建て乙です
1540年代で近畿の大阪湾(淀川口)で存在してた城は石山本願寺(後の大阪城)と他に
有岡(伊丹?)城(こっちは1540に存在してた?)と他に何がありましたでしょうか?
中嶋城大和田城野田城とか。
大物城はまだ使われてたんだろか
信玄「わしの死を3年隠せ・・・」
間者「信長様!情報によると信玄は死んだようです!」
信長「よし!京都に攻め込むぞ!」
明智「信長も信忠も討ち取ったぞ!さあ共に天下を取ろう!」
細川「首も無いのに何を寝言を・・・」
この差は一体
>>6
信玄が死ななくても畿内制圧は続けるし謀反が成功してても明智につく気はないというだけ 1399年頃の応仁以前の勢力図みたいなのが知りたいです。
どこかありませんでしょうか?
歴史小説などを読んでると「人質として嫁ぐ」という表現が出て来ますが
実家と嫁ぎ先が敵対したせいで夫(婚家の人間)に殺されてしまった女性って存在するんでしょうか?
そういう場合は離縁→実家に送り返されるケースがほとんどだと思うのですが
それって果たして人質と言えるの?と疑問に思ったので
人質と婚姻は明確に違います。両方を兼ねることはありません。
>>11
「人質みたいなもの」を「人質」と勘違いした描写だねえ >>12-13
回答有難うございます、やっぱりそうですよね
「実家と戦争になったら私は磔にされますね」みたいなことを言い出す奥方が結構いて
困惑することが多かったのですが安心しました 合戦の様子が描かれている絵巻?は誰かがその様子を見て描いたもので信憑性のあるものなのですか?聞き伝えで描かれたとかで実際はちょっと違うかったよ、とかあるものなのでしょうか?
>>15
その絵巻の成立年によって違う。近い時代の成立ならその分史料姓は高くなるし、遠いと風俗自体異なる場合がある >>16
絵巻の成立年!目から鱗でした、そういった背景もあるのですね。ありがとうございます!すっきりしました。また色々調べてみます! 木曽義昌と小山田茂誠
主君裏切って織田家に投降した点では同じなのに雲泥の差なのは何故でしょうか
そら事前にちゃんと交渉して条件を合わせたうえで降伏するのと同じにはできんでしょ
戦国時代って大名みたいな大物が正室や側室の部屋に行くときに、取り次ぎとかあったんですか?
行きたいときに勝手に行けると思ってたんですが、取り次ぎの描写がある本があったので
あったでしょ。大奥みたいなかっちししたもんじゃないだろうけど
とりあえず現代でも急に来られると女性は困るもんだしな
そういえばそうですね
生活が別になってたら、生活リズムも違うだろうし
側室の子供って戦場で戦う必要あるの?
どれだけ命懸けで武勲建てた所で正室の子供が生きてる限り当主になれないのに
逆に言えば正室の子供なら武勲立てなくても当主になれるわけで
それこそ三歳で当主になった三法師とか
社長になれなければ働く意味ない。って言ってるようなもんやね
>>24
信忠は公式には正室を持っていないとされているので
三法師は側室腹の庶子
ただ、松姫生母説準拠ならある意味嫡子になるけど 佐久間親子失脚後の軍団を引き継いだ光秀って
謀反考えちゃうぐらい自陣兵力増えたの?
それとも軍団引き継がなくても謀反出来た?
信長って伊勢長島で大量虐殺とかしてるけど、
他の大名は大量虐殺してないの?
他もしているけど信長ほどの回数と規模でやったのはまあ
これ以上となると秀吉くらいじゃね
豊臣秀吉の朝鮮出兵について
・諸大名はいやいや参加した
・むしろ功を得る為に積極的に参加した(もしくは秀吉に出兵を促した)
のどちらが正しいとされているのでしょうか?
ネットの記事などで
「大名たちは秀吉の命令だからいやいや参加した とされているが実際は積極的だったとされる」
みたいな記述を最近目にするのですが、どのページも後半について根拠出典がないので気になっています。
これについて当時の史料などあるのでしょうか?
守護大名ってよく家臣とか戦国大名に傀儡にされてるイメージなんだけどなんで追放されたり滅ぼされたりしないの?
周りからそれを理由に攻められるから?
支配の正当性にできるから
昨日まで同僚だったヤツがいきなり主君になるとか実力主義でもなかなか受け入れられん
だけど「主君の命令でお前の上司になった」ならなんとか折り合いもつけられる
もちろんそういう建前が必要ないと思えば追放もする
斎藤道三は主君土岐頼芸を追放したが国人の反発にあって再び受け入れることになった
時期尚早だったわけだ
後に信長は守護斯波氏を擁立して尾張を征服したが、用済みになった斯波氏は追放
しかし尾張国内にこのことで反信長の動きはなかった
なぜ島津は宇喜多秀家を匿うという危険極まりない事をしたのですか
自家が追求をかわすだけでも厳しい状況なのに
身もふたもない言い方をすれば当時の島津は今後の方針をめぐって派閥争い全開で収拾がつかず
方針が定まらないゆえ秀家の身柄も棚上げされたまま時が過ぎて結果的に匿った形になっただけという
戦国時代の
堺の町 尾張国の津島の町の人口が知りたいです
1540年代と1550あたりです
どうかよろしくお願いします。
この頃の手紙って、普通は漢字ばっかで女性に出す場合が
かなメインなの?
かなと漢字まじりの手紙もあるよね?
公文書は漢文だけどそれ以外は仮名交じりじゃないかな。
城作るのってどれ位金かかるんだろ?
勿論、規模にもよるし大阪城や江戸城、安土城みたいな巨城じゃないので・・・
現代人の感覚だとさっぱりわからない。
>>46
真田昌幸が上田合戦で徳川の攻撃を防いだ上田城を築く時に、国人領主の真田だけでは
資金が足りなくて「上杉の南下を防ぐため」と称して徳川から資金援助を受けた。 >>46
城つくりなら公共事業の一つで賦役ですね
基本、労役だからタダだったはずです(労働で払う税?ってイメージ)
武士から商人に依頼して
人夫を集めた場合なら短期〜長期で50文〜500文だったとか >>48
労役だったんですか?そうだったのか・・・
ありがとうございます。 信長って目に見えないものは信じない系だったけど、
そしたら墓参りもしなかったの?
>>50
そもそも目に見えないものは信じない系だったわけではない 平手の爺やの菩提を弔うため政秀寺を作ってるし墓参りくらいはしたんじゃないの
>>52
歴史武将は記述ってものが少ないし、信長に関しては
信長公記を始め一次資料はあってもやはり少ない。
墓参りに行ったかどうかまでは記述が無い。 本能寺の変くらいの時点の公家で一番序列が上な人と一番発言力が大きかった人は誰ですか?
石山合戦で本願寺が立ち退いた後、信長はその跡地を何に使ったんですか?
伽藍とかみんななくなりましたよね
本当は寺町ごと使うつもりだったんでしょ?
>>58
早い回答ありがとうございます
放置!もったいない
場所としては交易にもってこいの所だったらしいのに 当たり前のように広まってる信長(織田一族)美形説の根拠って何なんでしょう?
信長公記に弟の秀孝が美男だったという記述がありますが
それ以外にも信長やその血族の容貌を褒める記録があったりするんでしょうか
>>61
お市の方の容姿は色々記述あるな。浅井長政も同盟するなら嫁にくれって言ったし。
秀吉も側室にしようと画策してたろ?お市の娘も美人が揃ってる。後は信長の娘で
蒲生氏郷に嫁いだ冬姫だっけか?美人だったらしいぞ。秀吉が蒲生死んだ後に狙った事でも知れる。 それが「美人だから」なのか「大勢力に帰属するための手駒」として必要だったのかは
一次資料からはほとんどわからんけどな
文禄・慶長の役に西日本の弱兵を派兵したのはどうして?
精強な東日本の兵なら違った結果になったはず
>>61
信憑性のある史料じゃ秀孝くらいだね
>>64
地理的に朝鮮に近い順から出兵だったから >>65
ありがとう
防人みたいに東日本から集めればよかったのにな まず西日本の兵が弱兵って思ったのはなんで?
普通に東武士の方が糞田舎侍なんだけど
薩摩強兵がビビる坂東武者やでな。まぁ朝鮮征伐失敗はそういうレベルの失敗じゃないけど
そもそも近世の中頃くらいまで、九州兵は弱兵だと考えられていたらしい。九州征伐でもボロ負けしてたしな
平安時代の九州は13歳の鎮西八郎源為朝に平定されたからなぁ。その少し前に為朝の長兄源義朝は
関東に下り鎌倉などに地盤を築くとともに坂東仕込みの荒っぽいやり方を身につけて上洛し保元の乱で
都人を震え上がらせるのだった。
>>62>>63>>65
ありがとうございます
やっぱり秀孝のこと以外はないんですね >>70
誰が考えてたの?もしかしてお前か?
北条征伐で坂東武士もぼろ負けしとるやないか 兵質は知らんけど装備で言ったら当時はもう南蛮交易のせいで
西高東低じゃなかったのかね
東国での火縄の普及はだいぶ遅れていたし購入ルートも限られるから
揃えるのが大変。
そもそも九州〜朝鮮でも兵站維持が困難だったのに
わざわざ東北から九州まで兵を大動員したら兵站構築と兵糧消費が半端なくなる
近いとこから兵を出すのは当たり前の話だろ
>>70
九州兵は強いぞ?豊臣の九州征伐で島津が惨敗したのはちゃんと原因がある。
島津は6万の兵を動員したらしいが、当然その6万の大半は薩摩兵ではなく占領した国の兵だ。
島津に恨みこそあれ命がけで戦おうなんて兵は居ないからだ。
彼らにしてみれば豊臣軍は解放軍にも見えただろう。 本土兵で強いと言えば、やはり武田の甲州兵と上杉の越後兵だろう。
彼等の強さは田舎だからというより、信玄や謙信に絶対の信頼を置き
尚且つ自分らの勇猛さに自信があったからだろう。
天下を制した織田兵が強かったかと言うと、美濃兵は強かったようだが
他はそうでもない。戦慣れは他の追従を許さなかっただろうがね。
あと鉄砲の数が多かった。
天下取るのに兵の強さは必須ではないっつー事だな。
この時代の人って、歯磨きどうしてたんですか?
虫歯だらけ?
上流階級はお歯黒の殺菌作用で虫歯無し
下々は歯磨き用の楊枝
>>78-79
マジすか!
お歯黒そんな効能あったんだ
塩で歯磨きは今でもやる人いますよね
昔のやり方が今でも残ってるんだなぁ 塩磨きは結構昔からの演出で時代劇等でも見るから
割とポピュラーだったんじゃ?
まあ、塩を毎日使える身分ならって話なんだろうけど
塩も貴重ですもんね
やっぱ庶民はほとんど楊枝なのかな
虫歯できたら抜くしかないのか…
ついでに質問。前も聞いたんだけど
波多野や赤井みたいな丹波国人専門のスレってある?
ないなら立てて情報を集めたいんだがスレ立て規制で立てれないんだ
誰か「【波多野秀治】丹波国人について語ろう【赤井直正】」みたいな
スレ立ててくれない?
似たような該当スレがあるならいいんだけどさ、見当たらないから
【波多野秀治】丹波国人について語ろう【赤井直正】
丹波国の大名・国人・城郭・歴史など
戦国時代の丹波国について総合的に語るスレです
↑こんな感じでお願い
おつ、立てたら軌道に乗るまでネタフリや情報提供しないと廃れるだけやで
信長って義昭を追放したあと、なんで義昭を幽閉とかしなかったの?
義昭が御内書ばらまいて面倒なことになってたんだから、
幽閉して外と連絡取れないようにすればよかったのに
外聞を気にしたの?
そう、外聞を気にした。
傍若無人なイメージがあるが実像はかなり世論を気にする為政者やでな信長
やっぱりそうなんだ
ありがとう
こっそり幽閉しちゃえば良かったのに
義昭の息子を後釜にするつもりだったから義昭は要らなかったって説もあったような
そういえば義尋だっけ?
義昭の息子はその後寺に入れられて出家したよね?
人質に取ってすぐに寺に入れちゃったの?
>>95
すぐじゃねえ。1年位義尋立ててなんとかしようとしてたけど、それじゃどうにもならんって感じで
信長自身が天下人になる方向性に変わる >>96
そうだったのか!
将軍の息子を利用しない手はないよね
じゃあ本当は義昭と対立しなければ、二人でやっていくつもりだったとか?
それとも外聞気にして、とりあえず息子を将軍にして置いておくかと思ったかな 義尋のwikiに記述あるけど
信長は義尋を義昭の後釜に据えて、名目だけの傀儡として使う用意があり
毛利などにもそう通達している。
実権は与えずとも室町幕府を滅ぼした、という事実ができると
(歴史の教科書ではそう教えるけど「事実上」であって信長は足利幕府を消そうとはしていない)
反信長勢力に「幕府を滅ぼした逆賊」って名目を与えてしまうわけで
あくまで義昭個人を追放しただけで、その息子に幕府の座は与えるって建前を使いたかったんでしょ
ただ義尋が10歳の頃に信長は本能寺で死んじゃって
その辺うやむやになっただけ
江戸幕府でも足利氏直系は割と特別扱いやね、喜連川藩とか。
>>98
>毛利などにもそう通達している。
それは知らなかった
その辺気を遣いまくりだね
信長が死んだあとに義尋や義昭は将軍に戻れなかったんだね
秀吉が関白になったから? 安土桃山時代において、公家は一つの連合としてまとまって動いていたのでしょうか?それとも、各自やりたいようにやっていたのでしょうか?
朝廷自体が困窮でそれどころでなく、
年間200ほどあった宮廷行事を一説にはなんと5つに減らして開店休業状態
仕事の無くなった公家はそれぞれ日本中を金策に奔走しててまとまるだの動くだの以前の問題
>>101
義尋は信長死後に出家しちゃった(させられたの方が適切か)し
義昭も秀吉が関白になった頃はもう老境だし
後を次ぐ人物がいなかったから義昭の死をもってして
名実ともに室町は滅んだとするべき。本来は。
>>104
どっちも最盛期と衰退期で版図が違うからいつの時代を言ってるのかによる >>100
いやいや傍流の傍流もいいところの喜連川を遇して
義栄系義昭系が冷遇受けているから真逆
継嗣がなかった義昭系はともかく義栄系なんて嫡流なのに明治になっても酷い扱いだぞ >>106
三好に担がれ、没落して逼塞したあとは蜂須賀に冷遇されたんだっけか?
で、挙げ句には紀州家を頼ろうとしたけど失敗
維新後には藩籍が無いので士分としても認められずに平民に
義輝の遺児とされてる系統(尾池)はいまも続いているのかな? 戦国時代の日本語はある程度共通だったのでしょうか?
光秀が信長に雇われたのは、軍師よりも通訳だと聞いたことがありますが
各地で意思疎通で難しかったような文献が残ったりしてますか?
日本語がバラバラで敵国の密書が読めないこともあったのではないですか?
方言は意思疎通が難しいレベルでしたが、
候文といわれる書き言葉は同一だったのでそれで意思疎通出来ていたと言われています。
>>110
幕末には、少なくとも中級以上の武士は江戸弁を共通語にしてた 藩主は代々江戸生まれ江戸育ち。藩士も数年に一度は江戸勤務やでな
河尻秀隆が甲斐国主になった時について
織田政権の中では結構なエリートであり
次世代当主の補佐でもあった河尻さん。
武田滅亡後の甲斐・諏訪という一番統治が難しいとこを
宛てがわれるあたり、かなり信長に買われていた人物だと思うのですが
他の国持ちとか軍団長クラスって
必ず目付とか与力とかって形で織田からの補佐武将と
在地の有力土豪とかが新しく家臣団に入るじゃないですか。
なのに、彼が甲斐に入った際にサポートで織田の誰それが入ったとか
在地の有力な旧武田家臣が支配下に入ったとか
そういう話が全く出てこず、本能寺ではまるで1人で孤軍奮闘して
死んだかのような扱いになってる。
必ず彼と一緒に闘って死んだ織田家臣や、在地土豪
あるいは見捨てて逃げた連中がいるのに全然名前がでてこない
滝川が神流川で戦った際ですら
逃げた連中・共に戦った連中(元々北条支配下だった在地土豪)の動向が
わかるのに河尻さんの場合は何にもない
このあたりについて誰か知りませんか?
甲斐に入った河尻さんに従った人物(織田の与力でも在地土豪でも)
→森長可・毛利長秀←こいつらは厳密には違うでしょ?
軍団長クラスの信忠に付けられた目付とか与力とか滝川河尻森毛利やろ在地土豪は木曾など
(滝川は関東管領代として軍団長クラスに格上げ)
その下の階層の河尻秀隆にも縮小版の似た組織はあっただろうけどマイナーやで郷土史レベルを調べないとわからんやろな
森や毛利とは違って
甲斐+諏訪って領地が与力や目付ってレベルじゃないと思うんですけど
甲斐を与えられた時点でもう軍団長候補でしょ?
河尻>森・毛利→在地土豪らって感じで
信忠軍団からはもう独立してる
変後に際し、徳川がまあ歴史書消したんだろうけど
河尻傘下で戦った連中もいれば、逃げたり、土豪一揆側に回ったりって
いろいろあったと思うんだけど滝川の神流川ほど
土豪勢力の動きがなんにもわからないのが不思議だなって
安土城って安土桃山時代のいつまで存在したんだろう?
1582年の本能寺の変で焼失。
その後、館が立てられ1584年まで秀信が滞在したが翌1585年廃城
焼失したのは天守と本丸だけね
秀信は二の丸に滞在してた
1585年に廃城になって近場にできた八幡城に
石垣やらなんやら根こそぎ資材は持って行かれた
話に割り込みすみません。わたくしの湯飲みは「戦国日本地図」→
というものなのですが、「尾張」の区域内(「伊勢」との境付近)に名称が書いていない区域があります。
この区域の名称は何というのですか? 熱田・桑名のショートカット(七里の渡し)っぽいな
というわけで「伊勢湾」か
大坂冬の陣は豊臣側(又は徳川側)
大坂夏の陣はその逆サイドから参戦したみたいな大名家や武将っていますか?
戦いの途中で寝返って逆側についたみたいなパターンではなく
戦いの間は一貫してどちらか一方の側にのみついて戦ったパターンで教えてください
>>128
おお…一人ではあるが豊臣恩顧の動きを見せた武将もいたんですね
増田の家は政治能力に長けた人物ばかりなのかと思っていたんですが
こんな気骨のある武将もいたんですね。回答ありがとうございました >>127
関ヶ原東軍→大坂の陣西軍(その逆も)
ならいくらでもいるけど
冬の陣と夏の陣で東西変わるってのは
全然見つからんかった
さすがにそこまで行くともうどっちにつくかハッキリしてるからなあ 戦国時代に山の尾根に城壁を建てた近代要塞のような城があった記憶があるんですが思い出せません。
確かに北条氏の領国だったような。
戦国時代って行軍時の備蓄食料や携行食料って
一万人の部隊だったら何を食わせてたの?
行軍時は1日あたりのカロリーは4000キロカロリーは欲しいだろ?そんなに食糧持って行けたり倉庫に保管できてたの?
米食ってた。
10日分ほど小荷駄隊に運搬させて同行させてた。
ゆく先々で商人に兵糧を集めさせて補給
補給路である商道の確保は最優先させてた。
何万人分もコメ集められたの?
