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邪馬台国畿内説 Part281 [無断転載禁止]©2ch.net ->画像>3枚


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1◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:20:20.07
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
 もう確定なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1506525899

◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

2◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:21:12.59
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

3◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:21:36.51
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

4◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:21:59.29
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

5◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:22:20.56
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

6日本@名無史さん2017/09/29(金) 19:22:24.34
公共の場でオナニーすんなよ
きったねー

7◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:22:41.43
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

8◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:23:02.93
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
 この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。

 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

9◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:23:24.25
◆6−3

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

10◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:23:43.65
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

11◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:24:03.87
◆7−2
 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

12◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:24:25.58
◆7−3
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

13◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:24:44.56
◆8−1(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

14◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:25:10.48
◆8−2
 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

15◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:25:30.15
◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf

16◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:25:49.54
◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」

17◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:26:07.34
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
 弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 TA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内T〜U
 TB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内U〜V  ●纒向矢塚、矢藤治山                  
 UA期ー 布留0古相      ー 河内庄内V    ●箸墓、権現山51号
 UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X  ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
 UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山

18日本@名無史さん2017/09/29(金) 19:26:25.20
汚いなー
見苦しいなぁー
脱糞とオナニーはトイレ行けよ

19◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:26:31.69
◆11 本文のサマリー
===========================================
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

20◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:26:51.32
◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。

 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。

 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

21◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:27:08.75
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。

22◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:27:30.14
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことは、角を矯める愚を犯すに等しい。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)


◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。

23◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:27:52.93
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

24◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:28:11.84
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。

25◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:28:34.22
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

26◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:28:52.48
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。

27◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:29:10.67
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

28◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:29:31.72
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

29◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:29:54.42
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

30◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:30:37.52
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

31◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:30:57.56
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。

32◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:31:17.95
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
 江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される。
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

33◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:31:35.71
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!


A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。

34◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:31:56.01
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
邪馬台国畿内説 Part281 [無断転載禁止]©2ch.net	->画像>3枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

35◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:32:25.56
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
 箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等

36◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:32:54.89
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。


◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。

37◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:33:16.45
◆FAQ 26-1
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

38◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:33:36.68
◆FAQ 26-2
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。

 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

39◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:33:55.37
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。

40◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:34:15.97
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。

 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。

41◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:34:37.57
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

42◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:35:01.17
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

43◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:35:24.53
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

  「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
  「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

44◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:35:46.15
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

45◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:36:06.87
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

46◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:36:27.09
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。

47◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:36:54.57
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

48日本@名無史さん2017/09/29(金) 19:37:09.60
キチガイのスレじゃん

49◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:37:15.11
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

50◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:37:36.24
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。

51◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:37:58.46
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。

52◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:38:19.57
◆FAQ 41−1
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。

53◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:38:37.13
◆FAQ 41−2
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

54◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:39:02.42
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

55◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:39:22.17
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)
→1BV型式(3世紀中葉)
→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

56◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:39:44.55
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

57◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:40:02.83
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され(金原2011)ていること、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。

58◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:40:22.11
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。

 この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

59◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:40:41.66
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。

60◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:41:01.66
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

61◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:41:28.37
v◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に語義を含意せずに用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

62◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:41:47.90
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

63◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:42:07.49
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

64◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:42:25.73
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。
倭人の国ではあり得ない。

65◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:42:47.34
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

66◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:43:08.06
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

67日本@名無史さん2017/09/29(金) 19:43:16.11
アホが一人で60レスも書いても誰も読まないよ

68◆q8leUXpsw. 2017/09/29(金) 19:43:42.09
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ56に加筆

69日本@名無史さん2017/09/29(金) 19:44:02.64
>>67
やめたれw

70日本@名無史さん2017/09/29(金) 20:02:24.95
>>67
自己陶酔のじゃますんな   やめたれw

71日本@名無史さん2017/09/29(金) 20:07:04.93
>>48,67,69-70

 みじめなひとだな

 

72日本@名無史さん2017/09/29(金) 20:11:56.14
>>71
ちっとも

73日本@名無史さん2017/09/29(金) 20:12:40.96
畿内には大国があったのはわかるけどそれが邪馬台国だとは何一つ示せてないからな

74日本@名無史さん2017/09/29(金) 20:14:57.40
畿内に大国があった痕跡がない

75日本@名無史さん2017/09/29(金) 20:15:29.35
畿内にでかい連合国ができて九州を圧迫したからこそ

九州は魏とつながってそれをアピールする必要があったわけだ

まさに倭人伝の記述の通り

76日本@名無史さん2017/09/29(金) 20:16:06.80
同じことの繰り返し。
ツマランよ、もう。

77日本@名無史さん2017/09/29(金) 20:18:13.01
>>75
狗奴国連合も九州に出先機関を持ってたし
邪馬台国連合も畿内に出先機関を持ってたはずだよ

両国で中立国の取り合い戦争が繰り広げられてて
だからこそ「配布用の銅鏡100枚」を卑弥呼は所望した

78日本@名無史さん2017/09/29(金) 20:19:12.68
トンデモ説の宿命だから

79日本@名無史さん2017/09/29(金) 20:21:23.51
>>77
そういう自己空想は聞き飽きた

80日本@名無史さん2017/09/29(金) 20:58:55.48
なんで九州説はいつも根拠を言わないのか

それは・・・

81日本@名無史さん2017/09/29(金) 21:03:22.20
>>70
そんな自己満足を手助けする義理はないだろう。

82日本@名無史さん2017/09/29(金) 21:04:20.60
>>77
ひどい妄想だな。
そんな連合がどことどこにあったって?

83日本@名無史さん2017/09/29(金) 21:05:32.69
>>81
邪魔するのもお前の自己満足だしな

84日本@名無史さん2017/09/29(金) 21:06:47.90
ここは畿内説のスレだから、畿内説側がその根拠を示せばいいのに、なぜかそうしない。

85日本@名無史さん2017/09/29(金) 21:08:00.90
>>82
なかったら、どうして纒向に宮殿があるんだ?

86日本@名無史さん2017/09/29(金) 21:14:21.28
景行天皇の纒向の宮って4世紀だろ。

87日本@名無史さん2017/09/29(金) 21:15:40.28
>>85
それはどっちの勢力の宮だよ?
そこにどれだけの人間が働いていた?
魏志倭人伝にあるように1000人が働ける?

88日本@名無史さん2017/09/29(金) 21:22:55.65
宮殿の中に侍女千人は入らない
日本ではお婆さんは川に洗濯に行くことに決まっておる

89日本@名無史さん2017/09/29(金) 21:32:07.41
>>88
殿中に上がれる侍女がそんなに数いるわけないでしょ
ほとんど地下人だよ

90日本@名無史さん2017/09/29(金) 21:40:19.60
>>87
どっちって、ヤマト国だろ

91日本@名無史さん2017/09/29(金) 21:40:22.07
卑弥呼が用いている侍女は自律的に侍っている
現在の皇居にも奉仕を希望する人達がいる

皇居勤労奉仕のご案内
http://www.kunaicho.go.jp/event/kinrohoshi.html

92日本@名無史さん2017/09/29(金) 21:43:14.28
侍女ってより信者なんでないの?
姫巫女様奉公会みたいな

93日本@名無史さん2017/09/29(金) 22:30:46.65
ここまで阿波説なし

94日本@名無史さん2017/09/29(金) 22:58:50.06
280の>>901
>実際は神武の鴨王朝への婿入り。
その証拠に宮崎に残してきた妻と子をヤマトに呼び寄せていない。
彼が大王ではなかった証拠。<

神武は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったんだから、
始めから「大王」ではなかった。

95日本@名無史さん2017/09/29(金) 23:00:47.51
280の>>902
葛城のトンデモ大和「王朝」が自滅してるね。

96日本@名無史さん2017/09/29(金) 23:30:34.83
瀬戸内海で、どうしたら南と東を間違えるのか説明願いたい

97日本@名無史さん2017/09/29(金) 23:33:22.19
280の>>903
>伊都国=イツツヒコのいた山口 イツツヒコは漢字で伊都津日子<

伊都国は、魏志でも、王や一大率がいて、半島から九州の検察をしていて、
風土記にも天日矛の後裔であった記載もあり、
筑紫〜半島や山口の付近の「王」を自称していたんだろう、
と思いますが。

98日本@名無史さん2017/09/29(金) 23:40:09.35
280の>>905
>つまり魏の使者のルートははじめから九州を避けてるんだよな <

避けていないよ。
阿毎氏の王や一大率がいて、糸島平野が中心であり、
検察範囲は、筑紫〜半島南岸の海峡や、関門海峡航路の取り締まりであり、
山口も支配下であっただけ。

99日本@名無史さん2017/09/29(金) 23:51:19.57
280の>>908
>2世紀の平原墳墓から含め<

平原は、21個の魏の工房の「尚方作」の方格規矩鏡の副葬があるから、
魏帝の下賜鏡そのものであれば、卑弥呼の墓である可能性が高く、
魏帝の下賜鏡を元にしたホウ製鏡であれば、壹與の墓である可能性が高いので、
「2世紀」ではなく、3世紀の248年頃以後の墓だよ。

100日本@名無史さん2017/09/30(土) 00:11:25.24
280の>>911
>怡土小学校前から日向峠越えて矢倉橋まででで12km超えちゃう。
つまり到底室見川も渡れない。 百里じゃ日向峠を越えるか越えないかだね。<

そうだよ。
だから、古田さんは、当初は、「百里≒7.6〜7.7km」だから、奴國は
前原付近から肉眼でも十分に見えるクシフルの西のほとりに当たる、三雲や平原付近だろう、
としておられたんだよ。
しかし、私は、
古田さんの行程記載の「出発+途中+到着」の原則や、
福岡平野の中央部が邪馬壹國の入り口説や、
生野真好さんの「国や都市間の距離は居住外縁部間の距離」説を見て、
「それならこの百里は、奴國の入り口までの距離になる」という事に気付いて、
奴國は、
「三雲や平原付近が入り口であり、
それから日向峠や室見川中流付近の吉竹高木の平野部まで」
という範囲、
という説に変更したんだよ。

101日本@名無史さん2017/09/30(土) 00:22:39.96
280の>>921
>崇神は海人氏の頭領だろ。<

崇神は、
筑紫城の倭奴國の(海人の)阿毎氏から別れた別種であった旧小国の大倭(大和)の神武の子孫で、
筑紫倭国の東征の手助けをして、東征軍に混じって働いて、
新しい領地を大和に齎した人物だよ。

102日本@名無史さん2017/09/30(土) 00:29:54.90
280の>>924
>だから肥国出身の卑弥呼が黒歴史なんだよ<

「黒歴史」って何の事ですか?。

103日本@名無史さん2017/09/30(土) 00:37:34.80
280の>>927
>肥国出身の女子なんか筑紫では共立されない <

卑弥呼は、呉王夫差の後裔の高貴な姫氏の女性であったから、30国の共立女王としてふさわしかった。
だから、同じ姫氏の狗奴國王が、自分を差し置いて王になった、と怒って反対した。

104日本@名無史さん2017/09/30(土) 00:48:08.14
280の>>935
>(平原以外の内行花文鏡)平原からの直接的な影響ではないでしょう<

大和などの内行花文鏡は、
時期的に平原よりも後だから、
平原での「三種の神器での使用」を見て、別の鏡師が似せて造ったんでしょう。

105日本@名無史さん2017/09/30(土) 01:33:40.88
>>102

天孫族にとっては、肥国出身の卑弥呼政権の存在は認めたくない過去であったので、記紀には記録しなかったということ。

106日本@名無史さん2017/09/30(土) 02:02:57.88
肥人(コマヒト)は異人であった過去を認めたくないので
卑弥呼が肥国出身であると妄想しているということ
韓国起源説と同じ精神構造
(韓国の個人・団体などが、他国の文化などの起源・伝播を朝鮮半島に求める、根拠不十分で非合理な言説群の俗称。)

107日本@名無史さん2017/09/30(土) 02:42:31.52
卑弥呼共立の前段階として

・銅鐸祭祀の終了
・出雲と吉備の決裂(銅剣連合)
・吉備の畿内接近(特殊器台)

がある

倭国大乱の主役は吉備

108日本@名無史さん2017/09/30(土) 03:56:29.56
96日本@名無史さん2017/09/29(金) 23:30:34.83
瀬戸内海で、どうしたら南と東を間違えるのか説明願いたい

109日本@名無史さん2017/09/30(土) 04:18:18.51
1か月 瀬戸内海を水行し方位を誤認したなんて誰が考えたんだ

110日本@名無史さん2017/09/30(土) 05:06:21.98
じゃあ何?
南に水行1ヶ月いったら九州から出るだろ

111日本@名無史さん2017/09/30(土) 06:12:28.05
>>109

水行は河川でも可 

112日本@名無史さん2017/09/30(土) 06:24:55.55
彼は 瀬戸内海を1か月航海してたら方位を誤認何なんてしないだろうと言及している
これに、答えられないから九州に振っても✖
問題は方位  テンプレでいくと
北部九州から瀬戸内海ルートで南に行くと投馬国(吉備あたり)  そこから南に行くと大阪あたり、これすべて瀬戸内海で起きたこと

113日本@名無史さん2017/09/30(土) 06:59:36.99
>>110
帯方郡から1ヶ月

114日本@名無史さん2017/09/30(土) 07:00:36.28
森浩一・同志社大名誉教授
「北部九州の弥生文化が東に移って畿内地方のヤマト政権を生んだ」
元昭和薬科大助手 原田実
「纏向は大規模古墳などの建築に関わった労働者村ではないか」
「古事記、日本書紀との距離の取り方で研究者の立場が決まる」

115日本@名無史さん2017/09/30(土) 07:02:13.18
応神陵が誉田御廟山古墳でほぼ決まり。
須恵器の編年で埋葬時期は5世紀前後、文献から応神390年元年が最有力、
母親の神功皇后時代のカゴ坂皇子ゆかりの神戸・五色塚古墳が4世紀後半、
これも時代が合います。
応神から遡り崇神まで3世代から4世代、(新唐書)
崇神陵は古事記の記述に合う行燈山古墳が最有力。
時期は布留1式=4世紀初頭から前半。

それ以前は2世紀末の庄内0期まで遡れるので、
崇神以前の時代があったことを意味します。
ゆえ神武と崇神が同一の可能性はないでしょうし、
崇神から6世代ほどさかのぼればヒミコがいるはずですし、
3世代ほど遡るだけでトヨ(またはイヨ)がいるはずです。

2人ともいます。あぁついでにスサノオも。
「いる」という事をこれからもずっと言い続けて私は人生を終わろうと思います。
以下の事を認めないのはアイツの言う事など認めたくないという人たちでしょう。
認めないのは勝手ですが天動説者のように永遠の敗者になることをお忘れなく。

スサノオ(帥升)107年




ヒメ踏鞴  (3世紀初)神武 
ヒメ踏鞴        綏靖  
ヒメ踏鞴        安寧  
トヨ津         懿徳 孝昭 
トヨ津         孝安    ​     
     磯城の台頭  孝霊 孝元 開化
   (4世紀初〜前)崇神

116日本@名無史さん2017/09/30(土) 07:04:07.28
109 名前:日本@名無史さん 2017/09/30(土) 04:18:18.51
1か月 瀬戸内海を水行し方位を誤認したなんて誰が考えたんだ

A
知らん、誤記が正解

117日本@名無史さん2017/09/30(土) 07:10:00.56
>>107

倭国(阿波)大乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。

邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)

「旧吉野川流域北岸勢力」
東州津遺跡・大柿遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・勢合銅鐸出土地

「旧吉野川流域南岸勢力」
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡

「鮎喰川下流域勢力」
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡

「勝浦川流域勢力」
桧銅鐸出土地

「那賀川流域勢力」
若杉山遺跡・福寺山遺跡

118日本@名無史さん2017/09/30(土) 07:11:55.35
>卑弥呼は何処にいたのかな?

粟国

>倭国大乱前の男王がいた場所は?

長国

※こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

119日本@名無史さん2017/09/30(土) 07:15:25.56
元昭和薬科大助手 原田実
「纏向は大規模古墳などの建築に関わった労働者村ではないか」
          ↑
工事の安全祈願の祭事もあったし、病の時のベニバナ、バジル等の漢方薬もあったってか
溝は洗濯 飲料水  各地から作業員が来てたから土器も多種ってか

120日本@名無史さん2017/09/30(土) 07:19:15.35
>>96
>瀬戸内海で、どうしたら南と東を間違えるのか説明願いたい<
      ↑
間違えた事に理由は必用ない、間違えたから間違えた

121日本@名無史さん2017/09/30(土) 07:29:03.03
>>119
纏向は、阿波・讃岐・吉備・伊勢から集まった忌部一族が活動した古墳造営前線基地。

そこで、工事の安全祈願の祭事も行っただろうが、古墳が完成するまでの間、

被葬者(阿波出身の有力豪族)の霊を仮慰霊したのだろう。   @阿波

122日本@名無史さん2017/09/30(土) 07:54:11.34
>>120
根拠なし

123日本@名無史さん2017/09/30(土) 07:56:06.96
>>119

土器が多様というところから嘘だから。
東濃からがほとんどで、残りの地域のは東濃を経由してわずかに入ってきただけ。
つまり当時の纒向は畿内ではなく東濃の文化圏の一部。

124日本@名無史さん2017/09/30(土) 08:07:11.09
280の>>937
>漢の時代成立の周髀算経が何だって?<

魏の初代文帝の即位の詔書の度量衡の統一指示で、周制への復古を決めたから、
魏の役人は、周礼や周髀算経を勉強して東西南北の決め方を覚えたので、
魏の役人たちは、東西南北をまりがえなかった、という事だ。

125日本@名無史さん2017/09/30(土) 08:13:01.70
>>943
>2ヶ月間も方位を間違たままのわけがなかろうが
史書に書かれた時点に決まってるだろ <

周制の周礼や周髀算経の「東西南北」の決め方を知っている魏使らが、
「南と東を間違う」筈もなかろう。

126日本@名無史さん2017/09/30(土) 08:16:35.13
280の>>946
>誤記と言う事かな?<

全く字形も意味も違う「東と南」を、誤記する確率はほぼ0だな。

127日本@名無史さん2017/09/30(土) 08:23:13.00
280の>>948
>違う、政治的意図<

魏からはるか遠くの大海中の国の方向で、
「南→東」を変える政治的意図は、全く有り得ないし、
そんな意図で「南→東」の書き換えをした、という事がバレれば、
そりゃ首が飛ぶよ。

128日本@名無史さん2017/09/30(土) 08:30:13.87
纏向の外来土器に東海と北陸山陰が6割も占める理由は、
ニギハヤヒの子、ウマシマジと天香久山の二人が、
東海制圧のあと北陸山陰を征したことと関係するのであろう。
それらは石見の物部神社社伝にある。

名古屋にはウマシマジを祭神とする味鋺神社(あじまじんじゃ)がある。
ちなみに纏向にも味間(あじま)という地名がある。
また先代旧事本紀はウマシマジを味間見命と書く。

一方、天香久山は新潟にまで進出、
二田という田中角栄首相を生んだ地名は入植した二田物部ゆかりであろう。

ホケノ山古墳の6世紀末頃の14mの横穴式石室は
6世紀後半に桜井を支配していた物部守屋の一世代後くらいに造られたのであろう。
丁未の乱で滅んだ物部宗家の再興を期し氏神と眠るように作られている。
つまりホケノ山の被葬者はウマシマジか次代のヒコユキあたりであろう。

どっちにしても纏向は物部遺跡でありヒミコはいないから。
ヒミコがいたのは葛城だからね。

129日本@名無史さん2017/09/30(土) 08:33:16.72
280の>>951
>南に100mくらい進んで、あとは東へ行ったんだろ 古田説ならそれでいいんだよな 藁<

お生憎様。
古田説では、行程移動の記載では、
途中の移動を示す「移動の動詞」が書かれていない時の「至」の単独の使用の場合は、
「至」は「対象の四至方向の位置」という意味を示す事に使われるので、
「南に100mくらい進んで、あとは東へ行った」という意味にはならないんだよ。

130日本@名無史さん2017/09/30(土) 08:46:56.57
280の>>958
>古田説の信頼性って、現代人の書いた偽書であることが必要条件なんだろ?<

古田説の信頼性は、
史料が提示された場合、
まず全て、史料批判に拠って史料の客観性や信頼性やその確率程度を推定し、
信頼性や確率の高い史料を論拠の中心にして帰納的な確率の高い推論をし、
信頼性や確率の低い史料は、その中で客観性や信頼性の高い部分を論拠に付加する、
という事にあり、
原則としては、提示され存在確認された全ての史料は「みだりに何でも間違いだ」とはしない、
という事だよ。

131日本@名無史さん2017/09/30(土) 08:49:13.75
>>128

ニギハヤヒもニギハヤヒの子、ウマシマジも天香久山も全部、倭国(阿波)の忌部一族。

忌部一族の全国展開説明ですね。   @阿波

132日本@名無史さん2017/09/30(土) 08:53:57.67
280の>>963
>このように文献は誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである
だからFAQ 8 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した だろ<

そのような、人物も時代も場所も全く違う情報は、
3世紀の魏使らや陳寿の記載を否定抹殺出来るような、論拠にはならない。

133日本@名無史さん2017/09/30(土) 08:57:40.47
280の>>964
>魏の使者は太陽は倭国では西の方角にあると思ったんじゃないか?<

魏使らは、周礼や周髀算経の東西南北の決め方を、当然知っているから、
「太陽は倭国では西の方角にあると思った」事にはならない。

134日本@名無史さん2017/09/30(土) 08:58:57.16
ザラコクの後出し投稿 ウザイ

135日本@名無史さん2017/09/30(土) 09:12:15.79
>>130
>古田説の信頼性は

古田って誰?
演歌歌手?

