戦国中期の畿内の支配者。三好長慶に敗れたけど無能じゃないよ!
多分。
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どっちかっていうとあんまりイメージよくないかも。
自身で兵を率いて戦ったこともあるのに、信長の野望では公家さんの
かっこして口調は「まろ」。がっくり。阿波で14歳までを過ごしたのだから
まろはないだろうと思った。
武田信玄だって守護大名出身じゃないか。正しいというよりも
ああいうのはイメージで決められるものだろう。
武田はただの守護。
細川はそれより上位の管領家。
家で比べるのは不適当。
いや「守護以上」ってんなら同じだろ。
家じゃなくて個人で比べるのならなおさら。
細川晴元か
それより衰退の遠因は勝元にあり
直接の原因は、政元が澄之、高国、澄元と三人も養子をとったことにあるんじゃね?
念力で宙を浮いてたからねえ。後醍醐といい奇特な人が多いな立川真言流
細川京超家は江戸時代は何してたの?
明治に入って華族に列せられたりはしたの?
京兆家ですか
管領職は高国養子の氏綱で最後、永禄二年(1563)の死去により廃絶
少し後まで生き残ったのは、澄元ー晴元系
晴元の子昭元は信長のもとで蹴鞠の相手
昭元の子頼範は秀頼に属し、大坂の陣で敗戦、竜安寺→大和高島に退去
細川澄元、細川高国、細川晴元・・・
どれもぱっとしないなぁ・・・
まあぱっとしているほうが人数少ないんだから。
ところで晴元って管領に就任していないって本当?
>>22
天文五年(1536)〜同十八年(1549)に管領じゃないかな? いや、その年に右京大夫にはなってるけど、管領に任命されていない可能性があるらしい。
実際、幕府の官僚だった当時の蜷川氏の日記には晴元を管領と呼ぶ記述が一つもない。
管領に相当する地位に就く、ってのもあるけど
よくわからないね
>25
あと晴元の奉行人の署名が「管領代」じゃなくて「右京兆代」だったりね
右京大夫就任で、実質的に管領並と見なされていたようだけど
ついでに晴元といえば、なかなか偏諱が貰えなかった為に
「晴元」という名前になるのも随分後のことだったりもする
通説が先走っている人物だね
というか、この人阿波での14年間何してたんだっけ?
あと「晴元」になる前は「聡明丸」で通してたんだろうけど、元服はいつだったの?
大永六年(1526)に堺で元服したらしい
しかしあれだね
勝元ー政元ー澄之ー晴元とみんな聡明丸だね
昭元もかな
>28
「晴元」の前は、書状への署名を見る限りでは
義晴の偏諱を貰えるまで「六郎」で通してたっぽい
>29
昭元も聡明丸だよ
嫡流の子供はすべて聡明丸だからな。
しかし澄之は17歳で討死にして子供はいない。阿波出身の澄元は自分の子供に
聡明丸を名乗らせた。1512年当時は高国との抗争が続いていた時期だったから暗に
自分の系統が嫡流だと主張していたんだろうな。
六郎というのも京兆家当主の通り名かい?
京兆家嫡が代々聡明丸なのは、
京兆家始祖頼元の童名が聡明丸だったことに由来するようだね
>31
同じく京兆家当主であった政元の通称は九郎、澄之もこれを継承している
澄之を排して京兆家督を相続した澄元が六郎、晴元はこれを継承している
念のためにざっと尊卑で六郎を探したら、
稙国・満国・持春・教春・政国・勝之・教祐・成之などがいた
京兆家始祖頼元は五郎だし、六郎の面子を見ても京兆家当主が六郎というわけでもない
それ以前は
頼之 弥九郎ー頼元 三郎ー満元 五郎ー持之 九郎ー勝元 六郎
なるほど。しかしこの人、生まれてから畿内に来るまで阿波でどんな暮らしをしていたんだろう。
庇護者の三好元長は晴元より13歳くらい上だし、父親代わりとかになってなかったのかな。
まあ畿内上陸後の仲の悪さを考えるとそれはなさそうか。
>>34
ちょっと調べてみます、何かわかればいいですが 六郎だの聡明丸だの名乗って対外的に京兆家家督をアピったつもりだったんだろ
だがぬるい。ぬる杉。そんな名前を僭称するくらいなら
細川清氏を見習えよくそヴぉけ晴元!!!!!
と言いたい
阿波の暮らしは全くわからいけど・・・
元長の祖父之長が高国に敗死したのが永正十七年(1520)五月
翌月には晴元の父澄元が阿波で死去
時に元長二十歳、聡明丸七歳(元長の父 長秀は永正六年に敗死している)
それまで澄元と之長は、対高国戦で行動をともにしており、
ましてや三好も失意のどん底にあるわけだから、
元長から見れば晴元は再起の切り札、掌中の玉
大切にしたんではないでしょうか
翌年には義稙も阿波に流れてきて、切り札は一枚増えましたが
後の晴元と元長対立は、元長側から仕掛けたものではなく
堺入りの力となった、柳本賢治、波多野稙通、木沢長政と元長の対立から来ました
大永七年(1527)八月に元長が阿波に帰国したのは、柳本らの讒言を晴元が信じたためですし、
晴元に懇願され復帰し、高国を滅ぼしたまでは良かったが、
又も木沢らの讒言を晴元は入れ、天文元年(1531)に元長は敗死するわけです
ここから浮かびあがるのは、元長は晴元を軽んじてはいないこと、
逆に晴元は元長が疎ましかった、ということかと
ある意味長慶が父の仇と晴元を思っても、仕方ないですねこれじゃ
>堺入りの力となった、柳本賢治、波多野稙通、木沢長政と元長の対立から来ました
茨木長隆などの摂津衆もこれに入るかと
柳本などは山城守護代職を元長と争っている経緯もあるね
ましてや高国を追いやる事が出来たのは、香西元盛讒死をきっかけに
波多野・柳本兄弟が高国から離反し、阿波衆と連携したことが大きい
それなのにその後に自分達より重んじられる元長ら阿波衆を、
この兄弟は苦々しく思っていそうだ
>>39
ら が抜けてたかな、すいません
両者の間で揺れる晴元、まあそれも当然なのか
元長からすれば、な・ん・でと思いそうだかけどね
>>40
面白いね、堺時代は義維だしね、主君は
天文元年(1532) か義晴を迎えたのは 確かに堺時代に晴元はしっくりこないな
でも>>41が正論だな 史料に残っている晴元の名称
『厳助往年記』永正8年3月21日条
「(前略)宗明御供三好巳下其勢八千余云々」宗明とは聡明丸もしくは聡明六郎ととれる
『ニ水記』大永元年3月18日条
「風聞和泉堺六郎上洛和談事不事調儀令治定仍為三好合力京勢数多令下向云々落着事候儀也」
享禄3年9月20日付綸旨案は細川六郎宛になっている
「本満寺文書」天文2年(推定)10月20日付の軍勢督促状の発給人名は「六郎」
「広隆寺文書」天文3年10月7日付の奉行人奉書の発給人名は「六郎殿代 諏訪長俊 飯尾堯連」
「玉林院文書」天文4年11月18日付の安堵状の発給人名は発給「右京大夫」
>>45
機能はしていた
ただ世情的に将軍一字拝領申請が出来ない状況だっただけ
晴元に限らず、伊達稙宗にも同じ状況が見られる
左京大夫官途申請と将軍一字拝領申請が遅れ、
家督後も永正14年まで伊達次郎で通していた >>38
確かにその通りだが、高国という共通の敵がいる以外に、この両勢力が協力
することなどあり得ない。結局晴元は自分の支持基盤としてどちらかを選ぶ
必要に迫られたのだから、長慶の仇の話は個人的感情を出るものではないだろう。
そしてかつて父澄元が、阿波勢力を嫌う畿内勢力に叩き出されたために
二度と京に戻る事がかなわなかったことを知っている以上、いかに年少
とはいえ畿内勢力と組むことをためらうとは思えない。
元長は晴元をないがしろにしてないというが、元長は高国との戦いで戦死した
柳本賢治の遺児を、晴元が家臣に取り立てようとした矢先に兵を出して殺している。
これは畿内勢力との協調を拒むものとして晴元を激怒させている。このことが
一向宗を動かす契機になったと思うけど。
>>47の意見には大筋で同意だ
だが阿波勢力ではなく畿内勢力を支持基盤に「選んだ」のではなく、
晴元が京兆家家督を自称する以上は、晴元にとっては京兆家の分国の
丹波・摂津が一番の支持基盤であるのは至極当然なではないのだろうか。
柳本遺児の登用も、丹波で一定の勢力を誇る波多野・柳本・香西などとの
結びつきを一層強めることで、丹波方面への自らの影響力を強めたかったのだろう。
茨木長隆らの摂津衆を多数新規に登用するのも同様。
…どうでもいいが三好政長って畿内の連中と仲いいよな。そりゃ晴元に可愛がられるわ。
確かに。どうして三好一族なのにあんなに仲いいんだろ。桂川の戦いでも
波多野・柳本・香西らと一緒に戦っているし。
こいつをさっさと殺しておけば、長慶も無駄な時間を費やす事なく勢力拡大できたのにな。
興味があるんだが、勢力関係がわかりにくい…。
政元時代から勉強したほうがいいのかな?
確かにややこしい。流れを説明すると・・・。
政元、将軍を追放・首の挿げ替えで権力を握る。
↓
後継者争いで、養子の澄之に政元殺される。
↓
その澄之も、もう一人の養子澄元に殺される。
↓
その澄元も、さらにもう一人の養子の高国に京都から追い出される。
↓
澄元と高国は争うが、最終的には高国勝利。澄元は死亡。
↓
数年後に澄元の遺児晴元が高国に戦いを挑み、高国敗死。晴元が細川家家督に。
こんなもんか?わかりやすく書いてみました。
このあたりは井沢元彦の「逆説の日本史」でも華麗にスルーされているからなあ・・・。
戦国時代の始まりは応仁の乱ではなく、明応の政変だというの認識が学会での主流だというのに・・・
>>47
>>48
晴元が軸足を畿内勢力に移したと理解します
その判断が良かったのか悪かったのかは、別ですが じゃあ三好元長について行く!という判断をしたとして
その先はどうなったのだろう。畿内の諸勢力を阿波の兵だけで
排除できたのだろうか?そもそも元長がいつまでも使われ続ける立場
かどうかも怪しいしな。先の事はわからんね。
木沢なんて策士だから
元長とともに晴元も葬られる可能性が大きいかな、確かに
>>58
晴元が畿内諸勢力を全て敵に回したとしたら、
早い時期なら細川晴国、後なら細川氏綱につく勢力が圧倒的に多数になり、
良くても再び阿波に逼塞の憂き目かと
最悪パターンは>>59の言う通りになりそうだな 結局、敗退した父を見ている以上、それが最良の選択肢だったんだろう。
>>57の言うように判断が悪いことがあるとは思えないな。確かに最終的に
三好長慶に負けはしたが、約20年畿内を支配したのは間違いない事だし。
三好も少し畿内を意識しすぎだったんじゃないのか?だから長宗我部に結局は
滅ぼされてしまったんだよ。 政元 明応二年(1493)義材追放ーー永正四年(1507)殺害
澄之 永正四年(1507)相続ーーーー同年戦死 その間二ヶ月
澄元 永正四年(1507)相続ーーーー永正五年(1508)近江に落ちる
高国 永正五年(1508)入京ーーーー永正十六年(1519)近江に逃れる
澄元 永正十七年(1520)入京ーーー同年阿波へ逃れる その間二ヶ月
高国 永正十七年(1520)入京ーーー大永六年(1526)近江に逃れる
晴元 大永七年(1527)堺に入るーー天文十八年(1549)近江に逃れる
高国の敗死とか晴国の存在とか、抜けているところもありますが
高国が長いかと思っていたが、>>61の言うとおり晴元が長いんですね >>62
晴国は京を制圧できていないし、抜けていても問題は無いw 晴国は氏綱の前段階という感じ。
晴元は子供のころから50近くまでひたすら戦い続きという感じか。父澄元、
祖父政元、曽祖父勝元より長生きしたのにねえ。
氏綱か
最後の管領ですね
晴元はバランスとってたからまだ力がありましたが、氏綱は長慶頼みの傀儡管領
晴元の晩年は失意のどん底かor悟りの境地か?