連絡員とかも拠点に残ることもあるし
各宿場町の食糧無くなりそう
小田原や大坂では十万以上が一斉に集まったから一時的な物資難にはなった。
そこまで規模のでかい合戦は戦国後期の信長末期・秀吉・家康江戸幕府開幕後とかでしょ
その頃になれば街道整備や兵站もそれなりにスムーズになってただろうし
それまではせいぜい集まって数千対数千の戦いで
まれでしょ、そんな大合戦。
川中島も全て万単位でやってたわけじゃない
1番規模のでかかった4次ですら1万数千同士(当然盛られてる数)でしかない
合戦は全て殿様持ち出しではなく
近隣の土豪や浪人、御家再興組とか手弁当で参加するやつもいるわけで
その兵糧全てを上杉や武田が出してるわけではない
>>139
豪族の人達は持ち出して参戦して自領が戦場になって引き分けなら踏んだり蹴ったりだな
戦国時代後半のロジスティックを知りたい
海運と陸運のバランスとか航路とか
荷車の発展とか。
車軸作れる国家は優秀な技術者いると思えるけど
日本は戦国時代に作れてたのかな? 車輪は上り坂や悪路じゃ逆に足手まといだから戦国時代には不要
街道整備された江戸時代では運搬能力高すぎて兵員輸送に使われると困るから禁止に
何その今の日本に受け継がれてる変な理由で改善案潰す文化は。
とりあえずここで聞けと言われました
「御陣女郎の雇い方」
「大きな町での兵の雇い方」
「↑の際の武器防具は?」
「西洋の『酒保商人』みたいなのは戦国日本になかったの?」
ちょっとここら辺詳しい人どうか詳しくご教授願いたい。
「御陣女郎の雇い方」
勝手に付いてくる
「大きな町での兵の雇い方」
雇わない。陣借りの浪人なら募集したりするが身元請負人が必要
「↑の際の武器防具は?」
浪人は本人持ち
「西洋の『酒保商人』みたいなのは戦国日本になかったの?」
御用商人。彼らのために商道の確保は最優先させてた。
戦場での寝返りって配下の兵士にはどうやって指示したんですか?
例えば明智光秀の配下の兵士がいきなり大ボスの信長を攻撃しろ!って言われてすぐにはい!わかりました!ってなる?
普通、なんで?って戸惑ってスムーズに進まないと思うんですけど。
銃剣装着!突撃準備!
>>147「なんで?死ぬじゃん」 そうですね。関ヶ原の合戦で小早川秀秋が東軍に寝返って大谷吉継の陣に襲いかかると命令した時は
鉄砲頭の松野重元が「そんなこと出来るかっ!」と戦線離脱してます。重元は戦後、忠義者として田中吉政に
召し抱えられました。
でも重臣にはあらかじめ根回ししておくし一般の兵士は命令に従うだけです。従わない者は切るとか言われたら
従うしかありません。松野重元は秀吉子飼いで忠義者だから話さなかったんでしょうね。
ありがとうございました!
指揮権ある人だけ抑えておけば末端は言われるがまま動くしかないですもんね。
ご丁寧にありがとうございます。すっきりしました。
>>150
信長を頂点(社長)として末端の兵士まで家臣(直属の社員)というワンマン経営なわけではなく
光秀は株式会社織田家の京都支社の社長であり
そこの子飼いや、支社の社員はその地盤に根付いた権益や忠義を尽くす理由があるので
必ずしも信長に忠義を示す必要はない
京都支社は独立します、ってなればついていく社員もいれば、離脱する社員もいる
そういった意味で光秀はそれなりのカリスマがあり、ついていく実利もあり
支配してまもない地域の地侍も離反しない人徳があったんやろな
信雄・信孝なんかは支配歴の浅い土豪はみんな離反したわけだから よく犯罪者が外国に逃げて手も足も出せないことを現在でも聞きますが、
戦国時代は他の国に逃げた犯罪者をどうやって裁いたのでしょうか?
日本本州で国が複数あったのは戦国時代が代表的だと思いますので聞かせて頂きました
人相書きが貼れるのは国内だけですよね?
また野党集団がヒットアンドアウェイで村を襲い、相手国に逃げ込めば
やりたい放題じゃないですか?相手国の大名に討伐を依頼した資料とか残ったりしてますか?
基本的には手も足も出ないです。
ただ国境付近の領主は敵方の大名ともお付き合いがあるので国境線跨げば即安全とはいかないと思われます
また当時の村は地侍を中心とした武装集団であり正当な理由があれば犯罪者とっ捕まえて即決裁判で自分たちで処刑できる
自検断権を持っていたので犯罪自体が命がけでありやりたい放題とはいきません。
>>153 なるほど、そもそも論として自力救済を原則禁止している現代とは違いますね
ご回答有難うございました。 小田原の陣では西国の水軍が多数小田原にまで動員されましたが
戦後彼らはどうやって本拠地に帰ったのでしょうか?
小田原に行くだけなら海流に乗るだけなので難しくはないと思いますが
太平洋の海流に逆らっての帰還は昔の技術力で本当に可能だったのでしょうか?
中世の地理感覚は現代と比べてかなり劣っていたと思います。
どうやって的確にその場所にいけたのでしょうか?
現代でもスマホや方位磁石を失えば近所でも誤認するでしょう
青森に行くつもりでも実は山口だったこともあったのでは?
手ぶらじゃ今でも起きてもおかしくはないですよね?
また味方や同盟国の城を間違えて攻撃するような失態はあったのではないでしょうか?ドイツ軍がイギリスを攻めたときイギリス軍は標識を曲げてかく乱戦法を行い、
米軍がドイツを攻めたときでも標識を逆にしてかく乱を狙いました。
中世の地理感覚は現代と比べてかなり劣っていたと思います。
どうやって的確にその場所にいけたのでしょうか?
現代でもスマホや方位磁石を失えば近所でも誤認するでしょう
青森に行くつもりでも実は山口だったこともあったのでは?
手ぶらじゃ今でも起きてもおかしくはないですよね?
また味方や同盟国の城を間違えて攻撃するような失態はあったのではないでしょうか?ドイツ軍がイギリスを攻めたときイギリス軍は標識を曲げてかく乱戦法を行い、
米軍がドイツを攻めたときでも標識を逆にしてかく乱を狙いました。
家の中でネットばかり見ていると山口と青森を間違える事もあるかもしれませんが
お外では太陽も月もお星さまも輝いて我々を導いてくれるので大丈夫です
>>161
津軽為信のように青森から小田原まで行けた例もありますので無問題です
敵対してた南部や安東の妨害を避けながら秀吉の下を目指す為に神君伊賀越えより長い道程を
わずか数十人程度まで供廻りを減らし見事に秀吉に謁見するゴールを決めました そういえば佐々成政の沙羅沙羅越えも方向間違っててもおかしくないよね
小説では山の道案内がいたけど
道案内人って地元の人なら相手の領主と仲いいよな
相手の領主からすると道案内人さえ買収しておけば
よそものの軍隊の行軍を操作できるわけか
平手政秀って主君織田信秀の秀の字を下にしてるけどこれってアリ?
>>169
その場合、秀は偏諱ではないと考えた方が正しいように思うが 偏諱じゃなくても気にして逆にしたり他の名前にしたりする人もいるけど
気にしないでそのままの人もいる。
経秀-政秀-久秀-汎秀
ということなので秀は平手家の通字と思われ。
普通は遠慮して使わないものだけど信秀が気を使って許したんだろう
大阪城内に片桐、大野、織田と共に江原なる人物が屋敷を与えられているのですが
この人物は何者ですか?
聞いた事がありませんし、検索しても出てきません。
元宇喜多家臣と思われてる江原高次じゃないの?
親族とみられる江原親次は直家の娘婿で宇喜多家では1万石を貰っていた
ちなみに高次は天王寺岡山の戦いで行方不明になってる
京橋口馬出に屋敷のあった江原与右衛門の事かな。確かに聞いたことのない人物やね
なんとなく屋敷の場所的に鉄砲頭つとめてた木下与右衛門延重の別名な気がする
詳細が分からなくて申し訳ないのですが
"ある武将が、戦の前に援軍を頼んだんだけど、大将とご飯食べたら嬉しくてポロポロこぼしたもんだから、こんな人の援護しても仕方ないって帰っちゃって、戦に負けた。だからきれいに食べないといけない。"
という話をされたことがあるのですが、調べても詳しいことは出てこず、ただの作り話だったのか気になっています。心当たりある方いませんか?
戦国よりだいぶ前の話なのですが平安時代の貴族が仕事に就くのはだいたい何歳の頃だったのでしょうか?スレチでしたら誘導していただけるとありがたいです
>>180
ありがとうございますそちらで再度質問をさせていただきます 戦国時代年貢を納めるとき農民が米ではなく現金か別の作物で納めるのは
可能だったんですか?
>>182
支配している大名や時期によるけど銭による支払いは可能
というかそもそも銭納だったのが、撰銭やらなんやらで通過価値が混乱して「現物納入でもしゃーない」となったのが戦国期 島津歳久は永禄6年(1563年)に吉田城主となったという件について旧記雑録で調べてみたがそれを示す史料が見つからなかった
それどころか永禄5年の北原兼正討伐で歳久が吉田の兵を率いていたというような史料があった
これってどういうことなんだろう
それから歳久が永禄6年に吉田城主となったことを示す史料があるなら教えてほしい
>>182
八丈島のような離島は魚(及びそこからできる魚醤や加工品など)なんかで収めてたって見た 戦国時代くらいの椿油のおおよその価格がわかりませんか?
ググったり資料漁ったりしたけど見当たらなくて気になってます
少し見つけられた資料によると胡麻油より一般的だったとのことでしたが肝心の価格はわかりませんでした
油の価格ならいろいろ出てくるが椿油限定だと探すの大変だな
>>188
寺社に椿油が何樽ほど寄進されたって記録はわりと見つけたんですけど本当にさっぱりです
大山崎等の油座の史料は一通り当たったんですけどほぼ胡麻油等の椿油以外でした
ならは胡麻油程度と推定しても良いか悪いかの判断すら難しくて… 俺が子供の頃読んだ関ヶ原の本は家康が佐和山を攻めると噂を流して三成を関ヶ原に誘い出した
ってのが主流だったけど、今は小早川の東軍合流を牽制しながら味方に付けるために西軍が関ヶ原に移動した
っであってる?
信長は兵農分離だっけ?してたけど、自分が動かす分以外も徹底したのかな
例えば柴田勝家の兵とか
戦国期に兵農分離なんてものはそもそも存在していない
大谷吉継って結局何年生まれなのか
1565年が最近有力な説なんだっけ
有力な家臣を大名の拠点に移住させるのは何処の大名家もやってるからなあ
それを兵農分離と言うかは議論が別れるところ
兵農分離してなくはなかったけど、そこまで大規模でもなかったってことかな
>>198
つかそもそも「兵(武士)」と「農民」は武士の発生した時代から分離していた。農民に「軍役」は無く、軍隊に加わる場合も人夫としてで戦闘員ではない。
家臣を在地から引き離し城下に集住させる。という意味なら戦国初期に既に大内氏などが行っており、中期以降はむしろ一般的で、
戦国最末期に成っても旗本すら満足に集住させられなかった織田氏はその分野では「遅れていた」といえる 江戸時代になり平和な世の中になって兵力不足解消のためや軍功上げたりで侍成りする機会がなくなり身分の固定化が進んだ結果、兵と農が分離したように見える時代になったという所か
兵農分離は論者によって定義が違うから説明がめんどくさい
俺の中では半農半士を城下に集住させたくらいの認識
それこそ馬回りクラスに限定した兵農分離というか
>兵農分離は論者によって定義が違うから説明がめんどくさい
そうなんだ
ただ戦に専念できるかどうかなのかと思ってた
武田信玄なんかは農期気にしながら戦ったりしてるけど、あれはみんな戦闘員じゃなくて人夫だったの?
信玄も普通に一年中戦っているし主力は足軽(傭兵)だよ
「兵農分離」は何かというと兵と農の分離で身分の分離固定政策なんですね
簡単に言えば武士は武士で農民は農民という江戸時代の身分制度のことであり
城下定住、専業軍人化、傭兵(契約軍人)、刀狩りなどは一部あるいは過程なんですが
これを定義として語る人が多くややこしくなってるのが現状で
江戸時代の身分制度だから戦国期に兵農分離は無いと乱暴に言っちゃうめんどくさい人も出てきたり
専業軍人や傭兵の語彙のイメージだけで常備軍だ農繁期でも出兵できたとか
近代軍制にまで飛躍させた論調が主流だった時代もあってやっぱりめんどくさいんですね
そして僅か10レスちょいで勘違いのほとんどが出てきてるから2chでの説明はさらにめんどくさいというw
んなこと言ってもどの大名も農繁期関係なしに何時でも戦っているじゃん
>>205
さらに言えば江戸時代に「身分固定政策」は無かったのである それも一部の例を出して全否定するめんどくさい系やね
惣や農村でも専ら軍役を担う傭兵を抱えていたらしいからな。彼らは今で言うフリーターみたいな存在
ただ飯の代わりに村人の代役として戦場に赴いていた
当時の日本って石高合計でどれくらいあったのでしょうか?
江戸時代で2200万石だったそうですが、戦国もそんなものでしょうか?
ひとくちに江戸や戦国といっても、応仁の乱頃と江戸末期じゃ耕地面積に
3倍くらい差があったはず
ヨーロッパ・中国の歴史ドラマや戦国時代の日本の歴史ドラマを
見たりするのですが、日本の戦国時代のレベルって世界から見ると相当レベル低くないですか?
根拠とは、
1.日本の戦は食料の心配がない。戦国時代のドラマで食料の心配を聞いたことがない。
中国やヨーロッパでは、城を攻略しないと兵士は補給にありつけないので、食料の心配をよく聞く。
2.日本は戦でもやたら礼儀やしきたりを重んじる。
中国やヨーロッパは、総大将と一兵卒は対等な頭の立ち位置で話しする。
日本は戦いの最中でも頭の高さを気にする。総大将の前では家来は全て姿勢を低くする。
目上の人間よりも頭が高いことは許されないと考えている。
また使者が外交で書状を渡す時の渡し方も日本はまわりくどい。
その他、トップダウンや家臣との合議制、兵器の違いはありますが、
日本も優れている点があるので、
その点は言いませんが、食料と礼節は特に目立ちましたので書かせていただきました。
大遠征と言うほど長距離の遠征が外国と比べて少ない
あくまで日本国内での戦いが多いので食料を入手する方法が多い
朝鮮出兵では兵站に苦しんでいる
他民族と戦う外国の戦いと国内戦の戦いを比べるのはナンセンス
普通に長期間・大軍を動員していたら兵站の心配が出てくるのは諸記録にある
秀吉の北条征伐だって裏じゃ兵站の維持にかなり綱渡りでギリギリだったと
ドラマで描かれてないだけ
身分については、ヨーロッパは知らんが中国じゃ身分の上下・序列はめちゃくちゃ厳しいぞ
それは指揮権の問題でもあるしね
結論、ドラマというのは視聴者に受けるように演出・描写するもなんで
それをもとに史実・現実のレベルがどうこう言われてもなあ
>>211
応仁の乱1467年推定1200万石〜慶長3年1598年検地帳1850万石
戦国時代はこの間となります。数字は諸説あるので気になるならお調べください 日本の戦国時代を舞台にしたドラマのレベルが低いって話かと思った
>>213
日本の兵糧事情は現地に食糧の手配を済ませてから軍を動かす逆に優れていたものと言えます。
関東遠征を繰り返していた上杉謙信などはイメージと違って輸送路の確保に非常に気を配ってますし
秀吉や徳川の大規模戦もそうですが致命的な兵糧不足に陥らないように労力をかけて準備して戦争しています
ただし好条件な国内あってのものなので朝鮮では苦戦してます。
礼儀に関しては文化的な面が大きいので優劣はなんとも言えないところがありますが
史実では厳格な身分社会のヨーロッパ、回りくどどさに定評がある中国なのですが
映像作品では省かれてることが多いですね。そういう感想になるのもうなずける気もします
ともかく映像作品は演出8割なので真に受けない方が良いかと >>213
>中国やヨーロッパは、総大将と一兵卒は対等な頭の立ち位置で話しする。
何を見たのか知らんがそんなわけないだろ。総大将が一兵卒を話して時間を無駄にしてたら
負けるわ。 駿府城の城跡から豊臣期の金箔瓦出土ってニュースが出たけど、
あの金箔瓦は信長が作らせてたやつじゃないのかな?
凹の部分に金箔貼らせるのは信長の特長だよね
家康が駿府手に入れた時期的に信長関与は可能性低くないか
家康が信長に倣って作った金箔瓦と考えるのが妥当でないかい。その後は徳川も豊臣型になるが
日本の戦(いくさ)は世界で通用すると思いますか?
特に他国を攻めるという点においてです。
唐入りで無理と証明されています。逆に防衛なら世界中どの国が来ても勝てるでしょう。
すいやせん、敵国を占領した時一般論として
もともと住んでいた人(武将や兵士以外)
をどのように扱うのでしょうか?奴隷にするのでしょうか?
例えば敵国に住んでいた商人や農民が持っている年貢減税とかの権利
があったら保護するのでしょうか?何か文献が残ってますか?
>>226
基本的にはよほど旧領主と結び付きが強くない限り普通に「領民」として扱われる。
旧領主から特権を得ていた場合、ケースバイケースでは有るが、その新領主の征服過程で
よほど反抗していない限りは、そのまま継承される事が多い。(というか占領者側はそれを餌に服従をせまる) 年貢減税の特権なんかは他の事業で領主に貢献してる事の対価の場合が多いからね
そのまま利用しようとすると同じように特権も認める事になる
特権といえば保内だっけかな
偽の綸旨を江戸時代まで利用し続けた商人たちがいたっけね
それは納得できないですね
降伏させた国だから好き放題暴れるのが人間じゃないですか?普通
一兵卒までそこまで理性が働くとは考えにくいのではないでしょうか?
「降伏させた国の民の利権はそのままとする、聞かないものは斬に処す」
って読んだことないし
攻め滅ぼして新しい領主になったら新しいことをやりだすもの、
それを既存の民の為そのままにするとはちょっとかんがえづらい
西上野で信玄が出した制札を無視して寺で乱暴狼藉を働いた連中がおるね
占領地を滅ぼして自領の領民を連れてきて住まわせるのと
占領地にいる民を手懐けて領民として扱う
後者の方が圧倒的に手間が少ないし時間もかからない
彼岸島じゃあるまいし人間は成人状態で生えてくるわけじゃないから既存の領民を有効活用した方が効率的やで
因みに彼岸島ですら真面目に考察するときゅうけちゅき共があんなにやりたい放題だと人間居なくなるって言われてる
つまりそういう事だよ
そもそも税収に関わるから雑な扱いは出来ない
扱いが悪いと百姓は逃散するからな
国衆同士の争いや一揆の火種になる可能性もある
そういえば、関ケ原の戦後処分で大名の改易や減封は決まったが、
そこにいる民は旧支配者のやり方をそのまま維持だったの?
税収に関わるから雑な扱いは出来ない んだろ?
>>236
日本に限らない話だけど支配者にとって民はちゃんと税を取れればそれでいい。
旧支配者に恩義を感じていて言うことを聞かないとかならお仕置きせねばならんが
言うことを聞くならそのままだろう。 ただし土佐藩の郷士みたいな例もある。庶民じゃないけど長宗我部家の家来だった者を
山内一豊は自分の家臣より格下の郷士にして差別した。
>>238
差別した→長宗我部侍で幕末土佐藩の首相吉田東洋 郷士は郷士やもん。武士にしろってのが無理筋。
山内に仕官できた元々武士階級の者は長宗我部家臣でも普通に上士やってる
そもそも土佐で郷士階層は振興ブルジョアが身分上昇のため株を購入した例が多く(竜馬の坂本家のように)、
上士よりも経済的に恵まれた層が多かった。
吉田東洋の先祖は長宗我部家臣だったけど上士なんだ。知らなかった。
石川家成 天文3年(1534年)生まれ 母は家康の生母於大の方の妹
於大の方 享禄元年(1528年)生まれ
あれ?
>>169
これって織田信秀の烏帽子親(もしくは後見人)が平手政秀で、偏諱を受けた可能性もあるのでは? 山形の紅花栽培のように儲かってた作物って何がありますか?
すいやせん、三国志でよくある嘲りの策って戦国で使われておりましたか?
具体的にいうと城からうって出てこない城兵を嘲っておびき出すとか
嘲って伏兵を置いて殲滅する作戦とかですけどどうなんでしょう?
>>250
大河ドラマ「武田信玄」で橋爪功演じる真田幸隆が砦にこもる敵兵に向かって兵たちに罵しらせるのは
見たけどね。ドラマだけど。多分それは普通に行われていてそれくらいのことで怒って出てくる馬鹿はいないと
思われる。微妙に違うかもしれんが武田信玄の三方ヶ原の戦いはどうだろう。コ川領に攻め入った時に
家康のこもる浜松城をわざとスルーして西に向かうと見せかけて、無視されたと怒った家康が追撃すると
信玄は三方ヶ原に陣を敷いて待っていた。大負けして死にかけた家康は恐怖のあまり脱糞したと言われている。
砦に籠もって出てこない時に少数の兵を囮にして釣り出すのはよくあるけどね。 三方ヶ原の戦いは信玄が袋小路に入ったから家康が勝機とうってでたのでは?