136日本@名無史さん2017/09/30(土) 09:12:19.78
280の>>970
>著書では誤認したのは瀬戸内海じゃないだろ。Wwww
倭人伝で問題になってる方位は北部九州から畿内へ至る方位だろWwwww <

筆者も時代も国も場所も全く違う記録なんか、
3世紀の魏使らの記載を否定する論拠には、
全くならないよ。

137日本@名無史さん2017/09/30(土) 09:30:44.87
>>134
許してやれよ

138日本@名無史さん2017/09/30(土) 10:04:28.20
>>113
そんな読み方はできない

139日本@名無史さん2017/09/30(土) 10:25:25.83
モリコーも原田実と並べられるとこまで落ちたか

140日本@名無史さん2017/09/30(土) 10:39:17.69
280の>>974
>倭人伝の文章は倭国に行った人間が書いた なんて確証は何もない件について <

陳寿は、ずっと中国にいて、倭地に来た事が全くないから、
魏使らの記録を見なければ、大量の倭人伝を書けない、
という件について。

141日本@名無史さん2017/09/30(土) 10:40:01.72
一寸千里と周髀算経にあったとして
魏の役人はどうやってそれから1里を75mとする事にしたんだ
普通に考えてありえん

142日本@名無史さん2017/09/30(土) 10:46:26.49
>>65
論破されても平気でテンプレに載せてるw

143日本@名無史さん2017/09/30(土) 10:56:38.97
280の>>981
>>>じゃあお前はどこが邪馬台国だと思うんだ?<

>>邪馬壹國は、福岡平野中央部〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地域。<

>それは水行20日もかからないぞ <

水行20日の投馬國への記載には、途中の移動を示す動詞の記載がないから、
女王の都する所への主線行程ではなく、
不彌國からの側副傍線行程の記載。

144subo2017/09/30(土) 10:59:58.25
>>131
阿波の忌部一族はどこから来たんだ?

145日本@名無史さん2017/09/30(土) 11:11:10.78
280の>>978
>わかってないよな 畿内説は方角が違う!なんて当たり前のこと言ってどうすんだよ<

違うと判っているんなら、大和説を唱えるな。

>方角が違う畿内説 と 距離が違う九州説 どっちもどちらかが違うからこそ謎であり論争になってるんじゃん<

大和説は、方向も里数も里数の比も全く合わないが、
古田九州説は、方向も、里数も里数の比もよく合う。

146日本@名無史さん2017/09/30(土) 11:19:18.43
>>145
南へ水行20日+10日、陸行1月

九州からはみ出ますな

147日本@名無史さん2017/09/30(土) 11:34:51.62
伊都国=イツツヒコのいた山口
と考えれば、倭人伝は中国地方の話と判明する

邪馬台国は吉備のことだろう

148日本@名無史さん2017/09/30(土) 11:36:11.93
280の>>979
>倭人伝の南の方位が絶対的に正しいと考えるなら
水掛け論になるからこのスレに来る意味がないだろ<

水掛け論になっておらず、大和説の嘘つきダマシがはっきりしており、
国民の過半数が九州説を支持しているから、
ここのスレ主のような「嘘つきダマシのスレ」が、
世間の人々を騙そうとしている事が、黙過し難い。

149日本@名無史さん2017/09/30(土) 11:39:43.43
>>144
>阿波の忌部一族はどこから来たんだ?


忌部一族のご先祖の出自など興味なし。 

大陸からの渡来だろうと、南洋からの渡来だろうと、どちらでも良い話。   @阿波

150日本@名無史さん2017/09/30(土) 11:39:49.69
280の>>981
>現に末盧国から見た伊都国の方角は東南じゃないのだからね <

陳寿の行程記載方法からは、
「東南」は、伊都国の方角ではなくて、末盧国からの出発時点での出発方向。

151日本@名無史さん2017/09/30(土) 11:44:13.85
280の>>987
>距離は両方違うダロ <

大和説は、方向も郡からの距離も全く「合わない」が、
古田九州説は、方向も距離記載も、ほぼ全部「合う」。

152日本@名無史さん2017/09/30(土) 11:47:29.97
280の>>990
>で、お前は南でどこにもって行きたいの?<

邪馬壹國は、福岡平野中央部〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地。

153日本@名無史さん2017/09/30(土) 11:59:07.98
>>75
>畿内にでかい連合国ができて<

出来ていない。
大和日本国は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国。

>九州を圧迫したからこそ<

旧小国の附庸国であるから、倭国からの伝搬模倣が中心であり、
圧迫しない。

>九州は魏とつながってそれをアピールする必要があったわけだ まさに倭人伝の記述の通り<

大和からの圧迫など存在しないから、アピールする必要もない。

154日本@名無史さん2017/09/30(土) 12:03:11.09
>>77
>狗奴国連合も九州に出先機関を持ってたし <

狗奴国は、始めから九州にあったまま。

155日本@名無史さん2017/09/30(土) 12:05:42.53
>>78
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は、
トンデモ説だから、滅びるのが宿命なんだから。」

156日本@名無史さん2017/09/30(土) 12:06:46.63
http://www.rekishikan.com/hapyou-1.htm

畿内=狗奴国 説に同意

これがおおむね論理的合理的に書いてある

157日本@名無史さん2017/09/30(土) 12:08:12.34
http://www.rekishikan.com/hapyou-1.htm

吉備が大和王権に服属したのは崇神の代

それまでは対立勢力だった

158日本@名無史さん2017/09/30(土) 12:09:17.97
>>80
>なんで九州説はいつも根拠を言わないのか
それは・・・<

なんで大和説者は、いつも根拠を言わないのか 。

それは「南→東」などの嘘つきダマシをしている事を自覚していて、
大和説には、根拠もない事も知っているから。

159日本@名無史さん2017/09/30(土) 12:24:39.88
>>85
>なかったら、どうして纒向に宮殿があるんだ?<

大和は、倭国から別れた別種の旧小国で、
倭国の地方の市を監督する「大倭≒大和」職の祭祀建築があっただけだから。

160日本@名無史さん2017/09/30(土) 12:27:08.52
倭国大乱の主役は吉備

吉備が脱出雲を進め、覇権を主張しだした
(考古学的には、出雲と同形の銅剣の出土がなくなる)

これに呼応した30ヵ国が共立し邪馬台国=吉備の覇権が成立

ヤマトは本来は本州という意味

161日本@名無史さん2017/09/30(土) 12:30:11.37
加古川のは非常民史
日本の里人の外の反社会的勢力の歴史
http://1000ya.isis.ne.jp/1135.html 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7)

162日本@名無史さん2017/09/30(土) 12:43:04.09
崇神の代になっても四道将軍を派遣しなきゃいけなかったわけだから

畿内大和王権が卑弥呼の時代に吉備を制圧できてなかったのは確定

吉備が制圧できてないのに北部九州が制圧できるはずがない

163日本@名無史さん2017/09/30(土) 12:43:26.98
つまり畿内説はありえないってことか

なるほど

164日本@名無史さん2017/09/30(土) 12:47:45.43
畿内説は軍事大国が周辺国を併合した倭国ではない

165日本@名無史さん2017/09/30(土) 12:54:05.59
>>142
いつ、誰がなんと言って論破したの?

166subo2017/09/30(土) 13:05:34.77
>>161
畿内厨は解放同盟か?

167日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:18:32.18
>>162
おつむが単純で羨ましいよ

168日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:21:07.77
>>128
>纏向の外来土器に東海と北陸山陰が6割も占める理由は、
>ニギハヤヒの子、ウマシマジと天香久山の二人が、
>東海制圧のあと北陸山陰を征したことと関係するのであろう。
>それらは石見の物部神社社伝にある。

要するに、畿内という枠組み自体がない。
纒向は瀬戸内海と交流が薄い。
畿内説そのものが成り立たない。

169日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:21:59.98
同時に、魏の使いが来た九州北部との交流が薄いことから、纒向は邪馬台国とも関連が薄い。

170日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:24:16.98
纒向の土器が東海と北陸な理由は、これを見ればわかる。

【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

171日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:24:22.71
畿内説を知らない情弱が
ご自分の脳内キナイセツをいくら論駁しても
畿内説は痛くも痒くもないんだがね

172日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:24:31.32
>>144
江南から稲籾と一緒にきた。

173日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:25:42.46
>>169
薄いとか妄想乙

174日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:26:44.19
阿波、吉備と淡路島は逆かもしれないな。

175日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:27:36.37
>>173

>纏向の外来土器に東海と北陸山陰が6割も占める

176日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:29:45.82
>>171
畿内説って纏まったものがあるの?
言ってる事が各個人で違うんじゃないの。

177日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:31:36.49
>>176
テンプレ

178日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:32:08.98
>>175
それが何?

179日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:34:10.56
纒向は瀬戸内海と交流が薄い。
テンプレの説は成り立たない。

180日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:34:37.70
考古学ではホケノ以降、巻向に吉備勢力が侵入してきた様に見える

吉備勢力がどれだけの地域で纏まっていた可能性があるのか?卑弥呼前夜や当時の考古学的に見ればどうなんだろう?
詳しい人いる?

その点、北部九州は甕棺墓地域がひとつの指標となり、ある程度の纏まりは感じられるが

181日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:35:59.22
九州説の人は頭が悪いから自分の考えを説明できないんだよ
かわいそうだね

182日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:36:30.86
>>179
薄いって理由は?

183日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:38:20.66
>>180
無知まるだしだな

184日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:39:35.62
>>180
>その点、北部九州は甕棺墓地域がひとつの指標となり、ある程度の纏まりは感じられるが

つまり衰退して、ほぼ滅んだんだな

185日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:41:42.72
>>180
>考古学ではホケノ以降、巻向に吉備勢力が侵入してきた様に見える


吉備勢力=吉備忌部   @阿波  

186日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:42:03.91
甕棺墓の主である天孫族が筑紫を去り、代わりに肥国姫氏出身の女王のが共立された。
ただし方形周溝墓と内行花文鏡の文化は継承された。

187日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:42:40.45
>>181
北部九州説は九州内で話が終わるし、正直本州の動向は倭種の人々の話なので、あまり関係がないからね

卑弥呼共立までの成り立ちの説明するのは畿内説の方だよ

188日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:43:55.19
>>182
>>179
>薄いって理由は?

>>128
>纏向の外来土器に東海と北陸山陰が6割も占める理由は、

189日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:45:09.96
>>187
そうだね。
本州のすべての動向は、倭種がいた、で終わってしまう。

190日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:45:39.29
甕棺

一世紀:さかん
二世紀;ちょぽちょぽ
三世紀;残りカス

191日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:49:23.54
>>187
九州説最後の手段「知らぬ存ぜぬ」

192日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:52:59.41
>>180

土器や古墳は畿内に先行してたけど
識者のいう王権 王朝のような地域の首長が
何かを主導した形跡は未解明。

というのは
吉備地方は明らかに二系あったことが古形だから。後の吉備上道、吉備下道につながる。

系譜記録からいうと上道はヤマトタケル東征にしたがった将軍で上道の後裔は畿内により東に残る
後、韓地との絡みで反抗気味で 吉備本国の上道本宗は絶えた。

元々吉備氏は大和三輪氏の支族というから
広くは出雲族の内。ただ、その辺りは見解の分かれるところ。

193日本@名無史さん2017/09/30(土) 13:53:15.99
>>188
かわいそうな脳弱九州説は自分の考えを説明できない
痛ましいことだ

194日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:00:53.73
>>192
全部、魏志倭人伝では倭種。

195subo2017/09/30(土) 14:02:10.11
>>172
徐福はジョセフか、日ユ同祖論やな

196日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:03:28.22
>>189
無理

九州は畿内から入植を受けてるから

197日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:04:32.16
>>194
言い張っても畿内説には歯が立たない

198日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:04:36.20
>>192
>土器や古墳は畿内に先行してたけど

「土器や古墳の流れ」   倭国(阿波)➡西讃➡吉備

199日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:07:28.00
>>175
狗奴国の領域がわかるな

200日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:07:40.87
>>196
それは租庸調みたいなものだろう。
もしくは博多が交易の拠点だったから。

201日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:08:15.95
そもそも畿内というもとに実体がない時代だな。

202日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:08:33.71
>>184
4世紀以後にな

203日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:08:44.60
>>199
纒向も狗奴国だったと?

204日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:09:11.91
邪馬台国吉備説の方がまだマシだな。

205日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:10:01.68
>>203
狗奴国の中心地でしょうな

206日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:10:23.19
>>195
徐福は稲作農耕民ではなかろう。

207日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:10:58.79
>>204
どこよりマシ?

208日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:11:27.86
>>194
そだね。ただまあ卑弥呼共立の一勢力だったかもね。

209日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:11:33.10
>>197
本州は倭種がいたと倭人伝に書いてあるからな。

210日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:14:28.88
北部九州=朝鮮半島との交易を仕切り、ほぼ独立的な地位を保つ

海洋民は農耕民と違って土地に縛られる必要がないから独立的になるんだよ

それは朝鮮半島が三国で覇権を争っていたとき、小地域ながら独立的に三国や倭と対等に天秤外交していた加羅の諸国も同じだよね

海洋民ってのはそれが許されるシステムなんだよ

211日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:14:37.37
>>208
魏志倭人伝読めよ。
倭種がいたのは卑弥呼の女王国から海を東に渡ったところだぞ。

212日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:16:10.38
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

213日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:16:52.23
>>210に付け足すと

倭人伝にも伊都国に「世有王」って書かれてて、邪馬台国の女王以外に王がいたとなってる

邪馬台国連合の構成国で、属国的な地位に有りながらも反独立を許されてるわけだ

それは邪馬台国が海洋民のネットワークや海洋技術を「使わせてもらう」必要があったからだよね

214日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:18:24.93
博多湾沿岸と本州を分離させたいのは福岡以外に在住のお爺さん
福岡市限定極小倭国にしたいのは近畿のマイノリティの人達

215日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:18:59.91
>>213で結論を言うと

邪馬台国の中心は吉備
狗奴国の中心は畿内

この2ヵ国が争いながら

北部九州は反独立的に振る舞って朝鮮半島の国々を含めて天秤外交をやっていたんだろう

その反独立的な地位は磐井の乱まで続く

216日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:20:48.78
北部九州の振る舞いは、朝鮮半島南部の加羅諸国に似ていると考えればいい

海洋ネットワークの使用権を盾に、諸大国と天秤外交

217日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:21:41.32
ヤマトは本州の意味

沖縄人は本土の人間をヤマトンチュと呼ぶ

奈良の人間ではなくね

218日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:24:05.46
邪馬台国 吉備
狗奴国 畿内

土器や墓がそれを示してるよね

楯築古墳が卑弥呼の墓でしょうね

219日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:30:04.71
>>213
伊都国だって海洋民じゃない
バイリンガルとして雇われる程度だろう

220日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:31:31.62
>>218

「土器や古墳の流れ」   倭国(阿波)➡西讃➡吉備

221日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:32:46.43
>>217
内地は青森から鹿児島まで、3島だろ。
琉球からはその全てが倭人の土地だ。

222日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:32:52.99
>>218
吉備と畿内は仲良いよ

223日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:33:20.01
3世紀の博多湾貿易は博多湾沿岸の楽浪商人を介したネットワークだろう
4世紀からは纒向遺跡、中田遺跡、足守川遺跡、博多湾沿岸集落は衰退し
金海貿易になるから、4世紀からのほうが玄界灘の海洋民の技術を必要とする

224日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:34:18.41
海洋民族と言うけれど、その呼称が天津神(海の神)だろ。
れっきとした天皇家の祖先だよ。
博多湾沿岸の甕棺族な。

225日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:35:09.17
>>222
畿内という枠組みは3世紀にないよ。
摂津とかならわかるけど。

226日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:37:11.90
>>223
>3世紀の博多湾貿易は博多湾沿岸の楽浪商人を介したネットワークだろう

魏志倭人伝の張政のルートそのまんまだろ。
つまりは、博多湾沿岸勢力が主役。

227日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:38:15.28
このまんまじゃん。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉

228日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:38:27.86
博多湾沿岸勢力は主役ではない

229日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:40:08.28
>>224
博多湾沿岸の甕棺族は陸上の首狩族

230日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:41:20.62
卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。

筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。

肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。

考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。

九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。

邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。

その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。

邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。

231日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:42:13.87
倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。

232日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:43:31.83
>>225
ないって理由は?

233日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:45:11.15
倭国大乱を経て大和州(本州)に都(覇権)が移ったんだよ

主役は吉備

234日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:46:12.13
九州の日本人学者は連呼人種のようには考えていない

235日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:47:03.81
>>232
あった証拠を出せよ。
なかったのはなかったでいいんだよ。

236日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:48:23.14
>>235
キナイジジイにそんな正論言っても通じんだろw

237日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:48:48.03
>>233
1行目と2行目が論理的に繋がってないぞ。

238日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:49:36.41
>>233
なんで邪馬台国吉備説ではないの?

239日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:51:57.80
>>230
などと言ってる考古学者も文献学者もいない

240日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:53:00.79
>>235
テンプレに書いてあるよ

241日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:53:15.75
>>238
>なんで邪馬台国吉備説ではないの?

其山有丹じゃないから。   @阿波

242subo2017/09/30(土) 14:54:06.44
>>229
甕棺族は徐福一族

243日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:54:07.66
>>240
引用プリーズ

244日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:54:52.43
>>242
徐福はむしろ長崎とか肥国だろ。
これが卑弥呼の王統。

245日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:57:16.16
>>243
スレ主はロンパされるのが怖いのです。

246日本@名無史さん2017/09/30(土) 14:59:06.26
 

考古学知りもしないで「考古学的に正しい!」
漢文よめないのに珍読して「文献学的に正しい!」

滑稽な九州説

 

247日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:00:04.73
>>246
畿内は狗奴国の都

248日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:00:08.87
>>245
した人いないけど

249日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:00:25.52
さすが、九州説の論者が多いな
海遊録は、瀬戸内海ルートで完全に論破されたみたいだな
もともと、苦し紛れに海遊録を持ちだしてきたのが間違い
テンプレ読んだが、瀬戸内海で通信使は方位誤認していないな

250日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:01:40.68
畿内が狗奴国なら博多湾沿岸は狗奴国グループに属することになる

251日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:04:27.36
>>247
九州説は
言い張るだけの連呼人種だな

252日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:05:58.41
よくわからんけど
吉備説がカキコミ始めたの?
もしくは吉備まで畿内にしようとしているの?

253subo2017/09/30(土) 15:10:02.52
>>244
伊邪国本国(平戸)は伊邪那岐(徐福)の国ですね

伊都国の伊、邪馬台国の邪など伊邪那岐ゆかりの国である

254日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:10:05.78
>>250
博多湾沿岸は半独立、天秤外交

加羅の遺跡から百済系、新羅系、倭系の土器や金属器が同時に出てくるのと同じ

255日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:13:26.98
半独立は博多湾沿岸の韓人だろ

256日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:13:32.93
>>249
どうやって論破したの?
妄想がすごすぎない?

