74
魏志倭人伝に倭地には、100余国あると書いてある。
また卑弥呼を王として共立した国々は30ヶ国とも書いてある。
当時の日本列島は、統一までに程遠い状況なのが分かる。
言い換えると、女王国の周辺は敵対勢力、中立勢力だらけということ。統一国家へ向けての極々初期段階だということ。
卑弥呼を共立した30ヶ国の領地が連続している可能性の方が低いだろう。
飛び地状の可能性の方が高い。
また女王国の傍国として列挙されている国々。
奴国の例を見るに女王国の境界に接した外の国々だろうね。
453日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:01:02.50
>>450
英語で言う「then」だよな
比較的長い期間に対して「そのとき」っていうこともある 454日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:02:26.24
岡上「わたしは現在髪の毛フサフサです。」
会ってる人「うそつけ、ハゲてる。」
岡上「一年前フサフサです。」
一同「サギやんか!」
455日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:05:11.54
>>445
魏の、は不要
世 は その世 そのとき 456日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:07:04.03
>>450
だから「今」には現在という意味もあれば、現代という意味もあると言ってるのに。
現代という時間区分の中に、代々という時間幅が含まれて
何の問題もない。 457日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:07:46.55
458日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:08:54.80
>>457
いや違うよ
倭人伝の倭についての記述なんだから
「魏の使者が倭を訪れたとき」
が正解 459日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:09:10.55
>>455
世に時間の縛りは無いよ
空間の概念だもの 460日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:11:33.86
>>100
>伊都国には「王」「官」「一大卒」と三種の権力があって 支配構造がわからないよな<
倭人伝の記載からすると、魏使らや陳寿の認識は、
共立女王の都や邪馬壹國以外では、伊都国は、
「郡使往來常所駐」であり、
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」として、
共立女王國の、玄関や、郊迎や、共立諸国の軍事的支配の一大率の拠点、などの国だとした認識を持っていたようであり、
女王の都のある邪馬壹國とは場所は違っているが、同じ首都圏的な地域である、
と認識されていた、と思われる。 461日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:12:52.57
>>456
この場合の今は魏の時代ですよ
魏の時代、貴方がたの先人は世に冠を付ける身分にある
代々なんて期間がない。 462日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:14:16.00
>>460
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王に付いての説明文であり、主語が書かれてない場合、主語は女王国か女王である。
主語が女王国や女王と異なる場合は主語を読み手に知らせる為に「諸國畏憚之」のように明記されている。
痛説では「常治伊都國」の主語は一大率とされるが「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語は女王である。
また、一大率は自女王國以北に置かれているので同時に伊都國に常駐して諸国を治めることは不可能であるし、一大率の職務も檢察の諸國であり国を治めることではない。
「常治伊都國」は「女王が伊都国で常に治めていた。」の意味になるのである、では何処の国を治めているのか、伊都国で治められる対象の国は文の初めに書かれている自女王國以北の諸国である。
女王は一大率を使い自女王國以北の諸国を治めていた、つまり「常治伊都國」は「(女王が)伊都国で(一大率を使い自女王国の北側の諸国を)常に治めていた。」の意味となる。
注)主語の女王と()内が省略されている。
各文の意味は
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国である。
「檢察諸國 諸國畏憚之」・・・一大率は諸国を検察し、諸国は一大率を畏れ憚っている。
「常治伊都国」・・・(女王が)伊都国で(一大率を使い自女王国の北側の諸国を)常に治めていた。
「於國中有如刺史」・・・刺史とは各地の行政機関内(各州内)に常駐している監察官のことで、意味は「これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ。」となる。
以上を纏めると
「女王国の北側の諸国には、(女王が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王が)伊都国で(一大率を使い自女王国の北側の諸国を)常に治めていた。
この様子は魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ。」の意味となる。 463日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:14:38.43
>>459
世代の意味があるから一生という単位はあるけどね
代々続けば無限になる 464日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:15:59.89
465日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:16:58.74
466日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:17:13.65
「皆」だから「魏の使者が倭を訪れたとき」 ではおかしいだろ
467日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:18:34.69
>>116
>>九州に強国があることは畿内説の破綻の理由になる <
>九州に強国なし<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の、
(倭国の)附庸国の、旧小国でしかなかったんだよ。 468日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:18:39.07
>>459
世とはある一定の空間と時間
空間と時間は切り離せない概念で
単独では成立しない。 469日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:18:46.70
>>462
なら「於國中有如刺史」の主語は何なんだ?
????????? 470日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:20:24.41
>>463
代々も有限でしょう
無限に続く代々なんて無い。 471日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:20:59.17
批判を無視して岡上が、トンデモ読みをただ言い張ります。
472日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:21:19.92
473日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:21:36.60
>>118
>畿内にいる女王が派遣してきた一大率が伊都国を牛耳っちゃってるって畿内説の主張<
「南≠東」だから、「畿内にいる女王」が×。 474日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:23:25.40
>>469
女王卑弥呼が伊都国で一大率を使って自女王国以北を治めている様子が「於國中有如刺史」 475日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:23:45.25
都合の悪い反論は無視
ただ言い張り続ける岡上
476日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:24:22.75
477日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:24:57.37
478日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:25:00.53
>>474
誤魔化してないで
「於國中有如刺史」
の主語は何? 479日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:25:15.84
これだな
480日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:25:56.54
481日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:26:00.66
482日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:26:35.77
>>121
>それは九州が畿内の影響を受けてるって事実で論破されてるよ。 483日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:27:46.16
>>476
in the world の意味になるね。 484日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:28:46.21
伊都國には代が続かなかった王がいたが皆女王国に従属した
一代こっきり国であった
485日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:29:45.81
>>478
〇〇は××のようだ
「女王卑弥呼が伊都国で一大率を使って自女王国以北を治めている様子」は 486日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:30:45.45
487日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:33:16.06
>>121
>それは九州が畿内の影響を受けてるって事実で論破されてるよ。<
文献的には、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の附庸国の旧小国であったから、
考古的にも、
九州が大和に(伝搬や学習模倣などの)影響を与える事はあっても、
大和が九州には、搬入上納をするばかりで、影響を与える事はほぼないよ。 488日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:34:03.27
>>485
誤魔化してないで!
「於國中有如刺史」
の主語は何? 489日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:34:36.94
>>483
ならないよw
空間だけで時間が無いとどうなる
でも in the world にならない
in the world でも時間が必要
今の時間を含んでいる。 490日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:35:05.54
>>485
誤魔化してないで!
王柔は漢代に冠つけてないの? 491日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:35:27.35
>>488
「女王卑弥呼が伊都国で一大率を使って自女王国以北を治めている様子」は
何処に問題があると言うの? 492日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:36:18.57
493日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:37:09.77
>>490
王柔は漢代に冠つけてたよ
何を息巻いてるの? 494日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:37:11.48
>>491
だから
「於國中有如刺史」
の主語は何?
答えろよ 495日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:38:24.65
>>493
じゃあ、なんで
魏の治世には冠を付けてたと言い張るんだ? 496日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:40:32.20
また伊都厨か?何十回繰り返してんだ同じことを。
497日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:41:15.04
岡上はアレだから
498日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:41:54.53
>>494
省略すると
女王が一大率を使っているのは 499日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:43:00.06
>>498
それはなんだ?
質問は、主語はなんだ?だぞ 500日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:43:31.44
>>495
王柔は漢代にも冠つけてた
魏の世にも冠を付ける身分にあった 501日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:43:55.48
ごまかし岡上
502日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:44:57.76
>>500
では、「魏の治世に」と限定する理由は? 503日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:46:43.82
>>500
王柔の最終官歴は漢の中郎将だろ?
魏じゃあないぞ。 504日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:48:26.95
505日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:49:50.69
>>494
答は何回も出てるじゃん
何が問題なの? 506日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:50:09.39
>>503
魏は漢から帝位を禅譲されたんだよ
漢の役職は魏でも有効だよ 507日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:50:21.83
508日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:52:16.72
>>505
質問は、主語はなにか?だ
答えは?
「主語は◯◯だ。」と答えないと未回答のままだ 509日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:52:39.00
>>502
冒頭に今とあるし
魏書中の世ですから
魏の世です。 510日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:53:04.24
511日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:53:54.52
512日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:55:44.89
>>506
では、なんで「漢護匈奴中郎将」と記録されてるのか? 513日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:56:49.57
>>508
主語は「常治伊都國」だな。
「常治伊都國」が説明にあるように
(女王が)伊都国で(一大率を使い自女王国の北側の諸国を)常に治めていた
この様子は於國中有如刺史 514日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:57:47.28
>>509
おい、アホ
曹操の少年時代も魏の治世たのか? 515日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:57:50.41
516日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:59:02.06
517日本@名無史さん2017/09/28(木) 20:59:50.34
518日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:00:29.23
519日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:01:05.00
520日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:01:28.81
>>508
常治伊都國 於國中有如刺
主語は 常治伊都國 なんじゃないの。
常に伊都国を治むること、国中に於ける刺史の如し。
でも前文を受けて主語は、一大率という通説でなんの問題もない。 521日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:01:42.13
>>517
さあ?「漢護匈奴中郎将」だからしてないんじゃないの。 522日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:02:42.57
523日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:03:39.19
>>518
つまり
>魏書中の世ですから
>魏の世です。
ってウソか 524日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:04:24.46
>>520
×常に伊都国を治むること、国中に於ける刺史の如し。
〇常に伊都国で治むること、国中に於ける刺史の如し。
基本的な漢文の翻訳ですよ 525日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:04:29.41
526日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:05:15.19
527日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:05:17.95
528日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:05:54.77
529日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:06:24.12
530日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:07:03.61
>>524
それは翻訳といわんよ
書き下しという。しかも間違ってるし。 531日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:07:28.37
>>460
「於國中有如刺史」
の主語は何?