管領家の妾腹と、庶流の嫡男どっちが格上なんだろう。
普通に考えると
阿波とか和泉とかの守護のほうが高いと思う
適当な言葉が見つからないが、江戸期の部屋住みみたいなもんでしょ、管領家の妾腹って
庶子でも京兆家相続すれば、ガラリとかわるでしょうが
>>66
う〜ん、最終的には降伏したような感じになったけど、それまで約10年間戦い続けていた
訳だし、力は出し切ったんじゃない?1561年時点では、忠臣だった香西元成もすでに亡く、
一方の将、三好政勝は健在だけど、活動拠点の丹波の大部分は松永長頼に制圧されていた。
抵抗は続けられない訳じゃないけど支持基盤は確実になくなっていたし。
残る方法は六角に援軍出してもらうぐらいだけど、将軍は長慶の手中だから六角が動く
可能性は低いし。まあ潮時な感じもする。しかし長慶は晴元より先に死んでいたら
話は違ったかも。没年は一年ちがいだしな。
>>69
長慶が先に死ぬ・・・
晴元は有力な家臣も勢力圏も失ってるから、
もう気力がなさそう
相手が久秀だし、下手打てばさらに哀れな末路が・・・ 宗教勢力の対応に苦慮してるよね
法華一揆
一向一揆
比叡山
確かに苦慮した。しかし、うまく利用もしたな。三好元長を倒せたのも一向宗
を動かしたおかげだし、法華宗は比叡山の協力で京都からたたき出した。
全てうまくいっていたわけじゃないけど。
と言うか利用したつもりで、手を出してはいけないものに手を出してしまったのでは
一向一揆は元長を敗死させ図に乗って暴れ出すし
しかたなく法華衆と組み山科から追い出したが、両門の争いは続き
ようやく講和したあとの平穏は、松本問答に端を発した比叡山の進攻で破れ、
京の大部分を焼く始末・・・
こんなことしてるから勢力が自身の弱まるわけよ
連投申し訳ないけど
やはり細川、ひいては畿内の更なる混乱は政元が原因と思う
斯波、畠山の身内同士の争いを散々見ているくせに、
澄之と澄元の両方を養子にしたんだから
一向一揆の暴走が有力被官を多数敗死させたことで、晴元の勢力は確かに削がれたように思う。
しかし法華一揆に関しては、当時の武家の不在が続く京都において
法華一揆が武力をもって自治権を行使し、その勢いは武家をも凌ぐほどであったこと考えると、
晴元が京都に入るためには何よりもまず法華一揆の勢力をそぐ必要がある。
その為に法華と対立していた一向一揆にぶつけ、更にとどめに山門と佐々木京極をぶつける。
天文法華の乱以降、法華一揆が立ち上がることがなかったことからも、
自身の手を汚さずして法華の徒をここまで押さえ込んだやり口は老獪ともいえるんじゃないだろうか。
一向一揆にしろ法華一揆にしろ、晴元がまともにぶつかったら更に大事になってたんじゃないか?
信長も一向一揆だけであれだけ手を焼いてるんだし。
ごめんね細かいことだけど、六角だと思いますよ
対畠山義宣で証如に援助を依頼しなければ、どうなっていたか・・・と言いたいだけです
その後の一向一揆がどうなったか予想できないので、なんとも言えないけど
まあここらで・・・
>>78
・畠山義宣に木沢長政が討たれる
・勢いに乗って畠山が和泉にも侵攻
・和泉の荘園をかねてより狙っている根来も加勢
・和泉一国奪われる
というパターンもあるかも。
堺が押さえられたら相当痛そう。 一向一揆を巻き込んだのは
やむにやまれぬ判断かもな
確かにどんな事態が起こるかわからなかったが、畠山義宣ー三好元長を
潰すのに、兵力の乏しい晴元には他に選択肢があったとは思えない。
その後、宗教には宗教をぶつけるというのはある意味ごく自然な成り行きかも知れない。
三好スレも立ったけど、ここに来るまで
応仁の乱→信長上洛までが空白だった、三好長慶ぐらいは知ってたが
晴元も結構なかなかだね
調べれば調べるほど
三好スレとはつかず離れずのほうがいいだろう。
時代も場所もほとんど同じだが敵対勢力だし。
毛利と尼子スレみたなもんだな
お互い切磋琢磨できれば
複雑で面白いんだけど政元退場後は主役が次々に交代するから小説化しずらいな
かろうじて主役を張れそうなのは六角定頼ぐらいかな
個人的には三好之長ー元長ー長慶の三代なんか面白いと思うけど
細川スレだから
1、高国
2、晴元にしとこうか
波乱万丈だから
>>87
六角定頼は1552年没だし、畿内の情勢に全て関わりがあるわけじゃ
ないしね。それになんだかんだ言っても政元暗殺後から信長上洛まで
60年ぐらいあるし。一人の人物に絞るのは無理があるんだろうな。 細川晴元の子で、昭元の弟の延元ってなにか情報ないですか?
木沢は畠山から始まり、コロコロ動く
まあこのころの畿内はそういう人が多いが
赤沢はなんか一揆を鎮圧し損ねて殺されちゃったんだっけ?政元の家臣という
イメージしかないな。
柳本賢治は畿内の利害関係に忠実というか、反三好、反細川高国という路線
を突っ走ってこれまた浦上村宗に殺された。
木沢は、上にのし上がりたくて色々やったような感じだな。主筋の畠山を晴元の
力を利用して越えて、宗教戦争のなかでも活躍して、実質的な晴元政権のナンバー2
くらいの位置につけた。もうこれくらいでよかったのになんで晴元に逆らうこと
をしたんだろう?反旗を翻せば必ず三好が潰しにかかるのはわかっていただろうに。
柳本賢治をどうしても「やなぎもとけんじ」と読んでしまう。
大阪出身の柳本啓成というサイドバックがいるが、血を引いているのだろうか・・・
こっちは晴元中心で三好とか木沢とか
あっちは勝元とか政元とか細川一族とか
このスレの流れみると
結構晴元は評価してもいいような、気がしてきた
>>105
そんな君は同じ戦国板の三好氏総合スレに行こう。まったく逆の感想
を持つだろう。 どちらかと言うと、晴元は精一杯やったけど、ダメでしたって感じ
落日の細川家を守るのに必死
ちょっと左右にぶれるのが難点だけどね
基盤とする勢力が一定でないこと
バランス感覚ともいえるけど
堺幕府→三好元長・柳本賢治・丹波勢
天文法華の乱→三好政長・木沢長政・摂津衆
氏綱との抗争→三好政長・三好長慶・摂津衆(離合集散あり。)
京都奪回戦→香西元成・三好政勝・波多野丹波衆
みたいな感じか?この後は政勝や柳本某らが抗争を継続して粘り強く三好家に
挑んでいったな。
政勝より一足さきに、長慶と和睦するけどね=晴元
全体見ると、本当に頼りになる家臣(?言い方が適切かどうかはあるが)がおらず
京兆家の威信を守るための集合離散と思う
この人はまだ、誰かが味方してくれるからいい
>政勝より一足さきに、長慶と和睦するけどね=晴元
そう。晴元和睦後も政勝は戦い続けているね。反長慶は長慶が死ぬまで貫き通したな。
まあ親の仇だし、当然か。
まあ二川分流で、もともとの京兆家の家臣がどんどんいなくなってしまったし、
最初は阿波からの出発で、京都の地盤がないということもあるかも。
あと、摂津衆が頼りになる家臣になってくれなかったからね・・・。
伊丹氏は三好長慶との抗争でただ一氏、晴元側についてくれたがそれ以前
では味方だったり敵だったりだし。
やっぱり武将としては香西元成、有力家臣としては三好政長が筆頭かね?
ずいぶん三好長慶にも助けてもらったけど、あれもいろいろ考えての行動
だし、最後に下克上じゃあ家臣とはいえない。
そうだね
政長もそうだけど、香西元成はずっと忠実だよね
元成が永禄三年(1560)に討死したのは、晴元には痛手だったろうね
それが翌年の和睦につながってる、ような気もする
晴元に対応するのは、
当初高国を庇護し対立し、後に和睦し管領代となった定頼で、承禎じゃないと言ってみる
義弟には違いないが・・・
まあそうだな。義賢も確かに援軍を率いたことはあるけど、
やっぱり岳父としての定頼のほうが存在感があるかな。いろいろ
晴元も頼りにしたし。
晴元の奥さんって三条氏の娘だよね?長女が晴元の、次女が武田晴信の妻になった。
三女は晴元の養女として本願寺顕如に嫁いだ。
晴元はいつごろ結婚したんだ?
三女は一度、晴元の養女になってから、嫁いでいるみたいだね
晴元夫人との婚儀?
公頼の
長女は天文五年(1536)
三女は弘治三年(1557)だけど・・・
天文五年か・・・。法華一揆がおさまった頃だな。晴元は22、3歳ごろか。
この夫人とは女子しか産まれず、嫡男昭元を産んだのは六角定頼の娘だったっけ。
この夫人達は晩年はどこにいたのかね。三条公頼は大内義隆の招きで山口に
いる時に陶晴賢の反乱にあって死亡しているけど。
流浪の晴元と一緒にいたのだろうか。
よくわからないね、夫人の一生は
三条氏の子・・・娘二人かな
昭元の母・・・六角定頼の娘
問題はこの六角氏で、享禄四年(1531)に婚約、天文六年(1537)とあるが、
(昭元の生年は天文十七年(1548年))
三条氏との関係が、よくわからないなあ
正室二人ってことかな?
まあ婚約のときはまだ幼くて、6年後に正式に結婚したってことかな?
三条氏の娘二人はどこぞの大名や、武家に嫁いだと聞いているけど。
各家成員リストでは
娘(赤松某妻)
娘(有馬某妻)
これではわからんね
晴元も娘って(三条殿の子かどうか知らないけど)、朝倉義景の正室なの?
まあ最初の妻でしょ。すぐ死んだけど。晴元と誰の間の娘かもわからないし。
関係ないが晴元は足利菊童丸(義輝)の乳母と密通したとして、三好長慶の家臣を
鋸引きの刑に処している。これが晴元が残虐性をもつといわれる根拠になっているが
実際のところはどうだったんだろう?
善住坊(しかも川谷拓三の・・・)を思い出す=鋸引き
一般的とまでは言わないけど、結構あったんじゃないかな、重罪に対しては
義輝の乳母じゃ、相手が悪いよ
忠義(?)とも言えるんじゃ
晴元の家臣で最近耳にするのは高畠甚九郎長直。香西元成と同じように
晴元に仕えた人物だけど、江口の戦いで三好政長とともに戦死。
長生きしていれば、京都奪回戦も少しは違っていたかな・・・。
>>130
山城郡代であるのはわかったけど、出来れば詳しく教えて 高畠 長直(たかばたけ ながなお、? - 天文18年6月24日(1549年7月18日))は、
戦国時代の細川氏の家臣。通称は甚九郎、後に伊豆守の官途名を与えられる。
元は山城国鳥羽の国人の出であった。同国の国人は山城国一揆が、当時の管領であった
細川政元と関係を持っていたことで知られるように、戦国時代に入ると同氏の影響を
強く受けるようになっていた。高畠氏は桂川流域の高畠荘の有力武士であるとともに
土倉や水運関係の仕事などを営んでいたと言われている。細川高国と細川晴元が管領
の地位を巡って争った際には、長直は兄である与十郎長信とともに晴元側の一員として参戦し、
晴元の勝利後には兄が山城郡代として山城国内の細川領を監督する地位に立ったために、
長直も晴元の近臣として仕えた。
高畠氏はその地域性から公家や寺社勢力とも繋がりを持ち、特に桂川から淀川を経た下流にあたる
石山本願寺と密接な関係をもっていた。特に本願寺門主証如とは親密な関係にあり、証如が庭田重直の娘
との間に男子(後の顕如)が生まれた時には、管領・晴元の代理として祝辞を述べている。
また、三好元長・内藤国貞との戦いにも参戦して戦功を挙げている。
木沢長政の死後、同じ頃に死去した兄・長信の後を受けて山城郡代となり、細川氏綱や
これと結ぶ畠山政国らとの戦いに参加する一方、天文15年には晴元に従って後奈良天皇に拝謁している。
だが、晴元の重臣三好長慶の氏綱方への離反をきっかけに状況は一変する。天文18年江口の戦いにおいて、
晴元方三好政長の軍に参加した長直は三好長慶の攻撃によって敗死してしまうのである。
近年、上杉本洛中洛外図に長直の屋敷が描かれている事が確認されたために、
執筆年代との関係で様々な議論を呼んでいる。
ウキペディアによるとこんな感じ。長直だけじゃなくて兄もつかえていたらしいね。
糞wikiをソースとして使うアホは来ないでよろしい
確かに晴元の家臣として、香西元成とともに活躍してくれたかもしれない。
それはともかく、茨木長隆は京都奪回戦には加わった痕跡がないな。
晴元の家臣というより幕府管領の右筆だったということなのか。
高畠長直・・・調べてもあまり出てこない、オレの調べ方が悪いんでしょ
晴元からみれば、頼りになる数少ない家臣だったんでしょうね
>>134
茨木長隆は
・高国を攻め滅ぼす
・一向一揆と結び、三好元長を滅ぼす
・法華一揆を弾圧
・江口の戦いの後、消息不明
ってことになっていますが、実際の戦闘にはどの程度関与したんですかね?