257日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:15:39.74
>>250
なんでだ?
イミフ

258日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:16:59.02
>>249
読んだ読んだ詐欺の男かな?
あんた、恥ずかしい人だねえ

259日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:17:02.44
>>257
イミフは無知だから

260日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:17:48.06
>>254
>博多湾沿岸は半独立、天秤外交

ていうか、外交をしていたのが博多湾沿岸だけなんだが。
もちろん、中国から見た倭国とは博多湾沿岸だし、卑弥呼もそこにいた。

261日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:18:55.49
>>249
テンプレは
瀬戸内海の話なんかしてないのに
お前、詐欺師だろう

262日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:20:32.03
>>257
博多は畿内人街だからねー
当然の帰結だ

263日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:22:56.31
畿内なんてないし、それが纒向のことなら一方的に筑紫が搾取していただけ。
筑紫にとって纒向はワンオブゼム、カスだよ。

264日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:23:22.48
見受けた
FAQ5のこれだな
 海遊録
>対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤<

畿内説で方位が問題になってるのは 南至投馬國 南至邪馬壹國
だもんな、朝鮮通信使が瀬戸内海ルートで南を東に誤認しているなら、例として出しても良いが✖だな

265日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:25:38.59
博多には全国の物産が集まっていたのに、纒向には東海と北陸の土器が少しだけ。
稲作先進地域、工業地域として発展していた博多湾沿岸と、農具もろくにない未開の沼地の奈良盆地。

比較するまでもないな。

266日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:25:47.99
博多湾沿岸の比恵那珂は大和型庄内甕を母胎として筑前型庄内甕が成立し
西新町遺跡は山陰系の在地生産が始まる
土器工人の山陰からの移動と恒常的な交流が想定でき
山陰系工人が布留系甕の製作に関与したと考えられる(久住)
博多湾沿岸集落は畿内、出雲と同じグループ

267日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:27:47.95
>>142,179,249みたいなウソをつくしか
打つ手のなくなった九州説は
実際もうお陀仏

268日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:30:24.27
>>261
テンプレ読んでるのか?
投馬国を吉備あたりにしてる点で瀬戸内海ルートで使者が畿内に入ったことがわかる
テンプレ読めよ!

269日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:34:00.05
>>264
つまりテンプレを批判したようなポーズは見せかけ
全くトンチンカンなイチャモンを付けてたわけだな

270日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:35:38.50
>>263
ないって証拠は?

271日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:36:40.43
>>260
朝鮮半島でも倭と交易するためには半島南部の加羅の協力が必要だった

しかし王権があったのは百済や新羅や高句麗

272日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:37:00.88
糸島市からは弥生時代後期(1〜2世紀)とみられる硯とか出土して文字使用の形跡ががあるけど
畿内とか5世紀から6世紀頃でしょう。

273日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:37:32.38
>>266
ああ、こういう論理的な発言はいいね。
でもこれ、西日本全域から多くの人が集まる都が筑紫でした、ということになるね。

274日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:39:14.81
>>271
半島南部は筑紫倭国の支配下だったからだろ。

275日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:39:24.83
>>246
漢文読めないスレ主が何言ってんだかw

276日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:39:35.04
筑紫の在地系土器は廃れて消滅する

277日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:40:28.24
>>261
FAQ31を読むといいよ。思いっきり瀬戸内海出てるから

278日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:40:40.52
畿内説どうしの内ゲバ開始か。
崩壊していく集団の末期は見苦しいな。

279日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:41:20.73
>>272
だと何?

280日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:41:34.33
>>276
次々に新しい技術を取り入れて発展したのが筑紫倭国というわけだ。、

281日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:42:21.04
>>279
畿内からでは魏に国書を送れないじゃん。
文字がないんだから。

282日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:42:25.77
>>272
その通り
帥升は卑弥呼と違って卑字が使われてないから自分で名乗ったと考えられる

283日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:42:33.76
>>273
そういう非論理的な発言はダメだね

284日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:42:43.49
畿内に何もない!

285日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:43:10.04
>>281
卑弥呼は文字を書けない

書けるなら卑字を使うはずがない

286日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:43:31.87
>>283
筑紫に各地から工人が集められていたように読めるね。

287日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:43:50.59
>>266
>博多湾沿岸集落は畿内、出雲と同じグループ

博多湾沿岸集落も畿内も出雲も、みんな忌部一族だから。  ごめんね。   @阿波

288日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:44:12.67
>>274
完全な支配下ではない

「影響下」とは言える


各国の出先機関が加羅にはあった

各国とは倭、百済、新羅

289日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:45:59.62
>>285
文字を使ったのは天孫族の頃に登用された官吏だったんだろうなあ。
伊都には好字を使っているからな。
倭奴国を伊都国と書き換えるくらいには漢字を理解していたのに、卑弥呼は卑字だからな。
気がつかれないように意趣返しをしたのかもしれない。

290日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:46:44.34
>>288
そこには畿内の影響はないよね。
倭とは博多のことだよ。

291日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:46:49.01
>>274
考古学的に否定されてます。

292日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:47:03.87
>>288
加羅ってのは香港のようなもの

租界と呼ばれる欧米各国の治外法権の拠点が香港にはあったし、
それゆえに香港は中国本土のどの都市よりも経済強国だった

293日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:47:47.41
>>280
>次々に新しい技術を取り入れて発展したのが筑紫倭国というわけだ。

それ、筑紫忌部のお陰ですから。 ただ、筑紫に倭国はないけど。  ごめんね。   @阿波

294日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:48:55.04
>>292
ひるがえって北部九州も、だな

北部九州にも各国の出先機関があった
それは新羅、百済、倭(邪馬台国、狗奴国)

だからこそ、北部九州は倭のどの地域よりも経済強国だった

香港と同じ

295日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:49:37.31
>>286
>筑紫に各地から工人が集められていたように読めるね。


その工人とは、忌部一族ですね。   @阿波

296日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:49:55.56
>>285
文字を使ったのが魏使等だとしても倭国に来てで記録を書いてるから滞在した場所には文字の使用の痕跡が残ってるはずだな。

297日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:50:04.08
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。

298日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:50:12.55
>>270
あんたみたいなオウムが畿内説にいるのも一因かもね
おれ、>>263じゃないけどね

299日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:50:41.55
>>294
香港がどれだけ経済力があっても中国の首都ではないように、北部九州も、だな

あくまで各国の出先機関があったからこその繁栄であり、それは政治的安定性とは反比例の関係

300日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:51:09.78
>>286
それは日本語が正しく読めないからだな

301日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:51:25.73
中国人はわざわざ倭奴国を伊都国と書き換えないよ。
意味を知っている倭人が、名称を変えたんだ。

302日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:51:36.41
>>280
その新しい土器の技術は畿内や出雲の技術だから
筑紫の博多湾沿岸というところは本州の倭人や大陸の各地から移住するところだな
だから孤立した閉鎖的な思考はしない

303日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:52:06.22
>>291
嘘ですね
半島南部が倭の支配下じゃなかったって言ってるのは
朝鮮人系の考古学者だけ。

304日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:52:43.99
>>296
記録なら持って帰るのな

305日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:53:14.24
>>269
被害者意識に立ったら畿内説は終わりだよ
テンプレの疑義を指摘してるのだから、反論すれば良い

306日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:53:46.76
>>296
硯は重いので捨てて行った

307日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:53:57.26
>>299
>あくまで各国の出先機関があったからこその繁栄であり、それは政治的安定性とは反比例の関係

北部九州は倭国(阿波)の出先機関。  北部九州支店(伊都国)支店長は筑紫忌部さん。   @阿波

308日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:53:57.65
>>303
支配下ではなく影響下

半島南部からは倭系の遺物のみが出てくるわけではない

倭系の遺物と同時に新羅系、百済系のものも同時に出てくる

309日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:54:51.26
>>298
つまり九州説には理由の答えられるような人材はいない、と

310日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:55:18.51
>>297
>大倭王は邪馬台国にいる。
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
>倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
>倭奴国は倭国の極南界である。

朝鮮半島南岸は倭だな。
そして倭の南端は倭奴国(伊都国)

311日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:55:19.83
>>308
つまり半島南部は複数の国の影響下にあった

現地勢力が半独立的な地位を保ちながら海洋ネットワークと海洋技術を盾に天秤外交をしていた証拠

312日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:55:54.45
>>304
書き損じとか
割れた硯
試し書き
痕跡は残るよ。

313日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:59:11.22
北部九州が各国の出先機関が置かれたゆえに繁栄した地だとすると

では邪馬台国はどこなのか
それには狗奴国の位置を同時に考えなければならない

吉備と畿内でしょう

314日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:00:20.05
>>311
半島南部は陸地だろ。
対馬海峡は完全に倭国。

315日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:00:50.18
>>303
なら、半島南部が倭の支配下だったって言ってる考古学者の名前を言ってみろ

316日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:01:26.67
遠絶20ヵ国の中の好古都国が出雲だろう

古き好き都の名の通り

317詐欺師はどちら2017/09/30(土) 16:01:32.94
>>261
テンプレは
瀬戸内海の話なんかしてないのに
お前、詐欺師だろう

>>277
>>261
FAQ31を読むといいよ。思いっきり瀬戸内海出てるから

318日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:02:31.33
対馬海峡の海洋ネットワークの支配者が倭国の王家、天津国の天孫族。
だから、倭国の都は博多湾沿岸。
わかりやすいだろ。

319日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:02:53.73
>>303
治外法権の出先機関の地があった

320日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:02:54.06
>>313
>では邪馬台国はどこなのか

粟国

> それには狗奴国の位置を同時に考えなければならない

長国

321日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:03:45.51
半島南部に騎馬民族色が現れるころは前の墓が破壊されるから
状況が違う

322日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:03:59.68
>>318
違うよ

天孫降臨により内陸部に根を張って王となったんだろ

記紀史観でも都は北部九州にはない

323日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:04:31.14
日本海だとそれこそ博多湾沿岸を起点とする海洋交易路だからねえ。
畿内説としては瀬戸内海に望みを託すしかないよねえ。

324>>2772017/09/30(土) 16:05:03.82
>>317

私は>>277を詐欺師とは言ってませんよ
ただ、教えてあげただけですから

325日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:05:16.21
>>321
騎馬民族は4世紀以降だよ。

326日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:06:01.30
>>323
そもそも関門海峡は卑弥呼の時代には整備されてない

あそこは浅瀬の岩場で船は通れなかった

327日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:06:13.18
>>323
「当時」の自然環境を軽視しすぎ。 @阿波

・奈良盆地は海に面さず、発展する余地なし。

・纏向は湿地帯で王都に不適。

・対馬海流に流されて、末羅國=呼子・唐津は有り得ない。

・瀬戸内海航路は潮流対策施設不備につき、「通し航行」不可能。

・弥生の大洪水で稲作壊滅状態。

328日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:06:33.65
>>326
証拠でもあるのか?

329日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:06:39.79
>>321
馬の輸入にはデカい船が必要だった

卑弥呼の時代には無理

330日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:06:59.94
>>322
対馬海峡から降臨した先が、博多湾沿岸の筑紫の日向の伊都クシフル山の高千穂宮だねえ。

331日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:07:50.14
>>328
記紀読めよ。
船が通れるようになったのは4世紀の仲哀からだよ。

332日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:09:05.45
>>328
記紀

神功皇后の時代にやっと整備された

だから魏の使者のルートもそうじゃん

北部九州でいったん船を降りて、陸路で瀬戸内海の港に出てまた船に乗ってるだろ?

フミ国は関門海峡の南だよ

333日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:09:17.78
>>328
関門海峡が通れなかったから、迂回路として宇佐が発展したんだよ。

334日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:09:35.55
>>325
新羅系、百済系のものが同時に出てくるというのは4世紀以降のこと言ってるんだろ

335日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:09:52.67
>>324
詐欺師は>>317だもんね

336日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:10:52.34
畿内説はすぐ4世紀のものを3世紀の卑弥呼の時代のものだと言い張るんだな。

337日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:10:59.11
>>324
でも詐欺師だし

338日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:11:44.12
>>336
うるせー畿内説が正しいんだよ

339日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:12:11.14
>>332
不弥国にしては関門海峡は伊都から遠すぎる。
宇佐は昔は今より北にあったと言われている。

340日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:13:38.22
>>333
だから証拠は?

341日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:13:38.63
>>330
それは即位前の話じゃん

天孫族が大王位につく前のニニギ代の話

沿岸部にしか住めないのはそりゃそうだろ大王じゃないんだから

だれが大王が不安定な沿岸部に住むんだよ

342日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:13:41.25
>>333
>関門海峡が通れなかったから、迂回路として宇佐が発展したんだよ。

宇佐は経由地ではない。もっと北の築上町辺りが不弥国。   @阿波

343>>2772017/09/30(土) 16:13:56.00
訂正です、失礼しました

>>317
○私は>>261を詐欺師とは言ってませんよ
ただ、教えてあげただけですから

344日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:16:54.39
>>336
という証拠は?

345日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:17:32.55
>>339
誰が言ってる?

346日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:17:49.49
>>341
筑紫の日向で即位したと書いてあるだろ。
高祖山は山城があり、山頂の名はクシフル山、博多湾を見下ろして監視するのにも最適。
しも周りは紀元前から続く倭国の王墓群。
ニニギが持ち込んだ八咫の鏡もちゃんとすぐ近くの平原遺跡から出土している。

347日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:19:10.74
高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市の高祖神社が掲げる宮号。
糸島平野と福岡平野の間にある高祖山の南の峰をクシフル山と呼び、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮が記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城は高祖山・クシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられ、平原遺跡からはニニギ王家の家宝である八咫の鏡が出土している。
平原遺跡は卑弥呼がいた3世紀の女王墓であり、卑弥呼が被葬者の最有力候補である。

348日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:19:14.22
岡山に旧帝大があったら吉備説が最有力だったろうな

考古学的には完全に吉備だもん

結局は邪馬台国論争も学会での政治力や発言力がモノを言うから

旧帝大が2つもあって予算豊富な畿内が有力だということになってるだけ

349日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:19:33.73
>>343
そりゃ>>261は正しいことを言ってるんでから
詐欺師呼ばわりしたらバチが当たるよね

350日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:21:20.18
こりゃだめだなアウト

>>261日本@名無史さん2017/09/30(土) 15:18:55.49>>268>>277
>>249
テンプレは
瀬戸内海の話なんかしてないのに
お前、詐欺師だろう

    ↑
その1、テンプレ読まずに、テンプレに瀬戸内海の話は無いという
その2、あげくの果てに、詐欺師呼ばわりする

351日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:21:21.18
>>348
2つって、どこ?

352日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:21:43.62
高祖山の怡土城は8世紀

353日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:22:26.68
しかも三雲南小路遺跡の細石神社は、漢委奴国王印を保有していたという口伝つき。
これで伊都国が倭国の都でないならなんだというのか。
魏志倭人伝には、魏の帯方郡からの使いは常に伊都国に滞在したと書いてある。
帯方郡から一万二千里という位置にもぴったり。

354日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:23:53.16
基肄城と大野城が3世紀からあったなら、高千穂宮が3世紀にあってもいいだろう。

355日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:25:44.69
>>351
京大と阪大だろ。

356日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:26:00.19
両城とも3世紀じゃないから、全部没

357日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:26:35.96
倭国がずっと戦乱だったなら、城の一つや二つはないと。

358日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:27:17.88
基肄城と大野城は3世紀にはないよ

359日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:27:24.69
>>346
>>347
それはわかるがニニギはアマテラスが天孫降臨させた子孫の一人でしかない

たとえば福岡と大分の県境にある山は「英彦山」といい

ここはオシホミミ(アマテラスの息子でニニギの父)が降臨したという伝承がある

彦=日子=アマテラスの子供だよねもちろん


天孫降臨はニニギだけじゃない以上、伊都国はアマテラス系国家のうちの一つでしかないし、その王であるニニギも大王ではなく
構成国家のうちの一カ国の王にすぎない

360日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:27:49.19
>>350
FAQ5の話なのに話題をスリ替えた>>277が詐欺師だなー

361日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:28:04.56
【邪馬台国の周辺の国】

1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。

362日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:29:34.53
>>361
伊予、播磨なんかはまんまじゃん

瀬戸内海の国だよ

363日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:30:28.83
>>359
饒速日は関西に行ったけど、それは漢と交流できなくなるだろう。
結果的に、筑紫に上陸したニニギが倭国の代表になり、後の天皇家にもつながるわけだ。

364日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:31:16.59
◆FAQ 31 抜粋
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、
 及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
 これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、
 瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。

 当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾
 →河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
 
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

365日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:31:23.35
>>348
>考古学的には完全に吉備だもん

吉備に丹山があればよかったのにね。

吉備があるのは、吉備忌部のお陰   @阿波

366日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:31:27.21
>>361
紀伊国もあるな

邪馬台国連合の領域が広範囲に渡るとわかる

367日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:31:41.86
>>362
九州北部から地名を移転したんじゃないか?
畿内の地名は、8世紀以降しか文献がない。

368日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:31:55.64
>>355
本気で阪大が旧帝大だと思ってる?

369日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:32:13.34
三雲に来て志摩(嶋)郡の里数戸数がわからないことはない

370日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:32:51.60
>>368
お前の勝手な定義は知らんよ

371日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:33:17.72
>>353
結局また九州説はトンデモに堕ちていく

372日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:33:36.48
キナイジジイは勝手な理屈で阪大にまで噛みつきはじめたかw

373日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:34:12.41
キナイジジイ「阪大が旧帝大だなんて認めない!」


どんどん異常性がばれていくなw

374日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:34:26.55
>>364
> 当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾
> →河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。

関門海峡は通れないってば。
摂津と纒向の交流も証明されていない。
纒向の土器は東海と北陸だろ。

375日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:35:21.91
>>370が帝大とは何だか知らない件について

376日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:37:32.27
>>372-373が発狂した

377日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:38:33.10
>>373
九州説の捏造癖ここに極まる

378日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:38:39.89
>>375
一般的な定義とは違うお前の勝手な定義は知らんよ

お前の勝手な定義を主張したいなら「一般的な定義とは違いますが私は阪大文学部は旧帝大に入らないと思います」と言えアホ

379日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:39:34.88
大阪大学は懐徳堂を同大の学問的系譜[2]とは言うものの、同大の前身とは言及していない。大阪医学校を母体に1915年(大正4年)に府立大阪医科大学へ改称、1931年(昭和6年)に国へ移管されると同時に、台北帝国大学に続く第8番目の帝国大学となる。

1933年(昭和8年)には旧制大阪工業大学を合併、戦後の新制大学への改組を経て、2004年に国立大学法人化、2007年10月に大阪外国語大学と統合した。

Wikiより

380日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:42:16.68
>>369
糸島半島の北側の沿岸部では?

381日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:43:14.20
>>360
  >>261が悪いよ・・・すぐに訂正すれば良いのに
   いずれにせよスレ主は瀬戸内海ルートだし、瀬戸内海では方位の誤認のしようがない

>>261
テンプレは
瀬戸内海の話なんかしてないのに
お前、詐欺師だろう
   ☟
○FAQ5
✖テンプレ

382日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:43:38.77
>>379
戦前には阪大に文学部はなかったから違う!ってアホなイチャモンつけて喜んでんだろアホだから

アホなジジイが言いそうなことだよ

383日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:43:50.12
旧帝大なのは医学部だけで、今の阪大とは別物ってことだね

384日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:45:14.49
>>382
やめたれw

385日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:49:35.04
台北帝国大学よりも後だからな

386日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:50:42.26
>>380他・・・

おしまい、オシマイ、テンプレが論破されたでオシマイ
海遊録は南➡東の根拠としてならないという事でオシマイ
おしまい、オシマイ、テンプレが論破されたでオシマイ

387日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:51:24.08
>>382
考古学の問題で

>旧帝大が2つもあって予算豊富な畿内が有力だということになってるだけ

って発言についての議論だから、旧帝大ちがうって指摘の方が正当だな

388日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:52:26.02
ソウル大学よりも後かよ

389日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:52:42.52
>>386
詐欺がバレそうなので必死



390日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:52:55.50
>>384
そのフレーズ飽きた

391日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:56:56.46
で?
畿内説とやらを捏造したのは京大なのか?

