冬のクナール河は清流である。大河の流れは天空を映してあくまで青く、激流が真っ白な水しぶきを上げる。標高7千メートル以上のヒンズークシ山脈を源流とし、アフガニスタン最大の水量を誇るこの河で、灌漑(かんがい)事業に着手して、今やっと16年越しの悲願が達成されようとしていた。「山田堰(やまだぜき)モデル」の技術的完成である。透明な水が堰の表面を注ぎ、大河が一枚の巨大な板を流れる光景は圧巻だ。みな沈黙して立ち止り、不思議な世界に引き込まれる。
▼江戸時代の伝統技法
山田堰(福岡県朝倉市)は、二百数十年前に築かれた「石張り式斜め堰」である。石張り式斜め堰は、江戸時代に全国数百カ所に造られたと言われ、それまで氾濫原だった平野部の農地開拓を全国で支えた。ほとんどは近代的な取水堰に取り替えられて姿を消したが、山田堰は唯一その原形をとどめ、しかも現役だ。川一面を覆う石堰の威容は圧倒的で、巧みに川の地形に合わせ、安定した取水機能を持つ。これをアフガン山岳地帯の適正技術として導入すべく、努力を重ねてきた。
アフガン情勢といえば内戦、イスラム過激派などの政治問題が語られるが、人々を根底から苦しめてきたのは気候変動に伴う水欠乏だ。国民の多くが農業で生活するこの国で、近年、干ばつが頻発、全土で沙漠化が進み、致命的な打撃となっていることは案外知られていない。2000年、大干ばつの惨状を目の当たりにした我々(われわれ)PMS(平和医療団・日本)は、荒廃した村落の復興を掲げ、地域の灌漑計画に邁進(まいしん)してきた。
当時、大河川からの取水以外に方策なしと考えたが、川沿いでも廃村が広がっていた。渇水とともに洪水が頻発。暴れ川の急流がさらに手におえなくなっていたのだ。
しかも山岳地帯では電力が利用できず、資機材の入手が困難なだけでなく、国家支配を拒むアフガン農村の独立性や内戦による治安悪化もあり、日本のような公共事業は技術、財政共に絶望的であった。
▼安定した取水を求め
この中で注目したのが「山田堰」である。低コストかつ単純機器による建設、地元自身による維持などを考えると、これに優(まさ)るものはない。問題は先例がないことであったが、研究と建設の同時進行を覚悟し、敢(あ)えて採用したのである。
2016年まで9カ所の堰と計35キロメートルを超える幹線水路が作られ、1万6千ヘクタール、60万人分の安定灌漑を達成したとはいえ、安定取水を確実にするまで引き渡しはおろか、泥沼の工事から手が引けない。「取水堰の技術的完成」が最大目標に掲げられた。
PMS方式を最初に組織的に導入したのがカマ堰で、同流域は農地7千ヘクタール、人口30万人を擁し、東部アフガン最大の農村地帯の一つだ。着工時、荒廃が著しく、住民の大半が難民化していた。過去、旧ソ連、アラブ・米国系など多くの団体が挑んだが、クナール河の激流に適せず、カマ堰建設は不可能とされていた。
PMSは2010年から2年をかけ、不可能のジンクスを破って建設し、既存の用水路を復活。住民たちのほとんどが帰農したが、堰の構造的完成は途上であった。まるで賽(さい)の河原のように、造っては崩れ、崩れては改良した。堰そのものを水理実験模型に見立て、観察を続けながら完成度の高いものを目指してきた。
過去の知見を集め、地元に安心して手渡させるものができたのは、やっと昨年ことだった。クナール河の動きも次第に明らかにされ、施工技術も向上して構造上の弱点を克服、標準設計が完成した。
▼現地政府も普及本腰
こうして今年2月、実質8年にわたるカマ堰建設が成り、美しい石張り堰の威容が人々に安堵(あんど)感を与えた。機運は高まった。折から大干ばつの再来がささやかれる中、アフガニスタン政府も本腰を上げ、国の標準の一つに決定、国際機関とも協力、普及を目的に技官たちをPMSの研修所に送り始めた。