それから堺幕府(?)の実力者だったわけですが、
義維ー元長と分かれてからは、ずっと晴元の家臣ですよね?
一応茨木城の城主でもあるわけだし、戦闘にまったく関与していないとは
思えないけどよくわからないな。
晴元の家臣でそれなりに序列も高かったとは思う。
でも晴元が没落した後は消息不明。三好に仕えるなんて無理なんだから
晴元のもとで戦えばよかったと思うけど。
ちょっと某年表から茨木長隆を抜粋(天文七年〜天文十三年)
・茨木長隆、京都松尾神社領守護役を免除
・茨木長隆、土一揆が東福寺に乱入するのを阻止
・幕府および茨木長隆、京都小川一町中に対し小河川上引接寺勧進所の再興を停止する
・茨木長隆、京都北野経王堂大工職相論を停止
・茨木長隆、京都大徳寺如意庵領洛中巷所農民の地子未進および隠田などを譴責
・幕府および茨木長隆、京都小川一町に誓願寺を通じる釘貫の撤去を命令
・茨木長隆、今村政次に京都東山汁谷口塩合物公事銭を安堵
・茨木長隆、神祇官町巷所地子を押妨す
・茨木長隆、吉田宗忠へ帯座座頭職を安堵す
・・・・・これは事実上の晴元の代行的な地位にはいるね・・・・・・
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
>>139
普通に六角じゃないかな
と思うけど、義晴は晴元・六角定頼と争って近江坂本に逃げてることがあるから
比叡山かな? 近江ならやはり六角定頼の支配下だろう。晴元は坂本に将軍が逃げても、
岳父のもとにいるのなら、別に気にすることもないと考えていたのかも。
定頼が晴元の権力を脅かすことはないと思っていたんじゃないの?
近江坂本ってちょっと特殊ですね
上坂本が比叡山の門前町、下坂本が荷揚げ港として発展して、
里坊(高齢の僧侶が隠居所として移り住んだ里の寺)のまち、として栄えたんですね
義晴が逃げたのは近江朽木だったな。まあ六角の支配下だけど。
>>144
細かくいうと違うよ
大永七年(1527)に桂川の合戦の敗戦で落ちたのは、近江坂本、一時和睦で京に復帰するが、
翌年五月には再び坂本へ→九月に朽木へ移る、長年朽木在留、天文三年(1534)京に復帰
天文十年(1541)十月に晴元と一時対立した時に落ちたのも、近江坂本、翌年三月和解復帰
天文十五年(1546)十月、晴元と対立、北白川→坂本→北白川、翌年七月京に復帰
(天文十五年十二月、義輝が将軍に)
天文十八年(1549)六月、三好政長が江口で敗死したのをうけ、晴元、義輝とともに近江坂本へ、翌年同地で没
なるほど。坂本と朽木か。それにしてもよく逃げてるなあ。
晴元もそうだけど、決して諦めないことは、尊敬してしまう
責任感なのか、自尊心なのか、当時はみんなそうなのか
まー、晴元は人によって評価も様々だけどね。俺はよくやったと思う。
結局この人、生涯のほとんどを戦い続けて終わっているからね。
京兆家の人にしては長生きしたのに。
京兆家では最後の、実力を持った人
だから晴元の最終的な敗北で、京兆家は事実上没落した
氏綱は長慶の完全な傀儡だし、昭元はなんの力もない信長の蹴鞠相手だしね
確かに、晴元は敗北後も最後まで戦い続けることが出来たけど、
昭元は三好に養われたからなあ。最初っから戦う気もなさそう。
戦いつづけたってことは
独自の所領または支持勢力があったってことだよね?
政長も茨木長隆も江口でいなくなったから、
所領というより、近江六角、丹波波多野晴通ぐらいじゃない、味方は
香西元成はいるけど
丹波が松永久秀の手に落ちるのが、弘治三年(1557)
あとは丹波は波多野が城を捨てて逃げた後も、三好政勝が宇津を根城に
ゲリラ活動を続けていたらしいけど・・・。丹波も山が多いから全域が
松永の手に落ちたわけではなかったろう。
味方はもう少しいたような気もするけど、具体的には思い浮かばないな・・・。
あと一歩だったけど奥丹波(氷上郡)には赤井直正が頑張ってたからね。
宗勝(長頼)・貞勝父子が和久の戦いで戦死してからは全く巻き返しの
チャンスはなかった。
最後まで晴元党として活動していたのは、三好政勝ぐらいかなあ。
晴元死後も長慶には降らず、長慶死後三好三人衆に降った。
信長上京後は、最初の本願寺戦の時に信長に降って本能寺後は秀吉に仕え、
時流を見極めてほどなく家康に仕える、と。
嫡流の三好一族は畿内の戦いに敗退後、阿波に帰ったが長曾我部との戦いが
待っていた。長曾我部には負け、蜂須賀家や仙石家にいびられて断絶。
三好政勝はそういう意味では帰る場所をもたなかったから自由に動けたし、
考え方も領地に縛られた感覚というのはなかったのかも。
そういや、三人衆の一人「三好政康」も若い時に細川に仕えてたね。
どうなんだろうね
政長の子なら当然そうだろし
頼純の子(てか、頼純って誰?)なら違うかもしれないし
>>160
>>157に詳しく書いて頂いてるけど、
長らく政勝は晴元党だよね
もし兄弟なら、対応が分かれたことになるね 真田十勇士でも、三好青海入道(政康)と三好伊三入道(政勝)は兄弟キャラだしな。
この設定考えた人は、史実でも兄弟だからお話でもそのまま兄弟として扱ったんだろうか。
でも1544年に政長が長慶との対立を避けるために、晴元に薦められて政勝に家督
を譲ったことがあったけど、当時政勝はまだ10歳ぐらい。兄である政康がいるのに
なぜ弟に譲ったのかがわからんな。
江口の戦いの時に、榎並城で籠城したのも政勝だった。
政康が庶兄だという考え方もわかるけど、やはり兄弟ではないほうがいろいろ納得できる。
寛政重修譜には政勝の兄として下野守某が記載されているね
ごめん、下野守だったわ。そうすると政康は政勝の兄ということになるわな。
結局よくわからないということか。
江口の戦いといえば、摂津の国人衆のほんとどが三好方についていたんだっけ。
池田、茨木、三宅・・・。その中で伊丹親興ただ一人晴元方で、城を三好方に
囲まれながらも籠城を続けて、結局長慶は和議を結んで兵をひいたとか。
半年間ぐらい耐え抜いたのは城が堅固だったからだろうが、なぜ晴元方に
ついたのだろう?少し前に伊丹親興は氏綱方に寝返っているし、
(結局、氏綱が負けてまた晴元方に戻った。)忠誠心が厚かったってこと
ではなさそうだけど。
池田長正とか茨木佐渡守とか三宅国村とか芥川孫十郎とか安威弥四郎とか
長慶の味方になった人、結構多いね
この中で池田長正は、父信正が晴元に自害させられてるんですね
そうだが、裏切ってばかりだったから堪忍袋の尾が切れたというような
感じだろう。この時期、摂津の国人衆はそろって長慶の味方だった。
伊丹氏を除いて。
細川元勝?頼範のことか。昭元と信長の妹お犬との間の子。
大阪の陣では豊臣方について蟄居謹慎させられた。のち子孫は秋田家に仕えた
というが・・・。
蟄居したのが竜安寺→大和高島
秋田家に仕えたのが子の義元
ぐらいしかわからない
いわば京兆家の嫡流なのに、哀れな末路だな。徳川家に逆らわなければ
高家として遇してもらえたかも知れないのに。
当時の武家の日記「蜷川親俊日記」には細川晴元の被官達の名が数多く上げられているが、
回数がもっとも多いのが茨木伊賀守長隆。まあ当然とは思うのだが、その次が
波多野備前守元清。将軍に会いに行く時などの晴元の供を務めている。同じく名前
が上がる山中某、柳本も丹波出身だし、赤井の名も見える。この赤井が赤井直正と
は年齢的に同一人物ではないことはわかるが、あるいは一族の人物なのだろう。
こうして見るとかなり丹波衆とのつながりが深いというのがわかる。摂津衆より
も重用していたのではないだろうか。
>>168
伊丹親興は細川家の家来、という意識が強かったのかな。だから氏綱に寝返ること
があっても三好にはなびかなかった。確かに氏綱を擁していてはいたがあの戦いは
三好長慶VS細川晴元だったわけだし。阿波細川家の家来筋である三好に屈する
のは気に入らなかったのかも。 >>178
天文十七年って長慶が晴元に叛旗を翻した年だよね
氏綱方についたのは、許せなかったんでしょね
長正って長慶に従うまで、独自の勢力は張ってるけど、
晴元には従ってないよね?
与党は多い方がいいからなあ 一応晴元は信正切腹後、長正の家督相続を認めている。摂津国人衆は
摂津守護である晴元の被官という位置づけじゃなかったっけ?
ちょっと>>179もおかしいけど
この天文十七年
・五月六日 信正切腹
・十月 茨木・伊丹を除く摂津国人衆が氏綱・長慶方になる
という流れで、信正の切腹後それほど時間のたたないうちに、池田は長慶方についた
まあそうだが・・・、切腹しなくても池田氏は長慶方についていただろうなあ。
ところで、この時の状況で晴元に勝ち目ってあったのか?戦術レベルでうまく
立ち回れば氏綱・長慶方に勝つことは出来たのだろうか・・・。
晴元方は三好政長・政勝親子と伊丹親興・丹波の波多野晴道・南近江の六角定頼か。
定頼が一番頼りになりそうだが、主戦場である摂津から遠いし、波多野は丹波一国
を制圧しているわけではないから、他国に兵をだす余裕はないだろう。
武将としては高畠長直・香西元成あたりか。
将軍も一応晴元方だけど軍事力はあてに出来ないからなあ。
長慶方はほとんどの摂津国人衆や畠山・遊佐達河内衆と、阿波・讃岐の衆を率いる弟達。
江口の戦いの前状況としては、伊丹親興の居城伊丹城はすでに囲まれており、三好政長の
摂津榎並城は年少の政勝が篭っているが、ここも囲まれている。ようやく出陣した細川晴元は
自分の旗本を連れて、攻め落とした三宅城にいる。三好政長・高畠長直・香西元成もここいる。六角定頼
は息子義賢を援軍として派遣しているがまだ摂津に到着していない。
兵力でいえば言うまでもなく長慶方が圧倒的。ただ、伊丹城も榎並城も堅固であり、早々に
落ちる気配はない。
歴史では息子政勝を助けようとした三好政長が、晴元の旗本も連れて出撃、
十河一存と戦い敗北。政長・高畠長直は討ち死。晴元政権は崩壊したのだが・・・。
まあ元々細川の地盤だった阿波讃岐、それと中心をなしていた摂津衆が離れては苦しいよね
さかのぼると元長と晴元の対立が痛いと思う
うまく諸勢力を操るぐらいしないと、仲間どうしで潰しあってては・・・
それを言うと、もともとが政元暗殺から始まる細川家の内乱から端を発しているからなあ。
晴元だけのせいじゃないだろう。ここまで晴元はわりと諸勢力を操ってきたけど
それも限界だったのだろう。結局力で相手をねじ伏せるやり方でなければ収めきれない
状況に来ていたのかな。信長みたいに外からくる勢力なら摂津衆などが逆らうことがあっても
討伐する力を持っているから、晴元みたいなバランス感覚は必要ないだろう。
しかしまあこの人のことを調べるのには少し骨が折れるなあ。
今谷明の著作がやはりメインになるんだろうけど、「戦国三好一族」
とか「室町幕府解体過程の研究」とか絶版だし・・。
「戦国期の室町幕府」はついこの間文庫化したからまだいいけど。
というより「細川晴元」を研究した著作ってないんだよなあ。
「三好長慶」ならあるのに。まあ知名度から言って当然なんだけどさ。
今谷明以外に戦国畿内史についての著作が多い人って誰かな?
