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邪馬台国畿内説 Part299 ->画像>2枚


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1◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:02:04.06
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
 もう確定なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1510579834/

◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

2◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:03:00.15
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

3◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:03:25.26
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

4◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:03:51.46
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

5◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:04:15.83
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

6◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:04:38.38
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

7◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:05:14.20
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

8◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:05:35.98
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

9◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:05:59.43
◆7−2
 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

10◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:06:21.05
◆7−3
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

11◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:06:47.91
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

12◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:07:09.10
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」

13◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:07:48.78
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 TA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内T〜U
 TB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山                  
 UA期ー 布留0古相      ー 河内庄内V   ●箸墓、権現山51号
 UB期ー 布留0新相〜布留1古ー 河内庄内W〜X  ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
                            浦間茶臼山、西求女塚
 UC期ー 布留1中相〜布留1新ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、
                            メスリ、行灯山、祇園山

14日本@名無史さん2017/11/16(木) 12:07:52.58
白昼堂々 重複重複スレたてるなよ

お巡りさん、この人です

15日本@名無史さん2017/11/16(木) 12:08:08.85
白昼堂々 重複スレたてるなよ

お巡りさん、この人です

16◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:08:09.68
◆11 本文のサマリー
===========================================
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

17◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:08:39.08
◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

18日本@名無史さん2017/11/16(木) 12:08:43.89
白昼堂々 重複スレたてるなよ

お巡りさん、この人です

19◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:09:00.30
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。

20◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:09:22.19
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
よって、倭人伝の里程にも「南」という方位にも、致命的な誤りが含まれていることに疑問の余地がない。(※)
 具体的には、三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて「南至邪馬壹國」の「南」にも錯誤を認めない限り、倭地は会稽はおろか許都ほどの南としか認識出来ないことから、倭の中心地が「會稽東冶之東」と記述されることは有り得ない。
 或いは、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)

※ 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里
 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里
 南海郡:雒陽南七千一百里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪起点として、会稽より稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。

21◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:09:42.29
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。

22◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:10:04.23
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

23◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:10:29.49
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。

24◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:10:56.65
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

25◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:11:18.36
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。

26◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:11:39.83
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

27◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:11:58.37
◆FAQ 12−1
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

28◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:12:18.25
◆FAQ 12−2
 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

29◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:12:41.95
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。

30◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:13:03.19
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

31◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:13:23.09
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。

32◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:13:41.41
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

33日本@名無史さん2017/11/16(木) 12:13:59.18
白昼堂々 重複スレたてるなよ

お巡りさん、この人です

34◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:13:59.84
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。

35◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:14:19.95
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。

36◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:14:48.12
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

37◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:15:07.69
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!


A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。

38◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:15:32.05
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
邪馬台国畿内説 Part299 	->画像>2枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

39◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:16:06.37
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
 箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。

・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等

40◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:16:45.30
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

41◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:16:55.88
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。

42◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:17:25.27
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。

 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

43◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:17:46.29
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。

44◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:18:08.06
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。

 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。

45◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:18:30.84
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

46◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:19:11.18
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
 
 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
 

47◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:19:33.66
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

48◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:20:17.34
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。 

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
 

49◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:20:45.64
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

50◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:21:05.26
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。

51◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:21:28.89
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

52◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:21:56.53
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

 

53◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:22:23.93
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。

54◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:22:48.89
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。

55◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:23:24.27
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。

※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

56◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:23:51.28
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

57◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:24:14.70
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BV型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BW型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

58◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:24:37.60
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

59◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:24:59.43
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。

60◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:25:23.10
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。

 この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

61◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:26:03.32
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
 
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
 
 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
 
 

62◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:26:22.14
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

63◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:26:49.03
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。

64◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:27:17.35
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

65◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:27:38.72
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

66◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:27:58.81
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。

67◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:28:16.13
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

68◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:28:35.86
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

69◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:28:56.31
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

70◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:29:20.12
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。

居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

71◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:29:37.74
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

72◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:29:59.52
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。

73◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:30:23.48
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。


(且末國)西北至都護治所二千二百五十八里、北接尉犂、南至小宛可三日行、
    …西通精絕二千里。
(精絕國)北至都護治所二千七百二十三里、南至戎盧國四日行、
    …西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)東北至都護治所六十日行、
    東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
(大月氏國)東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行,
    南與罽賓接。
                (以上、漢書西域上)

74◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:30:56.89
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

75◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:32:33.11
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蝉県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

76◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:33:30.33
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆6−2を修正

77日本@名無史さん2017/11/16(木) 12:40:57.65
12時まわったからOKだろうというリアリティの無さだよ、君の問題は

78◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:48:51.60
里程について若干の私見を投稿します。

1. 倭人は万里の彼方
(1) 如淳の情報
『漢書』 地理志の有名なフレーズ「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」に付けた如淳の注が、難解で知られる「如墨委面、在帶方東南萬里」である。と言っても難解なのは「如墨委面」であって、後半「帯方東南万里」は楽浪海中の倭人のことに相違ない。
倭人は帯方東南「万里」にあるのである。

(2) 如淳がこの情報を得たのは魏使派遣より先か後か
イ. 如淳は魏の陳郡丞である。
ロ. 後漢末の公孫度の実態的自立から卑弥呼の朝貢までの半世紀のあいだ倭は華夏からの絶域と認識されている。
ハ. 帯方は公孫康の設置である。

よって、卑弥呼遣使以前の段階で、楽浪・帯方二郡以外の、つまり本土の魏に住む中国人が倭人の世界を帯方基点で表現することは考えにくい。
基点が楽浪でなく帯方であることから、如淳は魏使到達以降にこの注を書いたと考えられる。

79◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:49:53.78
(3) 如淳が得たのはどんな情報だったか
それはどんな情報だったか
イ. まず(1)より、如淳はタイミング的に魏使の持ち帰った情報を知りうるので、そこから「帯方東南万里」という情報を入手していると考えてみる。
ロ. ところが、如淳の数字は「万里」であって「万余里」ではない。如淳が魏略と同程度等の情報を入手して 7千余里+千余里+千余里+千余里と求めた結果ならば「万余里」が相応である。
ハ. また、前漢書の「楽浪海中にいる倭人」の注に書く以上、注というものの性格から言って、通常は前漢書の記述対象である前漢もしくは新の頃の状況か、さもなければ「今」と断って最新の情報を記すものと思われる。
ニ. よって、最新の情報を知っていながら後漢の光武帝に朝見した倭奴国の情報を魏代の最新情報から積算して、換言すれば最新情報から後漢時点の情報を遡及的に推定して、
前漢もしくは新の頃に朝見したという倭人についての注釈として記すというのはアナクロニズムにほかならない。
ホ. これを不合理でないと感じるとすれば、それは前漢と交渉をもっていたのが北部九州のクニであるという今日の考古学的知見を踏まえた我々の感性であって、如淳がそのような推理を行なって「万里」を算出したと想像するのは現実的ではない。
ヘ. つまり、如淳が、魏に朝貢した女王の居る国(=彼にとっての現代倭国の中心)まで「万2千余里」という最新情報を見知っている以上、前漢もしくは新に歳時朝見してきた「楽浪海中にいる倭人」は「今、帯方を去ること万2千余里にあり」と注釈すると思われる。
ト. さもなければ、イ.が正しくなく「万里」は前漢もしくは新代からの情報と如淳が考えるものであって、なおかつ楽浪−帯方という基点の相違に拘泥する必要を感じさせないようなラフな情報だということである。
チ. 加えて、如淳は外交情報を入手しやすい中央官人でない。

 以上を勘案すると、(1案)景初・正始の国交樹立時点では「帯方東南万里の倭国」という類の情報が公開された;(2案)古くから倭人の世界は海を越えて漠然と「万里の彼方」とされていた;と考えられるのである。

80日本@名無史さん2017/11/16(木) 12:50:31.42
入れ墨とか朱塗りとか一夫多妻制、、、に違和感覚えるけど死者の弔い方とか食事の取り方など、、、
に日本の原風景を感じる。

昔からこんな民族だったんだね、日本人ってw
かつて朝鮮を併合しようとしたが土台無理な話で素養がなってないよね、朝鮮人は。

81◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:50:47.87
 ここで(テーゼ)「万二千余里という情報は魏使がもたらした」と上記(1案)は明かに矛盾する。また(2案)の場合も、大海を渡り終えるまで万里という先行情報があった事になり、「魏使がもたらした情報の正味部分は万二千余里と万里の差分」ということになる。
いづれを採用しても、万二千余里という情報は魏使がもたらしたものではなかったという帰結に落着してしまうのである。

82◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:51:39.48
2. 光武時朝貢の実態は?
(1) 光武時朝貢は何月何日?
范曄後漢書に先行する袁宏の後漢紀光武帝紀は、より詳しく次のように記す。
「(中元)二年春正月辛未,初起北郊,祀后土。丁丑,倭奴國王遣使奉獻」
倭奴國王の遣使は57年1月14日である。

(2) 光武はいつ死んだか
同じく「二月戊戌,帝崩南宮前殿」
57年2月5日に光武帝は崩御している。倭奴國朝見のじつに21日後のことである。
後漢王朝始祖への表敬としては、じつに際どいタイミングであった。

しかし、果たしてこれは偶然であろうか?

(3) 朝貢の記録はなくとも交流は古い
 日本列島ことに北部九州のクニグニが前漢代から中国本土と交渉をもっていたことは、銅鏡のみならず四葉座金具や玉璧など賜物と考えられる遺物の出土で確実視されている。
 しかし、倭人ありというのが伝聞情報のみでなく、具体的交渉があった結果だと考えられる史書の記事があり、これを次項に掲げる。

(4) 王莽に朝貢したのは誰?
 漢書がしるす王莽の太后への奏に「越裳氏重譯獻白雉、黄支自三萬里貢生犀、東夷王度大海奉國珍」という言葉があることはつとに指摘されている。
越裳氏の白雉献上は元始元年に向けて王莽自身の演出で行なわれたもので、黄支の犀牛献上も同二年の史実である。
 東夷の王の朝貢は記録に具体的には見えないが、「莽既致太平、北化匈奴、東致海外、南懷黄支…」という漢書の表現からはこの一連の王化事績がすべて王莽自身の演出であることを物語っている。
 東夷の王とは何物であるか?当時の漢の版図は当然楽浪に及んでいる。「海外」から「度大海」してやって来る東夷の王の候補者は倭人しかいないと考えてよいだろう。
この一連の四夷朝貢が紀元元年以降の数年間の間に行なわれた事にも注目してみよう。光武時朝貢の丁度ほぼ半世紀前のことなのである。

83◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:52:24.77
(5) なぜ光武帝が生きているうちに朝見できたか
 四夷から朝見者が参じることは中国皇帝の栄光そのものである。王莽も太后のために自身でそれを演出し実現した。
 倭奴国がこのようなきわどいタイミングに朝見を果たし、やや過分とも言える金印紫綬の誉れに耀いたことの蔭には、中国側の政策的な誘導があったと推定しても当らぬことではないだろう。
すなはち、王莽の政治ショーから丁度半世紀を経たいま、そして光武帝が生きているうちに、王莽以上の栄誉を演出したい皇帝側近の配慮である。



3. 安帝時朝貢の真相
(1) なぜ朝貢したのか
 安帝の治世は衰凋と退廃の中である。遠い東夷王の朝見が、お飾りの幼帝をさらに飾り立てるため−実際は太后と外戚の栄誉のため−に仕立てられたセレモニーであることは言うまでもない。

(2) なぜ50年後なのか
 そして、この西暦107年に行われた行事が、光武時朝貢の丁度50周年であることに注目したい。光武時の再現を演出したのである。この時期に朝見を行なう理由は倭國の側には特にない。
安帝時朝貢は中国側の誘致である。しかしこの時だけではなかったのである。王莽も光武も同様であった。

84◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:53:08.85
4. 「万里」の情報源
(1) 「万里」と「万二千余里」はどちらが先か
 1.(2)で考察したとおり、如淳の注「帯方東南万里」は魏使派遣時点より後に書かれたと考えてよい。如淳は少なくとも倭人伝冒頭の「倭人在帯方東南大海之中」に近い情報は目にしていたと思われる。
 ところが1.(3)で考察したとおり、如淳は「万二千余里」という情報は手に入れていないと考えられる。魏の政府筋が「万二千余里」という情報を持っていたならば、果たして「万里の彼方から倭人が朝貢した」等と発表するであろうか?
 2や3で述べた場合と同様、皇帝の栄光を称え執政者の手腕を誉めたいならば、より彼方の僻遠の地から王化を慕って夷人が来訪したと発表したい所なのである。
 従って、以下のような時系列関係になると推定できる。
  □「万里」情報の発生(魏使が距離に関する報告をしていなかった場合)
□ 魏使の派遣
□ 「万里」情報の発生(魏使が「万里」と報告していた場合)
  □如淳の注執筆
□ 「万二千余里」情報の発生
□ 魏志行程記事の完成
如淳のいう「帯方東南万里」の「万里」は「万二千余里」に先行する情報である。

 ここで「魏使が距離に関する報告をしていなかった場合」は、1.の(2案)に相当する。すなはち、古くから倭人の世界が海を越えて漠然と「万里の彼方」とされていた;ケースで、如淳がそれを準用したとする場合である。
 「魏使が『万里』と報告していた場合」は必然的に1.の(1案)のように景初・正始の国交樹立時点では「帯方東南万里の倭国」という類の情報が公開されたとすることになるであろう。

85◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:53:45.88
(2) 「万里」はいつまで遡及できるか
 如淳の「万里」の情報源は何時得られたのであろうかか?

イ.  魏略・魏志上に記された帯方から末廬國に至るまでの約万里は、狗邪韓国を境としてが7:3に分割されている。この中継点、結節点である狗邪韓国に注目してみる。

ロ.  倭人伝に登場する狗邪韓国は、韓伝に登場する弁辰狗邪国と同一の国を指すものと考えてよいであろう。前者は民族を表わす「韓」を後置し、後者は国家群の分類として三韓のうち「弁辰」を前置しただけの違いである。

ハ.  この表現の相違の意味するところは何であろうか?用例をみる限り、民族名が後置されるケースは、小水貊や若羌の例などで明らかなように、国家形成レベルが部族国家段階と推定されるものが主で、「国」と書かれているものは少ない。
つまり「固有名」+「民族」という表現をとる場合は、「大分類」+「固有国名」の場合より国家形成上古い発展段階に属すると考えてよさそうである。

ニ.  こう考えていくと、「弁辰狗邪国」という表現を取った一次資料と「狗邪韓(国)」という表現を取った一次資料とでは、成立年代こそ特定は出来ないが、時系列的には後者の方が古いことを指摘することが出来よう。

ホ.  狗邪韓〜末廬の文章表現には統一感がありは行程記事の他の部分とは一線を画するものがある。記事の内容からも狗邪韓〜末廬は当初から一体の記事であったと見ることが出来る。

ヘ. よって、行程記事のうち少なくとも帯方〜末廬部分の成立は韓伝の弁辰十二国国名部分のそれより早い。

86◆q8leUXpsw. 2017/11/16(木) 12:54:21.48
 ここで韓諸国に関する知見の広まりが二郡の一連の軍事行動を契機に深まったという状況を想定するならば、後者の表現を取る史料に随伴している約1万里という情報は、一次資料としては魏使派遣時点よりも古いという可能性を認めてよいことになりそうである。
 1.では「魏使がもたらした『万二千余里』情報の内訳から如淳が『万里』を算出した」可能性を排除したが、今般は「魏使が女王の都まで誤って1万里と報告し、のちに『万二千余里』に上方修正された」可能性も偶然の条件に依拠しすぎるものとして排除できるであろう。
 この「万里」という数字が、魏略や魏志に見えるところの帯方郡から対馬・壱岐を経て九州に到達するまでの数字と「余里」を除くと一致することから、これらの情報源の系統は同じと考えるのが自然である。


(3) 「万里」はどこにあったか
 後漢書東夷伝序にある。光武帝の事績との関連で現われる。

(4) 「万里」は虚辞である
 2.で述べたとおり、光武時朝貢は演出されたイベントであったと考えられる。この折りに東夷の王が海外は「万里」の彼方から朝貢してきたと公称されたとすれば、「万里」は虚辞である

87日本@名無史さん2017/11/16(木) 12:57:00.91
この数はさすがに狂っているとしか言いようがない。

88日本@名無史さん2017/11/16(木) 12:57:45.83
独自説を単独で長々と開陳することはご遠慮ください。

89日本@名無史さん2017/11/16(木) 13:06:11.97
>>88
畿内説はOK

90日本@名無史さん2017/11/16(木) 13:07:47.96
白昼堂々 重複スレたてるなよ

お巡りさん、この人です。

91日本@名無史さん2017/11/16(木) 13:11:57.33
割り込み荒らしが岡上だとバレ

92日本@名無史さん2017/11/16(木) 13:18:23.81
伊作が懐かしいわ

93日本@名無史さん2017/11/16(木) 13:43:01.93
遺作とか読んでたのが今となっては後味わるい

94日本@名無史さん2017/11/16(木) 13:49:40.14
風俗を儋耳朱崖と比較してるんだから、やはり陳寿は倭国を台湾くらい南だと思っていたんだろう

95subo2017/11/16(木) 13:49:55.28
ひで爺(明石原人)は何回も重複スレたてんなよ、紛らわしいじゃないか(ぷん、ぷん

96日本@名無史さん2017/11/16(木) 13:52:28.45
ここが本スレだろ

97日本@名無史さん2017/11/16(木) 13:57:26.13
糸厨も論破されてたし、ちゃんと結果を出すのが良スレだろう
本スレならではだ

98日本@名無史さん2017/11/16(木) 14:02:38.52
>東治の地域は、おそらく会稽郡治よりも南北に広いだろう、と言ったのですよ。

東治の地域って何?

99日本@名無史さん2017/11/16(木) 14:06:17.59
郡治はたいてい県城よりは大きいが

100日本@名無史さん2017/11/16(木) 14:11:28.44
>>98
東冶県城なら発掘されてる。
けっこう大きいが会稽郡治の方が大きいんじゃないか?
知らないけど

101日本@名無史さん2017/11/16(木) 14:16:33.77
東治って単純に東冶県治じゃいかんの?

102日本@名無史さん2017/11/16(木) 14:19:27.67
>>101
医院で内科医、出先で外科医

103日本@名無史さん2017/11/16(木) 14:27:22.77
>>101
当時の正式名称は東侯官治だろう

104日本@名無史さん2017/11/16(木) 14:40:41.15
あいかわらずテンプレ長い コンパクトにしてくれないか

105日本@名無史さん2017/11/16(木) 14:42:04.17
呉の会稽王孫亮が左遷されて候官侯になってるから、郡内の序列としては会稽郡治に次いで東部侯官治だろう

106日本@名無史さん2017/11/16(木) 14:43:14.45
>>104
サマリーがあるだろう

107日本@名無史さん2017/11/16(木) 14:44:01.22
スレ主の解説で100まで必要で無いのではないか?