3万 vs 1万ではスルーされても怒らないでしょ。
武士の面目を重んじるから一戦もせずに素通りはまずいとは思ったのかもしれないけど
徳川vs武田というと、鳥居強右衛門の史実があったな
降伏を勧めろと言って捕まえてた強右衛門を出したら、もうすぐ徳川殿が味方を連れてくるから耐えて待てていうアレ
あれ見ると、やはり城の外から声をかけるのは有効だったのかなって
どうでもいいけど、新城市が強右衛門まみれ(裸磔)なのはどうにかならぬのかなって
確かにすごい漢なのは分かるんだけど、強右衛門本人は恥ずかしいんじゃないのかなって
大石 内蔵助は戦国武将(特に軍事面)として十分通用しますか?
150人はいた警備体制で47人で討ち入りし、1人も死なせなかったのはすごいです。
討ち入りが用意周到すぎるので、城攻め名人の秀吉から重宝されそうな気がします。
そいや赤穂は5万石しかないのに塩があるから良いわと言っていたな
石高というのは米ベースでしょ
塩も含めたら実質石高ってもっとあったんだろうな
戦国時代でそういう名産地も含めた実質石高表ってあるのかな?上杉の越後は水産資源と金山を含めると70万石から200万石は行くんじゃね?
だから会津120万石へ行ったのは実質減封処置
小早川金吾の筑前59万石→岡山55万石も減封なのかどうなのか。実質減封なんだろね。
博多権益を含めれば100万石行ってた可能性あるし。京都に近くなっても半減は痛い。
ふと疑問に思ったのですが、戦国時代に詳しい人は
例えば、桶狭間の戦いがあった年のヨーロッパの情勢とかのも詳しいのでしょうか?
それとも、あくまで日本の戦国時代に特化した方々ばかりなんでしょうか?
歴史は起承転結的に流れで理解するものだから同じ時代のヨーロッパ事情とか理解してるのは相当レベルの高い人だけだよ。
俺が時々考えるのが日本の戦が世界で通用するかという点かな
外国の受け入りで戦に勝ってきたところが大きいから
やっぱり世界では通用しないのではと思っている
でさ、やたら上下関係も厳しいし、礼節も重んじるし、しぐさが回りくどいし
特に、関ケ原で島津が傍観の姿勢をとったのは
石田の家臣の無礼な馬上の物言いが原因だったと言われているから唖然とするわな
元寇でもみられたが、当時の戦国武士は合理的に物事を考える思考がかけている
世界で通用する武将は政宗か信長くらいか
そうは言っても、島津だってやる気まんまんで石田側に着いたんではなくて
流れでイヤイヤでしょ。
この状況で無礼なことされたら普通怒るわ。
>>259
戦国時代は、鉄砲やイエズス会以外はあまりヨーロッパと影響を受けていないからねえ
当時のヨーロッパは三十年戦争だっけ?
江戸時代になると蝦夷を荒らしてきたロシア艦隊が、母国ロシアがナポレオンと戦争始めて来なくなったとか、浅間山の噴火が巡り巡ってフランス革命の遠因の1つになったとか、少しだけ関係が出てくるから面白い せっかくズロースが入ってきたのに普及しなかったのは蒸れるからかな?
白木屋だっけ?
デパートの火災まではノーパンがデフォだった
ワコールの調べだと秀吉への献上品にパンティがあったらしいね
淀姫が穿いたのか、はたまた秀吉が自身で穿いたのか
そもそもなぜパンティを持ってきてたのか?
秀吉が要請したのだろうか?
使用中の物を献上したのだろうか?
>>269
なぜ履いたと思う?
被ったかもしれないぞ 16世紀 ヨーロッパ 下着で検索したらちょうちんブルマが多いな
でも紐パンが城壁から出てきたってのもあるな
やっぱいつの時代の男も小さい下着を着せようとするわな
>>272
むしろ鎧など上に履く物が多い男の方が下着が小さかったのかも ドラマ三国志で曹操が1万の敵を倒すには8000の犠牲が必要だといっておりましたが、
この理論は戦国に通用しますか?
しません、ってやってもいないのによく言えるよな
でもさ、同じ強さで同じ武器の10000人と10000人が平地で激突したら
相手を全滅させて勝った方は生き残るのは何人かといえば
曹操のいう2000人説はありうる。
すいやせん、薙刀はなぜ戦国で使われなくなったのでしょうか?また
鎌倉や室町の武士は馬に乗り弓を装備していましたが、
馬に乗る弓を装備していた武士も戦国では見なくなりましたがそれもなぜでしょうか?
鎌倉から室町そして戦国時代の大きな戦闘様式の変化に軍の大規模化、集団化、歩戦化などがあります。
集団戦を行うようになったので薙刀や太刀などの振り回す系の武器は使いづらく突く槍や短い打ち刀がメインになり
開けた所でどちらかに矢が当たるまで撃ち合いながらぐるぐる回る巴戦などもなくなり騎兵は突撃専門兵科になりました
ただしまったく廃れたわけではなくまれに史料には出てきます
軍の大規模化、集団化、歩戦化って古代中国でも定番だろ
薙刀・大斧・ぐるぐる回りながらの騎乗騎射は主流だったぞ
日本は城郭の発達で、合戦とはほ城攻めと後巻に限定される状況になったからなあ。
軍団同士の衝突と言うのがレアケース
中国で斧って歩兵の武器で対騎兵用なんだよね
馬の脚をぶったぎる
価値のある馬をわざわざ殺すかね?
日本の斬馬刀も、馬を斬る目的で使用とかよく言われてるけど
馬すら斬れるor馬ごと斬れる、っていう意味だと思うんだけどな。
伊達や毛利や島津や武田とかドラマ見てきたけど全国の戦国大名とか兵士とかがほとんど同じ武具を装備したり戦い方をしていたというのも変じゃない?
鉄砲の伝来があったにせよ
中には全然違う装備であってもおかしくはない
例えば薙刀や斧が主流の戦い方やパルティアのように軽装軽馬による一撃離脱射撃が得意な戦法をもつ大名が1人や2人いてもおかしくない
絶対的にこの戦い方がベストですと
全ての大名に強制するのは無理がありすぎる
いや、全員が全員同じ装備で同じ戦い方はおかしいと・・・
地域や大名家で微妙には違いましたよ。ただ狭い島国なので異文化並の違いはさすがにありませんが
足利尊氏って九州から京へ攻め上るときに50万の兵力を行軍させたそうですが、
50万ってすごくないですか?戦国時代でこれ以上の行軍はありましたでしょうか?
大谷と三成でも小田原征伐の22万がせいぜいなのに
頼朝は28万の兵力で奥州藤原氏を攻めたから
当時の未開の地への派兵ではこの方がもっとすごい
wikipediaの改易のページで再封って言葉が出てくるんでが現代では無い言葉のようです
どういった意味なんでしょうか?
封は封建の封で領地を与えるということ。与える領地を封土ともいう。
一度改易した者に再び領地を与えるのが再封。
武将や公家の名前は訓読みなのに入道したり出家したりすると音読みの名前になるのはなぜ?
どうしても思い出せないので質問します
暗殺をしようと押し入り、闇の中一緒に行った家臣に間違えて首を切られて重体になった武将って誰でしたっけ?
後北条家並の大大名が、早い段階から秀吉に臣従して、全力で媚び売りまくってたら減封とか転封とかされずに済んだのかな?
毛利も国境画定がこじれにこじれたのと、賤ヶ岳の時柴田勝家に通じていたのがバレて秀吉との再戦寸前まで行ってるんだよなあ。
他の所のように北条兄弟で分割くらいはされるだろうけどガチで臣従してれば生き残れただろうな
北条は善政敷いてたみたいだし、本当に悲しくなる。
何であんなことになってもたんや……。
まあ、そんな北条を滅ぼせる人間だからこそ、天下統一なんて無茶苦茶な事業を達成出来たんだろうな。
島津も数年早く九州を統一してたら、交渉の余地があったんだろうか?
やっぱり難癖つけて減封?
>>263
中世ヨーロッパの騎士達も似たようなもの
で世界でも通用するといった人物はヨーロッパでも日本でも少数でしょう 武将の呼び方について質問です
武将を呼ぶときは仮名だったり官位で呼ぶのが一般的だったそうですが、梅雪や有楽斎みたいな出家した人に対してはどのように呼んでいたのでしょうか
>>306
北条は信長時代はうまくやろうとしてたよね >>308
出家しても法印とか官位のある場合はその官名。そうでなければ基本的には法名(出家名)。
また家中では出家して隠居の場合は大殿、あるいは御隠居様など別の呼び方もある。 >>307 常識に考えて、単一民族の日本と多民族の中国・ヨーロッパだったら
後者が世界に通用するやり方を行ってもおかしくない
元寇でもわかっているだろう
名乗り上げて一騎打ちのつもりが、名乗り上げている最中に殺された鎌倉武士がいかほどか 多民族でやってれば世界に通用するやり方ってのも無いけどなあ
どうせ石炭使えないくらいの時代なら世界が広すぎて結局破綻するし
唐入りもそうだけど明治以降に大陸に築いた日本の要塞は堅城なんだよな
漫画センゴクで伊勢(北条)は関東では他国から来たよそ者と描かれていたんですが
西国の武家もルーツは東国の場合が多いですがこっちは問題なかったんですか
つか西国の主な領主はほぼ全員東国出身だ。「西遷御家人」で調べろ。
ほぼ全員そうなのだからよそ者扱いされるわけがない
伊勢北条って桓武平氏にしろ中臣伊勢にしろ西国やん?
てか地縁がなければよそから来たんだしよそ者でいいんじゃないの?
他国から来たよそ者だから交渉しないみたいな馬鹿対応されなきゃどうでも良いよな
関東においてはよそ者扱いしてた奴等も最初はよそ者だからな。
源平なら祖先は100%よそ者として関東に来てる。
関東においてはよそ者扱いしてた奴等も最初はよそ者だからな。
源平なら祖先は100%よそ者として関東に来てる。
そうなんだよな 白人もアジア人も先祖は黒人
科学的に証明されてる アダムもイヴも黒人
龍造寺・大内・宇喜多あたりは東国武者系じゃない地生えじゃないの?
東国も宇都宮や佐竹のような古い土着の勢力もいれば西国から来た古河公方や堀越公方もいる
ぶっちゃけ実力が全ての戦国時代において家祖はそこまで重要ではない
戦国時代の史料としてよく挙げられる「おあむ物語」の信憑性ってどんなものなんでしょ?
内容に矛盾や裏付けの取れない記述が多くて偽書説もあるなんて話もよく聞きますが
伊達綱宗以外で
武家(大名でも旗本でも)が
遊郭で働く女を身請けした(しようとした)
エピソードってありますか?
要は太夫みたいな職種から
武家の側室とか妾になった人の資料か
もしくはそうさせようとした武家側の資料ってないのでしょうか?
>>330
芸州浅野の5代藩主浅野吉長は吉原の遊女二人を身請けして愛妾にしようとしたら、正室節姫が
抗議のために切腹して死んでしまった。驚いた吉長は愛妾二人を遠ざけ、幕府へは急病死と届けて
改易を免れた。
節姫は加賀藩主の娘だそうだが女性なのに切腹というのが珍しい。姉さん女房で気も強くて嫡男も
産んだから吉長は側室を持つことも許されなかったと言う。四十を過ぎてそろそろ良いんじゃないと
思ったらこんなことになってしまって辛いところだ。 お由羅騒動について調べてるのですが
何故家慶は茶器を送るという手段で斉興に隠居を勧めたのでしょうか
将軍なんだから堂々と隠居を命じる事も出来そうですが
ひょんなことから家のルーツに関心が湧き、一家を挙げて昔のことを調べたことがあった。
そしたら室町末期から戦国期にかけて盗賊で財を成した家系だと判明し、家族全員、何とも言えない気分になったもんさ
それが本当に判明したなら中世社会史における大変な発見なので地元の教育委員会
もしくは大学の史学科に報告する事をお勧めする
wikiに載っていたんですが、誰か分からなくなったので質問です。
戦国時代に活躍して、確か出奔などした人物です。
江戸時代になり、参勤交代などで静岡県あたりにとある大名?が通り、
声をかけたら上様?等の話になり、身なりからみれば当然知るはずのない話だったので
もしやと年配の配下に聞いたら、彼は〇〇じゃないか?となった。
多分、徳川配下の武士だったと思いますが、ご存知の方いますか?
常備軍のない時代なのにどうして大内政弘・義興親子は長期間領土から離れた京都で暴れまわることができたの?
甲陽軍鑑に、史実と異なる内容が一定の割合で記載されているのは何が要因なのかな?
成立時期から考えると、横田尹松とか、初鹿野昌次とか、旧武田家臣、それもそこそこの身分の人間が生きていたのに。
>>341
冒頭で春日虎綱自身が言ってんじゃん「記憶違いも有る」って。何を読んでいるんだお前は >>341
日記を付けてたわけでもない高坂弾正の昔語りなんだから記憶違いがあるのは当然だろう。
俺だって履歴書書くのに苦労してるぞ。 東北地方のマタギなどの狩猟民が、熊などの大物狩りに銃を使うようになったのって
大体いつ頃からですか?
最近読んだ歴史小説が、九戸政実の乱を扱ったものだったのですが、
その中に火縄銃で熊狩りをする猟師のグループが出てきて、ちょっと疑問に思ったので・・・
マタギはわからんが、日本において鉄砲は武士よりも猟師の方に先に広まったという説は有る
>>346
ありがとうございます。そんな説もあるんですね 北信愛が鉄砲隊を率いてクーデターを起こしたり、南部晴政率いる手勢に襲撃された
南部信直が鉄砲で晴政を撃退したとあるように鉄砲そのものはかなり早い時期に東北まで伝わっていた模様
>>349
ありがとうございます。あり得なくもない、って感じなんですかね 14,5年前に本屋で買って読んだ学研の漫画の大坂冬の陣(正式タイトル不明 画像検索してもパッとわからず)で
大坂冬の陣の際に幕府軍の陣中で怪しい兵士が捕まり取り調べたところ豊臣家から藤堂高虎への手紙があり
「この度は前々からの約束通り大御所と将軍(家康と秀忠)をおびき寄せてくれてありがとうございます(現代訳)」とあり
徳川陣中で騒ぎになったが家康が「これは豊臣の策略だろう」と動じずに藤堂陣営に引き渡し
漫画では藤堂高虎が怒ってその兵士の指を切り落とし目をつぶしたうえでそこらに解放した というエピソードがありました。
漫画の欄外の脚注で出典元の史料が紹介されていた記憶があるので実際?のエピソードだと思うのですが
ご存じの方いたらお願いします。(ひょっとしたらその史料も江戸以降の軍記物みたいなのかもしれませんが)
歴史小説でプロに依頼したキャラの挿絵を記載するのは駄目ですか?
歴史小説でプロに依頼したキャラの挿絵を記載するのは駄目ですか?
戦国時代に合戦で用いられた日本の馬の多くはポニーサイズみたいな話がありますが
戦国時代以前や江戸時代に書かれた絵巻物や錦絵なんかを見ても
そこそこ立派な馬体のサイズで書かれたりしていませんか?
やっぱり上級武士などが乗る馬に関しては立派な外国産馬が用いられたとかって事はないでしょうか?
そもそもポニーサイズはけっこうデカい。ポニーと聞いてポニーの中でも小さいシェトランドポニーとかのミニポニーを思い浮かべるからちっちぇーと思うだけ。
そしてサラブレッドらの現代馬から見ればたしかに小さいが、歴史的にはチンギスハンのモンゴル騎兵や中世西洋の騎士も日本馬と同様にポニーサイズだから別にちいさかない
>>361
肩の高さが147cm以下がポニーの定義ね
つまり自分の胸から肩の辺りに馬の背中があるわけだけど、それを小さいと思うかどうか
現存する日本の在来馬の体高は100-135cmくらいで、鎌倉期前後の出土した馬の遺骸からの推定体高は120から130cmくらいだったかな?
それと宇治拾遺物語や吾妻鏡には140cmを超える馬の記述もあるそうな
続日本紀には新羅からの輸入馬だと思われるけれども150cm(wikiだと五尺五寸(165cm)も国会図書館で確認すると高五尺と記述されてる)の馬が献上されたと記述されてる >>361
源平合戦のひよどり越えの逆落としの時に畠山重忠は愛馬を背負って下りたとされているのにそんなデカいわけないだろう。 なぜこの板は、極論をぶつけあってケンカしてばかりなんですか?
戦国時代の日本人は江戸期に比べればそんなに低くなかった説あったな
江戸期だけ極端に低いとも
秀頼はかなり体格が良く、太平楽という大型の馬に乗っていたらしく
大坂城の発掘調査でも比較的大きな馬の骨が出た
皆ポニーサイズの馬に乗っていたわけでなく、体格に適した馬に乗っていたが正解だろう
人間にも体格の差があるのと同じく、動物全般にも勿論体格の差があるんだから
>>367
その大きな馬が秀頼が乗ってた馬
というのはどうしてわかるの? 愛知には名古屋城 岐阜には岐阜城という具合にとても有名な城がありますけど
三重県ってなにか有名なお城ありますか?
あと伊賀上野城や伊勢亀山城や津城とか巨城は無いがそこそこ有名な城は多い
つかぬ質問いいでしょうか
「木綿の育成に干鰯を肥料として用いると良い」という知識があるかと思います
それに関して、以下2つの疑問があります
Q1 : 本当に干鰯は木綿に効果的なのか
調べる限り、木綿はそこまで肥料を必要とせず、むしろ与えすぎはダメという内容を見かける
では干鰯は何の意味があるのか
或いは肥料が必要でないのは現代に限る話なのか
Q2 : この知識はいつ形成されたのか
簡単に調べた限り、日本以外で綿花に魚肥を用いた記録は、明・朝鮮等でも見かけられなかった
しかし日本では木綿育成の初期(1500+α年頃)から鰯との関係が見られる
この知識がいつ形成されたか示唆する研究等はないか
あまり戦国時代ぽくなくて申し訳ない
低栄養下でも生育する植物に植え付け前に入れる原肥として肥料三大元素のひとつの窒素成分を与えすぎると
幹や葉っぱばかりもりもり伸びて肝心の花がなかなかつかない「徒長」ちゅう現象が起こる
与えすぎはダメというのはこれの事だと思うが、原肥程々で花や実が付いてから追肥マシマシにすることで回避できる
現代でも使われる魚粉肥料は有機肥料の中では即効性に優れるのでよく追肥に使われるから同じように追肥に使ったんじゃないかな
また低栄養下でも生育するといっても木綿は商品作物なのでコストをかければ品質が良くなり競争力が出るので金肥使うのは別におかしくない
と家庭菜園が趣味の素人考えだとこうなった
ググっていて8年前の2012年度第9回都市環境デザインセミナーでの講演内容に近代の綿作のことが語られてるのを見つけた
その中で、天保4年に書かれた大蔵永常の“綿圃要務”という書物が綿栽培の手引き書と書かれているから、それを読み込めば何かわかるかもね
>>374
色々勉強になります
参考にして調べた所、6月中旬と7月中旬頃に追肥をすると良い、みたいな記述を見つけれました
即効性よりは緩効性的な記述もあり、まだ分からない所はありますが、
理解が進みました、ありがとうございます
>>375
調べて読んでみたいと思います
ありがとうございます ムガル、オスマン、ロシア、イングランド、フランスといった戦国時代と同時期の大国は、
日本についてどういう認識だったの?
逆に戦国大名はそれらの国に対してどの程度の知識があったの?
戦国時代は戦争の孤児をどう扱ったのでしょうか?
何か文献残ってますか?
関ヶ原の戦い後、なんで毛利はごっそり所領削られたのに、島津は本領安堵だったんですか?
