11 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:30:34.02
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1510313785/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 21 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:31:27.04
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
31 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:31:51.88
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
41 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:32:13.09
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
51 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:32:34.61
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
61 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:32:54.72
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
71 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:33:15.38
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
81 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:33:38.30
◆6−3
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
91 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:34:11.00
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
101 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:34:36.17
◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
111 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:34:58.16
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
121 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:35:22.80
131 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:35:42.46
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山
141 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:36:00.73
◆11 本文のサマリー
===========================================
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。
151 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:36:20.44
◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
161 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:36:40.24
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
171 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:37:32.02
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
よって、倭人伝の里程にも「南」という方位にも、致命的な誤りが含まれていることに疑問の余地がない。(※)
具体的には、三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて「南至邪馬壹國」の「南」にも錯誤を認めない限り、倭地は会稽はおろか許都ほどの南としか認識出来ないことから、倭の中心地が「會稽東冶之東」と記述されることは有り得ない。
或いは、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※ 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里
楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里
南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪起点として、会稽より稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
181 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:38:23.98
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
191 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:38:46.36
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
201 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:39:36.20
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
211 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:40:06.02
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
221 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:40:26.25
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
231 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:40:48.65
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
241 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:41:09.37
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
251 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:41:28.32
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
261 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:41:49.54
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
271 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:42:21.16
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
281 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:42:52.80
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等
291 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:43:13.31
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
301 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:43:40.44
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
311 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:43:59.37
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
321 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:44:21.06
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
331 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:45:03.09
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
341 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:45:26.79
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
351 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:45:49.90
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
361 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:46:11.66
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
371 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:46:32.44
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
381 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:46:51.14
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
391 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:47:10.13
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
401 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:47:45.56
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
411 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:48:17.57
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。
421 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:48:50.67
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
431 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:49:12.44
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
441 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:49:33.74
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BV型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BW型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
451 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:49:53.46
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
461 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:50:17.21
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
471 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:50:38.84
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
481 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:51:02.72
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
491 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:51:25.67
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
501 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:51:49.00
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
511 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:52:10.15
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
521 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:52:30.25
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
531 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:52:52.31
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
541 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:53:12.96
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
551 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:53:43.22
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
561 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:54:10.39
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
571 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:55:22.53
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
581 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:55:33.80
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)西北至都護治所二千二百五十八里、北接尉犂、南至小宛可三日行、
…西通精絕二千里。
(精絕國)北至都護治所二千七百二十三里、南至戎盧國四日行、
…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)東北至都護治所六十日行、
東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
(大月氏國)東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行,
南與罽賓接。
(以上、漢書西域上)
591 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:55:54.20
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
601 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:56:21.83
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蟬県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
611 ◆q8leUXpsw. 2017/11/13(月) 22:57:31.12
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ3を補筆
62日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:03:23.04
本スレ乙
63日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:07:39.52
64日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:08:18.90
又も糞スレw
65日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:08:31.53
六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。
66日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:08:39.78
会稽は鹿児島より南で屋久島あたり
倭国は会稽東冶の東にあるはずなんだから九州ではない
簡単な話だ
67日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:09:08.34
全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆q8leUXpswによる物であると信じ込む、一種の脅迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙すことが、発症のトリガーになると考えられている。
>>1◆q8leUXpswが自演により多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 68日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:09:37.24
ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から
古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど
自らを「素人おじん」と称し、高校生程度の歴史知識すら持ちあわせていないという自身のレベルを自覚しているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している
「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である
自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主
常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳
69日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:10:33.95
キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる。
「本日のMVP」として自身を認定するなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ。
「畿内説への助け船」は全く助け船になっていないばかりか、意味不明な泥船であることが多い。
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ。
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り。
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E ◆P5DBe7oqOQ ◆prq8Tl5byw
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である。
「キウス扱いされた」などと、自演がバレたときに他人を装う書き込みをすることがあるが、周囲にはバレバレである。
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求することもあるが、自分はすぐに名無しに戻るというダブスタ、トリスタ上等の卑怯者。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないこと、
マスメディアで散々取り上げられる「土用の丑の日」を間違っていたことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 70日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:11:09.02
岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張したり、
ありもしない大規模調査をでっち上げたり、学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張したりする、
ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である
コテ+トリと、別コテ、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくるがバレバレ
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読んだり、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読したり、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張したり、
お笑いエピソードには事欠かない
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である
71日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:11:40.54
2013年の大規模調査なんてない
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。 72日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:12:18.25
>>64
反論な〜んにもせず悪口しか言えないのは
畿内説に破れた敗残者な証明だよ 73日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:19:05.43
2013年の大規模調査とかデマを飛ばすのは東遷説のアラシだな
74日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:22:01.51
ここ、Newだな
※ 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里
楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里
南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪起点として、会稽より稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
75日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:24:14.67
ここも
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
よって、倭人伝の里程にも「南」という方位にも、致命的な誤りが含まれていることに疑問の余地がない。(※)
具体的には、三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。
加えて「南至邪馬壹國」の「南」にも錯誤を認めない限り、倭地は会稽はおろか許都ほどの南としか認識出来ないことから、倭の中心地が「會稽東冶之東」と記述されることは有り得ない。
76日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:26:21.33
会稽東冶が九州説のネックだな。
77日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:26:42.59
魏志倭人伝には、広大なエリアに広がる女王国まで12000里としか書かれていない。
邪馬台国までの距離は記述なし。
12000里に満たない国邑、伊都国などは女王国ですらない。
78日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:29:34.75
島の大きさをダブルカウントするとか詐欺しないと
九州説はニッチもサッチも行かない
79日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:30:59.44
ニッチな説のくせにな
80日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:32:46.80
史料的には大嘗祭より古い八十島祭。
大嘗祭は、収穫祭的性格が強い。
即位の儀式としては、元々は八十島祭である可能性があるな。
難波津で行われる、天皇の国土支配権を裏付ける儀式。
81日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:32:53.22
畿内説はロマンだね
ロマンを抱くのは勝手さ
82日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:35:33.62
重複スレ立てるなよ、カス
削除依頼は、自分でしとけよ。
83日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:36:16.70
三角縁が三世紀の鏡なことも認知されてきたし、もう電車道だね
84日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:37:35.06
>>82
そっちの偽スレは自然消滅するっしょ?
今までもそうだったから 85日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:41:00.71
学者が全員畿内説だとロマンはないわー
86日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:46:57.52
畿内説は儲かりすぎてたまりまへんな
87日本@名無史さん2017/11/13(月) 23:48:41.01
ロマンより助成金でっせ
88日本@名無史さん2017/11/14(火) 00:21:31.45
つまんない中傷や陰謀論はいいから
歴史の話しろよ
89日本@名無史さん2017/11/14(火) 01:05:07.85
せっかく本物の畿内説スレなんだから、なんか反論ないの?
90日本@名無史さん2017/11/14(火) 01:09:34.17
重複スレ
91日本@名無史さん2017/11/14(火) 03:36:19.62
>>6>>7
6 - 1と6 - 2で文章が重複してる
次回修正してください
方形周溝墓は主に親族集団墓として〜(長友2006)とも共通した特質がある。
の部分 92日本@名無史さん2017/11/14(火) 03:54:01.94
会稽郡ってのは揚州の南の方だね
東側が海で、北側が呉郡や丹陽郡と接してる
江蘇省ってのはその北のほう
93日本@名無史さん2017/11/14(火) 04:10:20.12
北緯30°以南ね
94日本@名無史さん2017/11/14(火) 06:06:14.61
短里なんてものがない証拠だな
95日本@名無史さん2017/11/14(火) 06:06:58.76
ここの スレ主は 他スレで呼び込みしてますな
961 ◆q8leUXpsw. 2017/11/14(火) 06:31:18.83
>>91
ご指摘ありがとうございます。
編集ミスです。修正いたします。 971 ◆q8leUXpsw. 2017/11/14(火) 06:33:02.32
98日本@名無史さん2017/11/14(火) 06:38:29.67
297の>>858
>何にも理解しないで誰かの説をコピペするのみ、クズだねw<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
何にも理解しないで、全く意味不明なアホ投稿するのみ、
クズだねw。 99日本@名無史さん2017/11/14(火) 06:39:38.01
297の>>872
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説。
以前は文部省やマスコミのトンデモ説の大スターだったけど 、
最近は、過半数の支持の九州説に負けて、落ち目らしいね 。 100日本@名無史さん2017/11/14(火) 06:40:44.72
297の>>873
もう「南→東」などへの批判に反論出来ずにへなへなになっちゃったんだね。
また、
末盧国からの出発の「東南」を、伊都国への方角だ、とごまかしてる大和説には、
古代史を語る資格は、全くなし。 101日本@名無史さん2017/11/14(火) 06:42:24.89
297の>>882
>(東治)証拠にならないでしょ それ、後世に作られた版本だもの<
裴松之から宋明清までの、どの考証学者も校勘学者にも、
「治→冶」の校勘をした人がない、という事は、
陳寿原本からずっと、「治」であった、という事の証拠になる。 102日本@名無史さん2017/11/14(火) 06:43:58.62
297の>>883
>通説が間違いでトンデモ説が正しい という理由は? <
通説は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しを出発論理にしているから、
確率が殆どないが、
九州説は、史料事実を根拠にしてそれからの帰納的推論をしているから、
確率が高い。 103日本@名無史さん2017/11/14(火) 06:45:01.60
297の>>885
>おまえのアタマがおかしいのは、このスレ全員の認定済み<
大和説者が、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの・・・・アホの詐欺師である事は、
世間の人々に衆知認識して貰い済み。 104日本@名無史さん2017/11/14(火) 06:46:03.88
297の>>894
>>>3を要約すると、箸墓古墳は夜麻登登母母曽毘売命の墓と伝えられており、
被葬者が女性と伝承されているから、卑弥呼の墓なのだ、ということになります。
これが畿内説です。 それだけ。<
卑弥呼が纏向にいた、と言った瞬間に、「南≠東」で×になる。
それだけです。 105日本@名無史さん2017/11/14(火) 06:48:00.88
297の>>898
>裴松之や昔の人が訂正してないのは当たり前
その時はまだ冶を治に書き間違えてなかったからだよ <
裴松之や彼以後の校勘学者も、
范曄の後漢書の「冶」を知っていて、
「治と冶」の校勘をしていないで「治」を承認しているんだから、
「冶」の三国志写本を見ていなかったんだよ。
特に、裴松之は陳寿から150年後位だから、魏志原本も見ている可能性がある。 106日本@名無史さん2017/11/14(火) 06:49:50.51
297の>>903
>じゃあ、安全な海岸沿い水行と 険しい峠道の二択だったら どうするわけ? <
そりゃ、案内人に任せるか?、安全な方を選択するか?、でしょうね。
「安全」が最優先なんでしょう。 107日本@名無史さん2017/11/14(火) 06:50:56.02
297の>>910
>それが無かったら? <
案内人に任せるか?、より安全な方の選択する。 108日本@名無史さん2017/11/14(火) 06:52:21.28
297の>>914
>中国も台湾も「会稽東冶」で確定済み、残念! ・・・<
中国も台湾も、戦前日本の学会支配の影響が残っていて、
古田説を知らない学者が多いから、
そんな学者らの「確定済み」なんて、何の効能もないよ。 109日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:00:27.56
297の>>918
>>魏使らが海岸沿いの道を通って眺めた、という事を示している。<
>当時は海岸は崖だらけで道はない、既に判明済み <
それは、呼子付近から唐津港までの循海岸水行の話なんでしょうね。
記載は、到着後での「濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之」
という形の記載であり、
唐津港には陸繋島がありますから、ほぼ「濱山海居、草木茂盛、行不見前人」だと思われ、