108日本@名無史さん2017/11/16(木) 14:45:42.83
>>106
サマリーを冒頭にして各論を後に書けばよい

109日本@名無史さん2017/11/16(木) 14:47:00.75
>>107
畿内説の説明なら相当の分量が要るよ

110日本@名無史さん2017/11/16(木) 14:47:51.12
>>107
テンプレで1000埋めればよい

111日本@名無史さん2017/11/16(木) 14:48:41.39
>>106
サマリーまで読んでいられない

112日本@名無史さん2017/11/16(木) 14:53:31.55
>>105
会稽東治は会稽郡東部侯官治で吉

113日本@名無史さん2017/11/16(木) 14:54:17.56
>>111
だからサマリーが冒頭にあればいいんですよ

114日本@名無史さん2017/11/16(木) 15:02:29.52
とにかく短くした方がいい
前スレをカーソルで手繰ると25%がテンプレとサマリーだよ

115日本@名無史さん2017/11/16(木) 15:05:36.70
まとめる能力がないのは無能。

116日本@名無史さん2017/11/16(木) 15:09:30.70
あの説明がない、この説明がないと文句をいう向きが後を立たんじゃないか

117日本@名無史さん2017/11/16(木) 15:10:00.92
テンプレが気に食わないのなら出てけば良いだけ

118日本@名無史さん2017/11/16(木) 15:12:51.46
ブラウザで出て来るのは最新50レスとか100レスだから、長くても邪魔にはならん

119日本@名無史さん2017/11/16(木) 15:14:05.95
ただし偽スレは立てるなよw

120日本@名無史さん2017/11/16(木) 15:14:38.27
>>115
よく纏まってると思うけどね

121日本@名無史さん2017/11/16(木) 15:18:19.39
>>1
ブログを立てて
そこを読んでからここにカキコム
どうだ 名案だろ

122日本@名無史さん2017/11/16(木) 15:18:42.62
どうせ文句言ってるのは東遷説か九州説の奴だろ
金出して入門書買わずに済むんだから贅沢いうなや

123日本@名無史さん2017/11/16(木) 15:22:54.72
>>121
「それなら>>3に書いてあった」と言っても「ここにコピペして貼れと」文句を言う奴がいるのに
現実的でない

124日本@名無史さん2017/11/16(木) 15:26:57.11
読まない奴はどこに書いてあっても読みやしない
「何度も説明させるな。上の方に書いてあるだろう。」
と言えるのが効果じゃないの?

125日本@名無史さん2017/11/16(木) 15:28:55.61
>>123
目の前で書いて説明しても文章の意味がわからないのがアンチの連中だよ

126日本@名無史さん2017/11/16(木) 15:34:43.02
ナリスマ君の書いた偽スレのテンプレを見ればよくわかる
長年このスレにいても畿内説のことをちっとも解っちゃいない

127日本@名無史さん2017/11/16(木) 15:39:34.83
サマリーだけ載せて、後を>>1がテンプレをブログに書いておけばスレ更新が楽だし、ほかの者でもスレ立て代行できるんだけどな

128日本@名無史さん2017/11/16(木) 15:44:21.71
やはりスクロールしてパッと見られるのがいい

129日本@名無史さん2017/11/16(木) 16:04:13.48
龍馬や松陰は不必要? 高校の歴史用語「約半分に」案
http://www.asahi.com/articles/ASKCB5RZWKCBUTIL052.html?iref=comtop_8_08



高等学校教科書および大学入試における歴史系用語精選の提案(第一次)
http://www.kodairen.u-ryukyu.ac.jp/pdf/selection_plan_2017.pdf



【邪馬台国関連で覚える歴史用語】
倭人、倭国、漢、後漢、楽浪郡、『漢書地理志』、
『後漢書東夷伝』、奴国、漢委奴国王印、『魏志倭人伝』、
魏・呉・蜀、邪馬台国、卑弥呼、親魏倭王、纏向遺跡、国家の形成

※歴史用語を半分にしても、「邪馬台国」と「纏向遺跡」はセットで覚えるようになります

130日本@名無史さん2017/11/16(木) 16:27:50.90
時代だなあ

131日本@名無史さん2017/11/16(木) 16:39:29.49
九州説が生き残れる時代では、もうない

132日本@名無史さん2017/11/16(木) 17:14:49.87
会稽東治が東侯官で確定ならば台湾辺りになるわけだ
ということは筆者が1里=約400mの普通の里で考えていることが確定するから、一里を1/5にしたり短里とか考案したりとかは全て廃案
しかも邪馬台国に水行する方位も間違ってることになる
これで畿内説確定ではないの

133日本@名無史さん2017/11/16(木) 17:32:38.17
教科書に畿内説と九州説を両論併記する時代じゃないわ
九州説は削除でいい
百歩譲って残すとしても記述方法を変えないといかん
邪馬台国の位置論争については畿内説が有力であるがその他に九州説などもある
とかにすべき

134日本@名無史さん2017/11/16(木) 17:34:35.57
また万世一系説皇国史観の歪曲歴史教育が始まるのか。

135日本@名無史さん2017/11/16(木) 17:35:04.83
畿内の考古学系研究所では
ほとんどが邪馬台国そのものの記載を諦め、
一部だけが有力な候補としている。

136日本@名無史さん2017/11/16(木) 17:38:46.64
九州説だと記紀神話ももれなく回収できるのに。

137日本@名無史さん2017/11/16(木) 17:45:15.96
298の>>802
>中国、台湾の国家機関により「会稽東冶」で確定済み<

国家機関は、その国家の正当性や存続を第1にする思想宗教組織であるから、
始めから「結論先にありき」の非学問的で非科学的であり、
確率が非常に低くなり、
そんな機関の説明は半分×書の参考程度にしかならない。

138日本@名無史さん2017/11/16(木) 17:46:23.80
>>132
幾内って台湾あたりにあったんだ

139日本@名無史さん2017/11/16(木) 17:49:20.68
298の>>803
>東治が会稽郡より広い? ばかですか?<

誰か?、そんな事を言ったのですか?。
アホですか?。

東治の地域は、おそらく会稽郡治よりも南北に広いだろう、と言ったのですよ。

140日本@名無史さん2017/11/16(木) 17:50:21.49
298の>>805
>>古今東西、だれもやってないような倭人伝の「南→東」などの<

>何百年も前から畿内説は全員やってますけど <

という事は、何百年も前から大和説者は全員、
史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、犯罪者であった、
という事になる。

141日本@名無史さん2017/11/16(木) 17:51:45.57
298の>>808
>だ〜か〜らぁ 東治が会稽郡より広いわけないでしょ<

東治は、おそらく会稽郡治よりも広い。

142日本@名無史さん2017/11/16(木) 17:53:08.85
298の>>809
>会稽郡は北緯30°から南に広いデス 九州説にもっと悪いデス <

陳寿は、始めから、「倭地の大体の位置説明」を書いているのであり、
九州でピッタリです。
大和説には非常に悪いです。

143日本@名無史さん2017/11/16(木) 17:59:17.26
>>134
九州説さん思想に狂ってはダメよ

144日本@名無史さん2017/11/16(木) 17:59:19.19
>>141
病院に行けうぜー
真剣にテンプレ・サマリーよんだことないだろ

145日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:01:12.30
>>139
「東治の地域」ってなに?
郡治じゃないの?

146日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:04:03.97
>>141
なんで?

理由は?

147日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:05:52.71
>>144
読むに値しないよ

148日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:13:16.24
298の>>811
この大和説者らの投稿をみてると、大和説者って、
現実の史料事実を否定したり曲解捏造したり目を逸らしたりしないとやってられない、
ってことがよくわかる。
だから国民の3割位の人が、彼らの口先に騙されて大和説者になった、という事だな。

149日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:19:53.45
298の>>812
>陳寿ってそんな雑な文章を書く人なんですか?<

陳寿が、「計其道里、當在會稽東治之東」で、大体の位置説明をした。

150日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:23:32.66
298の>>817
>それで「東治」ってどこなの?<

会稽郡治の東側。

>今の地名で言うと、どこ?<

陳寿は書いていない。

151日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:23:58.11
>>149
「ちょうど」東だって「大体の」説明したの?

152日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:25:49.72
298>>818
>??? 南京は呉県じゃないよ<

三国時代は、呉の都であったんだろ?。

153日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:29:20.97
>>150
陳寿が書いてなくても調べればすぐ分かるだろ

154日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:30:15.30
九州説が致命傷です

155日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:31:05.44
>>152
でも呉郡ではない

156日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:31:08.21
>>154
お前の頭の中だけ。

157日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:31:59.84
298>>821
>会稽東治は福州。 海岸付近だ。<

「計其道里、當在會稽東治之東」の会稽は、
当然「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の、
「古くからの会稽」。

158日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:33:47.36
会稽郡治の北は杭州湾だから、ちょっとでも北へ行けば海へドボン

159日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:34:55.76
>>157
古くから会稽は広いですけど


・・・南に

160日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:35:43.96
298の>>822
>会稽郡は最北端が北緯30°あたり 上海や長江河口付近よりだいぶ南<

「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽で、
三国時代の地理的位置が必要。

161日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:37:21.39
>>160
三国時代の地理的位置ってザラコク以外の人が知ってるやつだよね

162日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:39:51.52
298の>>823
>東治=侯官。これ、史料事実。つまり現在の福州です。<

「東の治所」なんて、どこにでも起こり得る。
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽の位置が必要。
理由もなく史料事実を曲解してはいけない。

163日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:41:05.00
>>160
儋耳朱崖とも比較してるから、倭は会稽山陰と海南島の間にあるどこかだな
福州で吉田くん

164日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:41:46.61
>>162
海の中には起こりえない

165日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:43:03.39
>>162
つまり長江河口付近だぁとか江蘇省だぁとかいう珍説は全滅です

166日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:47:06.74
>.825
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者は、もう、
史料事実や文章理論的であるとかないとかお構いなしに、
罵詈雑言をわめくしか道は残されていないようだな 。

167日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:55:06.72
九州説死んだな

168日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:55:13.68
298の>>826
>漢の武帝に征服されてから「冶県」といい,会稽郡に所属した。
後漢には「侯官」と改名し東部都尉がおかれた。
晋代に晋安郡の治所となり・・・<

晋安郡とは、会稽郡と判れた建安郡の事だろ?。
という事は、東冶は、陳寿の執筆時には会稽郡ではなかった、という事ではないか。

169日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:57:40.27
別にそこ陳寿が書いたって証拠ないしな
陳寿は元資料にあまり手を加えない人だから

170日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:58:46.07
魏代の話だから会稽でよし

171日本@名無史さん2017/11/16(木) 18:59:43.19
298の>827
>>陳寿の記載原則通りに道筋をたどれば、不彌國の直ぐ南でピッタシ。<

>距離に島の大きさを足してセコく帳尻合わせしたり
東南と書いてあるのに北東に進んで東南だーと言い張ったり インチキの限りを尽くして
・・・ピッタシ・・・<

これも、説明済みの事を知らん振りして、同じ事をヘイトスピーチする・・・・的投稿であり、
一旦、放置しておきましょうね。

172日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:00:56.72
>>171
嘘の説明はだめって話です

173日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:01:15.40
スレ主
いつも根拠は?と単発的にカキコム奴のあだ名をつけてやれ
すると、こいつは反省する

まず、自説の見解を述べるべきだ ドアホンッタン
根拠が分らなければ、教えを乞う姿勢がまるでなって無い
親の顔を見てみたい 躾がなって無い

174日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:03:33.04
>>169
元のソースがたくさんあったというだけだよな。

175日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:04:08.56
>>173
根拠厨はスレ主本人だよ。

176日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:04:22.82
東南に進んだが、何里進んだかは書かない
そのあと500里進んだが、どっちの方角へかは書かない

こんな説明をする人がいたら、確実に頭がおかしいね

177日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:04:56.66
298の>>829
>行程万二千里の内訳に対馬と壱岐の島半周400x2+300x2を足すと言うのは、
さすがに受け容れる人もない特級トンデモだろう<

古田論の優秀性と、大和説者の・・・・性を、世間の皆様に説明して頂いて、有難う。
手間が省ける。

178日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:06:43.06
>>173
まともな人は全員が根拠厨だね

179日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:08:43.18
根拠を聞かれると必ずキレるのがキウス
つまり、いつも言ってることに根拠がない

180日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:09:36.73
>>178
そうかなーー
わめき倒す中国系か朝鮮系だ

181日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:10:20.64
>>178
まともだという根拠は?

182日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:18:01.39
298の>>830
>後漢書のどこに、そんなこと書いてある?<

後漢書は、「倭」伝として、
倭内の倭奴国王に続いて、倭国王帥升や倭国女王卑弥呼の事を書いているから、
倭奴国王も、倭国内の一王であったという事が判り、
同じ事を、隋書や旧唐書や唐会要や新唐書も書いている。

183日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:18:09.27
>>180
ほら、大別大好き東遷厨の地金が出た

184日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:19:30.20
>>181
論理には根拠が不可欠だから

185日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:20:42.94
発掘に携わった考古学者の言葉を借りると、纒向は2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失する大集落。外部勢力の浸入を考えざる得ない。

鍬の出土が少なく鋤ばかりで、民は主に土木作業に従事していたと考えられる。

186日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:21:15.57
このような話をしているの?

一時期(過去)、有名人だった・・・・、
その後、その他大勢(名無し、無名)のような状態になり

再び表舞台(近現代)に現れた

187日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:21:52.01
>>182
それのどこが
「倭王武の倭国は、倭奴國のと同じか後裔である」
という記録なんだ?

188日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:24:32.57
>>185
その人は、そう語った今から十数年前にはまだ不勉強だったのでしょう。

189日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:25:12.56
298の>>835
>後漢書は「倭奴国」のことを「倭国之極南界也」と書いているから当然ながら国としては別だということだ。
のちに倭国に併合された小国の一つという扱いだ。
後漢書を知っているであろう唐会要や旧唐書の筆者たちも、その認識で書いただけ。<

いや、後漢書は「倭」伝として倭奴国を紹介したんだから、
倭奴国は、倭地内の一国であり、後の倭国内の一国だ。
その認識を、隋書も旧唐書も唐会要も新唐書も記載した。

190日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:25:25.53
>>182
テメーは畿内説に抹殺された先祖の
亡霊か
恨みは晴らせねーーぞ

191日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:27:28.90
>>177
その帳尻合わせをしたために「短里」の算出根拠がなくなっちゃったんだよね
古田先生失敗の巻

192日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:28:57.24
>>189 迷惑だ
便所虫は便所に返れ 

193日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:30:33.95
>>189
つまり、国としては別で、のちに倭国に併合された小国の一つなんでしょ?

194日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:31:52.09
政治、スポーツの世界でも良い、
作家でも芸能でも良い

散り散りになり、
一時期、潜伏のような状態になっていた人々が

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

再びメディア上に現れた?

何の話(誰のこと)なのか、わからないけど
「生きてたのか!」
という書き込みをしている人がいたり

195日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:32:57.68
呟キウス

196日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:33:39.93
ドアホが飛び込むスレでない 去れ

197日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:35:15.10
>>196もキウス

198日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:35:37.54
298の>>883
大和説者と人種差別キョクウには、オカシい奴が多い、というのは正しくない。
大和説者と人種差別皇国史観殺戮戦争狂には、オカシくない奴が見当たらない。

199日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:39:09.01
いままで目には
視えなかった人々がいて

その後、メディアが進歩、発展したので、
認識できるようになったみたいな話

200日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:39:21.90
298の>>888
>金印渡すんだから使者は邪馬台国まで行っただろう
要は「里数は使者が測った」というのが思い込みに過ぎないということだ <

「夷人不知里數、但計以日」だ。

201日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:39:23.71
>>198
これはザラコク
芸がないから

202日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:40:06.15
>>200
だから何?

203日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:43:37.50
ザラコクは無ゲイ、岡上はゲイ

204日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:44:31.72
298の>>890
>女王国の東とか侏儒国とかにも里数が書かれてるんだから
里数がある=使者が行った は幻想<

侏儒國への里数が書かれているし、「人長三四尺」という見聞記録もしているから、
魏使らの中の、最低「里数」が計測出来る役人が、侏儒國まで行った。

205日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:47:56.80
>>204
まさか
コビトなんていないよ

206日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:52:08.92
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

207日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:52:27.21
298の>>892
>政治的理由で倭人の住む本島まで一万里にする必要があったから、それを循海岸と渡海を七三に割り振っただけ、という議論は昔からある
他の里数だって信じていいもんかどうか <

記録したのは魏使ら。
魏使や計測記録官が「皇帝への提出記録にそんな捏造をした」、という事が(仲間の密告などで)バレたら、
そりゃ首が飛ぶから、
魏使らは、そんなアホな事をしない。

208日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:56:08.08
「魏使がもたらした『万二千余里』情報の内訳から如淳が『万里』を算出した」可能性を排除したが、今般は「魏使が女王の都まで誤って1万里と報告し、のちに『万二千余里』に上方修正された」可能性も偶然の条件に依拠しすぎるものとして排除できるであろう。

209日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:58:13.67
>>204
小人がいたなんてデタラメ書く人だから
方位も距離もデタラメなんだね?

w

210日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:58:54.87
298の>>902
>ザラコクの大好きな有効数字という言葉を考えてみれば、里数のデータは明らかに精度の違う2つのグループがあるだろ?
千里単位の数字と百里単位の数字。 これは出所を別に考えるべきだ。<

一寸千里と簡易三角測量と記里車と歩測などの、
計測方法が違っただけだ。

211日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:59:38.79
>>206,208

矛盾してないか?

212日本@名無史さん2017/11/16(木) 19:59:58.74
>>207
首が飛んだ実例がある?

213日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:01:31.63
それと、
あのパトラの画像があったでしょ?

誰かがファンか何かなのかな?
デッド・オア・アライブ?

こーえー、てくも?

214日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:02:23.36
スレ主は差分の2000キロを実測と考えるのか、虚辞と考えるのか、ハッキリさせてくれ。

215日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:03:29.85
>>207
コビト書いた奴はどうかなった?

216日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:05:25.83
差分の2000キロを虚辞と考えるなら、206は、無内容。
実測と考えるなら、魏志に投馬と邪馬台国に距離表記が無いことと矛盾。

217日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:06:59.81
>>214
書いてあるな

218日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:10:31.67
298の>>909
>距離を無視しても不彌國までの比定地はひっくり返らない おk?<

距離を無視したら、無限に「比定地の造作」が可能だから、×。

219日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:11:51.76
>>218
すでに九州説は無限に比定地を生産中だな

220日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:12:22.49
どこに?

221日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:13:11.85
298の>>910
>郡使が常に駐した伊都国の周りは里数を信頼していい 違う?<

侏儒國までの里数は、全て有効数字1桁程度での信頼性がある。

222日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:13:33.87
阿修羅像?

223日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:14:15.09
>>218
畿内説は旅程を比定に使わないから、関係なし

224日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:15:58.98
>>221
コビトの身長は?

225日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:17:14.95
>>220
九州各地

226日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:19:49.95
>>216
なんで無内容なの?

227日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:19:51.11
298の>>913
>それとて、県程度の国が境界を接していたという情報から作れる数字ではあるが <

Yahooでの議論での、三国志での地域間距離記載は、
ほぼ全部「居住外縁部や入り口間の距離だ」とすると、非常によく合っていた。

228日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:24:36.45
>>227
そんな結果が出たという証拠は?

229日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:27:57.42
298の>>933
>>陳寿は、「会稽東治」と書けば読者にはすぐわかる地域だ、
というつもりで書いたんだよ。<

>治所なんだからあちこちの文献にあるはず <

一カ所は、どなたかが紹介してくれた。
しかし、普通は、治所は複数以上あるもの。

230日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:29:49.86
>>226
虚辞と考えるなら現実の距離を当てはめるのはナンセンス

231日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:30:14.71
>>227
比定地もさだかでない国の「居住外縁部や入り口間」の場所が、どうして判るんだが?

232日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:31:14.96
>>230
だれか当てはめた?