毛利は腰砕けになっていたのに対して島津は僻地にあり、しかも戦う姿勢を見せていた。そうだよカムランさん、気合いの問題なんだよ
島津本国は義弘からの援軍要請も輝元からの参加要請もガン無視の完全中立でもっといえば消極的東軍ともいえるわけでそりゃ安堵で何もおかしくない。
さらにどうでもいい僻地だし
島津兵庫入道惟新は、兄(義久)、息子(忠恒)との家中実権を巡る三者三すくみの争いの中にあり、西軍に積極的に参加して勝利することで、家中の発言力回復を狙っていたというのが近時の説である。
義弘を当主に含めるのは幕末になってからのことで、実際は義久から忠恒に直接引き継がれてる
戦後島津が特におとがめなしだったのも、仮に最初から積極的に西軍に加担してたとしても部下の暴走で片付けられたからで、もし義弘が実際に当主になっていれば減封か改易は免れてなかっただろうよ
義弘は、義久が九州征伐以降も秀吉に反抗的で本来なら処分されるところを当時取次を務めていた三成に救われてるし、それもあって西軍についたんじゃねーの
というか名実ともに総大将だった毛利が減封で済んでいることのほうが凄いんだよ
吉川の行動も輝元の命令だろうしね
関ヶ原から戦後にかけての毛利・島津の外交・お家事情について詳しい書籍ないですかね?
みなさん、よくご存知なので自分も勉強したいです。
それだったら、光成準治「関ヶ原前夜 - 西軍大名たちの戦い」をお薦めする。古文書を基礎に綿密な考証をしており、しかも現代誤訳を付しているから古文が苦手でも大丈夫。値段も高くない
あとは「島津義弘の賭け」山本博文とかもおススメ。
大名としての島津家のしょぼさが分かり幻想を打ち砕くのちょうどいい
毛利について詳しく知りたい場合は光成準治氏の『毛利輝元:西国の儀任せ置かるの由候』がいいな。
最初の段階では「毛利輝元再評価」を意気込んでる感じだが、最後の方に成ると輝元に色々うんざりしている感があっていい
兵農分離て自衛隊は米軍式で出来たけど帝国陸軍なんか農民徴兵して集めただけで。
農家するもの居なくなって食料にも事欠く始末だろ、
そもそも武士と農民は最初から分離している。「農兵」なんてごく特殊な場合以外存在しない。農民への賦役は輸送などの非戦闘員としてのもので、兵士として徴収されては居ない
半分軍役で払って半分年貢で払う軍役衆ってのもいるけどな
すいやせん
外国の歴史ドラマ見てますが捕虜の処遇に困り殺すことが結構あるようですが
戦国は捕虜はどうしたのでしょうか?
奴隷として売るだけでしょうか?
人類がおっぱいを性的アイコンと見るように成るのは近代に入ってから。アメリカ発祥とされる
ほう、切捨て御免は江戸時代で御定書で認められた無礼に対する武士の殺人特権だが、
江戸時代に比べて士農工商の区分が薄い戦国では誰が誰を斬り捨てて捨ていい特権
になっていたとでも?占領軍の略奪を妨害して斬られるのは斬り捨て御免にはならんぞ
>>402
> 江戸時代に比べて士農工商の区分が薄い戦国では
先ずこの辺をもう一回勉強し直してから出直せ >>403
出直す必要はないけど?
無礼に対する武士or某階級の殺人の特権が認められていたソースを出してもらえれば
済む話だと思うけど?
で、どこの勢力でどういう決まりで認められてたの? >>404
身分差の事を指摘してるのに解ってないのか。 >>406
質問している文面を読めないのか。
まあわからんのだからしょうがないか。 細川藤孝夫人の麝香ってえらく洒落た名前だと思うんですけど本名なんですか?
それとも後世に付けられた愛称?
毛利が尼子義久を拉致・軟禁したのはなぜですか
わりと他に類例がない珍しい処置ですよね
1万越えるような大軍は大きな川をどうやって渡ってたんだ?
大量に船用意してたのか?
そりゃ銀英伝の主張(ヤンやユリアンの主張)が
上手く行ってる専制政治よりも、上手く行ってない民主政治のほうがマシ
だもの
>>409
尼子旧臣の懐柔のため。尼子旧臣の地侍にお金配ったり毛利の懐柔策はちょっと特殊ですね。効果的ではなかったですが 馬に乗って弓を持った武士がいてそこまで危険がないところまで戻ってきた場合ずっと手に弓を持ってるのは辛いと思うんですけどこういう場合、弓を引っ掛けるところとかあったんですか?
鞍に付ける弓を入れる袋(筒)がありますし
中間という戦場まで付いてくる雑用係が居るので預けたりもします。
秀吉が上杉謙信の墓の前で「所詮、田舎大名よ」と言ったらしいですが(本当かどうかは知りません)
自分は武田信玄も所詮、田舎大名だと思います
生涯働きに働いて、一体何カ国を切り取りましたか?
側室の産んだ長男が、正室の産んだ次男を差し置いて
家督を継ぐことはありますか?
信長の三男は織田家の序列が叔父さんより下の4番目扱いだったと聞いたのですが
母の出自が卑しいとそこまで酷い扱いになるのでしょうか
蛇足ですが
うちの近くに織田有楽斎の長男の陣屋がありましたが
側室の子だから分家にされて、子なしで断然してます
伊達政宗の長男が分家になったのは庶子なのが理由ではなく
大坂城に差し出された人質で豊臣と近かったから、と書いてた本がありました
豊臣の世が続けばこの長男が本家の後継ぎの可能性あったのでしょうか
>>418
>母の出自が卑しいとそこまで酷い扱いになるのでしょうか
wikipediaによると毛利元就の扱いはこんな感じ。
「元就の正室の子である毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人の兄達が元就から大切にされたのに対して、
元清を始めとする側室の子達は、父から「虫けらなるような子どもたち」と表現されている。しかし粗略に扱われた
わけではなく、「もしこのなかでかしこく成人するものがあったならば、隆元・元春・隆景は哀れんで、いずれの遠境
などにでもおいてほしい」とも依頼している。一方で「たいては、まぬけで無力なものだろうから、その時はどのように
されてもかまわない」とも述べており、そこには正室の子と側室の子を明確に分ける元就の配慮が読み取れる」 まるで顔も体格も似ていない秀頼が秀吉の子ではないって説は聞いたことあるけど、
鶴丸にも似たような説ありますか?
>>420
ありがとうございます
元就のコメント随分酷いですね
でも本人にも周りにもはっきり立場を知らしめることで
お家騒動を防ぐ狙いもあるのかな、と思いはじめました >>381
そりゃあ、花押付きの文書くれるまで上洛せずに、戦うって姿勢見せたからだよ。
福島正則の甘言に騙されて、簡単に大阪城退去した毛利輝元とは違う。
幾ら家康でも、花押付きの文書無視して取り潰しは危険だからさ。 >>422
時期的にも、妾腹の子供たちは正室が死んだ後に生まれてますし。年齢的にも50超えてますし既に
成人した「当時基準」正室の息子とは全然立場違うってことです。
少しでも危険って思われたら兄達に殺されかねないのですから、こう言うしかないのかなと。
元就は史実では74まで生きてますが、普通に考えれば50過ぎの子供が成人するまで
生きてる可能性は低い。 >>421
鶴丸って鶴松のことか?
数え3歳で死んだのに親に似てるも似てないもないだろ すみません。
滅んだ国人とか浪人などに落ちぶれた一家に
没落する前からの家臣や侍女が仕えている描写がありますが
自分が野良仕事してるのに、家臣に給料は払えたんですか?
それともタダ働きですか?
>>426
タダ働きどころか逆に家来に食わせてもらってる状態です。 >>427
ほえ〜、すごいですね。
忠誠心?
それにしてもすごい。 主君が配下の人間に自分の娘を嫁がせるってどういう意図の政略結婚なんでしょうか
>>429
俺とお前は同じ船に乗ってんだから俺を裏切るなよ。 まあ家臣と言っても一門かそうでないかでかなり違うが、
一門ではない家臣の場合、主君側に家臣の家格を一門格に引き上げたいとか、
或いはその家臣の持つ勢力を主君の権力の中に取り込み一体化を図りたいとか、
まあケースバイケースではあるな
>>426
春秋戦国時代の故事でいう、奇貨居くべし ってやつだな
先行投資として養ってる、扱い。 >>418
戦国大名ってのは、基本的には、自分自身の権威だけで家中を束ねることはできていない
高貴な貴族の娘を正室とすることで家臣が持ち合わせていない高貴さを得るとか、
近隣大名の娘を正室にして、その権威を借りるとか、
有力な家臣の娘を正室にしてその家臣の支持を取り付けるとか、
大名として自立する上で必要な力の一部を当主ではなくて正室が持ってて、両者の支え合いによって存立してるような側面がある
正室と側室の違いは、地盤の強弱といっていいだろう
側室の子が跡を継ぐ場合は、基本的には、正室の子に準じた親子関係を結ぶ。猶子になるんだよ
そもそも、奥向きってのがひとつの組織として確立されてることが多い
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「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 東 利則(茨木市小川町9−211) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 田岡 亜弥(横浜市都筑区牛久保東1−26−43) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 西口 昌宏(岸和田市八幡町10−15) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 飯尾 義弘(神戸市灘区八幡町4-9-27) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 葉山 大樹 葉山 真里 葉山 結里奈(東成区深江北3−15−14) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 立花 直輝 立花 智美 立花 和美 (住吉区山之内1−17−13) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か?? 33
>>403
多くの人を納得させるだけの理由を提示できなければ御免にならないからなあ
免にならなければたいてい、実行者は厳罰を受けた 加藤図書助の末裔て江戸時代以降出てこないけどどうなったんだろう
>>436
400人間七七四年2020/08/18(火) 07:53:15.13ID:fkfzO/MH
戦国に切捨て御免ってあったんですか?
401人間七七四年2020/08/18(火) 19:55:07.91ID:NhHxzQDx
戦国でいう手討なのでそりゃもう普通にありましたよ
↑この回答が間違いってことか
このスレってちょっと昔はいい回答してもらってたんだけど
最近は誠意がまったく感じられなくなった
久々にきたら突っ込みがあったからうれしかったわ 攻城戦とかの話ですが、城壁の前に大きな溝を作ったりすれば
重い雲梯や破城鎚は溝を超える事が出来ないと思うんですがそれをしないのはなぜでしょう?
(映画とかでそういうのをほとんどみないので)
勿論、溝を掛ける橋を用意されれば超えられるけど、道を制限できるし有効かと思うのですが。
溝に油や杭を埋めておけば人にも効果あるし
>>438
御免はないが、切り捨てるやつならたくさんいた
人をさらって売り飛ばすなんて日常茶飯事だしな
だが、敵対陣営の人間に対する不法行為は咎められなくても、同胞、味方陣営の者に対する不法行為は罰が重かったよ
見せしめ的に武士の方を処罰する事例も少なくないぐらいに。 ちょっと意味が分からない。堀に囲まれてるお城って見たことないかな?
なんか中国辺りの城を想定してる感じがする
>>438
切捨て御免って無礼打ちでしょ?山ほどあったんじゃない? 斬り捨て御免ってのは、条件が限定されているとはいえ、切り捨てが法的に認められているってこと、免状だ
そのような制度は戦国時代にはないだろ、不法行為としての切り捨てが横行してるだけ
>>439
ここは戦国時代の板なのでそれで答えると土塁の前には当然堀がある。 >>439
映画で見ないのは製作費の都合でしょう。
単にそれっぽい絵面を仕立てただけの創作物と現実を混同してはいけませんよ。 実際の城はもっと簡易的だったり、入りにくさに特化してるもんな。堀の中にある単なる掘立て小屋みたいなのもザラなんじゃね?
>>443 そうそう 普通にありましたってわけわからんかったです。 >>439
そもそも、日本の城攻めで破城槌や雲梯などの大型攻城兵器を使った事例がないのではないか
使われる見込みがない兵器に対する対抗策は、普通は作らないのではないか 前田利常時代に登用した家臣って政治的意図なんかね?成瀬吉正→徳川重臣の弟、松平大弍→十八松平?、品川左門→公家(大納言)の三男
幕府の血縁関係者を嫁に入れるのはよくある事だけど、幕府朝廷関係の人間を重臣に登用って相当レアケースなのにあんまりその辺研究されて無いんでよく分からん。
山城だとそういう車輪つけて動かすような巨大兵器とか運用のしようがないしねえ
家臣の木曽衆が木曽義利から離反した経緯がイマイチ分からん、家康からもお咎め無しだったし不思議。
殿(しんがり)の生存率ってどのくらいなんでしょうか
>>452
そもそも「殿」の行われた合戦の総数も解らないから計算のしようがない。 >>446
戦国時代の途中までは、城を明け渡して退却したり、城どころか中の軍勢、城主まで明け渡して(つまり寝返って)終わる戦いが多くて、殿軍とかいないしなあ 戦国時代の戦の大半が攻城戦
野戦は数えられるくらいしかない
その野戦の大半もお互いが睨み合って小競り合いして両軍退くことが多い
その退却時に城に守備兵を置くことは殿軍と同じ意味だが、交戦はしないことが多い
野戦で追撃して殿軍が交戦するような退却戦は稀
大野戦は少ないが一次史料上は小競り合いなのか名もなき野戦がかなりある
>>455
「殿」は別に野戦だけじゃなく、攻城戦でそれを果たせず撤退の際も行われる。
いわゆる「金ヶ崎の退き口」も、基本的にはそういう殿だ。 >>456
いわゆる睨み合いだけの牽制だな
決戦に至る戦は本当に稀だからな
>>457
城に籠ったら攻城戦だからな
野戦の追撃なんて稀 南北朝の統一と時期を同じくして
土岐氏、山名氏、大内氏等の大勢力が次々と足利義満の策略にハメられ
誅伐を受けて勢力を減衰させられてきた歴史がありますが
後南朝を後援して幕府に反旗を翻した北畠氏が大規模な追討を受けなかったのは何故ですか?
北畠氏と幕府との和議が成った後でも官位を授かったりと
比較的丁重に扱われてきたように見えるのですが
伊勢国司という存在はそれほどまでにアンタッチャブルな存在だったのでしょうか
> 土岐氏、山名氏、大内氏等の大勢力が次々と足利義満の策略にハメられ
そもそもそれらも個々に経緯が事なり、義満の策謀と結論付けるのは非常に乱暴。
また彼らもその後も普通に存続しているし。
>>460
南北朝統一後の大勢力粛清の経緯に関しては
将軍主導や勢力内での対立が原因であって理由はさまざまであるという事は充分、承知しており
レス内容を簡潔にするために策略という単語を用いたまでです
知りたいのは北畠氏の幕府側から見た立ち位置的な事や時代の情勢などを知りたいのです だいたいの場合、降伏したら領地削減とか公職の降格なり剥奪だけで勢力としての存続は許すのが当時の慣例だし
北畠も降伏したから許された
北畠満雅が将軍義持の時と義教の時と2回挙兵して幕府軍に攻められてるじゃないか
最終的に満雅が戦死して、北畠家は領土割譲して降伏したのに
「大規模な追討を受けなかった」はないだろ
南北朝統一期に発生した各種の乱の際には治罰の御判御教書でもって大規模な追討令が出されたり
守護国の大幅削減や守護職を宗家から傍流に切り替えが行われる等、幕府主導の強権が多々、見受けられます
当主・満雅が討死した後に幕府寄りの立場にあった北畠一門衆の重鎮・木造氏を引き立てて北畠宗家の力を弱める事をせず
土岐氏や一色氏に割譲された郡は半年もしないうちに北畠宗家へと返還されています
幕府の要職にあった土岐・山名・大内の乱終結後とは対応にかなりの温度差がある事の理由を知りたいのです
(伊勢国司という立場を尊重しての対応なのか当時の伊勢・大和情勢が関係して北畠氏追討を諦めたのか等)
これ等の恩情対応の結果が次期当主・教具を以って嘉吉の乱に加担した血縁関係にある赤松氏の一味を誅殺する事で
幕府への恭順の道を示す姿勢を明確にし、乱の終結から12年後に若年の当主であった教具は国司就任、将軍からの一字拝領等、官職の授与等
室町幕府の要職を任される立場へと順調にステップアップする事となりその後の北畠氏の親幕府路線が続く事となります
南朝の雄の一つでもあった北畠氏と幕府との関わり方が大きく変わったターニングポイントには何か特別な事情があったのか?という点に興味があるのです
当時の幕府が有力守護たちの合議を軸に動いてて、将軍でも合議で決まったことを反古にできなかった、従わざるを得なかったことが重要なのではないかと
叛乱鎮圧後に幕府内の派閥抗争で幕府方針が変わって赦免されるのはいつものことでした
そこまで核心を突いたピンポイントの答えは流石にこのスレでも貰えないよ
三重県の郷土資料館の学会員でさえ答えられないかもしれない
おそらく>>465が言ってる事だったり後南朝の残党を刺激しない為に
苛烈な戦後処理は避けたとかありがちな感じの複数の要因でもって
北畠氏は生かされたんだろうと取り敢えず結論付けて納得するほかない 敵対した奴は許すべきでない、殲滅しよう、と考えるのは中世にはレアケースで、戦国時代ごろから増えてくる発想
滅ぼすのはコストが高いので、戦費の不足する中世にはたいてい避けられた
古い時代からの名族で室町幕府や鎌倉府主導で滅ぼされたと言えば小山氏とか後の結城氏とか
まさか鎌倉公方が暴走して相手を滅亡まで追い込むとは周囲も思ってはいなかったようで
まさか、やっちゃったよ…オイ…😓みたいな雰囲気になったw
結局、元の支配層を望む声が高まって支流の血縁者を立てて復活させるけど
まあ確かに北畠に対する幕府からの措置は他の家に比べてちょっと甘目ではあるね
時期的には大塔合戦で信濃国が揺らいでた頃か
他にも仁木、細川、畠山、吉良の嫡流が追討を受けるなりして相次いで没落してるしなんかあったんだろうとは思う
似たようなことが続いていた、からといって、根拠なしに
「方針としてそういうものがあった」と考えるのは危険
そう考えるのは危険とかいちいちいらん事は書かんでええねん
おもんないやつやわホンマ
ある大名を滅ぼしたいと思っても、実際に軍をもってるのは幕府ではなく大名たちなので、
討伐に賛同する大名が多数派となるようにうまく説得できないと討伐できないのが普通
特に京都の幕府は関与する大名が多くて世論誘導が難しく、滅亡まで追い詰めるのは困難だったんではないかな
鎌倉府は関与する大名の人数が少ないので、むしろやりやすかったから、いくつかの大名の滅亡までいったのかも
北畠への処分がやや甘いのどうしてって質問に対して
滅亡させないのは当時としては普通の事ってのは答えになってないな。
聞いてる側が北畠が族滅されなかったのどうしてって聞いてるならまだしも
信長って斯波や今川滅ぼして幕府に怒られなかったんですか?
三好に京から追い出されてるような幕府に尾張の一大名を怒る余裕なんてないよ
>>474
斯波の領地3ヶ国のうち、本領ともいえる越前は応仁の乱のときの論功で幕府が朝倉氏に与えちゃってるし、遠江も今川が支配して斯波を追い出したことを追認して今川に守護職を与えた
最後に残った尾張を信長がとったところで幕府がとがめることなどあり得ないし、実際、放置した 今川を滅ぼしたのは武田と徳川であって信長じゃないな
斯波については、守護代によるクーデタに乗じて信長が対抗上、斯波義銀を傀儡として擁立したのち、何らかの対立があって追放、のちに改名して信長の部下になった模様
追放の際に幕府からとがめられたりはしてないと思われる
戦国時代(とりあえずは応仁の乱から秀吉の天下統一まで)の累計の死亡者数ってどんくらいか教えて下さい。
名前があるような合戦での死亡率だって
(川中島4でも2割だっけ)
数%とかだから、コロナ並に死んでないよなw
関ヶ原に秀頼の山城が作られてた!!
みたいな特集あるけど、
秀頼が着く前には家臣同士の戦終わるよなw
>>479
百二十年ぐらいの期間だし、当時の総人口の二倍から三倍ぐらいと見積もって三千万人から五千万人程度は死んでるんじゃないの
寿命も戦死も病死も飢餓死も全部合わせてさ 「戦死者数」じゃなくてすべての死亡者数?
