まーた今年も中学二年生がデビューかよ。
馬鹿は死んでも死んでも新しいのが生まれてくるから
警察と教育者の仕事が尽きることはない。やれやれ。
ソ連軍・八路軍の蛮行を後世に伝えることは非常に重要なこと。
これは日本人として義務と言える。
昭和天皇が戦後もカリスマ性を失わずーーーーというより新たなカリスマ性を得ることが
出来たのは、「世界大戦を終わらせた人」であったからである。
明治憲法の構造上の欠陥を理由に天皇の政治責任を弁護することが
戦後日本の言論界の「大人のルール」になっている。そんな中、昨日、各メディアが
元侍従の日記を新史料として最晩年の昭和天皇の胸中を一斉報道した。
その内容はいつまで経っても自らの戦争責任を問われることへの戸惑いであった。
昭和天皇はその死に至るまで国民の一部にくすぶる責任追及を気にしていたのである。
明治憲法体制と似たような体制であったイタリアでは、終戦まもなくの国民投票によって
王制が廃止された。ムッソリーニ独裁との連帯責任を取らされたか格好である。
伊国王ットリオ・エマヌエーレ3世は反ムッソリーニ派と組んで彼を失脚させ、
連合国との休戦へと積極的に動いた。にも拘らず、国王は追放され外国への亡命を余儀なくされた。昭和天皇とエマヌエーレ3世の差は一体何であろうか?
もちろん日本とイタリアの国民性の違い、君主制の歴史の違いもあるが、
決定的な違いは、「聖断」後の状況であった。
イタリアでは連合国への降伏後も戦争は続き、「聖断」は「終戦」を齎さなかったことである。
大東亜戦争が昭和天皇の聖断によって終結したのは事実であるが、そのことは今次の負け戦の
政治責任を相殺するものではない。当時の政治慣行を理由に
天皇の行動の限界を考慮に入れたとしても、最高指導者に道義的責任すら
不問とする天皇擁護論には賛否が分かれるところであろう。
ポツダム宣言受諾が半月遅れたおかげでソ連参戦と原爆投下を招き、
戦争被害を相当程度拡大させてしまった。昭和天皇と鈴木貫太郎の「失われた2週間」
の不作為は「開戦責任」と同等の政治失策であることは間違いない。
そういった風潮の下では、「実は8月15日以降も戦争が続いていました」という事実は
天皇にとって都合のいい話ではない。「聖断」の評価額が大幅に値下がりする要因に成り得る。
戦争は8月15日に終了したことにしておかないと不味いことになると考えられたとしても不思議ではない。
昭和20年8月の時点で日本の国力は限界だった。 裕仁にはポツダム宣言受諾の一択しか
選択肢は無かった。
それを選んだからと言って、それを神格化することは非論理的で感情の世界。
日本人はバカだから 政府やメディアが創作したヒロヒト神話をいまだに信じているんだよ。