答えろよ 532日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:10:19.73
533日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:13:16.43
534日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:13:31.01
535日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:15:12.79
536日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:16:04.56
主語は一大率だろうなあ。
一大率は普段は伊都にあった。
そして伊都とその北にある対馬海峡を支配したんだ。
これが「自女王国以北」のこと。
つまり、女王国とは伊都国のこと。
537日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:16:37.91
538日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:16:55.23
>>180
理由もなく「南→東」の嘘つきダマシをするのが大和説。
終わってるよな。 539日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:18:37.87
女王国は伊都国(倭奴国)と奴国のこと。
倭国とは対馬海峡を中心とする国。
邪馬台国は九州北部すなわち筑紫。
女王国とは記紀の神代の巻の倭国の都、筑紫の日向。
卑弥呼の墓は伊都国の平原遺跡。
540岡上 ◆JN/67qb8kM 2017/09/28(木) 21:18:44.54
まだやってるの?、世有の読み。
結論は、「世有と読んでも、世(世)有どっちで読んでもいい」でしょ。
541日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:19:17.12
>>526
「世有亂人而無亂法」
魏の治世じゃないよね? 542日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:19:54.49
>>536
一大率は自女王国以北の諸国に置かれたと明記され
同時に伊都国に常駐することは不可能なんですけどね
話が無茶苦茶ですね。 543日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:20:30.49
>>540
どちらに読もうと「代々」という意味だからね。 544日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:21:37.46
>>541
違いますね、一般論ですね
これは決まった用語を書き込んでるだけですから 545日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:21:40.91
自と以と、しつこいくらいに伊都国(女王国)を含むことを念を押していますね。
陳寿という人物は石橋を叩いて渡るような性格だったようです。
546日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:22:22.73
547日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:22:41.11
伊都国も奴国も不彌国も戸数道里が略載されてるから自女王国以北
548日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:22:41.60
>>540
同意する。
どっちの訳だろうが、女王が伊都にいたことにかわりはない。 549日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:23:18.85
550日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:23:42.30
>>542
一大率は自女王国以北の諸国に置かれたと
どこに明記されてる? 551日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:23:57.20
>>540
要はこの世は当時の時代(魏の世)を指してるってことですね。 552日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:24:29.58
日中どちらの史書も、筑紫の日向の伊都を都としているのだから、議論の余地などないように思えるよ。
553日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:25:01.14
>>550
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 554日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:25:16.51
>>544
何を言ってるか意味がわからない
世有が時代に縛られない実例だろう 555日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:26:22.13
556日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:26:43.67
陳寿はくど過ぎて、言い換えがかえって誤解を与えた部分があるので、石橋を叩いて壊しかけたかもしれない。
女王=卑弥呼=伊都の王
女王国=伊都国
がかえってわかりにくくなった。
557日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:27:06.71
558岡上 ◆JN/67qb8kM 2017/09/28(木) 21:27:08.97
前々スレ当たりで藤堂先生の読みが示されていましたが、
世有を代々と読んだところで、皆が周辺国を指すと考えることができる以上、
どっちにしろ伊都国説の読みとと考古学事実は合致したままです。
a .伊都国には代々王がおり、皆(周りの国)は、女王国に統属していた。
b. 伊都国には、(女)王がおり、皆(周りの国)は、女王国に統属していた。
「皆」が「代々の王」を指しているというのなら、話は別ですけど。
もし。そういう読みを畿内説側がするなら、纏向の示す考古学的事実とは非合致的ですね。
559日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:27:40.38
>>555
どちらもその経路に出発地を含むことを意味する文字です。 560日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:27:50.18
>>554
そこは引用文です
決まり文句ですから例外です。 561日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:27:53.01
>>551
という理由がない
そう訳した人もいない 562日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:28:08.97
>>520
>常に伊都国を治むること、国中に於ける刺史の如し。
訂正。
常に伊都国を治めせしむこと、国中に於ける刺史の如し。 563日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:28:54.59
>>553
一大率は自女王国以北の諸国に置かれたと
書かれてないな 564日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:30:09.47
女王の直属部隊が伊都にいて、周りから恐れはばかられていたんでしょ?
伊都が都だ。
565日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:30:09.65
>>559
漢文に疎い人に言っても通じませんよ
多分変な文句言うと思う。 566日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:31:03.79
>>558
無いでしょ、一致してる考古学的事実とか。 567日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:31:34.81
>>562
×伊都国を
〇伊都国で
君は漢文読めないのねw 568日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:31:37.38
569日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:31:43.97
ちょつと前まで、バスや列車の表示にも、自東京至大阪とか書いてあったものだけれど、ゆとり世代にはもはや通じないと。
570日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:33:18.73
>>567
書き下しでデと言いたい場合は
その用途の字が入る。
ここにはその字がないからデとは書き下せない。 571日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:33:18.82
572日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:34:14.70
倭国(阿波)では、鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
伊都国に代々王がいようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。
延々と無意味な論争は時間の無駄。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波
573日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:35:05.51
伊都の一大率が女王国以北を治めたなら、その範囲に伊都と女王国が含まれるのは論理的にわかること。
女王国が伊都より東、特に畿内なら、魏志倭人伝の文章は論理が破綻してしまう。
つまり、畿内説を仮定すると矛盾だらけであり、九州説を仮定すると合理的になる。
574日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:35:15.87
>>556
女王=卑弥呼=伊都の王
女王国の都=伊都国
女王国=北部九州 575日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:36:41.11
576日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:37:36.84
>>558
藤堂版の読みは一大率が伊都国に駐屯して諸国を検察してるんだけどね 577日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:37:44.54
>>553
この文読んで一大率が伊都国にいたと言う奴は頭おかしい。 578日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:38:36.78
>>558
>もし。そういう読みを畿内説側がするなら、纏向の示す考古学的事実とは非合致的ですね。
どこが非合致的なの? 579日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:39:21.51
女王国以北には女王国は含まれない
580日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:40:35.10
>>574
倭国(阿波)では、鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
伊都国に代々王がいようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。
延々と無意味な論争は時間の無駄。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 581日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:41:39.00
>>558
藤堂の読みは、伊都国も女王国に統治されている、というものだが。 582日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:42:08.84
583日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:42:23.91
>>579
義務教育からやり直したら?
今ならゆとりじゃない教育を受けられるよ。 584日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:42:43.19
585日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:43:37.33
>>579
>女王国以北には女王国は含まれない
自女王国以北では女王国は含まれる 586日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:43:46.86
>>564
遠隔地の伊都に派遣したんだよ
伊都は都じゃない 587日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:46:01.96
588日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:47:13.52
中国の感覚だと、一つの国邑、城砦が一つの国なのに、倭国は博多を中心に境界なく住居がどこまでも広がっていて、その認識の揺らぎが文章にも反映されたのかもしれない。
何れにしても、筑紫の倭国を東夷とはいえ強国として認識して、金印を与えることになったのだろう。
589日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:47:37.27
>>573
畿内説はもともと方位が間違ってるって説なんだけど 590日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:48:01.14
>>586
遠隔地だなんて書いてない。
伊「都」と書いてある。 591日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:48:31.32
592日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:48:41.54
593日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:48:47.02
>>576, 581
藤堂先生が「皆」を「周辺国」とよんだ という事実は変わりませんね。
>>566
平原王墓を女王墓と考えるのだから、当然合致してますね。
>>578
前も書きましたが、共立によって時代的に誕生した国(纏向)が、
それより歴史の古い国の王を代々統属させていた、というのは矛盾ですね。 594日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:48:59.49
後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
595岡上 ◆JN/67qb8kM 2017/09/28(木) 21:49:22.25
596日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:49:44.38
>>583
理由を説明できないで罵る人は議論に負けた人 597日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:50:47.90
598日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:50:51.22
畿内説って、魏志倭人伝が間違っているという前提なのね。
ならばどんなことも言えるよね。
架空の国を作り上げることも容易いね。
すべて妄想だもんね。
じゃあ、邪馬台国でなくてもいいんじゃない?
599日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:51:32.30
>>596
理由を説明している文章にそれを言うのは、理解力が追いついていないんですね。 600日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:51:44.65
>>593
藤堂は、伊都国を含む周辺国と読んでるんだけど? 601日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:51:58.64
602日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:52:44.63
>>593
共立によって時代的に誕生した国(纏向)が、
それより歴史の古い国の王を代々統属させていた、というと、
何が何と矛盾するの? 603日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:52:50.62
畿内説って、小学生が書き込んでいるのか?
明らかに義務教育の内容を理解してないぞ。
604日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:54:26.44
605日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:54:33.88
606日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:54:43.54
607岡上 ◆JN/67qb8kM 2017/09/28(木) 21:54:45.19
>>578
前も書きましたが、共立によって時代的に新しく誕生した国(纏向)が、
それより歴史の古い国の王を代々統属させていた、というのは矛盾ですね。
↑訂正
魏志の読みのこの件に関する限り、伊都国説のほうが、有利かなぁと思いますよ。
この件に関する限りですよ。新鮮な読みを教えてもらって感謝しています。
ま、私は投馬国は出雲国論者ですので、旅程の読みをしっかり提示できない限りは、
伊都国説に完全に鞍替えすることはありませんが。 608日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:54:59.34
609日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:55:50.62
>>605
だったら、小学生以下の疑問文はやめてもらえませんかね。
さて、小学生以下に小学生は含むでしょうか? 610日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:57:58.62
>>604
なぜ纒向が古い国になってしまうの?
理由は? 611日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:58:36.56
>>224
おや?、また、和田キヨエをたぶらかして小便着色瓶でっち上げの、
皇国史観キョクウの偽書説派の・・・・が、出て来たようだねえ。 612日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:58:59.24
613日本@名無史さん2017/09/28(木) 21:59:26.11
>>607
なぜ
共立によって時代的に新しく誕生した国(纏向)が、
それより歴史の古い国の王を代々統属させていると
矛盾なの?
理由は? 614日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:04:12.12
615日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:04:56.55
>>585
自女王国以北は女王国の境界から北
女王国は含まれない 616日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:05:13.99
なぜ矛盾すると思うの?
誰も理由が説明できない
617岡上 ◆JN/67qb8kM 2017/09/28(木) 22:05:30.41
>>613
下の比喩で理解してくださいね。
「イギリスが代々、アメリカ合衆国に代々総属していた」なんて、論理的にあり得ませんね。
アメリカは、イギリスより歴史が浅いからです。
テンプレ的な畿内説によると纏向は共立によってできた国なんですから、
それより伊都国古い伊都国が代々統属することはできない。
わかりますよね? 618日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:09:39.15
イギリスがアメリカに従属したことは一度もない
例がおかしい
619日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:11:19.17
>>617
> 「イギリスが代々、アメリカ合衆国に代々総属していた」なんて、論理的にあり得ませんね。
論理的にあり得る
現在、イギリスはアメリカ合衆国に代々統属されている 620岡上 ◆JN/67qb8kM 2017/09/28(木) 22:12:28.28
>> 618, 619
まずはお二人で意見を調整なさっては?(笑)
621日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:15:33.74
>>619
www
無理がある言い訳だなあ相変わらず畿内説は 622日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:16:04.65
伊都国王統が女王共立以前から代々継続している根拠はない
623日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:16:46.73
じゃあ「代々」と訳すのは間違いだな
624日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:17:22.35
>>617
全く理解できない
そもそも現実ににUSAに統屬したことのないGBを例に出すことがおかしい 625日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:17:22.56
畿内説は逃げと無理な言い訳ばっかだな
終了
626日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:17:24.10
627日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:18:03.41
女王共立以降に従属しても代々になる
628日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:18:32.67
629日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:19:56.37
平原にしがみつきたいのはわかるけど伊都国は伊都国、邪馬台国は邪馬台国だからな
伊都国が邪馬台国だなんて無茶読みしすぎ
630日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:20:23.88
631日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:20:44.44
>女王共立以降に従属しても代々になる
>>619も同じ意見 632日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:22:13.85
「統属」と言うのをやめて、現実的に「国際政治でイニシアティヴを取られている」と言い換えるなら問題ない
英国は米国よりずっと古い国だが
戦後ずっと米国の後塵を拝している
代々といって過言でない
633日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:22:19.70
634日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:22:39.99
635岡上 ◆JN/67qb8kM 2017/09/28(木) 22:22:44.53
>>627
ま、魏志の読みの論理的な可能性としてはそうは言えますね。
「共立」から「魏志の時代」という短い機関に伊都国に王が何世代もいたという
考古学的な根拠が全くなく、苦しいですが。
それよりも女王国に周辺の国々が統属されていた、と考えるほうが
スマートに感じますけどね。 636日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:23:33.04
637日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:24:09.21
>>632
今の米国の大統領が女だとして
「イギリスは代々女大統領国にイニシアチブを握られている」という文章は成立してると思う? 638日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:24:17.53
畿内説はみんな意見が一致してるようだね
今度は岡上に「矛盾する」と言う理由を聞こうか
639日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:24:49.54
640日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:25:48.73
「伊都国は女王共立以降に代々従属していた」で決定!