392日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:57:09.58
>>389
感情的にはわかりますが・・・・・・・・・・・・・いかんとも
何というか?冷静にと言うか?言葉が見つからない

393日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:58:06.69
テンプレが海游録。南➡東の根拠としていない以上は>>386が詐欺師で確定だわな。
テンプレを論破した〜というのも当然ウソ


 

394日本@名無史さん2017/09/30(土) 16:59:17.83
>>387
でかい大学があるから幅を利かせているって話なら、間違いではないだろう。

395日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:01:13.88
じゃあ こうしましょう
>>389
1 スレ主は瀬戸内海ルートは理解できましたか?
2、海遊録では瀬戸内海ルートの南➡東は根拠とならない事が理解できましたか?

反論があればお書きください

396日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:08:06.17
>>107
>卑弥呼共立の前段階として
・銅鐸祭祀の終了 ・出雲と吉備の決裂(銅剣連合) ・吉備の畿内接近(特殊器台)
がある 倭国大乱の主役は吉備<

ない。
卑弥呼共立諸国の30国と、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」諸国とは、
はっきり違うものとして、始めから書き分けられている。

397日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:08:26.21
>>392
キウスの感情が手に取るようにわかる

398日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:09:58.62
阪大の考古学研究室は1988年開設って、ほとんどの遺跡調査より後じゃん

399日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:10:45.48
>>395
詐欺師さん逃げられません

1が海遊録では瀬戸内海ルートの南➡東は根拠としてない事は理解できましたか?

400日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:11:21.12
>>109
>1か月 瀬戸内海を水行し方位を誤認したなんて誰が考えたんだ <

投馬國=吉備の大和説者が考えた事になる。

401日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:12:25.67
九州説はウソまみれだなー

402日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:14:03.90
つまり詐欺師は京大か。

403日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:16:16.24
>>402
いまの九州説はそんな学歴ない

404日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:17:33.93
>>110
>じゃあ何? 南に水行1ヶ月いったら九州から出るだろ<

「水行十日陸行一月」の日数記載は、その前の「女王之所都 」の数量説明になり、
それは「自郡至女王國萬二千餘里」に関する日数説明になるから、
「從郡至倭〜女王之所都」になり、
だから、九州から出ない。

405日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:18:08.50
>>395
キウスの日本語はいつもヘン

406日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:18:13.85
スレ主は学歴なさそうだ。
教養の欠けた文章だから。
エセ教養人だな。
詐欺師だ。

407日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:18:52.31
>>405
残念!
別人!

408日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:20:02.69
いまの九州説は上司命令で始めた人だろ

409日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:20:36.52
>>407
やはりキウスか

410日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:21:26.54
>>406
おまえ、学歴コンプレックス丸出しだぞ

411日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:22:38.07
>>406
1は東大だろ

412日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:24:39.70
>>400

大和説者ってバカじゃないの

413日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:24:55.15
さてキウスが詐欺師なのは確定してるわけだが以下略

414日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:26:56.48
>>412
なぜ?

415日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:30:35.83
卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。

結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。

吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。

在来系の土器も勿論多数出土している。
纒向の南の芝遺跡は纒向と入れ替わるように弥生時代後期に消退するし、芝遺跡からも人々が纒向の営みに動員されたんだろうね。

416日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:32:49.86
>>116
>>1か月 瀬戸内海を水行し方位を誤認したなんて誰が考えたんだ <

>A 知らん、誤記が正解<

「誤記だ」という事の証拠を出さずに、
「誤記だ」と断定するこの投稿子は、
分裂幻覚の妄想の・・・・患者であるか?、サギシであるか?、
という事になる。

417日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:33:18.21
3世紀半ばに出雲を女王国に含める根拠は何もない。

418日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:34:27.42
>>415
そういう自己空想は聞き飽きた

419日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:37:09.62
>>417
ない

むしろ反邪馬台国だろう出雲は

吉備と出雲が同じ銅剣を大量に作ってた時期を経て

倭国大乱の頃にはその銅剣連合が解消されている

倭国大乱のきっかけは吉備の出雲への下克上ではないか?

倭国が出雲と吉備で割れたところに、畿内も狗奴国として東海阿波を従えて覇権を唱えだした

このあたりが卑弥呼の時代だろう

420日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:37:49.21
>>120
>>瀬戸内海で、どうしたら南と東を間違えるのか説明願いたい<
      
>↑ 間違えた事に理由は必用ない、間違えたから間違えた <

「間違えた」と言うには、証拠が必要。
証拠がなければ、分裂幻覚妄想の・・・・か?、サギシか?、という事になる。

421日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:39:02.78
>>419
そういう自己空想は聞き飽きた

422日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:45:14.60
>>128
>・・・ヒミコがいたのは葛城だからね。<

「南≠東」だから、×ね。

423日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:45:27.49
スレ主は小っちゃいなぁーーーーーー
趣味はこのスレ命かなぁーーーーーー
悔しい事も多いなぁーーーーーーーー

しかしボケ防止には良いよ良い 

424日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:45:32.46
>>420
邪馬台国が畿内説で確定すれば、必然的に南は東の間違いだ
この論理になんか問題あるか?

425日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:49:24.66
>>406
スレ主は似非教養人じゃねーよ
教養のかけらもない単なるお馬鹿さん

426日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:49:37.43
>>423
岡上あらすなよ

427日本@名無史さん2017/09/30(土) 17:56:54.38
>>425
その敵意まるだしぶりは嫉妬だな

428日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:01:46.26
執拗にニセスレ立ててきた人だからね

429日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:04:52.56
スレ主は岡山大から九州大なんだろ

430日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:05:24.55
邪馬台国が大和国としても、南が東になることはない。

大国投馬国の位置が全く違うようになるからね。
魏の使者を迎えるルートは、当時の日本列島の状況を反映している。

431ここまでのMVP2017/09/30(土) 18:05:52.02
>>411

>1は東大だろ<
   ☝
韻を踏んでるで賞

 選考委員より・・・
    「南≠東を巧みに言及している」

432日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:08:29.10
>>424
結論ありきはカルト宗教

433日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:14:41.38
他の人のレスだが、

宮内庁選定じゃなく、高槻のあたりにある「本当の継体天皇陵だろう」と言われる今城塚古墳からは、大量の埴輪が出土しているんだけど
その中に大王と近衛のほかに、何かをかざした巫女の1団らしい像が出てくるんだよね
太陽に向かって鏡をかざしている巫女達だろうと言われている
こういう像は他の古墳からも出土していて、古代の倭国の軍隊には兵の他にこういう巫女の一群が同行していた事が分かる


魏志倭人伝の卑弥呼に関する記述、纒向の状況、このイメージにぴったりだな。民や兵を祭祀で教化し纏める。

様々なルーツの人々がいた日本列島。
言語や風習も違う集団がいくつもいたんだよ。
全国平定を達成するには、何世代に渡り教化し、言語等を纏め同化させていく作業が有効だったんだろうね。

434日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:22:14.94
>>433
>全国平定を達成するには、何世代に渡り教化し、言語等を纏め同化させていく作業が有効だったんだろうね。

全国平定なんて卑弥呼の時代よりずっと後の話。

卑弥呼の時代は倭国(阿波)国内の統一で精一杯。   @阿波

435日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:22:32.94
鏡を持っているなら、鏡文化圏の中枢である九州北部から進軍してきたんだろう。
わかりやすいなあ。

436日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:23:47.59
>>433
まぁ継体自体が疑わしい史実の人だけど
古代なんてちょっとした想像だけで色んな説が出てくるよな

437日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:27:48.98
NKKでもキウスの時間でもいいけど
再開してくれ!!
畿内説への攻撃が続いているだけは分かるが、
スレが速すぎて、流れがわからん

438日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:30:36.81
>>434
淡洲、淡路洲、伊予二名洲、の違いも分からないのに偉そうだな。

439日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:31:14.88
>>437
攻撃とかいうレベルじゃないから見る価値あるかどうか

440日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:33:07.14
こ こ は 

九 州 説 が 

優 越 感 に 浸 る ス レ だ な

441日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:34:13.87
>>438
倭地だろ。

442日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:35:34.59
>>440
妄想で、な

443日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:35:36.79
>>429
奈良大学の文学部だろうな。

444日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:35:48.87
纏向は限界集落ってか(笑)
葛城なんだよな。

445subo2017/09/30(土) 18:37:12.14
>>433
騎馬民族の継体か

446日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:37:19.41
奈良大学(ならだいがく、英語: Nara University)は、奈良県奈良市山陵町1500に本部を置く日本の私立大学である。
1969年に設置された。 学校法人奈良大学によって運営されている。
文学部(4学科)と社会学部(2学科)および、通信教育部(1学科)と大学院(2研究科)を設置する。

447日本@名無史さん2017/09/30(土) 18:58:21.21
>>141
>一寸千里と周髀算経にあったとして 魏の役人はどうやってそれから1里を75mとする事にしたんだ
普通に考えてありえん <

周代の人も、魏の役人も、「75m」というメートル法度量衡を、
知っている筈がないよ。

知っていた事は、洛陽付近では、
夏至正午の8尺棒の影長が1尺6寸であり、
その地点から南へ千里行った場所では1尺5寸になり、
その地点から北へ千里行った場所では1尺7寸になる、
という計測値の存在。

だから、影長の一寸差を発生する南北距離が千里であるから、「一寸千里の法」と呼ばれ、
谷本氏が、影長の一寸差を発生する南北距離をメートル法で計算したら、
千里≒76〜77kmである事になり、
だから、1里≒76〜77mになって、1里=300歩であるから、
1歩≒25.5cmになり、
周髀算経の一寸千里の法は、
「1歩≒25.5cm≒1尺」という、里歩系単位と尺寸系単位の換算を規定している、
という事になった。

448畿内説助け舟2017/09/30(土) 19:00:12.76
8:00まで限定(記紀は相手にしない)

まず方位・・・誤記か誤写でよし、これを覆す根拠なし
次、ベニバナ・バジル・・・大陸との交流の証
次、宮内庁・・・・宮内庁の仕事に邪馬台国は含まれていない、皇国史観は畿内説と関係無い
次、伊都説・・・・行程を畿内説に振るのもいいが宣伝だけ、畿内説と関係無い

8:00まで限定

449畿内説助け舟 ◆ocvUpWbIok 2017/09/30(土) 19:03:23.30
一応、付けとく

450畿内説助け舟 ◆iM/eI.SIzs 2017/09/30(土) 19:06:38.56
次 距離・・・どの説も正解なし 邪馬台国論争の決定打ならないから議論しても無理

451畿内説助け舟 ◆iM/eI.SIzs 2017/09/30(土) 19:10:11.75
次 阿波説・・・・まだまだ解明すべき案件多し、研究の伸展に期待するとともに仲間を増やせ

452日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:12:00.59
>>146
>南へ水行20日+10日、陸行1月 九州からはみ出ますな<

「水行20日」は、不彌國から投馬國への側副傍線行程の日数説明。
「水行10日陸行1月」は、「從郡至倭〜女王之所都」の日数説明。
從郡至倭〜女王之所都の移動里数合計は、不彌國でほぼ「萬二千余里」であり、
不彌國でほぼ移動が終わっている事になるから、
邪馬壹國は、不彌國とほぼくっついている事になり、
九州からはみださない。

453日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:12:46.62
>>451
>次 阿波説・・・・まだまだ解明すべき案件多し、

まだまだ解明すべき案件ってなに?   @阿波

454畿内説助け舟 ◆iM/eI.SIzs 2017/09/30(土) 19:15:10.08

三角縁神獣鏡・・・国産でもなんでもいいが、大陸の匂いだ、多く出土するのは畿内中心

455畿内説助け舟 ◆ocvUpWbIok 2017/09/30(土) 19:18:45.50
次 炭素年代法・・・・・科学的だが問題も多いのは承知だが 現段階の結果を無視しちゃいかん
            異論があれば、伊都国の遺物で炭素年代法で測定しろ

456subo2017/09/30(土) 19:19:35.17
>>450
帯方郡から万二千里で女王の所都、行程で水行10日陸行1月

何が正解なしじゃ、ぼけ!

457畿内説助け舟 ◆iM/eI.SIzs 2017/09/30(土) 19:20:42.25
次 記紀による東征・・・・文学でやれ歴史に持ち込むな

458subo2017/09/30(土) 19:21:03.55
>>448

呉藍は孫呉との交流の証

459日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:23:06.89
南は南。

南を東にすると、大国投馬国の比定地を間違うことになるからね。

460subo2017/09/30(土) 19:23:09.89
>>454

三角縁神獣鏡は呉の職人さんが作った

461日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:23:32.16
>>456
どの説も正解なし
ハイ次

462日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:24:57.99
テンプレは、意図的に纒向遺跡に関する重要な事実を無視している。


◎纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。また発掘に携わった考古学者は、外部勢力の侵入を考えざる得ないとも言っている。


卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。
纒向遺跡全体でも3キロ平米、後世の京に匹敵する巨大さ。

湧水土壌であることを考えれば、民の住居は竪穴式住居の採用は難しかったんだろう。
高床式建物や掘立柱建物が延々と連なって建っており、住居や食糧庫だったんだろうね。

巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。

農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないかな。



◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。

さらに4世紀に突然消失し武器などの遺留物が無いこと(もぬけの殻)を考えると、記紀の四道将軍の記述と合致する。
◎纒向は、4世紀に意図的に解散し、民は兵として全国平定に駆り出されたと推測できる。

463日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:25:01.97
>>460
ありえんな

464日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:25:41.61
卑弥呼は呉の末裔、姫氏の女王

465subo2017/09/30(土) 19:26:06.92
>>461

おまえは罰として徐福と邪馬台国との関係について述べよ

466畿内説助け舟 ◆iM/eI.SIzs 2017/09/30(土) 19:26:12.82
>>556

行程はどの説も推理
ハイ次

467日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:26:40.53
魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。

もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。

つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。

魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。

奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。

問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。

巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。

不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。

九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。

468subo2017/09/30(土) 19:27:26.36
>>463

ヤマト政権は孫呉の復興であった

469日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:27:36.24
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。

卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。

470畿内説助け舟 ◆iM/eI.SIzs 2017/09/30(土) 19:27:59.43
徐福は倭人伝と関係無い

ハイ次

471日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:28:33.80
狗奴国は肥後熊本。
筑後平野には戦乱の痕跡が多い。

邪馬台国側の砦として大野城、基肄城の名が魏志倭人伝に見える。
狗奴国側の砦は、魏志倭人伝に名前がある菊池彦が将を務めたであろう菊池城だろう。

肥前と筑紫の国境になる
吉野ケ里から安永田遺跡の地域
同じく肥後と筑紫の国境になる
大牟田を中心とした地域

これらの地域は、鉄の武器や
戦死遺体が多く出土する。

筑紫と肥が長く戦っていた痕跡といえるだろう。

472subo2017/09/30(土) 19:29:33.39
>>466

おまえは罰として帯方郡からの万二千里を行程で述べよ

473subo2017/09/30(土) 19:31:10.53
>>470

徐福知らん奴が偉そうにすんじゃない

474畿内説助け舟 ◆iM/eI.SIzs 2017/09/30(土) 19:32:20.83
>>471
菊池は年代考証の裏付けなし
はい 次

475日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:34:29.28
>>473
徐福伝説でも信じてろ

ハイ次

476subo2017/09/30(土) 19:34:51.27
>>474

春秋時代の呉は滅亡の際熊本の菊池に移住し菊池一族となり後の狗奴国となる

477日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:35:38.67
有明海沿岸勢力、肥国王家の名が姫氏、卑弥呼の出自である。
古くは江南から稲作文化とともに渡来した由緒ある一族だが、卑弥呼が倭国女王に共立されたとき、熊本で反旗を翻した者が現れ、狗奴国の王となった。
壹與が肥前川上で女王に即位したとき、狗奴国は倭国に復帰した。

478subo2017/09/30(土) 19:36:09.89
>>475

おまえは基本がなっとらん

479日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:36:18.25
>>474
魏志倭人伝にあるんだから、3世紀以前だよ。

480畿内説助け舟 ◇iM/eI.SIzs2017/09/30(土) 19:38:00.71
めんどくさいからハンネ貼り付け

>>476

菊池一族が文献に出てきたのは何時だ

ハイ次と言いたいが小便してくる

481日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:38:10.93
>>467
>もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある

嘘を書くな
0点

482subo2017/09/30(土) 19:40:05.56
>>480

まず自分が何説か言え(恥ずかしくていえないのかな

483日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:40:16.28
>>480
魏志倭人伝だろ。

484日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:41:39.90
>>461
>帯方郡から万二千里で女王の所都、
これは動かせないから九州内は確実
奴国までで合計万二千里ですから奴国は女王国です。

485subo2017/09/30(土) 19:41:51.21
>>481

嘘じゃないな

486畿内説助け舟 ◇iM/eI.SIzs2017/09/30(土) 19:44:01.43
SUBO

倭人伝に基き是々非々で語れ

ハイ次

487日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:46:34.08
suboのレスはとても論理的で学術論文レベルなので、後でゆっくり読みたいから
1年分をここじゃなくてどこか他のスレにまとめて書いてくれないか
ここ以外で誰も使ってないスレならどこでもいい
雑記帳に書いて近くの公民館に置いといてくれてもいい

488畿内説助け舟 ◇iM/eI.SIzs2017/09/30(土) 19:47:01.16
>>482

畿内説でも九州説でも無い
神を信ずるか信じないか程度の質問するな

ハイ次

489subo2017/09/30(土) 19:47:28.32
>>486

万二千里を行程にしたらどうなるんだ、早く答えろ

490日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:48:08.49
>>485
一大率が置かれたのは自女王国以北
伊都国で常に治める
自女王国以北に居るのに伊都国に常に居れるはずなかろ。

>一大率が伊都国に置かれているとある・・・これは嘘。

491subo2017/09/30(土) 19:49:10.01
>>488

ジャマイカ説かwwwww(はい終了

492畿内説助け舟 ◇iM/eI.SIzs2017/09/30(土) 19:49:34.65
各説で収まるところなし

ハイ次

493畿内説助け舟 ◇iM/eI.SIzs2017/09/30(土) 19:50:54.63
>>491

チガウ 

はい次

494畿内説助け舟 ◇iM/eI.SIzs2017/09/30(土) 19:53:34.68
もう終わりか?
畿内説への反論は

495日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:54:13.27
魏の使者が末盧国に到着するのは夏至の頃。奴国→不弥国は秋分、投馬国を発つのは10月後半だな。

496畿内説助け舟 ◇iM/eI.SIzs2017/09/30(土) 19:55:29.98
>>490

伊都説に興味なし

ハイ次

497畿内説助け舟 ◇iM/eI.SIzs2017/09/30(土) 19:57:23.26
あと5分
約束があるから後一つぐらい

498日本@名無史さん2017/09/30(土) 19:58:07.32
>>451
>次 阿波説・・・・まだまだ解明すべき案件多し、

まだまだ解明すべき案件ってなに?   @阿波

499日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:00:47.80
>>496
伊都説ではないが
私は結構興味あるけどねえ

500畿内説助け舟 ◇iM/eI.SIzs2017/09/30(土) 20:00:54.31
>>498

阿波説には期待してる

研究費をもっと採れ、

8:00 はい終了    

501日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:01:19.68
>>498
伊予二名洲、淡洲、淡路洲

502日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:06:11.26
>>496
嘘吐いてるの認めたんですね。

503日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:09:19.89
糸島を含む福岡平野は
4世紀〜6世紀の痕跡が多いですね。
西新町遺跡の交易品や木簡、硯、
鴻臚館などは、盛んな交易文化を
表していますね。

504日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:11:01.54
>>147
>伊都国=イツツヒコのいた山口と考えれば、倭人伝は中国地方の話と判明する<

判明しない。
記紀の記載は、主観的な半分×書であるから完全な論拠にはならず、
魏志は、山口は、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」として、
共立諸国とは完全に区別し、違うものだ、としている。

>邪馬台国は吉備のことだろう<

筑紫であっても山口であっても、「南≠東」だから、吉備は×。

505日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:15:34.16
>>156
>畿内=狗奴国 説に同意 <

「南≠東」だから、×。

>これがおおむね論理的合理的に書いてある<

「おおむね論理的合理的」と思うんなら、その根拠を紹介してくれ。

506日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:16:54.97
6世紀から7世紀には、
糸島では、文句なく国内最大の
製鉄高炉遺跡が存在します。

これはたたら製鉄ではなく斜め式高炉で、
連続製鉄が可能です。
十数基が発掘されており、
採取された遺物は30トン以上です。

大量の武器が必要だった
白村江などでフル稼働したことでしょう。

507日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:18:46.87
>>501

それだけ?  他にもっとましな解明すべき案件はないの?   @阿波

508日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:24:41.40
>>447
それはありえないな
大体一寸千里は計測値ではなく想像の数値だろう
数字のキリが良すぎる

南北千里の距離で影の長さの差が丁度一寸なんて
自然の中に存在する数値がこんなに都合よく一致する
確率はほぼない
これを基準にして周は度量衡を定めたというならともかく

なので、周牌算経に一寸千里とあったからといって
周の時代の一里75mだった、という事の証明に
する事はできない

509ここまでのMVP2017/09/30(土) 20:24:45.43
>>496畿内説助け舟 ◇iM/eI.SIzs
伊都説に興味なし
ハイ次
  ☝
賞は 
少し考えて見る
畿内説のスレだから
スレタイに沿ってるし、IMPACTあるし 


ゴメン 「ここまでのMVP」降参

510日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:25:36.37
>>490
珍読九州説に未来なし

511日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:28:37.10
>>157
>吉備が大和王権に服属したのは崇神の代 <

大和は、倭国の別種の旧小国であるから、
吉備が服属したとすれば、それは筑紫倭国に服属した。

>それまでは対立勢力だった<

いや、吉備は、元は出雲の支配地であり、
海峡の天孫族の国生み植民で、出雲と天孫族の混在状態になり、
五瀬命らの東征には少し援助し、
285年の扶余の戦争で、扶余や東沃沮の「有槨」流民や前方後円墳流民が、
筑紫や出雲を経由して吉備に来て、
更に、吉備から?、讃岐や阿波や播磨に流れ、
一部は大和にも流れて、ホケノに葬られた。

512日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:30:42.05
こいつなんんだ、、、、いきりすぎ
「畿内説助け舟 ◇iM/eI.SIzs」

◇iM/eI.SIzs?検索してみる

513日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:33:17.77
大阪堺市から南全域は遺伝的にも頭の程度が低いのガチ
紀州和歌山は頭が良い人が多いだけに何でだろう?