「戦国期の室町幕府」は持ってます
あとは俺も日本の名族とか事典とか一般的な本しかない
何か見つかったら、ここに書きます
>>185
森田恭二氏はどう?晴元より高国の方が多いかもしれないけど。
「戦国期歴代細川氏の研究」とか書かれている。
小谷利明氏とか弓倉弘年氏とかは畠山氏研究の人たちだが、
こちらから見た細川氏もこれまで一般的だった今谷史観と違って面白いよ。
しかし著作が多いかというと微妙なんだけどさ。
畿内戦国史だと論文は数多く発表していも書籍を出版していない人も多いね。
論文を細かく見ていくのが一番早いかも。 「戦国期の室町幕府」は元が30年前のものだし、今谷明がまだ若い
時の著作で、文庫化は悩んだそうだが当時の研究状況を知ってもらう
という意味で今年再販したんだよな。本人も当時とは認識が違っている
ところもあるし、茨木長隆の存在も少し持ち上げすぎだったと今では
考えているらしい。
小谷利明氏とか弓倉弘年氏の畠山氏研究も面白そうだけど、やっぱり
著作が少ないな・・・。
あとこの時代の本といえば「落日の室町幕府―蜷川親俊日記を読む」
水藤 真著がいいな。この日記の現存する部分は晴元政権の時代と
合致するので政権の細かい部分がわかって面白い。
今谷の奥書にかいてるね。
ところでこの時期の研究を停滞させているのは
幕府関係の記録が蜷川か斎藤の日記位しか残されてないのが要因だと思う
今谷や小川なんかは奉行人奉書の研究もやってるが、
それも数が少なくしかも所領関係の訴訟がほとんどだから諸制度や組織の職式を類推するに留まっている
堺公方の研究は今谷が「戦国時代の貴族」の中で少しだけ取り上げてるから読むがよい
講談社学術文庫だ
この人が出てくる小説を探すのは大変だ。「剣豪将軍義輝」なんかはかろうじて
出ているけど、なんか公家みたいな描写のされかただったな。運動してもすぐ息を
切らす、というような。「細川家は京都に住むこと長く、武士といえども公家に近い
生活をしていた」とか。実際晴元はみずから兵を率いて戦ったこともあるし、阿波で
14歳まで過ごしているのだから、そんなに軟弱だったとは思えないけど。
あと書名は忘れたけど津田堅物を主人公にした小説。鉄砲隊を組織した傭兵みたいな
主人公の物語。その中で晴元は鉄砲の威力に驚いているが、これもちょっとな。津田
がその鉄砲の威力を披露するのは1558年の戦いの時。しかしそれ以前に晴元は
鉄砲を国友村の鍛冶師に命じて作成させているし、1550年の戦いでは細川晴元の
部隊が鉄砲を使用しているから、その威力を知らないとは考えにくい。まあほんの
チョイ役だからしょうがないんだけどね・・・。
探すほうに無理があるな。そんな俺はコーエーの信長の野望蒼天録PKで、
オリジナルイベントを作って楽しんでる。(晴元中心のイベント作成できる
のはこの信長の野望ではこれだけ)。三好長慶に下克上させるイベントとか、
その後の江口の戦いの状況とか。江口の戦いの状況を再現すると、かなり
厳しい状況になり、晴元でプレイしていると程なく滅ぼされてしまうこと
が多いけど。スレ違いな話だけど、こういう楽しみ方ぐらいしかないからなあ。
>>133
なんでてめえはそんなにえらそうなんだ?
wikiが当てにならんのは同意だが、とりあえず一番簡単に入手できる資料で、
概要が分かるものとしてwikiが提示されただけだろうが。お前は氏ね 今年の大河ドラマは風林火山か・・・。武田信玄の正妻は三条氏。
晴元の妻の妹なんだよな・・・。三条三姉妹の真ん中。末娘は顕如の妻。
しかし晴元の妻は何をしていたとか伝わっていない。娘を産んだらしいけど、
それもよくわからない。残念だよ。
晴元の京都奪回戦って3段階に分かれると思うのだが。
第一期1549年江口の敗戦〜1553年将軍義輝の霊山城陥落まで。
第二期1553年丹波の攻防〜1558年将軍義輝の和睦と還京まで。
第三期1558年晴元、将軍の元から逃亡〜1561年三好長慶との和睦。
1552年の晴元出家も一つの区切りではあるのだが、将軍義輝が朽木に逃亡
するまでのほうが区切りとしてはいいと考えたので。
第一期は晴元が活発に行動して、たびたび京都に攻め入っているが、第二期
になると戦場は主に丹波に限定され、丹波を守る戦いになる。その丹波も
頼みの波多野氏の八上城が落ちると、大部分が占領されてしまい晴元の勢力は減退する。
将軍還京後の第三期になると、ほとんど晴元の動きは見られず1560年には長年の
家臣だった香西元成を山城で失い、最終には和睦に至る。徹底抗戦の三好政勝は健在
だが、政権を取り戻すのはかなわないと考えたのだろう。
大河ドラマ「風林火山」で大原雪斎の言葉の中に細川晴元の名が出ていたな。
晴信正室の三条の方の姉と結婚しているということで。
でも花倉の乱の起こった1536年といえば、天文法華の乱が起きた年でもある。
晴元はまだ京都にも入れていない状況で、三条三姉妹の長女と結婚していたのか。
どこに住んでいたんだ?晴元は池田城やら堺やら、このころはしょっちゅう
居場所を変えていたからな。
>>198
間接的に細川と武田は縁戚になるのか。
まあ、大河ドラマはフィクションだから嘘が多いから、
年代やらは真面目に考察しないのが吉。 確かにフィクションだが、歴史を元にしたドラマなんだから年代はそうそう嘘付けないだろ。
まあ嘘ついた大河ドラマもあったけどな。
少なくとも晴信が婚姻した年をごまかしてはいないぞ。ちなみに晴元が結婚した年
ははっきりしていない。結婚といっても婚儀だけあげて、あとは落ち着くまで
一緒に住んでいなかっただけかもしれなし。晴元の年齢を考えればそっちのほうが
ありうるかもしれない。
参考になるかはわからんが、
顕如の場合は婚姻は天文13年(1544)、
祝言は弘治3年(1557)に行われている。
確か、六角定頼の娘とも晴元は結婚したが、この場合も
婚姻と、実際に晴元のところに嫁ぐまでの時間差がある。この場合は、定頼の
娘が幼少だったため、と説明されることが多い。
顕如の場合は、婚姻の時は自分の妻、三条氏の妹を自分の養女として
顕如と婚姻させた。ただ、祝言の時すでに晴元は権力者の座から転落している
ので、これを進めたのは六角義賢ではないかと言われている。
うちの母方の実家が細川姓なのだが、
どうやら阿波細川家の末裔らしい。
一族内紛で没落、三好家に保護されていたが、
長曾我部に攻められて一族離散、僻地に逃れて細々と生き延びたらしい。
冗談か僭称と思っていたが、数年前に離散した別の一族の末裔が訪ねて来て、
系図やらなにやら、保存してあったものを見せてくれたという話だ。
そちらの家系は、さらに遠くに落ち延びていたが、
証拠の品じなは、何百年も残っていて、
母の実家の一族が存在する事も伝えられていた。
昔の人の「家」に対する執念ってすごいんだね。
母の実家は阿波の国です。
母に実家以外にその本家が有って、
そちらのお宅は大阪方面に引っ越されていて、
今はどうしているのかわかりません。
なにぶん田舎な物で、あまり詳しく書くと
すぐにどこかわかってしまい、
実家に迷惑かけそうなので、
詳細はご容赦ください。
熊本のお殿様の家系は、傍流で、家督争いや、
中央の権力争いから少し距離が有ったことが、
結果的にプラスだったのでしょうね。
戦国期に出世して、江戸時代にしっかり生き残って、
遂には一国の首相まで登りつめました。
細川家の一番の出世頭でしょう。
肥後細川家は長岡姓に戻しなさい
足利一門の裏切者が細川姓を名乗るなどとんでもない
細川姓は京兆家のみが使うべきだ
>>211
晴元と同時代の持隆や真之のことなら無問題でしょ まあいきなり実家の話だからさ。人物の話でもないし。
なら ★管領家★ 細川氏総合 ★応仁勝者★ の方が範囲かもね
そうかも。ここは晴元個人の範囲内だからなあ。
でもそんなこと言ってるから過疎るんだな。
対戦か・・・。船岡山合戦で大内側が勝利。
晴元は大内とは直接抗争していないしなあ。
晴元の代になると、将軍家や三好との抗争の方がメインか。
>>197
いつも兵が足りなくて、三好軍に踏み潰されるイメージだな。
丹波みたいに地の利を生かした戦いならまだしも、京都周辺で
決戦を挑む兵力がなければ三好軍に勝つのは不可能だろう。 205ですが、
細川氏は、総合スレが有ったのですね。
見落としていました。すれ違い失礼いたしました。
細川藤孝は晴元に会った事はあるのだろうか。
足利義輝に仕えていたのだから会った事はあるのだろうが、その目には
晴元はどう写ったのだろう。
天文二十二年〜永禄元年の約五年間、義輝、晴元ともに近江朽木にいたから、
藤孝ともここで接触があったでしょう
ちなみに藤孝が従五位下兵部大輔になったのが、天文二十二年
養父元常が没し、上守護家を相続したのが天文二十三年
>どう写ったのだろう
これはわかりません
この朽木時代は、京兆家(宗家)と上守護家(分家)の当主どうしですから、
近しい間柄ではあったんでしょうけど
細川忠興の義父になる「細川輝経」は、晴元とはどんな関係になる人?
細川藤孝は将軍に直接仕えていたんだよな。
晴元に仕えるとか、なかったのか?一応分家の人だし、本家に仕えることも
あるのでは?まあ藤孝が成長したころは、晴元は落ち目だったけどね・・・。
和泉細川家は、晴元・三好と氏綱の争いの時、氏綱についてたよな。
その後、三好・氏綱と晴元の争いの時に晴元について和泉から追われたんだっけか。
なんか和泉細川って貧乏くじ引きまくりじゃないか。
藤孝よくがんばったな。
そうか。まあ細川家の政権没落後は本家とかそんなことよりも生き延びることの
ほうが大切だし。
そういえば、晴元と将軍が敵対した一時期(1552年ごろ)、若き細川藤孝と
細川晴元が合戦をして、藤孝がさんざんに打ち破られたという話を聞いたこと
があるのだが、本当かな?
>晴元と将軍が敵対した一時期
義輝と対立したっけか。
義晴とはアレだけど。
藤孝と晴元はたいした繋がりないし、長岡さんだし、
藤孝スレの方がくわしいんじゃないの?
三好長慶と将軍義輝が一時的に和睦して、晴元が出家して、若狭まで逃亡。
その後晴元は戻ってきて、三好・義輝に戦いを挑んだ・・・、てあたり。
まあすぐに義輝は三好長慶と手を切るのだが。
ありがとう。藤孝スレで聞いてみるよ。
京兆家の悲憤を思うと、肥後細川家を「細川家」などと呼べない
だから俺は常に「長岡藤孝」「長岡忠興」と呼ぶようにしています
なんだか>>228の藤孝な人は、細川、三好、足利、六角の憎悪関係、利害把握できてないような
家名保っても宗家ないがしろにしてるようじゃ、家名保った意味がないじゃないの
阿波細川もしっかり見捨ててるし、まったくもって長岡だよな、やつら
僻地にいる宗家なんとかしてやれっつーの、細川名乗るならば 京兆家が好きなのね皆さん、オレも好きだけどね
とくにこのスレでは、晴元についていろいろ語られていて面白い
肥後は室町期の細川氏とは、全くの別物と思っとります
それ以上でもそれ未満でもないです
上屋形様が好きです、下屋形様も好きです、三好も好きです、足利も好きです。
六角もちょっと好きです、でも道誉の子孫だと思うと憎らしいです。
高国と氏綱も好きだったりするので複雑です。
澄之は空気読めてないけど、嫌いじゃないです。
肥後の人は長岡です。
>>230
>なんだか>>228の藤孝な人は、細川、三好、足利、六角の憎悪関係、利害把握できてないような
そうか?でも1552年に晴元と義輝は敵同士になったのは事実だろう。
天文二十一年(1552)正月に三好長慶と和睦。
晴元との仲が復活するのは翌年七月、この間わずか一年半だが二人は敵対している。
おれは自称「細川護煕」についても「長岡護煕」と呼んでいます
>>232
>道誉の子孫だと思うと
これちょっと違うよ、調べてみてください 道誉は北近江の京極家のほうだな。晴元の時代では浅井によって傀儡化していたけど。
>>233
1556年の晴元の連歌会には藤孝も来ていたらしい。というか、近江坂本とはいえ
晴元はよくそんなことが出来たな。余裕あったのか?確か同じ年に八上城の波多野氏
が敗北して丹波のほとんどが三好方の支配下になってしまったのではなかったか? >>236
長谷川平蔵の後ろ盾、京極備前のご先祖だな。母方になるけど。 わがまち池田というHPに・・・、
http://www.ikedaya.com/wagamachi.html
>六郎晴元は、管領という将軍の執政の立場であり、将軍を政治・軍事的に補佐する立場にありましたが、
>その目的から離れて、管領職に就く事そのもので争いを繰り返していました。
>これを巡って周囲の者達も離合集散し、その利益を測るという、正に戦国時代の中心となって、
>日本全国を争いの世にしてしまったのです。
>その間にも、右京大夫晴元側近同士の不和があり、三好政長と同名長慶が、
>同族でありながら互いに非分を主張して事態の収拾がつかなくなっていました。
>しかし、この時長慶の言い分に大儀があり、政長は隠居(その後宗三を名乗った)
>する事として家督をその嫡子新三郎政勝に譲り、一応の社会的責任行動はとりましたが、
>問題解決とはなりませんでした。
>そんな状況での晴元は、冷静で公正な判断を欠き、当時の社会通年を大きく越えた裁定を下し、
>謀反を企てた咎として、筑後守信正を切腹させます。 この事は、晴元・氏綱の和睦が成立して直後の事であり、
>且つ、筑後守信正は出家と等しい入道となって恭順していたにも関わらず、最も重い罪を科したという結果に、
>社会的な疑問が投げかけられました。これは、晴元の政治的な能力を問われる象徴的な出来事となってしまいました。
>また、摂津国池田家と姻戚関係でもあった三好宗三政長が、池田家を擁護するどころか、
>その財産を私有化しようとしていた事について、問題視されていましたが、これを容認した晴元は、
>更に社会的信用を失い、天文17(1548)年8月12日に三好長慶は、晴元など関係者へ直訴を行う事態となりました。
なんか酷い言われようだが、間違ってもいないようだな・・・。でも長慶の言い分の大儀がありって
なんだろう?あと、三好政長が池田家と姻戚関係にあったのも事実だが、池田家当主の殺害を
なんで晴元に言ってやめさせようとはしなかったんだろう。やっぱり土地を奪うため?