641日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:25:55.80
倭の女王とは別に伊都国には王がいるけれども、女王国に従属しているから
特に書いているんだろ
642日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:25:55.81
>>637
それだとアメリカが昔から女の大統領を頂く国みたいだな 643日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:26:58.95
>>635
どこも苦しくない
倭国乱があって、平原1号と2号がある
そのあと箸墓
となれば卑弥呼の治世に伊都国の王は三代替わったことになる
考古学的な痕跡とよく一致している 644日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:27:18.97
645日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:27:27.59
646日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:27:58.72
647日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:29:41.37
>>637
四選できない米大統領に例えるのがおかしい 648日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:30:13.49
649日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:30:34.10
650日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:33:26.29
「伊都国は女王共立以降に代々従属していた」で決定!
さあ、岡上の反論は?
651日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:33:58.34
岡上と全く同じ主張をしてる人間がもう一人いて
なぜか二人とも自分の主張の理由を全く説明できない
これ、何を意味するんんでしょうねえ
652日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:36:21.24
653日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:36:49.12
さっきうっかり名無しで書き込んだのを白状してたじゃんw
654日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:37:54.11
千戸の伊都国王が廃されてないということは、倭人ではなくて
半島にバックグラウンドがあるんだろうな
655日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:38:03.40
656日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:39:28.61
岡上、もう寝たんか?
657日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:41:11.82
658日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:41:14.30
659日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:43:02.82
キウスも岡上も自演大好き
660日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:43:29.30
>>654
それはありうる
イトデは渡来系だし伊都の支石墓文化は咸安あたりから来てる 661日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:44:13.33
662日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:44:21.11
今日も岡上、泣き寝入り
663岡上 ◆JN/67qb8kM 2017/09/28(木) 22:46:07.01
>>656
そろそろ寝ます。明日も仕事ですから。
>>「伊都国は女王共立以降に代々従属していた」で決定!
>>さあ、岡上の反論は?
反論もなにも、その読みに主張に合致的な考古学的な事実を示してもらわないと。
魏志の解釈と考古学的事実の「突合」が重要なんでしょ?
さっさと「伊都国は女王共立以降に代々従属していた」考古学的事実を示してくださいね。
もう落ちますので 664日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:47:19.83
こないだ矛盾するって言い張って、理由聞かれて逃げ出して
ずっと考えてた反撃が英米って
まるでコント
w
665日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:48:18.47
>>663
相手の反論読みもせず逃亡かよ
どこまで恥知らずなの 666日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:49:45.54
667岡上 ◆JN/67qb8kM 2017/09/28(木) 22:49:54.49
逆に、「伊都国の女王に周辺国が統属していた」という読みに適合的な考古学的な証拠は、
平原王墓という素晴らしい考古学的発見がありますからね。
さっさと「伊都国は女王共立以降に代々従属していた」考古学的事実を示してくださいね。
668日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:50:54.76
考古学界でまったく相手にされてない「考古学的事実」w
平気で嘘をつく人間に学問をする資格はないぞ
669日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:51:46.49
>>663
>さっさと「伊都国は女王共立以降に代々従属していた」考古学的事実を示してくださいね。
それ、無茶振りでんがな 代々従属していた考古学的事実てwww 670日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:52:33.14
671岡上 ◆JN/67qb8kM 2017/09/28(木) 22:52:49.03
>>668
>考古学界でまったく相手にされてない「考古学的事実」w
はい、嘘はいけませんね。
平原王墓を無視しているのは、畿内厨だけ、もしくはそのケのある考古学者だけです。 672岡上 ◆JN/67qb8kM 2017/09/28(木) 22:54:50.63
>>643 を無視しなければいいのですか?
じゃあ書きますよ
倭国乱後の平原1号墓が、畿内に統属されていた考古学的根拠を示してください。 673日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:55:08.58
伊都国は王家だけは倭人の血が入っていると思うけどね。
天孫降臨の逸話。1世紀、三雲南小路遺跡に突然方形周溝墓が出現するしね。
合わせたら、畿内の倭国から婿入りがあったんじゃないかな。
674日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:55:29.89
>>669
しかも
「その読みに主張に合致的な考古学的な事実」が
さりげなく
「伊都国は女王共立以降に代々従属していた」考古学的事実
にグレードアップしてる件について
675日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:55:50.31
平原王墓は何も北部九州に影響を与えてない
規模は小さいが持物だけ贅沢な華僑のような王だろう
676日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:56:37.79
>>672
「その読みに主張に合致的な考古学的な事実」といってたくせに
さすが三国一の卑怯者だな 677日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:56:46.72
>>667
>逆に、「伊都国の女王に周辺国が統属していた」という読みに適合的な考古学的な証拠は、
平原王墓という素晴らしい考古学的発見がありますからね。
平原がいつ王墓に昇格したんだ? 適合的な考古学的な証拠もないのに 678日本@名無史さん2017/09/28(木) 22:58:39.43
>>672
他人にそんな要求するなら、自分が先に
諸国が伊都国に統属していた考古学的根拠を示してください 679日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:01:06.77
平原が王墓という適合的な考古学的な証拠を出せ
680日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:01:55.77
>>672
「その読みに主張に合致的な考古学的な事実」は出たぞ。
そちらの「その読みに主張に合致的な考古学的な事実」を出してもらおうか。 681日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:02:09.13
キウス
682岡上 ◆JN/67qb8kM 2017/09/28(木) 23:02:54.03
>>677
まずは柳田先生の著作でもよんでみたら??寺沢先生でもいいですよ。
>>678
平原一号墓が銅鏡を独占してますからね。
当時、地域に比類なき権力をもっていた証拠にはなるとおもいますよ。 683日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:03:13.21
岡上よ もっと足元 固めてから戯言いえ
684岡上 ◆JN/67qb8kM 2017/09/28(木) 23:04:38.49
>>679
はいどうぞ。
つ「三種の神器」
畿内厨のレベルが低すぎて面白くないのでもう寝ます。 685日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:05:11.63
686日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:05:34.40
>>682
>平原一号墓が銅鏡を独占してますからね。
銅鏡ぐらい、どこにでもあるわい あほか 687日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:06:02.93
銅鏡は自分ばっかり持っててもだめだ
しかも偽物だし
688日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:06:57.85
>>682
自分で作っちゃって自分のものにたんでしょ?
どこが権力なの? 689日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:08:18.46
>>684
>はいどうぞ。
つ「三種の神器」
あほか なら、日本全国、「三種の神器」がごろごろじゃい 690日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:08:30.65
三種の神器って下層兵士が使う刀じゃん
691日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:09:51.32
岡上よ もっと足元 固めてから戯言いえ
692日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:10:02.12
>>684
「三種の神器」って当時けっこう一般的に普及してた組み合わせなんでは?
つまり首長権グッズではあっても王権まで行かない代物 693日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:10:54.24
岡上フルボッコ泣き寝落ち
694日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:11:28.02
今夜も岡上、泣き寝入り
695日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:13:19.79
三種の神器はそれぞれ伊勢、熱田、宮中に祭られている筈ですぞ
墓から出土すると言う事はそれは偽物かレプリカじゃねーか
696日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:14:42.25
岡上:伊都国は邪馬台国だ!倭人伝にそう書いてある!
周囲:それ珍読
岡上:平原遺跡が考古学的証拠だ!
周囲:考古学者は誰もそんな主張してない!時代違うし
岡上:平原には八咫鏡がある!八咫鏡は王権の象徴として継承されてる!
周囲:平原鏡が八咫鏡だとか未確定じゃん…壊されて埋められてて継承されてないし
岡上:平原には鳥居の遺構もある!
周囲:柱穴しか見つかってないのに上部構造を断定するとかワロス
岡上:高祖神社もある!
周囲:延喜式にも載ってない由来不明の神社がどうした?
岡上:金印は細石神社にあったものだ!
周囲:戦後になっていきなり言い出された与太話じゃんか…元禄時代に書かれたとされる神社の縁起には書かれてないぞ
岡上:三雲南小路の甕棺は男女だからニニギとコノハナサクヤだ!細石神社の祭神と一致する!
周囲:細石神社の祭神はコノハナサクヤとイワナガだ!勝手に変えるな!
…何一つ確実な事実に基づいていないお笑い説
697日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:18:09.74
伊都国の問題は、楽浪とのコネに特化して壱岐を除く近隣諸国とのコニュニケーションがどんどん細くなってることじゃない?