233日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:32:45.68
>>232
テンプレFAQで瀬戸内海航路で当てはめてるな、うん

234日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:32:46.45
298の>>934
>天候の悪いときに航行するわけなかろ <

遠くの天候は判らないから、船乗りらは、
遠くの雲などの動きや様子を見て、天候の急変を知ろうとする。

235日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:36:16.85
このあたり話なのかな

>数度の火災により百済寺・百済王神社は次第に衰退した。
>後に奈良の興福寺の支配下に入り、再興が図られた。
>現在の本殿は、興福寺と関係が深い春日大社の本殿を移築したものである。

236日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:48:03.49
スレ主のテンプレはdouble standardのご都合主義だから話にならん。

237日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:54:42.45
>>236
だという理由は?

238日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:55:33.10
>>233
当てはめてるって証拠は?

239日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:56:32.00
>>229
証拠は?

240日本@名無史さん2017/11/16(木) 20:57:40.56
証拠なしに言い張っても意味ないぞ

241日本@名無史さん2017/11/16(木) 21:00:43.99
>>234
そういうノウハウがあるんだから危険度はそんなに高くないね

242日本@名無史さん2017/11/16(木) 21:01:47.67
298の>>937
>魏使のルートと倭側の朝貢ルートに何の関係もないだろ <

これも、もう返答済みの、同じ文の貼り付けだから、
返事するのは時間の無駄であり、
放置だな。

243日本@名無史さん2017/11/16(木) 21:04:20.39
>>229
同じ時点で郡治が複数あったら
郡太守はどこにいるんだ?
分身の術つかうか?

244日本@名無史さん2017/11/16(木) 21:06:20.55
298の>>952
>>その南水行二十日の投馬國の <

>どこから南水行二十日の投馬國?<

不彌國。

245日本@名無史さん2017/11/16(木) 21:12:09.48
>>244
なんで同じ南水行が、投馬国だとふ不弥国からで、邪馬台国だと帯方郡からなの?

246日本@名無史さん2017/11/16(木) 21:13:31.20
>>240
そう思う根拠は?

247日本@名無史さん2017/11/16(木) 21:16:24.74
298の>>958
>種子島という説もあるけどね<

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
に合わない。

>種子島からはコビトの骨が出てるし <

情報提供、有難う。

248日本@名無史さん2017/11/16(木) 21:16:38.45
>>246
証拠がない結論は証明できないから

249日本@名無史さん2017/11/16(木) 21:19:14.16
>>210
>一寸千里と簡易三角測量と記里車と歩測などの、
計測方法が違っただけだ。

一寸千里が使用されてないことは証明されてるけどね

250日本@名無史さん2017/11/16(木) 21:29:20.63
298の>>965
>陳寿が「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」と紹介を書いてると
どうして会稽が呉の近くなの? どこにも呉と書いてないが。<

魏略が、
「聞其舊語、自謂太伯之後」の呉情報と、
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の情報を併記しているから。

251日本@名無史さん2017/11/16(木) 21:35:10.22
298の>>978
>伊作が一番嫌ってたのは古田説 <

いや、伊作氏は、Yahooで、多少親しくして頂いた。
彼が一番嫌ったのは、大和説者であり、天誅。

252日本@名無史さん2017/11/16(木) 21:36:04.30
>>242
魏使のルートと倭側の朝貢ルートに何の関係もないだろ

253日本@名無史さん2017/11/16(木) 21:42:48.00
>>250
近いって書いてないじゃないか

254日本@名無史さん2017/11/16(木) 21:43:54.41
伊作が嫌ってたのは筑紫説だぞ

255日本@名無史さん2017/11/16(木) 21:49:39.12
>>252
同じに決まっているだろ。
当たり前過ぎて、呆れるな。
帯方郡から伊都までの道案内をしたのも倭船に乗った倭人だろう。

256日本@名無史さん2017/11/16(木) 21:57:52.86
>>255
船の排水量や航続距離が違うんじゃないの?

257日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:01:57.16
>>250
戦争できるくらいには近いね

258日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:08:07.11
>>257
193kmだな
まあ近いか

259日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:14:32.67
>>255
魏使のルートと倭側の朝貢ルートに何の関係もないだろ

260日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:21:15.63
>>259
以前から倭が朝貢していたルートを逆に辿って魏の使いがやって来た。
道を知っているのは倭人だけ。
対馬海峡を渡る技術があるのも倭人だけ。
魏の使いが単独で倭まで来ることはできない。

261日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:21:52.44
会稽郡治から東北に進むと海にドボン

262日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:23:27.17
>>260
楽浪商人が前から糸島まで来てます。

263日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:23:46.24
>>261
九州にたどり着くかもしれないが、奈良にはたどり着かないよ。

264日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:25:27.93
倭人が案内すればいい

265日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:27:56.46
>>255
いきはよいよいかえりはこわい
いよさんのころにはいずもちょっこーびんがありました(へきがもあります

266日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:29:13.76
>>263
ならってもののべのほんきょちちごてはかばやな^^

267日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:33:02.65
えーとおおきなおはかがたくさんありますがわきのあなのさいかそーからおこげが7つやったか?(でてきたおはかは西暦285ねんくらいのものでした(
もっとあたらしいかも(
ぼそ

268日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:34:35.65
ということで、>>260は論破されました

269日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:37:19.67
お!
どっちがろんぱされたん >>1 か?ダックか?

270日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:42:10.09
まーどーでもええか
ここはにせすれ(つまらんもんなー
かもせんせーのとこが一番なかみあるなー

271日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:42:43.47
>>262
楽浪商人が来ていたという証拠は?

弥生時代に商人が大航海できるのかい?

272日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:44:13.07
>>271
土器

273日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:44:32.68
267のつづきはなしまひょか?

274日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:45:23.44
あれま
かれーにするーされとる(いけずやわー

275日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:47:02.00
>>272
土器があったら来てたことになんのー?

276日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:48:01.84
対馬海峡を支配している神々が楽浪で買い付けただけじゃないのー

277日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:50:31.53
>>276
生活痕なので一時居住と判定された

278日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:52:33.75
>>277
自分でやって来た証拠はー?
倭人の船でやって来たんでしょー

279日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:56:48.46
>>78
>倭人は帯方東南「万里」にあるのである。
(2) 如淳がこの情報を得たのは魏使派遣より先か後か
イ. 如淳は魏の陳郡丞である。
ロ. 後漢末の公孫度の実態的自立から卑弥呼の朝貢までの半世紀のあいだ倭は華夏からの絶域と認識されている。<

「絶域」と認識されていた、という程もない。
「自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫」であり、
「王遣使詣京都帶方郡諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」であるから、
遣使や郡使の往来や傳送文書賜遺之物があったのであり、
直接的、及び郡を介しての間接的な、情報交換があり、
京都にも情報伝達があった、という事になる。


>ハ. 帯方は公孫康の設置である。
よって、卑弥呼遣使以前の段階で、楽浪・帯方二郡以外の、つまり本土の魏に住む中国人が倭人の世界を帯方基点で表現することは考えにくい。<

いや、中国の地域間距離表現は、原則として「居住外縁部間距離」であり、
帯方起点は十分あり得、帯方がなかった時期には楽浪起点である事も十分あり得る。

>基点が楽浪でなく帯方であることから、如淳は魏使到達以降にこの注を書いたと考えられる。<

だから、帯方郡設置以後、と言うべきである。

280日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:57:15.44
>>278
壱岐原の辻まで恒常的に来て貿易していたというのが定説なので、自力で来てなんの不思議もない

281日本@名無史さん2017/11/16(木) 22:58:21.22
>原の辻まで恒常的に来て貿易していた
根拠がない

282日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:00:06.30
>>279
>いや、中国の地域間距離表現は、原則として「居住外縁部間距離」であり、

根拠なし

283日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:01:05.56
>>281
魏志倭人伝も読んだことないのか?
それに倭人は縄文の頃から日本列島近海を船で渡り歩いていたことが、土器や石器の流通から考古学的にも証明されている。

284日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:01:45.47
>>281
定説なんだが

285日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:02:19.51
>>272
倭人が楽浪まで買い付けに行っていたんだよ。

286日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:03:11.13
>>276
海の神、天津神、天神。
その王がアマテラス。
対馬海峡交易の当事者。

287日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:03:15.08
>>283
>それに倭人は縄文の頃から日本列島近海を船で渡り歩いていたことが、土器や石器の流通から考古学的にも証明されている。

そうだね。
原の辻もほとんどが糸島土器。

で、楽浪土器を持ってきたのが、倭人ではなくて、
その楽浪商人とやらが、「自分の船」で原の辻にやって来たという根拠は?

288日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:05:07.03
>>284
お前の言う定説はことごとく考古学的事実と食い違うな。

289日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:05:37.41
倭人が倭人の船で恒常的に行き来していたんでしょうなあ。
時には楽浪商人を乗せてあげることもあったでしょう。

290日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:08:31.19
>>284
定説をテンプレに入れ込んで籠城するか?w
どこかの根拠厨スレ主みたいにw

291日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:13:25.70
>>281
生活用から葬送用まで土器が出ていて、貿易のためにやって来た韓人や楽浪人の滞在した痕と判断されている

292日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:14:10.75
>>290
イミフ

293日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:14:50.93
>>291
へー

倭人の船でやって来て
生涯を原の辻で終えたわけだ

で、自前の船で行き来していた根拠は?

294日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:15:07.24
>>288
考古学者が唱えてる説だよ

295日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:17:06.65
>>293
巨済島で難破した跡が発見されている

296日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:17:14.29
>>294
だから自分の船で来た根拠は?

原の辻の土器がほとんど北部九州製なら、
原の辻は北部九州倭人と同じ勢力圏だったんだろう
対馬海峡は倭人の支配下にあったってことだ

297日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:18:14.11
>>295
どこの船が?

298日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:23:02.21
>>297
楽浪の船が

魏志韓伝には楽浪が軍船で辰韓を攻めた記録もある

299日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:24:24.26
あらゆる局面で通説を否定しないと一歩も進めない九州説の四面楚歌w
w
w

300日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:24:39.91
>>298
可哀想に
対馬海峡を渡れずに難破したんだね

301日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:26:25.88
>>300

魏志韓伝には楽浪が軍船で辰韓を攻めた記録もある

魏志韓伝には楽浪が軍船で辰韓を攻めた記録もある

魏志韓伝には楽浪が軍船で辰韓を攻めた記録もある

302日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:26:43.61
>>260
魏使は海行だから

303日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:28:58.82
>>301
航海難易度

半島沿岸航海で辰韓を攻める


(対馬海峡の壁)


対馬海峡を渡って原の辻や糸島に自力でたどりつく

304日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:30:38.91
>>301
航海難易度

沿岸航海で辰韓を攻める


(対馬海峡の壁)


原の辻や糸島へ自力航海

305日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:32:12.88
>>79
>(3) 如淳が得たのはどんな情報だったか
それはどんな情報だったか
イ. まず(1)より、如淳はタイミング的に魏使の持ち帰った情報を知りうるので、
そこから「帯方東南万里」という情報を入手していると考えてみる。<

前レスに書いたように、(魏使以後ではなく)帯方設置以後だ、といういう事になる。

>ロ. ところが、如淳の数字は「万里」であって「万余里」ではない。
如淳が魏略と同程度等の情報を入手して
7千余里+千余里+千余里+千余里と求めた結果ならば「万余里」が相応である。<

いや、魏略にも「萬二千余里」という合計里数が書かれていた筈だよ。
という事は、如淳の「萬里」は、魏志や魏略の「魏使らの記録」とは別の情報であった可能性もある。

ハ. また、前漢書の「楽浪海中にいる倭人」の注に書く以上、注というものの性格から言って、
通常は前漢書の記述対象である前漢もしくは新の頃の状況か、
さもなければ「今」と断って最新の情報を記すものと思われる。
ニ. よって、最新の情報を知っていながら後漢の光武帝に朝見した倭奴国の情報を
魏代の最新情報から積算して、換言すれば最新情報から後漢時点の情報を遡及的に推定して、
前漢もしくは新の頃に朝見したという倭人についての注釈として記すというのはアナクロニズムにほかならない<

如淳が、別の帯方郡使らの記録を知っていた、という事でも説明が付いてしまう。

306日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:34:21.40
そりゃ必死になるよなw

楽浪商人ですら倭人の船で来日したのなら
畿内から北部九州に来た土器とその持ち主たちは誰が運んだのって話になるからw

307日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:35:00.43
>>304
虚しい抵抗

308日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:35:31.39
>>303
同意する。
渡海は魏志倭人伝でわざわざコメントするくらいの大それた行為でしかも倭人条で記載されていると言うことは、壱岐対馬にいたのは倭人だよ。
対馬海峡交易を倭人が独占して、九州北部の筑紫倭国が成立した。

309日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:36:06.06
>>307
だよなw

鉄器ゼロ
vs
鉄器大量消費社会&硯出まくりw

310日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:37:19.11
>>305
大前提が成り立ってなくね?

311日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:38:54.36
>>308
学問の世界で九州説が孤児になった理由がよくわかる

312日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:40:59.27
倭人は対馬海峡を本拠地として、楽浪帯方まで交易に出かけていただろうね。
海賊などもいるだろう時代に、純粋な商人なんているわけない。
護送船団方式で、国を挙げて交易したんだよ。
もちろんその国は筑紫倭国であり、王の名は天津神(海の神)だろう。
玄界灘沿岸が稲作伝来の地で大陸文化輸入の窓口で文化的先進地域で漢から冊封された倭王がいた伊都(倭の都)だよ。

313日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:41:30.56
>>311
考古学を無視するキナイセツに未来はない。

314日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:42:05.32
>>308
>渡海は魏志倭人伝でわざわざコメントするくらいの大それた行為で
>しかも倭人条で記載されていると言うことは、
>壱岐対馬にいたのは倭人だよ。

壱岐対馬からは北部九州土器が圧倒的に多く出土する。
考古学的に確定。

対馬海峡は世界的にも航海の難所であることは常識。
>>311が非常識なだけ。

>対馬海峡交易を倭人が独占して、九州北部の筑紫倭国が成立した。

考古学遺物からして北部九州倭人が独占していたことは明らか。
そして圧倒的王墓は筑紫倭国にだけ存在する。

315日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:44:08.16
>>313
なら、なんで考古学者が畿内説ばっかりなの?

316日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:45:54.00
>>314
ならば、そんなこと言ってる考古学者が一人もいないのは、なぜ?

317日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:47:00.68
>>311
ごたくはいいから
考古学で話せよw

例:

原の辻遺跡に日本最古の船着き場出土、大量の骨卜遺物出土

だから、大それた渡海を経験して原の辻にたどりついた魏使は
興奮気味に壱岐の骨卜風習を詳細に記載して、
陳寿もそれを採用した

318日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:48:07.47
岡上

邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張したり、
ありもしない大規模調査をでっち上げたり、学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張したりする、
ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である

コテ+トリと、別コテ、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくるがバレバレ
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる

「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読んだり、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読したり、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張したり、
お笑いエピソードには事欠かない

未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である

319日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:48:24.81
>>315
>>316
邪馬台国畿内説の考古学者(レッドチーム

の名前を挙げてみてw

320日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:49:41.58
>>317
また九州説が採用する「倭人伝は間違いだ」説

321日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:50:59.59
>>320
邪馬台国畿内説の考古学者(レッドチーム

の名前を挙げてみてw

322日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:52:17.33
>>320
倭人伝は倭国内の出来事を忠実に記録したと書いてあるように思えるのに、日本語が読めないの?

323日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:53:01.00
もはやキナイセツにに一部の理もなし

324日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:53:11.10
畿内説にできることはすっとぼけて結論から逃げ回るだけw

325日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:56:01.14
テンプレから逃げてニセスレ立てたヘタレもいるがな

326日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:56:49.62
>>321
白石太一郎
森岡秀人
寺澤 薫
岸本直文
松木武彦
岡村秀典
北條芳隆
米田敏幸
西本昌弘
仁藤 敦史
東潮
赤塚次郎
河上邦彦
塚口義信
  :
  :

327日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:57:07.87
畿内説の一部が、あまりにもひどくて新天地を求めたんだな

328日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:57:31.18
>>322
どの日本語のこと?

329日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:57:50.63
個人情報保護法案

330日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:58:30.09
>>327
なら、どうして偽スレには畿内説の人がいないの?

331日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:58:31.68
福岡県筑前町薬師ノ上遺跡:完全な形の硯、墨付着

332日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:58:35.14
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
邪馬台国畿内説 Part299 	->画像>2枚
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。

333日本@名無史さん2017/11/16(木) 23:59:02.59
>>330
キナイセツそのものが絶滅危惧種だからだよ。

334日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:00:04.32
>>333
あちゃー
ほんとのこと言っちゃダメ!

335日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:00:44.54
>>333
岡上、現実から目を背けるなよ

336日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:01:35.67
>>333
ほとんど支配的通説なんですけど

337日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:01:37.02
>>335
>現実から目を背けるなよ

お前ガナー

338日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:02:22.58
>>336
通説ってなにが?

339日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:02:54.45
>>332
分布地図の時代がメチャクチャで笑う

340日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:03:16.54
>>338
畿内説が

341日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:03:30.87
やっぱりガイキチさんには現実が見えていないなー

342日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:03:55.87
>>337
ザラコクにも劣る鸚鵡返しに失笑

343日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:04:01.13
岡上に見えているのはお花畑www

344日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:05:18.72
で、鉄器ゼロの倉庫から何を導く?

345日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:05:25.92
>>336
痛説w

346日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:05:57.41
>>343
できればそのまま帰ってこないで欲しいところ

347日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:06:07.03
ねぇねぇ、九州説の考古学者の名前

言える?

348日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:07:25.50
>>339
卑弥呼がいた3世紀だけでなく、4世紀だろうが5世紀だろうが、九州北部は畿内より栄えていたと言うことだろ。

349日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:07:40.47
>>347
天動説と地動説

って知ってる?

350日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:07:57.34
ねぇねぇ、畿内説の考古学者の名前

言える?

351日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:08:24.10
そろそろ岡上がコピペ投下で撹乱に出ると予想
他スレでかも知れんけど

352日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:09:03.65
インチキ歴史学者ならまだしも、考古学を自負していて畿内とか言いだしたら、情けないだけだよな。

353日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:09:15.99
>>351
あらら、
不利になったからコピペ投下前になすりつけですかw

354日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:10:08.05
>>352
鉄器ゼロ vs 鉄器使い捨て&硯続々と出土

355日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:10:08.70
>>352
ねぇねぇ、畿内説の考古学者の名前

言える?

356日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:10:37.02
レッドチームw

357日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:10:41.69
>>354
ゼロって証拠は?

358日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:11:34.72
>>349
天動説は現実を見ずに観念論に終始
地動説は現実から導かれ検証可能

どうみても九州説が前者だな

359日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:11:34.74
>>357
西の集落からは大量に出土しているのに

集落からゼロじゃないって証拠は?

360日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:11:49.59
だんだん岡上の投稿が捨て鉢になって来ましたw
w
w

361日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:12:28.65
>>358
鉄器ゼロ vs 鉄器使い捨て&硯続々と出土

天動説は現実を見ずに観念論に終始
地動説は現実から導かれ検証可能

どうみても九州説が後者だな

362日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:13:21.91
>>359
再生可能資源が集落に落ちてるって
管理不在の劣等社会じゃね?

363日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:13:33.03
>>360
感謝しろよ
ゴミクズ相手に酒の肴として相手してくださってるんだからなw

364日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:13:55.12
>>352
考古学者が全く賛同してない説を「考古学的に確定」とか捏造するキチよりはまし

365日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:14:07.28
>>361
ザラコクなみのオウム返しに藁

366日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:14:10.43
>>362
お前は期限切れのコンビニ弁当を食べて回るのか?