514日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:36:55.31
畿内スレに張り付て延々とバカ丸出しの事を喚き続けてるキュウシュウセツ見てるとこういう基地外にはなりたく無いもんだと思えるわ

515日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:36:55.86
>>160
>倭国大乱の主役は吉備 <

「南≠東」だから×。

>吉備が脱出雲を進め、覇権を主張しだした
(考古学的には、出雲と同形の銅剣の出土がなくなる) <

天孫族の国生み植民や、五瀬命らの東征や、倭国の「自昔・・・東征毛人55国」があって、
徐々に、倭国の支配地になった。

>これに呼応した30ヵ国が共立し邪馬台国=吉備の覇権が成立<

「南≠東」であるし、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と区別されているから、×。

>ヤマトは本来は本州という意味<

大和は本来は「大倭」。

516日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:40:10.93
鴻臚館の通商は官営

517日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:41:00.90
畿内説
3世紀に馬がいた???? 紅花栽培も3世紀
朝貢の織物の赤は紅花染色だって????

だめだこりゃ、

518日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:44:20.58
>>167
>崇神の代になっても四道将軍を派遣しなきゃいけなかったわけだから<

大和は、倭国の別種の旧小国であるから、
四道将軍がいたとしても、派遣主体は筑紫倭国であり、
大和は、倭国の東征のお手伝いレベル。

>畿内大和王権が卑弥呼の時代に吉備を制圧できてなかったのは確定<

始めから大和は、倭国の別種の旧小国。

>吉備が制圧できてないのに北部九州が制圧できるはずがない <

吉備も大和もどちらも、筑紫倭国の附庸国レベル。

519日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:46:34.35
>>164
>畿内説は軍事大国が周辺国を併合した倭国ではない<

大和は、始めから、倭国の別種附庸国の旧小国。

520日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:51:48.27
>>513
兵庫は明石から西はバカとヤンキーしかいないと言われている

521日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:51:59.55
>>171
「南→東」の嘘つきダマシの大和説の情弱が、
ご自分の脳内ヤマトセツをいくら宣伝しても 、
九州説には、痛くも痒くもないんだがね。

522日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:52:29.35
短里は欺瞞が多すぎる

周の時代に使われていた尺度だそうだけど
それの一里がどのくらいの距離かわからないから
周の時代のものという触れ込みの
漢の時代に書かれた周髀算経の中にある
八尺の棒の影の長さが
南北千里で一寸の差が出るという話を元に
現在の知識で計算したら一里75mになったと

そもそも、周の時代の尺度がわからないなら
一寸の長さも八尺の棒の長さも何もかもわからないだろうに
どうやって割り出したのか不思議でしょうがない

523日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:56:53.81
◇iM/eI.SIzsで出てこない、誰か出てきたか

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
>>496畿内説助け舟 ◇iM/eI.SIzs
伊都説に興味なし
ハイ次
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

しかし見事だよな、畿内説だが他説批判してる様じゃダメってことかな?

524日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:57:07.27
>>522
一尺が一寸の十倍だとわかれば
計算できるよ。
あなたには分からないかもしれないけどね。

たとえ畿内説の人でも、過去にそこを理解できない人は
いなかったけどなあ

525日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:01:13.82
八尺の棒は投げたほうがいい

526日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:04:00.26
キュウシュウセツってよくこんなにバカで生きていけるな
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだな

527日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:14:16.24
>>180
>考古学ではホケノ以降、巻向に吉備勢力が侵入してきた様に見える <

倭地では、卑弥呼や壹與の頃は「有棺無槨」であり、前方後円墳もなかったようであるから、
吉備とホケノの「有槨」墓は、卑弥呼や壹與の後に、
扶余や東沃沮の有槨部族流民の渡来があった可能性が高く、

筑紫の那珂八幡や東瀬戸内の前方後円墳は、
壹與遣使の「天円地方」思想の学習と、
モンゴル〜高句麗の前方後円墳部族流民の渡来や、伝搬模倣があった可能性が高い。

528日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:14:25.43
そうだといいね

529日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:16:28.59
>>496
お前の興味なんか知るか

530日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:17:41.79
>>181
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説の人は、
頭が悪いから、皇国史観国家主義学者の嘘つきダマシの話を信仰するだけであって、
自分の考えを説明できないんだよ。
かわいそうだね 。

531日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:18:36.02
>>522
魏志倭人伝から割り出したんだろ。

532ここまでのMVP2017/09/30(土) 21:18:40.86
>>523
俺も悩んでる 今でも
なんだろう 

「遊び人で賞」で決定と思ったが、、、、、、

533日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:19:07.25
>>524
そもそも周の時代の一尺はいくつだったん
今わかってる中国の歴史内では一尺は大体15〜25cmくらい
短里は普通の里の6分の1ぐらいと九州説がホラを吹いているから
それを元に直してみると
周の一尺は3〜4cmくらい?すると一寸は10分の1だから3〜4mm?

一寸千里が実測だとすると3〜4mmの影の長さの差を
計測したという事になる
これはほとんど誤差

それに短里で計算すると八尺は24〜32cm
千里は75km
影の差が3〜4mm
これは多分計算するとそうはならない

534日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:20:02.24
>>527
>壹與遣使の「天円地方」思想の学習と、

平原遺跡の方形周溝墓を忘れるなよ。
あれこそ倭国女王の墓だろ。

535日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:20:19.06
>>531
魏志倭人伝から割り出すと
一里40m〜180mくらいになるらしい

536日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:21:31.18
>>533
>千里は75km

魏志倭人伝の中の距離にピッタリだな。
つでに卑弥呼の墓の百歩も計算してくれ。
平原遺跡の大きさになるから。

537日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:25:00.75
>>532
すれ主も このくらいの裁量があれば2ちゃんで騒ぐ必要ない

538日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:25:32.90
>>536
ピッタリになるように作り上げられた数字で計算したから
そうなるに決まってる
むしろピッタリなら逆に怪しいわ
長い距離を正確に測る方法も無かった時代に
つまり短里は九州説に都合のいい様にでっち上げられた尺度

539日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:27:20.33
>>184
>>その点、北部九州は甕棺墓地域がひとつの指標となり、ある程度の纏まりは感じられるが <

>つまり衰退して、ほぼ滅んだんだな<

いや、倭人の中には、
甕棺部族と、
支石墓→箱式石棺→石室の発展系部族と、
方墳円墳→周溝→前方後円墳部族などがあり、
甕棺が卑弥呼の頃を最後に廃れただけ。

540日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:27:43.61
>>510
珍読は伊都国に一大率がいたとか読んでる馬鹿w

541日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:30:13.15
>>191
大和説最後の手段、「南→東」などの嘘つきダマシ。

542日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:30:44.48
>>538
陳寿は九州説のために魏志倭人伝を書いたわけじゃないぞ。

543日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:33:14.22

544日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:34:05.76

545日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:35:39.86
>>542
その書物を九州説は
自分の都合のいいように好き勝手に読み替えるから困ったもんだ

546日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:36:23.85
キュウシュウセツってよくこんなにバカで生きていけるな
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだな

547日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:38:04.26
>>192
>土器や古墳は畿内に先行してたけど 識者のいう王権 王朝のような地域の首長が
何かを主導した形跡は未解明。<

土器も古墳も北部九州主導。

>というのは 吉備地方は明らかに二系あったことが古形だから。後の吉備上道、吉備下道につながる。
系譜記録からいうと上道はヤマトタケル東征にしたがった将軍で上道の後裔は畿内により東に残る
後、韓地との絡みで反抗気味で 吉備本国の上道本宗は絶えた。<

ヤマトタケル東征は、当然筑紫倭国の「東征毛人55国」の一例であり、
ヤマトタケルも、筑紫倭国の中の一武将。

>元々吉備氏は大和三輪氏の支族というから 広くは出雲族の内。
ただ、その辺りは見解の分かれるところ。<

吉備も三輪山も、元は出雲系。

548日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:40:30.70
里数は倭人伝で変わることは無いと思う・・・
倭人伝記載の一里を現在のなんのメートルにするのかが論点だと想うが
九州説は明確に一里を比定していますが、畿内説はついていけない

549日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:41:03.97
>>193
かわいそうに、脳の弱い大和説者は、
権力学者の「南→東」などの嘘つきダマシを妄信隷従するだけしか出来ず、
自分の考えを説明できない。
痛ましいことだ 。

550日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:42:02.75
弥生中期
邪馬台国畿内説 Part281 [無断転載禁止]©2ch.net	->画像>3枚

弥生後期
邪馬台国畿内説 Part281 [無断転載禁止]©2ch.net	->画像>3枚


もう明白じゃん

銅矛圏=邪馬台国
銅鐸圏=狗奴国
出雲、吉備=中立国

551日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:42:52.41
>>196
無理。
大和も、筑紫倭国からの入植を受けてるから。

552日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:43:37.15
大和説っていつも怒ってんな

553日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:44:20.35
九州説の計算が合うのは、それが事実だからだろ。
畿内説とやらの計算が合わないのは、それが嘘だからだよ。

554日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:45:01.89
>>197
幾ら大和説が「南→東」などの嘘つきダマシを言い張っても、
筑紫倭国説には、歯が立たない。

555日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:45:12.05
邪馬台国論叢で行程はどうでもいいと思うよ
北部九州まで使者が着いたのは各説とも確定だが、その後は闇

後は倭人伝に基く物証だよ

556日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:46:24.23
>>555
【邪馬台国はどんな国?】

「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。

「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。

「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。

「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。

三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。

557日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:47:03.86
>>555
それは行程だと畿内説とやらが不利だからかな?

558日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:47:37.23
>>556
>>550
銅矛圏=邪馬台国

明白

559日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:47:37.60
キュウシュウセツってよくこんなにバカで生きていけるな
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだな

560日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:47:50.95
>>545
矛盾無く読む方法を考えたら伊都国が卑弥呼の都だとなっただけで
自分の都合のいいように九州説に合わせて読もうとしたのではない。

561日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:48:03.44
>>199
>狗奴国の領域がわかるな <

幾ら騙そうとしても、「南≠東」だから、狗奴國の領域は火の国の中九州以南。

562日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:48:14.48
>>559
>>550これ見ても畿内が邪馬台国だとか言ってるとしたら相当アホだぞ

563日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:51:12.30
>>555
全て矛盾が無くなるように考えないと
陳寿は気が狂ってたんじゃないから
辻褄の合うように書いてるよ
辻褄が会わないのは読む方が変な読み方してるから。

564日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:51:44.46
キュウシュウセツってよくこんなにバカで生きていけるな
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだな

565日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:52:10.08
>>200
>それは租庸調みたいなものだろう。 もしくは博多が交易の拠点だったから。<

「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
であったから、
筑紫が、搬入上納の中心であった。

566日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:54:05.33
>>205
>狗奴国の中心地でしょうな <

「南≠東」だから、×。

567日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:54:34.60
>>565
東に55ヵ国、西に66ヵ国を征服してる

つまり拠点は日本列島の真ん中あたりにあったわけだ

北部九州なら西に攻める場所がないだろ

568日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:55:20.62
>>550で確定

考古学的に明らかなのに何を畿内説なんてアホなことを言ってるんだろうな

569日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:56:04.07
キュウシュウセツってよくこんなにバカで生きていけるな
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだな

570日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:57:38.01
>>208
>そだね。ただまあ卑弥呼共立の一勢力だったかもね<

倭種は、共立30国とははっきり区別して書かれているから、×。

571日本@名無史さん2017/09/30(土) 21:59:52.35
>>560
矛盾だらけのクセに何を言っている

572日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:02:11.44
>>215
>邪馬台国の中心は吉備
狗奴国の中心は畿内 <

「南≠東」だから、どちらも×。

573日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:02:27.56
博多湾沿岸は後期の広矛というのはわずかしか出ない

574日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:03:41.88
>>548
当時の中国の一里は400m
一里75mなんて中国の歴史の中で使われていた試しがない
それでピッタリとかいわれても
ピッタリになるように都合のいい数字当てはめたんだろうたんだろうというだけの話

575日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:04:29.53
女王国の中心地だから安定したんだろうね。

576日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:05:21.94
>>574
畿内説だと全然計算が合わないよね。

577日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:06:56.33
>>553
当時の計測でピッタリになるのは逆に怪しい
そもそも魏志倭人伝の一里の長さが場所によって40mだったり
180mだったりするから
それでピッタリになるわけがない

578日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:07:20.90
畿内や出雲と同じ文化グループに属する博多湾沿岸では
広矛の祭祀をやっていないということ

579日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:07:35.83
>>576
いや一里200mくらいにすれば合うんじゃね

580日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:13:15.37
キュウシュウセツってよくこんなにバカで生きていけるな
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだな

581日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:13:52.54
岡上は邪馬台国は畿内で卑弥呼の墓は平原・・・伊都が出ると以上に岡上コールが出るが彼は暇人でない
キウスは完ぺきにアンチテンプレ・・・・特定がむつかしい、誰でもキウスに指定される
SUBOはなんでもいいから参戦する楽天家・・・時折良い事言う
ザラコクは理屈に合わん事大嫌い・・頑固者ともいえる、自己中
スレ主はこのスレ進むだけで納得・・自論が一環して無いから匿名カキコミ 
@阿波は他説批判はあまりしないが、自己主張に懸命・・・畿内説が無視するからいら立ってるから他説に振る事しばしば
畿内説に助け舟・・・邪馬台国論争大嫌いだが、嫌いだから顔をダス変な奴(最近ネトウヨかな)
あと、登場人物いればよろしくネ

582日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:13:59.02
畿内説がなぜ一里200mの中里とかで計算すれば
1万2千里が畿内になるとか言い出さないのは
それが中国の歴史上使われていた証拠がないから
しかし九州説は平気な顔をして歴史上使われていた痕跡のない
短里とか言い出す

583日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:14:42.47
>>577
逆にリアルな誤差があっていいじゃないか。

584日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:15:14.51
>>582
魏志倭人伝に基づいているからだよ。

585subo2017/09/30(土) 22:17:29.40
>>579

伊都国から300キロ(1500X200)は広島あたりになるぞ

586日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:18:21.63
>>584
基づけば一里75mは間違いなんだが
わかる範囲では一里40m〜180m
すなわち距離は不正確でアテにならないし
それがピッタリ九州を指していようはずがない

587日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:19:33.97
>>585
それじゃ一里400mだな
何だ畿内説でも計算合うじゃん

588subo2017/09/30(土) 22:21:00.72
>>587

おいwwwwwww

589日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:21:14.84
キュウシュウセツってよくこんなにバカで生きていけるな
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだな

590日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:21:20.68
>>583
誤差なんてもんじゃないわ
4倍も違いがあるぞ

591日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:22:26.77
実際のところ短里は九州説のお爺さんの股下の長さから割り出されている

592日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:27:03.64
しばし休憩

小池百合子はトンデモ無い奴だな
彼女の原点は都庁戦で自民党が公認しなかった恨みつらみ
勝てば官軍そのものだが、長続きはしない
国民は彼女の理念=自民党の理念とばれてる

脱原発、消費税率凍結何て、彼女はサラサラ思ってない。自民党への恨みだけだよ

スマン
歴史は「勝てば官軍」だから少しカキコミました
皇国史観が残る限り畿内説は生き延びるでしょう・・・宮内庁には迷惑な話、邪馬台国は皇族と関係無い

593日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:28:48.18
>>555
>後は倭人伝に基く物証だよ

其山有丹   @阿波

594日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:30:12.68
とにかく律歴志という度量衡の解説書と
出土した基準尺というモノサシから確認された中国の歴代の度量衡は
どの時代もだいたい一尺約20cm
一歩約140cm
一里約400m
一里75mの短里は律歴志、基準尺のどちらもないから
存在したとは言えない

595日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:30:43.45
>>588
九州説のマネをしただけだが

596日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:35:19.42
>>589
「キュウシュウセツ」連呼祖父さん悪いけど、
読みずらいからできれば 「九州説」と漢字でよろしく

597subo2017/09/30(土) 22:38:26.42
>>592

小池百合子はアメポチなんだろ、アメポチはちょっとな

598日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:39:52.44
>>594
邪馬台国インドネシア説様の登場だ

599日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:43:31.69
こんばんわ

読むのに少し時間がかかった

気になったが、方位について海遊録を持ちだした学者は誰なの、

600日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:45:18.29
>>578
現実逃避やめなよw

601日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:45:42.95
短里はないと30年くらい前に結論づけられてるのに
いまだに主張する奴がいるもんだな

602日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:46:01.89
>>599
テンプレだが、畿内説の学者の誰かは1に聞くがよし
逃げ回ってるがなWwwww

603日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:48:32.29
長里だと赤道まで行ってしまうのがはっきりしてるのに
いまだに主張する奴がいるもんだな

604日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:49:07.17
>>586
途中の経由地まで細かく書いてある。
邪馬台国が九州北部であることは間違いない。

605日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:49:37.42
長里、長里っていう奴だけは、はっきりアタマが悪いとしか思えない

606日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:49:48.81
>>601
魏志倭人伝があるからな。

607日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:50:24.53
>>601さん
ご教授ください 
浅学でスイマセン

>短里はないと30年くらい前に結論・・・<
何処で結論付けられたのでしょうか、学会ですか?学会は結論は出してないと思いますが

何処ですか

608日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:50:27.85
キュウシュウセツってよくこんなにバカで生きていけるな
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだな

609日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:51:21.69
>>604
北部の端っこ辺りの不彌国の次に水行とあるから
少なくても北部を通り過ぎて船出するのは間違いない

610subo2017/09/30(土) 22:53:19.98
>>608

パーしかだせないのか、たまにはグー、チョキをだせ

611日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:53:33.81
>>609
水行は全体にかかる日数を帯方郡から数え直したものですよ。

612日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:56:01.81
今日はキウスが大暴れしてるのか

613日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:56:40.76
キュウシュウセツはグー

614日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:57:55.16
畿内説が有力だと言うには

このスレでは、スレ主他が畿内説にドロを塗っているとしか思えない

畿内説にも弱点はある。他説もしかり

615日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:59:50.83
キュウシュウセツってよくこんなにバカで生きていけるな
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだな

616日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:01:19.66
キュウシュウセツはチョキ、キナイセツはパー(勝ったな

617日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:02:08.24
>>568
九州説
考古学者が誰も言わない「考古学的に明らか」を言い張る痛い人

618日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:03:00.02
>>607
そもそも短里の存在そのものが確認されてないんで
学会が取り上げないんだろ
論文なら篠原俊次という人が書いた
「一寸千(短)里」説批判というのがあるな
もっと他にも批判してた本があったけどタイトル忘れた

619subo2017/09/30(土) 23:06:45.30
畿内厨は末蘆国から伊都国までの500里は何キロだと思ってるんだ?