とても諸国を治めてた王のいる場所ではない
698日本@名無史さん2017/09/28(木) 23:22:28.26
1曰く
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、
系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。
同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、
基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、
系譜的に平原と断絶している。
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
699日本@名無史さん2017/09/29(金) 00:51:46.55
>>698
すべて都合のいい妄想でしかない
鏡の副葬文化は北部九州で育った文化
その中で、あれだけの鏡を副葬していた平原を無視はできないでしょ
副葬品からみて、平原の人は当時の頂点だね
ホケノでも内行花文鏡の破鏡(断面を磨いた欠片)が主体部に副葬されていた訳だしね
明らかに文化が流入してるよ
北部九州の影響がみられる、ということ
しかし、副葬される鏡の種類や副葬の仕方が違うので、国を介しての間接的な流入?かもね
平原からの直接的な影響ではないでしょう 700日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:02:35.59
そうは言っても、八咫の鏡が天皇位の象徴で、他には八咫の大きさの鏡は平原遺跡にしかないんだよな。
これが倭国王の墓でないとするなら、何をもって倭国王の墓とすればよいのやら。
鏡や玉の総数から言っても、平原遺跡が日本一豪華な墳墓であることは間違いない。
王がいたのなら、伊都が文字通り倭国の都だからね。
701日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:04:21.13
>>692
王より低い身分の墓は三種の神器はないですよ。
三種の神器をもって、王位の証としたんですよ。
あなた、どこの国の人ですか? 702日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:05:12.06
703日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:05:59.69
伊都国は王家だけは倭人の血が入っていると思うけどね。
天孫降臨の逸話。1世紀、三雲南小路遺跡に突然方形周溝墓が出現するしね。
やはり伊都が倭国の都ですね。
704日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:06:59.45
705日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:11:02.97
706日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:11:24.07
707日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:18:02.58
708日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:26:41.88
>>706
その可能性がある
糸島の志摩にも立派な夫婦岩があるしな
伊都&志摩、伊勢&志摩、関係がない訳がないよなぁ 709日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:31:39.75
環頭大刀は日本では古くは高麗剣と呼ばれ、半島では三国時代から高麗初期まで使われ
李成桂もこの剣を使用した
710日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:38:48.17
711日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:46:54.77
712日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:48:26.84
畿内の古い地名の多くが筑紫から移転したものだというし。
鏡文化そのものが筑紫の文化を畿内に移入したものだな。
今でも全国の神社の社には鏡が置かれてご神体とされているのが普通。
神道の起源である伊都から継承されたもの。
713日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:48:53.95
714日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:50:08.45
年が明けると、伊都の時代から継承されて来た卑弥呼の八咫の鏡を継承する儀式があるよ。
715日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:52:17.47
716日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:52:38.36
神社の祝詞の中身をよく読んでご覧。
倭国の初期の王であるイザナギの事績を歌い上げてあるから。
筑紫の日向にあった倭国の歴史を学ぶといい。
717日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:54:25.97
718日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:57:44.28
神社に鏡が多いのは明治28年の法令で「御神体」の様式を制定したんだろ
国家神道だな
719日本@名無史さん2017/09/29(金) 01:59:04.48
いつのまにか
畿内説を探求するスレが
伊都説を探求するスレに変わってしまいましたね
伊都説のスレもあるようですから、そこで議論してもらいたいものです
720日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:00:52.77
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事・罪・穢 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す
721日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:04:07.40
イザナギが矛で手に入れた最初の領土が博多湾の能古島、これが国生みのはじめ。
銅矛文化圏ではない畿内は倭国の外。
イザナギが禊をしたのが福岡市の小戸。これが住吉神社の起源。
筑紫の日向こそ倭国建国の地。
722日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:04:56.11
>>719
纒向も葛城も、魏志倭人伝に出てこないから論じようがない。 723日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:05:35.85
724日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:05:48.37
ああ、摂津住吉も博多住吉から勧請したものですね。
725日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:15:04.77
饅頭屋の本家元祖争いみたいなもんだ
学問と関係ないわ
726日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:15:13.43
727日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:16:47.68
>>725
倭国の定義の問題。
そもそも倭国とは筑紫のこと。
倭国女王である卑弥呼がいたのも当然筑紫。 728日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:17:54.19
住吉大社は『万葉集』では「住吉」のほか「住江」・「墨江」・「清江」・「須美乃江」(スミノエ(スミエ))だろ
博多のとは元々別の神を祭ってたんじゃないかな
729日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:18:35.47
後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
730日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:19:15.27
731日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:19:30.02
筑紫に征服されたからも。
732日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:20:21.75
纏向からベニバナ、バジルの花粉が輸入されたものなら
もっと、大陸色のある品々が発掘されてもいいと思うが無いのは何故?
733日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:21:54.04
伊都国にあたる平原遺跡からは最大の銅鏡である八咫の鏡5枚を含む史上最多の40枚の銅鏡と、太刀と約2000個の玉、鉄器などが出土しており、三種の神器に相当する副葬品(鏡、剣、玉)が揃って出土している。
3世紀で最大の倭国の王位を象徴する八咫の鏡を用いた国家規模の祭祀に倭国の女王である卑弥呼が関わらなかったわけはない。
周囲には鳥居や御柱の跡も残っており、古代神道の形式が整っていたことがわかる。
これは3世紀においてすでに倭国には神道があったことを意味している。
ならば卑弥呼の用いた鬼道とは、中国人から見た神道そのものだったはず。
邪馬壹国は鬼道などの言葉の印象が強いため後進国のように思われがちだが、中国人から見た鬼道とは、神道の儀式を指していたと考えられる。
そして、その祭祀は畿内ではなく伊都で行われていた。
平原遺跡から出土した八咫の鏡の形式である内行花文鏡は、もともと紀元前から博多湾岸では多く出土し、漢の皇帝から王侯に冊封された証である威信材として用いられていたと考えられる。
内行花文鏡の文様は太陽を形取っていることから、天つ神としての太陽信仰の象徴として最適であったと考えられる。
漢の滅亡後に作られた平原遺跡では八咫の鏡を含めほとんどが国産の鏡となっており、漢から下賜された鏡よりも大きな内行花文鏡を完成させることで王権の象徴となったと考えられる。
後世においては、八咫の鏡を継承することが天皇位の証とされ、今日でも伊勢神宮と皇居で1枚ずつ祭られている。
734日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:22:34.88
御免>>732訂正
✖纏向から
○纏向に
735日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:23:43.71
福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
いわゆる高千穂と同じであろう。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。
736日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:24:27.10
須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえないこと。
737日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:25:26.52
倭奴国の王が金印をもらったのは伊都国が反映していた時代であり、後漢書の倭奴国とは魏志倭人伝の伊都国と同じである。
古くから発展し大きな人口を抱えていた奴国すなわち福岡博多に対し、伊都国は倭国大乱の前の後漢の頃に作られた政治と外交のための人工の政治都市であり、人口は少なかった。
平原遺跡の豪華な出土品からわかるように、伊都国は3世紀初頭に最盛期を迎える。
その地を治めた偉大な女王は王権の死後に王権の象徴である周8咫の大型内行花文鏡とともに葬られた。
副葬されなかった鏡は三種の神器として後の天皇家に伝えられた。
糸島平野の東にある高祖山には日向峠やくしふる山などの地名があり、伊都国の王家が八咫の鏡を伝えた日向三代の王家であったと考えられる。
それに続く倭国王であった卑弥呼ももちろん伊都国にいた。
738日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:25:35.94
739日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:26:41.12
【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
記紀神話によれば、八咫鏡は天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下されたという。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていた。
3世紀には平原遺跡に王権の象徴である八咫鏡があったことで、伊都が倭国の王都であったことがわかる。
伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、今も賢所に置かれている。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口に対して、日前は西の出口にあるため、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、伊都平原に5枚で、最低でも9枚は存在していたことになる。
740日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:27:05.07
博多住吉神社に神封36戸が筑前国から充てられた806年には
住吉大社は従一位だからな
博多住吉神社は859年にやっと無位から従五位下に昇叙だから
741日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:27:56.83
742日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:29:20.44
743日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:31:51.46
>>741
璧も内行花文鏡も3世紀前半の九州から出ないよな 744日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:33:02.06
745日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:33:47.65
白村江のときは筑紫の君が捕まったんだよな
746日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:37:51.09
ベニバナもバジルも薬草だからな
周王へ暢草(薬草)を献上した倭人らしい輸入品だな
747日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:38:01.69
下っ端は死地に送られて大変だったな
748日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:43:45.12
白村江のとき筑紫君薩夜麻は将軍にもなってないから飯炊き係か何かだったのかな
749日本@名無史さん2017/09/29(金) 02:54:22.27
FAQ5 海遊録だが、なぜ対馬藩真文役雨森芳洲が江戸まで同道しているのを伏せるのか?
彼は、朝鮮、江戸と何度も往復している 行程に間違いは無いのだが
南➡東になる根拠としては脆弱
また、朝鮮通信使も十数度日本に来ているし、その他でも日朝の交流はあった(釜山に倭館もあり)
もし、方位が誤認であったとしても確率論的に相当低いものを倭人伝に持ち込むのが不思議である
FAQ8
< 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。>
別の方法とは??畿内に邪馬台国あり、纏向が王都という結論からの逆算では?
750日本@名無史さん2017/09/29(金) 03:00:06.86
稀有なものを持ちだし根拠とするには無理がある、海遊録しかり
結論 この猿の死因は木から落ちたものである⇒根拠 猿も木から落ちることもある
推理としては????????????????????????????????
751日本@名無史さん2017/09/29(金) 03:07:48.81
752日本@名無史さん2017/09/29(金) 03:11:47.43
稀有なものを根拠としてないとFAQ8に書いてあるんだろ
猿の例と違うじゃん
753日本@名無史さん2017/09/29(金) 03:17:13.98
>>749
で、実際方位を間違えている証拠がFAQ 5には書いてあるんだが、反論はないの? 754日本@名無史さん2017/09/29(金) 03:20:24.44
>>749-750
一体あなたはテンプレに書いてあることの何に反論してるのかな?
もしかして何にも反論してないんじゃないの?
こういうパターン、さっきも無かったか? 755日本@名無史さん2017/09/29(金) 03:29:17.89
>>699
そう、これよこれ!
>すべて都合のいい妄想でしかない
って、具体的に>>>698の何が妄想だといってるわけ?
だってさあ・・・
>鏡の副葬文化は北部九州で育った文化
>その中で、あれだけの鏡を副葬していた平原を無視はできないでしょ
>副葬品からみて、平原の人は当時の頂点だね
これ、>>698が言ってることと何も関係ないよね?
ただ持論を語ってるだけだ
>ホケノでも内行花文鏡の破鏡(断面を磨いた欠片)が主体部に副葬されていた訳だしね
>明らかに文化が流入してるよ
>北部九州の影響がみられる、ということ
これも、>>698が言ってることと何も関係ないよね?
ただ持論を語ってるだけだ
>しかし、副葬される鏡の種類や副葬の仕方が違うので、国を介しての間接的な流入?かもね
>平原からの直接的な影響ではないでしょう
これに至っては>>698に賛成してるよね?
何も反対していない
むしろ賛成してる
冒頭の一行はナニ?
ただのコケオドシ?
? 756日本@名無史さん2017/09/29(金) 03:52:17.92
>>753
そもそも船は対馬藩が運行しているから、馬鹿な朝鮮人が方角を間違えようとなんの影響も無い
畿内派はなぜかこういう事実からはすぐに目を背けるよね 757日本@名無史さん2017/09/29(金) 03:55:54.06
>>756
船は対馬藩が運行しているって
なんか証拠でもあるの? 758日本@名無史さん2017/09/29(金) 04:05:50.03
朝鮮人に航海技術があったなんて話は聞いたことがない
759日本@名無史さん2017/09/29(金) 04:09:39.82
やつらが事大して自分らを高く見積もろうとして意見ゴリゴリやっても無駄だ
あの辺はせいぜい朝鮮半島西側から山東半島あたりまで漁業があったくらい
そんでまた変なこと言い出すなら今度はそいつらはシナ人だ
やつらの実力なんかすでに測り終えてるわ
760日本@名無史さん2017/09/29(金) 04:12:18.85
こいつこの間、海遊録読んだ読んだってウソついてたのがバレて赤恥書いて逃走した奴じゃない?
どうせ今度も作り話だろう
761日本@名無史さん2017/09/29(金) 05:04:34.48
朝鮮通信使が日本にきた回数は?
方位を明らかに誤認した回数は?
それで間違える確率が出る
762日本@名無史さん2017/09/29(金) 05:16:29.80
>>761
馬鹿だなあ
確率を知らないんだね
方位を明らかに正しく記録した回数を使わなきゃ確率は出ないだろう? 763日本@名無史さん2017/09/29(金) 05:33:26.69
がんばれよ
764日本@名無史さん2017/09/29(金) 05:42:00.52
確率出して何やんの?