367日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:14:50.47
>>364
西の集落からは大量に出土しているのに

集落からゼロじゃないって証拠は?

368日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:15:25.94
>>363
ゴミクズ岡上を相手してるんだから感謝されるのはこっちだな

369日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:15:37.15
>>362
いくらでも原材料が輸入できるから、面倒でコストのかかるリサイクルなんてしないよ。
うちの近所も、金属はリサイクルしてないぞ。

370日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:15:40.22
>>363
ねぇねぇ、九州説の考古学者の名前

言える?
言えないの?

371subo2017/11/17(金) 00:15:50.44
>>326
トンデモ考古学者一覧表かい

畿内説とか名指しされたら普通は名誉毀損だよな

372日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:15:58.48
>>368
よう、ゴミクズ!w

鉄器ゼロ vs 鉄器使い捨て&硯続々と出土

373日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:16:35.37
>>367
纒向で出土してるから

374日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:16:46.39
>>364
典型的な負け犬の遠吠えになっているけど、自覚ある?
反論になってないよ。

375日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:17:08.70
>>370
ねぇねぇ、畿内説の考古学者の名前(レッドチーム

言える?
言えないの?

376日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:17:27.06
今ごろ纒向とかプププ

377日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:17:29.95
>>371
ねぇねぇ、九州説の考古学者の名前

言える?
言えないんでしょ?

378日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:17:43.50
>>374
よう、ゴミクズ!w

鉄器ゼロ vs 鉄器使い捨て&硯続々と出土

379日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:18:00.34
やべえw
重複スレを進めちまったw

380日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:18:01.68
>>377
ねぇねぇ、畿内説の考古学者の名前(レッドチーム

言える?
言えないの?

381日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:18:26.24
資源の管理が行き届いていない
=共同体内での統率がとれていない
=首長権が発達していない

382日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:19:52.29
集落に鉄器ゼロ
=鉄器が入手できていない
=3世紀東アジアの文化から取り残されている

鉄器ゼロ vs 鉄器使い捨て&硯続々と出土

383日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:20:08.46
>>374
事実の指摘だけど?

384日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:20:11.37
>>380
白石太一郎
森岡秀人
寺澤 薫
岸本直文
松木武彦
岡村秀典
北條芳隆
米田敏幸
西本昌弘
仁藤 敦史
東潮
赤塚次郎
河上邦彦
塚口義信
車崎正彦
  :
  :

385日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:20:31.51
豊かな国はそんなことにこだわらないんだよ。
21世紀の今日でも十分できていないことが、3世紀にできたわけないだろ。
ああ、奈良にはリサイクルするほどの金属がなかったからわからないか。

386日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:20:38.73
>>379
このおっちょこちょいめ!

チョメ!w

387日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:20:52.68
>>383
何が事実?

388日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:21:26.03
>>384
クズのリスト?

389日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:21:34.38
鉄器ゼロ vs 鉄器使い捨て&硯続々と出土

390日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:21:37.12
九州説の考古学者 ゼロ?

391日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:23:38.32
>>390
ねぇねぇ、畿内説の考古学者の名前(レッドチーム

言える?
言えないの?

392日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:23:54.99
鉄器ゼロ vs 鉄器使い捨て&硯続々と出土

393日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:24:07.36
>>387
考古学者が全く賛同してない説を「考古学的に確定した」と捏造したキチが存在すること

394日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:24:10.34
>>390
ゼロではない

岡上が一人も知らないだけ
何も知らないで「考古学的に確定」とか
トチくるってるだけ

395日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:25:06.62
>>391
白石太一郎
森岡秀人
寺澤 薫
岸本直文
松木武彦
岡村秀典
北條芳隆
米田敏幸
西本昌弘
仁藤 敦史
東潮
赤塚次郎
河上邦彦
塚口義信
車崎正彦
  :
  :

396日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:32:48.38
圧倒的に主流

397日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:35:52.02
岡上は願望と現実の区別がつかないくらい進行しているんだろうな

398日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:36:21.20
1日に二回論破される岡上

399日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:37:23.73
ありもしない大規模調査の捏造話を何度も貼り付けるくらいだしな

400日本@名無史さん2017/11/17(金) 00:47:32.74
さっきの会話だけでも、平気でウソをつく人なのがわかります

401日本@名無史さん2017/11/17(金) 05:51:19.75
ネー 一行投稿やめない あっ俺もだ

402日本@名無史さん2017/11/17(金) 06:05:58.53









403日本@名無史さん2017/11/17(金) 06:43:55.88
>>79
>ホ. これを不合理でないと感じるとすれば、それは前漢と交渉をもっていたのが北部九州のクニである、
という今日の考古学的知見を踏まえた我々の感性であって、
如淳がそのような推理を行なって「万里」を算出したと想像するのは現実的ではない。<

如淳は、別に「推理や算出」をする必要がない。
楽浪郡使や帯方郡使は伊都国までは行っているのであるから、
その記録に「萬里」があった、としてもよい。

>ヘ. つまり、如淳が、魏に朝貢した女王の居る国(=彼にとっての現代倭国の中心)まで「万2千余里」という最新情報を見知っている以上、
前漢もしくは新に歳時朝見してきた「楽浪海中にいる倭人」は「今、帯方を去ること万2千余里にあり」と注釈すると思われる。<

楽浪郡使の倭奴國や伊都国への訪問記録があった可能性はあるから、思わなくてもよい。

>ト. さもなければ、イ.が正しくなく「万里」は前漢もしくは新代からの情報と如淳が考えるものであって、
なおかつ楽浪−帯方という基点の相違に拘泥する必要を感じさせないようなラフな情報だということである。<

そもそも、漢委奴国王印は、誰が筑紫に齎した事になるんだい?。
普通は、委奴國王に直接渡さなければならないものだから、当然楽浪使節が関与している筈。

>チ. 加えて、如淳は外交情報を入手しやすい中央官人でない。<

楽浪の記録は当然都にも送られ保管される。

>以上を勘案すると、(1案)景初・正始の国交樹立時点では「帯方東南万里の倭国」という類の情報が公開された;
(2案)古くから倭人の世界は海を越えて漠然と「万里の彼方」とされていた;と考えられるのである。<

いや、楽浪郡使が委奴國や伊都國まで来て記録した、という可能性は十分ある。

404日本@名無史さん2017/11/17(金) 07:02:28.47
>>81
>ここで(テーゼ)「万二千余里という情報は魏使がもたらした」と
上記(1案:景初・正始の国交樹立時点では「帯方東南万里の倭国」という類の情報が公開された)は
明かに矛盾する。<

必ずしも矛盾しない。魏使以前の楽浪帯方使節の計測であった、という可能性も十分ある。

>また(2案:古くから倭人の世界は海を越えて漠然と「万里の彼方」とされていた)の場合も、
大海を渡り終えるまで万里という先行情報があった事になり、
「魏使がもたらした情報の正味部分は万二千余里と万里の差分」ということになる。<

先行情報は、倭奴國や伊都國までの里数であり、
魏使らの記録は、女王之所都までの記録であった、として十分。

>いづれを採用しても、万二千余里という情報は魏使がもたらしたものではなかった
という帰結に落着してしまうのである。<

これが、おそらくスレ主の、
大和へ持って行くために、世間の人々をだまそうとする「伏線」にするつもりなんだろうねえ。

405日本@名無史さん2017/11/17(金) 07:05:52.80
>>402
畿内説は聞く耳持たないからだ いくら書きこんでも反論もせず 
バカ 朝鮮 テンプレ読めとか言って逃げるだけじゃん 

406日本@名無史さん2017/11/17(金) 07:19:52.34
>>82
>2. 光武時朝貢の実態は? (1) 光武時朝貢は何月何日?
范曄後漢書に先行する袁宏の後漢紀光武帝紀は、より詳しく次のように記す。
「(中元)二年春正月辛未,初起北郊,祀后土。丁丑,倭奴國王遣使奉獻」
倭奴國王の遣使は57年1月14日である。
(2) 光武はいつ死んだか 同じく「二月戊戌,帝崩南宮前殿」
57年2月5日に光武帝は崩御している。倭奴國朝見のじつに21日後のことである。
後漢王朝始祖への表敬としては、じつに際どいタイミングであった。<

以前から言われて来た情報だ。

>(3) 朝貢の記録はなくとも交流は古い
日本列島ことに北部九州のクニグニが前漢代から中国本土と交渉をもっていたことは、
銅鏡のみならず四葉座金具や玉璧など賜物と考えられる遺物の出土で確実視されている。<

「四葉座金具や玉璧」の年代決定の根拠は知らんが、
銅鏡に関しては、形式が前漢鏡であったとしても、伝世された可能性が幾らでもあるから、後漢代に齎された可能性は否定出来ない。
だから古田さんは、「前漢式鏡」という表現をしておられた。

>しかし、倭人ありというのが伝聞情報のみでなく、具体的交渉があった結果だと考えられる史書の記事があり、
これを次項に掲げる。<

長くなるから、一旦切る。

407日本@名無史さん2017/11/17(金) 07:38:10.93
>>406
古田氏に頼りすぎだ。
自分の頭で咀嚼するべき。

408日本@名無史さん2017/11/17(金) 07:39:33.71
>>82
>(4) 王莽に朝貢したのは誰?
漢書がしるす王莽の太后への奏に
「越裳氏重譯獻白雉、黄支自三萬里貢生犀、東夷王度大海奉國珍」という言葉があることはつとに指摘されている。
越裳氏の白雉献上は元始元年に向けて王莽自身の演出で行なわれたもので、<

「演出」なんて、直ぐにバレて恥をかき、時には失脚に繋がるだけであり、何らかの実態がなくては出来るものでもないし、
余程の事情がない限り、王莽自らはしないもの。

>黄支の犀牛献上も同二年の史実である。
 東夷の王の朝貢は記録に具体的には見えないが、
「莽既致太平、北化匈奴、東致海外、南懷黄支…」という漢書の表現からは
この一連の王化事績がすべて王莽自身の演出であることを物語っている。<

王莽はまだ臣下であったのであり、その事績は漢帝の事績になる。
 
>東夷の王とは何物であるか?当時の漢の版図は当然楽浪に及んでいる。
「海外」から「度大海」してやって来る東夷の王の候補者は倭人しかいないと考えてよいだろう。
この一連の四夷朝貢が紀元元年以降の数年間の間に行なわれた事にも注目してみよう。
光武時朝貢の丁度ほぼ半世紀前のことなのである。<

当然倭人は、楽浪郡使情報を通して、前漢最末期の遣使をしたらしい、という事になる。

409日本@名無史さん2017/11/17(金) 08:02:07.87
九州説は末盧国から伊都国へ
   東南
の方向と書かれてることについて古田の説明以外には何もないのかな?

全員あれなの?
それとも黙って、見なかったことにしてるの?

410日本@名無史さん2017/11/17(金) 08:11:02.24
>>403
>楽浪郡使の倭奴國や伊都国への訪問記録があった可能性はあるから、思わなくてもよい。

それがなぜ「帯方から」って書くの?

411日本@名無史さん2017/11/17(金) 08:24:26.56
古田説のおかしいところは
倭人伝に書いてある距離が
主婦とか城とかいった、ある国の中心から次の国の中心までの距離
ではないとしてる点だろうね
これは矛盾だ

412日本@名無史さん2017/11/17(金) 08:25:10.49
主婦じゃなかっら。首府な

413日本@名無史さん2017/11/17(金) 08:37:57.07
九州説は、末盧→伊都の方位については
黙殺するしかないんだろう
大前提が崩れるから

414日本@名無史さん2017/11/17(金) 08:40:08.96
むしろ末盧がどこかという問題。
それに伊都までの行程は畿内説だって同じだろう?

415日本@名無史さん2017/11/17(金) 08:41:21.08
>>410
倭奴国が金印をもらった頃は楽浪郡しかなかったが、公孫氏の時代に帯方郡を分離設置したからではなかったかな。

416日本@名無史さん2017/11/17(金) 08:42:38.10
>>411
古代中国の城郭都市を考えれば、点と線で国を捉えるのが当然なんだよ。
少なくとも中国人の頭の中ではそうだったはず。
三国志の世界なんだから。

417日本@名無史さん2017/11/17(金) 08:46:05.12
>>414
では、末盧はどこ?

418日本@名無史さん2017/11/17(金) 08:48:15.81
>>416
それが対馬と壱岐だけ
島の端に着くまでの距離だ
とするのは
矛盾だろう
 

419日本@名無史さん2017/11/17(金) 08:50:30.33
>>83
>(5) なぜ光武帝が生きているうちに朝見できたか<

「生きているうち」なんて関係がない。
倭地から洛陽までの、片道だけでも数か月もかかる。
準備や往復を入れれば半年以上はかかる。
 
>四夷から朝見者が参じることは中国皇帝の栄光そのものである。王莽も太后のために自身でそれを演出し実現した。<

四夷がある程度纏まるだけでも、大変。
 
>倭奴国がこのようなきわどいタイミングに朝見を果たし<

大体50年位間隔であり、定例化していた。

>やや過分とも言える金印紫綬の誉れに耀いたことの蔭には、
中国側の政策的な誘導があったと推定しても当らぬことではないだろう。
すなはち、王莽の政治ショーから丁度半世紀を経たいま、そして光武帝が生きているうちに、
王莽以上の栄誉を演出したい皇帝側近の配慮である。<

光武帝の漢復活を見極めて、挨拶に行っただけ。

420日本@名無史さん2017/11/17(金) 08:51:14.13
>>415
ならば、帯方郡ができる前の情報であったら、起点は楽浪と書いてなきゃ、おかしい

421日本@名無史さん2017/11/17(金) 08:54:47.35
>>419
大体50年位間隔であり、定例化していた。
   ↑
 矛盾してない?
   ↓
光武帝の漢復活を見極めて、挨拶に行っただけ。

422日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:00:42.39
>>414
同じだが、畿内説は方位記載の誤りを認めてるからね

423日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:02:19.06
>>83
>3. 安帝時朝貢の真相
(1) なぜ朝貢したのか
安帝の治世は衰凋と退廃の中である。
遠い東夷王の朝見が、
お飾りの幼帝をさらに飾り立てるため−実際は太后と外戚の栄誉のため−
に仕立てられたセレモニーであることは言うまでもない。<

それほど「うがった解釈」をする必要がない。
倭人は周代から朝貢を繰り返していただから、その一つであったに過ぎない。

>(2) なぜ50年後なのか
そして、この西暦107年に行われた行事が、光武時朝貢の丁度50周年であることに注目したい。
光武時の再現を演出したのである。
この時期に朝見を行なう理由は倭國の側には特にない。<

ある。定期的朝貢。

>安帝時朝貢は中国側の誘致である。
しかしこの時だけではなかったのである。王莽も光武も同様であった。<

何れにしても、時間と手間がかかり過ぎる事であり、
定期的朝貢であった、という事で十分。

424日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:05:48.31
>>423
>倭人は周代から朝貢を繰り返していただから

なら、なぜ記録に無いのだろう

425日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:14:15.32
古田は「東南陸行」のスペースを作るために、わざわざなんの遺跡もない西唐津に末盧国を持って行った。
そして珍妙な道標論を作って方位の違いを誤魔化した。

でも考えようによれば、知らぬ顔をしている他の九州説論者よりマシだったもかも。

426日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:18:54.28
>>418
その通りで、私は九州説ですが、島の大きさを含めるのには反対です。
港と港の距離で十分です。
それぞれの行程には余がしばしば記載されており、端数を切り捨てていることを陳寿も意識していたようです。
それらを考慮すれば、一万二千里のところにある女王の都が伊都で矛盾しません。

427日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:19:25.32
>>420
後漢書はちゃんと楽浪から一万二千里。

428日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:20:22.73
>>424
定期だから。
もっと前から、倭人は年月を間違えずちゃんと朝貢すると書かれていたはず。

429日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:23:29.58
壱岐からは、まず呼子に寄港したんではないのか
唐津湾を一望して陸行する先を東南と考えた

430日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:25:18.67
>>426
どういう計算で?

431日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:27:58.67
>>427
それは魏志倭人伝情報を工作したからだな
帯方と書けないから「樂浪郡徼」からと
苦しい書き換えをした

432日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:35:49.72
>>429
不通の人はそう思うけど
日本史の学会は異常なんだよな
魏使は方向音痴とされてる。

433日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:36:00.31
>>431
ちゃんと時代考証しながら書かれていたということ。
なんでも悪意のある取り方をするんですね。
根性ドドメ色ですね。

434日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:36:46.09
>>426
ちょっと無理なくね?

435日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:41:38.89
>>433
後漢書は引き写しがバレないように筆法で粉飾した
ってのは通説だろう

436日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:42:57.47
>>433
范曄が色々問題ある人物だったことは十分に考証されている
死刑になっちゃった人だし

437日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:43:37.83
>>84
4. 「万里」の情報源
(1) 「万里」と「万二千余里」はどちらが先か
 1.(2)で考察したとおり、如淳の注「帯方東南万里」は魏使派遣時点より後に書かれたと考えてよい。<

その断定は×。帯方郡設置後の記録、で十分。

>如淳は少なくとも倭人伝冒頭の「倭人在帯方東南大海之中」に近い情報は目にしていたと思われる。<

楽浪郡使の倭奴国や伊都国訪問記録で十分。
 
>ところが1.(3)で考察したとおり、如淳は「万二千余里」という情報は手に入れていないと考えられる。
魏の政府筋が「万二千余里」という情報を持っていたならば、
果たして「万里の彼方から倭人が朝貢した」等と発表するであろうか?<

簡単な事。
「萬二千余里」情報は、魏略も記載しているから、女王之所都まで行った魏使らの短里記録であり、
如淳の「萬里」情報は、倭奴国や伊都国までの短里情報。

>2や3で述べた場合と同様、皇帝の栄光を称え執政者の手腕を誉めたいならば、
より彼方の僻遠の地から王化を慕って夷人が来訪したと発表したい所なのである。<

一種の分裂幻覚の妄想の類。
 
>従って、以下のような時系列関係になると推定できる。
□「万里」情報の発生(魏使が距離に関する報告をしていなかった場合) □ 魏使の派遣
□ 「万里」情報の発生(魏使が「万里」と報告していた場合) □如淳の注執筆
□ 「万二千余里」情報の発生 □ 魏志行程記事の完成

少し違う。如淳の万里情報は、魏使以前。

438日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:56:04.84
>>437
>如淳の万里情報は、魏使以前。

というと、いつ?