日本側の協力がこの忍耐を支えた。30億円に上る個人寄付は、額ではなく、この事業に結晶した数十万の日本の良心の健在を象徴する。技術だけではない。干ばつから19年、めまぐるしく変わる世相にあって、変わらぬ人の温(ぬく)もりこそが山田堰を築いた先人が伝える真髄(しんずい)なのかもしれない。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/498911
▼江戸時代の伝統技法
山田堰(福岡県朝倉市)は、二百数十年前に築かれた「石張り式斜め堰」である。石張り式斜め堰は、江戸時代に全国数百カ所に造られたと言われ、それまで氾濫原だった平野部の農地開拓を全国で支えた。ほとんどは近代的な取水堰に取り替えられて姿を消したが、山田堰は唯一その原形をとどめ、しかも現役だ。川一面を覆う石堰の威容は圧倒的で、巧みに川の地形に合わせ、安定した取水機能を持つ。これをアフガン山岳地帯の適正技術として導入すべく、努力を重ねてきた。
アフガン情勢といえば内戦、イスラム過激派などの政治問題が語られるが、人々を根底から苦しめてきたのは気候変動に伴う水欠乏だ。国民の多くが農業で生活するこの国で、近年、干ばつが頻発、全土で沙漠化が進み、致命的な打撃となっていることは案外知られていない。2000年、大干ばつの惨状を目の当たりにした我々(われわれ)PMS(平和医療団・日本)は、荒廃した村落の復興を掲げ、地域の灌漑計画に邁進(まいしん)してきた。
当時、大河川からの取水以外に方策なしと考えたが、川沿いでも廃村が広がっていた。渇水とともに洪水が頻発。暴れ川の急流がさらに手におえなくなっていたのだ。
しかも山岳地帯では電力が利用できず、資機材の入手が困難なだけでなく、国家支配を拒むアフガン農村の独立性や内戦による治安悪化もあり、日本のような公共事業は技術、財政共に絶望的であった。
▼安定した取水を求め
この中で注目したのが「山田堰」である。低コストかつ単純機器による建設、地元自身による維持などを考えると、これに優(まさ)るものはない。問題は先例がないことであったが、研究と建設の同時進行を覚悟し、敢(あ)えて採用したのである。
2016年まで9カ所の堰と計35キロメートルを超える幹線水路が作られ、1万6千ヘクタール、60万人分の安定灌漑を達成したとはいえ、安定取水を確実にするまで引き渡しはおろか、泥沼の工事から手が引けない。「取水堰の技術的完成」が最大目標に掲げられた。
PMS方式を最初に組織的に導入したのがカマ堰で、同流域は農地7千ヘクタール、人口30万人を擁し、東部アフガン最大の農村地帯の一つだ。着工時、荒廃が著しく、住民の大半が難民化していた。過去、旧ソ連、アラブ・米国系など多くの団体が挑んだが、クナール河の激流に適せず、カマ堰建設は不可能とされていた。
PMSは2010年から2年をかけ、不可能のジンクスを破って建設し、既存の用水路を復活。住民たちのほとんどが帰農したが、堰の構造的完成は途上であった。まるで賽(さい)の河原のように、造っては崩れ、崩れては改良した。堰そのものを水理実験模型に見立て、観察を続けながら完成度の高いものを目指してきた。
過去の知見を集め、地元に安心して手渡させるものができたのは、やっと昨年ことだった。クナール河の動きも次第に明らかにされ、施工技術も向上して構造上の弱点を克服、標準設計が完成した。
▼現地政府も普及本腰
こうして今年2月、実質8年にわたるカマ堰建設が成り、美しい石張り堰の威容が人々に安堵(あんど)感を与えた。機運は高まった。折から大干ばつの再来がささやかれる中、アフガニスタン政府も本腰を上げ、国の標準の一つに決定、国際機関とも協力、普及を目的に技官たちをPMSの研修所に送り始めた。
日本側の協力がこの忍耐を支えた。30億円に上る個人寄付は、額ではなく、この事業に結晶した数十万の日本の良心の健在を象徴する。技術だけではない。干ばつから19年、めまぐるしく変わる世相にあって、変わらぬ人の温(ぬく)もりこそが山田堰を築いた先人が伝える真髄(しんずい)なのかもしれない。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/498911