765日本@名無史さん2017/09/29(金) 05:43:33.75
>>762
詭弁 日本も朝鮮に何度も行っている。朝鮮通信使にかぎらず何度も朝鮮との往来はあった。
幾度となく間違えていた確証は無い。朝鮮との外交で方位誤認の確率は相当低いとみていい
朝鮮に倭館もあったのです。
常識的に考えて、方位を誤認する確率は相当低い 766日本@名無史さん2017/09/29(金) 06:02:57.94
特に瀬戸内海ルートならば、方位の間違いはあり得ない
テンプレでは投馬国を畿内説では吉備あたりに比定してるが
吉備から大阪までどうやったら南を東と誤認するのかな?
767日本@名無史さん2017/09/29(金) 06:12:30.35
>>765
それじゃ確率を算出できないだろ?
どう計算するの? 768日本@名無史さん2017/09/29(金) 06:22:51.46
要するに最初から確率を計算する気なんかサラサラなくて、確率という言葉がカッコ良さそうだから使ってみただけだ
あるいは口先で人を騙す手口としてやってる
769日本@名無史さん2017/09/29(金) 06:32:01.62
方位を確認する方法(羅針盤等除く)
太陽と影、北極星
地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描く(全周させなくても可)
午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがあるが、
その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となる。
この方法は、古くから『周礼』をはじめとする中国の書物に記され、
簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられている。
770日本@名無史さん2017/09/29(金) 06:33:27.49
嘘つきダマシじゃん九州説
771日本@名無史さん2017/09/29(金) 06:34:40.19
嘘つきダマシは畿内説やね
772日本@名無史さん2017/09/29(金) 06:35:03.24
>>767
具体的な確率は求められないな。
BUT 誤認する可能性が相当低いことはわかる。 773日本@名無史さん2017/09/29(金) 06:38:08.71
おーい
答えてくれよ
特に瀬戸内海ルートならば、方位の間違いはあり得ない
テンプレでは投馬国を畿内説では吉備あたりに比定してるが
吉備から大阪までどうやったら南を東と誤認するのかな?
774日本@名無史さん2017/09/29(金) 06:46:20.75
>>720
>掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事・罪・穢 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。 @阿波 775日本@名無史さん2017/09/29(金) 06:48:11.74
畿内説では短里を否定し
南にいけば、はるか南方の海上に邪馬台国がなってしまうという
ならば、吉備から南に行ったら水行10日もかからず、1日で四国に着いてしまう。
南を東に変えたいが山口から大阪まで南を東と誤認するのは至難の業。太陽は四国方面に見えるから
776日本@名無史さん2017/09/29(金) 06:57:43.72
777日本@名無史さん2017/09/29(金) 06:58:10.36
778日本@名無史さん2017/09/29(金) 06:58:35.29
779日本@名無史さん2017/09/29(金) 07:08:16.50
>>746
ベニバナもバジルも大陸から来たから喜ばれない 780日本@名無史さん2017/09/29(金) 07:14:54.03
>>775
(・_・D フムフム 瀬戸内海を航海してたら南を東に間違えないよな
一手詰め 畿内説可哀そう 781日本@名無史さん2017/09/29(金) 07:29:56.17
このスレを見て九州説やめました
782日本@名無史さん2017/09/29(金) 07:33:58.96
バジルは何に使っていたんだ?
783日本@名無史さん2017/09/29(金) 07:35:28.85
784日本@名無史さん2017/09/29(金) 07:37:22.15
魏志倭人伝が誤りだらけであるとしないと成り立たない畿内説。
そのうち国の名前や女王の名前も誤りだと言い出すんじゃないか?
785日本@名無史さん2017/09/29(金) 07:38:27.03
おや?
ヒミコもトヨもいた…
神武の時代が女王国であった!
(2世紀から4世紀まで)
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
(4世紀初〜前)崇神
786日本@名無史さん2017/09/29(金) 07:39:04.09
海遊録しかりだな、瀬戸内海ルートなら方位の誤認はない
787日本@名無史さん2017/09/29(金) 07:43:25.89
>>781
良い選択だ
畿内説がピンチだから助けてやれ 788日本@名無史さん2017/09/29(金) 07:46:02.33
789日本@名無史さん2017/09/29(金) 07:49:06.00
>>788
おまえこそ「九州王朝説(知恵遅れ)スレ」に帰れ。 790日本@名無史さん2017/09/29(金) 07:52:30.39
白村江で勝っていたら記紀の編纂もなかった。
帝紀・旧辞のままでよかった。
そしてスサノオが帥升であることも隠さなかっただろう。
「はい、昔は王が自ら渡海し朝貢に行きました。
でも今、我々日本は戦争で中華帝国に勝ちました。
凄いでしょ、日本は。」
となってたはず。
ところが白村江で負けた。
戦争で負けるわ、昔スサノオは土下座朝貢してるわ、もう自尊心がボロボロ。
だから時代を大きくずらし帥升、ヒミコ、トヨを隠した。
高天原の場所も葛城であったのにそれをわざと濁した。
そういう事だ。
791日本@名無史さん2017/09/29(金) 07:59:30.71
奈良時代も朝貢してたじゃん。
一行で論破だよw
792日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:05:30.58
793日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:06:51.67
九州説にアホはいかん。
直接的すぎる。
頭の不自由な方と言え。
794日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:11:37.89
記紀は卑弥呼の時代を干支を2運120年ずらしてまで意図的に神功皇后に当てはめている。
ならば神功皇后の時代を元の4世紀後半に戻してやればいい。
ほら卑弥呼が出てくる。
何で探さない?
朝貢年
266年 台与 アマトヨツ
・
238年 卑弥呼 ヒメタタラ
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
795日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:13:05.77
>>231
一体「南→東」の嘘つきダマシ批判から逃げてばかりの大和説が、
何時どこで勝ったの? 。
そんなこと一度でもあったかな?。 796日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:15:07.14
漢方薬は中国の方がうえ
797日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:15:14.73
>>233
あんたらの大和説のトンデモ説は、「南→東」の嘘つきの、
検証うけて否定されたけどね。 798日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:20:06.43
>>244
>九州は丹を言うな 禁句!<
倭人伝に記載の「丹」は、全て九州でOK。 799日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:21:26.29
丹と言えば、平原遺跡。
墓の中に大量に使われていた丹が流出していたので発見された。
800日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:22:41.64
纒向は、大変だな
祭儀もあるし、市馬もあるし、染色工場、織物工場、漢方薬工場、土木作業、
テンプレと離れて行くな
801日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:22:43.50
>>794
>何で探さない?
畿内には倭国の王権の痕跡がないからだよ。 802日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:23:06.56
後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
803日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:23:14.28
>>253
ヤマトセツ者に、理由なんて聞いても無駄 。
どうせ、「南→東」のように、何にもないんだから。 804日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:24:21.96
>>800
そもそも纒向の年代が間違っているのでは?
纒向宮って、記紀では何年だよ? 805日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:27:34.81
>>804
>>794
>記紀は卑弥呼の時代を干支を2運120年ずらしてまで意図的に神功皇后に当てはめている。
よって、纒向宮は4世紀。 806日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:29:09.45
墓穴を掘りまくる畿内説って、もしかして頭が不自由なの?
807日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:29:32.16
>>804
大体三世紀末から4世紀初め。
纒向瑞垣宮=垂仁
纒向日代宮=景行 808日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:30:58.28
>>286
>大量のベニバナ花粉が見つかったのは3世紀中ごろの溝だろ <
大和での、大和説学者の「庄内の年代」比定が、
50〜100年位古くして誤魔化している、
としなければならないんだよ。 809日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:33:15.18
>>296
「南→東」などの嘘つき空想と、現実が区別できてない耄碌大和説学者さん。 810日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:33:50.57
>>601
>畿内には倭国の王権の痕跡がないからだよ。
ごまかすな。
文献から探せと言ってるのだ。
卑弥呼が九州にいた(大笑い)と言うなら文献からヒミコを抽出してみろ。
あ、できないのか文献自体がないのだからwww 811日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:37:02.05
>>307
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説のガキさんらは、
「通説学者説」の宗教中毒ですか?。 812日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:46:27.29
>>331
今日も、
和田キヨエをたぶらかして尿入り一升瓶を大量に旧和田家の室内に残した偽書説大和説信者が、
・・・・バカを晒してるようだな。
「南→東」の嘘つきサギシの皇国史観キョクウのヤマトセツ者は、
バカなことを畿内説スレで喚き散らしていると、
大和に邪馬壹國が表れると思ってる馬鹿だから仕方ない。 813日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:47:57.76
俺「卑弥呼共立の当事国は?」
キナイセツくん「吉備、出雲や瀬戸内の国、伊勢などだよ」
俺「じゃあそれらの国は倭人伝にはなんて書かれてたの?」
キナイセツくん「・・・(頭がパンクして故障)」
www
814日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:49:57.16
卑弥呼を共立した豪族名を言えない九州説www
815日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:50:45.23
>>784
だから邪馬壹国は誤りで邪馬臺国だといってるのだが
何か悪いか? 816日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:52:40.57
>>335
>纒向は巨大な兵の駐屯地であり、祭祀の目的は兵を纏めるため。
巨大古墳などの土木作業は単なる兵の労働が目的。
実際巨大古墳が始まるのは3世紀半ば、纒向のインフラ整備が飽和した時期。<
大和の年代比定が、庄内設定から50年以上古く造作されており、
ホケノで285年以後の被葬者埋葬期にしかならず、
箸墓は4世紀以後にしかならない。 817日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:54:55.15
>>772-773
確率計算はする気がないが確率が低いという
理由もなくありえないと言い張る
それが九州説です 818日本@名無史さん2017/09/29(金) 08:57:03.02
崇神が4世紀前半でほぼ決定。
ならば2世紀末に卑弥呼を共立した人たちは、
崇神の時代にも普通に豪族として存在したであろう。
畿内説ではその豪族名を言える。
中臣、物部、三上、忌部、大伴、久米、倭などなど。
え〜っと、九州説の皆さん(頭の不自由な方)に九州にいたその豪族名を言ってもらおうか。
(以前、蘇我とか秦とか言ってたバカがいたがそれは話にならないと先に言っておく)
819日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:01:03.92
820日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:01:58.55
>中臣、物部、三上、忌部、大伴、久米、倭などなど。
倭人伝にこれらの豪族は出てきましたか?
821日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:04:36.11
>>337
さあ、今日も負けた大和説の・・・・ガキが荒らし始めましたよ。 822日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:06:27.23
>>820
今は倭人伝は関係ない、ごまかすな。
まず九州にいた卑弥呼を共立したその豪族名を言え。 823日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:07:25.61
>>339
「南→東」の嘘つきダマシを伏せて、
根拠なし、と言い張るだけのミジメな・・・・ガキの大和説 。 824日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:07:44.25
>>822
倭人伝と関係ないと認めたのか?