それなら当時の推定人口と推定死亡率で計算していけば
ある程度数字は出るのだろうが、それこそ知ってどうする気だとしか。
だから戦死数だろうって解釈ができないバカw
利休がなぜ「切腹」?って聞いて放置しても、秀吉がどうみたいな
当たり前過ぎる珍答繰返した連中と同じw
質問します。
上杉謙信は自分を毘沙門天の化身などと配下の前で言ったことはあるのでしょうか。
よく耳にしますが出典がわかりません。
お願いします
>>486
江戸時代の軍記物に有る、上杉家では間者をさせる者に起請文を毘沙門堂の前で書かせる
しきたりだったのを、その余裕がなく謙信の前で書かせたが、それを家臣から批判されると
「オレは常に毘沙門天を拝んでるから、毘沙門堂の前で書くのもオレの前で書くのも一緒だ」
って言ったという逸話が元ネタだろうね もっと遡れば、旗印に毘沙門天の毘を用いたことかなあ、だいぶ遠いけど。
そこから話を発展させて、毘沙門天の化身とかいう与太話が創作されたのではないかと
>>485
生半可な戦国知識披露したいだけで
質問に対して芯を喰った回答も出来ないクセに
頓珍漢な返答するやつここ多ない?
通ぶってマウント取りに来るけど全然参考にならん答えしてドヤ顔
アホしかおらんw ↑俺はアスペ回答がウザいだけだが、
具体的にどこが問題あったのだ?
いや、お前の意見に俺も賛同して
このスレは鼻高々にズレた回答する奴多すぎだよなって言いたかったわけよ
質問があってもしたり顔でアスペ回答するドヤ顔馬鹿がウザいので質問する気になれんのよ
俺みたいに切腹を「」してる意図無視して珍答しまくられてないなら
2ちゃんには洞察力が低い>>483 みたいなのも居る
ってだけだろ?
質問してみれば良いじゃん。
2ちゃんって、自信ない疑問>>482 投げれば、
嬉々と回答するヤツが居て確認できる場だと思ってるわw 高スペが論理的に貶められる事を嫌がるのに対して、
低スペは他人を荒唐無稽に小バカにしてないと
自尊心崩壊しちゃう生き物だからしゃあ無いw
矜持ってもんがあればどうとも思わん。
光秀も同じように思ってたんじゃないか?
>>490
何を当たり前のこと
運良く詳しい人が来るとは限らないのが掲示板だろ 質問します。
歴史初心者です。
戦国時代に籠城などで疫病発生したとか記載されているものがあるのですが、具体的にどういった病気が蔓延していたとかありますか?
不衛生で疫病発生とか、関東で疫病発生など色々あるかと思います。
春なら麻疹・風疹、夏ならマラリ・赤痢、冬ならインフルエンザ
とかかなあとは天然痘などがメジャー
不衛生病の代表選手赤痢
麻疹は今でもヨーロッパあたりだとビビられる現役バリバリの伝染病
マラリアは江戸時代まではちょくちょく大流行してた当時は土着病
チョイ前の時代劇のセリフでよくあった「おとっちゃんは去年に流行り病でぽっくり」の流行り病はだいたいインフルエンザ
といった感じ
戦国武将でお母さんの再婚でできた年の離れた妹を大切にしてたみたいな人はいるのかな?
戦国武将の母の再婚とかいっぱいある?
父ならともかく母は家をまとめるか仏門に入るかな印象
再婚はまあまあ普通で有名どころだと秀吉家康に朝日姫や多劫姫いるけど
普通は大事にしようにも異父妹は他家の姫だでな
戦国時代の離縁って、普通は家の都合による離縁なんで、家同士の敵対が原因か、もしくは希なことだが上司命令だよな
好悪による離縁って、ほぼない。
死別の場合、正室は後家として家を守る役割があって再婚しないし、側室は仏門に入ることが多くて滅多に再婚しないから、異父妹がいるとしたら、敵対陣営の可能性が大きいわけだが……
龍造寺隆信の母が夫の死後に家臣の鍋島清房に嫁いだ
とかは珍しい例やね
武将クラスで有名どころなら本多忠勝の母も再婚して異父妹おるな
>>504
鍋島家の発展を見る限りだと、嫁にいったと呼ぶよりは婿にはいったと呼ぶべきかと思われ?
ぐらいの力関係に思える
柴田勝家が市を嫁にしたのと方向性が似てるように思う
なんなら、秀吉が淀殿を側室にしたのも似てるような気がする 何にも落ち度無しの条件で
先祖代々の領地を領地替えになった場合は、
新しい領地は、どのくらいの石高が保証されるのが一般的ですか?
同じ石高だったら、絶対に不満が出ますよね。
保証されるのは同石高くらいでしょあとは働きと力関係次第と状況
当初は、なんの理由もなく、いきなり領地替えってことはまずなかったはずだが
江戸時代後半になれば、役職にあわせての臨時加増とか出世コースとしての領地替えとかいろんなのが出てきたから、事情が変わってくるが
改易や何かしらの処分以外の転封の場合、加増転封か、或いは何らかの都合による
同水準の石高の領地への転封(国替え)となる。近世に成ると石高はあくまで給与と見られ、
特に譜代大名では転封、国替えは現在の転勤と変わらない感覚で常態化していた。
ただし天保11年の三方領知替えのように、明らかに転封先が現状に比べて不利な場合、
天保義民事件のような騒動が起こることもあった。
質問です
「自称してる官位は、外交の時に使うのか?」
織田信長だったら、上総守と自称してましたよね。
外交の相手が、幕府や朝廷だったら、自称の官位を名乗って怒られないの?
同盟国や友好国が相手でも、相手側が自称してる官位が、自分の自称の官位と被ってたら気まずくならない?
幕府や調停相手には使わないと思うけどお互いに自称なら被っても気にしないんじゃないでしょうか。
官職は現任の時だけじゃなくて辞任しても使う例が多いので。例えば源頼朝は右兵衛権佐だったから
流罪になっても佐殿と呼ばれています。
書状のやり取りもしている真田安房守昌幸と北条安房守氏邦
>>512
>>513
お二人とも回答ありがとうございます
なるほどです
自称の官職が同じ者同士のやり取りって、
面白いですね 同じでも一方のみが自称だった場合はどうなるんだっけね
遠慮するのかしないのか
戦国時代の手紙を解読したいのですが文法の勉強になる本などありますか
>>517
どのくらいのレベルで解読したいのかわかいませんが、文法の勉強なら
本屋やアマゾン見れば入門書がたくさんあるので、自分に合いそうなものを
選んで、それと古語辞典を1冊買って、それで勉強するくらいしか無いんじゃないかな?
くずし字から読みたいのならまたそっちの入門書も買うと良いかと。その場合
近世ではなく中世の文書を扱っているものを選ぶ。 戦国武将が初めて官位を貰うタイミングはいつなんでしょうか
>>519
親が既に官位を得ているのなら元服か当主交代の時 >>520
ありがとうございます!
連続ですみません
官位は親と同じものになるのでしょうか。また、親より上位の官位になる場合もあったりしますか >>519
いくさで武勲をあげたときに報奨として官位を申請してもらうってのが多いのでは
あと、朝廷の方針が変わって一部の官位が安売りの乱発されるときに申請したら入手しやすい
ただ、申請は幕府なり戦国大名が家臣の官位申請を仲介して取り仕切るから、主君の頭を通り越して申請することはできないんだよね >>521
官位については、継承の時は大抵は父と同じ官位。これは父の権威を引き継ぐという意味を持つ。
そして官位を上げるというのは、対内的、或いは対外的に自家の家格を上げる必要が有る場合。
急成長した家は特に、現状の勢力を正当化する権威的裏付けを必要とした。 親と同じ官位でも上役の大名から幕府に仲介頼まないとダメなんで、時間はかかるよね
官位貰っても数日で辞官する場合もある。官位につきたいというより、親や先祖などの先例に習って官位について、すぐにやめる。
それって数日で辞める前提だから本来もらえない高い官位がもらえるということ?
そして本人の箔付けになると
短期間で辞任するのは、記録に残ってる事例が複数あるのもたしかだが、珍しいことだから記録されたって可能性もあるだろ
短期間で辞任するのは次の人が待ってるから。一応定員あるのよ、本来の持ち主の公家も待ってるから行列よ
辞任しても格として前職名で呼ばれるから当人にとっては何も変わらないし
あとは前例主義の朝廷が前例に合わせるために記録操作してるから帳簿上だけの任期になってる例も多数
>>517>>521です。
みんなさんありがとうございました。 正式な任官はまだ想像できるけど、自称の場合は家中でどう認知させてたんだろう
前名で呼ばれて本人が訂正するなんて事があったのかね
>>531
受領名は通常、その家の代替わりで嫡男に継承された。一種の屋号みたいなもん。 質問です
正式な官位どころか自称官位すら名乗らない、欲しがらない。
「朝廷や幕府の権威」を利用しようとしない、必要としない
そんな戦国大名は存在したのでしょうか?
戦国時代に、
東北や九州など日本の隅っこにも、朝廷や幕府の権威は通用するのでしょうか?
田舎ほど中央の官位とか欲しがったりする気がする
丹羽長秀は惟住の姓はもらったけれど正式な任官は当時しなかったと見た
とはいっても五郎左衛門と名乗っていた左衛門は朝廷に由来するから全くの無関係とも言えない
近江の浅井氏
下剋上で下からのし上がった大名は支配と地位の安定化のために家名や官職を求めるものだが
浅井氏は不思議なくらい朝廷や幕府に働きかけて官位とか身分を求めた形跡がない
一応、京極氏を担いでその権威を使っていたのでまったく利用してなかったわけでもないのだが
当時結婚しない武士っていたんでしょうか
理由も分かれば教えて欲しいです
結婚しない武士というと、細川政元と上杉謙信だな
なんか修験道かなんかの修法で女犯禁止だったからだと聞く
>>537
現在では謙信はおそらく妻が居た、というのが有力に成ってると思う。
「正妻を持たない」というのはわりとあって、この場合、例えば中継ぎ的な継承で
自分のあと正統な後継者に継がせるという場合、自身の有力な後見者となりうる
正妻一族を持たないという意思表示、なんてこともある。
謙信の場合これに近いかもしれん 結婚してないってのが正室を迎えてないって意味なら織田信忠とか
側室は迎えて庶子も生まれているけど
>>538
最近その説聞くけど具体的になんの史料にあたればいいか知ってたら教えて下さい 俺は40代のオッサンです
俺が若い頃は「織田信長は革命児」ってイメージでした
インターネットを読み漁ると
このイメージが、一般人である俺にも
「間違ってるかも、保守的な人間なのかも」
って思えてきました。
質問です。
学者の間では
「織田信長が革命時」ってイメージは最初から無かったの?
(創作物だけで、一般人が勘違いしてただけ?)
それとも、イメージが変わったのは研究が進んだ結果なのでしょうか?
昭和や平成の時代で、織田信長のイメージが変わる転換点とかあったのでしょうか?
信長は革新的って話が広まったのは80年代のことだと思うけど、当時、それに否定的な学者はいたが、流行りに乗った学者も居たと思う
その後の研究の進展で、やっぱり革新的じゃなかったって説が有力になったんじゃなかったかな
「革命児」とか「革新的」とかいう言葉の定義次第でしょ。
信長の寺社勢力への対応を考えると、信長を保守的と言ってる人はバランス感覚がおかしいと思うけどね。
寺社勢力への対応っていっても、他の大名への対応と同じで、敵対したら叩くって程度じゃん
そんな程度なら、他の大名もやってるでしょ
かなり強い大名じゃないと、強靭な寺社と敵対する力がなかっただけで。
自分の感想をいうと、信長個人の性格は保守的だと思う
ただ必要に迫られて革新的なことをやり続けた
あと当然だけど、保守的な部分もあれば革新的な行動や政策もあるっていう
ごく普通の結論にしかならん
>>542
織田信長は革命児論は20世紀中は学者のなかでも主流でしたよ
ただ注意するのは主流と言っても学者は自分が研究してる狭い分野以外はけっこう無知で定説に従う習性があって支持してるといっても多くは自分で調べたわけじゃないのと
豊臣法の研究者みたいに豊臣政権こそ革新的、信長政権はまだまだ旧勢力と否定的な人々などもとうぜん居ました
研究が進んで信長は革命者とまでは言えないということが定着したのはここ10年ほどですが
最近の信長は保守的とまで言きっちゃうのは反動で逆に振れちゃうネットの習性でしょう 90年代でも革新的なのは後北条氏ぐらいで、信長ふくめだいたいは革新的ではないって人も居たし
戦前は勤王家って評判が強かった気がする
革命的とかそういうイメージは南蛮鎧や南蛮趣味を押し付けられてからかね、欧州が優れている的な
保守的と言うか「他の戦国大名とあんまり変わらんよね」という事が
同時代史料などの研究から現れてきた信長像
>>428
身分制が有る社会ですから、旧主君を担ぐ意味ってそれなりにあるんですよ。
上杉謙信は関東管領の山之内上杉の当主を保護してますが、元々謙信の生まれた春日山長尾家は
守護の越後上杉家の家老です、そして越後上杉には山之内上杉から養子が入ってるので事実上の分家。
実際には居候ですが、長尾氏が上杉家の家老の家柄なのは事実ですからああいう感じに。 質問です。
「主君→直臣→陪臣→陪臣の家来→…」
この「家来が、自分の家来を雇う」というのどこまでループする事が可能なのですか?
無限ループ的に、家来が、自身の家来を雇って良いのですか?
それとも、「陪臣は、自分の家来を雇ってはいけない」みたいなルールが存在したのでしょうか?
「雇ってはいけない」というルールは基本ありません。「雇わなければならない」というルールはありますが
「雇わなければならない」というルールは軍役と呼ばれ○○石の領地を与えるから100石ごとに〇人の兵を連れて来いといった感じです。
まぁどのみちループとやらは自分と家族を養う分の収入しかない時点で終わります。末端は20俵の足軽とかでしょうか
最短だと大名直属の足軽なら大名→足軽の1段階で終わるし
最長だと、天下人→百万石大名→筆頭家老5万石→筆頭家老の筆頭家老3000石→筆頭家老の略300石→徒歩侍50石→足軽20俵。な感じかなと
>>554
ありがとうございました
勉強になります 大石内蔵助のように大名家の家老ぐらいだと数千石ある人が多いから、相応の家臣を雇ってるよなあ
内蔵助自身も幕府から見たら陪臣だが。
大名家の家老で万石クラスは滅多にいないから、このあたり、数千石を基準に考えるのがいいのかなあ
暴れん坊将軍なんかで最後の殺陣のシーンなんか、成敗される悪役が旗本って
ケースがままあるけど、家禄に較べて涌いてくる侍の数がやたら多かったりするのが
気になる様になっちゃったりするのよな
まあ娯楽だからそんなのいいんだけど
>>557
役職を利用して動員してんではないの?
悪役になるような人は役務を利用して汚職してるような人が多いんだから、無役なはずないし >>558
刃ではない部分、反対側の峰で殴れば鈍器同様のダメージだよ
刀を鈍器として使う使い方だね
できるできないで言えば、いちおうできるはず この武将は○○の戦いでここに陣を置いた、この作戦は○○という武将が考えた、ここの指揮は○○がした
こういうのってどういった史料を見たら分かるんでしょうか
感状などに書かれたりするんですか
一次史料にそういったことが書いてあるのは全く無いわけではないですが稀です。
信頼性に難がありますが家譜や軍記物などの編纂物には書いてあります。
>>563
ありがとうございます。
有名な歴史学者の方が○○はここに人を置いた等の事を語ったりしますがこれらもほぼ軍記ソースだと思っていいんでしょうか 史料が豊富な豊臣期以降はともかく戦国期の戦の詳しい描写はほぼ編纂物ベースですね
昨今は考古学による発掘等の研究結果も参照されることが多い
>>566
その影響で、桶狭間やら川中島のような有名な合戦ですら陣の位置を間違ってた事例が知られてるんだよね 普段は一次史料一次史料うるさい先生も戦の場面になると軍記物丸写しとか当たり前の現象だからね
一般書を書く場合は一般人の興味はそこだから書きたくなくても書かにゃならんのと
軍事は学問じゃない日本においては大先生ほど軍事オンチちゅう笑えない面もありなかなか
専門家の先生方の多くは、自分の専門外の分野になると、その分野の専門家の先生の意見を援用する以外にどうしようもない
運悪く、専門にしてる人が少ない分野だと、古い知見とか、研究と呼べるレベルに達してない知見しか存在しないことさえある
軍事関係なんか、代表的だと思う
その結果、信憑性の低い古い俗説を紹介するとか軍記ものの描写を引き写すぐらいしかできなかったりするわけだ
そもそも、まともな先生ならそんな一次史料もないようなところに足を踏み入れない
前野長康って本能寺の変の前までの記録ってほとんどないのでしょうか?調べてもなかなか出てこないので
>>574
追記で、墨俣から本能寺の変にかけてです 質問です
戦争時の「兵糧の負担」は誰の責任になりますか?
(大名または総大将レベル?部隊長レベル?各個々人レベル?)
もし、「大名または総大将」が、兵糧を負担してくれない場合
「部隊の兵糧が尽きたので、自領に帰ります」
と言う言い訳は通用するのでしょうか?
兵糧は各自の持ち出しです。
兵糧および人員や武具を賄うために収入源の領地をもらってるというのが御恩と奉公の原則なので。
足りない分は大名が貸してくれますそのうち返さなければなりませんが恩賞としてくれる場合もあります
遠隔地や長期間などあまりに負担が大きいく奉公の範疇を超える場合は大名からの支給になったりもします
よく漫画やドラマで出てくるような木の砦って、こっそり近づいて放火したり火矢を射掛ければ簡単に全焼しないでしょうか?
全国に数万あったとされる城のほとんどは木造だと思うけどね
土塀じゃなく木柵だし
焼き討ちは常套手段ですがこっそり近づいて放火程度じゃすぐ消されるんじゃ無いでしょうか
燃えにくくするために泥を塗り込んだりぐらいはしてたのではないのかなあ
あと、戦国時代の村はどこだって常在戦場なので、敵対者の関係者が近づくことはありえないと思う
火をつける前に捕まって殺されてるよ
政略結婚の正室との夫婦仲って一般的にはどんな感じなんでしょうか
特別仲が良い、悪い例ではなく平均値的な夫婦仲が知りたいです。
>>582
正直個々によって違うとしか言いようがないが、基本的には当人同士の仲よりも、
その家と正妻の実家との関係性による 政略結婚って、ある意味では夫婦は共同経営者みたいな関係でもあるから、仲良くするための努力はしてるだろう
それでも不仲になって別れる事例もあるけど、少数派だよね
そして、別れたときに個人の結婚とは違う厄介事が生じるのだ
正室ったって、敷地内別居がデフォでしょ
仲悪かったら旦那が部屋まで通ってこないし、
使用人がいるから、お互い罵り合いながら家事育児することもなし
出しゃばり奥方なら屋敷中ウロウロして。あれこれ口出ししてウンザリとかあったのかな
側室が旦那ではなく正室の家臣として仕えるシステムだから、寵愛を受けた側室が正室をないがしろにするみたいなのが難しかったし(そんなシステムでもゼロではない)、不和を深める要素は意外と少ない気がするんだよね
あと正妻はその家の奥(日常的な家の運営)を統率する存在なので、
システム上、当主との両輪に成らざるを得ない。
夫婦であっても、個人的な好悪は関係性の一部でしか無い。
官位に地名が入っていますが貰った本人と関係ない土地である事が多いのは何故ですか?
>>588
受領名の場合、基本的にはその家の由緒(先祖の官位とか)が関わってくるから
地元の土地と関係ない事が多い。
あと場合によってはダイレクトに地元の受領名だと、「この国を狙う野心が有るのか」という妙な勘ぐりを
受けかねないってのも有る。 北条氏は代々当主が相模守だった気が
家康も望んで三河守を手に入れたと聞いた
>>590
北条氏が代々相模守を称したのは鎌倉北条氏を意識してのこともあるから厳密には違う気がする
氏照は陸奥守を称してるけどあれも鎌倉北条一族の中でも大江広元、義時、泰氏、政村、安達泰盛など連署かそれに準ずる格式の人が任じられてることに因んでいるよ あと家康が三河守に固執してたのは、その当時まだ三河全域を実行支配出来てなかったからその大義名分がほしかったんだと思う
安房を本拠地とする里見家に対するいやがらせのため北条氏邦が安房守を名乗って
その北条氏邦が上野方面担当になったら武田の上野方面担当の真田昌幸も安房守名乗って対抗してきた話とか
今川家が代々持ってる上総介の上司の上総守をいやがらせに名乗ったら
親王しかなれないと指摘されたのか結局同じ上総介を名乗った信長とか
ちゃんと正規に貰って統治に役立てようとした武田信玄の信濃守や家康の三河守
琉球征服したいから琉球守を新しく作って名乗らせてもらった亀井茲矩
日本の端と端の正反対だが御先祖様から代々使ってるからな島津奥州家の陸奥守
初代が伊賀守だったから代々名乗ってしまいにゃ名字も伊賀に変えちゃった伊賀伊賀守さん
鬼美濃原虎胤にあやかれと馬場美濃守
実質的なものはほぼ無くなって名誉称号になってるし私称されまくりだから
有名な話抜き出すだけでもケースバイケースやね
>>589
戦国時代になると、侵略したい地域の国名で受領名を、それも自任じゃなく任官を受ける事例が複数出てる >>590
家康の三河守は、今川義元が三河守任官の後に三河侵攻を加速させた(三河侵攻・支配を宣言する目的か)前例への対抗、つまり今川氏真と戦う上での必要性があったのかもね 588だけどみなさんあざます
それぞれの事情が絡んだりするんですね
家臣が君主に臣従する際の象徴的な儀礼ってなにかあったの?