唐津中心部までの道で、「好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之」があったんだろう、
と読んだのです。
>平坦な迂回路を選択して乍南乍東などをし、<
これは、「歴韓国乍南乍東」の話です。
そして「乍南乍東」に関しては、
若しも通説のように「南→東」の方向変更が一回だけであったのなら、
「南乍東」と書かれる筈であって、最初の「乍」が不必要である事になるんですよね。
という事は、「乍南乍東」は、
「南と東の繰り返しの反復があった」という事を示すんですよね。 110日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:04:10.44
>>105
裴 松之(372〜 451)
范 曄 (398〜445)
彼らが見たのが魏志写本か原本か、どっちにせよ
「東冶」と書いてあった 111日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:08:11.99
>>109
大同江を出て乍南するから「乍南乍東」でいい 112日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:10:37.28
297の>>919
>>1年中の何日の日でも、東西を知ろうと思えば、
前日夕と翌朝の太陽の方向を知ればよい。<
>中学の理科の教科書取り寄せてじっくり読め<
この「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
こりゃ、もう脳の病人レベルで、死ぬまで治らんね。 113日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:11:40.29
>>106
つまり安全な海岸沿い水行でいいんだね? 114日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:14:46.05
>>102
帰納的推論なんてしてないでしょ?
した形跡がない 115日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:17:13.29
>>109
>それは、呼子付近から唐津港までの循海岸水行の話なんでしょうね。
浜崎ー二丈の話だと
前スレで指摘があったよ 116日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:20:54.12
297の>>928
>あくまで浜崎ー二丈の話だけどね <
倭人伝には、そんな場所の説明は「陸行五百里」しかないよ。
「濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之」の記載は、
末盧國の到着と出発記載の間に書かれているから、
末盧國内移動での実地の見聞記録だよ。 117日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:22:43.49
>>100
フルタ説信者以外の全員が「東南」を、伊都国への方角だ、と考えてますが 118日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:23:42.55
119日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:31:39.89
297の>>
>中国の大型船も沖合洋上航行なんてしてないよ <
ご同意、ありがとうございます。
「乍南乍東」に関しては、
若しも大型船での、半島西南端での一回だけの方向変更であったんなら、
それは「南乍東」だけでよい事になり、
最初の「乍」がいらなかった事になってしまうんですよね。
だから、敢えて先頭にも「乍」を付けて「乍南乍東」と書いた、という事は、
「南と東」の交互の繰り返しの反復があった、という意味になるんですよね。
>潮流を利用した乍南乍東ジグザグ航行だ<
これはダメですね。
半島西岸南岸の巨大なリアス式海岸で潮流を利用したら、
そりゃ「乍南乍東乍北乍西」になってしまう。
120日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:40:14.88
スレ主の反省の色が見えてきたので、戻ってもいいが
もう少し 様子見します
121日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:43:21.80
297の>>928
>倭人伝に「歴訪」なんて書いてないし <
「歴」は、林の下の覆いのあるところで「止まる」、という文字ですから、
きちんと中を見て行った、という事を示す文字であり、
単なる「通り過ぎる」とか「ちらっと見る」程度の言葉ではないんですよ。
つまり、水食糧の補給程度ではなく、
都の首長や王らを「訪問」して面会した、という位の文字なんですよ。 122日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:50:47.71
297の>>930
>どのみち会稽郡は屋久島くらい南だよ 倭人伝を信じてるなら九州説はペケ<
どのみち、会稽郡もその東治も広範囲であるし、その東も大体であり、
陳寿の行程記載も有効数字1桁程度の概数での話だから、
九州位でほぼぴったりであり、
沖縄以南は、全く×だよ。
>倭人伝を信じてるなら九州説はペケ <
倭人伝を信じる限り、沖縄以南説や大和説は×。 123日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:51:47.47
>>121
そんな意味ない
康熙字典に「又踰也、越也。」 124日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:55:22.75
297の>>932
>ジグザグじゃないよ。 朝鮮半島西岸を南下して、次に南岸を東に移動したんだよ。<
それは「南乍東」のような「乍が一回だけ」の話であり、
倭人伝の陳寿の記載は、「乍南乍東」というように「乍」が複数以上あった事を示す構文であり、
だから、ジグザグになるんだよ。 125日本@名無史さん2017/11/14(火) 07:56:15.61
>>122
いくら広範囲だって屋久島より南だよ
大体だと言って誤魔化すのは無理だ 126日本@名無史さん2017/11/14(火) 08:01:17.72
297の>>935
>おいおい、 元々は北九州では夏至の日の太陽は30度弱真東からズレルというお話
こいつはそれが理解できないという経緯<
おいおい、
元々は北九州でも魏使らは「東西南北」や「東北と東南」を間違えるのか?という話。
夏至の日の太陽は30度弱真東からズレルというお話が頓珍漢であった、という事。
そして、この投稿子は、それが理解できないという経緯 。 127日本@名無史さん2017/11/14(火) 08:09:20.53
297の>>937
>>何をアホ言ってんだい?。 三国志は陳寿が書いたに決まっているんだよ。
そして、記録は魏朝の記録が中心であって、それに付加記録も付け加え、
それに対して、陳寿が地の文で解説しているんだよ。<
>何も根拠がないどころか、世の中の学者の誰1人も(おそらくフルタも)そんなことだと思ってはいない。<
そりゃ、古田さん以外の「世の中の学者がは皆アホだ」、と言っているのと同じだよ。 128日本@名無史さん2017/11/14(火) 08:12:25.33
297の>>939
>現実に立ち返れば、インディアン・サークル法は大平原では有用でも、山や谷に囲まれた日本じゃ実用困難
これ常識 <
成程。インディアン・サークル法というのは、周髀算経や礼記の方法と同じ原理であったらしい。 129日本@名無史さん2017/11/14(火) 08:19:14.62
130日本@名無史さん2017/11/14(火) 08:23:47.89
>>126
30度弱真東からズレルのは自然の摂理
中学校にもう1度行ってこい、カス 131日本@名無史さん2017/11/14(火) 08:25:41.99
>>126
おまえはなぜ四季があるか分かってないよなw 132日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:04:04.51
133日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:04:54.67
お行儀良く書き込みなさい
134日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:08:38.72
●卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」
本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。
ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。
本居や鶴峰は卑弥呼・壱与のみならず倭の五王も熊襲による僭称としており、
これらの考えは古田武彦らの九州王朝説へと引き継がれている。
「本居や鶴峰は卑弥呼・壱与のみならず倭の五王も熊襲による僭称としており」というのは、
言い換えれば、
「大和朝廷および古代天皇は絶対朝貢などしてません」という事だ。
「日本の天皇が中国に朝貢した事などあってはならない(本居宣長)」がベースだ。
つまり、この「偽僣説」は世論誘導。
本居宣長1730年生れ
鶴峯戊申1788年生れ
那珂通世1851年生れ
この3人に接点はあったのか。あったのならまるで日本版フリーメーソンだ。
どちらにしてもこの熊襲が朝廷を僭称したとする奇説「偽僣説」、
那珂通世を最後に消える。
本居や鶴峯の時代まで重く重く辛い史実であった古代天皇の朝貢、
これが那珂通世の生存中に突然、羽を生えたように軽くなった。
日本が日清戦争に勝ったからである。
中国に対して精神性で圧倒的優位に立った。
今の日本人なんて中国に対して優越感しかない。
中国人よりパンダの方が大事だ。
中国人1億人とパンダ1頭が同価値であろう。いや13億だという強硬論もあろうが。
それにしても世論誘導であったこの奇説をマジで捉えた古田www
古田www
135日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:10:39.42
297の>>942
>だから日の出と日の入りが両方見渡せる場所が どこにあるわけ?<
周髀算経は、日没前の一定時間前と日の出後の同じ時間後、というように太陽高を揃えて8尺棒の影端同士を結んで東西を決めており、
礼記は、ストーンサークルや日時計のように、円を描いてその中心に棒を立てて、その影端が円周を横切る2点を結んで、東西を決める、という方法であり、
何れも、日の出と日の入りの両方を見通せるような広い場所は必要ではない。 136日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:25:32.62
137日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:26:04.06
138日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:28:43.70
297の>>944
>「持衰」がなんの証拠になるんだ? <
持衰は倭船の話だから、それを目撃した魏使らは倭船に乗った。
そして、郡から(倭や大和まで?の)沖合航行をするんなら、当然大型中国船を使う。
それなら、途中で倭船に乗り換える必要はない筈なので、
倭船を使った、という事は、狗邪韓國から持衰のいる船に乗った、という事になり、
郡から半島の西沖や南沖を沿岸洋上航海をした、という事の否定になる。 139日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:46:06.66
279の>>945
>「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」の道と、どこが矛盾するんだ?<
これまで大和説者らは、半島のジグザグ道なんて存在しない、と主張していたが、
倭王武の上表文は、
昔から、狗邪韓國や任那付近から半島西岸の百済付近との「道」があった、
と言っていた、という事だ。 140日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:49:59.20
279の>>948
>ならば、それでも魏人は方位を間違えたというわけだが <
魏の役人たちは、周髀算経も礼記も知っているから、方位を間違えないわけだが。 141日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:53:59.07
297の>>950
>二千里あれば畿内に着くね <
魏使らが使った「里の計測」の記録に従えば、
二千里では大和に着かない。 142日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:54:59.66
真夜中の放屁 臭い大便 ぶぶぶぶ
143日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:57:06.09
大便を こき垂れ踊る 夕暮れの 空にたゆたふ 天の川かな
144日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:57:24.93
大便を 吾がこきおれば かそけくも 秋の風吹く 夕暮れの空
145日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:57:35.85
297の>>953
>韓国が正方形なわけないだろ <
「方四千里」は、外接正方形での「近似的な大体の面積表現」だ。 146日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:57:41.00
音高く 屁をこきけりし 夕闇の 吾よりほかに 聞く人もなし
147日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:57:58.14
鼻穴に 大便詰めて 臭きかと 聞きにし人の 懐かしきかな
148日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:58:18.63
肛門を くじりくじりて 夜もすがら つひには血便 吹出でけるかな
149日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:58:32.89
糞喰いと 呼ばれし人の 言の葉は 今日も大便 明日も大便
150日本@名無史さん2017/11/14(火) 09:59:31.69
長々し 一本糞を こき垂れり 便器に詰まりて 流るることなし
151日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:00:11.66
世の中は 辛きことのみ 多かりし せめては大便 喰いて楽しむ
152日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:00:36.16
秋晴れの 今日のひとひを 顔面に 大便塗りて 楽しみにけり
153日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:01:07.01
なんといふ 臭き大便 垂れおるか 猫より臭き お前は神か
154日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:01:30.78
肛門に ずっぽずっぽと 歯ブラシを 入れてつひには 血ぞ出でにける
155日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:02:06.52
大便を もらしし子どもの しかられて 泣き泣き帰る 冬の道かな
156日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:02:44.81
肛門の 粘膜とても 敏感よ 指入れるなら 爪を切るべし
157日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:08:51.16
297の>>956
>魏志韓伝には朝鮮半島内の移動記録が全く書かれてないので
韓半島内は陸路ではなく海路を使ったという可能性が補強されるのだ<
韓伝の移動記載は、
韓が始めから陸地である事が判っているのだから、
原則として、海路を使った場合にはそれを特記し、
陸路であった場合にはわざわざ陸路だと特記する必要がない。 158日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:12:05.20
297の>>957
>三国志の方が膨大だなんて、どうしてわかるの?<
前史や諸記録も含めた記載をしたから。 159日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:20:01.15
297の>>959
>つか、楽浪から辰韓まで船で行ったと書いてないか?<
戦争や緊急の場合は、思いもよらない水行や海行をする事もあるが、
平常の「皇帝の使節」が、そんな危険を犯す訳がないよ。 160日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:26:04.10
297の>>960
>ならばどうして史料事実を答えない? そんな史料事実が無いんでしょ? w<
史料事実や史料実態に拠る説明は、当初に何度も繰り返し説明しておいてあるのである、
それを知らん振りして、言っていなかったか?のようにして、
同じ事を繰り返す事を要求する大和説人種は、一種の・・・・病であり、
私は、忙しいから、黙殺しているんだよ。 161日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:30:58.56
162日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:31:01.19
297の>>964
>なぜ「道kei百濟、裝治船舫」と言う必要がなくなるの?<
南宋へ行くんなら、高句麗の邪魔を受けないように、直行すればよい。
>高句麗が邪魔したのもが陸上路を妨げたからだという根拠は?<
倭王武の上表文。 163日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:37:06.40
297の>>967
>魏使のルート倭側の朝貢ルートに何の関係もないだろ <
倭王武の朝貢ルートは、「自昔」だから、
昔からの倭國の朝貢ルートだった、という意味だ。
だから、倭國へ向かった魏使らは、当然そのルートを使う。 164日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:41:32.45
>>162
475年に高句麗が漢城を落としてるの、知らないの? 165日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:43:17.99
297の>>969
>韓地陸行説は世間でぜんぜん相手にされてないのが現実 <
政府文部省や、キョクウマスコミや、彼らの支配下の学会や教育界などが、
「都合の悪い古田論の存在を、世間の人々に知られないように、徹底的に隠蔽して世間の人々を騙した」
というのが現実。 166日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:47:24.52
297の>>970
>要するにザラコクの主張する安全最短の法則なんてデタラメもいい所だって事か
考えてみれば倭に行くルートなんて現地人が使ってる路順そのまま辿る以外に
やりようがないもんな <
安全最短の原則は、当然全ての人類にとっての原則であり、
だから、魏使らにとっても、案内の倭人らにとっても、双方共に、原則。 167日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:51:42.67
>>162
高句麗が楽浪を落としたのは312年なんだから
もともと倭の五王が陸路で宋に入朝できるわけないのに 168日本@名無史さん2017/11/14(火) 10:58:34.97
287の>>984
>は? イミフ 会稽郡ってのは揚州の中の一つの郡でしょ。
揚州が江蘇省の一部を含んでたって会稽郡と関係ないじゃなないか。<
いや、検索で見たのでは、
問題の「会稽東治」の説明文言は、3世紀の会稽郡の話であり、
揚州はもっと後代の広域の地域呼称での説明文言であった筈だよ。 169日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:01:37.98
297の>>987
>遥か古代から現代までずっと大和の天皇家が列島盟主として支配して来た
なんて、畿内説の誰が主張した? 捏造もたいがいに<
Yahooでの議論相手の、
東大と京大を股にかけて、学会も支配している、
と豪語した「天誅」という人物。 170日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:12:36.54
>>160
成程。史料事実や史料実態に拠る説明は小生も確かに覚えている。全て納得できるもので勉強になった。改めて、有り難う。 171日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:14:38.96
297の>>990
>湾内水行の事故なんてめったに起こらんよ<
遠距離にでも強風が吹けば、簡単に高波が発生する。 172日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:22:57.41
297の>>993
>ザラコクは畿内説を攻撃する事によって皇国史観が広まることを防いでいるといった
一人よがりの考えに取り付かれたピントのズレてるアホ <
簡単な事だ。
この掲示板でも、Yahooでも、マスコミでも、
大和説者は、殆ど全て、人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観国粋主義的な「憲法違反の戦争賛美」投稿をしていた。
それに対して、九州説者は、思想には殆ど関係なく、史料事実に拠る歴史議論をしていた。 173日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:23:32.25
174日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:26:40.19
297の>>994
>>陳寿が「ちょうど東だ」と言った事にはならない。<
>「当在会稽東治之東」と言ってるけど?<
「當」というのは、(絶対断定ではなく)、陳寿の「推定」である事を示す。 175日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:32:18.81
297の>>1000
「南→東」などの史料事実を否定曲解の嘘吐きダマシで、
安倍政府や文部省やマスコミや学会や教育界が、国民を、
皇国史観戦争狂に洗脳しようと目論んだ大和説、終わり。 176日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:36:24.95
>>163
魏使のルート倭側の朝貢ルートに何の関係もないだろ 177日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:36:59.79
>>167
楽浪郡が高句麗によって陥落したのが312年
西晋が事実上滅んだのも、ほぼ同じ頃
東晋が山東半島を奪回したのが410年
倭王讃が釣行を開始したのが、その直後
百済の漢城が最終的に高句麗に落とされたのが475年
倭王武が「高句麗が邪魔する」と言ったのが478年
「以失良風、雖曰進路、或通或不」とは
明らかに朝鮮半島から山東半島に渡る拠点を失ったことを言っている 178日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:40:05.56
179日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:40:44.44
>>174
いや、「當」というのは just だから 180日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:41:52.80
181日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:42:17.95
>>170
この成程くん、いつもザラコクた太鼓持ちしてるけど、だれ? 182日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:43:51.89
183邪馬台国畿内説 Part2982017/11/14(火) 11:48:01.55
前スレ
http://2chb.net/r/history/1510373552/-100
1、内乱の激しい中国や、2世紀末の倭国大乱の影響を避けるため、都を、大陸からより離れた奈良盆地の纒向にした。
大和は、瀬戸内海に近く、交通の要衝である。人口も多く、日本の中心に位置しており、都にふさわしい。
2、倭国の大乱は全国的な内乱である。その結果、3世紀には、中部日本と西日本とを統一する大和朝廷が成立した。女王国の出現は、このような広い領域を支配する国家の誕生であった。
3、卑弥呼が魏からもらった鏡は三角縁神獣鏡である。その証拠に、卑弥呼の時代である「景初三年」の銘が入っているものが出土している。
三角縁神獣鏡は、畿内から数多く出土するが、九州や関東からも出土するので、古墳時代の前、すなわち鏡が輸入された卑弥呼の時代には、大和の勢力が九州や関東に及んでいた、と見るべきである。
4、朝鮮から邪馬台国にいたる行程記述は、、伊都国以降も一直線に繋がったもの(順次式)と見るべきである。
不弥国から東は、船で行った。航路としては、瀬戸内海ルートだけでなく、日本海ルートを通った可能性もある。 この場合、投馬国として、出雲や但馬を比定する。
5、「女王国の東、海を渡りて、千余里、また國あり、みな倭種」とある。これは、九州の女王国からみて、海を渡った四国や本州に倭人がいることを記述したものである。
以上 カキコミは自由に語ってください なおできれば前スレを埋めてから書き込んでください 184日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:48:18.52
>>177
誤:倭王讃が釣行を開始したのが、その直後
↓
正:倭王讃が朝貢を開始したのが、その直後 185日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:50:56.21
何これ? >>183ってニセスレの前口上だろ
東遷説の馬鹿が成りすましで書いたから
間違いだらけだが(藁 186日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:51:33.30
>>66
>会稽は鹿児島より南で屋久島あたり<
陳寿は、「計其道里、當在會稽東治之東」のように「當」として
東治之東」という推定位置として書いている。
>倭国は会稽東冶の東にあるはずなんだから九州ではない <
「東冶」ではなく「東治」であり、九州でほぼぴったり。
>簡単な話だ<
この男も、史料事実を否定曲解する嘘つきダマシの・・・・サギシであった、という簡単な話だ。 187日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:54:21.02
早く埋めて次の偽スレを立てようと画策してるんだろうね
一人して自演で埋めてても時間がかかるから
また珍妙な工作を始めたんだろう
188日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:56:22.89
>>186
「東治」でも屋久島より南なんだから「九州でほぼぴったり」とか嘘では?
史料事実を否定曲解しちゃ駄目だよ 189日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:57:12.60
>>72
>反論な〜んにもせず悪口しか言えないのは 畿内説に破れた敗残者な証明だよ<
「南→東」などの史料事実の否定抹殺の嘘吐きダマシの指摘から逃げて、
反論もな〜んにも出来ずに悪口しか言えないのは 、
九州説に破れた大和説者が、敗残者である、
という事の証明だよ。 190日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:59:03.14
重複スレだぞ。
191日本@名無史さん2017/11/14(火) 11:59:32.81
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 192日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:04:43.18
またコピペ嵐が始まった
そんなに畿内説が怖いの?
193日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:07:25.55
>>189
だ〜か〜らx、史料批判は、史料事実を否定することもある
それが健全な歴史学なんだって何度も説明してるのに 194日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:09:14.00
5、「女王国の東、海を渡りて、千余里、また國あり、みな倭種」とある。これは、九州の女王国からみて、海を渡った四国や本州に倭人がいることを記述したものである。
↑一目瞭然だよな ここが魏志倭人伝のすごいとこ
また國あり、みな倭種 銅鐸民のことだよ
195日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:14:05.79
>>194
邪馬台国の纒向に都を置いた新生倭国が活動を始めた頃
南関東あたりには、まだ卑弥呼の倭国に加盟していない倭人國があったってこと
考古学も裏付けてるとおりだ 196日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:18:47.46
学会が畿内説に偏り過ぎなんだよ。
奈良だと予算も出るし発掘調査もバンバン出来るし関係者だと畿内説支持になるんだろーな。
197日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:19:04.61
>>191は
「と思ってます」を根拠にして
断定的な結論を出す
論理的に間違った主張 198日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:20:52.53
>>196
正しい結論に傾いていくのが、正しい学問ってもんでしょ 199日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:21:51.24
200日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:25:25.42
201日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:26:45.97
>>196
学会が畿内説に偏るのは当然だ。
正しいんだもの。 202日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:29:14.83
203日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:31:33.76
会稽東冶の誤字だから、会稽東治は現在の福州だね
204日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:32:52.75
>>202
もちろん会稽東冶は畿内ではない
中国だ
w 205日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:42:01.26
>>168
>問題の「会稽東治」の説明文言は、3世紀の会稽郡の話であり、
>揚州はもっと後代の広域の地域呼称での説明文言であった筈だよ
揚州も三世紀にあった州です 206日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:47:08.11
>>198
いや〜遺跡を掘って新たな発見をし学説を唱えて(論文を書いて)こその考古学だ。
発掘したい所はたくさん有るのに発掘させて貰えない九州説は机上の空論を展開させるしかない。
自分が研究者なら、どっちを望む? 207日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:51:16.30
>>206
九州説が発掘をさせてもらえない、とか
デマも大概にしてくれ 208日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:55:21.66
>>206
そりゃ貴方・・・
「ごめんください。九州説の者ですが、お宅の家の下を発掘させてください」
とか言ったら、塩まいて追い返されるさ 209日本@名無史さん2017/11/14(火) 12:57:11.21
210日本@名無史さん2017/11/14(火) 13:01:51.41
211日本@名無史さん2017/11/14(火) 13:12:36.98
>>74
>ここ、Newだな ※ 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里 予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)<
ダメだな。「続漢書地理志注記」の史料批判も無しに「古代中国の地理感覚」なんておこがましい。
「遼東郡:雒陽東北三千六百里」は古田さんも挙げられた長里の記載例だ。
「楽浪郡:雒陽東北五千里」も、韓の方四千里の短里記録と比べても、長里例である事が明らかだ。
つまり、この男は、始めから長里例を出発点にするインチキをやっている。
>倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。<
何を計算してんだい?。12,000余里はほぼ東南方向であるから、その南北成分は1.414で割って、それだけで8500里位だよ。
>楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、楽浪起点として、<
楽浪起点ではないよ。倭への万2000余里は、帯方起点だよ。
>会稽より稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。<
北緯35度に、京都や釜山や洛陽や「山東省と江蘇省の境の山東半島の南端の付け根」付近が並んでいるから、
倭の女王の都は、釜山から短里で5000里(長里で830里位)しかなく、
福州まで、とても行く筈がない。
要するに、この男は、魏志の楽浪や帯方から倭までの里数を無理やり「長里」でこじつけて、福州の位置をでっち上げただけ。 212日本@名無史さん2017/11/14(火) 13:13:12.89
>>206
ほとんどの発掘は文化財保護法に基づく調査だって知ってる? 213日本@名無史さん2017/11/14(火) 13:19:07.15
214日本@名無史さん2017/11/14(火) 13:23:20.45
>>211
>倭の女王の都は、釜山から短里で5000里(長里で830里位)しかなく、