じゃあ畿内説の負けだな 825日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:09:03.64
近畿周辺の地方豪族が総花的に築きたのが巻向だからな
邪馬台国とは関係ない
826日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:11:46.02
>>824
卑弥呼を共立した豪族がいない九州説www 827日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:12:28.02
奈良の狂った老人は、毎日毎日、論破され続けて、嫌にならないのだろうか、、、
828日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:13:37.31
829日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:13:51.02
>>366
>纒向のはじまりは3世紀中葉 御肇國の記念すべき年は247年 <
大和説学者の「大和の庄内」の年代論は、50年位古く設定するダマシをしていた。 830日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:15:40.83
加古川の狂った老人は、毎日毎日、論破され続けて、嫌にならないのだろうか、、、
831日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:15:41.70
>>825
九州は共立に参加できなくて属国になったりしたわけだね 832日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:15:46.04
>>368
>畿内には狗奴国の都があった・・・<
南≠東だから×。 833日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:16:38.94
>>827
狂ってはいても、精神力の強さは別物なのだろうね。。。
いや、狂っているからこそ、ちょっとやそっとじゃ、くじけないのではないのかも、、、 834日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:17:23.41
>>830
他人の話はもう聞こてないさ
終末活動中だもの 835日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:18:03.78
836日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:18:23.75
>>825
>近畿周辺の地方豪族が総花的に築きたのが巻向だからな
違うよ、纏向遺跡を築いたのは瀬戸内防人集団の物部。
崇神が纏向に宮を構えたのはお母さんが物部のイカガノシコメだったから。 837日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:19:09.47
葛城厨に付き合う必要はないよ
838日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:19:42.85
>精神力の強さ
一年中ヒマな事を精神力の強さと言い換えるのかwww
839日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:21:23.86
>>369
>ベニバナは3世紀には渡来していた。 畿内説の広報が足りないだけだ。<
ベニバナの渡来は、
285年頃以後の扶余や東沃沮や楽浪などの流民の、ホケノへの渡来との関係を、
否定する事が困難。 840日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:22:11.57
841日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:24:05.80
>>839
いや、否定なら簡単だ
朝鮮半島でも発見されてない 842日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:26:23.62
843日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:29:05.40
>>800
論理的に言って
テンプレに書いてあることが
テンプレから離れるわけがない 844日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:32:08.31
>>377
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説人種は、
こういう分裂幻覚の妄想が大好きだね。 845日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:33:04.89
加古川の75歳が毎日「285年」とお題目を唱えてるだけ。
846日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:37:08.45
方位が間違ってるわけがない「わけがない」教はお迎え直前の勤行かなんかだろう
理由のないものは無視でいい
847日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:42:00.86
848日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:42:50.81
849日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:43:17.15
キュウシュウセツって本当にバカの集まりだな
読んでてあまりのバカさに呆れる
まだこんな程度の事喚いてるんだな
850日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:45:24.97
>>836
吉備からの東征だな
邪馬台国連合の圧力に負けて勢力を東に移動させた
吉備を中心に非邪馬台国勢力が総花的に築いたのが巻向 851日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:50:29.69
キュウシュウセツの特徴
理由を言う習慣がない
852日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:55:36.03
キュウシュウセツの反論
「ぼくちゃんがりかいできないからぼくちゃんのかちだ」
「ぼくちゃんがしらないことだからぼくちゃんのかちだ」
「ぼくちゃんがみとめないからぼくちゃんのかちだ」
「りゆうはないけどぼくちゃんがおもったんだからぼくちゃんのかちだ」
これがキュウシュウセツのすべて
853日本@名無史さん2017/09/29(金) 09:59:40.99
>>850
>邪馬台国連合の圧力に負けて勢力を東に移動させた
違うよ。
高天原にあった大物主を頂点とする出雲系王朝の力が弱くなり、
軍事クーデターでも起こしてやろうと乗り込んだのだろう。
あるいはヒメ様(ヒミコ)の婿候補にウマシマジや天香久山を押そうとしたのかもしれない。
結果的にヒメ様(ヒミコ)はイワレヒコという日向から来た男を選ぶ。 854日本@名無史さん2017/09/29(金) 10:03:04.06
キュウシュウセツの主張
「ぼくのせつはかのうせいがあるからぜったいただしい」
855日本@名無史さん2017/09/29(金) 10:04:13.12
知識も何もない「ぼくちゃんがおもったから」がキュウシュウセツの中身の全部
だから見てるだけで恥ずかしくなるようなことを平気で延々と喚き散らせる
まぁチンパンジーの醜態見てるのも笑えていいけどなw
856subo2017/09/29(金) 10:07:59.66
857日本@名無史さん2017/09/29(金) 10:09:45.99
男王は中国の皇帝のように後宮に美女3千人を置く。
しかし女王は違う。
数多い男の中から一人の婿を選ぶ。
それが女王の特権だ。
卑弥呼の時代、やはり数多い男がヤマトに集まってきている。
ウマシマジ、天香久山(物部)天富(忌部)天種子(中臣)彦伊賀都(三上)、
そしてイワレヒコとタギシミミ。
これは偶然ではない。
やはりこの時代に女王がいた。
ヒミコとはヒメ踏鞴五十鈴しかいない。
858日本@名無史さん2017/09/29(金) 10:12:02.65
859日本@名無史さん2017/09/29(金) 10:12:04.15
>>818
記紀史観かよw
じゃあ神武東征も史実だな
畿内は九州に征服されたんだな 860日本@名無史さん2017/09/29(金) 10:12:20.04
>>385
>有効数字1桁のデータの平均は有効数字1桁になります <
必ずしもそうはなりません。
元々、有効数字1桁と言っても、
2であれば1.5〜2.5であり、
9であれば8.5〜9.5になるように、
範囲の比率に大小があるものの平均であり、
計測数が多くなれば、平均値の有効範囲が小さくなる可能性も十分にあります。
また、陳寿らは、有効数字1桁計測値の合計として、
「萬二千余里」という有効数字2桁の数値を記載していますから、
その有効範囲は、「萬千五百余〜萬二千五百余」里です。
谷本氏の「76〜77」は、
1寸と千里という計測値と、大地平面近似を地球球面とした場合からの計算値であり、
「76〜77」の5割〜1.5倍の範囲内位の近似値、という事になります。 861日本@名無史さん2017/09/29(金) 10:16:10.88
じゃあ卑弥呼は神功皇后だな
畿内説乙
862日本@名無史さん2017/09/29(金) 10:17:16.56
863日本@名無史さん2017/09/29(金) 10:18:39.80
>>858
>卑弥呼におらんだろ・・婿。
それは歳がすでに長大であった時点での話。
おまえみたいなアホが古代史に興味持つ時点でヒミコがみつからないはずだw 864日本@名無史さん2017/09/29(金) 10:36:16.52
865日本@名無史さん2017/09/29(金) 10:42:30.57
「ぼくちゃんがそうおもう」こと
866日本@名無史さん2017/09/29(金) 10:44:33.35
テンプレのことだな
867日本@名無史さん2017/09/29(金) 10:48:42.39
岡上乙
868日本@名無史さん2017/09/29(金) 10:50:06.79
>>416
>阿波説が畿内説より行程を除けば厄介です
畿内説のスレですの阿波説との論戦は回避しますが・・・<
阿波説も、大和と同じく、「南≠東」に拠って×です。
記紀神話関係情報も、8世紀以後の大和政権に拠る造作である可能性が十分にあるし、
倭国関係情報も、東征毛人55国の例であったんだな、という事で説明が付きます。
ただ、徳島には、(鮮卑とも碧眼紅毛ともされる)紅山遺跡などのY-Nが入って来ており、
それが何時の頃なのか?がはっきりせず、
楽浪の画文帯や、モンゴル〜高句麗の前方後円墳の伝来が、
285年の扶余や東沃沮の「有槨」部族の流民が吉備やホケノへの流入と関係があるのか?、
という事などの情報待ちです。 869日本@名無史さん2017/09/29(金) 10:51:27.98
>>864
みつけるって、何すること?ってどういう事? 870日本@名無史さん2017/09/29(金) 10:53:17.86
「ぼくちゃんがそうおもう」こと
871日本@名無史さん2017/09/29(金) 11:00:58.94
テンプレのことだな
872日本@名無史さん2017/09/29(金) 11:01:36.07
畿内説ボロボロやんw
873日本@名無史さん2017/09/29(金) 11:02:35.04
狂い咲く奈良の老人の妄想が、日本の古代の歴史を歪めようとしているね。。。
でも、ほとんどの日本人は惑わされないのだけれども。。。
874日本@名無史さん2017/09/29(金) 11:10:42.19
>>481
>残り70ケ国が畿内の国だな<
そりゃ無理だ。
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國 」
だから。 875日本@名無史さん2017/09/29(金) 11:14:03.59
スレの8割くらいの書き込みがキュウシュウセツの異常者が張り付いて妄想喚き散らしてるだけで笑える
こいつらは人のスレを荒らすと九州に邪馬台国が湧いてくると思ってる馬鹿だから仕方ないが
アホすぎていつも笑わせてもらってるわ
876日本@名無史さん2017/09/29(金) 11:14:28.91
>>482
>それは九州が畿内の影響を受けてるって事実で論破されてるよ。<
筑紫倭国が、
「「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國 」
したんだよ。 877日本@名無史さん2017/09/29(金) 11:32:25.84
>>875
>キュウシュウセツの異常者が張り付いて
いや張り付いてるこいつ、九州王朝説者だからw
輪をかけてヒドイからw 878日本@名無史さん2017/09/29(金) 11:44:55.35
>>581
>遠隔地の伊都に派遣したんだよ <
魏志に拠れば、伊都国は、
女王の都する所がある邪馬壹國から百里余りであり、
遠隔地ではない。 879日本@名無史さん2017/09/29(金) 11:47:59.41
まともな畿内説論者は寄り付かないからなこんなスレに
880日本@名無史さん2017/09/29(金) 11:48:37.37
>>589
>畿内説はもともと方位が間違ってるって説なんだけど <
魏使らは「方位を殆ど間違えなかった」から、
「南→東」とした大和説は×。 881日本@名無史さん2017/09/29(金) 11:49:12.36
>>880
じゃあお前はどこが邪馬台国だと思うんだ? 882日本@名無史さん2017/09/29(金) 11:51:15.61
>>593
>前も書きましたが、共立によって時代的に誕生した国(纏向)が、<
「南≠東」だから、纏向も×。 883日本@名無史さん2017/09/29(金) 11:57:23.73
>>602
>共立によって時代的に誕生した国(纏向)が、
それより歴史の古い国の王を代々統属させていた、というと、
何が何と矛盾するの?<
纏向が「南」と矛盾するの。 884日本@名無史さん2017/09/29(金) 12:01:10.96
>>607
>ま、私は投馬国は出雲国論者ですので、旅程の読みをしっかり提示できない限りは、
伊都国説に完全に鞍替えすることはありませんが。 <
「南≠東」ですから、「出雲国」も×です。
「旅程の読みをしっかり提示」出来たのは、古田さんだけです。 885日本@名無史さん2017/09/29(金) 12:21:07.92
>>643
>どこも苦しくない 倭国乱があって、平原1号と2号がある そのあと箸墓 <
箸墓は布留だから4世紀。
>となれば卑弥呼の治世に伊都国の王は三代替わったことになる
考古学的な痕跡とよく一致している<
箸墓を卑弥呼の墓とした所が、文献とも考古とも、一致しないし、 886日本@名無史さん2017/09/29(金) 12:21:48.45
>>817
阿保か、一例がすべて支配すると考える脳味噌が、悪い 887日本@名無史さん2017/09/29(金) 12:30:41.19
>>673
>伊都国は王家だけは倭人の血が入っていると思うけどね。
天孫降臨の逸話。1世紀、三雲南小路遺跡に突然方形周溝墓が出現するしね。
合わせたら、畿内の倭国から婿入りがあったんじゃないかな。<
大和の方が、