620日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:07:12.26
魏志倭人伝がそのように書かれていることは確かだろ

621日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:07:46.96
>>618
>そもそも短里の存在そのものが確認されてないんで

魏志倭人伝を読めよ。

622日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:08:32.06
キュウシュウセツってよくこんなにバカで生きていけるな
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだな

623日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:09:10.42
>>581 こいつが岡上キウス

624日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:09:24.73
>>619
行程記事は使わないって言ってるんだろ

625日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:10:49.66
もういいだろう
畿内説をいじめるのは

626subo2017/09/30(土) 23:10:55.47
>>624

500里は行程じゃなく里程だろ

627日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:11:01.71
>>621
うん
確認した人はいないな

628日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:13:12.53
行程パズル程度なら爺さんの頭でもできるからな

629日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:14:37.75
>>626
使わないと言っている

630日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:14:50.04
>>611
魏志倭人伝に書いてある帯方から北九州の端っこの
不彌国までの里数を合計すると1万7百里

帯方から邪馬台国まで1万2千里だから
不彌国で行程はお終い 水行は今までの行程を1から書き直したと
いう事にするなら千3百里余るぞ

631日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:20:43.57
>>621
魏志倭人伝に書いてねーから
書いてあるとすれば律歴志
もちろん短里が記載されている律歴志は存在していない

632日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:21:37.22
もう一度

弥生中期
邪馬台国畿内説 Part281 [無断転載禁止]©2ch.net	->画像>3枚

弥生後期
邪馬台国畿内説 Part281 [無断転載禁止]©2ch.net	->画像>3枚


もう明白じゃん

銅矛圏=邪馬台国
銅鐸圏=狗奴国
出雲、吉備=中立国

633日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:23:34.53
なんてたって九州説

634日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:24:04.29
ぃぃぇ

635日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:24:20.91
里数で不彌國までで
振り出しに戻って日数換算なんてそんな書き方はしない

636日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:26:55.32
キュウシュウセツってよくこんなにバカで生きていけるな
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだな

637日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:28:42.62
>>635
まあ九州にしたいがための詐欺読みだよねー

638日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:30:15.81
>>636
そう言う破綻者だから四六時中ネットに張り付いていたりするわけだがな。

639日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:33:28.31
九州北部は邪馬台国とするには最も不適当な場所
せめて中部

640日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:39:24.24
くやしいけど畿内説はまちがってるよ

641日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:44:56.11
>>627
魏志倭人伝の文章と現代の地図を見比べれば確認できるのだが。

642日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:45:49.43
>>641
誰が確認した?

643日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:47:07.82
>>640
それをなぜ九州説の人が悔しがるの?

644日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:48:38.44
>>630
途中に余という文字があるよね。
ぴったりではなく少し多いという意味。
なので残りは千三百里よりは少ない。
まあ千三百里だとしても、魏志倭人伝の中の里だとあと100キロメートルくらい。
筑後の山門だとかの説やザラコクの説もこの辺りだな。

645日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:49:40.47
>>639
熊本は邪馬台国の南にある狗奴国だからね。
一番南にとってもせいぜい筑後平野まで。

646日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:49:57.34
>>642
自分で測ればいいだろ。

647日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:52:45.56
>>644
ヘタクソな詐欺なんだよね

648日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:54:17.77
>>644
ほんなら水行うんぬんは
帯方から書き直したものではないという事でいいんだな?
不彌国から少なくとも100kmは水行した場所に
邪馬台国がなきゃ九州説でもおかしな事になるんだからな

649日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:54:57.01
>>646
ほらね

確認した人はいない

650日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:57:10.08
五百里や百里でも書いてるのに、千三百里を省略して
邪馬台国に至る前に振出から日数換算したら
日本人から日本語で場所聞いてもわからないよ

651日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:57:28.83
>>635
東京駅から品川駅まで何キロ、品川駅から新横浜駅まで何キロ、、、新大阪駅まで何キロ、在来線に乗り換えて梅田まで何キロ。
東京から大阪まで約3時間です。

普通に使うだろ。
しかも終着地が大阪という地名でなくてもいい(新大阪か梅田かは問題ではない)。
女王国(伊都国、奴国)も同じこと。
伊都国と奴国が一体となって発展していれば、どちらまででもいい。

652日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:58:46.50
>>650
伊都国や奴国までで、邪馬台国まで記述したことになっているんだよ。

653日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:59:38.48
>>650
途中は概算なんだよ。
朝鮮半島なんか七千里とばっさりだからね。

654日本@名無史さん2017/09/30(土) 23:59:55.87
キュウシュウセツってよくこんなにバカで生きていけるな
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだな

655日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:00:01.78
>>648
いやちょっと何を言っているのかわからない。

656日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:01:00.48
大阪府庁ってどこにあるんだっけ?

657日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:01:19.66
>>651
それキロで新大阪、梅田まで説明した後に約3時間だからわかるよ

658日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:01:27.59
つかいまだにキュウシュウセツって行程の俺解釈なんてもんで語れると思ってるんだな

あまりのバカさ加減に可哀そうになってきた

659日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:03:09.46
>>652
お前がそういうことにしてるだけだろ

660日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:04:50.71
伊都国までは真面目やってた魏使

661日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:04:58.64
魏志倭人伝は、伊都国や奴国が邪馬台国の中枢部であることを前提とした文章なんだよ。
そうすると読者にはどこが中心なのかわかりにくいだろ。
だから奴国はすごく大きいけれど、郡使が滞在するのは伊都国だよとわざわざ説明して、さらに伊都国の一大率が実質的な支配機構であることを紹介している。

662日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:06:12.50
>>651
お前、普通じゃないから

663日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:06:59.57
畿内まで行くなら、わざわざ伊都国に寄らないし、あと何千里もあるのに百里単位で九州北部を細かく移動しないって。

664日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:07:18.66
キュウシュウセツってよくこんなにバカで生きていけるな
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだな

665日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:07:24.41
>>567
その記述は邪馬台国の版図じゃないぞ

666日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:08:27.87
>>661
いつまでたっても10週説は倭人伝の我流読みで解決しようとする
だから100年間進歩できなかった
そして消えてゆく

667日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:08:40.13
>>655
帯方から不彌国まで1万7千里です
邪馬台国まで1万2千里です
不彌国から千3百里ほど水行しないと邪馬台国まで辿り着きません

不彌国の次にある水行うんぬんは
不彌国から出発したとしなければ全体の計算が合いませんね?

668日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:08:51.57
>>661
それなら伊都国か奴国が女王之所都と書くよ
お前の解釈だと日本の首都は日本といってるようなもんだろ

669日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:08:55.92
日程は里程をはじめから(帯方郡から)書き直しただけだとわかると、魏志倭人伝の疑問は全て氷解する。

670日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:10:07.04
>>667
なんで水行なのさ。
水行はもう終わっているよ。

671日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:10:38.34
>>666
一週間多いよ

672日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:11:08.27
伊都国までしか行ってないんじゃないの?
後は伝聞

673日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:12:12.51
>>670
珍読乙

674日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:16:52.71
「ぼくちゃんののうないこうてい」

これがキュウシュウセツの全てってんだからな
もう本当に猿以下の知能に憐憫の情しか出てこない

675日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:17:11.93
参問倭地 絶在海中洲㠀之上

半島には倭地はない

676日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:23:24.52
九州説は今宵も惨敗かあ

677日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:28:14.35
敗けるとかいう以前だろ

まさかいまだに「ぼくちゃんの考えたすごい行程」とか言い張って話になると思ってるとは思わなかった
こんな糞虫が人間様と対等に話してるつもりになってると思うだけで笑える

678日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:30:18.84
>>670
北九州の端の不彌国までの里数の合計1万7百里
女王国までは1万2千里

少なくとも不彌国から千3百里はどっか行かなきゃ
邪馬台国に着かないから
不彌国の次に水行20日…と書いてあるのは
帯方から書き直したとすると千3百里余る

つまり魏志倭人伝の記述によれば邪馬台国は九州北部ではないし
水行20日の部分は帯方から書き直したとすると矛盾が出てしまう

679日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:31:48.22
>>672
伊都国が都だからでしょ。

680日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:32:40.73
>>678
あと千三百里(約100キロ)では九州北部を出ないよ。

681日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:35:52.98
>>679
それ珍読

682日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:35:55.50
>>680
長里換算なら畿内になるんだなこれが

683日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:35:57.23
倭奴国と伊都国と書き改めた倭国の官僚たちは優秀だったよ。
漢字を自由に使いこなしていたということだ。
中国側はそんな書き換えをする必要がないからね。

684日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:36:54.51
>>682
そこだけ里の長さを変えるなよ。
対馬海峡が三千里だから、その半分もない。

685日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:39:31.73
>>680
短里とか無いからw

686日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:40:02.70
>>684
変えてなぜ悪いんだ?

687日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:40:04.25
>>680
不彌国からまだ移動しなければならないんだったら
不彌国の次に出てくる日数表記の部分は
それまでにかかった里数を日数に直して
帯方から書き直したものではないって事だ

688日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:40:08.53
萬二千餘里で女王國以北までが終る
そこから先が女王國

689日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:40:20.37
漢字の読み書きが出来たのは伊都国だけなんだろうな

690日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:40:43.96
>>684
九州説こそ里の長さを変えるな

691日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:42:56.40
>>683
別の国だよ

692日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:43:56.43
>>687
なぜそんな俺様ルールを他人に押し付けられると思ってるの?

693日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:44:55.29
>>680
その変な単位は誰がどうやって発明しやんだ?

694日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:46:09.11
>>692
魏志倭人伝にある里数を足すとそうなるんだから仕方ないだろ
文句は陳寿にでも言ってくれ

695日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:47:12.34
伝聞でテキトーに報告書を書いたんだろ魏使がさ

出張先でサボリーマン化してたんだよ

696日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:48:29.29
>>690
畿内説はもっと魏志倭人伝を読めよ。

697日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:49:22.46
>>693
誰が発明したかは知らんが、魏志倭人伝はそのように書かれているけど?

698日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:49:34.75
>>694
つまり理由も説明できないダメダメのトンデモ説ということですな
お引き取りください

699日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:50:32.10
萬二千餘里の先の日数行程の女王國が倭人伝どおり北部九州の南にあるか、方位が違うかということ
考古学的に北部九州沿岸と共通し、5万、7万の国が想定できる文化グループは
東の本州側にある

700日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:50:38.04
>>687
>不彌国からまだ移動しなければならないんだったら

伊都国が滞在する目的地だから、もj移動する必要はないよ。

701日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:50:49.14
>>697
書いてあるって証拠は?

702日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:50:50.50
>>696
珍読はしないよ

703日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:51:18.08
>>696
何回も読んだけどやっぱり短里はなかったんじゃないの

704日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:51:35.89
>>699
一万二千里の移動にかかる日数が説明されているんだよ。

705日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:51:48.48
>>700
という根拠は?

706日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:52:17.22
>>704
そういう理由はなんだ?

707日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:52:32.79
>>701
自分で読めよ。
魏志倭人伝も読まずにここで駄々こねても意味ないだろ。

708日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:53:19.47
>>707
ほらな、証拠がない

709日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:53:23.46
>>703
対馬海峡が三千里だけど、一里は何メートルになる?

710日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:53:28.82
>>704
半島には倭地はない

711日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:54:03.21
畿内説が壊れたレコードのようになった。

712日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:57:18.37
>>699
九州北部だって、博多奴国だけで二万戸いくのだから、余裕。

713日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:57:59.88
>>709
200kmを3000で割るから67mくらいかな!

714日本@名無史さん2017/10/01(日) 00:58:25.13
>>698
>>700
帯方より出発して里数表記のある不彌国までの合計里数
1万7百里
邪馬台国までは1万2千里

つまり不彌国から千3百里どっか行かなきゃ
邪馬台国には着かない

なので不彌国の次に出てくる水行20日は
不彌国から出発するとしなければ千3百里余る
小学生でもわかるだろこんなもん

715日本@名無史さん2017/10/01(日) 01:02:09.87
>>712
九州北部から日数で2月間

716日本@名無史さん2017/10/01(日) 01:04:19.57
>>709
魏の一里は400m以外にあったって確認取れてないよ
都の」洛陽に近い所はそうでもないが
地方に行けば行くほど一里は短く表記される傾向がある
日本だけじゃなくてインド方面も
良くわからない土地で計測がちゃんと出来なかった証拠だろうね

717日本@名無史さん2017/10/01(日) 01:08:59.06
>>709
帰納もしないで逆算とか笑えるわ

718日本@名無史さん2017/10/01(日) 01:14:37.15
◆FAQ 19 >>32
 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
 江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである 。
 

719日本@名無史さん2017/10/01(日) 07:22:24.67
>>716
魏志倭人伝くらい読めよ。

720日本@名無史さん2017/10/01(日) 07:37:36.13
弥生中期
邪馬台国畿内説 Part281 [無断転載禁止]©2ch.net	->画像>3枚

弥生後期
邪馬台国畿内説 Part281 [無断転載禁止]©2ch.net	->画像>3枚


もう明白じゃん

銅矛圏=邪馬台国
銅鐸圏=狗奴国
出雲、吉備=中立国

721日本@名無史さん2017/10/01(日) 07:40:41.69
>>719-720

これほどまでに九州説は無内容

722日本@名無史さん2017/10/01(日) 07:47:59.26
>>720
>もう明白じゃん

広幅銅矛圏=倭国(阿波)へのルート
銅鐸圏=倭国(阿波)からの拡散範囲
出雲、吉備=倭国(阿波)の出雲、吉備出張所   @阿波

723日本@名無史さん2017/10/01(日) 08:03:48.98
キウス

724日本@名無史さん2017/10/01(日) 08:14:52.74
里計算で盛りあがっているようですが、
現在の?mに特定するのは難しい
邪馬台国の位置は
地図上でコンパスを使い、比例でたたき出すしかない。

725日本@名無史さん2017/10/01(日) 08:16:43.88
そうすると九州北部しかなくなるんですよ。

726日本@名無史さん2017/10/01(日) 08:22:41.74
>>724
>邪馬台国の位置は
>地図上でコンパスを使い、比例でたたき出すしかない。


その必要もない。
「丹山」一つだけで、とっくに決定してしまってるでしょ。  @阿波

727日本@名無史さん2017/10/01(日) 08:49:57.99
>>724
対馬海峡が三千里。
上陸してからあと二千里で女王国だよ。
九州北部を出ないよね。

728日本@名無史さん2017/10/01(日) 09:06:53.45
だから、そういうトンデモ説が通じる時代じゃないんだよ

729日本@名無史さん2017/10/01(日) 09:13:29.56
結論

短里の存在そのものを確認した人はいない
基準邸を明確にして計算した人もいない
データから帰納した人もいない

粗雑な感覚論だけが有る

730日本@名無史さん2017/10/01(日) 09:14:30.04
>>729
訂正
基準邸 → 基準地

731日本@名無史さん2017/10/01(日) 09:21:47.01
>>729
自分の手で計算すればいいだろ。
魏志倭人伝くらい読んだことあるんだろ?

732日本@名無史さん2017/10/01(日) 09:22:29.20
畿内説を信奉する人は、だいたい自分の頭を使わない人。

733日本@名無史さん2017/10/01(日) 09:28:46.77
>>727
これが理解できないか認めない人は
比 がわかってないから
小学生からやり直さないとダメ。

734日本@名無史さん2017/10/01(日) 09:31:27.27
>>727
きちんと地図を見直したら、長崎、熊本、大分までは入りそうだな。
でも九州中北部を出ないし、大部分は福岡県、すなわち筑紫だ。

735日本@名無史さん2017/10/01(日) 09:32:36.21
いつのぞいても、テンプレートが論破されているね。。。

736日本@名無史さん2017/10/01(日) 09:34:45.33
畿内厨の迷走はつづく

737日本@名無史さん2017/10/01(日) 09:37:55.09
畿内説ぐうの音も出ず

弥生中期
邪馬台国畿内説 Part281 [無断転載禁止]©2ch.net	->画像>3枚

弥生後期
邪馬台国畿内説 Part281 [無断転載禁止]©2ch.net	->画像>3枚


もう明白じゃん

銅矛圏=邪馬台国
銅鐸圏=狗奴国
出雲、吉備=中立国

738日本@名無史さん2017/10/01(日) 09:40:59.32
畿内厨は数学どころか算数も出来ない様だ

739日本@名無史さん2017/10/01(日) 09:44:31.57
そうかもしれないね

740日本@名無史さん2017/10/01(日) 09:44:45.74
>>737
九州説も、ぐうの音も出ず    @阿波


弥生後期
邪馬台国畿内説 Part281 [無断転載禁止]©2ch.net	->画像>3枚
>もう明白じゃん
広幅銅矛圏=倭国(阿波)へのルート
銅鐸圏=倭国(阿波)からの拡散範囲
出雲、吉備=倭国(阿波)の出雲、吉備出張所   

741日本@名無史さん2017/10/01(日) 09:56:35.27
もしかしてここにいる九州説は小中学生なのか?
煽りじゃなくてマジで

742日本@名無史さん2017/10/01(日) 10:08:41.04
小学生に論破される畿内厨ww

743日本@名無史さん2017/10/01(日) 10:13:57.51
小中学生じゃしょうがねぇ
話が難しくなってくると理解できないだろうしな

744日本@名無史さん2017/10/01(日) 10:21:32.86
>>731
ほら、計算ができないと自白している
九州説じいさんの学力は小学生に劣るのさ

745日本@名無史さん2017/10/01(日) 10:27:52.51
小学生が九州説になるパターン

邪馬台国ってどこなんだろう?
いんたーねっとで調べてみよう

(九州説のサイト)
短里は絶対に存在した!
周髀算経とかもあるから確実だ!
なのに頭の古い畿内説の学者は頑としてこれを認めないのである!

そうか!
言ってる事はむつかしくてよくわからないけれど
畿内説の学者はわるい奴なんだ!
ぼくは畿内説の悪い学者になんか騙されないぞ!

746日本@名無史さん2017/10/01(日) 10:29:38.24
>>745
みたいなアホなことしか言えなくなった畿内説

747日本@名無史さん2017/10/01(日) 10:30:54.05
>>746
おや図星だったの

748日本@名無史さん2017/10/01(日) 10:34:11.24
>>737にぐうの音も出ず

749日本@名無史さん2017/10/01(日) 10:40:02.05
>>737
違うよ

真っ先に青銅器祭祀を捨てて古墳築造を開始した出雲と吉備こそが先進国であり王権発生地域

出雲・吉備に王権が発生したことで銅矛圏と銅鐸圏が圧迫を受けてるという構図だよ

邪馬台国連合=出雲が銅矛圏を支配下に置いて成立
その南の狗奴国=吉備
銅鐸圏=中立

750日本@名無史さん2017/10/01(日) 10:40:03.12
なんで銅矛銅鐸持ち出して得意になってるのかイミフ
邪馬台国っつったら銅鏡だろ
三角縁神獣鏡の分布持ってこいや

751日本@名無史さん2017/10/01(日) 10:44:50.64
邪馬台国成立は2世紀後半だからな
3世紀の銅鏡は邪馬台国成立以後の話

752日本@名無史さん2017/10/01(日) 10:45:36.84
当然二世紀後半の勢力図が重要になる

753日本@名無史さん2017/10/01(日) 10:46:54.96
なら邪馬台国が成立する前の話であって
邪馬台国そのものには関係が薄いんじゃ

754日本@名無史さん2017/10/01(日) 10:47:17.42
>>749
吉備狗奴国は銅鐸圏を支配下に置いて邪馬台国と対立

最終的には狗奴国が優位な形で和睦

ってのが2〜4世紀だな

755日本@名無史さん2017/10/01(日) 11:07:30.11
なぜ九州説は理由を言わないんだろう

756日本@名無史さん2017/10/01(日) 11:08:59.48
銅矛も銅鐸も倭人伝に出てこない
時代が違うということだ

757subo2017/10/01(日) 11:23:34.12
いまどきの小学生は畿内説は捏造で助成金目当てなの知ってるのか

758日本@名無史さん2017/10/01(日) 11:25:51.79
中傷しか出来ない東遷説

759日本@名無史さん2017/10/01(日) 11:29:46.79
>>735
76
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、

760日本@名無史さん2017/10/01(日) 11:33:22.40
銅矛は出てくる。

761日本@名無史さん2017/10/01(日) 11:34:29.07
>>759
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、

762日本@名無史さん2017/10/01(日) 11:42:32.50
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立角田よね。。。。。。

763日本@名無史さん2017/10/01(日) 11:45:45.45
九州説のパターン

魏志倭人伝の行程を測ると一里400mの魏の時代の尺度には合わない
魏志倭人伝は一里75mの短里で書かれていた!