>福州まで、とても行く筈がない。
つまり筆者は短里なんか使ってない 215日本@名無史さん2017/11/14(火) 13:23:20.96
216日本@名無史さん2017/11/14(火) 13:28:23.83
217日本@名無史さん2017/11/14(火) 13:29:13.55
218日本@名無史さん2017/11/14(火) 13:32:21.09
>>75
>ここも 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、<
ダメだ。史料批判に拠って、「東治」で正しい、という事は確定している。
>倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。<
民族部族の移動はあるんだから、3世紀におけるイコールだ、という事にはならない。
>故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。<
「会稽東冶」という断定が、そもそもインチキだまし。
>よって、倭人伝の里程にも「南」という方位にも、致命的な誤りが含まれていることに疑問の余地がない。(※)<
インチキダマシの積み重ねの上での「何でも間違いだ」論。「南→東」の嘘吐きダマシと同じ手口。
>具体的には、三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。<
何だこりゃ?。この男はスレ主なのか?。それにしても、韓国の方四千里や帯方→狗邪韓国の7000余里の事を、こっそり隠している。
>加えて「南至邪馬壹國」の「南」にも錯誤を認めない限り、<
方向錯誤なんてないよ。
>倭地は会稽はおろか許都ほどの南としか認識出来ないことから、<
何を言ってんだい?。洛陽と釜山がほぼ同緯度なんだから、それより5千里以上南西へ行く倭地は、九州でぴったりだよ。
>倭の中心地が「會稽東冶之東」と記述されることは有り得ない。<
ウソをつくなサギシ。倭地は「會稽東治之東」だ、と書かれているんだよ、スレ主さん。 219日本@名無史さん2017/11/14(火) 13:33:13.24
ウソだと
220日本@名無史さん2017/11/14(火) 13:39:33.16
>>218
「會稽東治之東」だから九州じゃないんだよね 221日本@名無史さん2017/11/14(火) 13:42:43.26
222日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:00:02.83
>>218
>ダメだ。史料批判に拠って、「東治」で正しい、という事は確定している。
中国、台湾の国家機関により「会稽東冶」で確定済み 223日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:03:46.54
>>76
「南→東」の嘘つき騙しの指摘にどうしても反論できない‥‥アホの大和説は、
「会稽東治→会稽東冶」の嘘つき騙しに縋り付くしかなかったようだな。
しかし、それも大和説のネックになったようだな。 224日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:04:24.22
>>221
畿内説は里数も「南至」も間違いだという説だから
問題ない 225日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:06:16.51
226日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:07:53.51
227日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:09:53.63
>>77
>魏志倭人伝には、広大なエリアに広がる女王国まで12000里としか書かれていない。<
女王之所都の邪馬壹國の入り口までが、萬二千余里だ、と書かれている。
>邪馬台国までの距離は記述なし。<
嘘を付くな、・・・・。「邪馬台国」なんて、存在しない。
>12000里に満たない国邑、伊都国などは女王国ですらない。<
伊都国は、共立女王國の軍事的支配の拠点国であり、中心域。 228日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:11:42.86
229日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:14:15.81
>>78
魏使らが国内見聞移動した里数を行程里数に加える、
という常識にいちゃもんを付ける詐欺をしないと、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、ニッチもサッチも行かない 。 230日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:19:57.52
>>79
大和説は、
「日本は唯一世界1でなければならない」という、
高慢なタカ派の人種差別殺し合い戦争狂の皇国史観国粋主義の、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
ニッチな説のくせにな。 231日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:23:19.13
>>80
>難波津で行われる、天皇の国土支配権を裏付ける儀式。<
オームなどと同じの、
「天皇の国土支配」の皇国史観そのものの、・・・・の分裂幻覚の 妄想の病気だね。 232日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:27:06.36
>>81
大和説は、高慢なタカ派殺戮戦争狂の皇国史観の分裂幻覚の妄想だね。
刑務所や病院や仲間同士の戦場でなら、分裂幻覚の妄想を抱くのは勝手さ。 233日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:28:27.32
>>224
>>>221
>畿内説は里数も「南至」も間違いだという説だから
>問題ない
つまり嘘つきなんですね。 234日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:30:02.81
>>81に
大和の三角縁が4世紀の鏡なことも、もう世間の人々に認知されてきたし、
もう大和説は、分裂幻覚の病院道へ、まっしぐらだね。 235日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:36:02.76
>>85
正義の味方であるはずの学者の殆ど全員が、
国民の過半数の意識に反して、
安部政府や文部省やマスコミの分裂幻覚の皇国史観国粋戦争狂の大和説であったとは、
日本はもう戦争にまっしぐらであって、
夢もロマンはないわー 。 236日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:39:41.18
>>88
>つまんない中傷や陰謀論はいいから<
大和説者からの中傷や陰謀論への、「言い返し」だよ。
>歴史の話しろよ<
大和説者にはっきり言えよ。 237日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:43:42.34
>>89
>せっかく本物の畿内説スレなんだから、なんか反論ないの? <
何だ?、殆ど反論してあったのに、やっぱり・・・・大和説者は、見えてなかったのか。 238日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:44:55.72
>>230
畿内説には皇国主義とか言われる要素はまるで無い 239日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:46:19.17
>>237
思想的な言いがかりは畿内説への反論じゃ無いだろ 240日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:52:35.50
>>238
畿内ヤマト王権の起源を実際よりも古く見せようとしています。 241日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:53:00.75
>>92
>会稽郡ってのは、揚州の南の方だね<
いや、後の「揚州」の中心地域だな。
>東側が海で、北側が呉郡や丹陽郡と接してる<
西晋代には、そもそも「呉郡」なんてあったのかなあ?。
海に面していたのは、元々会稽郡の筈なんだが。
>江蘇省ってのはその北のほう <
江蘇省も、海岸に面していた筈だ。 242日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:54:08.96
243日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:56:03.26
244日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:56:17.30
>>93
>北緯30°以南ね<
会稽郡は、揚子江河口の北側まで広がっていた筈だよな。 245日本@名無史さん2017/11/14(火) 14:58:43.00
>>94
>短里なんてものがない証拠だな<
魏使らや陳寿の頭には「長里」なんて全くなかった筈だな。 246日本@名無史さん2017/11/14(火) 15:05:30.71
>>241
129年 後漢が呉郡を置く。揚州に属し13県を管轄した。
晋のとき、11県を管轄した。
南宋のとき、12県を管轄した。
斉のとき、12県を管轄した。
陳のとき、新設された呉州の郡に編入された。 247日本@名無史さん2017/11/14(火) 15:11:44.92
>>110
>裴 松之(372〜 451) 范 曄 (398〜445)
彼らが見たのが魏志写本か原本か、どっちにせよ 「東冶」と書いてあった<
宋と明と初期清の校勘者は、誰も「治と冶」の校勘をしておらず「治」であった、という事は、
写本からずっと、(冶ではなく)、「治」であった、という事。
という事は、裴松之が見た三国志にも(冶ではなく)「治」であった。
後漢書の「冶」は、問題も関心も持って貰えず、
考証校勘対象にすらなっていなかった。 248日本@名無史さん2017/11/14(火) 15:26:47.32
>>111
>大同江を出て乍南するから「乍南乍東」でいい <
全く「よくない」。
魏使らは、東南方向へ行くのにわざわざ北西へ川を下って行く事もないし、
海岸に出てから西へ向かって行く事を「乍南」と表現する筈もないし、
危険な海岸地域を極めて大回りして循海岸水行する必要もなく、
帯方郡治から南へ行けば同じ郡内の海州に出る事が出来、直ぐに循海岸水行出来る。
つまり、大和説では「乍南乍東」の始めの「乍」がなく、「南乍東」だけであり、
史料記載実態に合わない。
韓国陸行説では、「南と東の繰り返しの反復」であるから、全く問題はない。 249日本@名無史さん2017/11/14(火) 15:31:23.98
>>113
>つまり安全な海岸沿い水行でいいんだね? <
いや、陸行の方が困難で危険であった場合だけ。 250日本@名無史さん2017/11/14(火) 15:38:22.18
>>114
>帰納的推論なんてしてないでしょ? した形跡がない <
史料事実そのもの以外の、「史料事実の原因理由の推定」や、
「史料事実の近縁事項との関係の推定」などは、
全て、「帰納的推論」。 251日本@名無史さん2017/11/14(火) 15:45:21.27
>>114
>>それは、呼子付近から唐津港までの循海岸水行の話なんでしょうね。<
>浜崎ー二丈の話だと 前スレで指摘があったよ <
私は、呼子付近から唐津港までの末盧國の国内移動の話をしているのに、
相手か?だれか?が勝手に、
末盧國の出発後の途中の浜崎ー二丈の話にすり替えていた、」というだけだよ。 252日本@名無史さん2017/11/14(火) 15:50:45.16
253日本@名無史さん2017/11/14(火) 15:51:59.45
>>117
>フルタ説信者以外の全員が「東南」を、伊都国への方角だ、と考えてますが <
「東南を、伊都国への方角だ、と考えた人は、全員、
陳寿の行程の順次式説明、という人類の常識的原則が読めず、
嘘つき騙しのキョクウ戦争狂皇国史観学者やマスコミの宣伝に騙されて、
失敗したアホであった、
という事であるだけだよ。 254日本@名無史さん2017/11/14(火) 15:58:04.53
>>123
>そんな意味ない 康熙字典に「又踰也、越也。」<
字典辞書などというものは、全て、
わざわざ異なる文字を使っての説明であるんだから、
全て「近似」的説明であり、
100%完全なイコール説明なんて殆どあり得ないものなんだよ。 255日本@名無史さん2017/11/14(火) 16:03:34.87
>>125
>いくら広範囲だって屋久島より南だよ<
いくら広範囲だって、沖縄以南なんて全く無理だ。
倭人伝の記載から、陳寿の意図は「九州」を指していた、というしかない。
> 大体だと言って誤魔化すのは無理だ<
陳寿は始めから「當」という推定説明だ。 256日本@名無史さん2017/11/14(火) 16:07:32.62
>>247
写本がまだ正しく「冶」のままだったら、当然ながら訂正なんてしませんけど 257日本@名無史さん2017/11/14(火) 16:08:03.76
>>129
>古田説に意味ないからだろw<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者に騙された人種が、
脳の弱いアホであった、という事であるだけだろ?w。 258日本@名無史さん2017/11/14(火) 16:17:19.08
>>161
>言えなきゃダメでしょ <
・・・・であったらしい、とほぼ判った人は、
もう一生殆ど直らず、いつ殺人事件や戦争を起こすかも知れないケダモノであり、
怖いから、相手にしないで、放っておくだけ。 259日本@名無史さん2017/11/14(火) 16:20:55.07
>>164
>475年に高句麗が漢城を落としてるの、知らないの?<
だから、倭王武は、これまでの事を説明して、
高句麗への非難の上表文を書いたんでしょ?。 260日本@名無史さん2017/11/14(火) 16:24:19.07
>>167
>高句麗が楽浪を落としたのは312年なんだから
もともと倭の五王が陸路で宋に入朝できるわけないのに<
だから、倭王武は、百済まで行って船を準備し、それから南宋へ渡海していた事を、
上表文で説明した。 261日本@名無史さん2017/11/14(火) 16:41:17.40
>>260
何を言うかと思ったら
レベルが低い 出直しておいで お馬鹿さん 262日本@名無史さん2017/11/14(火) 16:45:42.67
>>260
「道逕百濟。裝治船舫」ならみんな海路だって読んでますけど? 263日本@名無史さん2017/11/14(火) 16:50:14.16
>>258
そうした方が良い アホを相手にしてたら自分もアホになる 264日本@名無史さん2017/11/14(火) 16:51:15.15
265日本@名無史さん2017/11/14(火) 16:54:30.42
>>262
人を小馬鹿にするな
そこまで博学ならここに来るな ボケ 266日本@名無史さん2017/11/14(火) 16:55:44.20
>>244
>会稽郡は、揚子江河口の北側まで広がっていた筈だよな。
まさか。
揚子江の南に呉郡がある。
呉郡をはさんで、そのさらに南に会稽郡がある。 267日本@名無史さん2017/11/14(火) 16:56:16.96
>>258
俺もテメーは許せん ケダモノとはなんだ(怒) 268日本@名無史さん2017/11/14(火) 16:57:30.30
皆冷静になれよ いい加減しろよ
269日本@名無史さん2017/11/14(火) 16:58:24.92
>>247
中国、台湾の国家機関により「会稽東冶」で確定済みだ 270日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:01:43.92
まあ定説ね
271日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:04:44.80
邪馬台国は畿内で決まりなのにな
これ常識
何も知らんで書き込むなよ
272日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:05:39.32
>>245
魏使らや陳寿が普通の1里=約400mで考えてなかったら
会稽なんて引け合いに出すことはあり得ない
「短里」なんて中国の地理がわかってない人の妄想だよ 273日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:07:48.12
>>272
報告書を書いた人間と、受け取った人間の間に認識のズレがあったのかもね。 274日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:09:50.74
>>255
いくら広範囲だって、倭国が屋久島以南なんて全く無理だ
インチキして会稽東冶を北に動かそうとしたって
無理なものは無理
だから短里なんて存在し得ない 275日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:09:53.55
考古学的にも定説でも畿内なんだけどな
頼むから分ってくれよ
わけもわからん事言う前に本を最低100冊読んでくれよ
ザラコクも本を読めよ リサイクルで安価に手に入れられる店もある
276日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:16:19.09
中国の地理を知らんでデタラメ言ってるのがトンデモになる原因の一つだ
277日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:16:30.70
278日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:17:29.01
>>275
考古学的に、何だって?
【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 279日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:18:20.11
280日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:23:16.67
纒向は会稽東冶の東なの?
281日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:28:26.05
>>278
魏の時代の福岡で矛が多量に出土したりしてない
九州の絹は弥生時代後期どまりで魏の時代に届かない
九州は邪馬台国候補から脱落
魏の時代はもう弥生時代じゃないから、鉄鏃ガーとか無意味
三世紀の鉄刀は、鉄剣は畿内の古墳からたくさん出る
三角縁神獣鏡は当時の日本で国産が無理
「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」 が邪馬台国時代、古墳時代を通じて奈良県からわずか2面って
ソース、プリーズ 282日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:32:11.61
>>280
畿内説は「距離・方位間違ってる」説だから
東じゃなくて正解。
九州説は「間違ってない」説だから死亡だね。 283日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:32:28.10
>>176
>魏使のルート倭側の朝貢ルートに何の関係もないだろ <
関係大有りだ。
倭王武は「自昔・・・」と書いているんだから、
倭國は、倭奴国や卑弥呼や壹與らの遣使の昔から、半島陸路を使っていた事になり、
そのルートは、当然半島側も承知していた、という事になり、
魏使らも、ルート選択に、そのコースを選択して当然だ。 284日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:33:15.21
285日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:33:59.32
邪馬台国は弥生末期。
絹の生産が後退する理由がない。
鉄鏃は肥後狗奴国との前線の筑後平野あたりにたくさんある。
畿内の鉄剣は、卑弥呼より後の3世紀後半以降に九州から持ち込まれたもの(鉄も銅も九州が輸入ルートを独占)。
奈良県にもっと内行花文鏡があるという根拠をプリーズ。
286日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:34:28.32
>>282
都合の悪いデータは無視してあるだけだろ。 287日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:40:57.37
>>283
「自昔」だけで、どうしてそんな昔から半島陸路を使っていた事になるの? 288日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:41:39.00
>>286
都合の悪いデータを無視してるって証拠は? 289日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:42:53.81
290日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:44:23.92
>>285
弥生時代後期だって言ってたのはウソか?
w
w
w 291日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:51:20.90
292日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:52:47.66
くそーーーーーーーー
証拠は
根拠は
聞き飽きた 自分で調べろ 腹立つ この馬鹿どもは
293日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:54:54.63
>>292
テンプレを読みこんでから参戦してくれないか 294日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:58:12.91
>>177
>楽浪郡が高句麗によって陥落したのが312年 西晋が事実上滅んだのも、ほぼ同じ頃
東晋が山東半島を奪回したのが410年 倭王讃が釣行を開始したのが、その直後
百済の漢城が最終的に高句麗に落とされたのが475年
倭王武が「高句麗が邪魔する」と言ったのが478年
「以失良風、雖曰進路、或通或不」とは
明らかに朝鮮半島から山東半島に渡る拠点を失ったことを言っている<
若しも百済への道が高句麗に邪魔されていなかったら、
倭王武が上表文で、
「道kei百濟、裝治船舫」なんて直接関係もない事を、
記載する必要もなかった筈。
昔から通って来た道径が障害されたから、
倭王武は上表文に書く事が必要であった。 295日本@名無史さん2017/11/14(火) 17:59:03.58
296日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:00:06.72
>>292
証拠がないなら
お前は論破されたってこと 297日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:02:03.92
>>294
それ、我々が主張してるとおりの話ですけど?
何か反論になってる? 298日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:03:06.50
>>285
>絹の生産が後退する理由がない。
衰退したからじゃん 299日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:03:42.67
>>178
>天候の悪いときに航行するわけなかろ <
高波は、予期出来ぬ時に突然海が盛り上がるもの。 300日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:04:46.30
301日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:06:03.70
>>179
>いや、「當」というのは just だから <
いや、推定を示す文言。 302日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:07:50.87
>>293
読んだ上でのカキコミだ
なんか文句あるのか 303日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:12:40.66
>>295
客観的に見てお前が負け犬だよ
去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ
去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ
去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ
去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ
去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ
去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ 去れ
∞ 304日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:13:06.46
そもそもあのテンプレもう少し見やすくならないのか
読んでる人の方が少ないだろ
305日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:13:15.95
>>285
>奈良県にもっと内行花文鏡があるという根拠をプリーズ。
大和天神山だけで4枚あるけど? 306日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:14:18.49
307日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:14:54.49
308日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:15:32.24
309日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:16:24.11
310日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:19:00.13
311日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:21:25.02
それを説明しないと意味ないだろ
312日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:22:18.17
>>183
>2、倭国の大乱は全国的な内乱である。
その結果、3世紀には、中部日本と西日本とを統一する大和朝廷が成立した。
女王国の出現は、このような広い領域を支配する国家の誕生であった。<
「南≠東」だから×。 313日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:24:00.13
>>311
それって九州没のこと?
まずテンプレでも読めば 314日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:25:24.77
315日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:32:40.38
>>309
どの説が敗者なのか
論争に勝ちも負けも無い
100%畿内説が勝者なら5ちゃんでは、このスレ無用だ
ブログでもやれば良い オープンな意見交換の場じゃないのか
テンプレも>>304の言う通りだ 長すぎる 自己顕示欲でしかないではないか 316日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:35:52.89
>>313
同意 テンプレも理解できない奴が来る場所ではない 317日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:38:34.18
318日本@名無史さん2017/11/14(火) 18:48:02.27
>>188
>「東治」でも屋久島より南なんだから「九州でほぼぴったり」とか嘘では?<
「会稽郡の東の治所」と言えば、当然普通は、
会稽郡の東の「南北45度位以内の全域」に可能性があるのであり、
その地域の東であれば、当然九州が含まれ、
沖縄は含まれない。
>史料事実を否定曲解しちゃ駄目だよ<
「東治」や「東」を、直線的真東のみに限定する、とか、
沖縄が「當在會稽東治之東」だとか、
「南→東」などとかの、
史料事実の否定曲解をしちゃダメだよ。 319日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:00:26.16
320日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:00:33.67
>>193
>だ〜か〜らx、史料批判は、史料事実を否定することもある
それが健全な歴史学なんだって何度も説明してるのに <
だ〜か〜らx。
史料批判に拠って十分信頼性が確認出来た史料事実を否定抹殺してはいけない。
それが健全な歴史学なんだって何度も説明してるのに。 321日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:03:30.02
三角縁神獣鏡が多数出土する機内が邪馬台国だよ
322日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:07:48.90
>>318
会稽から45度北東に進んでもすぐ海だから
上海より南だよ
最北でも佐多岬だね
九州はムリ 323日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:09:20.16
324日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:12:39.24
>>318
会稽東治は福州だから東は沖縄なんだけどね 325日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:14:07.04
326日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:19:39.54
卑弥呼が神武天皇の妻だったという意見には賛成。
両巨頭がいたから倭を平定できたと考えれば、至極理解しやすい。
古事記にも日本書紀にも、卑弥呼が神の子だとはっきり書かれている。
ただ、邪馬台国畿内説には、いささか疑問の余地があります。
なぜなら、神武天皇も卑弥呼も九州にいたから。
外国との位置関係で、福岡になにかしら機構を置きたい。
ただ、九州は今世あまり反映しておらず、
近畿が文化の中心であるから、
邪馬台国のなごりかなとは思います。
327日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:21:04.45
記紀の卑弥呼とは、
なんとか姫ね。字が難しくて読めない。
328日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:23:44.20
>>318
中国でいうとどのくらい南に当たるのか考察したのだから、真東で直線的でないといけない 329日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:25:13.74
>>326
それ、疑問とかじゃなくて結論ありきの決めつけでは? 330日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:27:43.83
331日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:30:07.11
>>326
卑弥呼が神の子だとか、一体どこにかいてある? 332日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:35:53.85
>>318
「会稽郡の東の治所」なんちゅうモノが存在しなければ
ハナからご破算の話だろうに 333日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:37:40.33
>>285
畿内の鉄剣が卑弥呼より後の3世紀後半以降に九州から持ち込まれたものだっていう根拠は? 334日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:46:58.75
>>331
このスレじゃなかったかな?
卑弥呼が、ヒメタタライスケヨリヒメだと書いてる人がいて、
古事記神武天皇の段に、
「ここにおとめあり。こを神の御子と言う。(中略)
名はほとたたらいすすきひめのみことといい、
またの名はひめたたらいすけよりひめという。」
と書いてある。 335日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:48:28.10
ちなみに、今世は、
神武天皇が、ワールドメイト教祖深見東州先生、
卑弥呼が植松愛子先生。
336日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:51:39.72
337日本@名無史さん2017/11/14(火) 19:55:22.40
九州没ワラタ
338日本@名無史さん2017/11/14(火) 20:02:40.24
そもそも神武天皇とか存在するのか
339日本@名無史さん2017/11/14(火) 20:02:54.18
>>335
おまい面白いやっちゃな 又頼むぜ
吉本=畿内説だろ 340日本@名無史さん2017/11/14(火) 20:03:03.60
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原って、
もしかしてただの催事場だったんじゃないだろうな?
もし邪馬台国があったら、
大規模な都市が発掘されるはず。
341日本@名無史さん2017/11/14(火) 20:04:07.43
祭事場
342日本@名無史さん2017/11/14(火) 20:07:54.58
サイキバを思い出すwww
343日本@名無史さん2017/11/14(火) 20:09:08.76
>>338
応神天皇を正当化するため創作されたという説が最近有力だ 344日本@名無史さん2017/11/14(火) 20:10:47.94
345日本@名無史さん2017/11/14(火) 20:16:22.81
ハザールだ
346日本@名無史さん2017/11/14(火) 20:22:33.71
ハザール人が渡来したのか?
347日本@名無史さん2017/11/14(火) 20:27:06.05
ハザールの元来の宗教は多神教とアニミズム
なんすかね、この符合??