ヤクザなら盃受ける、西洋なら剣を肩に当てるとかみたいなの
出仕あるいは御目見やね
大名の本拠地に行って挨拶して太刀貰ってお礼の品渡す
それを毎年多くは正月にやるのが臣従の儀式。初めての出仕御目見は後継者と認めてもらう特に大切な儀式
武士の主従契約は個人対個人で結ばれる契約で、世襲されないからね
いずれかの代替わりがあれば、後継者が同等内容で主従契約を結び直す、新規契約するわけよ
毎年正月のは、年次更新って感じなんだろうか
大きな損害を被ったら貰える場合もあるし長期滞陣ご苦労様系の感状ならいるだけでもらえたりもします
その感状にある程度の事は書いてあるはずなので読んでみるのが手っ取り速いと思います
くずし文字は当時から見てもすごく雑に書いた文字という感じであっていますか?
神社に奉納されていた当時の史料や肖像画に付け加えられた文字を見ると素人の現代人でも読めそうなものが多かったので気になりました
>>603
くずし字はあえてああ書くことで相手への親しみを示す意味もあったらしい。
あと内容は書状を届けた使いが口上で申し上げるので、書状自体はある種のメモというか、
内容保証みたいな意味合いもあった感じ。
それと、江戸時代に入るとくずし字も書き方がほぼ全国で統一化されるので、よどごの悪字でないかぎり
識字層なら誰でも読めた 武田勝頼のスレだけ他スレの倍以上勢いがあるのはなんでですか
菅沼とかいう荒らしと菅沼をおちょくって遊ぶファンたちの集い。不毛な議論をループさせてるだけだからいくらでも勢い出る
石田三成が本多忠勝に出した書状の「徳川が憎い」ってどういう意味なんですか?
自分達が成し遂げたい事の壁になる徳川が邪魔という事なんでしょうか
>>608
> 石田三成が本多忠勝に出した書状の「徳川が憎い」
そもそもそんな書状は無い >>609
ありがとうございます
石田周り創作話が多いですね 徳川「家康」や豊臣「秀吉」のような実名の部分は朝廷〜農民まで知っているんでしょうか。
>>608
普通は知らない
ただ、官位を受けるときとかには申請する書類に実名を書くのだと思う つかなんのかんので日本にも主君、領主の諱の文字は軽々しく使ってはいけない、
という意識が有ったので、関わりのある人間はむしろ知ってないといけない。
西郷の、明治初期に戸籍登録するときの逸話を聞けば、実名(じつめいではなくじつみょう)は親しい人でも知らないことが多かったとわかりそうなものだが
>>615
それは西郷が下士の出身で殿様でも何でもないからだ。
「久光」はだれでも知っているだろう? 秀吉とか信玄みたいに途中で名前が変わる奴等ってその度に名前変えたからよろしくって周囲に連絡するの?
そもそも、身分のある人の実名を呼ぶのは無作法なことだから、実名で呼ぶことは少ない、実名で呼ばれるなんて人生で何度あるかってレベルなので、ほぼ知られてないのが普通
当時の民衆あての禁制や法令、下知状、判決文、奉書なんかの発行者名は『諱+花押or印判』で〆る物も多いぞ。
民衆が殿様の諱を全く知らないはずはないと思うけど。
源平合戦期や幕末維新期の武将で
戦国時代で活躍できそうなのは?
その逆もありで
>>593
南京守とか羅馬守とか呂宋守も
やろうと思えば作ってもらえたんですか? >>622
琉球守や台湾守は朝廷が正式に設置した官位ではない。私称 >>622
どこかは忘れたが、律令制の国の名前でない海外の国名の官職が戦国時代に1度だけ発給されてたような ドブスですら吉川元春のような貰い手がありましたが
遊女ですら縁のないような野郎は
やはり自家発電でしたか?
ましてや
国そのものが敵前逃亡するなんて
創作物でもありえないようなことが
現実に起こったしな
>>626
顔ではなくどこの家の人間なのかが重視される
そして吉川元春の嫁がブスというのは信憑性に欠ける 三国志の諸葛孔明の嫁がブスという与太話と同じで、信憑性ないよな
孔明の嫁の場合は、嫁の貰い手がなさそうなタイプの女だとは書いてあったが、それが伝聞なのか事実なのかも不明だし、行動の問題なのか容貌の問題なのかも判別つかないから、ブスかどうかは分からない
それと似たような話しかな?
吉川嫌いのやつが書いたのが始まりじゃなかったっけか
>>632
これが正解
書いたのは吉川の人間だから
思惑通り不細工でも愛せる元春の男気を読者に残すことができる この時代の親子喧嘩や兄弟喧嘩はマジで血で血を洗う戦争になってましたが
夫婦喧嘩や嫁姑喧嘩が戦争にまで発展した例はあったでしょうか?
夫婦仲の場合は離縁すればいいから、あんまり戦争にはなってないと思うけど、
徳川信康切腹事件の発端が嫁姑仲とかにある説ってのはあった気がする
信康切腹事件みたいな話はあるが史実だと思われる例は思いつかないなぁ
女性というか奥の事は確かな史料には残りにくいから正直何とも言えない
夫婦仲が原因で元親に切腹させられたというのが通説になってるけど、史実ではないの?ってこと
武田信玄公は悪魔や畜生扱いされますが何したんですか?
逸話ではなく史実での悪行が知りたいです。
戦国時代は略奪や人さらいが横行する、現代の内戦中の国みたいな有り様だったから、攻め込まれた国の住民にとっては悪鬼羅刹に見えて当然
まあ、どの大名も同じだよ
信長って一部の信長嫌いの人から
残酷なイメージを抱かれていますが、
実際他の大名と比べてどうなんでしょうか
僕自身は信長は罪のない民衆を
虐殺したことはないと思ってますが
比叡山や一揆との戦い、叔母を
逆さ磔にしたことが残忍だと
思われている様です
>>643
「罪のない民衆」をどう定義しているか知らんが、
比叡山焼き討ちも実態は麓の坂本の都市虐殺だし、上京焼き討ちなんてダイレクトな都市虐殺もしてる。
基本的に民衆の命なんて毛ほども思ってなかった。ただしそれは信長に特徴的なことではなく、
戦国大名は多かれ少なかれそういう存在である。 民衆を、個人としてではなく集団として見ているだけだよな
敵対したから倒す、降伏したあとで裏切って敵対したから処刑する(個人でなく集団として)と。
>>644-645
返信ありがとうございます
罪のない民衆は敵対してない
民衆くらいの意味で書きました
信長は敵対した勢力を虐殺したが
それは他の戦国大名も同じって
ことでよろしいでしょうか
例えば石平という保守系の人の本に
中国の歴史では度々大虐殺が行われており、
日本では信長くらいしかいないと書いており
疑問に思ってました >>646
基本的に信長と同年代の大名はやってませんね。他の戦国大名達は自家に従うなら
宗教勢力や座が力を持つことにも寛容な中世的思考が一般的だからです。
ですが信長は武家が絶対的な存在である近世の世を目指していたので
特に宗教勢力に一切の容赦はしませんでした。
そしてその意思は秀吉、家康へと受け継がれ江戸時代が長く続く一因となりました >>648
なるほど
信長嫌いの人達が言う残酷さは
一部合ってるんですね 武家・宗教勢力問わず妥協できない勢力とは徹底的に戦っただけかと
恭順は認めていた
寺社勢力と戦ったのは信長だけじゃないし
一向一揆と戦ったのも信長だけじゃない
諏訪大社の諏訪氏のように寺社勢力であって武家でもあるというのもあるしね
>>650
基本的に、降伏勧告するよね
んで、降伏したあとで再度の敵対したら態度を硬化させる人
長島一向一揆の大殺戮も、降伏した部隊がいったんは退去して、すぐまた敵対したから許さないことにしたとか、そういう経緯
比叡山も、何度も降伏勧告の使者を送ったけど無視されて焼き討ちになった >>651
そういえば、武田信虎も残虐伝説は残ってるね
すごく創作っぽい与太話だけど。 いや>>648は典型的な旧説的信長像の焼き直しなんだから信じるなよ >>654
そうなんですか
どのレスが正しいのですか >>654
そうか?
二段目三段目はともかく一段目は問題ないだろ のちの東西本願寺派以外の高田派などとはうまくやっていた
まあ、小規模なとこはともかく大手の宗教勢力はだいたいが、独立した戦国大名みたいなもんだから、戦いもせず屈服することはないんだよね
んで、敵対したら寛容じゃなくなる以上、厳しい態度をとることが多くなってしまうわけだ
たいていの戦国大名は複数の敵がいて、特定の敵とは長く戦い続けられないから、
ある程度の交戦をしたら妥協点を探って講和することが多かったんで、
敵対された恨みを忘れないタイプの人との間で妥協点を探ることができなかった可能性があるね
>>656
「武家が絶対的な存在」とかいう意味のわからんことを正しいとか思ってるのか…
中世も近世もそんな単純な世の中じゃねーよ 二段目三段目はおかしいけど一段目はおかしくないんじゃないか、と書いたつもりだが
>「武家が絶対的な存在」とかいう意味のわからんこと
は、二段目の冒頭、おかしい部分の一部と書いてるのに、読み方がおかしくないか?
>>642
ありがとうございます。
他の大名も同じことをしているのに何故信玄だけこうも言われるんでしょうか >>660
近世の日本は武士という身分あるいは階級が立法と司法を牛耳っていた世の中だぞ。
行政に関しては大名の城下町や直轄地以外は村単位で豪農に任せる場合もあるけど >>662
攻め込まれた国の住人の目から見たら、攻め込んできた大名のみが悪鬼羅刹で、どこか遠方のよその大名のことはわからないでしょ >>663
いや近世の「武士」も多様な階層があって一律ではない。
近年では江戸期の社会構造も、将軍なり天皇なりを頂点としたピラミッド構造ではなく、おおよそ天皇を発端とする社会的に「公」と考えられるものに、公家や将軍も含めて様々な権威権力の同心円が複層的に重なる構造だと考えられている。
そもそも近世の武士権力も支配下とされる村落、町中などの集団に対してさえ基本介入せずその自治に任せている。武士権力も様々な権威権力のバランスの中にある、相対的なものに過ぎなかった。 戦国時代と大航海時代が重なったせいか
南蛮由来の武器も色々輸入されたようですが
鉄砲・大砲やプレートアーマー(南蛮具足)以外の武器が
なぜ定着しなかったのでしょうか
特にクロスボウは和弓と鉄砲と石に押されて
前九年の役以来の再導入はなりませんでした
>>666
クロスボウは構造が複雑で重く使いづらい上に日本の気候では湿気で劣化しやすい兵器だった。
西洋だって百年戦争でフランスのクロスボウ部隊がイギリスのロングボウ部隊ににメタメタにやられとるし、中国でも騎馬民族の短弓の機動性になすすべがなかった。
古代の戦争の条件の中で活用できた兵器の一つに過ぎない。 鉄砲あればクロスボウいらんやろ単純に考えて弓はギリギリまで生き残ったが
投石機はまあ、それを必要とするような硬い城壁が普及してなかったから、使い道がなかったんだよね
秀吉が統一を進めた頃にようやく、石垣の城壁を整えた大型の城が普及したけど、
それまでの城の標準は木の柵をメインに一部分だけ(一番内側の城壁だけ)土壁、土塀を設置するようなのが普通で、難攻不落の度合いが違ってたし
>>667
湿気で云々は理由としては弱い気がする
弩は中国南部の巴蛮の少数民族が使ったのが始まりという説があるんだけど、あそこも高温多湿だし 弩に関しては別の板で長いこと議論されていたが
中央の力が衰えて細かい部品の大量生産が困難になったのが一因との意見も見た
南蛮ではないが槍が元寇を機に日本に定着したという説は面白かった
鉾→薙刀→槍という順で登場したっていうのは言われてみれば…と
長巻みたいに太刀を伸ばす方向の変化もあったようだが
>>674
> 槍が元寇を機に日本に定着したという説
それ根拠がない、というか元→集団戦術→槍衾、という連想の産物。
元寇を樹に日本に集団戦術が入ったという思い込みのものだな。
元寇にそんな影響力はない 古代の鉾は、実は槍を含んでいたらしいんだけど
要するに併存
鉾と槍が同一のものとすればそうなるのか
平安から源平の間は記述や絵巻にも見られないみたいだけど
この時期にだけ鉾は廃れていた、もしくは薙刀などにシェアを奪われていた感じかな
古墳時代にも槍があって、しかし外見は鉾と大差なかったのだと
律令時代にも使われてるようだし、ずっと使われてたのではないかなあ
絵巻物の史料性がどの程度かは知らないけど、実際には使われてるのに描かれてない可能性もあるし、本当に使われてなかった可能性もあるし
律令的軍制が変更された、健児制の頃までは使われててもおかしくない気はするけど、その後の、俘囚を入植させて諸国軍に仕立てた時代には使われてなさそうな気がする
投石機もないのに どうやって馬の死骸を敵の船に投げ入れる事が出来ようか
馬一頭丸ごと投げ入れたわけでも無いだろう。マジレスしちゃう
この時代の親子って今みたいに父親が子供と遊んだり少しでも世話したりする事ってあるんですか
>>683
跡継ぎ問題や戦で忙しい時代の親子がどういう関係なのか気になりました
現代と同じような関係で育ったとして自分の親や子供を殺せたら驚きますよね その親が武士なのか商人なのか職人なのか農民その他なのか
同じ時代でも身分や階層によって状況が違うから何とも言えない
例えば武士でも大名クラスと足軽クラスじゃ話が変わってくる
地元が大好きな武士が居たとして
質問です
大名Aの家臣だったが、
大名Aが領地替えになった時について行かずに、大名Aの家臣を辞めて
新たに赴任してきた大名Bの家臣になる
…これは悪い事ですか?
何か明確なルール違反になるのでしょうか?
江戸時代初期ならまだしも、中期以後だと、就職先がないね
>>686
江戸時代の話だとすれば、よほど特殊な事情、たとえば元の大名が改易となり
新規の大名に一定の家臣団が吸収されるとか、そういうことがない限りありえない。
どうしてもその土地に残りたいのなら、主君の許可を得て牢人するか帰農するかしかない。
武家の家臣というのは主君・主家の恩によって基本人格的に繋がっているわけで、
知行はあくまでその君恩の形に過ぎない。 いいか悪いかより、正式に浪人となって別の主君に召し抱えられるのならアリだろうけど、よほど認められるような何かがないと難しいと思う。
戦を求めてヨーロッパまで行った武士や牢人は居たのでしょうか?
南蛮人のアジア拠点で雇われてた例はありましたが
アンボイナで処刑された日本人はイギリスに雇われていたんじゃないのかな
ごめん
きちんと読んでなかった
ちょっと違うけど、伊達の家来で残ったとされてるくらい?
>>690
ヨーロッパの戦場が、当時はまだ、あんまり傭兵を導入してなかったのでは?
せっかく渡っても、はるばるヨーロッパまで渡航する費用を賄えたとは思えない 天正少年使節の一人が
ヨーロッパで奴隷として売られた同胞を見かけてるし
>>695
「こいつ俺と同じ知識レベルだな」って人しばしばいるなw
史料などひいて説明して欲しいよな正直な 思うけど
なんで国の偉い人は全国民を一匹残らず死滅させれば
反乱も無く国家運営も政権も安泰なはずなのに
実行すらしないんだろうか?
>>700
漏れだったら問答無用にやるよ
地球から全生命が消えても惜しくすらないし
>>701
中共ですら一度に10億人超は殺してないだろ >701補足
それならこの瞬間
プーさん一匹一人ぼっちになって意気がってる恥ずだろ
つか ID:X9ZQe9Rz は根本的に勘違いしてるけど、
権力というのはそもそも他者を従わせることが目的ではなく、
あくまで社会における再分配機能であり、他者を従わせるというのは
副次的な産物に過ぎない。
権力の本質が再分配である以上、それを実地する社会がなければ
権力そのものも消滅する。
遅レスだけど古代にも槍はありましたよ
日本書紀にだったと思うけど、大海人皇子が何かで使った記述があったはず
わざわざ「やり」と書いてたんで鋒とは別物として扱われてたみたいです。
>>705
>権力の本質が再分配である以上
そんなの見たことすらないが?
今の世界を見てると
「自分で全てを独占し、以外の存在を抹殺する」事こそが権力だろ >>705
>権力の本質が再分配である以上
そんなの見たことすらないが?
今の世界を見てると
「自分で全てを独占し、自分以外の存在を抹殺する」事こそが
権力だと思い知らされる
極端に言えば
自分さえ生きていれば領土すら破壊しても無問題だろ 姉川の戦い当時だと浅井 朝倉家を合わせても
織田家の方が国力は上ですか?
>>709
,.-─ ─-、─-、
, イ)ィ -─ ──- 、ミヽ
ノ /,.-‐'"´ `ヾj ii / Λ
,イ// ^ヽj(二フ'"´ ̄`ヾ、ノイ{
ノ/,/ミ三ニヲ´ ゙、ノi!
{V /ミ三二,イ , -─ Yソ
レ'/三二彡イ .:ィこラ ;:こラ j{
V;;;::. ;ヲヾ!V ー '′ i ー ' ソ
Vニミ( 入 、 r j ,′
ヾミ、`ゝ ` ー--‐'ゞニ<‐-イ
ヽ ヽ -''ニニ‐ /
| `、 ⌒ ,/
| > ---- r‐'´
ヽ_ |
ヽ _ _ 」
ググレカス [ Gugurecus ]
( 生没年未詳 ) >>700
「越前の狂犬」富田長繁が実践してたな
主君である朝倉義景を裏切って死に追いやったのを皮切りに
恨みつらみある元同僚は当然として、
恨みつらみ無い元同僚を一族郎党もろともぶっ殺し
信長の代官をぶっ殺そうとして
それを仲介した者すらぶっ殺そうとして
更に自分が扇動した一揆にすら牙を向けたしな
下手すりゃ日本の総人口が一人になりかねんかったな 戦国時代の刀剣コレクターで有名な上杉謙信と織田信長は備前刀を特に好んだと言われるけど
現代では正宗が日本刀の代表格の座を奪っているのはなぜですか
間違えた
伊達政宗や浦上政宗の影響…ではなさそうな
この時代のお金といえば
中国産の銭か私鋳銭しかありませんでしたが
何故幕府や朝廷は…と言う以前に
上に立つものとは思えないほど貧乏だったのでパス
何故三好政権や織田政権は
後の豊臣政権・江戸幕府のような「統一通貨」を作らなかったのでしょうか?