なんかこのままの文章をみるとすごい悪役だなあ。 >でも長慶の言い分の大儀がありってなんだろう?
河内十七箇所代官職の話じゃないか?
そうか。しかし晴元にとっては自分を仇と狙う者になるべく力を与えたくない
と考えるのもまた事実。しかしそんな長慶に助けられていたのも事実。
ただ、晴元を助ける戦いの中で長慶の武名もあがっていったのも事実だろう。
>六郎晴元は、管領という将軍の執政の立場であり、将軍を政治・軍事的に補佐する立場にありましたが、
>その目的から離れて、管領職に就く事そのもので争いを繰り返していました。
>これを巡って周囲の者達も離合集散し、その利益を測るという、正に戦国時代の中心となって、
>日本全国を争いの世にしてしまったのです。
え〜と、じゃあ澄元や澄之は?高国や氏綱は?晴元だけが悪いの?
>>241
政元からだね
日野富子も加えてもいいかも
明応の政変で全てが崩れてしまった
義尚や義材はがんばったよ いやまあ、こういう風に地位を争った人ってよくこんな言われ方をされるよね。
じゃあどうすればよかったのかな。何もせずにどこかでひっそりと暮らせば
よかったのかな。
上位を争うから、政争や戦も起こる訳です。
何もしないと、後代の我々の目には止まらない可能性が大ですね。
でも父の無念を晴らすという考えを晴元が捨てるとは
思えないしな。
晴元が心に抱く父の無念、長慶が心に抱く父の無念
ここらが絡まりあってるから複雑になるんだよね
阿波勢力排除は晴元の基本路線だったのに、頼るべき摂津国人衆がふらふら
していたせいで、結局三好長慶に頼らざるをえなくなってしまった。
木沢長政がもう少し晴元よりだったら、阿波勢力の拡大を阻めたような気がするが・・・。
でも晴元も摂津国人衆の反発を招くような政策をとっているし、難しいな。
晴元政権の中心人物は、茨木長隆のようだね
江口までの話だけど
>>249
江口で没落して、姿を消したと思っていたんですが(今谷の本)、そうなんですか
よろしければ事績を教えてください
>>250
天文22年に長隆が氏綱の奉行人として丹波方面に発給した文書が残ってる
(多分、今谷氏が書かれた時には氏は未発見だったと物だと思われ)
具体的な事績は史料が少なすぎてわからんが、
少なくとも氏綱側に与したことだけは確か >>251
ありがとうございます
天文二十二年頃といえば、氏綱ー長慶の政権の時だから、長隆は寝返ったということになるんでしょうね
>>252
初期においては畠山稙長などを味方につけ、晴元と対抗
長慶と結んでからは、言えば傀儡でしょうか まあ今谷氏の本では、奉行としての茨木長隆を少し持ち上げすぎな
感じもあるけど。晴元自身での考えもあるだろうし。
寝返ったと言っても、積極的に晴元に対して敵対行動をした様子はないし、
言うなれば氏綱方で安定的な生活を送りたいだけというイメージかな。
寝返ったところでかつてのような役職に就けるわけでもないし。
なるほどね
史料がなくてわからないでしょうが
・本人の保身(言い方は極めて悪いですが)
・奉行としての能力を買われた
というところかな
木沢長政は1542年敗死、頼みの三好政長は1549年江口で死亡、
高畠信直ら旗本らも多くはこのときに敗死。茨木長隆は離脱。
家臣をかなり失いながらも10年余り戦い続け・・・。
それこそ堺上陸ぐらいからの武将である香西元成も1560年に討ち死に。
この時点での配下って三好政勝ぐらいしか残っていなかっただろう。
この後に三好長慶との和睦に動いたのもわかる気がする。
長直は大和出身みたいだけど、実際大和で影響力はあったのかな?
高畠氏の苗字の地は山城国鳥羽高畠庄だから、山城出身じゃないのか?
蜷川親俊の日記には桜の花見で、高畠長直と京の町衆が、酒の席で酔っ払って
喧嘩したとか書いてある。殺伐とした時期だけに、こういうところはほのぼの
するな。
戦国期は武家、公家とも京の町衆との距離が近かったそうですね
1540年、細川晴元が施餓鬼を行ったと言うが、どんな規模だったのかな。
あと、盆踊りを踊ったとかも伝えられているが。
萌えって・・・。まあ最後の最後まで晴元に忠節を尽くしたからな。
三好政勝もそうだけど、長生きしたせいか、香西元成よりはそういう
イメージがないな。
その二氏は讃岐の豪族みたいだけど、晴元とのつながりは
あまりないようだが。それ以前の京兆家には家臣として、活躍している
みたいだけど・・・。
自分の外祖父を間接的に殺したりなかなかえぐいこともやってるな。
この時代の畿内では目立つことではないけれど。
外祖父?元長のことか?
三好氏とは、晴元は畿内上陸以来から確執や争いがあった。
阿波衆と摂津衆は相容れぬ中。どちらかに立てばどちらかを敵にまわすしかない。
阿波衆の側に立って敗北した父澄元を見ていれば、どちらに立つかはおのず
と明らかだったのだろう。恩知らずと言われるかも知れないが、元長の側にも
摂津衆と協力しようという姿勢は見られなかった。共通の敵である高国が滅びれば
争いは必至。晴元のほうが先手を打ったに過ぎない。
畠山義尭は晴元の姉婿だから、外祖父とは呼ばないのでは・・・?
まあしかし、この時はそういった縁よりも成長著しい木沢左京亮と組み、
「縁故者よりも新参者をとるのか」と言われたものだったな。晴元は
政治的な判断を下すのに迷いがないというか、有利と判断したら即決なのか、
後の法華宗に対する態度も少々冷たい部分があるのかもしれない。
木沢左京亮長政は、晴元に信頼されていたのだろうか。
三好長慶に対抗できる勢力として期待していたのでは・・・。
肥後細川家と幽斉は家系上関係ないですよ
細川忠興は細川輝経の家系を継承しているので。
幽斉の和泉半国守護家と輝経の奥州家は別です。
熊本細川家の系譜上の先祖ではないと言いたかっただけ
失礼しました!
晴元と関係ない話だな。幽斎・忠興スレでやればいいのに。
なんでここに書き込むのかわからん。
>>272
晴元が心から信頼したのは香西元成ぐらいじゃない。 晴元の子「信良(昭元)」と信長の娘「お犬の方」が結婚したのは15777年だが、
細川元勝(頼範)の生年を見ると1561年になってる。
元勝の母親はお犬の方とは別人かな?
>>279
なかなか面白いところに気がつきましたね
確かにお犬の方輿入れは天正四年(1576)のようですね
すると
・頼範の生年が違うのか
・母が違うのか でしょうが・・・ わからんが わからんなりに考えてみると。
信良の生年が1548年とすると元勝誕生時は 数え14歳
ありえなくはないが ちと早いかも
1561年当時信良は三好のもとにいた
側に織田の娘があるはずもなく
先例をみると 公卿とか 幕府の重職とか 六角とか
しかし後世に名を残していないとなると
早く亡くなったのか 家柄がよくないのか などなど
三好氏の庇護下にあったのなら、女を配したのも三好の可能性もあるのか。しかし、その生年が事実なら、晴元は孫の誕生を知っていたことになるが・・・。
>>283
いろいろ考えてみると、元勝の生年があやしいな、と思う今日この頃
三好の姫を配したら、記録に残りそうなものだし 元勝(頼範)の生年が載ってる一次資料って、何があるんだろ?
>>278
三好政勝は1561年の六角義賢の京都進攻において、柳本賢成とともに晴元党として参加している。すでに晴元自身は降伏していたが、政勝は晴元家臣の最後の生き残りとして位置付けられるのか? 昭元て三好長慶に育てられたんだよね。昭元は養父の長慶の事をどう思ってたんだろ
長慶は昭元をないがしろにすることはなかっただろうし、生後2年で父晴元
と離れ離れになったこともあって悪くは思っていなかっただろう。
晴元はなかなか執念深い人だけど、
昭元は三好→織田→秀吉と器用に世渡りしている印象が
執念深いも何も自分を蹴落とした者に戦いを挑むのは当然かと。それに晴元を追い詰めるのに10年を要した三好長慶にも問題があるわな。後、ほぼ生まれた時から傀儡だった昭元と生涯戦いの中に身をおいた晴元ととでは比べるのが間違っていると思うぞ。
長慶最後まで晴元殺さなかったな。
やっぱ元主君を殺すのはしのびなかったのかな?
どちらかというと長慶の方が恨みが深いはずなんだけどね、親父殿の仇として
仇といえば三好政勝にとって三好長慶は父の仇だからな。まあ言い出せばきりがないが。
細川昭元の子孫の系図、わかる方いらっしゃったら教えてください
やっぱり歴代細川○元なんですか?
昭元は信長の蹴鞠相手と良く書き込みがありますが
義弟ならば
秀吉の御伽衆(相伴衆)や江戸時代の高家のような地位の方が近いんじゃないんでしょうか?
京兆家の義兄ならば、信長の家格の低さも
かなりカバーされたはず
信長は昭元を近くに置いておくことで、かなり得をしたと思いますよ。
武力がなくても存在じたいがチカラだったのではないかと思います。
昭元の子どもの話なら、このスレを少し読めばわかりそうなものだが。
まあよくわかっていないというのが結論なんだろうな。
家老なら名前が残っていないはずがないし。
細川晴元や京兆家好きな人ばっかりなのに
だれもしらないの?
調べないの?
調べた結果、よくわからない、と言っているのだが。では聞くが、お前は晴元好きではないのか?もしそうならお前こそ調べるべきだろう。
初めて投稿します。
>>297さんの質問に少しながら御答えします。
昭元の後は、
元勝、義元、宣元と続きます。
305さんは○○ですね。
まだまだですねえ。
もっと頑張って勉強したほうがいいですよ。 で?馬鹿に馬鹿と言われたくないものだが?この大馬鹿野郎。
>>306
元勝、義元、宣元ですか(^−^)
ありがとうございます
やはり元が付くんですね
さすが京兆家
陪臣になったとはいえプライドがありますね
ますます好きになりました 勝手な妄想だが、晴元最後の家臣は三好政勝だと思う。晴元に男子が誕生するのは政権崩壊の二年前だし、あれだけ贔屓にしていた政長の嫡子ということもあって、きっと可愛がっていたのだろう。
三好政勝は香西元成とタッグを組むことも多かったし、元成討死の際にはその意志をつぐことも誓ったに違いない。妄想だけど。
もう晴元くらいの時代の管領になるとその政治的影響力が及ぶのは
よくて畿内くらい?
関東なんてもっての他ですか?