439日本@名無史さん2017/11/17(金) 09:57:36.27
>>433
范曄の評判が悪いのは仕方ない

440日本@名無史さん2017/11/17(金) 10:01:35.70
>>432
じゅうぶんに方向音痴では?
呼子からでも糸島は東南ではない
 

441日本@名無史さん2017/11/17(金) 10:07:22.93
>>426
どういう計算して伊都国まで12,000里にできるのかと小一時間問い詰めたい

442日本@名無史さん2017/11/17(金) 10:26:20.04
>>440
渡海の時期は夏なのだから、朝日は真東より最大30°北に振れている
糸島の方角を東南と認識しておかしくない

443日本@名無史さん2017/11/17(金) 10:30:51.91
>>442
壱岐から着いたらむしろ夕日を見てるでしょ
単純に入り日を西と思う人なら
糸島富士が北東に見えるよ

444日本@名無史さん2017/11/17(金) 10:34:17.69
というより、日の出の方位が季節で変わることくらいの知識が身についてない人が書いた記録なら
十分方向オンチであるよ

445日本@名無史さん2017/11/17(金) 10:40:51.26
呼子ー印通寺は30kmしかない。
これが渡海千里じゃあるまい。

446日本@名無史さん2017/11/17(金) 10:43:31.32
>>84
>如淳のいう「帯方東南万里」の「万里」は「万二千余里」に先行する情報である。
ここで「魏使が距離に関する報告をしていなかった場合」は、1.の(2案)に相当する<

「萬二千余里」情報は、魏略にも載っているから、魏使らの記録。

>すなはち、古くから倭人の世界が海を越えて漠然と「万里の彼方」とされていた;
ケースで、如淳がそれを準用したとする場合である。<

「万里の彼方」論は、その起点が、
洛陽なのか?、塞外との関所なのか?、洛陽なのか?、帯方なのか?、
と言った問題があり、一つ一つ確認しなければならない。

>「魏使が『万里』と報告していた場合」は必然的に1.の(1案)のように
景初・正始の国交樹立時点では
「帯方東南万里の倭国」という類の情報が公開されたとすることになるであろう。<

何度も書くが、魏略にも「萬二千余里」が書かれているから、それが魏使らの女王之所都までの記録。
如淳の「萬里」は、それ以前の郡使らの情報。

447日本@名無史さん2017/11/17(金) 10:50:30.24
>>440
北部九州の夏至における日の出方向は30度弱ズレるから、日の出で方角を判断しているとほぼ東南となる。

448日本@名無史さん2017/11/17(金) 10:52:08.91
>>444
あなたは夏至の日の札幌の日の出が難度真東からズレてるか分かるの?

449日本@名無史さん2017/11/17(金) 10:52:57.65
>>445
渡海千里なんてどこにある

450日本@名無史さん2017/11/17(金) 10:55:01.32
そもそも畿内説は北部九州をうろちょろしていることを、どう思ってるの?
一度北部九州には寄るとしても、なぜその後水行で幾内に直行しないの?

451日本@名無史さん2017/11/17(金) 11:04:50.81
>>448
35度くらいだろ?
それが何か?

452日本@名無史さん2017/11/17(金) 11:07:04.88
>>449
ここに
「又渡一海、千餘里至末盧國」

453日本@名無史さん2017/11/17(金) 11:08:07.66
>>451
で、そういうことを普通の人は全部知ってないと方向音痴だと言うわけだね

454日本@名無史さん2017/11/17(金) 11:08:36.93
>>449
おまえ馬鹿だぜ 自分で調べろ
かんたん

455日本@名無史さん2017/11/17(金) 11:08:48.64
>>452
末羅は呼子でもう着いちゃってるから、残念!

456日本@名無史さん2017/11/17(金) 11:09:58.47
印通寺か、方向を逆に書いちゃ勘違いsるだろ

457日本@名無史さん2017/11/17(金) 11:20:58.56
>>453
普通の人かね?

船乗りか、魏の地誌兵站担当軍人かじゃないの?

458日本@名無史さん2017/11/17(金) 11:21:37.29
>>455
意味不明

459日本@名無史さん2017/11/17(金) 11:25:48.31
>>456
方向を逆って、どういう意味?

460日本@名無史さん2017/11/17(金) 11:31:01.47
>>85
>イ. 魏略・魏志上に記された帯方から末廬國に至るまでの約万里は、狗邪韓国を境としてが7:3に分割されている。
この中継点、結節点である狗邪韓国に注目してみる。
ロ.倭人伝に登場する狗邪韓国は、韓伝に登場する弁辰狗邪国と同一の国を指すものと考えてよいであろう。
前者は民族を表わす「韓」を後置し、
後者は国家群の分類として三韓のうち「弁辰」を前置しただけの違いである。<

個々の小国の自国の呼称として、「韓國」という大国名を付ける事は、普通にはない。
この場合は、「狗邪韓」という文言全体が呼称である事になる。
部族呼称は、弁辰狗邪「狗邪」であり、韓の地に向き合った場所だから、「狗邪韓」と呼ばれた。

>ハ.この表現の相違の意味するところは何であろうか?
用例をみる限り、民族名が後置されるケースは、小水貊や若羌の例などで明らかなように、
国家形成レベルが部族国家段階と推定されるものが主で、「国」と書かれているものは少ない。
つまり「固有名」+「民族」という表現をとる場合は、
「大分類」+「固有国名」の場合より国家形成上古い発展段階に属すると考えてよさそうである。<

「狗邪韓」と呼ばれる国は、弁辰狗邪と区別されている事と、半島南岸は倭地であり、
「從郡至倭」として書かれた行程での目的地を示す(最初の)「到」着を示されている国であり、
「大海之中、依山島爲國邑」の倭の「其北岸」とされ「始度一海」する国であるから、
明らかに、倭人の支配する国である。

461日本@名無史さん2017/11/17(金) 11:38:01.64
>>455
どういう意味?

462日本@名無史さん2017/11/17(金) 11:45:37.97
>>460
そんな遺跡はないですよ。

463日本@名無史さん2017/11/17(金) 11:52:21.49
>>460
表記の違いを区別だと言い張るのが古田説の常套手段だな

464日本@名無史さん2017/11/17(金) 11:54:43.57
>>85
>ニ.こう考えていくと、「弁辰狗邪国」という表現を取った一次資料と
「狗邪韓(国)」という表現を取った一次資料とでは、成立年代こそ特定は出来ないが、
時系列的には後者の方が古いことを指摘することが出来よう。<

いや、常識的には、先に「狗邪」部族国が出来ていて、
その内の弁辰に属する部分が弁辰狗邪と呼ばれ、
南からの倭人の進出部分が、倭人から「狗邪韓」と呼ばれた、という事なんでしょう。

>ホ.  狗邪韓〜末廬の文章表現には統一感がありは行程記事の他の部分とは一線を画するものがある。記事の内容からも狗邪韓〜末廬は当初から一体の記事であったと見ることが出来る。<

関係がない。陳寿の行程記載原則はそのままである。ヘ. よって、行程記事のうち少なくとも帯方〜末廬部分の成立は韓伝の弁辰十二国国名部分のそれより早い。< 早くない。あくまで陳寿は魏使らの記録を元にして書いた。

465日本@名無史さん2017/11/17(金) 11:58:00.96
倭人伝は方向音痴が書いたんなら
方向がどうだ里数がどうだと言ってても
邪馬台国はどこだか解らないよね

466日本@名無史さん2017/11/17(金) 12:00:21.02
>>464
そんなことありません。
弁辰の各国はみんな頭に弁辰を付けて書かれてます。

467日本@名無史さん2017/11/17(金) 12:17:09.39
九州説が一番ふれたがらないのは
伊都国までの方位だね

468日本@名無史さん2017/11/17(金) 12:37:06.24
呼子に寄って海路で伊都で問題ないよ

469日本@名無史さん2017/11/17(金) 13:03:52.62
>>86
>ここで韓諸国に関する知見の広まりが 二郡の一連の軍事行動を契機に深まった
という状況を想定するならば、
後者の表現を取る史料に随伴している約1万里という情報は、
一次資料としては魏使派遣時点よりも古いという可能性を認めてよいことになりそうである。<

それ以前に、始めから言ってあった事。
 
>1.では「魏使がもたらした『万二千余里』情報の内訳から
如淳が『万里』を算出した」可能性を排除したが、
今般は「魏使が女王の都まで誤って1万里と報告し、
のちに『万二千余里』に上方修正された」可能性も
偶然の条件に依拠しすぎるものとして排除できるであろう。<

始めから排除されている。
 
>この「万里」という数字が、魏略や魏志に見えるところの
帯方郡から対馬・壱岐を経て九州に到達するまでの数字と「余里」を除くと一致することから、
これらの情報源の系統は同じと考えるのが自然である。<

万里は、始めから倭奴國や伊都國までの距離として書かれたらしい、と指摘してある。

>(3) 「万里」はどこにあったか 後漢書東夷伝序にある。光武帝の事績との関連で現われる。<

序の「於是wai、貊、倭、韓萬里朝獻」は、洛陽までだ、という事になる。

470日本@名無史さん2017/11/17(金) 13:09:25.76
>>86
(4) 「万里」は虚辞である
 2.で述べたとおり、光武時朝貢は演出されたイベントであったと考えられる。
この折りに東夷の王が海外は「万里」の彼方から朝貢してきたと公称されたとすれば、
「万里」は虚辞である <

この万里は、東夷諸国から洛陽までの距離であり、
虚辞ではなく、長里での近似。
如淳の「萬里」は郡から倭奴國や伊都國までの短里の距離であり、
全く違う情報。

471日本@名無史さん2017/11/17(金) 13:38:48.95
>>94
>風俗を儋耳朱崖と比較してるんだから、
やはり陳寿は倭国を台湾くらい南だと思っていたんだろう<

思っていない。
はっきり「計其道里、當在會稽東治之東 」と思っており、ほぼ合っている。

472日本@名無史さん2017/11/17(金) 13:41:58.72
>>97
スレ主の春成?も論破されてたし、
ちゃんと結果を出すのが良スレだろう。
本スレならではだ。

473日本@名無史さん2017/11/17(金) 13:44:07.55
ちゃんと誰もが納得する畿内説のテンプレを作って新スレに反映させればいいだろう。

474日本@名無史さん2017/11/17(金) 13:44:54.92
>>98
>>東治の地域は、おそらく会稽郡治よりも南北に広いだろう、と言ったのですよ。<

>東治の地域って何?<

会稽郡治の東方になる「郡の治所」になる地域。

475日本@名無史さん2017/11/17(金) 13:48:37.71
>>99
>郡治はたいてい県城よりは大きいが <

単独の県城ではないねえ。
郡治の東に当たるほぼ全地域。

476日本@名無史さん2017/11/17(金) 13:50:19.56
>>100
>東冶県城なら発掘されてる。 けっこう大きいが会稽郡治の方が大きいんじゃないか?
知らないけど <

東冶県城は全く×。

477日本@名無史さん2017/11/17(金) 13:52:31.47
>>103
>当時の正式名称は東侯官治だろう <

東冶の事なら、×ね。

478日本@名無史さん2017/11/17(金) 13:55:57.76
>>105
>呉の会稽王孫亮が左遷されて候官侯になってるから、
郡内の序列としては会稽郡治に次いで東部侯官治だろう<

その候官が、東冶の事なら、×。

479日本@名無史さん2017/11/17(金) 14:01:41.55
>>125
目の前でi幾ら書いて説明してあっても、
「南→東」などの史料事実の曲解否定の嘘つき騙しの、
アンチ九州説の・・・・アホの文章だから、
意味がわからないのが当然だよ。

480日本@名無史さん2017/11/17(金) 14:08:55.31
>>130
今は、「南→東」などの史料事実の否定抹殺の嘘つき騙しの、
政府文部省やマスコミや学会や、
タカ派の高慢な人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観国粋主義の、
国民の3割位の・・・・が、支配する恐ろしい国になってしまったのかなあ?。

481日本@名無史さん2017/11/17(金) 14:13:51.52
>>131
唯我独尊の、タカ派の、高慢な人種差別的殺し合い戦争狂の皇国史観国粋主義の、
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説が、
生き残れる時代では、もうない 。

482日本@名無史さん2017/11/17(金) 14:21:28.62
>>132
>会稽東治が東侯官で確定ならば台湾辺りになるわけだ <

会稽東治は東侯官ではないから、×。

>ということは筆者が1里=約400mの普通の里で考えていることが確定するから、<

1里=約400mとごまかしても赤道付近になってしまうから、×。

>一里を1/5にしたり短里とか考案したりとかは全て廃案<

短里なら、「計其道里、當在會稽東治之東」にほぼぴったし合う。

>しかも邪馬台国に水行する方位も間違ってることになる これで畿内説確定ではないの <

「南≠東」であるから、大和説は、×。

483日本@名無史さん2017/11/17(金) 14:28:31.79
>>133
教科書に畿内説と九州説を両論併記する時代じゃないわ。
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説は、生徒や国民の害になるから、削除でいい 。
百歩譲って残すとしても、「南→東」などの嘘つき騙し説である事を、
はっきり記述しないとといかん。
邪馬壹國の位置論争については、九州で確定であるが、
その他に大和説などの嘘つき騙しの・・・・もいる、
とかにすべき。

484日本@名無史さん2017/11/17(金) 14:33:57.62
>>141
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの・・・・ケダモノ大和説者は、
病院に行こうぜー 。
真剣に倭人伝も、よんだことないだろ?。

485日本@名無史さん2017/11/17(金) 14:35:15.93
>>145
>「東治の地域」ってなに? 郡治じゃないの?<

ないよ。

486日本@名無史さん2017/11/17(金) 14:38:13.65
>>154
大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しが、致命傷です。

487日本@名無史さん2017/11/17(金) 14:39:03.99
>>485
なら、なに?

488日本@名無史さん2017/11/17(金) 14:41:44.96
>>468
>呼子に寄って海路で伊都で問題ないよ

倭人伝に書いてあることと違うじゃないか
問題おおありだ
 
 

489日本@名無史さん2017/11/17(金) 14:42:36.84
>>159
>.古くから会稽は広いですけど ・・・南に<

南はやっぱり、会稽郡ではない、として、
分郡されて、建安郡になってしまったの。

490日本@名無史さん2017/11/17(金) 14:46:26.80
>>163
>儋耳朱崖とも比較してるから、倭は会稽山陰と海南島の間にあるどこかだな
福州で吉田くん <

「計其道里、當在會稽東治之東」だから、
会稽郡から分郡された南方の建安郡の東冶付近ではないの。

491日本@名無史さん2017/11/17(金) 14:51:58.57
>>165
>つまり長江河口付近だぁとか江蘇省だぁとかいう珍説は全滅です <

大和説者は、まだ誰も、
分郡後の元の会稽郡の範囲を示してくれないの。
そして、示してくれなくても、
陳寿は大体の位置説明だったから、九州ででほぼぴったりなの。

492日本@名無史さん2017/11/17(金) 14:54:37.28
>>167
「南→東」などの嘘つき騙しの戦争狂皇国史観の大和説者は、死んだそうです。

493日本@名無史さん2017/11/17(金) 14:59:08.16
>>176
ありゃ?、この投稿がまた出て来た!。
こんな同じ投稿を貼り付けする人がいたら、確実に頭がおかしいね 。

494日本@名無史さん2017/11/17(金) 15:04:58.04
>>187
それのどこが
>「倭王武の倭国は、倭奴國のと同じか後裔である」
という記録なんだ? <

同じ倭の王。
隋書や、旧唐書や、唐会要や、新唐書も同じ意見。

495日本@名無史さん2017/11/17(金) 15:10:17.60
>>475
さっきは
 会稽郡治の東方になる「郡の治所」になる地域
と言っていたのに、こんどは
 郡治の東に当たるほぼ全地域

なのですか?
支離滅裂です。

「郡治」とは「郡の治所」のことですよ。
 
 

496日本@名無史さん2017/11/17(金) 15:21:47.26
>>491
「分郡後の元の会稽郡」
って意味が分からない

元なの? 後なの?

497日本@名無史さん2017/11/17(金) 15:31:58.15
>>488
魏略にそう書いてあるよ

498日本@名無史さん2017/11/17(金) 15:46:36.58
>>191
古田先生にきちんと帳尻を合わせられたために、
「長里」の騙しの算出根拠がなくなっちゃったんだよね 。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者大失敗の巻 。

499日本@名無史さん2017/11/17(金) 15:48:21.54
>>497
それは魏略じゃなくて翰苑
しかも「東南五東里到伊都國」だな
海路なんて書いてない

500日本@名無史さん2017/11/17(金) 15:49:11.23
>>193
>つまり、国としては別で、のちに倭国に併合された小国の一つなんでしょ?<

いや、倭奴國は、倭国の盟主であったのであり、
後の盟主倭国の始まりであったように書いてあるの。

501日本@名無史さん2017/11/17(金) 15:51:05.17
>>498
1里なら1尺×1800で
ちゃんとした算出根拠があるよ

502日本@名無史さん2017/11/17(金) 15:52:36.93
>>500
>後の盟主倭国の始まりであったように書いてあるの。

なんという史料に、なんと書いてある?

503日本@名無史さん2017/11/17(金) 15:53:53.19
>>206
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。<

南≠東だから、×。

504日本@名無史さん2017/11/17(金) 15:58:04.61
九州説の頼りはたった一つ
南の一文字しかない

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505日本@名無史さん2017/11/17(金) 16:01:33.68
>>208
>「魏使がもたらした『万二千余里』情報の内訳から如淳が『万里』を算出した」可能性を排除したが、<

いや、如淳は、魏志の「女王之所都までの萬二千余里」ではなく、
魏志以前の倭奴國や伊都國までの「萬里」記録を引用した。

>今般は「魏使が女王の都まで誤って1万里と報告し、
のちに『万二千余里』に上方修正された」可能性も
偶然の条件に依拠しすぎるものとして排除できるであろう。<

この投稿は、「南→東」などの嘘つき騙しの‥‥トピ主のようですね。」

506日本@名無史さん2017/11/17(金) 16:05:21.06
>>471

デブっちょが、ボタンの閉まらない服を着て
「ぴったりだ!」

507日本@名無史さん2017/11/17(金) 16:35:27.41
>>490
>「計其道里、當在會稽東治之東」だから、
> 会稽郡から分郡された南方の建安郡の東冶付近ではないの。

分郡なんて後世のことでしょ?
魏の話じゃない

508日本@名無史さん2017/11/17(金) 16:44:22.66
>>209
>小人がいたなんてデタラメ書く人だから ・・・<

おや?。ピグミーやネグルトなどの事を知らないんだね?。
侏儒國以外にも、鹿児島や済州島にもいたらしいよ。

509日本@名無史さん2017/11/17(金) 16:45:19.92
>>507
学者振り振り
テメ〜の頭を疑う

510日本@名無史さん2017/11/17(金) 16:48:57.83
>>219
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説だから、
すでに、無限に比定地を生産中だな。

511日本@名無史さん2017/11/17(金) 16:52:09.31
>>223
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説は、
都合の悪い旅程を比定に使わないインチキをするから、
×ね。

512日本@名無史さん2017/11/17(金) 16:56:53.51
>>508
身長1m以下の人の国なんて無いね

513日本@名無史さん2017/11/17(金) 17:03:06.67
>>509
反論ができない人は口汚くなるなぁ

514日本@名無史さん2017/11/17(金) 17:04:17.03
>>511
ちゃんと検証はしてるでしょ?

515日本@名無史さん2017/11/17(金) 17:22:18.75
>>299
あらゆる局面で全て否定されて一歩も進めない、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、
大和説の四面楚歌w w w 。

516日本@名無史さん2017/11/17(金) 17:33:18.31
>>311
日本の学会以外の学問の世界や、国民の投票で、
九州説が過半数になった理由がよくわかる。

517日本@名無史さん2017/11/17(金) 17:36:37.80
オウム返しは「降参しました」と同じ

518日本@名無史さん2017/11/17(金) 17:41:00.36
岡上のアホが、金印スレでトンデモ糸厨してるな
きのう完全論破されたのに同じこと言い張って
往生際の悪いやっちゃ

519日本@名無史さん2017/11/17(金) 17:43:09.18
>>315
なら、なんで国民の過半数は九州説で大和説は3割しかないのに、
考古学者が大和説ばっかりなの?。

こっそり教えますね。
人種差別的殺し合い戦争大好きの国粋主義の政府文部省や、
右翼マスコミや、学会や教育界だけが、皇国史観をもっと広げて、
国民を支配して戦争させて、栄耀栄華にふけよう、としているの。

520日本@名無史さん2017/11/17(金) 17:46:38.03
>>516
学会以外のどこで学問してますか?

