https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/109026
京都地裁の在日外国人障害者無年金訴訟で原告団長を務め、今年8月に肺がんで亡くなった在日コリアン2世金洙栄(キムスヨン)さん=享年(67)、京都市上京区=の追悼集会がこのほど、京都市内であった。国籍を理由に社会保障から排除される不条理を訴え、気迫で多くの人を動かしたが、晩年は制度の壁に失意を深めた。支援団体は金さんの遺志を継ぎ、解決を求める活動を活発化させる方針を確かめた。
国は国民年金制度の対象から在日外国人を外す国籍条項を1982年に撤廃したが、20歳以上の外国人障害者には障害基礎年金を支給せず、救済措置を取らなかった。金さんら市内の在日コリアン聴覚障害者7人は、国などを相手にした集団訴訟で憲法違反だと主張した。
京都府立ろう学校の同窓生で在日コリアン2世の60代女性は取材に、金さんとの思い出を手話で語った。女性は中学部時代、本名を理由に「朝鮮に帰れ」といじめられたが、親分肌で物まね好きの人気者だった金さんに「僕は本名を名乗っている」と励まされた。後年、訴訟で原告になるよう金さんに説得された。「力を合わせよう。こんな差別はおかしい」と、手のひらを傾ける「頼む」の手話を繰り返したという。
「大変な人生なのに温和な人柄。そこに求心力を感じた」。訴訟の弁護団事務局長だった池上哲朗弁護士(53)も、その手話を記憶に残す。97年10月、初めて事務所に来た金さんは面談中から退出する際まで「頼む」と繰り返し、頭を下げた。西陣織職人の金さんはバブル崩壊で生活が困窮。年金はなく、土木作業やごみ収集の仕事で暮らしをつないでいた。「壁は厚い訴訟だが、やらなければならない」と覚悟を決めた。
2000年に提訴。03年3月、金さんは地裁で最終意見陳述に立つ。途中から手話ではなく、発話が不自由なのに肉声で「日本人と同じように、日本に生まれ育ち、永住権もある。なのに、なぜ私たちに年金が支給されないのか」と訴えた。
だが07年、敗訴判決が最高裁で確定した。池上弁護士は「不合理な差別をしていたと、歴史の審判を受けるはずだ」と今も考える。
10年2月、金さんは市民団体「在日無年金問題の解決をめざす会・京都」の共同代表に就いた。政治解決に前向きだった当時の民主党政権に期待をかけたが短命に終わり、厚生労働省への要望活動などを続けたが、進展はなかった。
同会メンバーで聴覚障害者の永井哲さん(64)は「国という壁を少しも突破できなかった」と悔やむ。今年5月、要望活動の内容を体調不良で欠席した金さんへ伝えると「次は無理でも、その次は行けるようにしたい」と応じたという。
敗訴確定後、金さんは家庭で苦悩を深めた。妻によると、酒とたばこの量が増え、夜中の居間で「なんで年金がもらえないのか。おかしい」と顔をしかめて独り言を繰り返した。妻が「仕方ない」となだめると、怒り出す日々だった。
心が落ち着いたのは6年ほど前。肺がんの手術を機に「子どもの成長を見ていたい」と酒とたばこをやめた。妻にとって、病への心配と背中合わせの温かな時間だった。「私も忘れていた結婚記念日を覚えていてくれたんです」と涙を浮かべた。
めざす会が今月14日に開いた追悼集会には約50人が集った。「解決までやめる訳にはいかない」と発言が続いた。同会では署名活動を盛り上げ、年明けに厚労省へ要望に赴くという。
京都地裁の在日外国人障害者無年金訴訟で原告団長を務め、今年8月に肺がんで亡くなった在日コリアン2世金洙栄(キムスヨン)さん=享年(67)、京都市上京区=の追悼集会がこのほど、京都市内であった。国籍を理由に社会保障から排除される不条理を訴え、気迫で多くの人を動かしたが、晩年は制度の壁に失意を深めた。支援団体は金さんの遺志を継ぎ、解決を求める活動を活発化させる方針を確かめた。
国は国民年金制度の対象から在日外国人を外す国籍条項を1982年に撤廃したが、20歳以上の外国人障害者には障害基礎年金を支給せず、救済措置を取らなかった。金さんら市内の在日コリアン聴覚障害者7人は、国などを相手にした集団訴訟で憲法違反だと主張した。
京都府立ろう学校の同窓生で在日コリアン2世の60代女性は取材に、金さんとの思い出を手話で語った。女性は中学部時代、本名を理由に「朝鮮に帰れ」といじめられたが、親分肌で物まね好きの人気者だった金さんに「僕は本名を名乗っている」と励まされた。後年、訴訟で原告になるよう金さんに説得された。「力を合わせよう。こんな差別はおかしい」と、手のひらを傾ける「頼む」の手話を繰り返したという。
「大変な人生なのに温和な人柄。そこに求心力を感じた」。訴訟の弁護団事務局長だった池上哲朗弁護士(53)も、その手話を記憶に残す。97年10月、初めて事務所に来た金さんは面談中から退出する際まで「頼む」と繰り返し、頭を下げた。西陣織職人の金さんはバブル崩壊で生活が困窮。年金はなく、土木作業やごみ収集の仕事で暮らしをつないでいた。「壁は厚い訴訟だが、やらなければならない」と覚悟を決めた。
2000年に提訴。03年3月、金さんは地裁で最終意見陳述に立つ。途中から手話ではなく、発話が不自由なのに肉声で「日本人と同じように、日本に生まれ育ち、永住権もある。なのに、なぜ私たちに年金が支給されないのか」と訴えた。
だが07年、敗訴判決が最高裁で確定した。池上弁護士は「不合理な差別をしていたと、歴史の審判を受けるはずだ」と今も考える。
10年2月、金さんは市民団体「在日無年金問題の解決をめざす会・京都」の共同代表に就いた。政治解決に前向きだった当時の民主党政権に期待をかけたが短命に終わり、厚生労働省への要望活動などを続けたが、進展はなかった。
同会メンバーで聴覚障害者の永井哲さん(64)は「国という壁を少しも突破できなかった」と悔やむ。今年5月、要望活動の内容を体調不良で欠席した金さんへ伝えると「次は無理でも、その次は行けるようにしたい」と応じたという。
敗訴確定後、金さんは家庭で苦悩を深めた。妻によると、酒とたばこの量が増え、夜中の居間で「なんで年金がもらえないのか。おかしい」と顔をしかめて独り言を繰り返した。妻が「仕方ない」となだめると、怒り出す日々だった。
心が落ち着いたのは6年ほど前。肺がんの手術を機に「子どもの成長を見ていたい」と酒とたばこをやめた。妻にとって、病への心配と背中合わせの温かな時間だった。「私も忘れていた結婚記念日を覚えていてくれたんです」と涙を浮かべた。
めざす会が今月14日に開いた追悼集会には約50人が集った。「解決までやめる訳にはいかない」と発言が続いた。同会では署名活動を盛り上げ、年明けに厚労省へ要望に赴くという。