備中や土佐にも細川家の分家はあったけど、晴元の頃には力を失うか、土着していたから、京兆家との繋がりはないと考えたほうがいいかもね。
【澄元流】澄元‐晴元【高国流】高国‐氏綱> 細川一門を一つに束ねられなかった事が三好長慶の台頭を許すことに繋がった。
政元が一門の統一をやろうとしたんだけどね
阿波守護家はかなり強かったから
たしか澄之が先に養子だったところに澄元をねじ込んだんだっけ
澄元を養子にするのに
「我家は一門中より持たずしてはあしかるべし」(細川両家記)と言ったそうだ
晴元の阿波勢力排除の姿勢は、いわば政元からの伝統でもあった訳だ。京兆家当主としての。
しかし、実の父に繋がる阿波細川家や三好宗家と徹底的に争い続けるのは、よほど何か思うところがあったのか。
長慶家臣時代も完全に走狗としてしか扱っていない。
まあ長慶だって父の仇を許すはずもないから、この時期は互いに利用しあっていたのだろう。
>>315
そして長慶の後の三好家の分裂が信長の台頭を許すことになった。 晴元の置かれた立場を考えてあげろよ、と言いたくなる
その三者の残り二人は土岐頼芸と大内義隆か。
たしかに下剋上されてはいるが、大内義隆はすぐに殺され、
土岐頼芸は美濃から逃亡して二度と戻れなかったことを考えると
晴元が一番ましだったとも言える。
すまん、少し違った。
土岐頼芸は稲葉一鉄に迎えられて晩年に美濃に帰っていたな。
三春藩の件だけど、手掛かりなりそうな書物は…
福島県立図書館蔵、明治四年 明治六年 三春藩士人名辞典(1933.7刊)
三春町史第2巻 近世通史、同8巻 近世1資料、同9巻 近世2資料(市販各1,800円)あたりが有力かも
福島市は遠くないので(数百キロは離れているが)、雪がなくなり気が向いたら行くかも、町史は載ってる保障がないので買いませんが
【足利義維-細川晴元(当時は細川六郎)】VS【足利義晴-細川高国】⇒細川高国の死後、細川六郎が足利義晴に接近して初めて「晴」の字を貰ったのですよね。混迷の時代を象徴している一例ですかね。
まあ堺幕府成立直後から、
晴元も義晴と和睦しようとしていたし、
丹波勢VS阿波勢の争いでも終始丹波勢に加担した。
木沢長政の讒言うんぬんよりも、
晴元の基本路線が阿波勢力の排除で動いているから、
足利義維のいみなをもらった
「維元」と名乗る気はなかったのだろうね。
宗滴は晴元と会っているかも知れない。
朝倉義景の最初の妻は晴元の娘だし。
>>327
宗滴が残した言葉を集めたという「朝倉宗滴話記」では、
大内義隆や土岐頼芸と並べて晴元を酷評してるらしいね。 >>326 いろいろ考えてみたが
晴元にとっては 義晴を担ごうが義維を担ごうが どっちでもいい という感じでは。
親父の澄元は義澄方だったし 高国がいなくなれば義晴を担げない理由もないし。
逆に義維だって根っからの元長派というわけでもなく
堺を攻められたから阿波に逃れた宗工面もあるような。 >>329 5行目宗工面じゃなく 側面だな 失礼。 ただ、晴元にとって事実上義維は
三好元長に擁せられていたのと同じだと考えていたのだろう。
だから畿内衆の側だった義晴のほうが都合がいいと。
元長は大永八年に一度阿波に帰ってしまうんだよね
この時も義維は堺にいたから、晴元、元長、義維の関係は複雑だと思う
ところで晴元と元長の不和は大永八年は柳本、波多野らの讒訴、
天文元年は木沢や政長の讒訴とされるんだよね
晴元は影響されやすいのか
たしかに讒言によるものと言われるが、
当時晴元は16〜18歳の若さだったこともあるかもしれない。
影響されやすいかどうかはわからないが、
阿波三好勢力の排除はそれから後の晴元の基本路線なのだから、
讒言以前にすでに三好を敵と認識していたのかも知れない。
まあ結局三好元長を呼び戻すことになるのは
晴元の読みの甘さと言えるのかも。
<<325<<325<<325<<325<<325
結局晴元は京都の奪回はならなかった訳だか、一体どうすれば成功したのだろう?
高国が大内を引き込んだような手かな
晴元のプライドが邪魔しそうだけどね
晴元なら六角がそれに当たるのだろうが、
定頼は1552年に死亡、義弟の義賢はあんまりやる気がないようだったから、
それよりも、丹波の領国化を進めるべきだったのかも。
六角では少し弱いような気がするな
丹波の領国化は良いかもしれない
八木城の松永長頼を倒せなかったのが痛いな。
たびたびの防衛戦で晴元方は勝利をおさめているのだし、
丹波一国丸々晴元方なら、摂津の国人衆も心変わりしてくれる可能性もあったかもしれない。
最後まで、摂津衆と阿波衆の上でバランスとれればうまいんだが、難しいよね
ほとんど傀儡で人生おわってしまったからな。
自分で動いたのは抗争序盤ぐらいか?
それでも畠山家に頼り切りではあったが。
高国流を名乗ることで、細川宗家に食い込もうとしたのだろう。
結果、[最後の管領]にはなれたがね・・・。
結果はどうであれ晴元は踏ん張った方だね
氏綱は三好以外に頼る勢力がなかったのかな
晴元政権の外縁部を見ると、北の若狭武田は身内争いで外に目を向ける余力はない。晴元とも仲がよかったし。
越前朝倉氏は侮れない勢力だけど、一向宗という無視できない敵が側にいる以上あまり動けない。晴元とも姻戚関係にあるし。
東の北近江浅井氏は、南近江六角に勢力を脅かされていたし、その六角は晴元の岳父。
西の播磨赤松は晴元派だし、浦上氏などとの争いがあって余力があるとは思えない。
南の大和南都宗教勢力は、木沢長政の間接支配を受け、長政死後は筒井氏などの勢力が伸びたが、どちらにせよわざわざ晴元に逆らう理由がない。
そうすると、残ったのは国人が多くいて、統一がされていない丹波と、家格的にも細川家に匹敵する畠山家ぐらいか。
畠山は二派の争いがいつまでも続いたから、相当力落としてしまったよね
尾州家と総州家に分かれて対立した上に、
尾州家は遊佐と木沢が台頭して次々畠山氏の家督の挿げ替えしてるしな。
細川どころじゃねえw
畠山義総が長生きして能登家と尾州家との統合が成立してたとしても厳しいだろうな
能登から出ようとしても、加賀一向宗が立ちはだかるだろう。越前朝倉氏も無視できる勢力ではない。
河内は遠いな。統一しようという気が義総にはあったのだろうか。
まあ細川晴元と畠山義綱は微妙に活動時期がずれるし、特に比較対象する相手でもない。
>>351
>>347-350は畠山氏の分裂弱体後、義総・稙長による畠山氏連合が成立すれば細川氏に云々
という話なので、畠山義綱などどうでもよい。 能登は総州家よりだったけど、義就の猶子に送った政国が殺されてからはそうでもないのか
能登と河内では距離がありすぎて、どっちよりとか、あまり意味がないと思う。
晴元は木沢長政を通じて、河内畠山の弱体化を目論んでいたのだろう。
能登は晴元時代には既に在国守護になっちゃってるしな
北陸地方の永正年間の内乱の黒幕はやっぱ京兆家なんだろうか
>>356
考え過ぎっ、能登どうこうよりも越前の朝倉をどうにかすべきだ。
能登は越前加賀の向こう。 永正年間は京兆家だって内紛で忙しい。
高国がそんな離れた国にちょっかいを出す余裕はないと思う。
北陸は細川、畠山、一向宗の思惑でドロドロだっつうイメージ
その対立の間隙で台頭したのが長尾為景
長尾為景の台頭は上杉氏の内乱が要因では?
まあどっちにしろ晴元との関係は薄いだろう。
為景を買ってたのは高国時代だな
幕府サイドとしては上杉の力弱めるために越後を切り崩す必要もあった
確かに細川高国の活動時期は長尾為景が暴れていた時期とあうけど、
畿内がいまだに義晴対義植−義維で混乱が続いている時期に、越前にちょっかいを出す意味がわからない。
高国政権の前半は将軍義植−細川高国−大内義興体制で、
阿波には義晴−細川澄元−三好之長がライバルとして存在していた。
高国政権後半は裏切った将軍義植を追放し、
義晴を将軍にすえて、ライバルの澄元や三好之長を倒して絶頂期を迎える。
確かに後半は余裕も出てきたと思うが、それでも阿波には以前として
義維−細川晴元−三好元長がライバルとして存在していた。
この時期静かなのは義維や晴元が幼少なために、具体的に行動が起こせなかっただけだし。
まあそうなんだが、赤松氏のところで養育されていた義晴を、
義植の対抗馬としてみていたのではなかろうか。
実際擁立したのは義晴の弟の義維だったけど。
晴元は戦乱が起こると、山城国高雄に避難していたというが、
臆病者だったということか?
坂本とか朽木とかによく逃れてるけど 臆病だとは思わないな。
晴元もだよ、坂本例えば天文十年、天文十五年、天文十八年
朽木例えば天文二十二年
別に逃げたっていいだろ
腐っても管領家なんだから、わざわざ利用してくれる人たちもいるじゃない
晴元は逃げても、「利用されている」感じはあまりないな。
まあ坂本や朽木に逃げても、ず〜っとそこにいたわけではなく、
三好に京を追われた後は、丹波方面に督戦しに行っていたこともあったろう。
香西元成・三好政勝ら晴元党を激励しなければならないし。
おまえら
最高の名門たる
斯波氏の存在をシカトしすぎ
>>373
斯波氏のスレはないねw
細川、山名、畠山、赤松、一色、京極のスレはあるのに。 織田や朝倉や今川、南部、津軽らを一人前に養育した偉大な家系だぞ斯波は。
大崎や黒川や最上の伊達包囲網の凄さ知ってるだろ。
泣き入れて母に頼んで義姫のおかげで命拾いした政宗・・・
シカトも何も晴元とは接点がない。
斯波氏が偉大だろうと何だろうとスレ違い。
伊達包囲網も何も、晴元はその頃生きていない。
まあ昭元や氏綱、真之みたいにくぐつにならなかった分頑張っただろ
武衛屋敷を将軍が仮の御所にしてたようだけど
やっぱり晴元関係なしだな
>>380
香西の末裔が軍記ものを後世に残してるね。 「南海治乱記」(寛文3年・1663年) 著・香西成資
↓
↓増補・加筆
↓
「南海通記」(享保3年・1718年) 著・香西成資
香西成資の父は「植松(吉兵衛)時蔭」らしいけど、植松氏ってのも細川氏の縁者?
>>390
いやあんたにも言われたくないw
澄元の父って実父の阿波守護家の?それとも養父の政元のこと?
有り得ない話だけど、木沢左京亮長政が晴元を裏切らなければ、三好の対抗馬たりえたのだろうか。
>>396
大和領有に成功すれば、そうなったかもね。 >>396
なんで有り得ないの?
あの時点で木澤長政が晴元に反逆をする積極的な理由があったんだろうか?
むしろ晴元側が潰したがっていたということは考えられるが。 >>398
木沢は細川から離れて将軍直参になる工作してて、それが晴元にばれた。 >>399
そうなの?よかったらそれに関する史料を教えてくれない?
自分で確認してみたい。
まぁまぁ、悪党の話しなんぞよりもわしの茶でも飲みなされ
極悪人というか、関わった勢力に万遍なく迷惑かけてるな
築城感覚の絶妙さだとか、自分を高く売り込む手腕とかは一級品ではある
長慶の帰参とりなしたのだけは失策だったが、まあそれはどうしようもない
10代の時点であそこまでの傑物だったなんで誰も予想はできんよ
でも有能なんだよなあ、木沢。晴元とかも木沢いなかったら、畿内追い出されてたでしょ。
一向一揆には法華宗を当てた。
木沢も働いたが、木沢だけの手柄ではないでしょう。
それでも木沢はよく働いてくれたと思う。
三好の仇でもあるし、晴元側につく必要はあったぢろうし。
戦国時代も、中央政権のありかたと地方の政治状況って密接にリンクしてるよね。
長尾為景なんて、この人が高国追い出したから反乱起こされたようなものだし。
いろんな事考えて布石のつもりで養子とってたら、それが全部裏目に出た感じだな>政元
政元といえば、上杉謙信と織田信長は政元の影響を受けているという説があるね。
本願寺の北陸への進出も政元のおかげだな。逆に政元が死んで一番得したのは長尾為景。
そういえば早雲は、為景の下克上のおかげで関東中央部に進出できたな。
まあ北条氏と晴元はほとんど関係ないが。
それに政元がらみの話なら京兆家スレに行けばいいのに。
晴元と関係ない話題を続けてもしょうがない。
具体的には?
晴元と後北条氏は関係ないと思うけど。
政元が〜、とかはなしね。あくまでここは晴元のスレだから。
北条氏綱が左京太夫に任官されたのが晴元の時代だな。
晴元や昭元など将軍家から一文字拝領してますが、
これはどちらから出たことなんでしょうか?
やはり欲しくなくても、公方様から押しつけられたものなんでしょうかw
将軍家と親族である細川が、諱を嫌がるとは思えないが。
まあ高国や氏綱が、諱もらっていないのは嫡流ではないからだと思うけど。
高国は足利義高(義澄)の一字を貰ってるんじゃないの?