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国、
という血が入っていたんだよ。 888日本@名無史さん2017/09/29(金) 12:37:18.77
もう、邪馬台国が九州にあったことで決着しているね。。。
あとは、卑弥呼の都がピンポイントで、どこなのか、、、だけだね。。。
889日本@名無史さん2017/09/29(金) 12:38:24.81
卑弥呼の都もピンポイントで判明してるし。
890日本@名無史さん2017/09/29(金) 12:55:16.41
>>814
筑紫天孫族、肥国姫氏、豊国安曇氏、宗方氏など 891日本@名無史さん2017/09/29(金) 12:56:26.16
質問が出ないからFAQが増えないな
まだ936も余白がある
892日本@名無史さん2017/09/29(金) 12:56:33.23
>>818
>ならば2世紀末に卑弥呼を共立した人たちは、
>崇神の時代にも普通に豪族として存在したであろう。
100年以上の隔たりがあるから、根拠が希薄です。 893日本@名無史さん2017/09/29(金) 12:57:35.13
>>836
じゃあ、スレ主の総花的な説明は嘘だな。 894日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:01:17.75
>>857
>数多い男の中から一人の婿を選ぶ。
>それが女王の特権だ。
>ヒミコとはヒメ踏鞴五十鈴しかいない。
数多い女性の中から、神武天皇が
「とりあえずはまあ、あの年長の娘さんにしようか」
と言って選んだのがイスケヨリ姫
古事記より 895日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:02:35.15
筑紫と肥国は民族が違う
最近まで会話ができなかった
896日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:03:28.46
>>861
>じゃあ卑弥呼は神功皇后だな
>畿内説乙
神功皇后と仲哀天皇は、宮が筑紫の香椎宮と穴門の豊浦宮だから、九州北部勢力だね。
これこそ筑紫の倭国王だ。 897日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:04:36.77
>>878
>魏志に拠れば、伊都国は、
>女王の都する所がある邪馬壹國から百里余りであり、
>遠隔地ではない。
7.5キロメートル。
日向峠を越えるのがやったかな。 898日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:06:20.47
>>895
だから、肥国出身の女王は天孫族の歴史書である記紀には記載されなかった。 899日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:13:00.48
>>892
>100年以上の隔たりがあるから、根拠が希薄です。
それは違う。
大きな変革があったのは2世紀末、畿内では土師器と古墳時代が始まる。
九州でも畿内系土師器が流入する。
それ以降は畿内でも九州でも100年の間に文化的断絶はない。
つまり卑弥呼を共立した豪族は普通に存在した。
九州説ではその豪族を説明できない。 900subo2017/09/29(金) 13:14:42.39
901日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:15:12.77
>>894
実際は神武の鴨王朝への婿入り。
その証拠に宮崎に残してきた妻と子をヤマトに呼び寄せていない。
彼が大王ではなかった証拠。 902日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:15:44.99
903日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:16:16.05
伊都国=イツツヒコのいた山口
イツツヒコは漢字で伊都津日子
904日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:16:23.89
>>675
>平原王墓は何も北部九州に影響を与えてない
規模は小さいが持物だけ贅沢な華僑のような王だろう <
誤魔化すな。
21個の「尚方作」の方格規矩鏡を副葬される身分だし、
大量の玉を副葬して貰えた女性なんだから、
広範囲の支配地があった女王、という事にしかならんよ。 905日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:16:54.29
>>903
つまり魏の使者のルートははじめから九州を避けてるんだよな 906日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:17:58.96
>>900
何でいちいち「ない」といけないのだ。
おまえには
>>阿毎氏、姫氏
>両氏族の崇神時代の人物を述べよ。
と質問してたハズだ。
早く答えろ。 907日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:20:56.60
>>677
>>逆に、「伊都国の女王に周辺国が統属していた」という読みに適合的な考古学的な証拠は、
平原王墓という素晴らしい考古学的発見がありますからね。<
>平原がいつ王墓に昇格したんだ?<
大和説考古学者が、発掘して、
21個の「尚方作」の方格規矩鏡を副葬された事を示し、
大量の玉を副葬して貰えた女性である事を示した時点で。
広範囲の支配地があった女王、という 908日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:23:40.69
>>904
平原にはワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳という4〜5世紀の小さな古墳がある。
2世紀の平原墳墓から含め、その程度の小さな一族でしかなかったという事。
間違いなく哀しい防人さんたちの墓。
ここからヒミコを連想するなどとは片腹痛いwww
わかったか加古川の75歳のハゲ。www 909日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:25:25.73
>>687
>(平原)銅鏡は自分ばっかり持っててもだめだ しかも偽物だし <
「偽物」なんて、誰が何を根拠に決めたんだい?。 910日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:33:34.19
>>688
>(平原の鏡)自分で作っちゃって自分のものにたんでしょ?
どこが権力なの?<
何だ?、平原の女性は、
大量の巨大な内行花文鏡や「尚方作」の方格規矩鏡や、大量の玉を、
一人でこっそり造った鏡師兼玉造師だったのだ、
とでもいうのか?。 911日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:34:04.51
>>897
怡土小学校前から日向峠越えて矢倉橋まででで12km超えちゃう。
つまり到底室見川も渡れない。
百里じゃ日向峠を越えるか越えないかだね。 912日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:34:41.95
肥人は何か勘違いしているが、大陸にもっとも近い筑紫の中心地現福岡市に住むような人は
情報感度が高く、いつの時代も国内では中央を向いている
奈良時代までは大和、天皇が御所にいる間は京都、明治以降は東京
隣の肥国と仲間意識などはない
913subo2017/09/29(金) 13:36:47.92
914日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:38:22.34
また、イトコク談義かい
畿内説は、論破されたからか
915日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:38:33.65
>>690
>あほか なら、日本全国、「三種の神器」がごろごろじゃい
>三種の神器って下層兵士が使う刀じゃん <
三種の神器を所持出来るのは、一応最低、天孫族系の阿毎氏などの部族王であった、
という事の印だ。 916日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:42:26.12
>>392
>「三種の神器」って当時けっこう一般的に普及してた組み合わせなんでは?
つまり首長権グッズではあっても王権まで行かない代物<
天孫族系の部族王の印であったのであり、
大和は、それすら満足に持てなかったような「別種の旧小国」であった、
という事の証拠になるものだ。 917日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:46:02.75
>>906
あるかないか聞いてるだけだぞ素直に答えろ 918日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:51:06.13
>>697
>伊都国の問題は、楽浪とのコネに特化して壱岐を除く近隣諸国とのコニュニケーションがどんどん細くなってることじゃない?
とても諸国を治めてた王のいる場所ではない <
伊都国の阿毎氏は、ずっと東海姫氏國の倭国内の権力構造の一角を占め続け、
継体の反乱の後は、倭国王に戻って、タリシホコ、を輩出した位、繁栄した。 919日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:56:01.51
920日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:56:54.36
>>910
あの墓?
金貸しやってシコタマ儲けてたゴウツク婆さんが
厳しい取り立て追い込みで死なせた伊都村の衆の祟りを恐れて
死後にオマジナイをさせた跡だろ 921日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:58:16.81
922日本@名無史さん2017/09/29(金) 13:58:34.48
>>698
>1曰く 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、
系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。
同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、
基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、 系譜的に平原と断絶している。
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう<
ふーん?、これはスレ主の話なのかね?。
いずれにしても、
平原に関与した鏡師と、古墳時代の大和などの内行花文鏡の鏡師とは違う、
という事になるようだな。 923日本@名無史さん2017/09/29(金) 14:00:00.34
>>911
高祖山の高祖宮、後の怡土城しかないな。
筑紫の日向の伊都の高千穂宮だ。
記紀でも神代の都だしな。 924日本@名無史さん2017/09/29(金) 14:00:30.25
>>912
だから肥国出身の卑弥呼が黒歴史なんだよ。 925日本@名無史さん2017/09/29(金) 14:01:42.95
>>922
文章のクセはスレ主だな。
中二病が丸出しだ。 926日本@名無史さん2017/09/29(金) 14:03:10.86
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市の高祖神社が掲げる宮号。
糸島平野と福岡平野の間にある高祖山の南の峰をクシフル山と呼び、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮が記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城は高祖山・クシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられ、平原遺跡からはニニギ王家の家宝である八咫の鏡が出土している。
平原遺跡は卑弥呼がいた3世紀の女王墓であり、卑弥呼が被葬者の最有力候補である。
927日本@名無史さん2017/09/29(金) 14:05:05.95
>>924
肥国出身の女子なんか筑紫では共立されない 928日本@名無史さん2017/09/29(金) 14:18:29.83
>>769
>地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描く(全周させなくても可)
午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがあるが、
その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となる。
この方法は、古くから『周礼』をはじめとする中国の書物に記され、
簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられている。<
成程。周髀算経の方法と似ているが、それよりも少し簡便。 929日本@名無史さん2017/09/29(金) 14:23:03.36
>>770
>嘘つきダマシじゃん九州説<
周礼にも書かれていたんなら、
周髀算経も周礼も読んでいなかったらしい海遊録を「間違い根拠」にした大和説者が、
嘘つきダマシのサギシになってしまうじゃん。 930日本@名無史さん2017/09/29(金) 14:26:41.49
>>775
>畿内説では短里を否定し 南にいけば、はるか南方の海上に邪馬台国がなってしまうという
ならば、吉備から南に行ったら水行10日もかからず、1日で四国に着いてしまう。
南を東に変えたいが山口から大阪まで南を東と誤認するのは至難の業。
太陽は四国方面に見えるから <
成程。 931日本@名無史さん2017/09/29(金) 14:28:40.92
>>922
鏡師は違うが、大型内行花文鏡の文化を受け入れている状態 932日本@名無史さん2017/09/29(金) 14:30:02.74
>>781
>このスレを見て九州説やめました<
このスレを見て大和説を止めない人は、やっぱり、
始めから皇国史観思想の・・・・だったんでしょうね。 933日本@名無史さん2017/09/29(金) 14:33:22.47
>>793
大和説者に・・・・は、やっぱりいかん。
直接的すぎる。
頭の不自由なアホと言え。 934日本@名無史さん2017/09/29(金) 14:42:00.11
>>814
>卑弥呼を共立した豪族名を言えない九州説www <
また、この男、アホを晒したな?。
そんなもの、倭人伝に30か国位の部族国名が書かれているよ。 935日本@名無史さん2017/09/29(金) 14:43:02.41
>>931
平原からの直接的な影響ではないでしょう 936日本@名無史さん2017/09/29(金) 14:47:13.54
>>815
>だから邪馬壹国は誤りで邪馬臺国だといってるのだが 何か悪いか?<
邪馬壹国は、写本版本での間違いの確率はほぼ0%であり、
後代後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國とは違った國の名称になっているんだから、
悪い。 937日本@名無史さん2017/09/29(金) 14:48:09.54
漢の時代成立の周髀算経が何だって?