うーん実際そうなってるならそうかもね
詳しく知りたいんだけど古代中国の何て文献に載ってる?
あとその時代の長さの基準がわかる尺というモノサシは見つかってるの?


周髀算経に一寸千里とある
これをあーだこーだ計算したら一里75mになったから
これが証拠だ!

えっちょっと


なので周の時代は短里が使われていた!
魏の時代は一里400mから周の時代の一里75mの短里に戻したんだ!

おいおいおい

764日本@名無史さん2017/10/01(日) 11:46:20.82
ゆるがないなー 九州説

765日本@名無史さん2017/10/01(日) 11:47:12.42
>>763
そんなのザラコクだけ。
魏志倭人伝を読めば、一里が75メートルくらいであることはわかる。

766日本@名無史さん2017/10/01(日) 11:50:36.63
とうとう九州説の味方にまで
そんなの呼ばわりされるザラコク

767日本@名無史さん2017/10/01(日) 11:56:07.03
つか昨日から銅矛の地図はってドヤ顔してるバカって本気だったんだな
あんまりバカすぎて釣りかと思ってたわ
この教科書レベルの分布図を「昨日見た」のかね

銅矛は肝心の邪馬台国時代の前に衰退してんだよ低能が
集中的に見つかってた場所からも出なくなる

銅鐸も出雲、吉備では弥生時代中期の終わりごろ、大和でも弥生時代後期に入ってもうなくなってんだよ
猿が

そして北部九州に大型墳墓、土器祭祀、畿内の土器が流入して祭祀も生活習慣も全部塗り替わってだよアホが
なにアホな図持ち出して浮かれてんだ

768日本@名無史さん2017/10/01(日) 11:57:16.97
魏志倭人伝の里数を換算してみると
一里50mだったり140mだったりで
逆に一里75mの所がねーよ

769日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:00:41.22
むしろ銅矛とかキュウシュウセツとやらが成り立たない大きな理由の一つだ

・九州最盛期の時でさえも九州と四国西部よりも先に分布しない
・肝心の邪馬台国のころには消滅してる
・邪馬台国の前に衰退し逆に「今までなかった畿内の土器、墓制、祭祀に塗りつぶされる」

九州の限界と九州が邪馬台国に至る前に独自の祭祀を失いそれまでになかった畿内と吉備の文化に覆われることを意味してんだよ

猿が
こんなことも知らんのか

770subo2017/10/01(日) 12:04:49.55
末蘆国から伊都国までの500里の里が50mから140mか?

500X140は70キロ、、、、そんなにあるか

771日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:05:31.85
まさか銅矛持ち出して邪馬台国だとか言い出すとは思わなかった

こんな考古学の基本も知らないパーが珍説サイト見て浮かれて突撃してくるんだからな
キュウシュウセツの脳みそのなさぶりにはあきれ返るばかりだな

772日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:06:17.87
>>767
>そして北部九州に大型墳墓、土器祭祀、畿内の土器が流入して祭祀も生活習慣も全部塗り替わってだよアホが


畿内の土器→東阿波型土器に変更ね。   @阿波

773日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:08:33.12
どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、

774日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:12:31.25
>>770
一里50m換算だと25kmだからそんな物じゃないの
違ったら一里30mとかでも合う数字を探せばいいだけの話
一里75mには恐らくならないだろうけど

775日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:13:50.74
>>756
矛は出てくるだろ現実見ろ

銅鐸は出てこないがなw

776日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:14:47.24
>>761
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、

777日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:15:59.54
>>756
銅矛の記述はあるんだよなあw

銅鐸なんてものはどこにも書かれてないけどな

778subo2017/10/01(日) 12:17:33.53
>>774

呼子からだと30キロぐらいか

779日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:17:54.74
>>767
>そして北部九州に大型墳墓、土器祭祀、畿内の土器が流入して祭祀も生活習慣も全部塗り替わってだよアホが

卑弥呼の時代にいろいろ変わったんだねえ。

780日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:18:22.46
>>768
平均の話だろ?

781日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:19:10.40
>>769
むしろ周辺地域に拡散して、九州北部勢力による侵攻が進み、九州北部は安定していくわけだ。

782日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:19:29.99
>>778
そんなら、その区間は一里50mちょいぐらいだ

783日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:20:12.60
>>780
平均は無意味

784日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:20:26.72
何だかむしろ九州説でいいような…

785日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:20:46.99
>>782
これでいいんじゃない?

786日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:21:09.81
>>783
>>780
>平均は無意味

キナイセツにとっては無意味かもね

787日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:23:41.91
>>785
九州説がよく主張するような
「驚くべき精度で測られた」一里75mではないけどな

788日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:23:53.89
>>769
>九州の限界と九州が邪馬台国に至る前に独自の祭祀を失いそれまでになかった畿内と吉備の文化に覆われることを意味してんだよ

畿内と吉備の文化→倭国(阿波)の文化に変更ね。   @阿波

789日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:24:16.08
>>787
それはザラコクだけ。

790日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:24:50.35
つまり九州説に矛盾はないな。

791日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:25:16.73
>>786
畿内説だけじゃなくて数学的理論的にも無意味

792日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:25:31.57
邪馬台国が銅矛の国であることは魏志倭人伝に明らかであり、それだけでも畿内ではなく九州であることがわかる。

793日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:25:37.72
九州説は誰々って話に逃げるパターンか

794日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:26:00.58
>>791
どう無意味なのかな?

795日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:27:48.63
>>792

弥生後期
邪馬台国畿内説 Part281 [無断転載禁止]©2ch.net	->画像>3枚

>もう明白じゃん

広幅銅矛圏=倭国(阿波)へのルート
銅鐸圏=倭国(阿波)からの拡散範囲
出雲、吉備=倭国(阿波)の出雲、吉備出張所   @阿波

796日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:27:51.03
ザラコクの九州説は古いんだよ。
古田氏は平原遺跡を考慮してないからね。
真実に近いところにいたが、真実そのものではない。
筑紫の日向は良かったけどね。

797日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:29:14.79
しかし九州説は
一里は正確に75mではないとあっさり認めていいのかな?

女王国まで1万2千里は九州北部を
ピタリと指すと言う主張が成り立たなくなるぞ?
一里をどう取るかによっては畿内を指すという事にもなるからな

798日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:32:09.71
>>797
>一里をどう取るかによっては畿内を指すという事にもなるからな

やってみて
根拠も一緒にね

799日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:32:11.71
>>794
A国〜B国間は100m
B国〜C国間は300m

今までの平均は200mです
では次のC国〜D国間は何mになるでしょう

800日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:32:58.81
以前に中国の時代劇を見ていたら、銅鐸を並べて演奏していたよ。
中国にも銅鐸はあるんだね。
でも魏志倭人伝には出てこないので、邪馬台国にはなかったんだよ。
銅矛は九州を中心にたくさんあるし、記紀でも国産み(征服譚)にも出てくる。
倭国が銅矛文化の担い手であることは間違いない。

801日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:34:10.19
>>799
その問題文は不適切問題だと何度も指摘したろ?
学習能力のないやつだな。

802日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:34:22.01
銅矛の記述?
用兵の部分は矛は「その記述通り実戦武器だ」
巨大化して刃もついてない、しかも差し込みさえも埋まってる祭器の矛持ち出して毎度浮かれてるバカの姿ときたら
そしてこの中国の矛は槍のことだ
ついでに邪馬台国の時代には衰退してもう出ない

バカが
まだこんなネタ言ってるんだ

803日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:36:20.04
キュウシュウセツって本当にバカの集まりだな
よくこんなバカで社会生活送れると思うわ

何一つ知らないのに人様と議論してるつもりなんだからあきれるしかない

804日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:36:24.18
>>799
まあ、いきなり4000メートルになって畿内に届く可能性は、99パーセントないから安心して。
99パーセント信頼区間を出すにはサンプルが少ないけどね。

805subo2017/10/01(日) 12:37:04.08
佐賀あたりの海岸はすぐ山なんだぞ、末蘆国に着いてから目的地の伊都国が見えるわけないだろ

目的地が見えなければ一寸千里とか測れないんだよ

おおよその概算なんだ(ザラコクはからむでない

806日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:37:33.34
>>802
>そしてこの中国の矛は槍のことだ

まだそんな詭弁を信じているアホが残っていたのか。

807日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:38:10.00
えんえんとループするスレだな。

808日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:38:21.85
>>798

帯方をソウル
邪馬台国を奈良として
直線距離でソウルー奈良856km

856÷12000=0,071
1万2千里が直線距離で奈良を指すなら
一里を約71mと換算すると畿内を指す

809日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:38:52.99
>>797
全体は誤差が小さくなるよ。
やはり九州北部に収まるから平気。

810日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:38:56.69
しかもまだ「ぼくちゃんの考えた行程」とか喚いてるし

こんな話がまだ通用すると思ってんだな

811日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:39:49.75
>>801
だから平均を求めるのは無意味という事

812日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:40:39.19
>>808
魏志倭人伝を、読めよ。
直線でなんて測ってないぞ。
それに九州上陸ですでに一万里を消費しているだろ。
どうやってもあと二千里では畿内に届かない。

813日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:40:52.28
つかなんで水行と陸行都合よく無視してんだよ
ついでに九州「過ぎてから」女王国だ

九州なんざ都どころか女王国にさえ含まれてない属国だって書いてんだよ
アホが

814日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:41:19.75
>>810
魏志倭人伝をそのまま読めよ。
畿内説は魏志倭人伝に基づかない妄想ばかりだ。

815日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:41:21.18
>>804
果たしてそう言い切れるかな?

816日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:42:14.19
>>813
過ぎてからなんて、どこにも書いてないだろ。
詭弁だね。

817日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:42:19.06
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。

818日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:42:39.09
>>815
計算して見せてよ。

819subo2017/10/01(日) 12:42:48.29
>>808

帯方郡から平原、奈良が直線なわけないだろ

820日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:43:15.05
最近の畿内厨は何か焦ってるな、一人よがりで突っ走っているみたいだ

821日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:44:35.05
1人しかいないんじゃないw

822日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:44:56.09
>>812
おやおや一里は正確に75mでなくていいと
先ほど>>785が認めたんだが?
なので残り2000里は畿内までの距離を
表す可能性も捨てきれませんなぁ

823日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:46:55.07
>>808
1里=71mと認めたわけだね

824日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:47:04.35
>>822
99.9パーセントありえないね。
統計学的には0ではないけどね。
でもそんなものを信じる人はいないよ。

825日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:47:09.83
「女王国まで1万2千里」なんだよ

「邪馬台国まで1万2千里」じゃねぇんだよ
バカが

「日本に行って東京に行く」と同じ
「女王国に入ってから首都の邪馬台国に行く」んだよ

1万2千未満の九州は「女王国ですらない属領」って書いてんだよバカが

826日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:48:06.58
九州北部という証拠は満ち溢れているのに、畿内だという証拠は何もない。
これが現実。

827日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:48:55.87
>>818
いや普通に昔から言われてる奴があるんだけれど
不彌国までで邪馬台国まで残り1300里
これを一里400mの長里に換算すると
畿内に到着するっていう

まあ今の畿内説はこういう説は取らないけど
魏志倭人伝の距離換算するとわかるように
距離は不正確だから参考にしないのが主流

828日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:49:48.64
>>819
そんなら一里90mくらいで計算すれば合うだろう
なにせ一里は正確に75mでなくて良いようだからな

829日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:50:06.76
ほらな

キュウシュウセツのアホって「倭人伝すら読んでない」

どっかの珍説サイトの「里数をいじればほら!たどり着く!間違いない!」とかいう馬鹿説見て浮かれてるんだろうよ

ゾウリムシ以下だなこいつら

830日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:50:15.80
>>826
残念だけど、チェックメイトだね

831日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:50:17.97
>>827
畿内説に都合が悪いだけでしょ。
九州説なら里程に矛盾がないのだから。

832日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:51:03.75
>>571
伊都国が卑弥呼の都さと矛盾なんて存在しない。

833日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:51:30.27
>>823
認めてもいいけど
そんなら帯方から1万2千里は畿内を指す事になるなぁ

834日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:51:37.24
>>827
距離を無視したら列島中どこでもOKになるね

835日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:52:30.65
>>828
90mでもいいよ、400mじゃないことが理解できてるならOK

836日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:53:06.13
キュウシュウセツのバカはご自慢の脳内行程を自分のスレで好きなだけ披露して来いよ

そんなアホな話見せられてるだけで可哀そうになってくる
病人は病人隔離スレにとっとと戻れ

837日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:54:15.73
>>833
71mがOKなら、あとは直線距離が正しいか、倭人伝記事通りが正しいか判断するだけ

838日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:54:19.57
>>831
都合が悪いから認めないわけじゃないんだぞ
魏志倭人伝のどこも一里75mにならないし
短里が使われていた証拠がないから認めないんだぞ
ちゃんとした証拠が出たら短里はあったと速攻認めるわ
周髀算経は論外な

839日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:55:04.17
畿内説は自分から議論を振っておいて、負けそうになると中傷とはね。

840日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:55:41.57
>>838
証拠は魏志倭人伝という正史だろ。

841日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:56:39.54
つまり一里は75mじゃなく何メートルでもいいわけだな?
なら1万2千里は畿内説にとっては畿内を指す
九州説爆発四散

842日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:56:42.03
>>838
ぴったり75なんて言ってないだろ。
平均すると、と言っている。

843日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:57:12.31
>>841
こいつ、頭悪すぎる。

844日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:57:36.94
>>838
証拠がないから長里をごり押ししているということかな

845日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:57:39.69
>>840
残念だけど一里は何mでもいいそうだ

846日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:58:03.76
>>841
根拠とセットで説明してね

847日本@名無史さん2017/10/01(日) 12:58:53.23
>>845
長里以外ね

848日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:00:59.53
なんで九州説よ甘い甘い
一里は正確に75mはがんとして譲ってはいけない

実測と合わないとか古代にどうやって
正確に計測できたのとか
存在を示す証拠が1切ないとか気にしないで
ザラコクのごとく一寸千里だとかわかったような
わからんような事を言って押し切るしかないよ

849日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:02:26.97
>>847
何で長里がダメなんだ?
長里にすれば邪馬台国は畿内で合う部分もあるのに

850日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:03:12.69
>>842
平均は無意味な

851日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:04:39.43
>>849
三国志東夷伝倭人条のみならず、三国志東夷伝の全体で短里で合っているから。

852日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:06:28.99
>>851
全部正確に一里75mになるのか?
まさか途中で一里50mになったり140mになったりしないだろうな

853日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:08:42.40
>>852
50mってどこ?
140mってどこ?

854日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:08:45.55
奴国までの行程を合計すると12000里
つまり奴国が女王国の中心地。

855日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:09:35.55
>>844
イヤ畿内説は長里をごり押しなんてしない
距離の記述は不正確だから1万2000里が邪馬台国を示しているものとはしない
短里がありえないという立場

856日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:10:31.78
>>847
長里じゃインドネシアに行ってしまうだろ
幾内におさまるというなら示してみ

857日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:11:39.79
>>855
長里は100%ない。

短里である程度の誤差はあるが、
その誤差は3世紀であることを考えれば十分に許容範囲内。

858日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:12:22.61
>>853

伊都〜奴国(糸島師〜博多)がおよそ18kmだそうな
ここは百里とあるから一里=180m
一大〜末浦が確か一里50mくらいになったはず

859日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:12:26.65
>>854
1里が何mとか考えなくても
奴国までの行程を合計すると12000里なんだから
奴国が女王国の中心地なんだよな
距離(里数)による行程の説明は終了
日数での説明は時間で行程を再度説明したもの。

860日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:12:47.00
>>855
12000里は邪馬台国じゃなくて、女王国までの距離だよ

861日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:14:05.12
畿内説が必死で里論議に逃げてるけど、
方角は間違えようがないんだよね。

太陽の方向を見ればわかるんだから、魏使は方角だけは間違えようがない。
南と東は字体が全く違うから、転写間違いもしようがない。

862日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:15:17.86
>>859
奴国までの行程だと1万6百里で
邪馬台国まで1400里足りないぞ

863日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:16:54.55
>>861
誤記入
転写ミス
誤情報に基づく錯誤
原因はいくらでも考えられる

864日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:18:19.18
>>857
それなら短里は一里50mでもなく100mでもなく
きっちり75m以外はないんだな?

865日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:18:26.55
>>860
女王の治める国が投馬国と邪馬台国で
女王の都があるのは邪馬台国の方だと書いてある
邪馬台国の中の伊都国が卑弥呼の都

866日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:20:18.04
>>862
壱岐、対馬の外周の半分が計1400里だから
それを行程に入れればピッタリ12000里

867日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:21:52.57
短里じゃないなら畿内は長里説だろって短絡すぎるだろ
畿内説は一里が所々50mになったり100mになったりするのを見て
魏志倭人伝に書いてある里は短里でも長里でもない
アバウト里だって理解している

868日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:22:46.84
>>867
だから50mとか100mとかってどこだよ?w

140が100になっとるしw

869日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:23:05.53
>>864
75m前後、だな。

なんで3世紀にきっちり合わないといけないのだ?
現地の日本人ですら伊能忠敬がようやく正確な地図を作製したというのに。

「3世紀にしては」三国志東夷伝の里数は現実の地理と短里で高度に相関している。

870日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:23:51.82
>>866
外周の半分が1400里って何だよ
都合のいい数字でっち上げてるんじゃねーぞ

871日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:24:36.33
>>868
そんなの自分で調べてくれ
色々書いてあるサイトがあるから

872日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:25:56.33
>>869
それなら一里400mの場所もありうるわけだ
3世紀の事だからな
1万2千里は畿内をも指す

873日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:26:50.00
>>872
だから400mのところって三国志東夷伝のどこだよ?

874日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:27:25.58
九州説は結局行き着くところ
ザラコクみたくなるしかないんだよ

875日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:27:25.78
畿内説

結論を出したら負けるから

必死で議論を煙に巻く

乙www

876日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:28:15.60
>>875
おっいいねいいね
九州説がどんどんザラコク化していく

877日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:30:08.54
>>873
不彌国まで1万7百里
女王国まで1万2千里だから残り1300里

これを一里400mの長里で計算すれば畿内に到達

878日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:31:01.79
>>870
對馬國の方可四百餘里と一大國の方可三百里
400里×2+300里+2=1400里

879日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:31:07.31
予言しよう
九州説の末路は全員ザラコク化

880日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:32:10.21
>>877
だからさー

東夷伝の中の、現代地図と比較できる部分で一里=400mの部分があってこそ、
残り1300里に掛ける400できるわけでしょ?

話にならんな。

881日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:33:47.56
>>878
それを何で行程に組み込まれなきゃなんないの?
不彌国まで1万7百里だからって
それを1万2千里に無理やりするための悪質な欺瞞だな
皆さん、九州説はこんな誤魔化しを行うんですよ

882日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:33:57.99
>>777
どこに?

また九州説はウソつくの?