室町将軍はしょっちゅう改名するからめんどくさいよなあw
義材から偏諱を貰うと「材○」みたいな名前になってショボーンってなりそう
義成→義政
義尚→義熙
義材→義尹→義稙
義晴
義藤→義輝
義親→義栄
義秋→義昭
大変面倒くさいな。
晴元の事を書いてある本ってほとんどないよな。
今谷明の戦国三好一族とかでも、視点が三好側だから、晴元の動向の詳しいところまで解説があるわけではないし。
>>429
その本は知ってるけど、歴代細川氏の内の一人としての晴元だから、そこまで詳しくはない。
>>430
それはかつてこの板にあった、三好長慶VS細川晴元というスレッドでも触れられていた。
朝倉宗滴は土岐頼芸や、大内義隆の末路は知っていただろうが、
晴元が三好長慶に降るのは宗滴死後のことで、晴元は当時まだ抵抗を続けていた。
他の二人と一緒くたにして語ることではない。 >>428
戦国畿内だと、やはり今谷明かなあ。
少々古い本の上、もろ研究書だが『室町幕府解体過程の研究』は
どうかな?
>>428
「戦国三好一族」(今谷明):三次と細川は切っても切れない間柄なので、記述多し。 >>432
あの本の中には盆踊りを踊る晴元のことも書いてあって、珍しく畿内戦国史を取り上げていたな。
>>433
その本は持っているが、没落後の晴元の動向までは追ってないしね。
>>434
戦国三好一族は確かに記述は多い。ただ、前にも書いたがあくまで三好目線で晴元側の詳しい動向まではカバーしていない。
>>251の長隆発給文書ってどこに載ってるか誰か知らない? >>436
南丹市日吉町立郷土資料館の「丹波動乱」展(平成17年)の図録で見ました
内容は内藤国貞の跡目を千勝とする旨の氏綱の保障のようです それは晴元にとっては敵対行為だろうな。
丹波は晴元党の拠点とも言える場所だし、
内藤氏を追い出して波多野氏が丹波一帯の盟主のような立場になれば、
京の三好に対して圧力を加えることも出来ただろう。
>>438
まあ、普通に降伏したのかね。
しかし、三好宗三はともかくとして、晴元政権の主要メンバーだった
長隆をあっさり許して、しかも氏綱の奉行人の地位においてしまう
あたり、長慶も鷹揚だよね 許したのか、もうどうでもいい人物と考えていたのか。
まあ今谷明の論によると、確かに晴元政権の中心メンバーの一人だった。
ただ、そのまま管領に仕える奉行人として新たな管領のもとで働いているのは違和感あるな。
長隆の登用は、氏綱陣営にそれだけ人材が不足していた証左かもしれんね
>>189も書いていたが、今谷氏は自身でも長隆を過大評価しすぎだったと今では言われているみたいだし、
晴元陣営では主要というほど主要な人物ではない、
もしくは氏綱陣営に憎悪されていない人物だったのかもしれないね まあ逃走する晴元に、付き従うことをしなかったことは確かだな。
本貫地の茨木を捨てるわけにもいかなかったのだろうし。
それに、状況からして1553年ごろには亡くなっていたようだ。
>>437
サンクス。資料館のHPの刊行物には載ってるけど、それの為に買うほどでもないね…。
しかし「内藤宗勝とその時代」展とはマニアックな。なかなか意欲的な資料館ですな 歴史群像の2004年6月号に「王都100年戦争」
と題して戦国畿内の事が書かれている。
澄元・高国・三好長慶の肖像画はあるのに晴元のはない・・・。
花押は残っているらしいが・・・。
澄元の肖像画は、足軽との戦闘スタイルを紹介する時に使われるな。
馬上の澄元の持っている武器は刀の柄が長く、槍よりも短いので足元や近くの敵を切り伏せるのに役立つということで。
>>444
子孫が大名・旗本で残ってないから、後世に祖先顕彰の意味で描かれることもなかったか。
忠臣だった香西氏なら、その辺の世話をしても良さそうだがな。 戦乱絶え間無い時代に生きて、そんな心の余裕もなかったのだろうか。
落ち着ける時期がなかったせいかも。
強いて言うなら、三好長慶と一時和睦した1539年から木沢長政が反乱を起こす1542年ごろまでか。
一向宗や法華宗との対立は収まってるけど、長政はやりたい放題だし、
旧高国派は健在だし、追放されたとはいえ反幕の畠山稙長も暗躍してたから
実際どうなのかな
高国-畠山稙長-長尾為景
これが反晴元枢軸って感じか。
高国舅の北畠さんや、最後の高国の盟友である浦上村宗も欲しい
長尾為景は晴元とほとんど関係ないだろ。戦ったともない。
木沢長政はやりたい放題とはいえ、反乱を起こして戦争をしている訳ではない。
高国派は氏綱がまだ反乱を起こしていない。
というか、そういう火種がない時代だったら、後の時代も安定していただろう。
あくまでその火種が爆発していないというだけの時期。
それでも晴元政権では比較的穏やかな時期ではないかということ。他の時期では何かしら争いがあったし。
畠山が意外と鍵を握ってるんだよね。
まあ元は同格だから。
地理的にも河内は京都のすぐ近くだし、木沢長政との絡みもある。
大和・紀伊にも畠山は影響力を持っていたし。
結局江口の戦いって晴元が戦略的・戦術的にうまくやれば勝てたのだろうか?
阿波・讃岐の三好軍及び、摂津の国人衆の大半が敵になった状態で打つ手があったのかどうか。
仕掛けたのが長慶だからね、晴元側は準備が足りないでしょね
長慶に含むところ(元長の件)があるから、回避するのも難しいし
まあ晴元だって、自分が長慶の父の仇だという自覚はあっただろう。
ただ、晴元は長慶と正面きって戦う力がなく、氏綱との抗争に長慶の兵力をあてにしなければならないほどだった。
木沢長政が存命であれば長慶に対しての牽制になったかも知れない。
それに阿波細川家との関係も問題だろう。
晴元の基本路線は三好家排除であり、それは三好家の直接の主人である阿波細川家との関係をもギクシャクさせるものだったろうし。
池田にせよ伊丹にせよ三宅にせよ茨木にしろ親戚の近江六角にせよ
一癖も二癖もあるというか
それに丹波国人も松永長頼におさえられてたんだっけ
松永長頼が丹波に乗り出すのは、晴元が逃亡してからではなかったか?
晴元政権下では丹波は波多野氏と内藤氏の勢力争いが続いていたのでは。
ただ、当時の日記から晴元配下として頻繁に波多野氏の名前が見えることから、
波多野を頭とした丹波の支配を晴元は目指していたのだろうね。
特に波多野稙通はキーマンだよな、高国没落に深く関わってるし
波多野植通は、弟を殺されたから細川高国に反旗を翻した。
だから晴元派のはずなのに、対高国戦で柳本賢治が殺され、その後の晴元と本願寺との抗争では、なぜか高国の弟晴国を援護しているな。
一体なぜ?
三好と柳本は険悪な仲だったし、
柳本が死んだ時点で波多野の影響力も低下し
木沢みたいなよく分からん奴が台頭してくる始末だから
三好は何故か誰とも仲が悪い
それだけ実力があった裏返しかもしれないが
三好は畿内のやつらからしてみれば余所者だからな。
阿波からきて畿内を引っかき回すやつなんて嫌われるだろう。
木澤は成り上がりとはいえ、河内に基盤があったから結構仲良くやってる。
膨張し過ぎて最後は潰されたけど。
桂川の戦い以降の畿内の状況は流動的だが、大別すると
三好元長・細川高国派・丹波衆の三つに分かれると思う。
共通の敵である高国を追い出すまでは協力していた阿波衆と丹波衆だったが、
高国が畿内から追い出された途端に争い始めたからな。
晴元はまだ年若く、当初は争いの主導権は握っていなかったのだろうが、徐々に丹波・畿内国人衆に加担して三好を疎んじ始めた。
三好政長や木沢長政の讒言も契機にはなったろうが、生涯通じての「反三好」がすでに頭にはあったのだろう。
高国が反攻してきた時も、晴元が頼みにしたのは柳本賢治だった。畿内の新勢力として丹波衆を自分の勢力にしたいと考えていたのかもしれない。
実際は柳本は暗殺され、浦上村宗・細川高国軍に晴元軍は総崩れになり、三好元長に助けを求めることになるのだが・・・。
晴元・義維政権は大雑把に分ければ阿波系と摂津系なんだろうけど、
そう分けるには混沌とし過ぎてるからなあ
そういう分け方になるのかな。
晴元は柳本賢治が暗殺されて、対高国戦線が崩壊するまでは三好に頼る気は全くなかっただろうし。
主力として丹波衆は頼りにされていたと思うけど。
北摂津の三大有力国人である伊丹・池田・芥川がこの時期は旗手を鮮明にはしていなかったから、
晴元にとって頼りになるのは柳本賢治を中心とする丹波衆で、三好政長やまだ出始めの木沢長政らでは
細川高国・浦上村宗軍を打ち破ることは出来ないと考えたのだろう。
細川高国・浦上村宗軍が北摂津を占領した時に、
京都の代官的役割を果たしていた木沢長政は行方をくらませたからな。
このことは晴元も覚えていただろうから、
後の両者の争いの遠因になったというのは考えすぎだろうか。
行方をくらませたのはその時だけではない。
一向宗徒との戦いにおいて晴元が堺で敗れ、行方不明になったときも
木沢長政はどこかへ行方をくらませている。
太平記なんか典型的だが、京は守るのに全く適さないから
攻められたら逃げ出すのはお決まりのパターン。
木沢長政に限らず細川晴元にしろ誰にしろ、状況が悪くなれば雲隠れ。
その意味で、木沢長政は自分の城は全て山城だったことは賢明だった証拠だと思う。
もし京が中国のように城壁で囲まれていたら、日本の歴史はかなり違っていただろうと思ったりする。
まあその通りなんだが、こういったエピソードは木沢長政は主君にあたる晴元をほうり出して逃げているイメージがあるからな。
一向宗徒との戦いでも木沢長政や丹波の山中氏と違い、薬師寺氏は京都に踏み止まっているからな。
まあ六郎殿にもう少し器量があれば信長の畿内進出も違う形でしか実現しなかった
ろうね・・・
器量と言われても、では何をすればよかったのかな。
あの三好長慶ですら没後の畿内は維持できなかったのに?
まあ三好長慶は信長上洛の三年も前に死んでいるから関係ないが、それなら晴元はもっと信長とは関係ないな。
三好政長のどこがよかったのかな
戦はともかく、教養ありそうだから話せば面白い人だったのか
三好政長は戦功がないのに、細川晴元は贔屓しすぎると言われるな。
しかし、三好政長は細川高国が丹波の波多野植道と柳本賢治によって敗れ、
畿内情勢が急変した時に真っ先に摂津に上陸し、高国と戦っているし、
河内十七ヶ所の合戦でも主力は三好長慶やその弟達だったろうが、三好政長も参加している。
戦功がないというのは言い過ぎかも。
ただ、長慶と比べると少ないかも知れない。
三好長慶を中心とする三好宗家と、三好政長・政勝親子とは同じ三好でも別扱いだろう。
晴元にとっては三好宗家は天敵。
まあそれを頼りに対氏綱戦を1543年〜1547年の間戦い続けなければならなかったのも事実。
晴元が独立心旺盛な摂津衆の支持を得られず、被官化できなかったのも原因の一つだろう。
国人衆の被官化は細川家の悲願だけど、
そのせいで政元も殺されちゃったしなぁ
半世紀近くに及ぶ内訌を経た細川家が成し遂げられるような問題じゃないよな
だから晴元政権の基盤は後半、阿波三好家に依存するようになってしまった。
晴元としては頼りたくなかったに違いない。
三好元長を殺したのもその表れだろうし、その息子の長慶などもってのほかだったろう。
晴元は没落以降、1553年から将軍義輝とともに朽木にいたとされているが、そうなのか?
朽木にいても何もできないのでは?
そもそもこの頃の晴元の行動を詳しく書いてある本がないよね。
今谷明の本でもあまり詳しくない。書いてあっても三好視点だし。
あの身分で頻繁に戦争に赴くわけにも行かないし、
行ったところで自軍が強くなるわけでもないしな。
管領家の丹波の騒乱て、隣国の若狭にも影響与えているんだね。
若狭武田氏って細川家の家臣的同盟国だから、敗軍の当主を保護したり丹波へ
派兵したり大変だったみたいだ。
若狭の大飯郡から丹波の山家へ抜ける街道があり、このルートで若狭から派兵していたようだね。
逆に京都から近江へ迂回して若狭に亡命した当主もいたよね。
若狭武田氏は高国を助けるために出兵して、三好と戦ったりしている。
そして晴元が娘を嫁がせた関係から、逃亡した晴元をかくまったりしている。
高国を助け、その高国のライバルだった晴元まで助けるとは大変なことだな。
若狭武田氏は親子喧嘩を二代に渡って繰り広げ、その領地を越前朝倉氏に脅かされる。
隣国の丹後一色氏だってあまり強い大名でもないのに、武田氏は内紛に忙しくて侵略することもなかった。
京都に近いばっかりに畿内の争いに無関心でもいられない。
難儀なことよ。
畿内勢力は大名にとって無視もできないし、かといって必要以上に関わると利用されるだけで終わってしまう。
晴元と六角定頼の関係は利用したり利用されたりだったが、割合でいうと6:4ぐらいで晴元が得をした感じか。
晴元は六角の軍勢をあてにしていたが、結局江口の戦いに六角勢は間に合わなかったし、定頼死後の六角はそれほど協力的ではなくなってしまったからな。
吉川弘文館の新刊「畿内近国の戦国合戦」イマイチすぐる…
事実をダラダラ書き連ねてるだけって感じ。もうちょっと分かりやすく書けないもんだろうか。
>>503
個人的には変な脚色入れられるより、あの書き方のほうがありがたいが。 あと竹田孫七・結城七郎の読み仮名が「まごひち」「ひちろう」になってたな
>>505
当時の筆記に従ったんかな?