348日本@名無史さん2017/11/14(火) 20:31:37.13
物産展だよ
349日本@名無史さん2017/11/14(火) 20:54:23.93
三角縁はOパーツ
350日本@名無史さん2017/11/14(火) 20:59:43.16
>>313
説明できないんだろ。
テンプレのどこで反論しているんだよ? 351日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:00:29.22
352日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:02:34.70
>>326
>ただ、九州は今世あまり反映しておらず、
九州が経済的に没落したのは、太平洋戦争の後に交易相手が中国からアメリカになり、石炭から石油にエネルギーが切り替わったからだよ。 353日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:03:55.23
>>333
3世紀中頃までの畿内の遺跡から鉄が出ない。 354日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:04:53.20
>>338
畿内の親戚を頼ってやって来た風来坊ならいただろう。 355日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:09:12.92
>>353
3世紀中ごろまでの機内の遺跡とは何を指してそう言っている 356日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:11:06.16
タイムマシンを作れば全て解決するんだからそれだけに集中しろ
357日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:17:49.26
>>283
>魏使のルート倭側の朝貢ルートに何の関係もないだろ 358日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:19:53.31
359日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:28:05.14
360日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:28:59.18
361日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:34:07.74
>>355
そうそう
九州説さんの言うことは具体性がなかったり、目的語がなかったり、いまいち意味が飲み込めない
これは質問がよくわからないから確認してるのであって、質問を質問で返してるのとは違う 362日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:38:14.96
363日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:47:48.65
畿内説側の者の発言はほぼ漏れなく
どこそこに事実Aがあるから
かれこれの理由で九州説に不都合な
テーゼBが成り立つ
みないな理路を書いてると思うけどね
364日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:47:49.16
>>361
ないことを証明しろとか、無茶言うからだろ。
3世紀中頃までと確認された遺跡で、鉄剣が出た例があるのか? 365日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:48:49.89
>>363
畿内説はそもそもまともに論じることなく、罵倒するだけだろ。
阿波の方が意見を提示しているだけまだマシだ。 366日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:49:11.28
367日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:49:59.95
368日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:50:26.84
なら畿内説側は何も主張しなくていいの?
罵倒するだけ?
369日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:51:16.55
>>364
それは、いつ何処でだれが言った無茶なんだ? 370日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:52:54.11
いつどこで誰が地球が何回回った時ー
小学生かよ
371日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:53:00.43
>>368
「なら」って、何なら?
なぜ、そういう疑問が湧くの? 372日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:53:23.94
畿内説の論理は頭の中だけの妄想
373日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:53:53.42
374日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:54:10.27
畿内説のスレなのに誰も畿内説の中身を語らない不思議
375日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:54:23.59
376日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:55:09.99
377日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:55:57.56
378日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:58:00.91
>>372
頭の中だけの妄想って
今まさにお前がやってるコトじゃないのか?
具体的な話をぜんぜんしてないだろ 379日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:59:13.36
380日本@名無史さん2017/11/14(火) 21:59:26.29
381日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:00:02.13
382日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:00:36.18
長いと全体が目に入らなくなるもんだ。
ここのスレ主は努力の方向を間違えている。
無意味だ。
383日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:00:54.50
384日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:02:39.22
>>380
テンプレの全部が畿内説の中身だ
テンプレに畿内説の中身でない部分があるなら言ってみろ 385日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:04:13.31
386日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:05:11.55
387日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:05:49.28
>>384
全部。
レス1から、読むと吐き気を催す文章だ。 388日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:06:42.06
389日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:08:15.64
>>388
テンプレそのものに客観性も説得力もない。
重要なところではポイントをわざとずらして責任回避をして、他人を引っ掛けるための文章。
まさに詐欺師の口上。 390日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:08:39.67
消防署の方から来ました、的な。
391日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:09:00.70
>>387
畿内説の中身でない
と断定する理由は? 392日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:09:08.29
スレ主は学がないから。
393日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:09:32.06
関関同立ってどこにあるの?
394日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:10:06.57
ヤタノカガミガーとかトリイガーとか言ってる方がよっぽど詐欺なわけだが
395日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:10:20.18
明日も早い。
もう寝ろ。
396日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:10:35.25
397日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:10:41.61
八咫の鏡ヒャッホーウ
398日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:11:06.50
学がない奴等には理解できないテンプレ
399日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:11:09.77
八咫の鏡は何であかんのや
400日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:11:30.33
関関同立よりは学あるよ
401日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:11:34.97
402日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:12:04.14
ミミガー
403日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:12:38.61
404日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:12:51.44
>>401
まともな指導を受ければ、ああ言う書き方はするなと指導されるものだよ。 405日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:13:43.30
名古屋名物、台湾飯!
406日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:13:49.24
>>399
誰も見たことがないから確認不可能
よって平原におけるその存在を前提にした立論はすべて詐欺 407日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:14:27.15
408日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:14:35.42
過去に記憶だけ送るのは、タイムマシンと呼べるのか?
409日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:15:01.20
関関同立にこだわるのは学歴コンプのキウス
これ、豆な
410日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:15:17.93
>>406
誰も見たことがないと言うのは嘘ですね。
過去に見た記録はありますね。 411日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:15:25.09
412日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:16:19.76
周八咫の鏡だから八咫の鏡。
413日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:16:35.16
414日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:16:40.30
岡上、今夜もお前の惨敗だよ
415日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:17:08.46
416日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:18:23.53
417日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:19:59.82
>>410
現代の誰も確認不可能だから、見たと言う記録の当否も確認できないので意味がない
それに、その記録には、特筆されるはずの大きさが書かれていない
本当にみているのか、かなり怪しい 418日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:20:27.00
もりあがってますなー(つまらんけど
419日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:20:39.30
420日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:21:13.94
ダックいてたらへんじせー
421日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:21:44.32
>>417
都合の悪い記録は無視と。
畿内説の常套手段ですね。
ついには魏志倭人伝まで否定するくらいだし。 422日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:21:51.42
423日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:22:08.32
賀茂
424日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:22:25.17
カラスの勝手でしょ
425日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:22:30.18
周王朝時代の8小尺を
周囲8尺だと思い違いした
無学じいさんが、通りますよ
426日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:22:55.46
関東は鷲
427日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:23:17.57
>>417
確認できない事項を勝手に確定させることは捏造 428日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:23:33.72
ゆとり世代は円周率が3と習うそうだから、同じことだよ。
429日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:24:38.35
430日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:25:00.94
テンプレ無視する奴は○ね
431日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:25:23.86
ん!やたがらすてじんむとーせーやん(
432日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:26:04.73
433日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:26:23.91
434日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:26:46.27
コテハンつけろよ、岡上
435日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:26:56.71
畿内説は東遷説だから。
436日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:27:06.21
amsの謎まとめの話したろか(ぼそ
437日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:28:40.71
神武の陣営が途中で気を失ったのは、食中毒か何かかな?
438日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:29:20.14
スレ主はゆとり世代
439日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:29:36.09
ここのてんぷれのもものたねのはなしもわらいもんなのしってたか(ぶんけーのひとにはきづかんやろけど
440日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:30:36.86
441日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:30:56.58
邪馬台国であることの証明が、桃の種と魚の骨なんだよ。
笑えるだろ。
442日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:31:19.02
443日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:31:48.84
>>437
犬神せんせーか(しっとるくせに
しょくちゅーどくがっせんやろ(てっぽーないし 444日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:31:57.65
445日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:33:12.54
>>441
いくらなんでもほかにもありまっしゃろ(しらんけど 446日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:35:05.93
まきむくへんねんならきないせつははかはどこやったん(とーいめ
447日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:35:40.98
岡上よ、お前もいい歳なんだろ
俺らの父親世代だよな
あんまり恥かかせたくない
何やらかしたら負け判定出るかくらい
学習しとけ
448日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:43:29.16
おじーちゃんらもーねなさい^^
449日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:55:09.32
桃の種と魚の骨は残飯やろ
450日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:55:30.74
>>195
>邪馬台国の纒向に都を置いた新生倭国が活動を始めた頃
南関東あたりには、まだ卑弥呼の倭国に加盟していない倭人國<
「南≠東」だから、×。 451日本@名無史さん2017/11/14(火) 22:56:45.96
畿内厨は残飯見て邪馬台国だといってるのか
452日本@名無史さん2017/11/14(火) 23:06:40.57
>>198
>正しい結論に傾いていくのが、正しい学問ってもんでしょ <
「正しい結論」という設定をする事がそもそも非学問的なの。
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
得られた情報からの帰納的確率的推論をするしかなく、
新しい情報が発見されれば、
それも含めた帰納的確率的推論を再構築して進んで行くしかないの。 453日本@名無史さん2017/11/14(火) 23:10:49.05
>>199
>陰謀説はトンデモの証 <
帰納的確率的推論をし続けなければならないのに、
「南→東」などのように、
思想宗教的な「結論先にありき」で結論を断定してしまう大和説は、
トンデモの証 。 454日本@名無史さん2017/11/14(火) 23:15:50.61
>>200
>会稽東治って具体的にどこなんだ? <
どなたかが、後漢書で「治」の一つ?の名前を挙げておられましたが、
一つだけなのか?もはっきりせず、
大体、「会稽郡治の東方に当たる地域」は、全部可能性があるんでしょう。 455日本@名無史さん2017/11/14(火) 23:18:07.70
>>201
>学会が畿内説に偏るのは当然だ。 正しいんだもの<
「南≠東」だから、大和説は確率が殆どなく、×。 456日本@名無史さん2017/11/14(火) 23:20:22.75
457日本@名無史さん2017/11/14(火) 23:20:49.62
>>203
>会稽東冶の誤字だから、会稽東治は現在の福州だね <
「誤字」である確率が殆どないから、×。 458日本@名無史さん2017/11/14(火) 23:23:50.98
>>457
中国、台湾で「会稽東冶」で確定しているので、議論の意味なし 459日本@名無史さん2017/11/14(火) 23:24:00.81
>>204
>もちろん会稽東冶は畿内ではない 中国だ w<
魏志写本版本では「計其道里、當在會稽東治之東」であるから、
「会稽東冶」の確率は殆どなく、始めから×。 460日本@名無史さん2017/11/14(火) 23:31:57.47
>>205
>揚州も三世紀にあった州です <
そんな事は書いてなかったように思うね。
それで、揚州は三国志に出ている地名なの?。
また、揚州という呼称は何時頃どの地域名であったの?。 461日本@名無史さん2017/11/14(火) 23:37:29.77
>>206
>いや〜遺跡を掘って新たな発見をし学説を唱えて(論文を書いて)こその考古学だ。
発掘したい所はたくさん有るのに発掘させて貰えない九州説は机上の空論を展開させるしかない。
自分が研究者なら、どっちを望む?<
また変な事言うねえ。
古代史情報は、考古だけしかない、というのではなく、文献もあるんだから、
文献と考古の両方から、帰納的確率的推論をしなければならない、んだよ。 462日本@名無史さん2017/11/14(火) 23:59:32.19
言語学と人類学もな
463日本@名無史さん2017/11/15(水) 00:01:19.63
>>459
>中国、台湾で「会稽東冶」で確定しているので、議論の意味なし 464日本@名無史さん2017/11/15(水) 01:37:08.63
「(三世紀中頃)倭国の中心地はいったい何処だったのか?」って話をしてるワケではない。
あくまで「魏志倭人伝」上の魏の使者が伝えてる「邪馬台国」「卑弥呼」は何処だったのか?って話だ。
前者だとヤマト王権の頭角もあり畿内だろうけど。
465日本@名無史さん2017/11/15(水) 02:53:26.12
>>1
5ちゃん(2ちゃん)の書き込みのほとんど99%は5ちゃん管理人によるものです
管理人は400人くらいいて、文系の才能のない売れないライターがバイトで5ちゃんに書き込んでいます
だから詳しい書き込みができるんです
5ちゃんは管理人がIDを変えながら書き込んでる掲示板です
5ちゃんは管理人はハッキング、ストーカーをしてきます
5ちゃんは管理人はユーザーのパソコンをハッキングして個人情報を覗き見しています
5ちゃん掲示板を見てるだけでもどこを見てるかリアルタイムで分かるようになっています
(管理人が監視してるスレを見ただけでハッキングされる恐れがあります)
466日本@名無史さん2017/11/15(水) 04:34:43.05
467日本@名無史さん2017/11/15(水) 05:10:31.20
>>464
中心地が「邪馬台国」で、そこに「卑弥呼」がいたんだが 468日本@名無史さん2017/11/15(水) 05:38:24.71
>>467
ホントに邪馬台国が当時の倭の「中心地」だったのか?って話だろーが。
あくまで九州に上陸した魏の使者が現地人から聴取した情報であって
既にその頃は畿内の勢力が上回ってたんじゃないのか?
そもそも魏志倭人伝の記述には倭の中心地は(昔から)九州の地って思い込んでる節がある。
少なくとも卑弥呼の時代から二百年も前なら倭の中心地は九州だろう。 469日本@名無史さん2017/11/15(水) 06:21:14.66
>>468
テンプレに書いてあるのは、魏人が博多湾岸を観察したなら畿内の勢力が上回ってたのを気付いているってことだろう 470日本@名無史さん2017/11/15(水) 06:38:34.97
>>213
>長里というか、普通の里しか無いんだが <
長里しかない、と言うんなら、
帯方から萬二千余里で、(東冶や沖縄付近ではなく)、
女王之所都を「赤道付近だ」、という‥‥説でも唱えてろよ。 471日本@名無史さん2017/11/15(水) 06:43:31.87
>>214
>>倭の女王の都は、釜山から短里で5000里(長里で830里位)しかなく、
福州まで、とても行く筈がない。<
>つまり筆者は短里なんか使ってない <
この男も同じ。
長里しかない、と言うんなら、
帯方から萬二千余里で、(東冶や沖縄付近ではなく)、
女王之所都を「赤道付近だ」、という説でも唱えてろよ。
・・・・病院に入れられるから。 472日本@名無史さん2017/11/15(水) 06:45:08.01
いや、どんなに誤魔化しても会稽は北緯30°より南でしかないんだ
九州島の南端は北緯31°
倭人伝どおりに読んだら九州説は成り立たない
473日本@名無史さん2017/11/15(水) 06:48:07.60
>>471
>女王之所都を「赤道付近だ」、という説でも唱えてろよ。
嫌だね。
理不尽な強制には従わないよ。
倭人伝の数字や方位が間違っているという説を唱えるね。 474日本@名無史さん2017/11/15(水) 06:49:05.82
>>469
だから魏の使者は北九州までしか行ってないから。
邪馬台国まで行ってないし卑弥呼にも謁見してないし。
(北九州から)南へず〜っと行った所に邪馬台国が有るとしか書いてないもんw
倭国の中心が畿内へと移った(遷都)なら移ったで良いがその件には一切触れてない。
当時の九州人にとって邪馬台国が倭国(=九州)中心だったんだろう。 475日本@名無史さん2017/11/15(水) 06:56:38.24
476日本@名無史さん2017/11/15(水) 06:57:08.83
>>220
>「會稽東治之東」だから九州じゃないんだよね <
いや、陳寿の「會稽東治」という比定は、
それだけで(一点ではなく)南北にも広域を指定しており、
更に「之東」という説明も、(絶対真東だけだというのではなく)、「大体東」だ。
だから、會稽東治之東と書かれた地域の陸地には、九州は十分に含まれ、
沖縄や赤道付近は外れる。 477日本@名無史さん2017/11/15(水) 06:57:53.34
>>474
卑弥呼にも謁見しなきゃ金印も渡せないだろう 478日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:00:06.50
>>476
自分に都合のいいとこだけ「大体だー」で誤魔化すんですか?
そういうのをインチキという 479日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:04:49.71
>>476
南北にも広域を指定?
会稽郡の一番北が北緯30°なのに? 480日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:09:31.58
どう思う
⇩
魏志倭人伝の記述をそのまま信じると邪馬台国の位置は日本列島を突きぬけて
海の上になってしまいますので、研究者の方は方角や日程について
「この部分は誤記であろう。○○と読み替えるべき」などと様々に各説解釈をしていますが
481日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:14:19.66
>>222
>>ダメだ。史料批判に拠って、「東治」で正しい、という事は確定している。<
>中国、台湾の国家機関により「会稽東冶」で確定済み<
ダメだよ。
国家機関という組織は、
本質的に、「その国家の維持拡大」を根本的選択思考をするもの 、であり、
記紀や通典のように、平気で「事実の恣意的選択や改竄や盗用や造作」をするものであり、
そのような史料批判によって、
国家組織の選択事項は、学問的な論拠にはならないもんだよ。 482日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:23:02.57
>>481
ゴタクはもういいよ
中国、台湾の国家機関により「会稽東冶」で確定済み 483日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:25:23.64
>>224
>畿内説は里数も「南至」も間違いだという説だから 問題ない <
「畿内説は里数も南至も間違いだという説だ」と言った瞬間に、この男も、
事実からの帰納的確率的推論ではなく、
「結論さきにありき」での思想宗教的な信仰、という、
非科学的な思考になってしまっている事になる。
要するに、やくざ暴力団のような・・・・ケダモノと同じ。 484日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:25:46.54
>>480
そういう読み替えをしたら
行程記事は邪馬台国の位置比定に
使えないってだけ 485日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:26:57.04
486日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:29:40.50
>>326
【稲作の分布】
古代は九州のほうが圧倒的に大きい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920 487日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:31:14.66
>>225
>それが日中で定説だから問題ない <
国家機関絶対信仰は、学問的にも科学的にも人間的にも、問題大有り。
いずれは、憲法が否定する「国家間の殺し合い戦争」を実行する事になる。 488日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:31:53.94
肥前と肥後の肥だけで
畿内全域を超えちゃうね
489日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:32:08.39
>>326
延喜式 出挙稲数 >【稲作の分布】>古代は九州のほうが圧倒的に大きい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
西海道 5,990,581 @@@@@@@@@@@@@@
筑前 790,063 @@@@@@@@@@
筑後 623,581
豊前 609,828 @@@@@@@@@@
豊後 743,842
肥前 692,589 @@@@@@@@@
肥後 1,579,117 @@@@@@@@@@@@@@
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3920
延喜式は10世紀だから、古代3世紀ごろはもっと差が大きいんじゃない
弥生時代の農業生産はおそらく畿内全域と九州で10倍くらいは差があったでしょう。
九州に7万戸でも畿内には7000戸とかでしょう。
畿内の狭い見識を九州や他の地方に当てはめて論じています。 490日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:33:58.01
491日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:34:56.81
492日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:39:12.06
>>491
字が読めないの?? ちょうせんじん!!
延喜式 出挙稲数 >【稲作の分布】>古代は九州のほうが圧倒的に大きい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
西海道 5,990,581 @@@@@@@@@@@@@@
筑前 790,063 @@@@@@@@@@
筑後 623,581
豊前 609,828 @@@@@@@@@@
豊後 743,842
肥前 692,589 @@@@@@@@@
肥後 1,579,117 @@@@@@@@@@@@@@ 493日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:40:59.15
言い張るだけw
494日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:42:39.46
495日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:46:22.22
>>480
九州説は突き抜けずに九州北部が邪馬台国ですよ。 496日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:46:57.52
筑前筑後を合わせても
畿内に大葉ないんだね
497日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:47:28.03
>>494
差別ニダ!