521日本@名無史さん2017/11/17(金) 17:47:31.50
>>316
>ならば、そんなこと言ってる考古学者が一人もいないのは、なぜ?<

学生や院生は、皇国史観大和説の政府文部省や学会や教授の意見に反対すると、
どこにも就職先がなくて、食っていけなくなるから、なの。

522日本@名無史さん2017/11/17(金) 17:50:02.01
陰謀論は敗者のあかし

523日本@名無史さん2017/11/17(金) 17:50:59.36
>>520
邪馬台国畿内説を証明している「論文」を挙げて下さい。

524日本@名無史さん2017/11/17(金) 17:51:02.13
>>319
>邪馬台国畿内説の考古学者(レッドチーム の名前を挙げてみてw<

日本の大学の古代史の教授や助教授らの、殆ど全部を挙げればよいの。

525日本@名無史さん2017/11/17(金) 17:52:17.86
邪馬台国畿内説の考古学者は似非学者
クビにしろ!

526日本@名無史さん2017/11/17(金) 17:52:48.18
>>524
名前を挙げるだけでは学問的に畿内説を唱えていることにはなりません。
邪馬台国畿内説を証明している「論文」を挙げて下さい。

527日本@名無史さん2017/11/17(金) 17:57:23.34
>>523
さきに九州説の考古学者の名前を挙げてみw


w
w

528日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:01:21.46
考古学者に畿内説とか九州説とかないだろ
考古学はこんなもの出ましたまでが仕事で
その後のことは関与しないもんだろ。

529日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:02:37.21
>>518
負け犬の遠吠えですかw

530日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:03:03.92
>>523
名前の次は論文か

どんどん要求がエスカレートするな
付き合ってやる必要はないけどね

531日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:03:45.96
>>320
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つきダマシの大和説者が、
また「倭人伝は間違いだ」説 を採用する。

532日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:04:32.06
>>529
あら、自分がボロ負けした事実を逆転してるよコノひと・・・
帰納は泣きわめいてたのにw

533日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:06:37.48
>>523
名前は挙がってるんだから
自分で検索しろよ
クレクレはダメ

それとも寺澤が畿内説である証拠を出せとか言うか?

534日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:07:58.48
>>336
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説は、このスレでも、
ほとんど壊滅的な説なんですけど。

535日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:10:52.44
>>499
翰苑って単なる寄せ集め集のことですよw

536日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:11:32.44
>>499
陸路ともないよね

537日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:12:28.49
>>358
天動説は現実を見ずに観念論に終始
地動説は現実から導かれ検証可能

「南→東」などの史料事実を否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者は、
どうみても前者だな 。

538日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:13:46.42
>>535
だから「東南五東里到伊都國」なんて書いてあるのは単なる寄せ集め集の翰苑

539日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:17:06.37
>>530
「論文」で発表されていなければ学問的には無効ですよ。

540日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:18:23.18
>>533
邪馬台国畿内説を証明している「論文」を挙げて下さい。

論文で発表されていないのであれば、
学問的には何の根拠もない、ということになりますよ。

541日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:20:05.91
ばかだな

証明してたら論争は終わってる

542日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:22:12.18
>論文で発表されていないのであれば、
>学問的には何の根拠もない、ということになりますよ。

これ、九州説に凄いブーメランだよね

543日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:23:36.81
>>542
九州説は学問的に謙虚だからこんな大それたことは言ってないから。

↓ ↓ ↓
>邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
>もう確定なのでロマンはありませんが
>勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。

544日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:23:49.14
>>402
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説、
終わってるな。

545日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:24:07.93
>>540
さきに九州説の考古学者の名前を挙げてみw


w
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546日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:24:44.62
学者が「論文」で学問的に意思表示していないわけだ。

547日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:25:20.80
>>543
おまえ>>544を読めよ

548日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:25:44.29
>>545
邪馬台国九州説を「論文」で主張している考古学者はいないと思います。

邪馬台国畿内説を証明している「論文」を挙げて下さい。

論文で発表されていないのであれば、
学問的には何の根拠もない、ということになりますよ

549日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:26:13.12
>>547
読みましたが、それが何か?

550日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:26:40.70
邪馬台国畿内説を証明している「論文」を挙げて下さい。

論文で発表されていないのであれば、
学問的には何の根拠もない、ということになりますよ。

551日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:30:26.06
>>550
ばかだな

証明してたら論争は終わってる

552日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:30:38.39
>>409
大和説は、末盧国からの出発が「東南」と書かれている、という古田理解について、
何もないのかな?。
全員あれなの? それとも黙って、見なかったことにしてるの?。

553日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:34:56.88
論文で発表されていないのであれば、
学問的には何の根拠もない。

554日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:35:49.86
心の中では鉄器と硯と代々の王墓がある場所が邪馬台国だと思ってることだろう。

555日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:39:39.30
>>410
>>楽浪郡使の倭奴國や伊都国への訪問記録があった可能性はあるから、思わなくてもよい。<

>それがなぜ「帯方から」って書くの?<

いや、倭奴国の名前を挙げた、って事は、AD57年の話も含めているから、
如淳の「帯方」はまだ存在していない話であり、
楽浪郡使の話になるんだよ。

556日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:39:55.96
>>550
我々が、キミに教えてあげなくても
存在しない証明にはならないので
無理筋の主張だね

557日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:46:03.01
>>411
>古田説のおかしいところは 倭人伝に書いてある距離が 主婦とか城とかいった、ある国の中心から次の国の中心までの距離
ではないとしてる点だろうね<

いや、古田さんは、
中心地間距離の場合と、居住外縁部間距離の両方の場合がある、という説であったが、
私は、Yahooでの議論で、
三国志の中の殆どの里数記載が居住外縁部間距離説で説明が付いた、
んだよ。

>これは矛盾だ<

矛盾じゃなかった。

558日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:50:19.37
>>413
>九州説は、末盧→伊都の方位については 黙殺するしかないんだろう
大前提が崩れるから<

黙殺なんてしてないよ。
きちんと陳寿の行程記載の順次式に読んで、
「東南」は末盧國からの出発時点の方向、
という理解で、矛盾の全くない説明が、なされている。

559日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:52:06.76
>>556
論文で発表されていないのであれば、
学問的には何の根拠もない。

つまり学問的には畿内説も九州説も同等ということだ。

560日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:55:28.95
>>552
もちろん、馬鹿げた話だと完全否定してることは既述

561日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:55:58.19
>>553
そんな仮定に意味はない

562日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:56:26.59
>>416
>古代中国の城郭都市を考えれば、点と線で国を捉えるのが当然なんだよ。
少なくとも中国人の頭の中ではそうだったはず。 三国志の世界なんだから。<

城郭都市なら、特に「城門」からの距離だよ。
中の王宮からの距離になっていなかったんだよ。

563日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:56:43.02
>>561
仮定ではないよ。
学問的な決まり事だよ。

564日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:57:10.61
>>559
という根拠がないんだから、お前の主張も意味がない

565日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:58:22.77
>>564
根拠も何も、学問の世界におけるルールです。

566日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:59:13.58
>>562
>城郭都市なら、特に「城門」からの距離だよ。

城郭都市でない場合には?

567日本@名無史さん2017/11/17(金) 18:59:26.48
>>418
>それが対馬と壱岐だけ 島の端に着くまでの距離だ とするのは 矛盾だろう <

島国の場合は、出発港と到着港とで一寸千里を計測したようだよ。

568日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:00:23.47
>>563
「論文で発表されていないのであれば、は仮定だろ?

569日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:01:07.07
>>565
根拠がなければ意味はない

570日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:01:42.42
>>567
したというの証拠は?

571日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:04:23.44
>>557
成程。納得した。まだ、お若い75歳?のだから、学を究められたし。いつも有り難う。

572日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:05:14.30
>>569
その通りですね。
「論文」という根拠が無ければ、学問的には意味が無いのです。

そして論文といってもなんでもイイわけではないですよ。
信頼性を保つためには査読が最低条件です。

573日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:05:25.99
>>563

なあ

「論文で発表されていないのであれば、」は仮定だろ?

違うの?
お返事は?

574日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:08:21.03
>>573
論文で発表されていないのであれば、
の次には、
論文における根拠に信頼性があって
論文における論理構成に信頼性があって
複数の研究者によって追試されて、
などの条件が更に必要です。

575日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:16:49.39
>>574
で?

仮定だろ?

576日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:17:52.01
>>575
学問の世界での常識ですね。

577日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:20:33.36
>>576
でも、仮定だろ?

578日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:23:36.45
>>577
学問の世界での決まり事です。

579日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:24:45.02
>>574
で?

「論文で発表されていなくて・・・で・・・であれば、」は仮定だろ?

お返事は?

580日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:26:29.89
>>579
論文で発表されていないのであれば、
学問的には何の根拠もない。

というのは、学問的には常識です。

581日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:36:18.44
>>580
で?

「論文で発表されていないのであれば」は仮定だろ?

こんな事実さえトンデモ九州説さんは認められないの?

582日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:38:52.95
>>580
つまり雑誌インタビューに答えた森浩一の談話とか、学問的には何の意味も無いんだよね

583日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:40:38.70
学問的には根拠にはなりませんね。
その場における一時的な意見、であるだけです。

584日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:42:41.96
>>581
で?

畿内説を証明している論文はありましたか?

585日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:42:51.18
>>583
で?

「論文で発表されていないのであれば」は仮定だろ?

まだ逃げまわる?

586日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:43:45.93
>>584
別に、答えてやる義務はないな

587日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:44:33.07
>>585
論文で発表されていないのであれば、
学問的には何の根拠もない。

というのは、学問的には常識です。

588日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:44:38.89
九州説みっともねーぞ

589日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:45:15.44
>>586
>邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
>もう確定なのでロマンはありませんが
>勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。

あらら。
すぐに出てこないんですか?論文?

590日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:46:27.77
答えてやる義務はないもの

591日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:48:10.21
つまり>>559は根拠がないので不成立

確定しました

592日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:48:47.91
>>591
論文で発表されていないのであれば、
学問的には何の根拠もない。

というのは、学問的には常識です。

593日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:49:49.51
学者さんの名前は大量に列挙してきたのに、
論文となるとダンマリですか?

594日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:51:01.99
>>538
何を言いたいのか分からない
中身は魏略だろ
誤字は誰かの誤写

595日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:51:50.87
>>594
脱字が無いという保証は?

596日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:52:24.06
下らん言いがかりしかつけられない九州説
情けない

597日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:53:10.44
>>593
要求が野放図にエスカレートするのが見えたからな

598日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:55:08.55
>>597
論文が出てこないとは。

こちらとしては、
10人ほどもの学者さんの名前が出てきたので、
論文もすぐにずらずらと提示されて、
それを読んで、新しい見解でもあるか、と期待して質問したのですが。

599日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:56:19.27
>>596
論文で発表されていないのであれば、
学問的には何の根拠もない。

というのは、学問的には常識なので、
そう答えているだけです。

600日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:59:19.11
だいたい査読の有無なんて公募規定がない場合はそこの学会員しか知らない
研究機関の年報なんか職員しか知らん
単著だと学問的でないのか?
研究会の会誌は?
遺跡の調査報告は?
穴だらけだ

601日本@名無史さん2017/11/17(金) 19:59:42.60

602日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:00:00.03
>>598
教えないだけ

603日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:00:11.06
>>599
畿内説そのものについての論文がないから畿内説は学問的に根拠がないって?
小学生か

604日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:03:48.10
>>603
しかも、「ない」ことを証明する意思が無いときた

605日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:04:57.21
信頼度
査読を経た論文+複数機関の追試
>>>>>>>>>
査読を経た論文
>>>>>>>>>
単著

そりゃ当たり前ですよね。

606日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:05:38.22
教えたいけど教えられない。

607日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:09:20.80
要するに、ハードルを極限まで上げて100点か0点かの二択にすることで、99点と0点を同列にしようとする稚拙な詭弁を狙ってるわけだ

608日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:09:36.14
>>603
>畿内説そのものについての論文がないから畿内説は学問的に根拠がないって?

畿内説って、根拠がなかったんだ。

609日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:09:36.93
>>606
という証拠は?

610日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:09:56.97
>>608
あるよ

611日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:12:48.10
>>608
なら九州説は九州説についての学術論文はあるの?
無ければ九州説に根拠はないって事だね

612日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:14:17.44
論文名を言えば、次は査読があったか? 追試はあったか? etc.etc.
エスカレートが目に見えてる
教えてやる義理はない

613日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:16:52.88
>>605
査読委員が教科書として学んだ単著の位置は?

614日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:23:08.78
つまり>>607だな

615日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:32:59.84
結局、九州説に学問的に根拠がないことだけが
明るみに出た

616日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:40:45.19
森浩一あたりがマスコミに垂れ流した独断も学問的に根拠にならんと言質とれたし、上々の成果でしたな

617日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:42:41.48
>>612
当然だろ。

査読を経て公表して、
追試を経て認められていく。

それを否定するほうがおかしい。

618日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:44:33.84
>>617
誰か否定した?

619日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:47:28.73
学問的根拠ってなんか意味あるの?
考古学じゃあもともと意味ないしなあ

620日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:48:33.71
>>619
畿内説さんが学会で認められてるって言うからさ、
どんな根拠があるんだろうと

621日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:49:54.37
査読付き雑誌に掲載されていれば、査読をパスしていることになるね。
海外の雑誌だとインパクトファクターも重要だけど、日本史だと何が基準なのかなあ。
日本史の学問としての未熟さを見た気がするよ。

622日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:50:17.38
>>620
誰か学会で認められてるって言った?

623日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:51:48.57
>>621
気がするだけだよね?

624日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:52:37.15
>>619
意味ないって理由は?

625日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:53:30.78
>>622
畿内説はすぐこれだ。
言うことが信頼できない。
なんでも都合が悪くなるとなかったことにする。
詐欺師だね。

626日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:54:16.84
>>625
あった、という証拠は?

627日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:55:35.52
>>625
信頼できないって理由は?

628日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:58:28.79
>>625
九州説から信頼なんぞされなくて結構

629日本@名無史さん2017/11/17(金) 20:59:29.04
>>627
畿内説が学会で認められていると言っていたから、
じゃあ学問的根拠となる論文を見せてよ、
とたずねたのに、
>誰か学会で認められてるって言った?
と言い出したから信頼できない。

630日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:01:18.17
前言撤回は畿内説の常套手段になって来たな。
タチが悪い。

631日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:05:27.16
>>629
いつ、誰が言ったの?

証拠は?

632日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:06:26.97
歴史は科学じゃないからね
100%の正解もない

633日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:06:38.97
>>630
前言撤回したという証拠は?

634日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:08:12.53
>>632
100%の不正解があるよ

635日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:09:33.35
>>632
可能性を絞り込んでいくのが歴史の科学だ

636日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:11:42.54
>>629-630
本当のことを言っているなら
証拠が出せるだろう?

証拠はどうしたの?

637日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:16:51.91
>>625
自分が主張していることの証拠を出さない奴が
いちばん信用できないんだけどね

638日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:20:37.08
>>637
キナイセツのことですね。

639日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:21:04.07
>>632
真実は常に一つ!

640日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:21:59.95
>>638
そんなことした証拠は?

641日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:22:28.52
>>640
今、してるよね。

642日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:23:26.80
>>641
という証拠は?

643日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:25:20.66
>>642
その態度がそのまんまだよ。
第三者がこれを読んでどう思うかな。
畿内説の心証が悪くなるだろうね。

644日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:27:11.85
>>643
そう?

頑として証拠を出さない人についての心証が
悪いと思うよ

645日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:29:49.42
>>643
その態度って、どんな態度?

646日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:30:49.34
>>644
証拠を出してないのは畿内説でしょ。
ここは畿内説のスレなのに、誰も畿内説について証拠を提示しない。

647日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:32:19.86
>>646
それは本当?
どうやって証明する?

648日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:35:42.22
>>647
論文ないの?

学者さんの名前は嬉々として大量に列挙したのに。

649日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:37:21.36
>>647
こいつ、おかしいな。
粘着質だ。

650日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:41:53.75
>>649
暴言吐いても、君が証拠出せてない事実は誤魔化せないんだがね

651日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:51:24.83
いいから、畿内説の証拠出せよ。

652日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:52:34.05
こちらの言っていることは
一貫して「その証拠を、出せ」なんだが

どうして九州説さんは
頑として証拠を出そうとしないのかな?

653日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:53:12.25
>>651
自分は出さないのに?

654日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:53:54.11
こちらの言っていることは
一貫して「その根拠となる論文を、出せ」なんだが

どうして畿内説さんは
頑として根拠を出そうとしないのかな?

655日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:55:55.09
>>654
出す理由がないもの

656日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:57:18.04
むりむり
スレ主に学術的なこと求めても。
まともな指導受けてない、
論文書いたことないの丸わかりだから。

657日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:59:44.83
論理構成が無茶苦茶なのでそうだろうとは思っていましたが
かなりガッカリしましたね

658日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:00:40.88
>>656
という理由は?

659日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:01:04.12
>>651
ドアホはここに来るな

660日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:02:00.16
確かに、畿内説には学のありそうな人がいないですね。

661日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:02:29.19
>>654
「その」って、なんの?

662日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:03:16.76
蛍光分析のあれを読んだら丸わかりですね。
学識があるかどうかの検査に丁度いいです。

663日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:04:36.15
>>657
「論理構成が無茶苦茶」だ、という理由は?

664日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:04:42.86
>>661
すごいな。まだやってるー
言葉遊びで誤魔化せると思っている時点であれですな
学問のなんたるかをまるで理解していない

665日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:06:08.76
>>660
悪口いっても反論にはならないよ

666日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:08:55.25
>>664
いくら言われても
自分が主張してることの証拠を出さず

ひたすら誤魔化そうとしてるのは
九州説じゃないのかね?

667日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:10:03.33
>>666
いくら言われても
自分が主張してることの根拠となる論文を出せず

ひたすら誤魔化そうとしてるのは
畿内説じゃないのかね?

668日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:10:36.88
>>664
証拠を要求することの、どこが言葉遊びなんだ
九州説はこれだからw
w
w

669日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:11:11.91
論 文 を

 出 せ ず に ひ た す ら

  逃 げ ま く る

670日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:11:53.66
>>667
「自分が主張してることの根拠となる論文」って、何?

671日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:12:01.81
え?まさか本当に論文ないの?

672日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:13:19.88
九州説こそないんだろう?論文

673日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:14:12.09
>>652
そのって何?

674日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:14:26.60
学者さんをズラッと実名で列挙してたでしょ
彼らが支持している証拠となる論文を
最低でも一人一つずつは提示しないと、
彼らが畿内説だという証拠にならないんじゃないの?

ハードル下げて、著書でもいいけど。
単著の著書だと学問的には当然信頼度は下がるよね。

675日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:15:03.21
ない

676日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:15:25.68
>>672
ないよ。
だってまだ自称勝者じゃないもん。

677日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:16:16.93
>>668
先に証拠を出してから相手にも要求するべきでしょうね
自分は何も出さずに相手にだけ要求するのは誤魔化しでしょう。

678日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:16:24.27
>>671
無いとか、誰が言ったかな?

679日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:16:39.29
>>676
論文なきゃ九州説に根拠ないって事になるんだけど?
いいのそれで

680日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:18:23.10
>>677
なんの証拠を?

681日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:18:56.09
>>679
九州説を学問的に証明している論文は無いよ。

682日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:19:35.91
>>674
論文で提出してるなんて誰も言ってないのだが?

