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パパは走っているの?腕時計が「ピッ」一緒にいるよ
走るのが好きで好きでたまらない。夫は市民ランナーだった。
フルマラソンの自己ベストは、「別府大分毎日マラソン大会」の2時間36分48秒。山野のトレイルランニングも走った。職場の神奈川県庁から自宅まで、途中の公園を何周かして10キロ余りの「帰宅ラン」もざらだった。
変調の兆しは2016年8月、リオデジャネイロ五輪のさなか。横浜市の作原薫さん(53)の夫、圭介さんは背中やおなかが痛いとこぼした。それでも、ランニング日記を見ると、9月3、4日の週末に15キロずつ近所を走っている。
9月15日の朝、ひどい腹痛で病院へ。検査入院した。膵臓(すいぞう)がんで、転移もあった。「治療は難しい。残り時間は月単位」と告げられた。
ブルーの線のシューズで走り去った
病院ロビーの丸テーブル席に、手を握り合って座った。夫は、大学2年だった一人息子のことをまず口にした。「僕に何かあっても、大学の心配はさせないで。なんとかなるから。ごめんな」。いつもと変わらぬ声で、保険や退職金の話をした。「そんなに早く死なないでよ」。薫さんは冗談めかして言った。
自宅での緩和ケアを勧められ、帰宅したものの急変。10月1日の朝、病院で息をひきとった。54歳だった。
最期と悟ったとき、薫さんは夫の耳元で「どのシューズがいい?」と尋ねた。「ブルーの……」。確かにそう答えた。おしまいの一言だった。
ブルーの線が入った白いランニングシューズを柩(ひつぎ)に入れた。これで、どこまでも走っていけるね――。
入院して16日……なぜこんなに急に
がんの疑いで入院し、わずか16日。現実とは到底、思えない夫の死。だけど、死後の手続きで区役所に行き、住民票を見た瞬間、薫さんは「あー」と声を上げてしまった。夫の名前の欄に、大きなバッテンがついていた。窓口で泣いて動けなくなった。
「元気に走っていた作原さんがどうして?」「そんなに悪くなるまで、なぜ気づかなかったんですか」
悪気はないのだろうが、周りの言葉に傷ついた。誰よりも自分がそう思い、自らを責めていたのだから。
暗闇にうずくまるようだった。でも、日常は過ぎていく。息子の食事を用意しなくちゃ。町内会の役員が回ってくる。何か動き出さないと。
年が明け、終活の通信講座を受けた。ネットで「グリーフケア」という言葉を知り、一日講座に行った。死別の悲しみのプロセスを知り、泣きたいときは思い切り泣いたらいい。そんなことを学んだ。
笑っていたけど本当は泣いていた
一人になると泣いた。夫の好きだったサザンオールスターズの「TSUNAMI」をピアノで弾き、泣いた。動画で玉置浩二の「しあわせのランプ」を聞いて、泣いた。そうだよ、幸せになるために生まれてきたんだよね……。
弔問の知人たちには明るくふるまった。「思ったよりお元気そうですね」。本当は「夫が死んだばかりでつらいんです」と書いたゼッケンをつけて歩きたいほどだった。
神奈川県職員の夫とは1995年、見合い結婚だ。薫さんは音楽大学を出て、ピアノの個人レッスンをしていた。夫は穏やかで怒鳴ることなんかない人。口げんかをしたこともなかった。
それに子煩悩だった。息子と恐竜博に行ったり、棋士に会える子ども将棋イベントに参加したりした。
夫に似て無口な息子は大学院に進み、この春に社会人になった。父について話すことはほとんどない。ただ、日曜に家族で夕飯を食べながらつけていた、テレビ番組は見なくなった。「ちびまる子ちゃん」と「サザエさん」。息子はチャンネルを替える。
「カントク」って慕われていたんだね
夫は、大学時代に入っていた登山・キャンプのクラブの友だちから、「カントク」と呼ばれた。プロ野球の広岡達朗元監督に似ているといって。「走るのが速くない仲間にも、カントクは優しかったなあ」。そんな話を聞くと、夫の別の顔に会えてうれしい。10足近くあるランニングシューズは捨てられない。
あるとき、夫が好きだった北海道の山の風景がテレビに映った。「パパ、行ったことあるかな」と息子と話していたら、「ピッ」。夫の腕時計が答えるように鳴った。走るときにいつも着けていた。1時間ごとに鳴る。
あ、パパの合図だ。「行ったことあるよって言ってるね」。こんなふうに、絶妙のタイミングで時計が鳴ることが重なった。何十回も。
姿は見えなくても、いつも一緒にいるんだ――。そう思うようになった。
歩いて5分の寺にお墓がある。墓石の名前の下に「走」と刻んだ。当初は朝晩、お参りした。でも、いまはそんなに通わなくても寂しくない。
いまも年賀状は夫の写真つき
年賀状には毎年、夫の元気なころの写真を載せている