指定暴力団代表者大阪府警公式サイトより ほんの一部です
五代目稲川会会長 − 通名:清田次郎、本名:辛炳圭
五代目合田一家総長 − 通名:山中大康、本名:李大康
七代目合田一家総長 − 通名:末広誠、本名:金教換
四代目会津小鉄会会長 − 通名:高山登久太郎、本名:姜外秀
五代目双愛会会長 − 通名:高村明、本名:申明雨
六代目酒梅組組長 − 通名:大山光次、本名:辛景烈
七代目酒梅組組長 − 通名:金山耕三朗、本名:金在鶴
五代目極東会会長 − 通名:松山眞一、本名:曹圭化
六代目松葉会会長 − 通名:牧野国泰、本名:李春星
三代目福博会会長 − 通名:長岡寅夫、本名:金寅純
初代九州誠道会会長 − 通名:村神長二郎、本名:朴植晩
二代目九州誠道会会長 − 通名:浪川政浩、本名:朴政浩、
↑法務省もこういうのはどう考えてんだろ 日本人の人権がおびやかされてるんですよ なぜ、即刻、強制送還されない?? 498日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:47:29.78
>>491
根拠となるデータが示されていても理解できない低脳畿内説 499日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:50:10.18
>>498
ブリューゲルのめくらが、めくらたちを先導する絵を思い出す
最近の「邪馬台国=畿内説」の本
○白石太一郎「箸墓古墳と大市墓」(『天皇陵古墳を考える』学生社、2012年刊所収)
○大塚初重「東国の出現期古墳と大和政権」(『大美和』、2012年、第122号)
○大塚初重『邪馬台国をとらえなおす』(講談社現代新書、2012年刊)
○東潮(あずまうしお)著『邪馬台国の考古学』(角川学芸出版刊、2012年刊)
この四つの論著は、いずれも、国立歴史民俗博物館グループ(以下、「歴博研究グループ」と略す)の炭素14年代
測定法の結果を、みずからの「邪馬台国=畿内説」の論拠または、補強材料としてとりあげている。
大崩壊「邪馬台国畿内説」―土器と鏡の編年・不都合な真実 (推理・邪馬台国と日本神話の謎) 単行本 ? 2013/1/10
安本美典 (著)
箸墓も、ホケノ山古墳も、4世紀代築造の古墳だ。卑弥呼の時代のものではありえない。畿内説は、年代比定を
大きく誤っている。土器には、西暦年数に換算できるような確実な年代的指標はない。
数々の科学的・歴史的データを駆使し、「畿内説」の論拠を徹底的に砕破する。 500日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:50:19.84
筑紫やら肥国やらがあって
畿内はどうやって九州を支配できるのだろうか?
501日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:51:15.38
根拠として機能してない
502日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:52:21.55
503日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:52:34.46
504日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:53:34.65
505日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:54:31.05
>>500
その通り。
筑後川の戦いの後を見れば、鉄器で武装した勢力同士が激しく衝突したことがわかる。
鉄器がなく、遠隔地まで行く航路も持たない内陸の後進貧困地域の纒向がどうやって九州北部を支配下に置くのか。 506日本@名無史さん2017/11/15(水) 07:55:00.95
507日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:04:53.53
508日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:06:55.15
>>505
実際置いているってことは
鉄器がなく、遠隔地まで行く航路も持たない内陸の後進貧困地域
というのがウソなんだろうな 509日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:11:21.01
>>505
つまり筑前筑後は別の勢力だったわけだね 510日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:13:31.23
罵りあいは止め‐‐‐‐‐‐
すれ主コントロールしてくれ
511日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:15:55.06
誰が罵ってるの?
512日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:16:55.13
朝鮮バカ
513日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:21:53.53
>>511
要するに、やくざ暴力団のような・・・・ケダモノと同じ。
字が読めないの?? ちょうせんじん!!
この差別体質は東遷厨じじいだな
差別ニダ!
指定暴力団代表者大阪府警公式サイトより ほんの一部です 514日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:22:39.44
差別好きの東遷説の人ですね?
困ったもんです
515日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:24:36.20
>>513
《こんなに馬鹿な韓国人》 《こんなに馬鹿な韓国人》 《こんなに馬鹿な韓国人》
(2016年現在) 日本人 韓国人
ノーベル賞(自然科学分野) 22人 0人 ←New!
ノーベル賞(人文学分野) 2人 0人
フランクリン・メダル(科学等) 7人 0人
ボルツマン・メダル(物理学) 2人 0人
J・J・サクライ賞(物理学) 6人 0人
ディラック賞 (物理学) 1人 0人
フンボルト賞(人文、理、工、医、農) 9人 0人
キッピング賞(化学) 5人 0人
バルザン賞(自然・人文科学) 3人 0人
クラフォード賞(天文学等) 2人 0人
ブルーノ・ロッシ賞(天文学等) 2人 0人
クラフォード賞(天文学、数学等) 2人 0人
IEEEマイルストーン(電子技術) 14件 0件
ウィリアム・ボウイ・メダル(地質学) 2人 0人
ホロウィッツ賞(生物学) 1人 0人
コッホ賞(医学) 6人 0人
ラスカー賞(医学) 6人 0人
ガードナー国際賞(医学) 10人 0人
ウルフ賞(科学、数学、医学、芸術) 11人 0人
プリツカー賞(建築) 5人 0人
フィールズ賞(数学) 3人 0人
コール賞(数学) 4人 0人
ガウス賞(数学) 1人 0人
↑だけどチョンコがこんなにバカなのは歴然たる事実 516日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:24:51.03
罵り合いじゃないな
517日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:25:37.83
>>508
文献解釈が間違っているか、畿内でも中心地が違うかどちらかしかないでしょうね 518日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:26:45.52
519日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:27:15.99
520日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:27:55.94
521日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:28:30.60
522日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:28:36.66
>>517
纒向と箸墓にこだわるスレ主がアホということですね。 523日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:29:23.71
524日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:30:04.09
525日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:31:28.31
>>226
>(スレ主?)会稽東冶の東になりませんよね。<
史料事実は始めから、「会稽東冶ではない」よ、サギシさん。 526日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:32:09.66
527日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:33:36.51
528日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:34:00.72
>>228
>なんの根拠もない <
史料事実や史料実態が、根拠。 529日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:35:12.42
>>517
「畿内でも中心地が違う」という言葉の意味がわからない 530日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:37:36.49
>>528
史料事実だぁ、とか実態ダァとか口で言うだけでは
もちろん根拠ではない 531日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:42:43.10
532日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:43:06.55
>>238
>畿内説には皇国主義とか言われる要素はまるで無い<
「南→東」など史料事実を、敢えて否定曲解までして、
九州の盟主であった倭国の存在を隠蔽して、
大和天皇家が古代よりずっと列島盟主であった、
という主張は、皇国史観そのもの。 533日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:43:16.49
スレ主があげる根拠は何一つ根拠になってないよ。
534日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:44:25.36
纒向にこだわる限り、畿内説に未来はない。
535日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:47:37.53
>>239
>思想的な言いがかりは畿内説への反論じゃ無いだろ <
「南→東」などの史料事実の否定曲解を、敢えてする、
という大和説は、
思想宗教的な「結論先にありき」か?、・・・・か?、しか無いだろ?。 536日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:48:50.83
会稽をどう珍解釈しても種子島や屋久島くらい南なんだから、行程が間違ってる以外にないな
537日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:50:06.87
邪馬台国はズバリ肥後だ。
二万戸クラス小国が点在する九州北部などではない。
538日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:50:07.73
539日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:50:26.89
540日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:51:21.06
541日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:51:56.06
542日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:52:57.86
>>537
まあ北部九州は一番大きくて2万戸だから
真っ先に候補から外れるわな 543日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:53:36.92
544日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:53:54.65
>>247
>129年 後漢が呉郡を置く。揚州に属し13県を管轄した。
晋のとき、11県を管轄した。
南宋のとき、12県を管轄した。
斉のとき、12県を管轄した。
陳のとき、新設された呉州の郡に編入された。<
何故「会稽郡」の話を書かないんだい?。 545日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:54:31.03
546日本@名無史さん2017/11/15(水) 08:59:01.64
547日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:02:37.33
548日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:05:41.78
北部九州説絶望
549日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:06:59.76
絶望というか、死亡ね
550日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:09:44.46
>>542
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
二万戸の奴国は 邪馬壹国を構成する一国邑にすぎない。 551日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:14:40.71
552日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:15:29.39
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。
553日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:15:52.08
ラノベ書いてんじゃねえ
・・・としか
554日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:17:04.67
里数の行程と日数の行程は同じ行程を距離と時間で説明したもの
郡の中心地から女王国の中心地まで何里であり、日数だと何日掛かると説明している
続けて読むから意味不明の文章になる
報告者は軍人であり、正確に報告している
水行二十日は郡から狗邪韓國までに掛かる日数に当たり
水行十日は狗邪韓國から末盧國に当たる
すると陸行一月は末盧國から奴國までに当たることとなる
しかし末盧國から奴國までは陸行一月は掛からない
陸行一日あれば十分なので、陸行一月は陸行一日の誤記。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない
555日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:17:56.65
世有王
@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが適当。
556日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:18:30.19
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼である。
それ以外が主語の場合には「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、自女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率を使い支配したのである。
女王国が伊都国より東にあったら、この文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
即ち自女王国以北は奴国から北であり、自女王国とは女王国の中で最大の国邑の奴国を指している。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「奴国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い奴国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
557日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:18:45.71
>>552
まいど言い張るだけで根拠のないコピペね 558日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:19:55.29
>>556
「於國中有如刺史」の主語は?
はい、論破 559日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:21:04.38
560日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:24:56.71
>>555
「魏の世には」と訳せる例が一つもない件について 561日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:25:45.77
562日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:27:23.65
>>558
主語は女王ですね
女王の支配体制について
自女王國以北の諸国を一大率を使い伊都國で常に治めている様子が
「於國中有如刺史」とある。
何で論破?意味が分からんなw 563日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:28:48.26
564日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:28:55.04
>>562
女王を主語にして日本語に訳してごらん
できないから
はい、論破 565日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:29:46.32
>>563
じゃあ、訳してみて
できる?
できないでしょ
はい、論破 566日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:31:35.46
簡単に書くと
女王は自女王國以北の諸国を一大率を使い伊都國で常に治めている
まるで国中での刺史のようだ。
567日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:34:29.29
>>566
で?
「於國中有如刺史」の主語は?
はい、論破 568日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:36:26.17
569日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:40:50.14
>>252
>その「帰納的推論」をした証拠は?<
素人オジンにとっては、知り得た史料事実そのものが少ないから、
断定など全く有り得ず、
全て、知り得た史料事実や史料実態からの帰納的確率的推論をしなければならないから、
私の投稿は、殆ど全て帰納的推論。 570日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:41:54.07
>>567,>>567
女王は自女王國以北の諸国を一大率を使い伊都國で常に治めている
この様子が 「於國中有如刺史」でしょ
他にある? 571日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:43:54.71
572日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:46:15.72
簡単に論破される糸厨
w
573日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:50:03.72
>>256
>写本がまだ正しく「冶」のままだったら、当然ながら訂正なんてしませんけど <
いや、陳寿は、まず先に、
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」という「会稽」の話をした上で、
「計其道里、當在會稽東治之東」と記載しているんだから、
当然その会稽は、「夏后少康之子」が封じられた、という会稽郡の事であり、
「東冶」がある建安郡の事ではない。
つまり、陳寿原本は、(東冶ではなく)「東治」と書かれていた。 574日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:51:43.83
>>571
君が何を言いたいのかサッパリ分からんね?
君の訳では「於國中有如刺史」の主語は何なの??? 575日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:52:32.76
576日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:52:56.12
577日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:54:20.39
>>261
>何を言うかと思ったら レベルが低い 出直しておいで お馬鹿さん <
何を言うかと思ったら 、史料事実に拠る反論が出来なくて、罵倒だけか。
レベルが低い。出直しておいで、 ・・・・ケダモノさん。 578日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:55:29.41
579日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:57:09.68
>>574
自分が訳せなくて相手に聞くうすばかw
w 580日本@名無史さん2017/11/15(水) 09:59:55.53
伊都厨が朝からまた悲惨に敗北してるな
581日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:00:41.94
>>262
>「道逕百濟。裝治船舫」ならみんな海路だって読んでますけど?<
「みんな」なんて、「南→東」などの嘘吐きダマシ仲間同士じゃ、
何の価値もないし、根拠にもならない。
そして、海路であれば、高句麗に邪魔される事もなく、
倭王武はそんなアホな話を、わざわざ上表文に書く筈もない。
倭王武は、高句麗に邪魔された陸路の道径であったから、上表文に書いた。 582日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:04:46.48
>倭王武は、高句麗に邪魔された陸路の道径であったから、上表文に書いた。
アホですか
陸路なんて312年から塞がれてる
とんだ時代錯誤珍説だ
583日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:06:28.27
>>578
何の説明もないじゃんw>>580
論破するには自分の論を出さないと
単に論破、論破じゃ気違いだな。 584日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:07:39.82
>>263
>そうした方が良い アホを相手にしてたら自分もアホになる <
有難うございます。
ただ、彼らは、格好いいタカ派の口振りでの、口先の誤魔化し匂わせ宣伝で、
善良な国民を騙す事が上手なので、
黙過し難い時があるのです。 585日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:08:14.54
畿内説の人って何の理由も説明しないで
論破したで壁に向かって勝利宣言だよな。
586日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:10:22.42
>>264
>じゃあ何故ここに投稿する <
ここが、トピ主を始め、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、
・・・・大和説者の巣窟だから、 587日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:10:30.47
>>583
べつに相手を論破するのに自分の論を出す必要はさらさら無い
お前の主張が破綻してることを指摘された
それが論破だ 588日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:11:41.02
>>585
訳せないんでしょ?
だから論破されてるんだけど。そんなことも理解できないの? 589日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:13:17.36
>>583
小指一本で論破された岡上が錯乱してる
w 590日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:18:19.91
591日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:18:47.86
まとめ
>>554-556はせっかく長文コピペをしたが
根本の「主語は女王国か女王卑弥呼である」の証明に失敗した
それに「魏の世には」とも訳せなかった
つまり、論破された 592日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:18:52.47
593日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:19:38.59
594日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:20:38.00
>>591
女王卑弥呼の支配体制が「於國中有如刺史」でしょ
女王卑弥呼についての説明ですよね? 595日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:21:02.50
>>592
いや、客観的事実だな
訳せなかったんだから 596日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:21:17.88
597日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:21:43.84
598日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:21:44.32
>>266
>>会稽郡は、揚子江河口の北側まで広がっていた筈だよな。<
>まさか。 揚子江の南に呉郡がある。 呉郡をはさんで、そのさらに南に会稽郡がある。<
おかしいなあ。
「呉」というのは、南京付近の事なんだろ?。
会稽は、その南京からずっと東で、
会稽東治とは、「斷髮文身以避蛟龍之害」が出来るような海岸付近の、
上海や揚子江河口付近の事だろ?。 599日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:22:53.37
600日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:23:55.08
601日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:26:12.42
602日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:26:46.14
>>594
女王卑弥呼についての説明ですね
これを無理に理解しないで
脳内お花畑で論破、勝利宣言?