683日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:20:34.32
なら九州説は学問でもなきゃ根拠もないって事だな

684日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:21:55.76
九州説を避難しても
かけらも畿内説は支持されんぞ。

685日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:21:57.51
>>682
論文で出せないということは、
学問的に高度なレベルで発表できていないということですね。

686日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:23:38.57
>>677
要求もされてない証拠を、先に出す必要なんて
サラサラ無いんじゃないの?

687日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:23:59.08
>>683
ちがいます。
九州説は、学問レベルでは認証されていない、というだけですね。

同じことで、九州説は、学問レベルで否定もされていない、ということになります。

688日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:24:47.47
>>686
ずっっっと要求し続けていますが。

689日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:24:55.28
>>684
避難するわ

690日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:25:22.46
>>687
相手にされてないもんね

691日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:25:50.71
>>688
いつ、どこで?
証拠は?

692日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:26:21.45
>>690
その根拠は?

693日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:26:29.16
>>687
というか、認知されてない

694日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:27:02.24
ここは学問板なのに学問関係ない話をしていいのか九州説

695日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:27:42.84
一流誌の論文で〇〇説がしっかりと認められていないのであれば、
学問的に確実な説は存在しない、ということになります。

だから、九州説だろうが何説だろうが、
否定もされていない、ということです。

696日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:29:07.82
>>692
だって、九州説を主張する論文が無いんだろ?
相手にして反論する論文は当然ないんじゃいの?

697日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:29:28.01
>>694
ここは学問板ですね。

論文で発表されていないのであれば、
学問的には何の根拠もない。

畿内説を証明した論文を是非教えてください。

698日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:30:59.13
>>696
畿内説を主張する論文は有りますか?

ないのであれば、
相手にして反論する論文は当然「ないんじゃいの」?

699日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:32:05.37
>>695
それは無いね

九州説の必須条件が学問的に否定されれば
九州説は学問的否定される

論文を書いた人間に九州説を否定する意思が
あるかどうかは無関係

700日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:33:09.33
>>699
>九州説の必須条件が学問的に否定されれば

単なる仮定ですね。
証拠は?

701日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:34:07.97
>>697
証明した論文なんかあったら
現在九州説が存在してるわけ
ないな

702日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:34:59.93
<畿内説>
>九州説の必須条件が学問的に否定されれば
>九州説は学問的否定される

じゃあ、学問的に
大型建物が各地にあって
内行花文鏡が平原遺跡のものを最大として各地に普及して
鉄器があからさまに100対ゼロで
硯があからさまに出土して
中国から学術出土ゼロの銅鏡があって

だと、何説が学問的に否定されるの?

703日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:37:16.31
>>702
九州説がな

704日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:39:46.60
ここまで畿内説の論文呈示なし。
残念。

705日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:40:28.35
畿内説についての論文をネットで検索してみる気はないのだろうか九州説は

706日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:43:22.28
検索したけどなかったよ。

707日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:43:39.09
>>704
しないって言ってます。
要求がエスカレートするのが解ってるから

708日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:43:58.83
俺も検索してみたが見当たらない。
勉強したいからマジで教えてほしい。

709日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:44:29.48
>>702
それは畿内説の傍証とされているいろいろが否定されてますね。

710日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:45:45.79
>>702
どれ一つとして九州説の劣勢を救ってくれるものは無いから、九州説だろな、じき死ぬのは

711日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:46:21.38
>>707
その返答そのものが学問をわかっていません。

学問的に証明されるということは、
学問的な視点での批判に充分耐えうるだけの根拠を持って証明されるということです。
それがつまり、査読や追試なわけですね。

712日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:46:25.48
>>709
どんな理由で?

713日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:48:14.53
>>706
都合が悪くてとうとう見なかったフリを始めたか
すぐバレるのにね

714日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:48:21.65
>>711
それ、論理的に、おかしいだろ

きみが教えてもらえないことと
学問とどう関係があるの?

715日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:48:53.95
誰も提示できない畿内説の論文か。

716日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:49:13.22
論文ないんですね。ビックリです。

717日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:50:27.26
鉄器ない。
中国出土ない。
論文ない。

718日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:50:53.52
こっちは別に、九州説みたいに、自分が根拠としているものの提示を拒んでるわけじゃないから、何の損失も無い

719日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:51:18.45
>>717
どれも証拠ない

720日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:51:42.03
>>716
ないって証拠は?

721日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:52:00.08
>>715
したくないだけ

722日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:52:14.72
証拠ない畿内説

723日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:55:39.56
>>718
>>702だけで九州説が成立してしまうかも?

724日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:55:44.30
岡上がここで粘着してるからニセスレはじめいくつかのスレが停滞中www

725日本@名無史さん2017/11/17(金) 22:59:25.01
>>723
するわけないじゃんか
バカなの?

726日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:01:22.03
>>668
ここは畿内説のスレなんだから、畿内説の証拠が見たいなあ。

727日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:02:02.17
>>677
ここは畿内説のスレなんだろう?

728日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:03:10.69
論文があるならテンプレの>>1に張り付けてそれで勝者の貫禄のはずだがな。

729日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:03:21.55
>>699
必須条件って何だw
中二病だな

730日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:03:47.50
畿内説のスレなのに
畿内説派が証拠を出さないってもうスレ続けなくていいんじゃない。

731日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:05:03.35
>>718
拒んでいないなら、畿内説の証拠を提示してよ。

732日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:05:37.09
畿内説スレを名乗っておきながら他説しか語られないスレの方が不要だな

733日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:05:54.12
>>730
どうせここは重複してだから消えゆく運命

734日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:06:11.80
>>731
漠然としすぎ

畿内説の何の証拠?

735日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:06:32.93
慌てて他スレに書き込みはじめたなwww

736日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:06:43.69
>>734
畿内説を証明している論文

737日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:06:59.26
何でもいいから、畿内説の証拠を出せよ。
いつもいつも、証拠は?とか聞いてくるじゃないか。

738日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:08:02.16
証明されてるなんて誰か言ったか?

739日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:08:15.37
機内には巨大前方後円墳があるだろ
あと三角縁神獣鏡も

740日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:08:21.69
>>737
何でもいいからって、漠然としすぎ

畿内説は状況証拠の積み重ねなんだから、テンプレより長くなるぞ

741日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:09:03.83
>>736
畿内説が証明されてたら、九州説が存在してるわけないだろう

742日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:09:25.15
>>424
>>倭人は周代から朝貢を繰り返していただから <

>なら、なぜ記録に無いのだろう <

周初に暢草朝貢をし、その後は燕に属して、歳時の朝貢をしていたらしい。

743日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:09:37.35
連続句読点キチがまったく姿を見せませんwww

744日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:09:50.70
>>735
他スレって、どこ

興味あり

745日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:10:06.69
>>740
つまり直接の証拠はないわけだ。

746日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:10:28.85
>畿内説は状況証拠の積み重ねなんだから、テンプレより長くなるぞ

大型建物が各地にあって
内行花文鏡が平原遺跡のものを最大として各地に普及して
鉄器があからさまに100対ゼロで
硯があからさまに出土して
中国から学術出土ゼロの銅鏡があって

747日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:10:30.24
>>742
伝聞だよね

748日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:10:34.57
>>739
それはなんの証拠になるの?
邪馬台国とは関係ないよねえ。

749日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:11:14.99
九州説に検索ワードのヒントを教えてやろう

邪馬台国畿内説 論文

これで検索jかけてみたら一発

750日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:12:44.45
>>749
>邪馬台国畿内説 論文
>これで検索jかけてみたら一発

検索かけてみますた!

>邪馬台国の謎--「畿内説」確定はまだ早い--箸墓古墳の科学的データ第一主義を危ぶむ 声も

751日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:12:55.64
>>747
証拠は?
記録に基づいて書いているんだから、ある意味伝聞だろ。
魏志倭人伝だってそうだ。
陳寿が自分で倭国まで行ったわけではないから、伝聞だよ。
だからどうした。
全て自分の目で見ないと信用できないか?
じゃあ相対性理論も進化論も地動説も否定するんだな?

752日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:13:53.04
>>746
>大型建物が各地にあって

 質的に纒向に及ばない


>内行花文鏡が平原遺跡のものを最大として各地に普及して

 技術的系譜が不連続


>鉄器があからさまに100対ゼロで

 証拠なし


>硯があからさまに出土して

 外国人お雇い書記の任地として順当


>中国から学術出土ゼロの銅鏡があって

 特鋳説に整合的

753日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:14:34.27
スレを消費するだけで何も説明できない、何も証明できない畿内説。

754日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:14:56.10
畿内説を支える要素
巨大前方後円墳
三角縁神獣鏡

ここからして論者の言葉の選び方がおかしいけどまあそのレベルだからしゃーないか。

そんだけ?

755日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:15:15.55
>>752
>>大型建物が各地にあって

> 質的に纒向に及ばない

そう思う根拠は?
纒向なんてただの高床式倉庫じゃないの?

756日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:15:25.61
大型建物が各地にあって
内行花文鏡が平原遺跡のものを最大として各地に普及して
鉄器があからさまに100対ゼロで
硯があからさまに出土して
中国から学術出土ゼロの銅鏡があって

757日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:15:45.39
>>752
> 技術的系譜が不連続

自分の無知をひけらかすなよ。

758日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:16:14.98
学者さんの名前はズラッと列挙したのに

論文はまだー?

759日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:16:26.73
>>751
「云」だから

760日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:16:29.38
>>752
> 外国人お雇い書記の任地として順当

苦し紛れすぎるw

761日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:17:14.93
>>752
> 特鋳説に整合的

全く根拠なし。
むしろ同位体の解析からは、中国産ではないのではなかったかな?

762日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:18:14.37
>>755
同型連接じゃないので特殊建物

763日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:18:40.40
>>759
不満なら、魏志倭人伝を根拠とする卑弥呼や邪馬台国を無視して纒向学でもやっていればいいだろう。
それならあまり世間の反発も受けないだろうに。
ああ、予算がもらえないのか。

764日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:18:48.98
>>748
前方後円墳は3世紀のものと判明してるから
卑弥呼の時代に畿内には大きな権力があった

魏志倭人伝には魏から邪馬台国の卑弥呼へ
銅鏡100枚を下賜したと出てくる
畿内に出土の多い三角縁神獣鏡は景初三年と
魏志倭人伝に出てくる卑弥呼が使いを送った年が刻まれた魏の年号が入っている
その他銅出る徐州 師出洛陽なども銘があり
つまり三角縁神獣鏡は魏の鏡であり、卑弥呼に下された鏡であると
考えることができる

765日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:18:59.11
>>762
根拠にならないよ。

766日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:19:32.96
>>761
信頼に値する研究論文にそのような物は無い

767日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:19:41.42
同位体の解析は他の研究所にも追試解析を自ら依頼していて研究者としての良心を感じたなあ

768日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:19:51.39
>>765
ならない理由は?

769日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:20:27.89
>>764
>前方後円墳は3世紀のものと判明してるから

根拠なし。
3世紀後半以降なら卑弥呼は関係ないよ。

>卑弥呼の時代に畿内には大きな権力があった

卑弥呼と関係ないんじゃないの?
関係あると言う根拠は?

770日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:20:36.75
>>754
三角縁神獣鏡、、、古代の中華製品並びにそのコピーではない。(昔、来日した中国の考古学のお偉いさんが断言していた(中国大陸からそんな物は一切出土していない。キリ。)そうな?)

771日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:20:57.44
>>768
なると言う根拠は?

772日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:21:08.34
大型建物が各地にあって
内行花文鏡が平原遺跡のものを最大として各地に普及して
鉄器があからさまに100対ゼロで
硯があからさまに出土して
中国から学術出土ゼロの銅鏡があって

773日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:21:17.24
>>757
内行花文の技術的連続性の解説キボンヌ

774日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:21:19.74
>>767
誰が?

775日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:22:04.94
>>773
自分もテンプレを読んだだけ

776日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:22:18.20
>>750
そういうデタラメ書けば書くほど
見ている周りの人間からは九州説が嘘つきと認識されていく
見てる方だって検索かければどんな結果が出るかすぐわかるんだから
こちらの術中にはまったようだな

777日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:23:11.36
>>770
30年前
賞味期限切れ

778日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:24:33.05
>>769
畿内の前方後円墳が3世紀中くらいだというのは
炭素14測定法、年輪年代測定法、出土品の編年などから
少なくとも3世紀中ぐらいから存在するということが判明している

779日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:24:52.40
九州説って知識が30〜40年位前で止まってるよな

780日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:25:14.69
畿内説の論文がないってことは

畿内説も九州説も今だに同じスタートラインに立っている

ということ?

781日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:25:27.25
>>754
これで十分だけど?

782日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:26:06.45
>>778
全部眉唾でおかしなデータの解釈が疑われているよね。
また日本の歴史学会は神の手を使うつもり?

783日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:26:40.65
>>781
どうしたらそんな風に思えるのか、不思議でならないよ。

784日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:26:44.67
>>776
北條さんの論文の名前がイの一番に出たけど?

箸墓が卑弥呼の墓って奴だよね

785日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:27:49.58
>>782
「眉唾でおかしなデータの解釈」
だという根拠は?

786日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:28:05.14
>>779
半世紀以上前に発掘された遺跡を持ち出して
「この遺跡の調査で邪馬台国論争は考古学的に決着した」
とかドヤ顔で連呼してた基地もいるぞ

787日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:28:09.78
>>773
同じ内行花文鏡だろ。
突然出て来る三角縁よりはマシ。
内行花文鏡は紀元前の前漢の頃から倭王に与えられていたからね。

788日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:28:32.49
>>783
そうだな
もっとたくさんある

789日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:28:49.86
>>785
正しいという証拠は?

790日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:28:58.21
>>769
卑弥呼の時代に国内に他に類を見ない巨大前方後円墳が
畿内に集中しているという事は卑弥呼の時代に巨大な権力が
集中していた証拠でもあり、畿内が魏志倭人伝に7万戸と記された
当時倭国で随一の巨大都市邪馬台国であったという事の
査証として扱うことができる

791日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:29:26.05
>>783
両方とも九州にないからね

792日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:29:40.49
なんで纒向が畿内説の証拠になるのか。
説明してみろよ。

793日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:30:12.86
>>778
存在していいんだよw

卑弥呼が3世紀前半までだろ
内行花文鏡を持った将軍がやってくるとしたらその頃だからな

794日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:30:22.22
>>787
浅いねぇ
幾何学文様の内行花文は、簡単にマネできる
三角縁は神仙を知らないと真似できません

795日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:30:36.56
>>782
根拠もなしにデータにいちゃもんをつけるしかできないのかな?
とにかく学術的にはそう結論づいている

796日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:31:20.04
>>781
ほんなら。

前方後円墳は3世紀の築造を認めて良いと思う
その後長期間築造された経緯から
築造の労力を集められるだけの権力構造が
3世紀までにはあった、ということで。

ただ三角縁はいただけない。前方後円墳だけにしなよ。
三角縁神獣鏡魏鏡説は成り立つ要件より
成り立たない要件の方が多い。

797日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:31:28.24
>>501
>1里なら1尺×1800で ちゃんとした算出根拠があるよ <

それ、始皇帝が出た秦の「1歩=6尺」の、長里の換算法だよ。
周髀算経などや魏西晋朝は「1歩≒1尺」の短里。

798日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:31:28.88
>>789
質問に質問で返すのは失格

799日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:31:52.28
>>787
まったく技術的な説明になってなくて草不可避wwwwww

800日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:32:06.62
>>784
「邪馬台国の謎--「畿内説」確定はまだ早い
--箸墓古墳の科学的データ第一主義を危ぶむ 声も」
が出たんじゃないのか九州説さんよ?
さっきと言ってる事が違うなぁ?

801日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:32:29.47
>>792
古墳文化の発信源だから

802日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:32:49.85
>>793
籠神社の饒速日の鏡の方が古いけどね。
九州から畿内への侵攻は何度もあったんだねえ。

803日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:33:18.18
奴隷文化の初発源だろw

804日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:33:18.76
岡上が今日もフルボッコだな

805日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:33:41.27
>>504
大和説はたった一つ、南の一文字で全滅。

w
w
w

806日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:34:03.07
>>794
超大型内行花文鏡の製作には技術力がいる。
三角縁は粗製乱造で、文様とかもよく分からずコピーしたためか、ぼんやりして崩れているものが多い。

807日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:34:23.01
>>802
方形周溝墓がもっと古いので、大国主の頃には大山祇が侵攻してそうですね。

808日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:34:25.51
>>793
やってきた元にないモノを持ってくるという不合理な説は通用しないね

809日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:34:55.22
>>800
グーグルの検索結果は、人により違う結果が出るよ。

810日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:35:19.05
>>801
邪馬台国と関係ないな。

811日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:35:29.22
>>793
別に九州の将軍の存在がなくても畿内に大きな勢力があったで説明つくから
九州の将軍持ち出しても何も説明することにもならない

812日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:35:49.85
>>797
魏では1里=1尺×1800

813日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:36:08.19
>>806
平原鏡の話じゃないだろ
その他から出てる鏡とどう技術的連続性があるかって話だぞ
もしかして理解できてないのか?

814日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:36:57.33
>>808
元にないって何のこと?
内行花文鏡は紀元前から九州北部に出土するよ。
本当に畿内のことしか知らないなら、偉そうに日本史板で語るなよ。

815日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:37:12.94
>機内には巨大前方後円墳があるだろ<
墜落するやん^^

816日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:37:23.68
>>802
根拠不明

817日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:37:42.16
>>803
根拠なし

818日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:37:52.56
>>811
九州からたくさんの物品を持ち込んでいるからね。
どこら来たのかと聞かれたら、九州からだということになるよ。

819日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:38:03.21
>>804
根拠あり

820日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:38:09.40
>>806
新しい時期の三角の文様はボヤけてても、神仙、神獣はきちんと表現されてるんだな、これが

821日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:39:00.63
最後は畿内も独自の銅鐸を捨て、九州北部の銅矛、銅鏡の文化を受け入れるんだよ。

822日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:39:11.23
>>806
魏代の特徴です

823日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:39:29.27
>>507
>>「計其道里、當在會稽東治之東」だから、 会稽郡から分郡された南方の建安郡の東冶付近ではないの。<

>分郡なんて後世のことでしょ? 魏の話じゃない <

分郡の永安3年は260年。

824日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:39:30.06
>>807
イミフ

825日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:39:58.66
>>796

景初三年と卑弥呼が魏に使いを送った魏の年号が入ってるし
銅出徐州 師出洛陽(徐州の銅で洛陽の鏡氏が作った)と銘文があり
現在の洛陽でもこの間1面出土した三角縁神獣鏡を
成り立たないとはどういう事?
普通に考えたら魏志倭人伝に出てくる魏から卑弥呼に下賜された
銅鏡とはこれの事だろう

826日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:40:08.36
>>820
本来の意匠と異なったキメラになっているよ。
訳も分からず見よう見まねで作り直したからだね。

827日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:40:41.41
>>809
そういうウソもすぐバレるんぞ九州説

828日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:40:49.21
>>825
根拠なし。

829日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:41:04.35
>>827
知らんのか

830日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:41:16.41
国立歴史民俗博物館研究報告第163集2011年3月で自爆した人いてますなー(ぼそ

831日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:41:31.74
>>826
なってないよ
どこの鏡かあげてみそ

832日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:41:34.54
>>814
内行花文鏡は紀元前から九州北部に出土しません
後漢鏡だから

833日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:42:31.56
>>818
だからそれじゃ何の証明にもならんて
畿内にも元々物がいっぱいあったかもしれないし
九州から畿内にたくさんの物がもたらされたって言うなら
それらしい根拠を言え根拠を

834日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:42:39.68
岡上がどんどん墓穴を広げてるwww

835日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:42:39.83
>>815
確かにするなあ

836日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:43:03.52
>>827
面白そうだからやってみた。

「邪馬台国所在地論とそこへの道程 (大特集 「邪馬台国畿内説」の論理の検討) -- (前人未発の「邪馬台国大和説」をうちたてた笠井新也氏の説の検討)」

やっぱり違うものが出るね。

837日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:43:13.14
>>818
なる理由は?