938日本@名無史さん2017/09/29(金) 14:54:30.96
>>817
>確率計算はする気がないが確率が低いという 理由もなくありえないと言い張る<
大和説者のハイエナという人物の「写本版本での校勘の対象数」からの確率計算は、
もう何度も書いて示してある。
>それが九州説です<
「南→東」などの嘘つきダマシのように、
何事においても「都合の悪い事実や史料実態」を否定曲解する嘘つきダマシをする・・・・サギシ、
それが大和説です。 939日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:04:08.84
>>818
>ならば2世紀末に卑弥呼を共立した人たちは、
崇神の時代にも普通に豪族として存在したであろう。<
「南≠東」だから、大和の崇神は、始めから関係がない。
>畿内説ではその豪族名を言える。 中臣、物部、三上、忌部、大伴、久米、倭などなど。
え〜っと、九州説の皆さん(頭の不自由な方)に九州にいたその豪族名を言ってもらおうか。
(以前、蘇我とか秦とか言ってたバカがいたがそれは話にならないと先に言っておく)<
倭人伝には、30国の共立部族の名称が書かれているし、
卑弥呼の部下の豪族としても、
難升米、都市牛利、伊聲耆、掖邪狗、倭載斯、烏越らの名前が書かれている。 940日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:04:15.25
加古川のような土地に住んでると大和を妬むぐらいしかやることがないが
博多のような古代からの交易都市に住む人はそんな暇はない
941日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:06:23.54
瀬戸内海ルートで
なぜ、方位を間違えるのか皆目わからん。
投馬国まで(あり得ないが)東に向かってるのに南と思いこみ舵を切ったとしよう。
当然間違いに気づくが,(太陽の方角は四国だから)そのまま進む。
ならば、投馬国(岡山当たり)から南に向かうとは到底考えられない。
東に向かうと記述されているはずだ。
南至投馬國水行二十日 ・・・・ここは大目にに見てやることとする・・畿内説への温情
さてさて、南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月・・・・これは温情も出せない
942日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:11:10.57
>>820
>中臣、物部、三上、忌部、大伴、久米、倭などなど。
倭人伝にこれらの豪族は出てきましたか?<
筑紫城の倭奴國の阿毎氏の別種の旧小国の大和への東征、
について行ったり、後から関係した豪族名など、
魏志にとっては、何の関係もない部族名だよ。 943日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:12:01.88
2ヶ月間も方位を間違たままのわけがなかろうが
史書に書かれた時点に決まってるだろ
944日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:14:11.83
945日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:15:52.30
>>826
>卑弥呼を共立した豪族がいない九州説www <
30の共立豪族国家名を言っているのに、知らん振りして、
ssnらは、まるで・・・・そのものだね。 946日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:17:28.84
947日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:19:32.22
948日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:20:32.62
949日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:20:57.39
>>946
誤認でも誤記でもいいのが畿内説
とにかく邪馬台国が畿内にあるように解釈するのが畿内説 950日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:22:13.74
>>831
>九州は共立に参加できなくて属国になったりしたわけだね <
この男は、一体何を言っているのか?も判っていない・・・・かも知れないねえ。
對海國や一大國や末盧國や伊都国や奴國や不彌國や投馬國や邪馬壹國が、共立に参加した事も否定する気、
なんだろうか?。 951日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:26:53.10
南に100mくらい進んで、あとは東へ行ったんだろ
古田説ならそれでいいんだよな
藁
952日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:27:03.01
>>845
ヤマトセツって、本当にバカの集まりだな。
読んでてあまりのバカさに呆れる。
「南→東」などのウソ付きダマシに飽きたらず、
まだこんな程度の事喚いてるんだな。 953日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:29:02.69
954日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:30:05.11
>>850
>吉備からの東征だな・・・<
阿毎氏の神武の東征は、筑紫城の倭奴國から大和州への東征。 955日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:32:29.13
>>851
「南→東」の嘘つきダマシのヤマトセツ者の特徴。
信頼性の高い史料事実を理由にして、言う習慣がない。 956日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:32:48.63
>>851
「南→東」の嘘つきダマシのヤマトセツ者の特徴。
信頼性の高い史料事実を理由にして、言う習慣がない。 957日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:33:53.62
テンプレには悪いが、瀬戸内海ルートを採るなら
方位は誤認じゃなく誤記にした方が良い・・・・どうにもならんがなWwww
958日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:35:00.86
古田説の信頼性って、現代人の書いた偽書であることが必要条件なんだろ?
959日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:37:27.13
960日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:37:49.68
>>852
「南→東」などの嘘つきダマシのヤマトセツの反論 。
「ぼくちゃんがりかいできないからぼくちゃんのかちだ」
「ぼくちゃんがしらないことだからぼくちゃんのかちだ」
「ぼくちゃんがみとめないからぼくちゃんのかちだ」
「皇国史観の文部省や権力学者が言った事だから、りゆうはないけどぼくちゃんのかちだ」
これがヤマトセツ者のすべて。 961日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:41:03.36
>>854
ヤマトセツ者の主張 。
「ぼくのせつは、文部省や偉い先生が言った事だから、ぜったいただしい」。 962日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:43:01.71
>>855
知識も何もない「ぼくちゃんがおもったから」がヤマトセツの中身の全部。
だから見てるだけで恥ずかしくなるようなことを平気で延々と喚き散らせる 。
まぁ・・・・チンパンジーの醜態見てるのも笑えていいけどなw。 963日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:43:31.75
FAQ 5は、申維翰が遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している事実がある
しかしその著書『海游録』では方位について大きく錯誤している記述がある
このように文献は誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである
だからFAQ 8 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した だろ
964日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:45:00.72
魏の使者は太陽は倭国では西の方角にあると思ったんじゃないか?
965日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:49:25.09
>>963
それ当たり前のことだから✖
何度も日本に来ているし、雨森等日本人も同行してるからちゃんと日韓を往復してるのは当たり前
日本海上ならわからんでも無いが
瀬戸内海で方位を誤認していたと思うか? 966日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:53:21.98
>>875
スレの8割くらいの書き込みが、九州説の正確な判断での投稿。
大和説者らは、人のスレを荒らすと、
大和に邪馬壹國が湧いてくると思ってる馬鹿だから仕方ないが
アホすぎていつも笑わせてもらってるわ。 967日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:54:10.78
>>965
瀬戸内海上で方位を誤認したんじゃなくて
著書内で錯誤している 968日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:54:36.26
>>965
瀬戸内海だけでなく、日本海でもダメ太陽は本州にあるから
969日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:56:24.31
>>879
>まともな畿内説論者は寄り付かないからなこんなスレに<
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者に、
まともな人間なんていないんじゃないの?。 970日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:57:39.57
>>967
著書では誤認したのは瀬戸内海じゃないだろ。Wwww
倭人伝で問題になってる方位は北部九州から畿内へ至る方位だろWwwww 971日本@名無史さん2017/09/29(金) 15:59:05.56
>>881
>じゃあお前はどこが邪馬台国だと思うんだ?<
邪馬壹國は、福岡平野中央部〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地域。 972日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:01:44.33
973日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:08:24.96
>>965
雨森はどこから同行してる?
史料読んだ? 974日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:10:48.09
倭人伝の文章は倭国に行った人間が書いた
なんて確証は何もない件について
975日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:12:33.80
行った人間の報告書に基づいているんだろ。
いよいよ畿内説は魏志倭人伝そのものを否定し始めたよ。
976日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:17:05.91
>>899
>それは違う。
大きな変革があったのは2世紀末、畿内では土師器と古墳時代が始まる。<
大和の庄内と古墳は、(筑紫よりの50年位遅れて)、3世紀の第4四半世紀。
>九州でも畿内系土師器が流入する。<
庄内は、三雲が最も古く、3世紀前半だし、
布留も筑紫が先行。
大和から筑紫への搬入は、非常に少なく、河内や播磨から筑紫への搬入上納が殆ど。
>それ以降は畿内でも九州でも100年の間に文化的断絶はない。<
東征毛人55国に拠って、近畿は筑紫の影響や伝搬模倣を受け続けた。
>つまり卑弥呼を共立した豪族は普通に存在した。<
九州に存在した。
>九州説ではその豪族を説明できない。<
30國。 977日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:19:07.90
978日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:20:42.04
わかってないよな
畿内説は方角が違う!なんて当たり前のこと言ってどうすんだよ
方角が違う畿内説 と 距離が違う九州説
どっちもどちらかが違うからこそ謎であり論争になってるんじゃん
979日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:21:01.84
>>975
倭人伝の南の方位が絶対的に正しいと考えるなら
水掛け論になるからこのスレに来る意味がないだろ 980日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:25:32.89
981日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:27:23.16
現に末盧国から見た伊都国の方角は東南じゃないのだからね
982日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:30:55.06
983日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:30:56.18
九州のお爺さんは九州説でいい
九州人の誇りを持って九州説スレで議論しろ
加古川レベルまで落ちるな
底までいくともう人ではなくなる
984日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:32:42.57
>>982
マトモな反論一つできない岡上は結局ただ悪口しか言えないんだな 985日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:36:24.74
岡上といえば反論した気になれるなんて楽なもんだな畿内説はw
986日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:40:22.54
岡上のせいで全国の岡上姓の人達がちょんぼ判定されてしまう
987日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:40:25.22
距離は両方違うダロ
988日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:41:04.89
南→東のもっとまともな説を聞きたい
989日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:45:28.21
>>985
岡上といえば反論になるだろ
実力なき高慢の代名詞だから 990日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:47:34.04
>>988
で、お前は南でどこにもって行きたいの? 991日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:48:06.49
>>989
ザラコクと呼ぶのと、どっちが侮辱レベルが高い? 992日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:48:41.44
993日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:52:50.45
>>991
難しい問題なので二、三日考えさせてくれ 994日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:54:41.66
995日本@名無史さん2017/09/29(金) 16:57:03.19
996日本@名無史さん2017/09/29(金) 17:01:09.58
怠惰な九州説にも負ける大和説ってなんなの
997日本@名無史さん2017/09/29(金) 17:02:38.66
なんなんだろうなw
998日本@名無史さん2017/09/29(金) 17:03:23.61
999日本@名無史さん2017/09/29(金) 17:06:12.15
2次元に3次元が認識できないみたいに
大和説って九州説を認識できてない気がする
1000日本@名無史さん2017/09/29(金) 17:06:48.73
つづく
mmp
lud20190926104947ca
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