自分で自分を騙して安心してるタイプの人ですね。 603日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:27:24.99
604日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:30:45.01
(女王卑弥呼は)女王国の都(を含めたそこ)から北の諸国には特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼は)伊都国で(一大率を使い伊都国から北の諸国を)常に治めていた。
(女王卑弥呼が治めている様子)は魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ。
605日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:31:12.66
>>267
>俺もテメーは許せん ケダモノとはなんだ(怒)<
俺もテメーらは許せん。
「南→東」などの史料事実を否定曲解のウソダマシをする、とはなんだ(怒)。 606日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:35:24.77
>>269
>中国、台湾の国家機関により「会稽東冶」で確定済みだ<
「国家機関」というものがそもそも、
思想宗教的に「結論先にありき」の非科学的非学問的であり、
根拠にならないのだ。 607日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:39:42.46
>>270
>まあ定説ね<
国家機関の定説とは、まあ、国民を、国家間の戦争へ鼓舞扇動する断定のための、小道具だね。 608日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:41:05.34
609日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:41:29.27
>>271
邪馬壹國は筑紫で決まりなのにな。
これ人類の常識。
何も知らんで書き込むなよ。 610日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:41:36.17
611日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:43:09.62
>>606
ゴタクはいいよ
中国、台湾の国家機関により「会稽東冶」で確定済みだ 612日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:43:11.22
>>602
反論できないで罵ってるのは
論破sれたひとな証拠
w 613日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:43:59.07
614日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:44:53.59
>>272
魏使らや陳寿が、普通の1里=76~77mで考えてなかったら、
会稽なんて引け合いに出すことはあり得ない。
「長里」なんて、赤道付近にまで行ってしまうから、地理がわかってない人の妄想だよ。 615日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:49:04.00
>>614
魏使らや陳寿が、普通の1里=76~77mで考えてなかったから、
会稽を引け合いに出した。
なぜなら会稽の東は海ばかり
かくて九州説終了 616日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:50:22.74
>>615
普通じゃない、一部現代日本人の異常な妄想 617日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:53:27.10
>>610
女王卑弥呼が治めている様子も
女王卑弥呼についてのことだから問題ないよ。 618日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:53:57.87
古今東西、日中だれもやってない倭人伝の新訳を発明して
俺様が邪馬台国の謎を改名したゾーとか
いまどき馬鹿しかやらない
トンデモの典型
wwww
w
619日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:54:40.07
620日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:55:21.06
>>617
「主語は女王国か女王卑弥呼である」は否定された 621日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:56:50.21
九州説はトンデモ爺たちの巣窟
622日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:56:58.90
>>618
賛同してくれる人は何人もいたけど
今迄反論らしい反論されたことないんだけどね。 623日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:58:29.66
>>620
では「主語は女王国か女王卑弥呼のことである」にしましょう
女王卑弥呼が治めている様子も女王卑弥呼のことですから。 624日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:58:44.58
お花畑の岡上が涙声
625日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:59:21.79
>>273
>報告書を書いた人間と、受け取った人間の間に認識のズレがあったのかもね。 <
口先で「ないこと」を匂わせ宣伝して、世間の人々を騙そうとしても、無駄だよ。
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の話は魏略も書いているから、
魏使らの判断記録であり、
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」の「会稽」とは、認識のズレはない。 626日本@名無史さん2017/11/15(水) 10:59:36.48
627日本@名無史さん2017/11/15(水) 11:00:22.23
628日本@名無史さん2017/11/15(水) 11:08:27.55
629日本@名無史さん2017/11/15(水) 11:11:53.39
630日本@名無史さん2017/11/15(水) 11:17:42.01
>>629
「主語は女王国か女王卑弥呼のことである」で復活ですね。 631日本@名無史さん2017/11/15(水) 11:24:44.04
>>274
>いくら広範囲だって、倭国が屋久島以南なんて全く無理だ<
何だ?、また相手の話を曲解して、その曲解で相手を誹謗しよう、としてるんかい?。
会稽東治之東の大体の範囲内に、きちんと九州はあるよ。
>インチキして会稽東冶を北に動かそうとしたって 無理なものは無理<
インチキして、「会稽東治→会稽東冶」という嘘吐きダマシで南に動かそうとしたって、
無理なものは無理。
>だから短里なんて存在し得ない<
だから、魏志には長里なんて殆ど存在しない。 632日本@名無史さん2017/11/15(水) 11:26:18.12
>>630
「一大率が常に伊都国に治す」も「女王卑弥呼が治めている様子」だから
「主語は女王国か女王卑弥呼のことである」に該当だな
>>554-556が全部崩壊した 633日本@名無史さん2017/11/15(水) 11:28:21.01
634日本@名無史さん2017/11/15(水) 11:29:59.71
>>275
>考古学的にも定説でも畿内なんだけどな<
「南→東」などの史料事実を否定曲解の嘘吐きダマシの大和説の考古学にも定説にも、
信頼性が全くない。
>頼むから分ってくれよ
わけもわからん事言う前に本を最低100冊読んでくれよ
ザラコクも本を読めよ リサイクルで安価に手に入れられる店もある <
嘘つきダマシの大和説者の偽書本など、
時間の無駄だから、読まない。 635日本@名無史さん2017/11/15(水) 11:34:45.77
636日本@名無史さん2017/11/15(水) 11:35:26.34
637日本@名無史さん2017/11/15(水) 11:45:18.64
>>634
考古学的には畿内は鉄器の出土が少なすぎるな。 638日本@名無史さん2017/11/15(水) 11:45:57.31
639日本@名無史さん2017/11/15(水) 11:49:24.37
640日本@名無史さん2017/11/15(水) 11:51:24.78
>>638
>(女王卑弥呼は)伊都国で(一大率を使い伊都国から北の諸国を)常に治めていた。
が誤訳。 641日本@名無史さん2017/11/15(水) 11:55:15.39
>>634
俺様は信じないぞと目を背けても
それが世間の受け容れる通説 642日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:06:27.42
>>638
(女王卑弥呼は)女王国の都(を含まない)以北には特別に一大率を配置して諸国を検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が派遣した一大率は)常に伊都国に治所を置いている。
で吉。 643日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:12:35.84
>>276
>中国の地理を知らんでデタラメ言ってるのがトンデモになる原因の一つだ<
素人オジンは、中国の地理なんて、中高校頃に習った常識的な事しか知らんし、
大して関心もないよ。 644日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:14:27.40
それで非常識なことを言う
w
645日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:18:22.94
>>642
それこそトンデモ説の誤訳ですね
一大率は女王国の都(を含まない)以北には配置されてますから
別の場所に同時に治所を置くなんてできるはずもなく
一大率の業務も諸国の検察と書かれてますから治める所を持つなんて有り得ない話し
国を治めるのは王の仕事であり、一大率は諸国の検察ですね。 646日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:20:00.26
>>643
それで
>「呉」というのは、南京付近の事なんだろ?。
>会稽は、その南京からずっと東で、
>会稽東治とは、「斷髮文身以避蛟龍之害」が出来るような海岸付近の、
>上海や揚子江河口付近の事だろ?。
なんてトンチンカンなことを言うわけだ 647日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:26:19.92
>>645
まだトンデモ言ってる
一大率の治所は一ヶ所だけで、伊都国にある
治は県令も郡太守も州刺史も営む 648日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:28:40.66
649日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:32:11.61
又州郡所駐曰治,如蜀刺史曰治成都,揚刺史曰治會稽。
650日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:34:49.39
(一大率如刺史)常治伊都国。
651日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:36:57.02
北部九州刺史だな
652日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:38:15.97
のちの筑紫率である
653日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:39:43.73
古今東西の碩学はみんなバカだ〜
俺様だけが正しいんだ〜
と主張しているのが糸クズ
普通のひとは異常な思考だと思うよな
654日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:42:01.09
>>648
定説じゃなくて通説の読みね
意味の通じないトンデモ訳が通説なのが大問題なんだ。
>>647
県令や郡太守は王から委託されてるから治こともあるが
検察が仕事である刺史が治なんてことはない
刺史が治なんて書いてある当時の文献があったら示してよ。
>>649
君は馬鹿じゃないのか?後世の人が書いた解説書じゃだめだよ。 655日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:42:19.39
中国の辞書を間違ってると言い張るバカ
656日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:42:55.51
657日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:44:10.99
658日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:45:32.29
>>655
後世の人が刺史には治る機能があったって書いてるだけで
当時は検察が仕事ですからね
3世紀頃以前の文献に刺史が治ると書かれた事例がないとだめだよ。 659日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:47:52.33
勝手な自分ルールの押しつけですか
660日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:49:11.42
>>658
後世の人が勝手に言ってるとかいうのはおまえのオレサマ訳だろw 661日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:50:41.91
自分ルールじゃなくて常識でしょう
後から書かれたものじゃ証拠にならない
後から書いたものが証拠なら今でも作れる。
662日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:52:25.13
>>655
バカは君だろ
その中国の辞書を作った時の認識が書かれてるんだよ 663日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:54:04.27
出ました辞書の全面否定
中国で権威在る辞書よりオレサマ訳をsんじるアホがどこにいるw
664日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:54:49.81
665日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:56:11.05
>>561
根拠を示しても、理解する能力がない相手では張り合いがないな。 666日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:56:28.20
>>658
山陽郡
故梁。景帝分置。雒陽東八百十一里、十城、戸十万九千八百九十八、口六十万六千九十一。
昌邑、刺史治。有梁丘城。有甲父亭。 ( 後漢書郡国志 ) 667日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:56:35.21
スレ主の焦りが感じられる。
668日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:57:20.81
669日本@名無史さん2017/11/15(水) 12:58:34.69
670日本@名無史さん2017/11/15(水) 13:00:30.20
671日本@名無史さん2017/11/15(水) 13:01:07.28
>>642
細かい文言はともかく
文意はこれは正。 672日本@名無史さん2017/11/15(水) 13:03:11.92
673日本@名無史さん2017/11/15(水) 13:07:04.33
674日本@名無史さん2017/11/15(水) 13:09:59.00
↑
出てこないので、魏書の例を
「太平寰宇記卷一四二引周地圖記都魏東荊州刺史治比陽故城。「比」「北」二字常相混」
土下座で許してやるよ
675日本@名無史さん2017/11/15(水) 13:24:24.85
676日本@名無史さん2017/11/15(水) 13:25:55.54
>>654
俺様の説に合わないと学者たちの翻訳を「意味が通じないトンデモ訳」などと言う傲慢マンが
瞬間的に論破されててワロス 677日本@名無史さん2017/11/15(水) 13:28:33.03
治るナオる
ではなく
シラす
じゃろここは。
678日本@名無史さん2017/11/15(水) 13:29:42.07
>>658
こんなのも
太原郡
秦置。十六城、戸三万九百二、口二十万一百二十四。
晋陽、本唐国。有龍山、晋水所出。刺史治。(後漢書郡国志) 679日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:12:49.68
>>281
>魏の時代の福岡で矛が多量に出土したりしてない <
佐伯有清氏も、「倭人伝の時代には、鉄製の矛がつくられており、
青銅製の実用武器としての矛は、鉄製のものに変化したとみなしてよい」と記述する。
このほか「倭人伝」の記事にも、銅鏃は見えずに鉄鏃のみが挙げられることからいっても、
邪馬台国当時の武器としての矛は鉄矛以外に考えられない。
たしかに鉄矛の遺品は少ないが、皆無ではない。
これまでの出土を見ると、弥生期に関して、鉄矛の出土は北九州に多く、畿内では殆どない。
一九九一年刊行の奥野正男氏の著作『鉄の古代史−弥生時代−』には、
「弥生時代の鉄矛は、現在、九州北部だけに一六例知られている。」とする。
現在まで、九州での銅矛の出土は約四百例、鉄矛は二十例で、
畿内からは銅矛十例、鉄矛の発見はないといわれている。
少なくとも、弥生時代における畿内の鉄矛出土例は、管見に入っていない状況である。
北九州の主な鉄矛出土地をあげると、福岡県では寺田池遺跡(春日市下白水)、
東入部遺跡(福岡市早良区)、吉武高木遺跡(福岡市西区)、
立岩遺跡(飯塚市立岩)や甘木市・前原市など、
佐賀県では二塚山遺跡(神崎郡東脊振村)、吉野ケ里遺跡などがあり、
長崎県の対馬からも数例あり、大分県三重町の下小坂潰平石棺群でも出土があった。
祇園山に近い少し先行する七曲古墳群でも鉄矛が見られ、
祇園山にも「刀子・鉄鏃・剣・刀身状の不明鉄器」が挙げられる。 680日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:16:11.83
>>281
>九州の絹は弥生時代後期どまりで魏の時代に届かない 九州は邪馬台国候補から脱落<
布目氏は、大和の絹は3世紀末頃とされた筈。
大和は脱落。 681日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:17:26.26
いろいろトンデモ説を考案しても、会稽は種子島より南にある
倭人伝どおりの道筋をたどれば海にドボン
行程をあれこれイジり回して作った九州説は溺死する運命なのだ
溺死はやめて歴史を学ぶべきだね
682日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:19:55.60
>>679
奥野のデータは怪しい
調査報告書で鉄ノミとしていたものを
勝手に矛に変えていた 683日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:21:40.44
>>281
>三世紀の鉄刀は、鉄剣は畿内の古墳からたくさん出る <
大和の明確な鉄は、ホケノの3世紀末以降の鉄鏃が最初であった筈。 684日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:23:51.85
685日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:26:26.04
>>282
>畿内説は「距離・方位間違ってる」説だから 東じゃなくて正解。<
大和説の「距離・方位間違ってる」説が間違っているから、
「東治之東」の 記載の「東」で正解。
>九州説は「間違ってない」説だから死亡だね。<
大和説は「間違っている」説だから、死亡だね。 686日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:30:30.93
687日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:32:14.21
>>683
ホケノ山が3世紀末以降という根拠なし。 688日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:32:26.69
>>287
>「自昔」だけで、どうしてそんな昔から半島陸路を使っていた事になるの?<
遣使があった話で、最初の記録は倭奴国だから、
倭奴国から、という事になる。 689日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:36:37.03
>>688
魏使のルートと倭国からの遣使ルートと何の関係があるの? 690日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:45:05.20
691日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:46:06.53
692日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:46:42.32
>>689
同じ倭国なのだから、違うというなら根拠を示せ。 693日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:46:54.05
694日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:51:21.35
>>298
>>(筑紫の)絹の生産が後退する理由がない。<
>衰退したからじゃん <
「其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青[糸兼]、緜衣、帛布」だし、
壹與も「異文雜錦二十匹」を贈っているじゃん。 695日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:57:03.27
>>308
>(當)はい、根拠プリーズ <
推定ではなく断定したいんなら、「當」を書かないか、「也」を書く。 696日本@名無史さん2017/11/15(水) 14:59:26.50
>>310
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つきダマシの・・・・大和説は、
文献的にも考古学的にも、没ね。 697日本@名無史さん2017/11/15(水) 15:11:23.49
>>670
現代中国人の古典の読解力は日本人以下だ。 698日本@名無史さん2017/11/15(水) 15:15:22.20
699日本@名無史さん2017/11/15(水) 15:17:24.64
700日本@名無史さん2017/11/15(水) 15:20:22.18
>>321
>三角縁神獣鏡が多数出土する機内が邪馬台国だよ<
洛陽から1枚あったか?位で、
列島ばかりから500枚以上出た三角縁神獣鏡は、
明帝が下賜鏡ではないよ。 701日本@名無史さん2017/11/15(水) 15:20:39.58
>>666
後漢書は魏志倭人伝より200年くらい後に書かれてるな
3世紀頃以前の文献の認識が問題。 702日本@名無史さん2017/11/15(水) 15:34:12.45
>>322
>会稽から45度北東に進んでもすぐ海だから 上海より南だよ 最北でも佐多岬だね 九州はムリ<
インチキするな。
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」は、の「会稽」は、当然広域会稽郡だし、
その「東の治所」は会稽郡よりも更に南北に長い地域に可能性がある事になり、
その「東」も(真東だけではなく)「大体東の方」という事だから、
南北にかなりの「広範囲の地域の推定」だ。
当然九州は直接的に十分に含まれ、
間接的に遠く離れた大和や、沖縄以南は全く無理だ。 703日本@名無史さん2017/11/15(水) 15:39:01.86
>>323
>思考ゼロのオウム返し藁<
大和説者が、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシや、インチキ投稿や、
全く非論理なアホ投稿のような、
思考ゼロの投稿をするから、
簡単にオーム返しされるのだ。w。 704日本@名無史さん2017/11/15(水) 15:44:58.12
>>697
他人を侮辱しても自分の説は正当化できない 705日本@名無史さん2017/11/15(水) 15:46:06.72
706日本@名無史さん2017/11/15(水) 15:46:15.38
>>324
>会稽東治は福州だから東は沖縄なんだけどね <
陳寿は、「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」として、
それで「計其道里當在會稽東治之東」と、会稽郡からの位置推定説明を書いたのであり、
はるか南の建安郡の福州の事は、全く書いていないんだから、
沖縄なんて何の関係もない。 707日本@名無史さん2017/11/15(水) 15:48:58.89
>>702
会稽郡の治所は郡の一番北の端にあるよ
北緯30度だよ 708日本@名無史さん2017/11/15(水) 15:50:11.04
709日本@名無史さん2017/11/15(水) 15:54:02.21
>>328
>中国でいうとどのくらい南に当たるのか考察したのだから、
真東で直線的でないといけない <
いや、会稽郡も点ではなく広域だし、その東の治所も更に広域だし、
それから「東」という推定であるから、
始めから、(直線的ではなく)、少し広がって行く幅広面的。 710日本@名無史さん2017/11/15(水) 15:57:52.99
>>332
>「会稽郡の東の治所」なんちゅうモノが存在しなければ ハナからご破算の話だろうに<
邪馬台国畿内説Part297のどこかで、どなたか?が、
治所名を一つ挙げておられたよ。 711日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:02:40.10
>>333
>畿内の鉄剣が卑弥呼より後の3世紀後半以降に九州から持ち込まれたものだっていう根拠は? <
何を騙してひっかけよう、としてんだい?、サギシ。
東大寺山?とかは、2世紀頃?であり、
全くの孤立的な鉄剣だから、九州倭国の東征者の可能性があるものではないか。 712日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:04:20.36
>>701
このひとはホントに不勉強ってか・・・
ひどく歴史に無知だな。
後漢書の郡国志を書いたのは司馬彪。
司馬炎の従兄弟で三世紀の人だ。 713日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:08:52.42
>>666
200年で語法が違うという主張の根拠をお前が述べる番だな 714日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:10:01.58
>>702
だから東の治所ってどこだよ
いいかげんな推定するなよ 715日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:10:03.10
716日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:13:36.08
>>709
陳寿って、そんないい加減な文章を書いてたんですか? 717日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:16:26.16
718日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:17:21.07
>>357
>>魏使のルート倭側の朝貢ルートに何の関係もないだろ <
魏使らが、
倭まで何の案内もなく進む筈もないし、
当然難升米らに通って来た道を聞いているし、
韓人などで、倭への道を知っている人を、案内人に雇ったりしている。 719日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:18:17.16
>>713
ってか、同じ三世紀の文献だから200年なんて変わらないし 720日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:20:56.26
>>358
>天候の悪いときに航行するわけなかろ <
だから、外洋に面していたら、突然大波に襲われる事がある。 721日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:23:47.14
722日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:25:54.40
723日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:27:08.22
724日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:27:42.05
>>718
魏使のルートと倭側の朝貢ルートに何の関係もないだろ 725日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:31:50.38
乗ってる船の質も違うしな
726日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:34:07.83
糸厨がまた一撃で論破されてるな
727日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:34:29.89
>>361
そうそう。
大和説さんの言うことは、相手の話の引用を殆ど書かないから、
一々何の話なのか?を探さなくてはならず、
探すのに失敗したり、とても手間がかかるから、面倒なので、
話を推定して返事を書いたり、放っておいたりになり易い。
おそらくそれが、大和説者の目的であり、ダマシのテクニック。 728日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:44:26.92
>>724
帯方郡からの使いも倭船に乗ってきたに決まっている。 729日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:46:39.50
>>363
>畿内説側の者の発言はほぼ漏れなく どこそこに事実Aがあるから
かれこれの理由で九州説に不都合な テーゼBが成り立つ みないな理路を書いてると思うけどね <
大和説側の発言はほぼもれなく、
相手側の史料事実からの論の内の、大和説に都合の悪い論はこっそり伏せて隠して、
言葉尻を曲解したら都合よく反論出来きそうなものだけの問題にすり替えて、
反論をしている嘘吐きダマシのサギシな訳で。 730日本@名無史さん2017/11/15(水) 16:57:10.98
>>728
倭船じゅあ下賜品載せて漕いでこれないだろ 731日本@名無史さん2017/11/15(水) 17:10:55.38
>>456
>ごまかして逃げるしかない九州説<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの指摘などに、
話をすり替えて、誤魔化して逃げるしかない大和説。 732日本@名無史さん2017/11/15(水) 17:23:21.07
733日本@名無史さん2017/11/15(水) 17:25:50.73
>>458
>中国、台湾で「会稽東冶」で確定しているので、議論の意味なし <
現代の思想宗教的な国家の御用学者の「史料事実の否定の確定」など、
何の価値もないし、意味もない。 734日本@名無史さん2017/11/15(水) 17:35:40.70
>>466
>ここ・・・<
この地図では、会稽山が会稽郡の中に入っていないし、
会稽郡が、会稽郡と建安郡に分郡した事も、当然入っていないね。 735日本@名無史さん2017/11/15(水) 17:39:47.13
>>468
>ホントに邪馬台国が当時の倭の「中心地」だったのか?って話だろーが。
あくまで九州に上陸した魏の使者が現地人から聴取した情報であって
既にその頃は畿内の勢力が上回ってたんじゃないのか?
そもそも魏志倭人伝の記述には倭の中心地は(昔から)九州の地って思い込んでる節がある。
少なくとも卑弥呼の時代から二百年も前なら倭の中心地は九州だろう。<
ダメだよ。
大和は、九州倭国の筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の附庸国の、
旧小国であったんだから。 736日本@名無史さん2017/11/15(水) 17:46:35.65
>>469
>テンプレに書いてあるのは、
魏人が博多湾岸を観察したなら畿内の勢力が上回ってたのを気付いているってことだろう<
これも✖だよ。
大和は、九州倭国の筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の附庸国の、
旧小国であったんだし、
魏使らは、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
だから、中国四国の西岸付近や、足摺付近の侏儒國までしか行っておらず、
大和の事は全く知らなかった筈だよ。 737日本@名無史さん2017/11/15(水) 17:52:34.59
>>472
>いや、どんなに誤魔化しても会稽は北緯30°より南でしかないんだ
九州島の南端は北緯31° 倭人伝どおりに読んだら九州説は成り立たない <
いや、それも、「何でも断定論」での嘘吐きダマシ。
始めから、会稽郡も点ではなく広域だし、
その東の治所も更に広域だし、
それから「東」という大体の推定であるから、
始めから、(直線的ではなく)、少し広がって行く幅広の「面」を意図している。 738日本@名無史さん2017/11/15(水) 17:56:30.37
>>473
>>女王之所都を「赤道付近だ」、という説でも唱えてろよ。<
>嫌だね。 理不尽な強制には従わないよ。
倭人伝の数字や方位が間違っているという説を唱えるね。<
ダメだよ。
倭人伝の数字や方位は間違っていないから、
「間違っている」という大和説者の方が、理不尽な強制をやっている、
・・・・である事になる。 739日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:02:07.91
>>478
>自分に都合のいいとこだけ「大体だー」で誤魔化すんですか?
そういうのをインチキという <
いや、そういうのをインチキダマシのサギシだ、という。
陳寿は、里数日数も方位も、全て、
(絶対断定ではなく)、「大体の近似」として書いている。 740日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:07:13.51
>>737
広域ったって最北端が北緯30度なんだろ?