当時の政権の経済力では貨幣に信用を負荷できないので私鋳銭の価値でしか通用しませんよ
江戸幕府の発行した銅銭だって、私鋳銭より少しましな価値でしか通用してませんよね
>>717
それでも
全国的に「貨幣の価値」を通用させた江戸幕府は凄いとしか思えんな
朝廷ですら皇朝十二銭で失敗して以来
明治時代になるまで貨幣を作れなかっただけでなく
江戸幕府の作った「両」を基準に「圓」を作る羽目になったし ついでに
建武の新政で乾坤通宝なる新通貨を作ろうとしたけど
結局新政崩壊の道連れにされたが
秀吉の作った金貨はあくまで褒美や贈答用で、
流通を意図したものじゃないしな。
政府の経済への関わり方が江戸幕府とそれ以前では根本的に違う
三好政権や織田政権はやらなかった。じゃなくてずっと出来なくて江戸幕府だけが出来た。が正解やでな
銅銭の普及は家光の頃まで掛かっているやろ
全国統一もしてない政権に出来ることではないというだけのこと
>>719
当時は、北朝や幕府でも構想があったのではないかと、いちおう言われてはいる
それ以前でも以後でもほぼ行われてなかった偽金作り犯の取り締まりを北朝や幕府でも行ってることからの類推もしくは憶測 やっぱり約60年間のgdgd内乱で
統一通貨構想すら忘れ去られて
結局
足利義満「結局明銭輸入すりゃいいやん」
てことになったのか
貨幣その物に地金の価値を持たせないと、誰も認めない物々交換の世界だよ。
金の含有率下げればそのぶん価値が下がる。
書いてある金額に大きな意味はない
織田信秀の居城が古渡城→末森城で、織田信長は21歳まで那古野城を居城にしていたようですが
コーエーのゲームだといつも清州城が拠点扱いされているのはなぜでしょう?
>>726
結果的に桶狭間までには清須が拠点になったし、それ以前のややこしい顛末を描くのはめんどくさいからだろう すでに続編もなくなった古いゲーム 天下統一 では、ゲーム開始時である1551年には那古屋城主で清須とかは敵城だったな
質問です。
「桶狭間の戦い」についてです
簗田政綱は「今川義元の居場所を知らせた」から一番手柄って、史実ですか?
桶狭間の戦いの時の戦功が以下だったってWikiに書いてあるけど…
◉今川義元の居場所を知らせた人
◉今川義元に最初に切りかかった人
◉今川義元を実際に討ち取った人
有名な話しではありますが信頼できる史料には無いので史実と断定することはできません
天台宗・一向宗・法華宗・カトリック以外の宗教は
戦国時代は一体何してたのでしょうか?!
>>732
普通に宗教活動してたぞ。「何」っていうのは一揆とかやってないのってことか? 斯波の家臣のそのまた家来の・・でしかない信長の織田家が名家として
認識されるようになったのはいつ頃からですかね
>>734
昨今では信長の織田弾正忠家は清須の大和守家の家来ではなく、清洲家の有力一門であったとされる。
あと、いわゆる清洲三奉行という存在も否定されている。 丸島和洋氏が『東日本の動乱と戦国大名の発展』の中で
桶狭間のときに
「信長は、前面に展開している今川勢を、疲弊した松平勢と勘違いしたうえ、
本陣の場所も把握していなかった」
って書いているんだが、これは何の史料に出ているんだろうか?
>>737
参考文献見た感じ今川関係のどれかかね
「今川氏研究の最前線」とか読んだことないけどそんなこと書いてありそうな印象 >>737
具体的な史料に明記されてることではなく、信長公記の記述の解釈のしかたのひとつなだけだったはず、あえていえば憶測にすぎない。 >>740
なるほど
『各よくよく承り候へ。あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、
大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。』
の所をそのまま事実として解釈したってことか。普通に読んだら信長が自分の兵たちの
戦意を上げるための言葉だな。ありがとう。 史料がボンボン発掘されて
かつての定説が今はそう無くなってる例がありますが
(例えば北条早雲が「享年88歳のどっからか来た牢人」だったのが
「享年64歳の幕臣からの脱サラ」になったし)
そんなに新史料がボンボン出ますかな…
史料の解釈間違いが発覚した事例も多いし。
でも、史料の新発見といえば、武士の家計簿の史料発見は劇的でよかったね
>>741
正直なんとも言えんよなぁ
信長公記読むと義元の陣と認識していたとも取れるし、確かに先陣と勘違いしていたともとれる
ただ丸島和洋みたいな実績ある人がなんとも言えんことをはっきりそう書いちゃうのは問題あるなあ 日本の歴史学者は大体が軍事オンチだからしょうがない
>>743
そういや
「キングダム」の壁というキャラも「将軍、壁死す」(史記より)ということで
途中で死ぬ前提で産まれたはずが
解釈違い(「将軍(誰かは不明)が壁内(城内)で死んだ」)で
今も活躍してるというw >>742
備中伊勢説は江戸時代からあってむしろそっちが主流だったけど、戦犯田中のせいで昭和になってから素浪人説に取って代わられた感じじゃなかったけ 一次資料・二次資料という分類はわかりますが
一級資料というのはどういう基準があるのでしょうか?
書状や日記といった一次史料に二次史料である編纂物のうち『信長公記』等の信頼性の高い物を加えたもの一級史料と呼ぶ場合が多いです
どの編纂物が信憑性が高いかは明確には定まっておりません
>>750
ありがとうございます
信頼性の高いと思われるものを呼ぶ際に使う場合があるということですね
信長公記の他にも一級史料と定義されている同時代の史料はあるんでしょうか
明確な基準がないなら個人の印象になってしまいますかね 信長公記は同時代ではなくあくまで後世に編纂された軍記物
同時代というのは戦国時代全般というつもりで書きました
他の時代の史料だと史料の信憑性について詳しくないため、よろしくお願いします
>>752
編纂時期は江戸時代初頭か、早くても秀吉死後(というか、たぶん関ケ原より少しあと)なのは確実だよな >>751
『信長公記』と同様に同時代史料に分類される
『天正記』『フロイス日本史』『イエズス会日本年報』『大かうさまくんきのうち』『三河物語』などは一級資料に分類されることが多いです。
『甲陽軍鑑』はボーダーラインで論争がありましたが今は武田氏研究ではおおむね一級資料と扱われています。
なお比較的信頼性の高い一級資料といっても編纂物等なので情報の制約やバイアスもあり全ての記述が信用できるわけではなく
信用してもいいと思われる部分と出来ない部分が混在してるのが当たり前の物と認識してください >>755
詳細にありがとうございました
挙げて頂いた史料は意識していこうかと
最後の行も仰られている通りだと思います
一級史料だからといって全部を鵜呑みにしたり、一級史料ではないからと言って全てを疑うことのないよう心掛けます 関ヶ原の戦いは松尾山を奪った小早川秀秋を排除しに打って出た西軍主力が東軍に追撃されて殲滅された戦い
って認識が変わってきてるって本当ですか。
西軍が陣地(陣城)構築中の松尾山を東軍の小早川秀秋が襲撃して陣を据えたって話までは90年代にすでに出てたが、それを発展させて出た説なんだろな
従来の説も、ろくに史料がない中で明治の陸軍の軍学者たちが頭をひねって構築した説で、十分な裏付けがあった訳じゃないだろし
>>757>>758
単に金吾がパニクってただけでろ 文字資料が一切ないっていうのも不思議な気はする
すべて抹消できるものか
小学生の時に貰った国語のドリルがもう残ってないようにいちいち残さんやろ
それかそもそも書き残してない
戦争で負けたときに文書を焼かれたり取られたりする?
負けて滅んだ側の大名からもらった安堵文書とかは価値がなくなって処分される?
いろいろあるだろうが、とにかく文書が残存しない度合いが高い、損耗率が高いというか。
>>763
状況にもよるが権利関係の安堵状は支配者が変わっても既存の権利の証明になるので基本保持される。
後北条氏の文書が山ほど残っているのはそういう面が大きいし、三好長慶による水利関係の文書が
昭和になっても水利問題の裁判で証拠として提出されたのは有名。 逆に消えやすいのは、権力者の敵との交渉関係か?
本能寺の変から山崎の戦いあたりまで数日間ほど、貴族の日記に欠落があるみたいな
近年になってから判明したものといえば稲村の変の真相とか?
家臣大名から大名への決められた上納金みたいなのってあったの?
例えば長浜与えられた秀吉や越前与えられた勝家は年何貫か上様に収めないといけないとかいうのは
貢物送ったっていう例は信長公記にあるけどそれとは別に
そもそも朝廷に正式に任じられなくても
官位名を通称に使う受領名という習慣があった
織田弾正忠信長とかはそれ
これは個人の通称に留まらず屋号のように使われる例が結構ある
信長の家は代々弾正忠を名乗る家だが父信秀が正式に任官したのは備後守だった
大阪冬の陣で真田丸にいた兵士って信繁が九度山から連れてきた家来と浪人集で構成されてるんですか?
大坂方には大将をやれそうな人材が足りなくて、兵卒レベルの牢人ばかりだったわけだからな
それを割り振って大将たちのとこにつけたりしてるので、真田からみたら客将とか客兵って感じのが多かったのではないかなあ
>>771
「真田丸」は半分くらい長宗我部盛親の部隊 >>773
>>772
ありがとうございました
真田丸の戦いでの火縄銃の命中率が良かったり
夏の陣で家康の本陣まで攻め込めたりと
牢人衆にしては統率取れてて強いなぁと思ってたんですけ
そういうことだったんですね >>770
ただ、自称の名乗りが屋号に使われる以前から特定官職が屋号のようになってた先例があるわけで >>778
武士にとって所領を与えられることの意味は何かを考えて >>780
所領をもらう代償に軍役という義務を課される。 外国勢力との戦争での軍役に見合う恩賞が割に合わなかったから
鎌倉幕府や豊臣政権が滅んだし
江戸幕府も下手すりゃそうなったろうし
>>777
まぁ自称官位は朝廷の長である豊臣時代になるとまるで意味を無くす訳だが
北条氏政なんか上洛しても昇殿すら許されず庭で土下座させられる羽目になったかもしれん >>785
氏政の左京大夫や相模守も氏規の従五位下、美濃守、左馬助も自称の官位じゃなく正式にもらってないか >>787
朝廷の記録に残ってない……筈
残ってたらすまんけど史料はなかった記憶 氏規は今川の伝手で正式に貰ってるから中央との交渉役任されたって二木謙一の本で見たな自分で裏は取ってないけど
応仁の乱でも一応活動していた
後南朝の末裔が北条早雲に討伐された記憶がありましたが
戦国の世に捲土重来を狙おうとした平家の落人はいたでしょうか?
戦国大名について一番詳しいのは、「どの世代」なんでしょうか?
戦国時代を生きる当時の人々でも知らない事はありそうですよね!
◉同時の同世代の人
◉戦国時代から現代までの、どこかの世代の人
◉令和を生きる我々
>>791
何を知りたいかにもよる。実際にその人間や事件に遭遇した人物に直接聞く必要があるのなら同時代だし、
その時代の意識や常識の必要な知識であれば当然近い時代のほうがよく知れる。
歴史の流れからその時代をどう位置づけて、その人物、事件にどんな意味があったのかという
俯瞰的な知識であれば当然後世のほうがいい ちなみに、戦国大名という語句、名称は近代になってからつくられてる
>>764
(未だ朝貢・華夷体制から脱却すら出来てない)隣の諸国と違って
本邦が条約体制にすんなり移行できたのも納得
しかし4〜500年経っても有効なのもあると聞いたら
締結者当人たちも草葉の陰で驚いてるかもな >>794
何百年もたっても契約文書として有効なことが、一方では偽文書の横行をもたらした
古文書といえば偽の証文とか偽系図ってぐらいに多いんだよな
鎌倉時代とか南北朝の頃ですら、少なからぬ偽文書が作られてるぐらい。 >>785
秀吉の登場とか一切関係なく自称の官職で
昇殿できた時代なんてないぞ >>796
聚楽第で朝廷式の挨拶させられるから最低限昇殿出来る官位貰って上洛すればよかった >>790
貴旨と若干ズレた話、しかも逆質問になって恐縮ですが、
> 応仁の乱でも一応活動していた
> 後南朝の末裔が北条早雲に討伐された
↑この件の詳細、出典史料或いは研究書などを御教示下さい。
伊勢宗瑞(盛時/北条早雲)に関する本はそれなりに読んだつもりでしたが、不明にしてこれは初見です。
盛時の京都時代即ち幕府官僚としての軍事行動でしょうか?
それとも伊豆制圧後の
「此年(明応八年)霜月、王、流されて三島へ付き玉ふ也。早雲入道諫て、相州へ送賜也。」(妙法寺記)
という謎に満ちた記事に関わることでしょうか?
宜しくお願い致します。 >>802
ありがとうございます。
「王」が後南朝の末裔ということですか…。
本件はかの黒田基樹氏でさえ匙を投げた謎なんですが、
流した主体が幕府だとすると戦争/大震災後の三島に何故わざわざ流したのか、
宗瑞は何の意図を以てこれを相州(扇谷上杉か三浦か)へ送付したのか、
色々と非常に興味深い話ですね。
重ねてのお願いで恐縮ですが、自分も調べてみたいので典拠を教えて頂ければ幸いです。 >>803
「妙法寺記 後南朝」でググればなんとかなるかも
こっちもググった以上の知識はあまり無いので… >>804
重ね重ねありがとうございます。
検索してみます。 >>806
すみません、現代と同じ意味で使われていますか?ということです。 というか
マジで当時の大多数の人々にとっちゃ
来年どころか明日のことすら考える余裕すらないだろ
大内義隆や今川義元や織田信長ですらいきなり滅亡し
毛利元就や武田信玄や徳川家康ですらいつ滅亡しても
おかしくなかった時代だろ
年単位で事を考える事自体無理ゲだろ
とはいえ、農業ってのは一年後のことを考えて作業する必要があるからな
>>798
津軽為信とか金で秀吉の義兄弟になって豊臣政権の仕置きを免れたからなあ
というかあんな北国の大名がどうやって朝廷とパイプを作れたのか謎過ぎる 前田利家を先に南部に押さえられてしまっていたのでその政敵の三成を頼ったわけだから
普通に考えて石田三成が取り持って秀吉の義兄弟としたと考えるのが自然
で、関ヶ原後に三成の倅を領国に連れ回しながら
2000石加増したのは何でだろ
取り潰されてもおかしくなかったのに
両軍生き残りを図ろうとして
共倒れに終わって御家断絶な例はあったっけ?
そもそもそのへんの「生き残りを計って分かれた云々」って言うこと自体ほぼ後世の創作
かっこよかったりする話って9割ぐらい創作か一次史料無しだよね
そりゃ、たいていの場合は生き残りを図るためではなくて内紛で別れただけだよな
スレチだったらすみません。
歴史系の講演会って聞きながらメモ取っても大丈夫ですか?大丈夫な場合、PCやipadでメモとっても良いんでしょうか
>>823
基本的にメモやノート取るのはできると思うが、場所にもよるので参加する講演会の方に
予め確認しておいたほうが良い。 どんな勢力でも勢力拡大の途中で一門同士争ったり譜代の重臣が離反したりと内訌はつきものですが
後北条氏って小田原征伐の前後や新参の国衆の離反以外で内輪揉めの話って何かあるんでしょうか?
>>825
無い。
当主の労働時間や執務状況があまりにもブラックだったせいで誰もその座につきたがらなかった。
−−と推測せざるを得ない「虎ノ印判状」の厖大な数。 そりゃ陶晴賢や明智光秀のような存在が
後北条家に涌かない訳だ
どうせ印判なんて実務担当者が勝手に捺してんだろ、と、俺は思ってた。
甘かった。
「訴状は確かに受け取った。
しかし今は『虎ノ印判』は(当主の)氏政が最前線の陣中に持って行ってしまっているから本決裁ができない。
隠居の私(=氏康)の『武栄』印で当座の用に足すこととするがこれは暫定措置である。」
−−という文書が遺っている。
北條家当主とは、國の命運を決する戦場に在っても細々とした厖大な事務処理をしなきゃならない激務。
過労が祟って倒れても管理職だから労災認定もなかなか下りない。
当時の全世界の諸侯の圧倒的多数は
「臣や民は君の消耗品である」
だったからな
質問した>>825本人なんですが
後北条氏の伊豆・相模・武蔵と支配が盤石になるにつれて当主の責務が増えて
誰も後北条氏当主と成り替わる事を望まなかったという事は理解できましたが
まだ後北条氏の支配体制が固まっていなかった早雲〜氏綱時代においても
やっぱり内輪揉め的な話というのはありませんか? >>830
宗瑞〜氏綱期は氏康以後と比べて史料が極端に少ないから何とも…というのが現状でしょう。
少なくとも解っている範囲では皆無です。
また史実経過からも内訌を示唆する事象は見出せません。 勢力拡大の過程においてお約束のような内訌が見られないというのもこの時代には珍しい話ですね
解説ありがとうございました
>>826及び>>828も俺ですが、やや冗談めかして書いたのと言葉足らずなのが悔やまれるので補記します。
上記書込内容が本質と考えていますがもう少し丁寧に書くと;
イ. 有力支領群の現状と家督簒奪後の予測を踏まえたリスク対リターンの勘案
ロ. 北條権力体全体に共有された事業目的や必達要件の現実的な切迫性
ハ. 外部由来の誘引要因の欠如
−−こんな所かと。
汎用スレで連投、多レス、失礼致しました。 たった1回の負け戦で職務放棄した大内義隆や
家臣を消耗品のごとく扱った織田信長が
謀反起こされるのも納得
戦国時代の代表的な
名将って誰でしょうか
フィクションだと武田信玄や
上杉謙信、真田信繁だと思いますが
史実だとまた変わるんでしょうか
戦国時代に限らないが「名将」の定義による。
戦術なのか戦略なのかそれとも政治家としてなのか
なるほど
そうですね
僕は戦術をイメージしてました
>>837
そこまで綜合的に評価したら、
徳 川 家 康
で1000レスまで埋まるだけだぞ…。 >>838
九州勢は局地戦に華があって名将揃い
中国地方は謀将が多い
畿内はグチャグチャ過ぎて有能でも目立てない
って印象かな
後世の評価って、地域(当地の勢力バランス)の都合でブレる事が多いから >>840
回答ありがとうございます
九州だと立花道雪や島津ですね
他の皆さんもありがとうございました 富田長繁の様に考えなく殺戮しまくりで自滅したのもいるし
小田氏治の様に負け続けても天寿全うしたのもいるし
毛利輝元のように知略が空回りして減俸されたのもいるし
周りに子供を生んだ女がいない場合乳母ってどうするんですか?
また、乳母となった人は子供を二人も育てるわけですが母乳が足りずに実子が死んだりしないんでしょうか
周りに子供を産んだ女がいない家は滅びる
よっぽど母の栄養状態が悪くない限りは2人分ぐらいの乳は普通に出せる
もし乳母から乳が出なければお乳専用の女を乳母が知り合いから探してくるだけ
正室死んだから継室選ぶか…というパターンで
*新たに娶る
*側室から昇格
のどっちが多かったんでしょうか?
政略結婚的に考えれば家柄的に側室は側室でしかないから基本的には上
そもそも側室は正妻の家来という立場なので、成り上がっても「事実上の正妻」までがギリギリ
>>848
正室は家柄が適正なとこの人しか就任できない
正室を務められるような家柄の人を側室にいれることは稀
ならば、側室から正室に出世するのは難関と言える
新しく正室を迎える可能性の方が高いだろ
正室ってのは、男女関係で決まるものじゃなくて、家と家の関係で決まるもので、私的な関係ではあるが、なかば公的なものでもあるからな 大内義隆の正室の侍女だったのが
寝取って下剋上したおさいの方は超レアケースか
>>851
中世、というか「家」の成立からずっとそうだぞ。 最近自分どころか不特定多数を道連れにする「拡大自殺」なる現象が流行ってしまってるけど
戦国の世で「拡大自殺」に相当するような合戦・内紛・謀反・暴動etcはあったでしょうか?
個人的には「越前の狂犬」こと富田長繁の一連の行動が相当すると考えますが
>>855
無いだろう。
戦国争乱とは、気候寒冷化が生んだ恒常的飢饉状況下に於ける生存闘争。
皮肉な物言いになるが、自殺などという病んだ行為とは対極に在る生物として「健全」な行動。
後世から見て自殺的と思える戦でも殆どの場合は史料から解けば「生存の為の主観的最善」だったことが判る。
富田でさえ例外ではないと考える。 徳川家康に仕えて以降
甲斐・江戸入りの先陣を任されるほどの信任を受けで
なおかつ生涯仲良しこよしだった
成瀬正一と日下部定好のコンビの存在はレアケースですか?
小説読んでて当主が亡くなったので半年間喪に服すって描写があって気になったのですが
戦国時代に当主が亡くなった際喪に服す期間ってどのぐらいなんでしょう?