歴史的仮名遣いではないから著者の福島氏が故意にそうしたのかもしれないね。
昔の関西方言では「しち=ひち」。
「七人」(しちにん)は(ひちにん)、「質屋」(しちや)は(ひちや)。
21世紀の今でも「質屋」の看板での振り仮名は「ひちや」とされてる物もあるし。 >>500
四職の一色家は強い家だよ?。若狭の元の守護でもあり、とくに守護代の三方氏は惟宗姓若狭氏の末裔で
若狭に強い影響力を持っていた。だから入植当時の武田家は大飯郡に本拠を構えざるをえず、最盛時でさえ
遠敷郡最西端の大飯郡との郡境である後瀬山にしか城を築けなかったといわれている。
一色家との因縁の戦いだけでなく、丹波守護代の松永内藤家や越前朝倉家に靡く家臣もあったので家中がまとまら
ず将軍家の招集にも細川管領家の招集にも応じられなくなったようだ
丹波・丹後・近江・越前という強国に囲まれて大変だったと思うよ若狭は >>509
なるほどね。
ではその一色氏が細川藤孝に滅ぼされたのはなぜだろうか? >>510
×一色氏が細川藤孝に滅ぼされた
○一色氏が織田信長に滅ぼされた >>511
そうだね。でも細川藤孝が容赦なかったから一族がほとんど死んでしまったのでは?それともあれは全部信長の命令?
それに一色氏が強かったのなら、隣の山名氏とか前述の若狭武田氏とかなぜ滅ぼせなかったのだろうか。 義清より前の一色と山名は縁戚だぞ。
一色・山名連合vs武田・細川連合という構図。
武田方に攻められて守りぬくというイメージがある。
義直とか義秀は武田及び細川陣営に負けたけど。
>>513
あなたは>>509とは違う考えのようだね。
509の言うように強い一色氏なら、若狭武田氏を圧倒出来たのではないかと思ったので。 話を戻すか。丹後一色氏は山名と親戚ということもあって晴元には協力しなかったのだろう。
畿内の政争にも関わってなさそうだし。
一色は永正や大永の頃に何をしていたのかよくわからんのだよな。
義清もどの系統の出身かよくわかってないし。
それにしても1539年に、まだ年若い三好長慶を殺せなかったのは痛いな。
あの時は晴元自身も出陣したし、かなり本気だったようだが・・・。
>>520
和議は将軍義晴の調停を受けてからだし、本気で戦う気にはなっていたと思う。
なにしろ相手は年端のいかない少年。実質的には三好宗家の普代が指揮をとるにせよ、晴元としては争いの芽は早めに摘んでおきたかったに違いない。
晴元27歳、長慶18歳ぐらいか? 相手を根絶やしにするって発想を実践して成功したのは信長ぐらいだからな
>>523
信長に根絶やしにされた家ってあんまり思いつかん。
以下敵対家の出身・一族で信長に滅ぼされて以後も生存者のいる例
(松永貞徳・北畠昌教・岩佐又兵衛・浅井井頼ら血の繋がりのよくわからん者は省いた)
斎藤…(逃亡)。斎藤新五郎。
北畠…(粛清)。北畠具房。
六角…(逃亡)。六角義治・高定。
浅井…(滅亡)。浅井三姉妹。
朝倉…(滅亡)。朝倉景鏡(土橋信鏡)。
三好…(一時期敵対)。三好康長ほか。
足利…(追放)。足利義昭本人。
別所…(滅亡)。別所重棟。
荒木…(逃亡)。荒木村次。
本願寺…(退去)。顕如・教如。
但馬山名…(降伏)。山名尭政。
赤井…(逃亡)。赤井忠家。
甲斐武田…(滅亡)。残存一族多すぎ。
敵対した家で子孫や一門がいない例はほとんどない。
松永は貞徳の父が久秀の縁戚、波多野は宗長の子孫を称する家がある。
スレ違いにてこの辺で去る。 >>524
これは家康に敵対したケースだけど、長宗我部ですら、香宗我部親泰の一族が
存続しているものね。 そもそも晴元だって1539年の時、三好宗家を根絶やしにしようと考えていた訳ではないだろう。
ただ、一戦して敗北させて、阿波に引っ込ますことが目的だったのだろう。
晴元の側に恨みはないから、根絶やしまで考えてなさそう
実際そこまで出来る力もなかっただろうし。
結局和睦に応じたのは、何がなんでも長慶を殺そうと考えていたのではないからだろう。
ただ、自分が長慶にとっての仇であるという自覚はあっただろうが・・・。
自覚して怖れていれば手を下しそう
恨まれてると思ってないんじゃ
>>530
手を下すなんて晴元にはしたくても出来ないだろう。
勝元の時代から阿波下屋形と言われ、強大な軍事力をもつ三好宗家には簡単には手が出せないだろうし。
畿内勢力が晴元に結集していればともかく、
離合集散を繰り返す国人にも手を焼いている状況ではね。 使わなければ三好元長は倒せなかっただろう。
同時に畠山も殺せたのもよかった。
まあその後の畿内の混乱を考えると・・・。
最終的にこの戦いに勝ったとはいえ、晴元自身も散々な目にあってるし、最良の決断だったかはわからんな。
そもそも政元の代から一向宗徒や山城・大和国衆を使ってるしな
富樫を滅ぼした加賀の一向一揆も、裏に政元がいる感じがする。
>>538
政長はあの性格の上さらに山城の領国化を目指したからしゃーないべ。
京・摂津・河内・丹波・ちょっぴり大和を抑える政元にケンカ売ったようなもんだ。
実際政元に対抗する勢力を築きたかったんだろうしな。 そもそも東軍だったからとか、政元はあまり気にしていなかったのでは?
>>540 そもそも政元にはあまり仲がいいのがいない >>543
何故か畠山義就と仲が良かった印象がある>政元 しかし義就は、政元が明応の政変を起こす2年前に死んでいるし、
特に政元に協力的だったということはないのでは?
明応の政変のときに、古市澄胤を通じて畠山基家と結んだからじゃないか?
義就討伐の時、総大将だったのにさっさと講和して帰ってきたりしたな。
まあともかく、晴元の時代にはすでに畠山は敵では無くなっていたな。
他の敵が強すぎて。
一応稙長は第一次細川氏綱の乱のキーマンだぞ
遊佐さんが黒幕だろってとこは置いておいて
遊佐、もしくは木沢にいいように操られているというのは変わらんなあ・・・。
1547年に河内十七箇所の戦いの後、丹波から細川国慶が進攻してきた時、
撃退して国慶を討ち取ったのって晴元自身?
河内十七箇所の合戦のあと三好一族は河内で遊佐と対峙していたから、
この戦いには出れないはずだし。
大将は高畠長直か、香西元成あたりか。
誰がこの戦いに加わったかわからないかな。
この時は長慶との戦いが本格的になってた時だから殆ど六角がやったんじゃないかなあ
>>558
いや、細川国慶が丹波から入京しようとするところを撃退したのは、
舎理寺の戦いの後で、三好一族は河内で畠山・遊佐軍と対峙を続けている。つまりまだ晴元方。
まあ細川国慶戦は六角勢主力と見たほうが自然なのか。しかし六角は呼べばすぐ来てくれるものなのか。
個人的には晴元自信か、家臣ではなかったのではないかと思う。 六角は京兆の盟友で
若狭武田は京兆の家臣(並)
京兆に呼ばれれば丹波でも京都でも大和でもすぐに出陣
>>564
まあなんというか、最初からネタ扱いみたいなこと吹っかけるあたり、木沢長政と同じ匂いが・・・。 六角は晴元の援軍以上の存在感はないようだが・・・。
定頼もそんなに介入はしなかったらしいし、義賢はやる気がなかったっぽいし
1541年に摂津の塩川氏の一庫城を晴元は攻めたが、これが木沢長政の離反を招くきっかけとなった。
たしか細川高国の娘だか妹だかが塩川氏に嫁いでいたせいらしいが、これは晴元の意図はどこにあったのか?
摂津の有力者の三好と池田の顔を立てたら、なぜか摂津に縁がないはずの木沢さんが大激怒という斜め上な展開
>>571
そういうことなのか?
北摂の池田・芥川・伊丹を味方に引き入れなければ政権は安定しないだろうし。 晴元に負けた高国は父に勝って政権も磐石だったのになぜ最終的に負けたの?
>>574
率直に高国の人物像、失敗した理由
兆区節には山本らを離反させるきっかけになった粛清だろうけど、
この人のことあまりよくわからないんだよね
どういう性格の人だったのか 山本・・・。天文法華の乱のときに晴元被官として丹波衆の中にその名が見えるな。
高国の家臣団の中でも丹波三兄弟(香西元盛・波多野晴道・柳本賢治)は重要な位置を占めていたのだろうか。
彼らの離反が高国政権崩壊の端緒になったわけだし。
>>576
>柳本
そうその人です
へんしか合ってませんね
失礼しました やなぎもとかたはる なんだけど
やなぎもとけんじ のほうがしっくりくるよね
どうでもいいことだけど、晴元のwikiってちょこちょこ変更されてるね。
記述が加えられていたり、項目が細分化されていたり。
晴元のwikiはちょこちょこと手直しがされているな。
応仁の乱後の祇園祭復活にも少し絡んでいることにも触れてほしい。
信長の野望でようやく三好長慶の裏切りがイベント化されたな。
でもイベント起こすと三好政長を殺す羽目になってしまう。
三好政長を生かそうとするとプレイヤーが三好長慶に変更され、細川晴元と三好政長は下野してしまうし。
個人的には細川晴元対三好長慶の対決をやってみたかったから、三好長慶の独立をイベントで表現して欲しかった。
あとは高畠甚九郎が登場すれば満足だが・・・。
まあ無理だろうな。自分で作ったほうが早いか。
江戸期に秋田氏に仕えた子孫は幕末まで続いたのかな?
阪神なんば線に大物駅があったがあそこが大物崩れの場所なんだろうか
>>587
確かに政治力はすごいが、戦場ではどうだったのだろう。
晴元は戦場にたびたび出ているが、立場上采配を振るうことはなかったのだろうか。
自身で率いる兵もあまりいなかっただろうし・・・。 >>588
俘囚かあら何度も養子あるが一応のこってえいる モバゲーの百万人の信長の野望に晴元出ないかな・・・。
コレクションとしては茨木長隆と三好政長と木沢長政で登場とか。
そうすればもっとやる気でるんだけどな−。
いないな。まあ好きに書くさ。
誰か晴元の小説書いてくれないかな−。
戦国期三好政権の研究は、細川晴元の政権構造の理解に関しても非常にいい本だった。
三好長慶の反乱の背景には、木沢長政、三好政長ら晴元の近習である「御前衆」を媒介にした
畿内国人勢力と京兆家との結合・再編成の失敗があったとか。
京兆家は誰がどう考えても畿内勢力だろうが。阿波で育ったからよそ者とか
認識がひどいにもほどがある
聡明丸って幼名もは凄いな。名前負けしなかったのも凄いが。
京兆家の嫡男の幼名はみんな聡明丸(聡明九郎)だよ。
晴元は六郎だっけ?父親の澄元は、権力継承の象徴として聡明丸の名をつけたのかな。
細川氏綱の幼名は聡明丸ではないし。
ないでしょ。魅力はなくはないけど、複雑な細川家の状況は小説にしずらい。
よくて三好長慶の引立て役だろう。
どっかの雑誌で剣豪将軍義輝の連載が始まったな。
細川晴元は名前だけ出ていた。まあどうせろくな人物に描かれないだろうけど。
石ノ森章太郎の漫画日本史では一巻分主役級の扱いなんだよね
ここまで晴元をメインに取り上げられてる作品て珍しいよな
それは天分法華の乱のところかな?
確かに出番は多かった。相変わらずよくは書かれていなかったけど。
晴元の孫の元勝(頼範)の頼って、秀頼の偏諱じゃなくてご先祖の頼からもらったの?
>>589
阪神大物駅からちょっと西に行った所に石碑がある
だから、大物崩れの場所でいいと思う。 摂津国人衆を味方につけれなかったのがこの人の敗因か。
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細川政元と足利義材ってなんで仲が悪かったんだろうね。
やっぱり応仁の乱の時に東軍と西軍で分かれてたから?