おかしいではないか 741日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:07:49.95
>>479
>南北にも広域を指定? <
史料実態だ。
>会稽郡の一番北が北緯30°なのに?<
お前の書いた地図がおかしい。
会稽山が会稽郡に入っていないし、
その会稽山の東に会稽郡の治所が存在しなくなっている。 742日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:09:46.29
>>734
会稽山なら、ちゃんと会稽郡の中に入ってるが? 743日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:16:05.05
>>480
>どう思う ⇩ 魏志倭人伝の記述をそのまま信じると邪馬台国の位置は日本列島を突きぬけて
海の上になってしまいますので、<
キミの解釈がおかしい。
陳寿の行程記載の原則の「出発+途中移動+到着」の通りに受け止めれば、
「海の上」にならない。
筑紫になる。
>研究者の方は方角や日程について
「この部分は誤記であろう。○○と読み替えるべき」などと様々に各説解釈をしていますが <
この部分に誤記なんて存在しない。
その研究者の方が、「結論先にありき」の嘘吐きダマシのアホ。 744日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:17:25.51
>>736
>大和は、九州倭国の筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の附庸国の、旧小国であったんだし、
そんな史料事実は存在してないわけで・・・ 745日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:18:18.07
746日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:18:57.31
>>482
>ゴタクはもういいよ 中国、台湾の国家機関により「会稽東冶」で確定済み<
ゴタクはもういいよ。
中国、台湾の国家機関の学者そのものが、偽学者。 747日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:20:06.54
>>741
会稽山なら会稽郡に入っているぞ
どこに目を付けてるんだ 748日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:22:18.01
>>746
他人をいくら侮辱したって九州王朝が認められるわけじゃないのに 749日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:27:57.76
750日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:36:07.14
>>743
そうすると会稽よりはるか北になるぞ
矛盾だらけだ 751日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:39:14.00
>>485
>帰納的確率的推論ではないって証拠は?<
「畿内説」という、
大和説側の「嘘吐きダマシの文言」の存在を前提にした、
「結論先にありき」の言い方をしたから。 752日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:47:51.80
753日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:49:46.27
ザラコクじいさん何も現実が見えてない
754日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:51:55.58
>>490
>古田信仰も人を攻撃的にするね <
古田さんは、攻撃されなかった。
むしろ攻撃されっぱなしであった。
私は、史料事実を否定抹殺する嘘つきダマシの説を宣伝する・・・・人種は、
国民のためにも学問のためにもならないから、黙過しない。 755日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:53:48.60
念仏
756日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:54:52.79
>>746
>中国、台湾の国家機関の学者そのものが、偽学者
おまえとか古田に比べりゃはるかにマシだろ 757日本@名無史さん2017/11/15(水) 18:58:35.71
>>508
>実際置いているってことは
鉄器がなく、遠隔地まで行く航路も持たない内陸の後進貧困地域
というのがウソなんだろうな <
大和の鉄器は、実質上、3世紀末以後のホケノが初めて。 758日本@名無史さん2017/11/15(水) 19:06:32.01
>>527
>会稽東冶と校訂するのが通説<
「南→東」などの史料事実を否定曲解するような嘘吐きダマシの「通説」者も、
始めから価値も信頼性もなし。 759日本@名無史さん2017/11/15(水) 19:10:18.36
>>830
>史料事実だぁ、とか実態ダァとか口で言うだけでは もちろん根拠ではない<
史料記載事実や考古発掘の(解釈ではなくて)発掘実態は、
確率が非常に高いから、
最も根拠になる。 760日本@名無史さん2017/11/15(水) 19:15:43.78
>>759
事実だ実態だと口先で言っただけで
事実の提示がなければ
ただの詐欺 761日本@名無史さん2017/11/15(水) 19:18:32.28
>>758
史料事実を否定して何が悪いの?
それが史料批判でしょ 762日本@名無史さん2017/11/15(水) 19:24:10.54
史料事実を批判するのはいいが、
3世紀に鉄器ゼロの倉庫や
中国からの学術出土ゼロの銅鏡といった考古学事実は批判しようのない現実。
763subo2017/11/15(水) 19:26:59.16
奈良市で直径110Mの円墳調査だってさ、さっそく卑弥呼の墓とかゆうとるあほがおる
764日本@名無史さん2017/11/15(水) 19:29:41.91
765日本@名無史さん2017/11/15(水) 19:34:22.47
766日本@名無史さん2017/11/15(水) 19:34:58.60
>>761
根拠なく、都合が悪いから否定しているだけ。 767日本@名無史さん2017/11/15(水) 19:37:29.83
>>3
> 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
史料批判どころか、推定に妄想を重ねて女王墓を語る詐欺師がいたよ。 768日本@名無史さん2017/11/15(水) 19:38:56.62
769日本@名無史さん2017/11/15(水) 19:39:49.67
>>757
ホケノ山が3世紀末以後
だという根拠は? 770日本@名無史さん2017/11/15(水) 19:43:03.65
771日本@名無史さん2017/11/15(水) 19:54:24.74
>>536
>会稽をどう珍解釈しても種子島や屋久島くらい南なんだから、<
会稽郡も点ではなく広域だし、
その東の治所も更に広域だし、
それから「東」という大体の推定であるから、
始めから、(直線的ではなく)、少し広がって行く幅広の「面」を意図しており、
この投稿子の史料解釈の曲解捏造でしかない。
>行程が間違ってる以外にないな <
この投稿子の、嘘つきダマシのサギ以外にはないな。 772日本@名無史さん2017/11/15(水) 19:55:40.59
>その東の治所も更に広域だし、
プッ
773日本@名無史さん2017/11/15(水) 19:58:46.75
>>767
相変わらず、反論せずに悪口だけ言う負け犬がいるな 774日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:00:51.00
女性王族→女王に改竄
箸が存在→無視
チェリーピックを超えた
775日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:00:59.09
>>771
嘘つきダマシのサギの典型のような投稿だな
会稽郡は南に広がってるのに 776日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:06:56.01
>>774
どこがチェリーピック?
墓の大きさが次世代の大王と同じだから
女性王族→女王
って考証はマトモだと思うが?
箸の存在も当然ながら史料批判の結果否定されてるのが通説だし 777日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:08:15.17
>>771
だから「東の治所」なんて、どこにあるんだって 778日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:09:11.81
記紀には女王と書かれていない。
記紀には箸が上流から流れてきたと書かれている。
779日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:09:41.76
鉄器ゼロの倉庫
780日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:12:15.41
781日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:15:50.07
>>771
>始めから、(直線的ではなく)、少し広がって行く幅広の「面」を意図しており、
「ちょうど東にあるはずだ」って推定は直線的な真東の方向にあることを意図してる 782日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:16:49.12
783日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:18:38.70
784日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:23:50.48
>>778
>記紀には箸が上流から流れてきたと書かれている。
乾屎橛 785日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:26:34.50
>>547
>ほら、会稽郡・・・<
190年のしかも略図程度では、
分郡後の会稽郡の治所地域も判らず、
ダメだよ。 786日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:28:12.86
787日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:28:35.18
>>548
「南→東」などの史料事実を否定曲解の嘘吐きダマシの大和説、絶望。 788日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:41:02.77
>>576
>東冶は会稽郡だけど?<
会稽郡は、永安3年(260年)分郡されて、
北部の会稽郡と、南部の(東冶を含む)建安郡に分れたのであり、
陳寿執筆時は、会稽郡と言えば、北部の会稽郡の事であったの。 789日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:49:33.47
>>582
>>倭王武は、高句麗に邪魔された陸路の道径であったから、上表文に書いた。<
>アホですか 陸路なんて312年から塞がれてる とんだ時代錯誤珍説だ<
アホですか?。
倭王武は、「自昔」からの話を書いているんだから、
楽浪滅亡以前の韓国内での道径の説明にもなっており、
その後百済が出来てから高句麗に邪魔された時の道径の説明もしている。 790日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:54:09.77
>>788
残念ながら陳寿は原則として魏朝当時の地名で執筆してます
江戸時代の歴史を書く人が東京と書かないのと同じね 791日本@名無史さん2017/11/15(水) 20:55:49.15
>>600
>会稽は、その南京からずっと南 <
会稽のある杭州湾付近は、南京の東方。 792日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:00:17.79
>601
>おかしいのはザラコクの頭だな <
おかしいのは、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシと、
会稽郡の中心や郡地の場所をどうしても言わない、
・・・・大和説のアホサギシの頭だな。
793日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:03:59.01
>>603
>南京は丹陽郡だよ <
陳寿が執筆した3世紀後半の郡名や、
会稽郡治の場所を言ってくれよ。 794日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:09:15.38
>>608
>ほら 「治」は刺史の治所のことだね
「又州郡所駐曰治,如蜀刺史曰治成都,揚刺史曰治會稽。」<
ふーん?、揚州刺史が会稽に治したのか。 795日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:12:07.24
>>611
>ゴタクはいいよ 中国、台湾の国家機関により「会稽東冶」で確定済みだ<
ゴタクはいいよ 。
現代の嘘吐きダマシの国家機関の確定済みなんて、信頼性もないし、何の価値もない。 796日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:14:19.87
>>613
思考を止めた、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説。 797日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:15:53.11
>>793
魏代の話をしてるんだから執筆当時は関係ないよ 798日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:19:02.05
>>615
魏使らや陳寿が、普通の1里=76~77mで考えたから、
会稽を引け合いに出した。
なぜなら、広い会稽郡の、また更に広い東治の、更に大体東なら、九州でぴったし。
かくて大和説、また終了。 799日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:20:02.55
>>792
そんな質問したの?
質問してなきゃ回答がないのは当たり前だ
「どうしても言わない」とか言うの、変だよ 800日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:23:27.29
801日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:24:07.42
>>618
古今東西、だれもやってないような倭人伝の「南→東」などの嘘吐きダマシを発明して、
俺様が邪馬壹國の謎を改名したゾーとか のトンデモ大和説は、
いまどきトンデモアホの典型人種しかやらない 。
wwww
w 802日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:24:42.78
>>795
中国、台湾の国家機関により「会稽東冶」で確定済み 803日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:26:12.68
804日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:27:16.13
>>621
大和説は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、
薄汚いトンデモケダモノたちの巣窟。 805日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:27:56.27
>>801
>古今東西、だれもやってないような倭人伝の「南→東」などの
何百年も前から畿内説は全員やってますけど 806日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:32:14.02
>>633
広い会稽郡の、更に広い東治の、更にまた広い「大体東方」は九州でピッタシ。 807日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:33:09.63
808日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:34:29.23
>>806
だ〜か〜らぁ
東治が会稽郡より広いわけないでしょ 809日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:36:31.49
>>806
会稽郡は北緯30°から南に広いデス
九州説にもっと悪いデス 810日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:38:36.48
>>641
>俺様は信じないぞと目を背けても それが世間の受け容れる通説 <
「俺様は信じるぞ」と目をむいても、
国民の過半数に背かれて、
世間に受け容れられていない、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つきダマシの通説 大和説。 811日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:40:07.42
ザラコクや岡上みてると、現実から目を逸らさないと九州説ってやってられない、ってことがよくわかる
812日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:41:02.53
>>806
>広い会稽郡の、更に広い東治の、更にまた広い「大体東方」は九州でピッタシ。
陳寿ってそんな雑な文章を書く人なんですか? 813日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:41:21.12
>>644
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者は、
それで非常識なことを言う w 。 814日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:41:54.79
815日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:46:22.69
816日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:47:35.58
>>646
それで大和説者っていう・・・・アホ人種は、
「呉」というのは、南京付近の事なんだろ?、
会稽は、その南京からずっと東で、
会稽東治とは、「斷髮文身以避蛟龍之害」が出来るような海岸付近の、
上海や揚子江河口付近の事だろ?、
って、常識的なまともな質問をされて、
返事も出来ずに、「トンチンカンなことを言うわけだ」なんて叫んで逃げる訳だ。 817日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:48:17.08
>>806
それで「東治」ってどこなの?
今の地名で言うと、どこ? 818日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:49:50.64
819日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:50:45.50
820日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:51:31.45
>>653
古今東西の碩学はみんなバカだ〜、
「南→東」などのウソを付いた俺様らだけが正しいんだ〜、
と主張しているのが大和説者。
普通のひとは皆、異常な思考だと思うよな。 821日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:51:59.45
822日本@名無史さん2017/11/15(水) 21:57:20.55
>>816
会稽郡は最北端が北緯30°あたり
上海や長江河口付近よりだいぶ南 823日本@名無史さん2017/11/15(水) 22:05:17.40
東治=侯官。これ、史料事実。つまり現在の福州です。理由もなく史料事実を否定してはいけない。
824日本@名無史さん2017/11/15(水) 22:12:01.60
>>681
>いろいろトンデモ説を考案しても、会稽は種子島より南にある<
大体の近似的範囲の「計其道里當在會稽東治之東」の記載であるから、
九州がぴったり含まれるのを、
全て「点や直線の記載だ」と曲解捏造して、
「会稽は種子島より南にある」という頓珍漢なトンデモ読みをする大和説者。
>倭人伝どおりの道筋をたどれば海にドボン<
陳寿の記載原則通りに道筋をたどれば、不彌國の直ぐ南でピッタシ。
>行程をあれこれイジり回して作った九州説は溺死する運命なのだ
溺死はやめて歴史を学ぶべきだね <
行程や計其道里を、あれこれイジり回して作った大和説は、赤道で溺死するか、頓死する運命なのだ。
溺死や頓死はやめて、史料事実をきちんとを学ぶべきだね。 825日本@名無史さん2017/11/15(水) 22:17:00.58
もう九州説は理論的であるとかないとかお構いなしに
罵詈雑言をわめくしか道は残されていないようだな
826日本@名無史さん2017/11/15(水) 22:18:31.48
漢の武帝に征服されてから「冶県」といい,会稽郡に所属した。
後漢には「侯官」と改名し東部都尉がおかれた。
晋代に晋安郡の治所となり,隋代に「?県」と改められたが,
唐代に分離されて再び「侯官県」がおかれ,福州の治所としたのがその名の起りである。
827日本@名無史さん2017/11/15(水) 22:42:37.08
>>824
>陳寿の記載原則通りに道筋をたどれば、不彌國の直ぐ南でピッタシ。
距離に島の大きさを足してセコく帳尻合わせしたり
東南と書いてあるのに北東に進んで東南だーと言い張ったり
インチキの限りを尽くして
・・・ピッタシ・・・ 828日本@名無史さん2017/11/15(水) 22:52:22.18
>>690
>それ、違う国じゃないか <
後漢書や旧唐書や唐会要は、
倭王武の倭国は、倭奴國のと同じか後裔である、という記録だ。 829日本@名無史さん2017/11/15(水) 22:52:45.61
行程万二千里の内訳に対馬と壱岐の島半周400x2+300x2を足すと言うのは、さすがに受け容れる人もない特級トンデモだろう
830日本@名無史さん2017/11/15(水) 22:55:21.44
>>828
後漢書のどこに、そんなこと書いてある? 831日本@名無史さん2017/11/15(水) 23:03:44.20
>>698
>(當の事?)goo辞書の、2?だろうな 「当たる」 2 物事がその状態である。相当する。
?その方角にある。「東の方角に―・る家」
推定じゃないね 断定というか、事実を言ってる、ぐらいか ・・・<
辞書は、対象文字とは異なった違う文字を使っての説明であり、
だから、元の文字とは同じ(イコール)ではないのだから、
参考資料に過ぎず、絶対的な根拠にならない。
そして、「當」は、「〜べし」というように「判断である事を示す文字であり、
「イコール」であれば、何も書かないか?、「也」を使う。 832日本@名無史さん2017/11/15(水) 23:07:07.26
>>699
>それ、畿内ヤマトだから <
「南≠東」であるし、
大和は、倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の附庸國の旧小国であるから、
×。 833日本@名無史さん2017/11/15(水) 23:10:25.53
>>826
お前のようなアホを相手にスルすれじゃねーヨソでやれ 834日本@名無史さん2017/11/15(水) 23:12:02.16
>>831
(当)まさに〜べし
意味
〜しなければならない、〜するにちがいない 835日本@名無史さん2017/11/15(水) 23:12:56.37
後漢書は「倭奴国」のことを「倭国之極南界也」と書いているから当然ながら国としては別だということだ。
のちに倭国に併合された小国の一つという扱いだ。
後漢書を知っているであろう唐会要や旧唐書の筆者たちも、その認識で書いただけ。
836日本@名無史さん2017/11/15(水) 23:14:30.85
837日本@名無史さん2017/11/15(水) 23:23:15.05
魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。
九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。
838日本@名無史さん2017/11/15(水) 23:23:59.32
宮崎、大淀川流域、生目古墳群。
円形周溝墓、前方後円墳、三世紀後半〜。
魏志倭人伝と近い時代に、宮崎にかなりの労働力(人口集積)があったことが分かる。
畿内、ヤマトの旗を同じくする勢力。
女王国メンバーの投馬国だね。
839日本@名無史さん2017/11/15(水) 23:28:56.05
九州北部は、倭王卑弥呼率いる倭国(女王国)の属国であり属領。九州北部の属領を統治していたのが、一大卒。
宮崎など九州南部は女王国メンバー。
840日本@名無史さん2017/11/15(水) 23:39:20.41
841日本@名無史さん2017/11/15(水) 23:39:48.37
842日本@名無史さん2017/11/15(水) 23:40:30.11
>>835
都が端の方にある変な国だという意味だろ。 843日本@名無史さん2017/11/15(水) 23:45:37.08
844日本@名無史さん2017/11/16(木) 00:26:10.41
>>1
5ちゃん(2ちゃん)の書き込みのほとんど99%は5ちゃん管理人によるものです
管理人は400人くらいいて、文系の才能のない売れないライターがバイトで5ちゃんに書き込んでいます
だから詳しい書き込みができるんです
5ちゃんは管理人がIDを変えながら書き込んでる掲示板です
5ちゃんは管理人はハッキング、ストーカーをしてきます
5ちゃんは管理人はユーザーのパソコンをハッキングして個人情報を覗き見しています
5ちゃん掲示板を見てるだけでもどこを見てるかリアルタイムで分かるようになっています
(管理人が監視してるスレを見ただけでハッキングされる恐れがあります)
845日本@名無史さん2017/11/16(木) 00:45:09.98
キウスは キッキッキ うれしいな〜〜
846日本@名無史さん2017/11/16(木) 00:51:17.91
847日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:01:47.41
りゅーま、りょーま?
そのような話もしていた
848日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:02:32.45
『日本昔話 姥清水』
某が、某という人物の家の養子になったという話、
信オンというゲーム内で話したことがあるんだけど
2006年頃だったかな
849日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:05:24.06
『』内を調べて読んでみて
『大江山の酒呑童子について この人物は実在』
名字(氏姓)が変わって・・・
という話をしている人がいるでしょ
850日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:05:54.40
ちなみに家は、
昔、伊達郡というところに住んでいたと言っていたよ、
山の上のほう
『山王院 山王宮』この周辺?
851日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:07:32.41
他のスレだったかな
当時、そのヒミコ(仮)というのもいなかった
と言っていたような
852日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:10:30.72
調べてみると出雲の話なのかな
夫妻(神)がいて三貴子(神)・・・
を殺したという事でしょ
853日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:12:31.95
山の上のほうに住んでいて、
凄い土地を持っていた
ネットでw調べてみると、
確かに親戚が住んでいたり
当時住んでいたという戸籍も、
そこの周辺の生まれだし
本当に老婆談だよ
854日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:18:11.89
『ジャクソン』〜『釣り竿』〜『七福神』?神殺し?
855日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:29:42.97
なぜか同じような話
『サンタクロース』
『トトロ』
856日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:33:03.08
モモタロウなのか、
何なのか知らないけど、仮名?
財(宝)などを
盗んだという話じゃなかった?
出雲系のところから盗んだのかな
857日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:34:34.23
このような説明があるでしょ
>降伏か死か! 蠍座のミロ
『dead or alive』?
858日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:36:16.23
犯罪者の話だと言っていなかった?
空き巣とか
859日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:38:29.98
家の玄関に『警察官立寄所』
このようなモノがあったんだけど、何なんだろう
よくわからないけど、昔から、あったような?
860日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:44:14.53
あと家の先祖だという写真
何の服なのか、わからないけど、
白い制服のようなものを着ていたり
861日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:46:03.88
探偵eyeというドラマ?
なぜかセイントセイヤのような台詞を言っていたり
「俺を助けてくれた・・・」
いつでも殺すことが出来る、本来なら死、死刑?
862日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:49:25.35
そのドラマに出てきた
兄という人物
スコーピオンと同じような技を使用してない?
ゲームの動画を観てみて
youtubeなどにもあるから、
指先から赤い光線のようなもを発する技
863日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:50:07.34
『デスラー』のようなキャラク
864日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:51:42.68
youtubeでも、何でも良いから、観てみて
『黄金聖闘士 蠍座(スコーピオン)ミロ』
865日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:53:52.08
youtubeでも、何でも良いから、観てみて
『黄金聖闘士 蠍座(スコーピオン)ミロ』
866日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:57:53.26
なぜか『みにくいアヒルの子』みたいな話なんだけど。
867日本@名無史さん2017/11/16(木) 01:59:12.95
探偵eyeというドラマ
なぜか『姥清水』という話にも似ている
868日本@名無史さん2017/11/16(木) 02:02:24.88
超時空設定なのかな?