通常は一年とされてますが織田は半年で信孝・勝家と三法師(信雄)・秀吉が戦してますし
上杉にいたっては四十九日空けどころか謙信が死んだ直後に御館の乱ですぐ殺し合い=殺生という状況
武田の三年は流石に当時でも異例ってのは分かるんですが
なにぶん当時は有事なんで現実が最優先されるし生活の方が優先されるのは現代も一緒やろね
敵当主を殺した翌日に
その一族を族滅するなんて日常茶飯事だしな
豊前の宇都宮氏が
下野の宇都宮本家に介入したという例がありましたが
他の家でも本家・分家間での交流はあったのでしょうか?
武田氏の場合だと
大内氏の下請けだった毛利家に駆逐された安芸家と
三好氏や朝倉氏に駆逐された若狭家が
当代有数の強国となった甲斐家と連携してれば
状況は変わったかと
遠い距離をはさんでの連携は難しい
それを「遠くの親戚より近くの他人」などといったのではないかなあ
甲斐武田氏は若狭武田氏や安芸武田氏などと同族として交流していたが、
それぞれの家や地域ごとの事情、状況が違いすぎて政治・軍事的連携を取るなど
そもそも現実性がなかった。
同族の交流と言えば、信濃小笠原氏は武田信玄によって没落した後、
同じ小笠原氏である畿内の三好氏を頼り亡命している。
良くも悪くも遠隔地の同族で頼りにできる事は、この程度かと
安芸武田家最後の当主は若狭武田家のからの養子
若狭武田家の当主の弟は甲斐武田家の亡命して武田滅亡時に織田に殺されてる
里見氏に従属していた上総武田家は信玄から里見北条和睦の仲介を依頼されたりそれなりに付き合いはあったが
遠距離過ぎるし安芸若狭は絶賛衰退中だから連携してもこれといって影響力は出せないよね
幽かな記憶だが、
北條氏綱勃興期にこれと敵対した甲斐武田と上総真里谷武田はうっすらと連携したとかしないとか読んだ覚えがある。
そういえば上総武田は信玄の息子を養子にしたという伝承もあったね
>>871
そこは分かれてから日が浅かったからではないか
まだ真里谷分かれて武田が分かれて次の代ぐらいの頃なんじゃないの? 甲斐武田家と上総武田家の分離から北条氏綱の家督継承まで100年ぐらいあるでしょ
>>873
対北條氏綱戦線の頃は甲斐武田の当主で云うと上総武田を分けた後五代目。
信重(弟の信長が上総武田草創→次代に真里谷武田を分出)-信守-信昌-信縄-信虎。
因みに、氏綱の前代伊勢宗瑞の時は甲斐武田は伊勢と敵対、真里谷武田は同盟と立場が分かれた。
勿論甲斐と真里谷が直接闘うことは無かったが。 北條氏綱と云えば、
無位無官の伊勢宗瑞の子たる氏綱がいきなり左京大夫に任官されたについては京都の伊勢本家が強力に動いたと見られている。
伊勢本家が盛経流を分出してから八代目。
時間空間とも遠く隔たる本家分家間の連携、とも云える。
盛定(宗瑞の父)までは京都をうろちょろしてたからちょっと違うか。
あれ、そうだったっけ
古河公方(鎌倉失陥後)の代になってから、その家臣として真里谷に入ったんでしょ、だから分かれてから新しいものと勘違いしてた
>>877
それが1450年代、小弓配下で北條と敵対したのは1530年代。
百年は云い過ぎでも八十年位は経っていた。 ついでに「スレ立てるまでもない質問」を一つ。
その小弓義明との対決=国府台合戦に当たって古河晴氏が北條氏綱を起用したのが腑に落ちない。
『何故関東管領山内上杉憲政ではなかったのか?』
組織系統から云えば叛乱鎮圧は関東管領の職務でもあるし、この時期享禄ノ乱の結果を受けて古河と山内の関係も良好だった。
なのに敢えて新参の、しかも経歴から云えば小弓に付くこともあり得る北條というのが解らない。
ついでのついでに、
氏綱氏康父子と相模武蔵の総力を国府台に一点集中した北條の背後を扇谷が襲わなかったのも大きな謎だ。
扇谷は北條と全面戦争の最中だったのに。
識者の御意見をお願いします。
名主職・下司職・作職・地頭職
このあたりの違いってなに?ホントは日本史板で聞いたほうが良いんだろうがなんか荒れてたので
複数あってすみません。教えてください
@武田信玄って死んでからはなんて呼ばれてますか?徳栄殿?
A仁田と書いて「にった」など珍しい名前はどうやってそう呼ぶのが現代にまで伝わっているんでしょうか
>>882
1. 法性院殿じゃね?
2. かな、ローマ字表記、ルビ付きで判明したものとか、本来の表記とは別に当て字で書かれてて共通の読みから類推とか色々あるよ
仁田忠常の仁田をにったと読むのは確定なんじゃなくて名字の元になった地名が現代まで語り継がれていってそこからの類推なんじゃないの?
ちなみに平家物語だとにたん表記になってるよ 名字の場合、本家分家で文字を変えて同じ読みってことがあるので、それらの文字を比較して憶測で知る例もあるのでは
最上義光のばあいは「よしあき」とかなで書かれた手紙が見つかったからでしたな
>>887
徳栄軒信玄。
静勝軒道灌
早雲庵宗瑞
不識庵謙信
−−等々の類。 宇露戦争(勝手な仮称)での
宇克蘭国の10倍の戦力差での想定外の善戦が
天下で注目されてますが
10倍以上の戦力差で
劣勢側が勝利した例があったでしょうか?
厳島だと
毛利側:最低4000
陶側:最大30000
と7.5倍ほどの戦力差で7.5倍程度でした
×と7.5倍ほどの戦力差で7.5倍程度でした
○と7.5倍程度の戦力差でした
桶狭間が最大20倍かな
ただし世に流布する兵数のほとんどは軍記物などに記載されてる根拠の薄い数字なんであてになりません
厳島の戦いも参加してる面子や当時の勢力から言って同程度の兵数じゃないかとも言われてたりします
厳島の戦いはまず宮島であの人数で戦う事が不可能
明らかにおかしい戦力差がある戦いは話を盛られてると疑った方がいい
桶狭間は実際には6000vs1万5000人くらいじゃないかって言われてるね
桶狭間を除けば木崎原の300vs3000の10倍が最高なんじゃないかな
島津軍も250人くらい死んでるんでほぼ全滅だけど
>>893
戦力差がおかしい戦いは戦力が少ない方が勝つか善戦するのがパターンで、少ない方がなす術なくあっさり負けましたなんて見ないしね
明らかに話を面白くするための「設定」でしょう >>890
軍記の法螺噺で良けりゃ河越合戦が八千対八万で八千の勝利。 >>892
実際のとこ、総戦力では織田は五千ぐらいはいるし、今川は二万五千がいいとこなので、5倍程度なんだけどな
最終戦の現場は織田が二千ほど、今川は五千ほどで2倍半ほどだろうし、十倍には及ばない
それでも希代の逆転劇に含まれるレベルではある >>895
普通は降伏勧告から停戦交渉するから、どうしても降伏できなくて徹底抗戦する必要があるときしか戦わないだろ
窮鼠猫をかむ、背水の陣、死中に活を求める、などといろいろ類例があるように、大きな戦力差があるにも関わらず戦闘を避けられないときの勝敗率は、戦力差ほどには片寄ってないんだろう
だからこそ、例えば信長が長島一向一揆攻略しようとしたとき、飢えた非戦闘員の逆撃で大損害を受けて撤退を余儀なくされたりしてるわけだ(要するに負けた 移動してる人に手紙を渡すのってどうするんですか?相手が今どこにいるかなんて分からないですよね
騎馬兵の戦い方が騎乗から下馬戦闘へ変わってきたということについてちょっと疑問がある
高いところにいるという位置エネルギー
ウマ+鎧+人間の重量200kg?が時速30キロ?くらいで突入してくるという運動エネルギー
それらが利用できるんだからどう考えても馬に乗っている方が圧倒的に有利じゃないの?
騎乗の武士が歩兵化したというのはどんな事情があったんですか?
複合的な物だから細かくは言わないけど集団戦が主体になって騎馬に対する防御度が上がったところに
人や馬の程度の運動エネルギーが問題にならないほど威力の高い鉄砲が現われてとどめさせられた
完全に廃れたわけではないけど
うーん、もう少し聞いてもいい?
たしかに騎乗戦闘の優位性が失われたらしいというのは分かるけども、それでも歩いて戦ってるよりはマシでしょう?
ちょっとでも有利になる方を選びたいのが人情じゃないのかな?
馬に乗っているとすごく不利、あるいは馬に乗ることが許されないような状況の変化というのはあったのかな?
単に平野や馬の産地が多い東国では軍鑑とかにあるように騎馬戦闘は使われていて、山岳地や水上戦の多い西国では騎馬戦闘が使われなくなったってだけじゃないの。
足軽の動員とか農民徴集とかで歩兵が主力になった際、馬に乗るのは指揮官で雑兵はみんな歩兵って方向に人数増やしたから、馬で走り回る戦いをすると人数的に不利になったのでは?
部下を放置して指揮官単身で突入することになるんだからさ
そういえば元日に戦仕掛けて単騎突出して討ち取られた人間がいたような
>>903
東国では下馬して戦うのが一般的ではなかったということ?
騎馬戦闘→下馬戦闘の流れは実は大きな潮流ではなく地域差によるものがあったということですか?
となると追加でまた疑問が出てきて、そういう地域で構成された軍は
騎馬で戦うのに向いてないらしい西国で戦う時はどうしたんだろう?
下馬して戦ったのか、それとも騎馬で押し通したのか?
>>904
騎馬で戦うと指揮系統に乱れが生じるということですか?
馬の機動力がかえって仇になって、一つの戦闘ブロックとして戦いにくくなるということ?
だから馬に乗るのは本当のリーダーだけで、ちょっと偉いくらいの人は馬から降りて戦ったか、あるいはそういう人は最初からいなかったのかな? ふと思いついたんだけど、騎乗の効用として「目立つ」ということがあったんじゃないかな?
馬に乗っていれば2mくらいの高さが確保できるから、戦闘指揮をを周りは受けとりやすいし、指揮する側もやりやすい。
敵を見つけるのも視界が高い方が有利だろう
となればなおさら下馬戦闘でその有利さを捨てるのがもったいない
少なくとも指揮官は騎乗戦闘を続けていた方が良いような気がする
>>906
おおむね、5人10人程度の部下をつれたぐらいの指揮官(規模的には、近代軍隊の伍長とか什長ぐらい)から上がだいたい馬に乗ってる感じなので、このへんの指揮官がボリュームゾーン、いちばん多い
んで、自分の部下(たいてい10人以下)にしか命令を出せないので、離れると部下が戦力外になる
そうすると、普通は馬の機動力を発揮するわけにはいかない >>906
軍鑑とか読むと東国でも基本は下馬戦闘や歩兵戦闘が主体だったようだけど、
軍鑑とか読むと東国では戦況を見て騎馬衆を突撃させて敵軍を乱し、歩兵戦闘を有利にさせたりしてたように思える。 西洋でも騎兵の突撃の衝撃力は前線を突き崩すパワーがあったので、ある程度有用だったらしいけど、騎兵隊員は長生きはできなかったらしい。
プロイセンでは30歳までに死ななかった軽騎兵はたいした奴と言われたらしい。
(株式会社メディアソフト刊・世界の軍服より)
しかし銃の命中精度があがったら騎兵による突撃は行いにくくなったのかもね。
今とは比べ物にならないくそ長い槍を馬上で振り回すとか無理。
もとは、武士は騎馬弓兵で、主要武器は弓
サブに刀を使ってたけど、基本は近接でも弓だった
大河で義経が兎狩りだかで横の男に弓を向けたときみたいな近距離でも弓をメインにしてたらしい
多数の歩兵が戦闘に参加するようになると手数の不足で弓をメインにできなくなったが、サブだった刀をメインに騎乗戦闘をする戦術を十分に整備できてなくて、適切な戦いかたができなくて馬を降りるようになったのではないか?
騎馬戦が減ったのは攻城戦が合戦のメインになったからかと
決戦が始まる前に近隣の村に行って略奪する
田畠なぎとか青田刈りとかをするほか、村人を拐って売り払ったり身代金をとる、家財をうばうなどの略奪行為が戦争の中心になったのが戦国時代だぞ
>>917
気候変動(寒冷化)や地殻変動(大地震頻発)によって規定された恒常的飢饉への対応の利害衝突
…というのが「戦国」の本質だからな。
略奪こそがメインになったのは必然。
大名即ち為政者の視座からは領国の飢民救済政策、謂わば民政の一部に他ならない。
「戦争は平時に於けるとは異なる手段による政治の継続である。」
−−クラウゼヴィッツ >>919から続。
それが戦争の主目的であってみれば、
飢民転じて雑兵、即ち非騎乗兵員が人数の多くを占めるようになるのは当然のこと。
華々しい騎戦が減ったのは鉄砲の普及他の技術的要因も大きかろうが、軍の構造変化による所もあったのではないか。 二毛作や堆肥の普及により食糧生産性が飛躍的に上がりそれまでは
武士しか参加してなかった合戦に余剰人口が流入しただけじゃないのか
>>919-920
世界的にみても、食料生産の衰える寒冷期に農兵徴募が普及して略奪多発、農業に適した温暖期には専業兵が主流になって略奪が少ない傾向だからな
足軽が増えたり歩兵が主力になったのは、寒冷気候だったことと関係が深いんだろう
寒冷が弱まって生活が楽になった江戸時代には兼業兵はいないしな
(官僚と兵士を兼業してるとも言えるけど、それは戦国時代の武士も同じ) >>921
室町時代後半や戦国時代は飢饉が連発の時代だぞ
どこの領主も外敵による略奪の防止に血道をあげてるのが日常 なぜ下馬して戦うようになったか聞いた者ですが
いろんな回答いただきなるほどねえと思う反面、どうしても自分だったら降りて戦わないんだけどという気持ちが残るなあ
銃が主力になった戦場でも馬に乗っている方が当たりにくいのでは?馬のスピードと的になるデカさのどっちをとるかかな
・指揮官は馬上に居続ける必要があり、下馬戦闘はおこなわなかった
・騎乗、下馬での戦いは状況や地域に応じて使い分けられるもので一律に下馬したものでもなかった
・軍の中核が歩兵戦力となり、騎馬兵を減らす必要があった。あるいは騎馬兵の比率がものすごく下がったので騎馬のまま戦っていても記録に残らなかった
・戦いが野戦から攻城戦に移り騎馬の有用性が無くなった
・銃が装備されたことで騎馬が不利になった
・弓術中心の戦い方をアップデートできなかった
こんな感じでまとめさせてもらいましたけど、よかったかな?
もう一つ、素人丸出しの質問があって
よく交通の要衝に城を築くといいますし、実際に作られていると思うんだけど
あれはスルーするとなにか問題があったのかな?というのが疑問
平野部に築城されてたら無視するわけにはいかないでしょうけど
山城ね、あれは別に放って置いてもいいでしょう?
ちょっとした軍勢なら山の麓の街道をわーっと通り過ぎたらいいんで、わざわざ攻略しなくてもと思う
城兵の側も押さえたつもりでも山から降りてくるのは時間がかかりすぎて敵が通り過ぎた後とかならないんだろうか?
山城は麓までつながっていて馬出などの出撃用の施設があるのですぐ出撃出来ますよ。
そもそも守るべき重鈍な補給部隊とかおいて通り過ぎても戦闘続行できないですよね
>>924
まあ、一律だれでも下馬戦闘するルールなり風習なりあったわけではなくて、自分の判断で下馬して戦うだけだと思う
んで、戦闘の主力が歩兵ってのは、武士の人数が減ったわけではなくて農兵を動員するようになって(また、足軽を雇いいれるようになって)兵数が増えたから
指揮官は、戦場では指揮が本業で自分が戦うのはまれ。まあ、自分が率先して戦わなければならない場面は意外に多いんだけど。
そんな場面で、側近たちを放置して単身で敵陣に向かうことは少ないからね(そんな場面もあるにはある) >>926
直ぐに対応できるから大丈夫ということですね
いや、実は岐阜城を見て疑問に感じたんですけど
あんなに高いところにあったら降りてくるだけで大変やろう時間もかかるだろうという気がしたんで 岐阜城の場合は、前を素通りしてほかに攻め込むってことがないからね
岐阜城自体を狙うとき以外は近くに行かないから
>>928
岐阜城は西側の麓にあった城下町まで城壁と堀で囲んでいた総構えの城なんで麓の平地までお城ですね す通りしたら後方から攻撃される恐れもあるのではなかろうか
この時代の傭兵ってどのように大名達と繋がって戦をしてたんでしょうか?
主に国内で傭兵が活躍した地域、傭兵を活用した大名について教えてください
有名どころは大名まで上り詰めた藤堂高虎や蜂須賀小六。
あとよく言われるように傭兵を多用したのは織田信長でしょうね。
武将の墓に花とか飲み物が置かれてるけどあれって墓参りに来た人が置いてるんですか?
>>934
色々あるけど基本的にはお寺の人とか、或いは地元の保存会の方々かと >>932
あとは大名から村々に課せられてる軍役を代行する為、各村々で雇われてる傭兵かな。
そういう地域では豊臣秀吉が行う前より早くから兵農分離が進んでいた >>936
その村で傭われる傭兵とはどんな身分の人が多かったんでしょう?
浪人?逃散した農民?
黒澤明の七人の侍がやっぱりリアリティあったんじゃんということになりそうなので 傭兵の成り手なんて身分を問わずあっただろ。
飢饉で荒廃した農村の民とか主家が没落した侍や足軽。
この時代は下克上で落人が大量発生してたんだし。
体力の弱い傭兵を差し出す村が多かったらしくて、大名側から中止要請が何度も出てるんだよな
傭兵にでもならないと生きていけないような人が少なくなかったのではないか?
日本の場合傭兵と仕官の違いがよくわからんな
西洋だと○○傭兵団みたいな数十人以上の傭兵団がたくさんあったけど
日本だと没落した家の子息が旧家臣を引き連れて他の大名に仕官するイメージだわ
仕官は就職
傭兵は繁忙期限定の臨時雇いって感じかな
先生、一向一揆に混ざっていた武士は傭兵に含まれますか?
例えば大坂本願寺には紀州などからきて「山越」と呼ばれる賃金で雇われた
傭兵集団が見られる。本願寺と信長の和睦のとき「このまま追い出されたら生活できない」
として騒動になった模様
最初は寺社や村に傭兵として雇われ、経験と頼れる仲間を得たら有力武将や
大名に傭兵として雇用され、有能と思われたら仕官って感じだったのかもしれんな。
今の外資系企業への転職活動みたいだな。
根来や雑賀は長篠や四国にも出張っているし海運が使えたのはデカイね、鉄砲という特殊技能も海運があったから早くに導入出来たことだろうし
よく時代物で父上や姉上って言いますがお父さん、お姉さんではなく「父上」、「姉上」と呼んでいたというのは何を見て分かるんですか
元康君はすぐに名前を変えちゃいましたが今川義元は松平元康のことを期待していたんですか?
>>947
外様のなかでは有数の要人で、重臣に準じた扱いをしてたはず >>948
なるほど。幼少の頃から優秀だったんですかね
追加ですみませんが元康と義元の関係がよくわかる本などありませんか? そうかな?
むしろ家康は、あんまり名前を変えてない部類と思うけど
謙信と比べてみたら?
謙信は少しばかり多めの部類になると思うけど
>>951
は当時の日本人の名前全般についてだった 「不在史料」どうたら言ってるTwittererの論理展開が例え話くん並みで笑えるな
けど、ググったら結構名のある研究者だったみたいで笑えねえな
じゃあ問いを立てよう
>今日残った、バイアスの強い「現存史料」だけでなく、消失した、あるいはそもそも
>「作られなかった」史料まで視野に収めて、平和、人権、環境といった、今日的な
>価値観から歴史をどう描けるかを考察することが必要なのではないでしょうか。
こーいうのって、まさにバイアスそのものだと思いませんか?
史料が存在しないものは原状を調べることができないのだから、議論すること自体が困難だよなあ
なにかは存在していたけど実態不明、とするしかないよな?
ありもしない史料を憶測で補って作られた典型が、例えば原始共産制みたいな幻じゃないのかなあ