838日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:43:15.00
畿内説を論文で表明した学者さんはいないの?

839日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:43:53.48
>>833
製作した工房跡が九州北部にたくさんあるよ。

840日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:44:11.36
>>821
ウソ

銅矛うけてない

841日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:44:12.32
>>829
いや別に言い張るならいいよ
検索して見ればすぐわかる事だからどっちが判定は見てる人が自動的にしてくれるわけだ

842日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:44:40.15
>>839
畿内にもあるよ

843日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:45:10.27
>>834
いや、もう埋まってます

844日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:45:48.12
>>839
証拠は?

845日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:45:56.01
おじーちゃんらのおはなしにはよーからまん^^

846日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:45:57.56
>>1=春成秀爾

847日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:46:04.52
>>836
いや俺もこれが出たんだけどな
ていうか何で1発目に出る検索結果の話になってるんだ

848日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:46:13.63
>>838
九州説論文書かない

849日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:46:54.15
>>846
病院行った方がいいぞ

850日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:48:17.92
>>836>>784と同じのが出てる

851日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:48:52.38
いやー三角縁神獣鏡の話をするととたんに九州説が静かになっちまうなぁ

852日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:49:02.83
>>849
病室からタブレットで打ってるかも

853日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:50:52.60
 >>847
 >>836
 >>784
三人同じ結果が出てるね

854日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:50:59.74
>>852
病室で電磁波飛ばす機器を下手に使ってると…

855日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:51:39.42
中国から学術出土ゼロの銅鏡

856日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:51:51.36
いやーamsの話をするととたんに >>1 がはなしそらしますなー^^

857日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:52:25.40
>>854
精神科は大丈夫らしい

858日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:52:44.81
畿内説は論文一つ示せないのか

859日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:53:34.76
>>856
テンプレにも書いてる1がそらすわけない

860日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:53:47.09
>>856
訛りどう痛い?

861日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:54:36.11
おじーちゃんらなんのおはなししてはりますの(まいこふー

862日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:54:45.76
>>858
示したくないと言ってる
示せば査読アリか?と聞かれてメンドいからだと

863日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:55:20.41
>>861
おばーちゃん、気にしなくていいのよ

864日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:55:57.36
>>853
だから九州説は邪馬台国畿内説 論文で検索しても
畿内説に関する論文が出てこないと嘘をついていると証明されるわけだ
嘘ついてもすぐにバレるよって何回も言ったんだけどなー
普段から嘘ついてるから常態化してしまったんだろうな

865日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:56:11.59
>>862
え?査読なし?

866日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:56:22.96
>>860
鉛中毒は全身いらしいぞ

867日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:56:53.78
>>559
大和説者は「南→東」などの史料事実を否定曲解している嘘つき騙しであるから、
大和説者の論文は始めから半分×であり、
学問的には半分ば×であり、何の信頼性も価値も根拠もない。<

つまり学問的には、大和説は信頼性が殆どなく、
史料事実からの帰納的推論をした九州説は、殆ど信頼できる、ということだ。

868日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:57:18.39
>>859
箸墓脇のさいかそーおこげでーたーの2つのピークはそれぞれせーれきなんねんでしたやろ?

869日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:57:56.84
>>865
調べるのがメンドいのは有無と関係ない

870日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:58:05.34
>>867
大御所が登場・・・

お前らもう寝ろ

871日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:58:36.04
>>867
した証拠なし

872日本@名無史さん2017/11/17(金) 23:59:53.43
まー大体、九州説は嘘をつく
これ、経験則

873日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:00:31.94
>>855
学術じゃないけど1枚出土してるよ

874日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:02:15.97
>>873
学術的に検証されていなければ
そもそも出土したのかも不明だし
中国進出していた明治大正昭和前期に持ち込まれたものかどうかも不明だよね

なんの根拠にもなりえない

875日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:02:57.27
>>872
その根拠は?

876日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:03:05.08
自演、成り済まし、ニセスレ立ての常習犯は九州説支持者
ソースは俺の経験則

877日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:03:35.99
>>780さん、>>607をご覧下さい

878日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:04:05.83
箸墓古墳周辺7次(纏向81次)
NRKS–02 IAAA–41114 1840±30
NRKS–03 IAAA–41115 1780±30
NRKS–04 IAAA–41116 1820±30 –27.2 12.5 37.8
NRKS–06 Beta–198872 1830±40 –24.2 *2
NRKS–09 IAAA–41918 1910±40 –25.3 11.8 27.9
NRKS–10 IAAA–41919 1840±40 –21.2 11.0 32.8
NRKS–11 IAAA–41920 1740±40 –22.0 11.0
NRKS–13 IAAA–41921 1870±40 –26.2 10.3 37.0

879日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:04:29.98
>>874
まあ、いいさ
また出るだろ

880日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:05:11.95
あーあわえもいじわるやなー

881日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:05:31.25
大型建物が各地にあって
内行花文鏡が平原遺跡のものを最大として各地に普及して
鉄器があからさまに100対ゼロで
硯があからさまに出土して
中国から学術出土ゼロの銅鏡があって

882日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:05:50.40
>>754
実際には畿内説を証明するに三角縁神獣鏡1つだけでで十分だったようだな

883日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:06:29.60
>>881
オール論破されずみ

884日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:06:34.18
>要するに、ハードルを極限まで上げて100点か0点かの二択にすることで、99点と0点を>同列にしようとする稚拙な詭弁を狙ってるわけだ

なるほど九州説だな

885日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:06:42.00
コピペ荒しは九州説支持者
ソースは↑

886日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:07:07.90
>>880
お前は漢字書けばいいの

887日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:07:13.07
>>882
その根拠は?

888日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:07:32.28
>>885
経験則

889日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:07:35.72
大型建物が各地にあって
内行花文鏡が平原遺跡のものを最大として各地に普及して
鉄器があからさまに100対ゼロで
硯があからさまに出土して
中国から学術出土ゼロの銅鏡があって

890日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:08:02.52
>>874
白馬寺近郊の畑から出土
掘り当てた人の名もわかっている
参考資料として十分条件を満たしているじゃないか

891日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:09:08.65
>>840
祇園祭に行ってごらん。

892日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:09:36.31
>>887
780辺りからのやりとり

893日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:10:13.23
祇園祭の歴史を調べようぜ

894日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:10:38.88
>>851
賑わってますがw

895日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:11:02.75
>>889
三角縁は学術ではないけれど洛陽から1枚出土しているよ
ゼロにしたがるとはよほど都合が悪いのかな?

896日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:11:06.12
>>887
ド・モルガンの法則

897日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:11:13.07
1740±40
1780±30
1820±30
1840±30
1840±40
1870±40
1910±40

898日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:11:27.14
>>853
てめーら、わかりにくい紹介の仕方するんじゃねえ!
ちゃんとタイトルを省略せず引用しろ!

899日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:12:06.66
>>826
文様がキメラになった三角マダー チンチン(AA略

900日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:12:10.35
>>854
最近は集中治療室以外はOKなところもあるよ。

901日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:12:18.55
>>894
パニック?

902日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:12:20.85
>>894
レス間隔を見てみれば九州説のレスが鈍くなっているのが一目瞭然

903日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:12:27.82
>>857
座布団1枚

904日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:12:51.16
>>890
畑w

紀元前から首都になったりした洛陽近郊の畑ですよね?
新規開墾はありえない。
前の年に見つからなかったの?
その前の年は?

銅鏡ってある程度の大きさのある銅の塊ですよね?
なんで今回見つかったの?

905日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:12:54.24
箸墓脇のさいかそーおこげでーたー
1740±40
1780±30
1820±30
1840±30
1840±40
1870±40
1910±40

906日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:13:42.71
畿内説で検索すると大和説がタイトルの文書が引っかかるからタイトルを引用できなかったのか?

907日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:13:55.73
かがみのおはなしつまらんのー

908日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:14:50.25
ゼロにしたがってるんじゃない。

学術的にゼロなんだから
理系脳としては、あいまいに1をねじ込むのが論理的に許せないだけ。

909日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:14:58.72
>>904
さぁ
金印と同じ感じじゃないの
金印はなんで見つかったの?

910日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:15:10.11
>>890
金印も掘り出した人の名前が伝わっているけど?
それが証拠になるのか?

911日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:15:56.28
>>902
風呂に入っていたからだが?
あとはザラコク氏に任せよう。

912日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:16:08.81
>>910
それじゃ金印は何の考古資料的価値もないわけか?

913日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:16:56.23
>>909
金印は倭国の都である伊都国の細石神社で保管されていたらしいよ。

914日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:16:57.08
平原鏡が八咫鏡だってのも学術的には「かもしれない」程度の話しだしなー

915日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:17:31.16
洛陽の三角縁神獣鏡と金印は
同じ考古学的価値を持つものである

916日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:17:37.61
しつもんでーす^^かがみて年代わかりますのん?(まいこふー

917日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:17:56.22
>>913
畑から見つかったらしいけど

918日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:18:12.97
>>913
学術的には無視されるレベルのはなし

919日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:18:19.77
>>909
金印は世にたった一つのものが見つかった

銅鏡は世に数百枚のものが
一つ畑で見つかった?

同一で論じることはできないのだけど、
必死でねじ込む?

920日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:18:54.94
>>912
500枚も濫造された鏡と国璽を一緒にするなよ。

921日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:19:13.41
>>916
景初三年(239年)とか正始元年(240年)とか鏡に書いてるからわかるよ

922日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:19:38.83
畿内説を証明する論文はないのか?

923日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:19:58.42
出土状況の評価の話と希少性の話の区別がつかないアホがいる

924日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:20:39.81
>>921
後世の生口が北部九州邪馬台国の卑弥呼女王を称賛していた

わけではない、という証拠は?

925日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:20:42.30
>>919
>>920

ところが考古資料としての価値は同一なんだよなぁ

926日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:21:13.41
記念メダルみたいなものだよ。
そういう鏡に限って、後期の出来の悪い鏡らしいね。
コピー商品、ぼったくり商法みたいなのが当時もあったんだろう。

927日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:22:09.97
>>925
同一?

世にたった一つで、
中国の文献にも記載された金印と

日本に500枚出土で
文献では確定されていない銅鏡が同一?

そんなことだから敗北するんだよ

928日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:22:18.96
>>924
えっ
わかりません

929日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:22:35.04
>>921
かがくてきうらづけありますのか(そぼく(ほんまはどーでもえー

930日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:23:33.83
文系だ脳

言葉遊びでかわしてるつもりかもしれんが
真面目な考古学関係者からは冷めた目で見つめられてるぞ。

ま、ニッポン人じゃないから最初から織り込み済みだろうけどw

931日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:23:56.89
>>927
だって金印は畑から出たんだろ
偽者かも知れないじゃないか
ちゃんとした学術出土じゃないからきちんとした考古資料とは言えない

932日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:26:23.45
>>929
成分分析で銀・アンチモン比が当時の中国の
銅製品と同じものであるという分析結果が出ています

933日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:26:55.41
>>931
畑から出たらなんで偽物なの?

金印も本物。三角縁神獣鏡も本物。

金印は世に一つだから、
中国史書に記載された委奴国王は博多湾周辺にいたことが確定。

三角縁神獣鏡は、600枚近く日本で出土しているから、
たった1枚洛陽近郊の畑で見つかった?(未確定
からといって
中国で作られたかどうかは未確定。

これが、学問的に妥当な判断です。

934日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:27:09.36
金印は考古資料じゃないから九州説崩壊

935日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:28:05.85
>>932
そのかがくてきうらづけをするろんぶんはなんですかの(あほらし

936日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:28:17.57
>>933
なら本物が洛陽から1枚出たって事でいいんだよな?

937日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:28:51.44
>>935
ググれば出てきます

938日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:29:33.29
>>937
それはまさかすぷりんぐはちかな?

939日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:30:22.14
>>938
そうだけど何か?

940日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:31:57.66
>>936
本物1枚が洛陽から出た、らしい。

出た証明は無いし
出たとしても畑から出ただけで、共伴土器や地層解析も全く無く、
学問的には何の意味もない。

941日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:32:00.29
>>932
三角縁は鋳直したスクラップ鏡

942日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:32:26.74
>>939
アッハッハッハwww

ばーーーーーーーーーかwww

943日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:32:28.12
>>935
だっくはかんじでかけや(ひとのひらがなはよみにくいんや

944日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:32:38.31
>>931
じゃあ中国の畑から出たと言う三角縁も偽物ということで。

945日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:33:19.06
いいか九州説
洛陽出土三角縁神獣鏡を考古資料と認めないなら
金印だって考古資料として認められないんだぞ
わかったな

946日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:33:24.77
>>941
何を鋳直したんだよ

947日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:33:38.10
すぷりんぐはちもやばいやつか(よーしらんが

948日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:34:07.74
>>942
バカっていうほうが
バーーーーカ

949日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:35:34.36
おう九州説
三角縁神獣鏡は洛陽で1面出土しましたって言えや

950日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:36:21.35
>>945
いいか

洛陽出土三角縁神獣鏡は数百枚日本出土した銅鏡の、たった一枚が本当に洛陽の3世紀以前の地層から出土したかどうかを争う考古資料だ。
三角縁神獣鏡であることは確実だが、
考古資料としての価値を持たせないなら、洛陽の3世紀以前の地層から出土した証明をしろ。

金印は、世に一つだけで、
しかも中国側に史料も残っている国宝的価値のある考古資料だ。

この点を捻じ曲げて必死に工作している日本人でないお前の姿は
全考古学関係者がじっと見ている。

951日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:36:26.84
>>890
>掘り当てた人の名

誰?

952日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:36:51.07
>>944
なら金印も偽者だな
九州に王権なんてあったためしがなかった

953日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:37:39.40
さんごくしにはひみこはんが貰った鏡はどんなかかいてありませんなー
ふもーなおはなしちゃいますか?

954日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:37:45.06
>>950
なんかワロタわ

955日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:38:11.23
>>949
すみません。
私は日本人として嘘はつけません。

956日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:38:23.96
>>908
無脳系?

957日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:39:16.08
5しゃくとーはどっちがゆーりや(ちょーはつ

958日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:39:24.79
>>949
誰かが埋めたんだろ。

959日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:39:41.85
>>953
景初年に魏から貰ったことは魏志倭人伝に書いている
三角縁には景初三年って書いてるから当てはまる

960日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:40:32.19
>>957
平原遺跡に一つだけ武器が入っていてね、五尺刀なんだよ。

961日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:40:32.25
>>945
金印も発見状況が不明だから考古学的価値はないよ
本物だというだけ
一方、鏡は無価値だね

962日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:40:34.21
>>958
誰かって誰だよ?

963日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:41:17.41
>>955
>>958

なら金印は考古資料でも何でもない事にするぞ?
いいのか?

964日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:41:39.47
>>958
安本かな?

965日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:41:56.61
>>961
本物の金印ならどこから出ようが考古学的価値は高いだろ。
福岡が倭国の都でしたと証明するものだからね。

966日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:41:56.83
>>961
こういうのをダブルスタンダードという

967日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:42:01.12
>>961
発見状況が不明だから価値が無い?

中国史料が本物だっただけでも世紀の大発見だろ
江戸時代の社会状況で志賀島で出土したというだけで
ある程度の絞り込みができる。

968日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:42:08.45
>>960
お題
1尺なんせんち?

969日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:42:26.06
>>965
三角縁も同じぞ

970日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:42:51.05
>>960
男だったのか?

971日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:43:44.10
>>969
三角縁は粗製濫造の量産品
記念メダルみたいなもの

972日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:44:38.24
>>970
これだけは魏からの拝領品で、しかも三種の神器を構成するので、外せなかった。

973日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:45:02.29
>>950
三角縁だって中国の資料に乗ってるよ?
それにそっちの言い分なら金印だって1世紀の地層から出たことを
証明しなきゃ考古資料として扱えない事になるよ?

974日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:45:27.19
>>971
金印も同じ

975日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:45:46.72
こんやのけつろん
amsは >>1 の地雷

976日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:45:47.15
>>969
ちがう。

金印は一つだけ。
出土した時点で国宝級の価値がある。

三角縁神獣鏡は数百枚。
出土しただけではさほど意味が無い。
本当に3世紀の遺物として出土したのかどうかに価値がある。

977日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:46:01.85
>>974
一つしかない。

978日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:46:10.18
>>973
どこにのってるのん?

979日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:47:05.62
そこでだ九州説よ取引だ
洛陽出土三角縁神獣鏡を本物と認めろ
そうすれば金印も本物と認めてやろう

980日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:47:10.97
スレ主は日本人じゃないからな

狗邪韓國の件といい
金印の件といい

レッドチームの連中は政治的目的をもって日本史を意図的に捻じ曲げようとしている。
侵略。

981日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:47:40.96
>>978
何か鏡図案集的なやつあった気がする

982日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:47:41.06
>>975
イミフ

983日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:47:57.48
>>979
価値が全然違うから、フェアな取引になっていない。

984日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:48:39.70
>>979
「洛陽の畑から見つかったと言われている」三角縁神獣鏡は本物だよ。
だが、学術的には、
洛陽近郊からの出土という確証はゼロ。

金印は本物。

これを否定するなら学問板から去れ。

985日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:48:58.81
>>976
金印とか諸国に配られてるから一つだけではないぞ
それに金印は1世紀の地層から出土したのか?

986日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:49:09.77
>>980
レッドチーム発言は差別大好き嫌韓東遷厨と特定された

987日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:49:33.85
>>981
は?
馬鹿にしてるの?
お前みたいなのが金印と取引とか国辱ものだな。

988日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:49:49.99
>>983
ならいいよ
そんならこっちは金印を偽者扱いだからな

989日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:50:28.61
>>987
うん正直馬鹿にしてるwww

990日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:50:38.91
>>982
おいしーもんくいなはれ
そしてべんきょーしなはれ(げーこふー

991日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:50:55.41
>>985
甚兵衛にそんなこと分かるかよ

992日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:52:01.06
なーおじーちゃんら
しんじつをついきゅーするきないんか

993日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:52:40.38
>>976
もう黒塚の評価が三世紀で定着したからな

994日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:52:53.51
>>986
へえ。そう。
レッドチームはやっぱりレッドチームだったんだな。スレ主。

お前こそ正体見たりだ。

995日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:52:55.26
わえはじゃまいかどこでもえーけどのー

996日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:53:07.29
とにかく考古資料的価値は
金印=三角縁神獣鏡なのである

997日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:53:53.66
>>996
と、日本人じゃないスレ主がおっしゃってますデス。

998日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:54:45.15
金印が誇りじゃないのー?

偽物って何人?www

999日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:54:58.72
九州説は都合が悪くなると人を非日本人扱いするな

1000日本@名無史さん2017/11/18(土) 00:55:23.41
大型建物が各地にあって
内行花文鏡が平原遺跡のものを最大として各地に普及して
鉄器があからさまに100対ゼロで
硯があからさまに出土して
中国から学術出土ゼロの銅鏡があって


lud20230204043300ca
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