白鳥とか氷河とか、
そういうのは知らないけど
実在の人物:兄 10月生まれ
弟(もれ)
妹
869日本@名無史さん2017/11/16(木) 02:07:55.75
漫画やアニメ、
ゲームのキャラの事なのか、
その神などの事なのかは、わからないけど
実在してたのか!
と言っている人達がいたり
870日本@名無史さん2017/11/16(木) 02:12:36.64
『白髭 百済』
調べるとサルタと出てきたりしない?
871日本@名無史さん2017/11/16(木) 02:14:05.37
呟きも成り済ましの立てたニセスレやキチの立てたクソスレを埋めてくれたら、
少しは他人から感謝してもらえるだろうに
872日本@名無史さん2017/11/16(木) 02:15:36.65
ルパン三世 dead or alive??
873日本@名無史さん2017/11/16(木) 02:22:38.52
家は『松傾』と同じ家なのかな?
読み方も「す」のほうだよと言っている
歌舞伎や芝居が好きで、
よく観に行ったりしていたとか
874日本@名無史さん2017/11/16(木) 02:27:37.63
それよりも
こーえーだよ、それとも、てくも?
dead or aliveが好きなのかな?
875日本@名無史さん2017/11/16(木) 02:28:46.92
別人なのかもしれないけど
『コーエー 渡辺知宏 事件
876日本@名無史さん2017/11/16(木) 02:30:01.34
カブキロックス『虹の都』
同じような感じがするんだけど
877日本@名無史さん2017/11/16(木) 02:32:24.98
本当に、あのスレッドだよ
『ファンタジーゾーン』
のボスの曲が好きだと言っている人がいたり
878日本@名無史さん2017/11/16(木) 02:53:30.32
30レス以上も何遊んでんの
いつものことだが、こいつとスレ主で500か
少しは人の橋を聞け
879日本@名無史さん2017/11/16(木) 02:57:56.03
すまん
少しは人の話を聞け
880日本@名無史さん2017/11/16(木) 03:01:00.16
上のほうは読んでいないから、
わからないけど
???〜877までの書き込みは
悪く言うと成り済ましだよ、
もれ(仮)の書き込みの真似をしている
881日本@名無史さん2017/11/16(木) 03:05:42.85
ただ読んでいるだけという人には、
わからないけど
わかる人にはわかる、
いちいち説明する必要はない
882日本@名無史さん2017/11/16(木) 03:25:34.91
>>880
こいつが来たのは半年ぐらい前だったけ
夜中にわけのわからん叫びしやがって 883日本@名無史さん2017/11/16(木) 03:37:38.54
九州説にはオカシい奴が多い、というのは間違いだ
九州説にはオカシくない奴が・・・見当たらない
884日本@名無史さん2017/11/16(木) 06:16:13.72
投馬国以降は使者が伝聞の疑いがあるが いかがだろう
1、郡から不彌國までは里数表記があるが以降は表記が無く日数だけである
南至投馬國 水行二十日 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
また、
2、自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 とあり
女王国より以北についての距離は分からないと記しているにも関わらず1では距離の表記が無い
そして
3、自郡至女王國 萬二千餘里との記述が出てくる
投馬国、邪馬台国 1万2千里 は伝聞であり距離は邪馬台国を比定するうえで無視しても良いかと思うが・・・・
885日本@名無史さん2017/11/16(木) 06:21:37.12
少しわかりずらいかも知れませんのでマトメ
1.使者は投馬国、邪馬台国には行っていないく、伝聞である
2、自郡至女王國 萬二千餘里は伝聞である
886日本@名無史さん2017/11/16(木) 06:29:48.17
887日本@名無史さん2017/11/16(木) 06:31:50.39
訂正します すいません
>>884
○ >>885
別に引用していただいても構いませんよ
議論が進むことを期待します 888日本@名無史さん2017/11/16(木) 06:33:53.03
金印渡すんだから使者は邪馬台国まで行っただろう
要は「里数は使者が測った」というのが思い込みに過ぎないということだ
889日本@名無史さん2017/11/16(木) 06:41:45.27
>>888
お前 相当頭悪いな すると里数はすべて否定される 890日本@名無史さん2017/11/16(木) 06:42:38.30
女王国の東とか侏儒国とかにも里数が書かれてるんだから
里数がある=使者が行った
は幻想
891日本@名無史さん2017/11/16(木) 06:45:01.50
892日本@名無史さん2017/11/16(木) 06:52:34.50
政治的理由で倭人の住む本島まで一万里にする必要があったから、それを循海岸と渡海を七三に割り振っただけ、という議論は昔からある
他の里数だって信じていいもんかどうか
893日本@名無史さん2017/11/16(木) 06:58:03.08
>>891
だからバカと呼ばれる
距離を無視したら今迄の各国の比定地が狂うだろ
距離を無視したら不彌國までの比定地がひっくり返る 894日本@名無史さん2017/11/16(木) 06:59:56.56
ヤメーーーーロ
エセスレの住人が書き込んだものを議論する必要なし
895日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:01:32.23
896日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:03:09.23
897日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:03:19.44
ヤメーーーーロ
エセスレの住人が書き込んだものを議論する必要なし
898日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:04:08.78
899日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:07:13.34
偽スレはちゃんとした議論ができるような場所じゃない
誰が持ち込んできたって、それはいいじゃないか
内容次第是々非々で判断すればいい
900日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:10:35.41
すいません スレを間違えて
>>884
>>883
は無視していただいて構いません
本当に失礼しました 901日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:12:40.40
>>900
誤らなくていいぞ
良い材料を与えてくれたサンキュー 902日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:17:03.18
ザラコクの大好きな有効数字という言葉を考えてみれば、里数のデータは明らかに精度の違う2つのグループがあるだろ?
千里単位の数字と百里単位の数字。
これは出所を別に考えるべきだ。
903日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:17:23.54
朝からキウスが一人芝居
904日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:17:37.71
905日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:17:50.74
行程についてはテンプレに書いてある
非常識だテンプレ読まずに書き込むのは
906日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:20:53.14
テンプレ読んで、それを踏まえて書き込めばいい
907日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:25:30.08
陸路の距離は車輪の回転数で測れる
だから街道の整備されてる中国本土の幹線とそれ以外では信頼度が違う
海路は一番怪しい
908日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:31:20.09
909日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:34:53.54
>>893
距離を無視しても不彌國までの比定地はひっくり返らない
おk? 910日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:38:25.22
郡使が常に駐した伊都国の周りは里数を信頼していい
違う?
911日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:39:32.82
912日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:43:50.87
913日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:46:07.40
>>910
それとて、県程度の国が境界を接していたという情報から作れる数字ではあるが 914日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:47:36.09
>>912
ないな
そもそも距離で比定地を選んでる説の方が少ない
というか珍しい 915日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:51:07.57
>>914
まるで✖
水行 陸行は 各説距離換算している
出直しておいで 916日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:52:04.35
日数は信用していい
日誌などから簡単に記録が得られるから
917日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:53:01.05
918日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:55:28.85
>>915
距離換算したっていいだろ
比定に使わなきゃいい 919日本@名無史さん2017/11/16(木) 07:58:12.10
>>916
信頼していいというのは言い過ぎ
信憑性が一番マシという程度 920日本@名無史さん2017/11/16(木) 08:24:44.08
>>699
>>>>(筑紫の)絹の生産が後退する理由がない。<
>>>衰退したからじゃん <
>>「其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青[糸兼]、緜衣、帛布」だし、
壹與も「異文雜錦二十匹」を贈っているじゃん。<
>それ、畿内ヤマトだから <
「南≠東」だし、
大和は、倭国から別れた別種の附庸国の旧小国でしかないから、
倭国の話は、筑紫の話。 921日本@名無史さん2017/11/16(木) 08:29:08.84
森村伊作
922日本@名無史さん2017/11/16(木) 08:30:47.35
>>830
>>>828
>後漢書のどこに、そんなこと書いてある?
同じ倭国なのだから。
場所も王統も違うのに同じ国などと言うはずがない。
中国の史書は、隋の頃までは倭は一貫して九州北部のことを前提としているよ。 923日本@名無史さん2017/11/16(木) 08:31:28.52
>>705
>英語のjustだよ <
justも。(イコールではなく)判断だよ。 924日本@名無史さん2017/11/16(木) 08:36:30.44
>>913
国邑で考えるから、境界という考え方は合わない。 925日本@名無史さん2017/11/16(木) 08:37:35.41
>>707
>会稽郡の治所は郡の一番北の端にあるよ<
会稽郡治の場所はどこなんだ?。
> 北緯30度だよ <
陳寿は大体の場所推定なんだから、北緯30度でも九州だよ。 926日本@名無史さん2017/11/16(木) 08:40:42.62
>>708
>福州は会稽郡だよ <
分郡後の陳寿執筆時は、建安郡だよ。 927日本@名無史さん2017/11/16(木) 08:46:33.50
>>714
>だから東の治所ってどこだよ いいかげんな推定するなよ<
陳寿は、「会稽東治」と書けば読者にはすぐわかる地域だ、というつもりで書いたんだよ。
だから、それ以上は不明だ。 928日本@名無史さん2017/11/16(木) 08:49:29.66
>>715
>会稽より南だよ <
会稽よりはっきり南なら、陳寿は「会稽東治」とは書かないよ。 929日本@名無史さん2017/11/16(木) 08:53:20.82
>>716
>陳寿って、そんないい加減な文章を書いてたんですか?<
魏使らの記録がそもそも「大体の近似値的記録」であったから、
陳寿も「大体の位置推定」を書いたんだよ。 930日本@名無史さん2017/11/16(木) 08:56:32.23
>>717
>根拠はないのだね?<
大和が、ホケノ以前に大量の鉄器を使った、という証拠は、未だにないよ。 931日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:00:04.54
>>721
>倭人ってそんなに海のシロートなの?<
魏使らは、おそらく素人だし、
倭人も持衰を乗せる位だから、海を怖がっている。 932日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:08:06.64
>>723
>天候の悪いときに航行するわけなかろ <
海では、見えない位の遠距離での天候の急変が直ぐに伝わって来るんだよ。 933日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:10:07.29
>>927
>陳寿は、「会稽東治」と書けば読者にはすぐわかる地域だ、というつもりで書いたんだよ。
治所なんだからあちこちの文献にあるはず
お前の勉強不足にすぎない、場所も確定しないのに、いいかげんな主張にしかみえない 934日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:10:55.52
935日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:11:27.04
>>724
>魏使のルートと倭側の朝貢ルートに何の関係もないだろ <
魏使らが、倭人側からの情報無しに倭地へ行く事など、有り得ないよ。 936日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:15:49.36
>>725
>乗ってる船の質も違うしな <
郡出発時の循海岸水行は、波打ち際近く用の小船であったんだろうが、
狗邪韓國からは、持衰も乗れるような少しは大きな倭船であったんだよ。 937日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:21:43.43
>>935
魏使のルートと倭側の朝貢ルートに何の関係もないだろ 938日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:24:16.05
>>730
>倭船じゅあ下賜品載せて漕いでこれないだろ <
馬は未だ乗せられなかったようだが、
「耕田猶不足食、亦南北市糴」だから、食料や持衰は乗せる能力はあったようで、
まあ、10〜15m位の船か?。 939日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:25:49.23
追記、
当然、複数以上の倭船、という可能性は十分ある。
940日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:30:35.00
>>740
>広域ったって最北端が北緯30度なんだろ? おかしいではないか<
陳寿は、魏使らの「有効数字1桁概数記録」からの、大体の位置の推定記載。 941日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:34:48.23
>>742
>会稽山なら、ちゃんと会稽郡の中に入ってるが?<
郡の「境界上」位では、「ちゃんと中に入っている」なんて言えない。
おそらく、その略地図の失敗。 942日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:37:37.95
>>744
>>大和は、九州倭国の筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の附庸国の、
旧小国であったんだし、<
>そんな史料事実は存在してないわけで・・・<
隋書や旧唐書や唐会要や新唐書の記載。 943日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:41:28.68
>>745
>という根拠プリーズ <
「當」は、「也」という断定文言とは区別した形。 944日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:45:27.50
945日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:51:11.02
>>748
>他人をいくら侮辱したって九州王朝が認められるわけじゃないのに <
他人をいくら侮辱したって、
「南が東になる」訳がないし、
大和は倭国から別れた別種の附庸国の旧小国」などの史料事実が、
変わるわけじゃないのに。 946日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:53:48.86
>>749
>会稽郡の治所なら会稽山の北ですけど? <
それは、具体的にどこなんですか?。 947日本@名無史さん2017/11/16(木) 09:55:01.43
948日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:00:31.09
949日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:05:33.19
>>750
>そうすると会稽よりはるか北になるぞ 矛盾だらけだ <
陳寿は、魏使らの記録の「郡から女王之所都」の(南南東方向の短里での)萬二千余里と、
その南水行二十日の投馬國の倭人からの伝聞情報とを合わせた、
「倭地の大体の推定位置」を書いており、
その推定位置が「会稽東治之東」であるから、
九州でほぼピッタリだ。 950日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:06:19.07
>>936
>郡出発時の循海岸水行は、波打ち際近く用の小船であったんだろうが、
>狗邪韓國からは、持衰も乗れるような少しは大きな倭船であったんだよ
なんでそんなふうにいうのか理由がさっぱり解らない。 951日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:08:00.50
>>760
>事実だ実態だと口先で言っただけで 事実の提示がなければ ただの詐欺<
これまで知り得た全ての「文献考古の史料」。 952日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:09:07.62
>>949
>その南水行二十日の投馬國の
どこから南水行二十日の投馬國? 953日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:10:36.16
954日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:13:46.67
>>890
女王国の東、海を渡る千余里、復(ま)た国有り、皆倭種なり。又侏儒(しゅじゅ)国有り、其の南に在り、人の長(たけ)三・四尺、
410 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/04/25(火) 15:29:08.37
侏儒國が高知県の西部の足摺岬方面。沖の島に「低身長部族が江戸時代まで存在していた」という記録がある。
すばらしい!!
又有侏儒國在其南
↑侏儒国は、高知県沖の、沖の島だよ
石切で有名な 強制労働でじっさいに小人が多かったらしい
江戸時代の地誌「沖の島記」にそれらしき描写がある 955日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:15:09.87
>>761
>史料事実を否定して何が悪いの? それが史料批判でしょ<
「完全否定」はダメだよ。
史料批判は、あくまで「確率が高いか低いか?」の確率的な批判であり、
史料批判で信頼性が低い、という評価であっても、一部分には確率の高い部分も含まれている可能性があり、
尚も、参考史料には十分になり得る。 956日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:15:25.07
>>946
会稽山の北なら会稽山陰に決まってるだろう 957日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:18:32.92
958日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:22:23.14
>>954
種子島という説もあるけどね
種子島からはコビトの骨が出てるし 959日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:30:18.57
960日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:32:22.08
>>775
>嘘つきダマシのサギの典型のような投稿だな 会稽郡は南に広がってるのに <
陳寿は、「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」という紹介を書いているから、
会稽は呉の近くだろう、として書いているんだよ。 961日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:34:30.13
962日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:35:35.68
>>777
>だから「東の治所」なんて、どこにあるんだって <
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」と言われている「会稽」の東方海岸地域。 963日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:37:23.89
964日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:43:55.42
>>781
>>始めから、(直線的ではなく)、少し広がって行く幅広の「面」を意図しており、<
>「ちょうど東にあるはずだ」って推定は直線的な真東の方向にあることを意図してる<
陳寿は、勿論「倭地の大体の位置」の説明。 965日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:49:40.87
>>960
陳寿が「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」と紹介を書いてると
どうして会稽が呉の近くなの?
どこにも呉と書いてないが。 966subo2017/11/16(木) 10:51:21.51
畿内厨は森村伊作先生知ってるのか
967日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:52:46.15
森村伊作は昔ここでジョーカーとかと大激論してたからな
968日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:54:58.96
>>962
知りもしないもののことを言い張ってるのかw 969subo2017/11/16(木) 10:59:04.74
伊作さんはジョーカーと大激論してたのか
まあ、ジョーカーなんか伊作さんの足元にもおよばんだろ
970日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:59:09.26
>>966
お前ニワカだろ
伊作は生前ここにも来てたし、日本史板には伊作が立てたスレもあった 971日本@名無史さん2017/11/16(木) 10:59:25.12
>>966
すぐ議論で負けてキレる男とか
負けると荒らす男とか
誰も自分に賛成してくれないとダブハンで「すごい説だ。賛成です」とか書く男とか
いろいろ伝説は聞いた 972日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:01:40.70
伊作は偏狭かつ頑迷な性格で畿内説だけでなく九州説にも嫌われてた
伊作は邪馬台国熊本説だから、邪馬台国北九州説を最も攻撃していた
973日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:03:18.98
974日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:04:37.05
ハナクソ伝説の男ね
975日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:05:10.44
伊作は伊都国が糸島じゃなくて佐賀あたりなんだよな
だから伊都国を糸島にする説は九州説。畿内説関係なくすべて攻撃対象になってたな
976subo2017/11/16(木) 11:06:07.00
伊作さんの熊本にはあれだが、なるほどと思うところはいろいろあった
途中からこれはちょっとなと思うところもあるが、いいところだけ採用している
977日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:07:40.61
>>786
>分郡したって会稽郡の治所は変わらんぞ <
それは、陳寿が、
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の、
「会稽の地だ」と認識した場所付近だよ。 978日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:07:46.17
979日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:09:32.33
>>972
「俺は孤高の鷹だ」というのが口癖の中二病老人だったとも聞いた 980日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:10:00.12
なんで伊作が古田説を嫌ってたかというと
ヤフーの古代史掲示板でザラコクと論争するのに辟易して
2chに逃げてきたからなんだよな
981日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:10:54.63
>>978
ザラコクあたりがよく知ってるんじゃない?
同じ掲示板からの落ち武者組だから 982日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:11:31.46
伊作も古田も故人かwww
983日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:13:10.41
嫌われ者二大虚頭とも
984日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:13:39.65
伊作って論争で負けそうになると
「会って話をしょう」とか言い出すんだよな
985日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:14:26.28
ザラコクも死後ながく語り継がれるんだろうか
986subo2017/11/16(木) 11:15:39.06
伊作さんの人柄とかよくしらんけど、一日航海千里は評価する
987日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:16:08.84
988日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:16:47.84
989日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:17:58.03
まあ伊作は末期がんだったから、あせりがあったんだろう
990日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:19:35.49
991日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:20:50.96
>>796
>魏代の話をしてるんだから執筆当時は関係ないよ <
陳寿は、資料情報の転写ではその文面や地名を踏襲しているが、
地の文での説明は、当然西晋代の認識での説明をする。 992subo2017/11/16(木) 11:21:36.72
伊作さん、古田さん、安本さんとか割といいことも言ってるだろ
993日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:21:42.81
ハナクソ伝説知ってるぞ
議論に負けたあと「・」を1文字だけ連投して荒らして
最後に「ハナクソ」って投稿したって
994日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:22:39.27
995日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:23:03.14
ある意味すげーな
996日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:23:38.53
997日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:24:12.49
九州説で、伊作のように
伊都国=佐賀 邪馬台国=熊本 ってやつはどれくらいいるんだ?
998日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:26:26.69
999日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:27:28.41
1000日本@名無史さん2017/11/16(木) 11:28:02.50
>>800
>南京なんて関係ないでしょ <
大和説?の誰かが、呉は会稽の北や海岸付近だ、といような話をしたから、
魏〜西晋の三国時代の呉は南京付近であった筈だから、
おかしい、と言った。 -curl
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