883日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:34:57.92
>>880
奈良が0邪馬台国なら一里400mで
現在の地図でも比較できるぞ

884日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:35:04.90
>>790
いや、知能がない。

885日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:35:29.08
地図を見てみ。

半島南岸から対馬までを千里とするなら、
対馬の長さは千里弱くらいあるよな。
無視できん。

その答えが
>>878

一万二千里で奴国に到着してるんだよ。
北部九州邪馬台国でFA。

886日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:36:19.68
>>881
海峡と島のを半周
そして海峡と島のを半周
海峡
1000里+800里+1000里+600里+1000里
正論だろう。

887日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:37:20.16
>>883
ほらね。
あえて議論を誤魔化している。

三国志東夷伝の里記載は、75m前後で現実の地図と合っている。
400mで合う部分などない。

だから75m前後で計算することは許されても
400mで計算する根拠が無い。

888日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:38:32.49
>>869
と、口先で結論だけを言い張るが、なんの証拠も出さないのが九州説

889日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:41:03.06
對馬國と一大國内の移動距離を加算するなら
末盧國、伊都國、奴國内の移動距離も加算しないといかんな

890日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:42:39.40
>>887
それこそゴマカシだ。
ほかは全部が国邑から国邑までの距離なのに、どうして2島だけ変えるんだ?

891日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:44:36.97
ウソと中傷と史料珍読

それが九州説のすべて

892日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:44:42.91
>>890
ほかは全部がってどれ?

893日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:45:25.42
>>891
おっいいねいいね
畿内説の焦りが気持ちいい

894日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:46:18.88
三国志東夷伝のどこにも一里=400mの根拠が無いのに
突然残り1300里だけ400倍する畿内説

895日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:51:56.46
>>892
郡〜狗邪韓

末盧〜伊都
伊都〜奴
奴 〜不弥
不弥〜投馬
投馬〜邪馬台

896日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:52:36.26




水行も陸行も全部無視して「1万2千里で女王国」と書いてるのになぜか「邪馬台国につく」と喚くバカキュウシュウセツ

897日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:55:07.62
>>895
それが国邑から国邑までの距離である根拠は?

898日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:56:37.84
>>896
必死で縦書きしてて惨めだね。

魏志倭人伝に書いてあるでしょ?
一万二千余里で女王国に到着しますって。

>>878
>>886
をよーく読んで、足し算してみましょうね。
足し算習ったでしょ?

899日本@名無史さん2017/10/01(日) 13:59:25.21












無視して「1万2千里で女王国」と書いてるのになぜか「邪馬台国につく」と喚くバカキュウシュウセツ

900日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:00:38.23
残り1300里を@400里にしてるのは、
異なる元資料を繋いでる可能性を言っているんだろう

901日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:01:16.00
>>898
つまり不弥国から邪馬台国まで1400里はあるわけね

902日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:02:24.60
女王国と女王の領域、邪馬台国が別けて書いてあるとわからないで浮かれてるバカがキュウシュウセツ

まぁ倭人伝読んだことないでバカサイト見てるだけだから仕方ないよね

903日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:03:26.93
>>899
里程と日程が別記載。
それを抜きにしても一万二千余里で女王国に到着。

二十日・十日・一「日」で、全てが説明できるから、
北部九州で決定。

あとは見苦しく駄々をこねておけ。

904日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:07:38.51
ぼくのかんがえた珍説だけが証拠だといいはるのがキュウシュウセツ

905日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:08:34.01
>>903
というのが見苦しいコジツケ珍読だよね

906日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:10:37.19
>>903
あとは見苦しく駄々をこねておけ(キリッ


wwwwww

907日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:11:06.44
畿内厨よ、何をあせっている!?

908日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:11:14.72
っていうか「ぼくのかんがえた珍説行程」以外に何の根拠もないんだなw

なんだっけ?「銅矛があるからやまたいこくなんだー」だっけw

笑わせてくれる

909日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:12:03.78
>>907
お前が一番あせってるだろ

910日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:12:24.63
九州説は、島の大きさを足したり日数記載分を除外したり

まるで帳尻合わせの二重帳簿のようだな

911日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:14:13.02
あーあ、やだねぇ九州説みたいな事言い出したら
人間お終いよ

912日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:14:47.94
島の大きさ分が倭人伝に明記されている
しかも方可と明記
だから、縦横で加算。
理にかなっている。

里程と日程と総距離の三段記載。
それで綺麗に筑紫邪馬台国へ到着。
理にかなっている。

畿内説は対論も示せずに、
決着がついたのが悔しくて泣き喚いているだけ。

913日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:15:12.22
さすが小学生未満。

914日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:15:58.04
ちなみに隋書でも1万2千里が採用されてるわけだが

「用明、推古天皇の時代に『実際に双方の使者が都を往来した上で』魏志に同じ」と書いてる

つまり、1万2千里は国境までというのが中国の記述なわけだwww

このころの九州に独自王朝なんてねーからwwwな?小便信者?w

都はそこからさらに進んだ場所ということ

あ?もう一度水行と陸行を別に書きました?1万2千里で首都につきました?

ばーーかwwww

915日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:16:09.93
里程と日程が別記載だと投馬國が朝鮮半島南部ね
朝鮮部落民はそうしたいんだろうけど
半島に弁辰と辰韓合わせた戸数の国があったら
倭人在帶方東南大海之中や絶在海中洲㠀之上とは書かない

916日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:17:15.94
さあいいぞ
九州説が色々とわけのわからない事言って誤魔化しを行い始めた
いつものパターンだと次は撤退だな
そして何日かして性懲りもなく同じ話をくり返す

917日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:17:22.67
畿内説って、完全にクレーマーだよな。
何がしたいのかわからん。

918日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:17:38.86
畿内厨が壊れた・・・

919日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:17:44.61
>>912
だから
ほかは全部が国邑から国邑までの距離なのに、どうして2島だけルールを変えるんだ?

920日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:18:44.63
>>917-918
罵っても、反論になりません。

921日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:19:05.78
>>912
九州島自体が周五千里と書かれてるぞ
これは足さなくていいの?

922日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:19:23.84
魏志倭人伝の里程をむししても、畿内にたどり着けるわけではないのに。

923日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:19:29.12
>>919
>ほかは全部が国邑から国邑までの距離なのに
その根拠は?

924日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:19:47.03
>>908
反論になってないよ。

925日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:20:32.52
>>922
そのまま辿ったら太平洋にドボンなんだが

926日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:20:44.31
女王は推戴された連合王国の盟主

だから本人が治めてる「都とする邪馬台国」と「連合全部の女王国」「女王国の影響下にある国」と分けてる

1万2千里でその女王国についてんだよwww邪馬台国じゃねえんだよwww

で、九州は一大卒が配置されてヒナモリっていう辺境守備隊が配置されて「統属」してる「女王国外の属国」と書いてんだよwww

笑わせんなwwww

927日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:21:17.97
島は壱岐と対馬しかないからなあ。
それを足しても、他を無視したことにならないな。
他ってどこだよ?

928日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:21:40.78
>>925
九州北部に収まるよ。

929日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:22:33.90
>>928
ふぅん

930日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:22:51.45
壱岐対馬は大都会の博多奴国から見たら辺境だろ…

931日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:23:19.90
過疎辺境の奈良盆地の猿が何か喚いています。

932日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:23:45.08
>>912
日数が帯方郡からのものだって言い張るなら
どこからどこまでが水行十日で、どこからどこまでが陸行一月なんだ?
誤魔化すなよ

933日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:24:05.61
九州説らしさが出てきたな
あらゆる証拠を無視
ひたすら短里だ北九州だと連呼
今日も何の進歩もしませんでした

934日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:24:51.77
>>927
だから、なぜ島だけ大きさを距離に足すんだ?

935日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:26:04.14
>>912
何で島の縦横の大きさを里程に足さなきゃなんないの?

936日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:26:15.53
あーそうそう

あと北部九州は書いてある通り女王国に統属する属国なわけだ

で、中部も南部も東部も『弥生時代を通じて北部と別文化圏』だからなwww

まぁキュウシュウセツのバカが知るわけもないだろうけどwwww

だから「北部九州を支配してるほかの土地を九州のどこにも設定できない」からなwwww

九州全域に影響を広げてるのは畿内だから

九州全域に庄内土器と墓制がすでに広まっているwwww

まぁこれもキュウシュウセツは知らないだろうから仕方ないけどなwwww

行程のぼくちゃん解釈なんてもう誰もあいてしてねーんだよwwww

937日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:26:23.08
>>930
奴国にもヒナモリいるんですけど?

938日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:28:47.49
水行陸行はそれぞれ細かい行程を繰り返したトータルかもしれん

939日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:29:02.30
倭人伝読んでないのが九州説

940日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:29:44.83
>>938
ほら、ゴマカシ始めた九州説

941日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:30:43.06
里程に島の大きさ足すというのは

A県からB島まで船で30kmの距離を渡ります
B島は南北5kmの大きさがあります
B島からC県に行くには海を10km渡ります

これでA県からC県まで行くのに40kmじゃなくて
B島の南北長を足して50kmだとか言ってるような物じゃないか

942日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:31:13.74
だから日程は里程を繰り返していると何度も言っている。

943日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:32:04.19
どこからどこまでとか聞いてるのが的外れ

944日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:32:55.64
何度でもいうけど

北部九州は他よりも色濃く庄内式土器が入り込み在地の銅矛がなくなり土器の文化を塗りつぶしている
そして程なくして墓制も畿内式に覆い尽くされる
ここに独自の中心もまとまりもすでに存在しておらず畿内の強い影響下にある

そして中部、東部、南部は北部九州とはずっと別文化圏で共通して影響を与えてるのは畿内だけ

さて?「北部九州を支配してる九州独自の国」ってどこにあるのかな?w
なぁ教えてくれよキュウシュウセツさんよ

945日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:33:37.01
九州説だが、島の大きさは足さなくてもいいよ。
国邑の距離は点と線で結ぶ。
その通りだ。
だから、一万二千里が女王国の領域の端までということもない。
倭国の中心までが一万二千里だ。
つまり倭国は九州北部だ。

946日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:33:39.31
畿内説は結論が出たのが悔しくて喚いているだけだ。
悔しかったら畿内にたどり着く行程を示してみろ。

947日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:34:06.87
>>942
それだと里程の数字が合わない
島の大きさの2分の1づつを足すとか言い出すなよ

948日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:34:31.60
>>944
王墓は2世紀も4世紀も方形周溝墓のままだね。

949日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:35:03.83
>>944
平原女王を中心とする内行花文鏡の将軍たちが畿内へ侵入し、
それと入れ替わりに畿内からの租庸調を示唆する庄内式土器が大量に九州へ輸送される。

950日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:35:25.72
>>947
途中に余と書いてある。
ぴったりではなく、余分があるんだよ。
だから里の大きさもばらつく。

951日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:35:29.80
>>946
南に水行とある所を
東に水行とするだけ

952日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:35:48.58
まあ、1世紀から淡路島に鉄工房遺跡が作られているのに
畿内にも阿波にも鉄器が普及せずに
北部九州ばかりが鉄器を使って王墓もあるのだからなあ。

953日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:36:49.36
渡海千里とは別に、島の大きさを方可で記載してあります。
島の大きさを縦横それぞれ足します。

954日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:37:00.31
最終的に列島全体が伊都平原遺跡の内行花文鏡と鳥居の神道を祭る天皇家の支配下に置かれるからね。

955日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:37:22.00
>>950
ばらつきあっても九州北部に邪馬台国は収まらん

956日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:37:48.11
キュウシュウセツは都合のいい脳みそしてるなwww

大好きな福岡に那珂八幡古墳とかまさに北部九州の中心地にかなり初期から古墳が出来てるなぁwww

立派な属国だねwww

957日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:38:17.06
>>955
しつこいねえ。
対馬海峡が三千里なら、残り二千里では九州北部をでないよね。

958日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:38:23.85
朝鮮半島南部だけで二十万戸だからなあ。
同じく鉄器が普及した北部九州七万戸は丁度でしょ。
南で暖かいから作物もよく育つし。

959日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:39:45.00
>>952
畿内のホケノや椿山から鉄器はたんまり出ている
今はもう誰も畿内に鉄器は少ないなんて言い出さない

960日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:39:50.84
>>956
キナイセツは頭悪いなあ。
那珂八幡がそんなに古いなら、前方後円墳も九州から波及したんだろ。
誰かが筑紫倭国から大和に墓制を持ち込んだのかもしれないね。

961日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:40:09.01
鉄器の無い領地に
鉄製武器を大量に副葬した古墳。

領地に鉄器が皆無の理由は、北部九州邪馬台国と敵対したから。
第二次大戦末期の日本と同じで(金属類回収令:昭和18年8月12日勅令第667号)、
領内の金属器をかき集めて鉄製武器に転用し尽くした。

鉄器古墳の主が先に君臨していて、それから邪馬台国と敵対したのか。
それとも
邪馬台国と敵対した土地が鉄器を使い果たして敗北占領され、そこに鉄器古墳の主がやって来たのか。

その答えは、鉄鏃でわかる。

ある程度大きな鉄器はかき集めることが出来ても、
細かい鉄鏃を見つけ出すのは容易ではない。

つまり、鉄鏃すら皆無の遺跡では、鉄鏃軍隊による教練が行われていなかった。
よって、鉄器が皆無の遺跡は、北西にある銅鐸環濠集落と同盟して、
領主が作ったのは、北西側の古墳群。

そこに鉄製武器の邪馬台国軍が進駐してきて、南東側に古墳を新築した。
ということが鉄鏃からわかる。

962日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:41:06.05
>>959
内行花文鏡とともに、九州から持ち込まれたんでしょ?
その時に畿内は筑紫の支配下に置かれたんだよ。
誰が東征したのかな?

963日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:41:43.45
>>957
上陸地点から九州の端っこまで合計七百里で
通り過ぎてしまうんだが
残り千三百里もある

964日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:41:47.83
戸数里数を書いてる北部九州は女王國より北

965日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:41:48.24
は?

九州は最盛期でもその影響は九州と四国の一部を出ない

そして九州はこの時期に王墓も消滅し、銅矛や甕棺のようなまとまりもなくなる

そして九州に全くなかった大型墳墓、土器祭祀、吉備、庄内土器がまさに邪馬台国の前の時代から激しく流入する

貢物なんかじゃなくて生活様式から祭祀まで今までなかったもんに塗り替えられてるんだよwww

鏡については史書の記述、中国との交渉の記録からして九州が畿内に祭器奪われてる形なんだよwww

「一方的に影響受けてるだけ」なんだよアホがwwww

東征も東遷もねーんだよww

966日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:41:57.84
豊臣家で例えると、
畿内説は今、大坂夏の陣で天守閣に火が付く直前くらい?

967日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:42:23.35
何を持ち出しても、畿内が圧倒的な先進地である九州北部の支配下に収まったようにしか見えない。

968日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:43:02.01
>>965
銅矛祭祀は無くなっても、記紀には矛で日本列島を作ったと明記されてるでしょ。

その後も要所要所に矛が出てくる。

で、畿内の銅鐸は?

969日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:43:05.07
>>963
対馬海峡の幅が三千里だよ。
それをもとに測り直して見て。

970日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:43:33.96
>>964
九州北部と奈良盆地とどっちが北?

971日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:44:30.37
>>966
堀が全て埋められて守るものがない状況。

972日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:46:58.42
>>970

>>699に書いた

973日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:47:39.21
>>968
ばあーーーーかwwww

銅鐸は弥生時代の後期に入って大和で早々に使われなくなってんだよwww

そして程なくして吉備、畿内で大型墳墓祭祀が始まるんだよwwww

だから大和を中心とする勢力に銅鐸なんてもうすでに意味のない過去の遺物なんだよwww

そんなことも知らないで笑わせてくれるwwww

あと鏡のところでも書いたが祭器を奪われてるってのは降伏を意味すんだよwwww

つまり鏡と矛が出てくるってことは九州が独自の祭器を献上して降伏してるってことなんだよwww

さすがはwwwwきゅうしゅううwwwせつwww

974日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:47:54.70
次は、北は東の間違いとか言い出すかもねw

975日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:48:31.40
正確に訳しましょうね。

>始度一海 千余里 至対海国

海を千里渡って、対馬に至ります。

>方可四百余里

対馬に至って、そしてその対馬は、1辺が四百里です。

>又南渡一海 千余里 至一大国

また海を千余里渡ると、壱岐に至ります。

>方可三百里

到着しました壱岐は、1辺が三百里です。

東夷伝の中で、海を島づたいに渡るのはこの部分だけ。
そしてこの部分を精読すると、
海を渡るのが千里。
それとは別に島の大きさが記載されていることが明らかですね。

よって、島の大きさも足さなければなりません。

976日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:48:39.73
>>973
でも前方後円墳も筑紫から持ち込まれたんでしょ。

977日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:49:06.12
>>973
纒向遺跡から唯一出土した金属器が銅鐸片2つですな。

978日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:49:34.37
前方後円墳は大和から九州

979日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:49:43.05
>>969
いやどういう事よ
魏志倭人伝に書いてある通りなんだが

帯方〜末羅上陸までの合計は1万里
女王国まで残り2千里だが
末羅から伊都が500里
伊都から奴国まで100里
奴国から北九州の端っこの不彌国まで100里
これで九州北部の国々はおしまい
末羅〜不彌国間は700里
邪馬台国まで残り1300里

980日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:49:52.99
>>971
まだベニバナの花粉が。
ベニバナの花粉がある・・・はずw

981日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:50:10.94
>>978
那珂八幡が古いんでしょ?

982日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:50:34.83
>>975
必死やなぁ…

983日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:51:04.81
平家で例えると、
畿内説は今、壇之浦で義経が八艘飛びをかましてる頃くらい?

984日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:51:14.31
>>976
わらいwwwwころすきかwwwww

九州の墓制の大型墳墓も土器祭祀もねーよwwww

出雲の四隅を土台に吉備、畿内で成立して「今まで全くなかったものが」「一方的に流入」してんだよwww

ぼくちゃんがきげんだ!とか言い出せば誤魔化せると思ってんの猿wwww

上で銅矛バカが出してた大型墳墓と特殊器台の分布見てみろwwwww

九州には微塵もその文化がねーんだよwww

985日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:51:25.97
残り千三百里は、対馬海峡の幅の半分以下だよ。

986日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:51:26.32
>>942
何度繰り返してもホントにはならないなら

987日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:52:56.69
>>984
祭祀は土器では行わないよ。
神道は鏡や榊だよ。
九州が本場だねえ。
記紀でも九州にたくさん登場する。

988日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:53:17.90
>>985
イヤ九州北部の端から端までの倍だね

989日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:53:23.75
>>984
スプリング8でぼくちゃんって言われたのがトラウマになってるんだなw

990日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:53:41.13
九州には大型墳墓を作る文化なんて「流入する直前までない」んだよwww

つまり九州は祭祀も土器も全部畿内から来た文化に征服されてんだよwwww

まさに邪馬台国の少し前くらいからなwww


現実がわかったかな?wwww

991日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:53:58.81
>>981
那珂八幡は定型化前方後円墳より古いということ

992日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:54:14.30
生口が反乱したら困るから無意味に働かせたんだよ。

993日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:54:49.57
>>941
ところが倭人伝はA国からB島に行くなんて書いてないところがミソ
国から国と書いてある

島の大きさを足したりするのは二重帳簿サギ

994日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:54:55.73
>>990
だったら銅鐸が九州に普及して
記紀には銅鐸を鳴らして日本列島を作ったと書かれていた筈だな。

995日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:55:21.64
>>987
鏡?
あー出てくるな

五狭手と神夏磯姫が「降伏するときに」wwww

神宝を相手に見せるってのは主権の放棄を言意味するんだよwwww

良かったなwww

「たくさん書いてあって」www

996日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:55:25.79
正確に訳しましょうね。

>始度一海 千余里 至対海国

海を千里渡って、対馬に至ります。

>方可四百余里

対馬に至って、そしてその対馬は、1辺が四百里です。

>又南渡一海 千余里 至一大国

また海を千余里渡ると、壱岐に至ります。

>方可三百里

到着しました壱岐は、1辺が三百里です。

東夷伝の中で、海を島づたいに渡るのはこの部分だけ。
そしてこの部分を精読すると、
海を渡るのが千里。
それとは別に島の大きさが記載されていることが明らかですね。

よって、島の大きさも足さなければなりません。

997日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:55:30.19
>>987
神道はまだないよ

998日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:56:41.75
>>994
ばかwwwww

大和の王権の樹立の前の段階の共同祭祀の時代の遺物なんだよwwww

だからそんなもん書く必要なんてねーんだよwww

バカには理解できないかwwww

999日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:56:44.22
三種の神器がそのまんま紀元前から北部九州の王墓にあるからなあ。

畿内はどうしても銅鐸がネックだね。

1000日本@名無史さん2017/10/01(日) 14:57:03.02
つづく


lud20221008101411ca
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